コーロ・ブリランテ前史 昭和25年頃、石原良が、津田塾大学の女声合唱団に混声合唱を申し入れた。しかし、当時一橋寮生が津田塾大学内でストリーキングをしたり、津田塾大学の寮の部屋に侵入したりする(「ストーム」と呼ばれた)という事件が発生し、津田塾大学当局から一橋大学当局に厳重抗議がされたという経緯があったため、津田塾大学の舎監の女性に「津田塾大学の方針として、そのようなことはまかりならん」と一蹴されてしまった。 昭和27年、コール・メルクールが再建されたが、部内において自然発生的に、人数集めの目的や、単声ではできない大曲を求める動きから、混声もやりたいという声が出てきた。そして、そのパートナーとして、地理的条件、歴史的経緯から、津田塾大学の女声合唱団が最有力候補となった。このとき、前述の経緯を踏まえ、まず石原良のつてなどにより委員川島信、石原良、茂木朋子、西上恵子、河合千恵子で少人数の交際をはじめ、各方面への根回しを進めていった。ところが、津田塾大学生によると、舎監の女性はすでに姿を消しており、学生活動の責任者は関屋教授という男性の先生であるとのことであった。そこで、5月に川島信が単身津田塾大学に赴き関屋教授に申し入れを行ったところ、教授は非常に好意的に話を聞いてくださり、この問題は津田塾大学の教授会にて計られることとなった。そして後日、津田塾大学の教授会において承認を受け、ここに混声合唱団が結成されることとなった。