コーロ・ブリランテ史 1952(昭和27)年度 1952年、指揮者を佐藤勝氏とする。 6月27日(金)、兼松講堂にて合同初練習を行う。 この後、週1回練習を行う。 11月5日、一橋祭にて演奏する。「流浪の民」「ハレルヤコーラス」指揮、佐藤勝。 1953(昭和28)年度 1953年春、若干の危機あり。 春、小平において混声復活親善コンパを行う。以後、合同ハイキングが恒例となる。 秋、石丸泰郎氏を指揮者をする。   石丸氏により、団名が「コーロ・ブリランテ」と命名される。その意味は「輝かしき合唱」で、本来石丸氏関係の合唱、声楽愛好者の集まりに付けていた名である。 11月21日、一橋講堂にて、一橋大学音楽部第1回定期演奏会に出演する。人数構成は、メルクールよりテナー16名、バス21名、津田塾よりソプラノ20名、アルト19名であった。 11月23日、本栖湖へ第1回バス旅行を行う。50名が参加する。以後、恒例となる。 1954年5月、武州御嶽山にて、合同ハイキングを行う。 5月、立川高校講堂にて、三多摩合唱連盟合唱祭(春季)が行われる。 「ばらのように」(E.W.Nevin)、「ローザリー」(E.W.Nevin)、「凱旋の合唱」(G.Verdi)を、指揮石丸泰郎、ピアノ舟木善麿にて演奏する。 1953年度から1954年度への交代がいつ行われたかは不明である。 1954(昭和29)年度 1954年6月27日、女子学院講堂(市ケ谷)にて、関東合唱連盟合唱祭が行われる。 「ばらのように」(E.W.Nevin)、「ローザリー」(E.W.Nevin)、「凱旋の合唱」(G.Verdi)を、指揮石丸泰郎、ピアノ伊丹ゆき子にて演奏する。 10月30日、女子学院講堂にて、第9回全日本合唱コンクール関東予選が行われる。 課題曲「大空の」、自由曲「Requiem」(W.A.Mozart)より「Dies irae」を、指揮石丸泰郎、ピアノ内藤弘子、オーケストラは管弦楽団から抜粋したメンバーにて演奏する。7団中4位、入選はせずに終わる。 11月3日、一橋祭が行われる。兼松講堂にて演奏する。 「ばらのように」(E.W.Nevin)、「凱旋の合唱」(G.Verdi)、「Requiem」(W.A.Mozart)より、を、指揮石丸泰郎、ピアノ吉田磯男にて演奏する。 11月23日、箱根へバス旅行を行う。 11月28日、慶応義塾大学中里記念講堂にて、三多摩大学合唱祭が行われる。 「ばらのように」(E.W.Nevin)、「Requiem」(W.A.Mozart)より「Lacrymosa」「Confutatis」「Dies irae」を、指揮石丸泰郎、ピアノ浜館康夫にて演奏する。 12月8日、一橋講堂にて、一橋大学音楽部第2回定期演奏会に出演する。人数構成は、メルクールよりソプラノ1名、アルト2名、テナー16名、バス21名、OBよりテナー2名、バス3名、津田塾よりソプラノ25名、アルト29名であった。 12月、スキヤキパーティーを行う。 12月12日、第1回国公立大学文化会音楽サークル発表会が行われる。当日に出場を中止する。 1955年1月22日、東邦生命ホールにて、ブリランテグループ発表会(仮称)が行われる。 「ばらのように」(E.W.Nevin)、「ローザリー」(E.W.Nevin)、歌劇「ファウスト」(C.Gounod)より「ワルツ」、「Requiem」(W.A.Mozart)より「Confutatis」「Lacrymosa」「Dies irae」を、指揮石丸泰郎、ピアノ舟木善麿にて演奏する。 6月4日、女子学院講堂(市ケ谷)にて、関東合唱連盟合唱祭が行われる。 練習は、毎週金曜日午後4時から、場所は第3金曜日のみ津田塾大学音楽部部室、それ以外は国立メルクール部室にて行った。 1955(昭和30)年度 1955年10月22日、立教大学タッカーホールにて、第10回関東合唱コンクールが行われる。 入選せず。 11月20日、学習院大学講堂にて、三多摩大学合唱祭が行われる。 「見ようるわしく」、「Requiem」(G.Faure)より「Introitus. Kyrie」を、指揮石丸泰郎にて演奏する。 11月23日、小田原ミカン山へ、バス旅行を行う。 12月2日、豊島公会堂にて、一橋大学音楽部第3回定期演奏会が行われ、これに出演する。 12月、クリスマスパーティーを行う。 1956年1月14日、国立学生集会所にて、新年カルタ会を行う。 1956(昭和31)年度 1956年12月13日、一橋講堂にて、一橋大学音楽部第4回定期演奏会が行われ、これに出演する。 1957(昭和32)年度 1957年4月26日、国立にて初練習を行う。軽い練習後、学生集会所でグループごとに懇親会を行う。 4月29日、津田塾大学グラウンドにて、新入生歓迎フォークダンスパーティーを行う。この年から始まる。 6月8日、立教大学タッカーホールにて、関東合唱祭が行われる。 「来よ! のどけき春」(Haydn)を、指揮石丸泰郎にて演奏する。 10月31日、日本青年館にて、津田塾大学音楽部第2回発表会が行われる。 「信濃の秋」(小山章三)、「日暮の花」(下総皖一)、「雉子が鳴く」を、指揮石丸泰郎にて演奏する。 11月3日、兼松講堂にて、一橋祭音楽部発表会が行われる。 「信濃の秋」(小山章三)、「赤い靴」(童謡)を、指揮永井宏にて演奏する。 11月10日、宝泉学園講堂にて、第12回三多摩大学合唱祭が行われる。 課題曲「通りゃんせ」、自由曲「信濃の秋」(小山章三)を、指揮石丸泰郎にて演奏する。 11月23日、三浦半島油壷へ、バス旅行を行う。 12月6日、一橋講堂にて、一橋大学音楽部第5回定期演奏会が行われ、これに出演する。 12月16日、国立学生食堂にて、クリスマスパーティーを行う。 練習は、毎週金曜日、午後3時30分から行った。 1958(昭和33)年度 1958年4月26日、小平講堂にて、一橋大学新入生歓迎音楽会が行われ、これに出演する。 「信濃の秋」(小山章三)、「子守歌」、「Treve Liebe」を、指揮永井宏にて演奏する。 4月29日、津田塾大学グラウンドにて、新入生歓迎ダンスパーティーが行われる。 9月27日、石丸泰郎氏が急逝される。 10月16日、青山学院チャペルにて、石丸泰郎氏の告別式が挙行される。 10月31日、日本青年館にて、津田塾大学音楽部第3回発表会が行われ、これに出演する。 「Requiem」(G.Faure)を、指揮浜田徳昭にて演奏する。 11月23日、箱根芦ノ湖へ、バス旅行を行う。 12月5日、日本青年館にて、一橋大学音楽部第6回定期演奏会が行われ、これに出演する。 12月13日、ブリランテ部会を行う。 12月15日、藤ホテルにて、クリスマスコンパ(ダンスパーティー)を行う。 12月25日、ブリランテ部報第3号を発行する。 1959年1月17日、部員総会を行う。 練習は、毎週金曜日、メルクール練習終了時(午後4時30分)から2時間行った。委員会は、両単声合唱団から独立していたが、運営は、両単声合唱団の話し合いによって行っていた。技術委員会はなかった。 コーロ・ブリランテ部報を、第1〜3号まで発行した。編集責任者は鶴岡史郎であった。 この年、部報2号をきっかけに、コーロ・ブリランテのあり方について大きく論争が広がった。ブリランテは単なる社交団体なのか、それとも音楽性を追求していく団体なのか、また、一橋団員と津田塾団員とが半強制的にブリランテ団員とされるのはおかしいのではないか、等について議論された。この時点では、社交団体か、音楽性を追求する団体かといった理念的なものは意識せずに「ブリランテは両単声合唱団の全員からなる合同合唱団である」とされた。しかし、この論争は以後数年にわたって継続されることになる。 1959(昭和34)年度 前年の論争を受けて大改革がなされた。すなわち、「コーロ・ブリランテは、各単声合唱団の活動を続け、さらに混声合唱を純粋に楽しみたいと思う希望者から構成される。」と定義され、外部者も参加可能な独立の合唱団として、純粋に音楽性の追求を第一義として社交機関的活動は第二義的なものとする活動方針をとることとなった。 1959年4月25日、新ブリランテが発足する。 5月2日、津田塾大学グラウンドにて、新入生歓迎フォークダンスパーティーが行われる。 5月9日、初練習を行う。「マトナの君」(ラッソー)等を練習する。 5月11日、部報「コーロ・ブリランテ」第4号を発行する。 5月23日、NETテレビ(日本教育テレビ)に出演する。 「Requiem」(G.Faure)より2曲を、指揮浜田徳昭にて演奏する。 6月27日、ブリランテ独自の演奏会として「メサイヤ発表会」を11月中旬に開催することを内定する。 7月以降、メサイヤ発表会開催について、特にメルクール側から強硬な反対意見が出され、賛否の議論が生ずる。 7月23日、メサイヤ発表会の中止を決定する。夏休みに入る。 8月1日、部報「コーロ・ブリランテ」第5号を発行する。 9月12日、練習を再開する。総務が和久井仁から土井亨に交代する。 10月18日、両単声合唱団主催でレクリエーション大会を計画していたが、雨天のため、八王子某荘にてコンパを行う。 11月1日、兼松講堂にて、一橋祭音楽部発表会が行われ、これに出演する。 11月15日、兼松講堂にて、第14回三多摩大学音楽連盟音楽祭が行われ、これに出演する。 11月23日、印旛沼へ、バス旅行を行う。 12月18日、九段会館にて、クリスマスコンパを行う。 12月18日、ブリランテ部報第6号「コン・ブリオ」を発行する。 練習は、一橋・津田塾ともに練習のない土曜日の午後1時30分から4時まで、場所はメルクール練習所を中心としてオルガンが必要なときのみ津田塾の講堂で行った。 会費は月額80円、独立会計であった。「総会」を最高機関とし、最高執行機関として両単声合唱団から独立した「役員会」(両単声委員会との兼任は不可)、指揮者・パートリーダーからなる「技術委員会」(両単声委員会との兼任は可)、両単声合唱団の責任者からなる諮問機関としての「連絡会」などを置いた。 1958年から発行されていたブリランテ部報を、12月18日発行の第6号から「コン・ブリオ」と名付ける。この年、部報を3部発行する(第4〜6号)。 昭和34年度委員会 常任指揮者・浜田徳昭、 総務・(9月まで)和久井仁(9月から)土井亨、副総務(渉外担当)・勝野井一美、幹事(企画)・土井亨(代表)、幹事(内務)五藤玲子(代表)藤田欣也、幹事(会計)日比野英一(代表)鈴木邦子、庶務・内田敦子、 学生指揮者・永井宏(6月まで)佐藤栄二、パートリーダー(ソプラノ)・早川万里子、パートリーダー(アルト)山本さわ枝、パートリーダー(テナー)小島順一郎、パートリーダー(バス)川端健一 部員は、ソプラノ24名、アルト36名、テナー23名、バス23名、計106名であった。 1960(昭和35)年度 再びブリランテを、両単声合唱団の全員からなり、ただし退部は自由、外部者も参加可能な独立合唱団と定義する。委員会は両単声委員会から独立しており(両単声委員会との兼任は不可)、技術委員会も独立していた(両単声委員会との兼任は不可)。 1960年5月3日、津田塾大学グラウンドにて、津田塾一橋音楽部合同フォークダンスパーティーを行う。 5月15日、城ケ島へ、バスハイキングを行う。11月に行っていたのを、この年から5月に行うこととする。 5月22日、国際キリスト教大学にて、三多摩音楽連盟親睦会が行われる。 6月29日、コン・ブリオを発行する。 9月初旬、3日間の強化練習を行う。 10月、11月、臨時練習を数回行う。 11月13日、千代田公会堂にて、コーロ・ブリランテ第1回定期演奏会を行う。 11月23日、兼松講堂にて、三多摩大学音楽連盟音楽祭が行われる。当番校は、女子美術大学であった。 「ミサ曲第3番」(Palestorina)より「Missa Brevis」を、指揮浜田徳昭・佐藤栄二にて演奏する。 12月18日、九段会館にて、クリスマスパーティーを行う。 12月25日、コン・ブリオを発行する。 1961年1月末、追い出しコンパを行う。 練習は、この年から水曜日に行う(独立練習日)。 会費は月額50円であった(独立会計)。 昭和35年度委員会 常任指揮者・浜田徳昭、 委員長・依田正稔、副委員長・加藤孝雄、同・松本恵子、渉外・古藤良二、書記・佐野美智子、会計・上野多美子、 学生指揮者・佐藤栄二、同・折茂進、パートリーダー(ソプラノ)・北条宏子、同(アルト)・鈴木○子、同(テナー)・太平勲夫、同(バス)・折茂進 部員は11月23日現在、ソプラノ30名、アルト42名、テナー30名、バス30名、計132名であった。 1961(昭和36)年度 ブリランテを、両単声合唱団の全員からなる両単声合唱団の補助機関と定義し、不参加者は休部とみなした。委員会は両単声委員会の下に設置したが、技術委員会は独立しており、両単声合唱団が技術的に積極的な援助を行うものとした。 しかし、ブリランテは果たして社交場か、それとも歌を歌う場か、と言った理念的な問題が再び表面化してきた。また、両単声合唱団の発展に伴って、練習や行事運営などブリランテ委員会の決定が常に両単声合唱団の決定の後になり、承認も独自で明確になされておらず、ブリランテが主体性のない両単声合唱団の寄り合い所帯になってしまっているのではないかといった問題も表面化し、ブリランテの存続が論じられた。 1961年4月、新委員会が発足する。 5月3日、津田塾大学グラウンドにて、津田塾・一橋音楽部合同フォークダンスパーティーを行う。 5月21日、箱根へ、バスハイキングを行う。 6月21日、コン・ブリオ第9号を発行する。 7月24日、コン・ブリオ第10号を発行する。 9月1〜3日、強化練習を行う。 11月3日、兼松講堂にて、一橋祭音楽部発表会が行われる。 「メサイア」(オケ伴)を演奏する予定であったが、管弦楽団は定期演奏会を控えて多忙なため「ワルツ集」を演奏する。 11月10〜12日、津田塾祭において、「ワルツ集」を演奏する。 12月6日、コン・ブリオ第11号を発行する。 12月8日、共立講堂において、コール・メルクール第9回定期演奏会が行われ、これに賛助出演する。 12月11日、九段会館においてクリスマスコンパを行う。 浜田徳昭氏が指揮者を辞任した。指揮者は一応学生のみとし、時々荒谷先生に見ていただくこととなった。 石丸寛編曲のロシア民謡、「メサイヤ」より3曲、ワルツ3曲を練習した。 昭和36年度委員会 指揮者・荒谷俊治、 委員長・井上清彦、副委員長・村上健二、同・木村淑子、会計・山崎浩美、渉外・川本桂子、 サブコンダクター・折茂進、パートリーダー(ソプラノ)・布村充子、同(アルト)・植山雅代、同(テナー)・大平勲夫、同(バス)・加藤孝夫 1962(昭和37)年度 1962年4月18日、国立部室にて初練習を行う。 5月、ユネスコ村へ、ブリランテ新入生合同ハイキングを行う。 5月2〜3日、津田塾部室にて、強化練習を行う。 5月3日、津田塾大学にて、津田塾・一橋合同フォークダンスパーティーを行う。 5月13日、津田塾部室にて、強化練習(ゲネプロ)を行う。 5月20日、東京文化会館にて、第1回コールフェストが行われ、これに出演する。 6月6日、コン・ブリオ第12号を発行する。 7月15日、コン・ブリオ第13号を発行する。 8月31〜9月2日、国立部室にて、強化練習を行う。 10月中旬、のぞみの学園(武蔵境にある、親のない子供たちの福祉施設)を慰問し、歌や遊びを行う。 11月14日、コン・ブリオ第14号を発行する。 11月中旬、津田塾大学講堂にて、三多摩大学合唱祭が行われ、これに出演する。 12月15日、久我山会館にて、クリスマスパーティーを行う。 1963年1月中旬、追い出しコンパを行う。 1月23日、コン・ブリオ第15号を発行する。 4月5〜7日、青梅青年の家にて、強化合宿を行う。 6月6日、ゲネプロを行う。 6月7日、中野公会堂にて、コーロ・ブリランテ第2回演奏会を行う。 練習は週1回、津田塾とメルクールの部室を交互に使って行った。 定期演奏会は、従来の形のブリランテの在り方を清算する方針の下に行われた。 昭和37年度委員会 委員長・府川朝治、副委員長・田崎謙一郎、副委員長兼書記・大庭麗子、会計・矢野靖子、渉外・吉岡省吾、庶務・小亀静子、 コンダクター・柴田紀四郎(徳弘英策?)、インスペクター・小室滋(柴田紀四郎?)、パートリーダー(ソプラノ)・塚本能布子、同(アルト)・柴山千枝子、同(テナー)・光瀬靖彦、同(バス)・田崎謙一郎 1963(昭和38)年度 再び希望者制となる。6月に前委員会が第2回演奏会を開いたが、再びブリランテの在り方が問われ、活動は非常に不活発なものとなった。 1963年4月24日、新入生参加初練習を行う。 5月19日、長瀞へ、バスハイキングを行う。 6月26日、コン・ブリオ第17号を発行する。 12月16日、クリスマスパーティーを行う。 コン・ブリオを3部発行する。 昭和38年度委員会 委員長・藤波淳也、副委員長兼庶務・清水利恵子、副委員長兼渉外・豊島忠雄、会計・堀とし子、書記・岡野章子 1964(昭和39)年度 再び両単声合唱団員の自動加入制とし、参加できない者はその旨を委員会に報告するものとした。 1964年4月21日、ブリランテ歓迎コンパを行う。 4月22日、初練習を行う。新入生歓迎茶話会を行う。 4月22日、コン・ブリオを発行する。 5月10日、国立にて、フォークダンス会を行う。 6月7日、紅葉台へ、合同バスハイキングを行う。 8月30日、コン・ブリオ第21号を発行する。 8月30〜9月2日、城ケ島YHにて、夏期合宿を行う。荒谷先生が来部される。 10月25日、三多摩合唱連盟第19回合唱祭が行われる。 「私の願い」(高田三郎)より「いま、わたしがほしいのは」を、指揮森川雄二にて演奏する。 11月3日、一橋祭にて演奏する。 11月25日、部員の固定を行う。練習能率を向上させるため、この日以後練習を国立で行うことに決定する。 12月19日、杉並法人会館にて、クリスマスコンパを行う。 1965年1月17日、特別練習を行う。 1月23日、特別練習を行う。 2月27〜3月2日、氷川丸YHにて、冬期合宿を行う。 3月3日、学生の家にて、特別練習を行う。 3月4日、ゲネプロを行う。「わたしの願い」(高田三郎)を演奏する。高田氏が来部される。 3月7日、ヤマハホールにて、ゲネプロを行う。「Requiem」(W.A.Mozart)を演奏する。 3月7日、コン・ブリオ第22号を発行する。 3月8日、神田共立講堂にて、第3回定期演奏会を行う。 3月9日、反省会を行う。追い出しコンパを行う。 部費は月50円であった。練習は、毎週水曜日午後3時30分〜6時30分、メルクール部室と津田塾講堂を交互に使用して行った。 津田塾大学と神戸女学院大学との交歓音楽会が廃止されたことにより、この年から毎年3月に定期演奏会を開催することとなった。 この年も「のぞみの家」を訪問した。 昭和39年度委員会 指揮者・荒谷俊治、同・蔵田裕行 委員長・松村良則、副委員長・藤田厚子、渉外・副島隆、会計・津村俊夫、庶務・佐藤洋子、書記・馬渕郁子、 学生指揮者・山村浩、同・森川雄二、パートリーダー(ソプラノ)・関典子、同(アルト)・馬渕郁子、同(テナー)・秋元通晴、同(バス)・星野浩二 部員は1965年3月8日現在で108名であった。 1965(昭和40)年度 再び両単声合唱団員の自由参加制となる。 1965年4月、新入生歓迎コンパを行う。 4月24日、新入生歓迎茶話会を行う。 5月5日、コン・ブリオを発行する。 6月初め(5月30日?)、バスハイキングを行う。 9月初め(8月下旬〜9月上旬?)、城ケ島YHにて、夏期合宿(秋の強化合宿?)を行う。 9月2日、コン・ブリオ第4号を発行する。 9月、コン・ブリオ第5号別冊を発行する。 10月、コン・ブリオを発行する。 11月21日、「のぞみの家」を訪問する。 11月下旬、三多摩合唱祭が行われ、これに出演する。 12月13日、特別練習を行う。 12月18日、クリスマスコンパを行う。 1966年、氷川丸YHにて、冬期合宿を行う。 3月11日、神田共立講堂にて、第4回定期演奏会を行う。 3月、追い出しコンパを行う。 練習は毎週水曜日、3時間行った。コン・ブリオを5部発行した。 昭和40年度委員会 指揮者・荒谷俊治、 委員長・松田次郎、副委員長・松山千鶴子、渉外・服部達、書記・太田○子、会計・星仁子、 学生指揮者・清水政男、インスペクター・藤原尚、パートリーダー(ソプラノ)・野口真樹子、同(アルト)・西田洋子、同(テナー)・小田○、同(バス)並木宏時 部員は、1966年3月11日現在で79名であった。 1966(昭和41)年度 再び両単声合唱団員の自動加入制となる。 1966年4月20日、国立部室にて、初練習を行う。学生集会所にて、入部歓迎会、新入生歓迎コンパを行う。 4月20日、コン・ブリオを発行する。 5月5日、レクリエーション(フォークダンスの会?)を行う。 5月29日、山中湖へ、バスハイキングを行う。 6月10〜12日、相模湖YHにて、合宿を行う。 9月、練習を再開する。 9月下旬、夏の強化合宿を行う。 10月下旬、三多摩合唱祭が行われ、これに出演する。 11月9日、コン・ブリオ第3号を発行する。 11月11〜13日、高尾山YHにて、合宿を行う。 12月17日、クリスマスコンパを行う。 1967年3月1〜4日、市ケ谷YHにて、春の強化合宿を行う。 3月6日、渋谷カワイホールにて、強化練習を行う。 3月7日、国立部室にて、強化練習を行う。 3月8日、二期会会館にて、ゲネプロを行う。 3月10日、神田共立講堂にて、第5回定期演奏会を行う。 3月10日、コン・ブリオ第4号を発行する。 3月11日、国立部室にて、反省会を行う。学生集会所にて、追い出しコンパを行う。 練習は、毎週水曜日午後4時30分から3時間、国立メルクール部室と小平津田塾大学小講堂を使用して行う。 コン・ブリオを4部発行する。 昭和41年度委員会 指揮者・荒谷俊治、 委員長・鍵谷道生(3年)、副委員長・三井千代美(3年)、渉外・川良傑(3年)、会計・村主直子(3年)、庶務・金子正宏(2年)、同・遠藤敏男(2年)、同・大浜順子(2年)、同・吉田季代(2年)、プログラムデザイン・編集・川良傑(3年)、 学生指揮者・清水政男(4年)、同・阿知波直樹(3年)、パートリーダー(ソプラノ)・山田八千代(3年)、同(アルト)・名取きし子(3年)、同(テナー)・小田○(4年)、同(バス)・守口毅(3年) 部員は、1967年3月11日現在92名であった。 1967(昭和42)年度 両単声合唱団員の自動加入制とし、理念としては純粋に音楽性の探求を第一義とし社交機関的行事は第二義的なものにとどまるものとした。 4月11日、新入生歓迎パンフレットを発行する。 4月19日、新入生歓迎コンパを行う。 6月4日(5月28日?)、三浦半島城ケ島へ、バスハイキングを行う。 8月30〜9月2日(9月1〜4日?)、茅ケ崎湘南YH(城ケ島YH?)にて、夏期強化合宿を行う。 10月18日、年内練習を終了する。 12月13日、クリスマスコンパを行う。 1968年1月、強化練習を行う。 3月上旬、氷川丸YH(高尾YH)にて、春季合宿を行う。 3月11日、虎ノ門ホールにて、第6回定期演奏会を行う。 3月12日、反省会、追い出しコンパを行う。 部員からなる「総会」を最高議決機関とし、運営委員からなる「運営委員会」、技術委員からなる「技術委員会」、この両者を合わせた「合同委員会」を置き、その召集権は委員長が持つものとした。また、メルクール、津田塾、ブリランテ三者の責任者からなる諮問機関とも言うべき「連絡会」を設けた。 練習は、毎週水曜日午後4時30分から7時30分まで、メルクール部室を中心とし、津田塾大学小講堂も使用して行った。部費は月100円であった。 コン・ブリオを2部発行した。 昭和42年度委員会 指揮者・荒谷俊治、 委員長・山村哲也(3年)、副委員長・腰山真理子(3年)、渉外・梶谷醇一(3年)、会計・宮本美紀子(3年)、内務・書記局・秋元マリ子(3年)、プログラムデザイン・編集・川良傑(4年)、 学生指揮者・阿知波直樹(4年)、同・菊池亨(3年)、パートリーダー(ソプラノ)・宇高敏子(3年)、同(アルト)・大浜順子(3年)、同(テナー)・新井達夫(3年)、同(バス)・蝦名裕(3年) 部員は、1968年3月11日現在108名であった。 1968(昭和43)年度 両単声合唱団の自動加入による独立合唱団とする。 1968年3月、新委員会を発足する。 4月、新歓パンフを発行する。 4月11日、兼松講堂にて、一橋大学入学式が行われ、このとき新入生を勧誘する。 4月24日、初練習を行う。新入生歓迎コンパを行う。 4月24日、コン・ブリオを発行する。 5月5日、レクリエーションを行う。 5月17〜6月23日、荒谷俊治氏が渡欧される。 6月1日、三多摩合唱連盟に、独立した合唱団として加盟する。 6月29日、コン・ブリオ第4号を発行する。 8月27〜31日、城ケ島YHにて、夏季強化合宿を行う。 9月11日、コン・ブリオ第5号を発行する。 10月25日、三鷹公会堂にて、第23回三多摩合唱祭が行われたが、参加しなかった。 11月25日、年内最後の練習を行う。 11月27日、コン・ブリオ第5号を発行する。 12月14日、久我山会館にて、クリスマスコンパを行う。 1969年3月上旬、氷川丸YH(相模湖YH?)にて、冬期合宿を行う。 3月10日、虎ノ門ホールにて第7回定期演奏会を行う。 3月11日、反省会、追い出しコンパを行う。 3月11日、コン・ブリオ第6号を発行する。 この年から、運営・技術両面を充実させるため、インスペクターを新設する。また、渉外を2名に増員する。 練習は、毎週水曜日、国立メルクール部室あるいは小平津田塾大学小講堂を使用して行った。 コン・ブリオを6部発行する。 昭和43年度委員会 指揮者・荒谷俊治、 委員長・橋本民生(3年)、副委員長・笠井よ志子(3年)、渉外・井上俊邦(3年)、同・吉村伸一(3年)、会計・鈴木正子(3年)、書記・森本和子(3年)、プログラム製作・城川丈(4年)、 学生指揮者・菊池亨(4年)、同・高見沢茂樹(3年)、インスペクター・根岸蕃(3年)、パートリーダー(ソプラノ)・中村優子(3年)、同(アルト)・青島三枝子(3年)、同(テナー)・根岸蕃(3年)、同(バス)・村本卓生(3年) 部員は、1969年3月10日現在で86名であった。 1969(昭和44)年度 両単声合唱団内の希望者の自由参加による団体とする。しかし、練習日数の不足、クラブ意識の欠如、2大学からなるという存在の不安定さなどの問題は依然解決されなかった。 3月24日、新委員会を結成する。 3月29〜31日、山中湖にて、三多摩合唱連盟リーダースキャンプが行われ、これに参加する。副幹事校となる。 4月11日、新歓パンフを発行する。 4月12日、15日、津田塾、一橋オリエンテーションにて、新歓活動を行う。 4月23日、初練習を行う。新入生歓迎コンパを行う。 4月23日、コン・ブリオを発行する。 5月4〜5日、技術委員会特訓を行う。 5月17日、一橋大学本館が封鎖される。 5月、コン・ブリオ別冊を発行する。 5月31〜6月1日、高尾YHにて新入生歓迎合宿を行う。バスハイキングに代わって登場する。 6月18日、コン・ブリオ第3号を発行する。 7月6日、先輩との臨時練習を行う。 7月6日、コン・ブリオ第4号(大学問題特集号)を発行する。 8月11〜13日、磐梯ロッジにて、三多摩合唱連盟リーダースキャンプが行われ、これに参加する。 8月28日、コン・ブリオ第5号を発行する。 8月28〜9月1日、山中湖月湖荘新館にて、夏季強化合宿を行う。このとき、荒谷氏より、欧米留学が公表される。 10月5日、一橋大学本館の封鎖が解除される。 10月22日、コン・ブリオ第6号を発行する。 11月8日、三鷹公会堂にて、第24回三多摩大学合唱連盟合唱祭が行われ、これに出演する。 12月中旬、クリスマスコンパを行う。 1970年1月初め、高尾YHにて冬期合宿を行う。 1月31日、コン・ブリオ第7号を発行する。 3月1日、日比谷公会堂にて、第8回定期演奏会(10周年記念)を行う。 3月2日、コン・ブリオ第8号を発行する。 9月に荒谷氏が欧米留学(昭和45年1月出発、同年末帰国予定)を発表する。指揮者として4月からヴォイスコーチだった木村文雄氏を迎える。 委員会は、単声委員との兼任を原則とした。 練習は毎週水曜日、国立メルクール部室あるいは小平津田塾大学小講堂を使用して行った。 コン・ブリオを9部発行する。 昭和44年度委員会 ヴォイストレーナー・木村文雄(9月より常任指揮者も兼任)、顧問・荒谷俊治(9月まで)、 委員長・野村哲夫(3年)、副委員長・小野恵美子(3年)、渉外・塚田久作(3年)、同・大崎信(3年)、同・鈴木竪仁(3年)、運営委員・直井達也(3年)、同・中村哲朗(3年)、内務・持丸弘太郎(3年)、同・三枝秀樹(3年)、同・大山喜久代(3年)、会計・笹川久美子(3年)、三多摩担当・高知尾明(2年)、同・宮本経子(2年)、プログラム編集・コン・ブリオ編集部、 学生指揮者・高見沢茂樹(4年)、同・清水雄司(3年)、インスペクター・松浦俊二(3年)、パートリーダー(ソプラノ)・園部恵子(3年)、同(アルト)・林伸子(3年)、同(テナー)・岩崎里志(3年)、同(バス)・小笠原修(3年) 部員は1970年3月1日現在で85名であった。 1970(昭和45)年度 両単声合唱団内の希望者の自由参加による団体とする。 1970年3月29〜31日、河口湖にて、三多摩大学合唱連盟リーダースキャンプが行われる。 4月10〜12日、飯能YHにて、技術委員会合宿を行う。 5月6日、初練習を行う。この年は、大学学年暦の開始が、津田塾大学では4月、一橋大学では5月であったため、異例の遅れとなった。 5月13日、国立学生集会所にて、新入生歓迎コンパを行う。 5月13日、コン・ブリオを発行する。 5月24日、一橋大学グラウンドにて、三多摩大学合唱連盟レクリエーションが行われる。 6月6〜7日、高尾YHにて、新入生歓迎合宿を行う。 6月24日、武蔵野女子大学にて、三多摩合唱連盟の合同練習が行われる。 6月28日、夏季休暇前の最終練習を行う。 6月28日、コン・ブリオ第2号を発行する。 8月13〜15日、美ケ原にて、三多摩大学合唱連盟リーダースキャンプが行われる。 8月26日、コン・ブリオ第3号を発行する。 8月26〜30日、天城にて、夏合宿を行う。 10月27日、文京公会堂にて、女声定期演奏会が行われる。 11月10日、杉並公会堂にて、第25回三多摩大学合唱連盟合唱祭が行われ、これに出演する。 11月、コン・ブリオ第4号を発行する。 12月15日、共立講堂にて、男声定期演奏会が行われる。 12月20日、クリスマスコンパを行う。 1971年1月8〜10日、高尾YHにて、冬季強化合宿を行う。 1月、コン・ブリオ第5号を発行する。 3月7日、虎ノ門ホールにて、第9回定期演奏会を行う。 3月8日、反省会、追い出しコンパを行う。 練習は、毎週水曜日、国立メルクール部室と津田塾大学小講堂を交互に使用して行った。 コン・ブリオを7部発行した。 昭和45年度委員会 部長・佐々木潤之介、常任指揮者・木村文雄、顧問・荒谷俊治、 委員長・菊原啓行(3年)、副委員長・西美恵子(3年)、会計・太田真知子、運営委員・当麻俊雄、同・長野輝雄、同・久内荘一郎、コン・ブリオ・細野克樹、同・玉手次郎、同・大久保善子、同・天野由紀子、内務・川村潤子、三多摩担当・大野田香子、同・多賀谷保治、 学生指揮者・清水雄司(4年)、同・高知尾明(3年)、インスペクター・由川潤一郎(3年)、パートリーダー(ソプラノ)・井上順子(3年)、同(アルト)・山田真理子(3年)、同(テナー)・由川潤一郎(3年)、同(バス)・坂井賢一(3年) 部員は1971年3月7日現在で64名であった。 1971(昭和46)年度 以前から言われていた問題点に加え、荒谷先生の辞任により先生の能力に頼ることができなくなったこと、主にメルクール部員の減少によりブリランテ委員会に人材を出すのが困難になったこと、メルクールにしてもブリランテにしても活動縮小に展望をつかめないことなどの問題点が生じ、完全自由参加とした。 委員会は、当時の2年生が委員会結成を放棄したため存在しなかった。ただし、当時の1年生によるコン・ブリオ委員が活動を行った。 1971年3月、部員総会を行い、ブリランテの在り方について話し合う。 4月16日、初練習を行う。 4月28日、コン・ブリオ第1号を発行する。 6月2日、コン・ブリオ第2号を発行する。 夏、九十九里浜にて、3泊4日の夏合宿を行う。 秋、コン・ブリオ第3号を発行する。 12月11日、コン・ブリオ第4号を発行する。 1972年1月8〜10日、御嶽YHにて、冬合宿を行う。練習のほか、次年度の方針・体制についてミーティングを行う。 春、コン・ブリオ第5号を発行する。 練習は、毎週水曜日午後3時40分から、国立メルクール部室にて行う。 コン・ブリオ委員・吉田恭子(2年)、同・石田章(2年)、同・戸塚茂和(2年)、 部員は27名であった。 1972(昭和47)年度 1972年4月19日、新入生を迎えて初練習を行う。 春、コン・ブリオ第1号を発行する。 6月28日、夏季最終練習を行う。 6月末日、コン・ブリオ第2号を発行する。 8月29〜9月1日、外房和田浦にて、夏合宿を行う。 1973年1月8〜10日、御嶽YHにて、冬合宿を行う。次年度方針決定のためのミーティングを行う。 2月24日、追い出しコンパを行う。 出席率は60〜70%であった。 練習曲目は、前期は「AVE VERUM CORPUS」(W.A.Mozart)、「空、海、川」(福井文彦)、「Deep River」「Soon-Ah will be done」(Negro Spirituals)、 後期は、「時には母のない子のように」「Swing Low Sweet Chariot」(Negro Spirituals)、「モテット集」(G.P.da Palestrina)より「1. Dies Sanctificatus」「5. Quam Pulchri sunt」「9. Super Flumina Badilonis」、であった。 昭和47年度委員会 委員長・不明、指揮者・亀井滋、インスペクター・不明、 部員は、1972年11月18日現在で32名であった。 1973(昭和48)年度 1973年1月24日、選曲委員会が行われる。組曲「鬼の子のうた」(大中恩)を採用する。「マドリガル集」は亀井氏退部により不採用となる。 4月18日、初練習を行う。 4月25日、新入生を迎えての初練習を行う。 6月20日、コン・ブリオ第1号を発行する。 11月中旬、コン・ブリオ第2号を発行する。 11月23日、石神井学園を訪問する。 1974年1月8〜11日、御嶽YHにて冬合宿を行う。ミーティングを行う。 2月26〜27日、相模湖YHにて、春合宿を行う。 2月27日、国立部室にて、卒業生を喜ばす会(第1回発表会)を行う。 組曲「鬼の子のうた」(大中恩)、「子供と笛」(磯部俶)、「日本童謡集」より「かかし」「青い目の人形」「汽車ポッポ」、「空、海、川」(福井文彦)、「Ave Verum Corpus」(W.A.Mozart)、民謡「最上川舟唄」「銚子大漁節」を演奏する。 卒業生を交えて、思い出の歌を歌う。 夏合宿は、津田塾大学の夏季休暇が7月下旬から9月下旬に変更となったため、中止した。 昭和48年度委員会 委員長・大栗啓美、副委員長・不明、 指揮者・不明、インスペクター・不明、パートリーダー・不明、 1974(昭和49)年度 1974年3月1日、新委員会が発足する。 4月24日、新入生を迎えての初練習を行う。全部で50名を超す人数が参加する。 6月、コン・ブリオ第2号を発行する。 9月(10月?)、コン・ブリオ第3号を発行する。 10月20日、如水会館にて、OB天野賢一氏の結婚式が行われ、これに出席する。 秋、コン・ブリオ第4号を発行する。 12月11日、歌い納め。 12月、クリスマスコンパを行う。 1975年1月上旬、冬合宿を行う。 その後、第2回発表会を行う。 山田耕筰作品集(編曲増田順平)「電話」「あわて床屋」「青い小鳥」「風鈴」等を、指揮伊藤貴志にて、 日本民謡集(編曲小山清茂・小平時之助)「大漁歌い込み」「地つき歌」他1曲を、指揮伊藤貴志にて、 「Ave Verum Corpus」(W.A.Mozart)を、指揮伊藤貴志にて、 混声合唱組曲「ヴィジョン」(作詩木原孝一・作曲鈴木章)4曲を、指揮広島康雄にて、 交声詩曲「山頂雷雲」(作詩鈴木松子・作曲平井康三郎)を、指揮広島康雄にて、 ロシア民謡「ヴォルガ下り」、「赤とんぼ」(山田耕筰)を、指揮広島康雄にて、 「ジプシーの歌」(J.Brahms)より「No.1」を、指揮牧田美登男にて、 愛唱曲集を、 それぞれ演奏する。 その後、追い出しコンパを行う。 その後、コン・ブリオ第5号を発行する。 選曲は指揮者に一任した。新入生対策は特別やらないこととした。 コン・ブリオを5部発行した。 昭和49年度委員会 委員長・女性(氏名は不明)、副委員長・メルクールの2年生(氏名は不明)、同・不明、 インスペクター・不明、指揮者・伊藤貴志(3年)、同・牧田美登男、同・広島康雄(2年)、パートリーダー・不明 1975(昭和50)年度 6月、コン・ブリオ第1号を発行する。 8月30〜9月1日、八ケ岳棒道荘にて、夏合宿を行う。 10月、コン・ブリオ第2号を発行する。 11月(12月?)コン・ブリオ第3号を発行する。 1976年1月8〜11日、御嶽YHにて、冬合宿を行う。 2月18日、強化練習を行う。 2月22日、強化練習を行う。 2月27〜28日、青梅青年の家にて、直前合宿を行う。 2月28日、メルクール部室にて、第3回発表会を行う。 3月、コン・ブリオ第4号を発行する。 3月1日、追い出しコンパを行う。 練習は、毎週水曜日午後4時30分から行った。 コン・ブリオを4部発行した。 昭和50年度委員会 委員長・内村恒彦、、副委員長・不明、 インスペクター・不明、指揮者・田淵泉(2年)、パートリーダー・不明、 1976(昭和51)年度 1976年8月、八ケ岳棒道荘にて、夏合宿を行う。 12月、青梅青年の家にて、強化合宿を行う。 1977年1月、御嶽YHにて、冬合宿を行う。 2月26日、メルクール部室にて、第4回発表会を行う。 「日本民謡による12のインヴェンション」より「おぼこ祝い歌」「知覧節」を、 「四季」(田中利光)より「春」「秋…冬」を、 オラトリオ「メサイア」(G.F.Handel)より「ハレルヤ」他2曲を、 山田耕筰作品集より「赤とんぼ」「青い小鳥」「烏の番 雀の番」「洗たく媼さん」を、 演奏する。 コン・ブリオを4部発行する。 昭和51年度委員会 委員長・上田健(4年)、副委員長・小林啓一(2年)、 インスペクター・徳留環、同・苗加隆(3年)、指揮者・内村恒彦(4年)、同・田淵泉(3年)、パートリーダー・不明、 1977(昭和52)年度 1977年9月初め、八ケ岳棒道荘にて、夏合宿を行う。 12月、青梅青年の家にて、強化合宿を行う。 1978年1月、御嶽YHにて冬合宿を行う。 2月25日、メルクール部室にて、第5回発表会を行う。 コン・ブリオを5部発行し、発表会のプログラムを発行する。 昭和52年度委員会 委員長・宮越勉(4年)、副委員長・北芳治(3年)、同・菜花美樹子、会計・矢内祥恵、コン・ブリオ委員・平見隆(2年)、同・西山友子、 インスペクター・平田利幸(3年)、指揮者・田淵泉(4年)、同・吉田憲正(3年)、同・幕田正司(3年)、楽譜係・塩山真理子、パートリーダー(ソプラノ)・村上孝子、同(アルト)・井出豊子、同(テナー)・幕田正司(3年)、同(バス)・田村隆志(3年) 1978(昭和53)年度 1978年9月、八ケ岳棒道荘にて、夏合宿を行う。 10月8日、如水会館にて、伊藤貴志・木村厚子結婚式が行われ、これに出演する。 12月24日、如水会館にて、金井元・唐沢文子結婚式が行われ、これに出演する。 12月、御嶽YHにて、冬合宿を行う。 1979年2月23日まで、狭山青年の家にて、直前合宿を行う。 2月24日、メルクール部室にて、第6回発表会を行う。 コン・ブリオを2部発行する。 昭和53年度委員会 委員長・小林啓一(4年)、副委員長・木村良介(2年)、同・松山雅子、会計・伊達温子、 インスペクター・平田利幸(4年)、同・矢内祥恵、指揮者・吉田憲正(4年)、同・幕田正司(4年)、同・島本啓太郎(2年)、パートリーダー(ソプラノ)・塩山真理子、同(アルト)・西山友子、同(テナー)・平見隆(3年)、同(バス)・佐藤信弥(3年) 部員は、ソプラノ7名、アルト6名、テナー10名、バス9名、合計32名であった。 1979(昭和54)年度 1979年9月10〜13日、八ケ岳棒道荘にて、夏合宿を行う。 12月18〜20日、御嶽YHにて、冬合宿を行う。 1980年2月26〜28日、相模湖YHにて、冬合宿を行う。 3月1日、メルクール部室にて、第7回発表会を行う。 1.J.S.Bach モテット第6番“Lobet den Herrn alle Heiden” 指揮萬束隆弘、ピアノ成智美和子 2.間宮芳夫「北国の二つの歌」 指揮矢内祥恵 3.混声合唱組曲「海上の道」より「1.朝の渚」「3.夜の海」「4.漂着」 指揮島本啓太郎、ピアノ葛西ゆみ子 4.愛唱曲集 OB、OGをまじえて 練習は、毎週水曜日に行った。 昭和54年度委員会 委員長・佐藤信弥(4年)、副委員長・村田智彦(2年)、同・山口和子、会計・葛西ゆみ子、コン・ブリオ・大貫英則(2年)、同・成智美和子、 インスペクター・塩山真理子、指揮者・矢内祥恵、同・島本啓太郎(3年)、同・萬束隆弘(3年)、パートリーダー(ソプラノ)・松山雅子、同(アルト)伊達温子、同(テナー)・沢田誠(2年)、同(バス)・近藤芳正(2年) 1980(昭和55)年度 1980年4月16日、初練習を行う。 7月18日、ボーリング大会を行う。 9月12〜15日、八ケ岳棒道荘にて、夏合宿を行う。 12月18〜20日、武蔵野青年の家にて、冬合宿を行う。 1981年2月25〜27日まで、相模湖YHにて、直前合宿を行う。 2月28日、メルクール部室にて、第8回発表会を行う。 練習は毎週水曜日に行った。 昭和55年度委員会 委員長・島本啓太郎(4年)、副委員長・白石幸弘(2年)、同・加藤恵子、会計・福間礼子、コン・ブリオ・松山雅子、同・鈴木俊之(2年)、 インスペクター・沢田誠(3年)、指揮者・島本啓太郎(4年)、同・萬束隆弘(4年)、パートリーダー(ソプラノ)・田島八重子、同(アルト)・山口和子、同(テナー)・内田豊(2年)、同(バス)・益子正稔(2年) 部員は、ソプラノ7名、アルト6名、テナー13名、バス8名、合計32名であった。 1981(昭和56)年度 1981年4月12日、選曲委員会&お花見を行う。 4月22日、新入生を迎えて初練習を行う。 4月29日、ボーリング大会を行う。 4月29日、コン・ブリオ第1号を発行する。 6月24日、コン・ブリオ第2号をは発行する。 9月9日、コン・ブリオ第3号を発行する。 9月9〜12日、八ケ岳棒道荘にて、夏合宿を行う。 11月11日、コン・ブリオ第4号を発行する。 12月、コン・ブリオ第5号を発行する。 12月21〜23日、御嶽YHにて、冬合宿を行う。 1982年2月24〜26日まで、狭山青年の家にて、直前合宿を行う。 2月27日、メルクール部室にて、第9回発表会を行う。 3月1日、コン・ブリオ第6号(卒部生特集号)を発行する。 練習は毎週水曜日午後4時30分から行った。 昭和56年度委員会 委員長・村田智彦、副委員長・中西ますみ、同・柴田初雄、会計・中森茅、コン・ブリオ・森川朋子、同・忠内克明、 インスペクター・中村弘一、指揮者・沢田誠、同・内田豊、同・水上裕康、パートリーダー(ソプラノ)・福間礼子、同(アルト)・加藤恵子、同(テナー)・重松光春、同(バス)・益子正稔 部員は、ソプラノ5名、アルト5名、テナー6名、バス7名、合計26名であった。 1982(昭和57)年度 1982年4月5日、選曲委員会&お花見を行う。 4月14日、初練習を行う。 5月19日、コン・ブリオ第1号を発行する。 6月13日、ボーリング大会を行う。 6月23日、コン・ブリオ第2号をは発行する。 9月1日、コン・ブリオ第3号を発行する。 9月1〜4日、野尻湖にて、夏合宿を行う。 10月27日、コン・ブリオ第4号を発行する。 11月24日、副委員長阿部氏デザインの「ブリランテトレーナー」ができる。 12月4日、コン・ブリオ第5号を発行する。 12月20〜22日、御嶽YHにて、冬合宿を行う。 1983年2月5,12,19,20日、強化練習を行う。 2月23〜25日まで、多摩湖畔にて、直前合宿を行う。 2月26日、メルクール部室にて、第10回発表会を行う。 通常練習は毎週水曜日に行った。前期8回、後期7回、計15回行った。 昭和57年度委員会 委員長・益子正稔(4年)、副委員長・古賀里美、同・阿部浩則(2年)、会計・加藤恵子、コン・ブリオ・務台夏子、同・柴田初雄(3年)、合宿・松井和久(2年) インスペクター・中西ますみ、指揮者・西村陽(3年)、同・中田裕(2年)、パートリーダー(ソプラノ)・森川朋子、同(アルト)・土居三佐子、同(テナー)・重松光春(3年)、同(バス)・島田秀一(2年) 部員は、ソプラノ9名、アルト8名、テナー9名、バス8名、合計34名であった。 1983(昭和58)年度 1983年4月4日、選曲委員会&お花見を行う。 4月13日、初練習を行う。 4月27日、コン・ブリオ第1号を発行する。 5月11日、アフターのみを行う。 6月29日、コン・ブリオ第2号をは発行する。 7月21日、コン・ブリオ第3号を発行する。 9月8日、コン・ブリオ第4号を発行する。 9月8〜11日、松原湖にて、夏合宿を行う。 10月26日、コン・ブリオ第5号を発行する。 11月5〜7日、一橋祭にて、歌声・占い喫茶Coro Brillanteを出店する。 12月21〜23日、御嶽YHにて、冬合宿を行う。 1984年2月4,10,11,18,19日、強化練習を行う。 2月22〜24日まで、相模湖にて、直前合宿を行う。 2月25日、メルクール部室にて、第11回発表会を行う。 通常練習は毎週水曜日に行った。前期10回、後期10回、計20回行った。 通常・強化練習計25回中の男女出席者数は、延べ636名(男335名、女301名)であった。女子の8勝16敗1引き分けであった。 昭和58年度委員会 委員長・重松光春(4年)、副委員長・田代裕三(2年)、同・峯谷千景、会計・寺田悦子、コン・ブリオ・森章次(2年)、同・石岡祥子、合宿・長谷川仁(2年) インスペクター・森川朋子、指揮者・重松光春(4年)、同・平井達男(3年)、同・有本聡(2年)、パートリーダー(ソプラノ)・米山光子、同(アルト)・土居三佐子、同(テナー)・田井公一(2年)、同(バス)・矢口暢久(3年) 部員は、ソプラノ13名、アルト11名、テナー12名、バス8名、合計44名であった。 1984(昭和59)年度 1984年4月8日、選曲委員会を行う。 4月25日、初練習を行う。 9月7〜10日、河口湖にて、夏合宿を行う。 11月3〜5日、一橋祭が行われる。 12月23日、御嶽YHにて、冬合宿を行う。 1985年2月3,9,10,16,17,19,21日、強化練習を行う。 2月23日、メルクール部室にて、第12回発表会を行う。 通常練習は毎週水曜日に行った。前期10回、後期6回、計16回行った。 通常・強化練習計23回中の男女出席者数は、延べ527名(男249名、女278名)であった。女子の13勝7敗3引き分けであった。 昭和59年度委員会 委員長・阿部浩則、副委員長・工藤利春、同・伏見紀子、会計・守谷かおり、コン・ブリオ・新田弘志、同・金田千寿、合宿・新田弘志 インスペクター・峯谷千景、指揮者・阿部浩則、同・ 坪内清、同・美尾邦博、パートリーダー(ソプラノ)・牧野かつ枝、同(アルト)・松村圭以子、同(テナー)・小林和道、同(バス)・田代裕三 部員は、ソプラノ12名、アルト13名、テナー9名、バス11名、合計45名であった。 1985(昭和60)年度 1986年3月1日、メルクール部室にて、第13回発表会を行う。 昭和60年度委員会 委員長・田代裕三、副委員長・岡野達也、同・岡本純子、会計・高木直美、コン・ブリオ・寺沢清人、同・山口慎子、合宿・石井史生 インスペクター・松村圭以子、指揮者・田代裕三、同・ 笈川直子、同・寺沢清人、パートリーダー(ソプラノ)・柳沢栄子、同(アルト)・西川友紀子、同(テナー)・寺沢清人、同(バス)・不明 1986(昭和61)年度 1986年4月2日、選曲会議を行う。 4月16日、初練習を行う。 9月1〜4日、尾瀬にて、夏合宿を行う。 11月2〜4日、一橋祭が行われる。 11月7〜9日、津田塾祭が行われる。 12月20〜22日、御嶽YHにて、冬合宿を行う。 1987年2月11,14,18,21日、強化練習を行う。 2月25日、府中青年の家にて、直前合宿を行う。 2月28日、メルクール部室にて、第14回発表会を行う。 通常練習は毎週水曜日に行った。前期9回、後期6回、計15回行った。 通常・強化練習計19回中の男女出席者数は、延べ443名(男237名、女206名)であった。男子の12勝5敗2引き分けであった。 昭和61年度委員会 委員長・工藤利春、副委員長・井出好彦、同・浅井恵美、会計・近藤佳子、コン・ブリオ・崔勇、同・山梨祥代、同・伊藤#絵、合宿・崔勇、同・丹羽重夫、 指揮者・工藤利春、同・ 新田弘志、同・藍原茂美、同・浅井恵美、パートリーダー(ソプラノ)・太田章子、同(アルト)・上野暁子、同(テナー)・新田弘志、同(バス)・岡野達也 部員は、ソプラノ16名、アルト11名、テナー11名、バス11名、合計49名であった。 1987(昭和62)年度 1987年4月2日、選曲会議とお花見を行う。 4月15日、初練習を行う。 9月10〜13日、清里にて、夏合宿を行う。 10月31〜11月2日、一橋祭が行われる。 11月6〜8日、津田塾祭が行われる。 12月21日、御嶽YHにて、冬合宿を行う。 1988年2月6,13,17,20日、強化練習を行う。 2月23日、発表会プログラムを印刷する。 2月24〜26日、府中青年の家にて、直前合宿を行う。 2月27日、メルクール部室にて、第15回発表会を行う。 通常練習は週1回行った。 昭和62年度委員会 委員長・岡野達也、副委員長・清水孝浩、同・小林真記子、会計・庵逧由香、コン・ブリオ・塚崎陽二郎、同・仲村英理香、合宿・金内雅人、同・丹賢文、同・河田真紀子、 指揮者・石川宏、同・ 寺沢清人、同・山本雅嗣、同・橋本尚子、同・庵逧由香、パートリーダー(ソプラノ)・太田章子、同(アルト)・平田朋子、同(テナー)・不明、同(バス)・田尾明裕 部員は、ソプラノ19名、アルト16名、テナー17名、バス15名、合計67名であった。 1988(昭和63)年度 1988年4月10日、選曲会議とお花見を行う。 4月20日、初練習を行う。 9月9〜12日、山中湖にて、夏合宿を行う。 11月5〜7日、一橋祭が行われる。 11月11〜13日、津田塾祭が行われる。 12月21〜23日、御嶽YHにて、冬合宿を行う。 1989年2月13,15,17,20日、強化練習を行う。 2月21日、発表会プログラムを印刷する。 2月22〜24日、府中青年の家にて、直前合宿を行う。 2月25日、メルクール部室にて、第16回発表会を行う。 通常練習は週1回行った。前期7回、後期7回、計14回であった。通常・強化練習計18回中の男女出席者数は、延べ489名(男279名、女210名)であった。男子の13勝4敗1引き分けであった。 昭和63年度委員会 委員長・崔勇、副委員長・和田祥一、同・松本泉、会計・牛木豊、コン・ブリオ・相川尚久、同・下村有加、合宿・川浦秀之、同・高杉直子、同・山崎章、 指揮者・藍原茂美、同・ 近藤佳子、同・崔勇、同・松本みゆき、同・恩蔵保紀、同・露崎学、パートリーダー(ソプラノ)・牧野豊子、同(アルト)・松本みゆき、同(テナー)・信久崇、同(バス)・千代延竜介 1989(平成元)年度 1989年4月2日、選曲会議とお花見を行う。 4月19日、初練習を行う。 9月8〜11日、尾瀬にて、夏合宿を行う。 11月4〜6日、一橋祭が行われる。 11月11〜13日、津田塾祭が行われる。 12月23〜25日、御嶽YHにて、冬合宿を行う。24日、White Christmasとなる。 1990年2月10,12,14,16日、強化練習を行う。 2月19日、発表会プログラムを印刷する。 2月21〜23日、府中青年の家にて、直前合宿を行う。 2月24日、メルクール部室にて、第17回発表会を行う。 2月26日、国分寺「切りたんぽ」にて、追い出しコンパを行う。 通常練習は週1回水曜日に行った。前期7回、後期8回、計15回であった。通常・強化練習計19回中の男女出席者数は、延べ550名(男333名、女217名)であった。男子の18勝1敗であった。 平成元年度委員会 委員長・田尾明裕、副委員長・小尾聡、同・佐野真裕美、会計・住友希実子、コン・ブリオ・永山嘉文、同・吉田美緒、合宿・豊島洋一、同・村田温、同・小田切賢依、同・安本文子、 指揮者・恩蔵保紀、同・ 川浦秀之、同・清水孝浩、同・椙道夫、同・山本雅嗣、パートリーダー(ソプラノ)・高田ひな子、同(アルト)・益永知栄、同(テナー)・清沢英章、同(バス)・蔵屋輝樹 1990(平成2)年度 1990年4月1日、選曲会議とお花見を行う。 4月18日、初練習を行う。 7月4日、前期の最終練習を行う。 9月6〜9日、西湖にて、夏合宿を行う。 10月3日、後期初練習を行う。 11月21日、後期最終練習を行う。 12月21〜23日、御嶽YHにて、冬合宿を行う。 1991年2月9,13,16,18日、直前練習を行う。 2月19日、発表会プログラムを印刷する。 2月20〜22日、府中青年の家にて、直前合宿を行う。 2月23日、メルクール部室にて、第18回発表会を行う。 2月25日、国分寺「切りたんぽ」にて、追い出しコンパを行う。 練習は週1回水曜日に行った。 平成2年度委員会 委員長・千代延竜介、副委員長・品部誠治、同・奥長康子、会計・小林昌彦、コン・ブリオ・中原研一郎、同・馬渡美佳、合宿・阿比留健次、同・吉岡隆久、同・小田部妙子、同・中口由美子、 指揮者・露崎学、同・ 信久崇、同・石田伸吾、同・松本泉、同・下村有加、同・佐野真裕美、同・大西和博、同・佐藤毅、同・馬渡美佳、同・矢吹洋子、パートリーダー(ソプラノ)・田中千絵、同(アルト)・矢吹洋子、同(テナー)・川崎啓之、同(バス)・山田実