1955(昭和30)年度 1955年7月、新委員会が発足する。 7月10日、「学苑」復刊第1号が発行される。30年卒藤本昂三らの企画委員により実現した。 10月5〜7日、国立学生集会所にて、コンクールのための強化合宿を行う。 10月7日、清瀬療養所へ、高野君を慰問し、演奏を行う。 「Muss i deuu」、「きれいな人に」、「狩人の合唱」、「母我に歌を教へ給ひし時」、「夕やけ小やけ」、「レット・ナムス・クヌート」、「ああ楽しきは」、「ティンプクトゥ」、「Were you there」を、指揮石丸泰郎にて演奏する。 10月22日、立教大学タッカーホールにて、第10回関東合唱コンクールが行われ、これに出場する。 男声合唱の部課題曲「船」、自由曲「パリの若者の唄」を、石丸泰郎にて演奏する。 入選しなかった。 11月3日、兼松講堂にて、一橋大学創立80周年記念祭が行われ、このとき演奏する。 11月6日、兼松講堂にて、自治会主催の一橋大学創立80周年記念合唱祭が行われ、これに参加する。 各クラスの「歌う会」が主に参加した。 11月20日、学習院大学講堂にて、三多摩大学合唱祭が行われ、これに参加する。 「きれいな人に」、「Dry Bones」、「パリの若者の唄」を、指揮石丸泰郎にて演奏する。 11月23日、小田原ミカン山へ、音楽部バス旅行を行う。 12月2日、豊島公会堂にて、一橋大学音楽部第3回定期演奏会を行う。 オーケストラ、メルクール、ブリランテが出演、OB21名、津田塾大学音楽部が賛助出演した。 12月11日、東京芸術大学音楽学部奏楽堂にて、東京地区国公立大学連合文化会第2回音楽会が行われ、これに参加する。 1956年1月16日、部員総会を行う。 1月20日、国立学生集会所にて、追い出しコンパを行う。 6月10日、「学苑」第2号が発行される。 6月22日、日本青年館にて、第2回旧三商大交歓音楽会を行う。 練習は、月曜日は午後1時30分から、金曜日は午後3時から行った。 この年から「学苑」が発行される。 このころ歌声運動が盛んだった。 防衛大学音楽会への出演依頼が来て、それを受けるか否か部員間で論争した。 昭和30年度委員会 部長・山田欽一、常任指揮者・石丸泰郎、 委員長・広田守慶、サブコンダクター・舟木善麿(4年)、委員・宮下一(3年)(1月まで)、委員・平山信一(3年)(1月まで)、委員・河村彦男(3年)(1月まで)、委員・安楽敏雄(2年)(1月から) 部員は、1955年12月2日現在で、42名であった。