1969(昭和44)年度 1968年12月16日、委員会引き継ぎを行う。 12月22日、デル・メル第6号を発行する。 1969年1月下旬、追い出しコンパを行う。 4月、大学立法反対のため、全学闘争委員会により、小平分校が封鎖される。 4月1〜4日、技術委員会の合宿を行う。 4月4〜8日、城ケ島YHにて上級生合宿を行う。 4月11日、兼松講堂にて入学式が行われ、校歌を指揮横尾優にて演奏する。 4月11日、新歓パンフを発行する。 4月11日、部員総会を行う。規約改正委員会の提案に基づきコール・メルクール規約の改正を可決し、練習週3日制を可決する。 4月14日、前期オリエンテーションが行われ、このとき演奏する。 「Das Lied」「Standchen」を、指揮横尾優にて、「海」を、指揮村本卓生にて、演奏する。 4月17日、初練習、新入生歓迎コンパを行う。 4月17日、デル・メル第1号を発行する。 4月下旬?、大阪市立大学で、大学紛争の激化を理由として三商不参加が決議される。 4月26〜30日、富浦臨海寮にて、春合宿を行う。 5月11日、第15回旧三商大交歓演奏会に関して、三大学が討論を行う。 5月17日、大阪において、第15回旧三商大交歓演奏会に関して話し合う。 第15回旧三商大交歓演奏会(6月30日に神戸国際会館において行う予定であった)について、大阪市立大学において大学紛争が激化したため、全面中止か、残りの二大学のみでジョイントコンサートを行うか、話し合う。結局、全面中止と決定する。 5月17日、大学立法反対のため、全学闘争委員会により、全学ストライキが行われ、本館が封鎖される。 授業も中止された。 6月2,4,5,7日、部員総会を行う。 演奏旅行(7月21日に静岡公会堂、7月22日に愛知文化講堂(名古屋)、7月24日に高松市民会館、7月25日に松山市民会館にて行われる予定であり、曲目は、定園のプログラムから「トスティ」を除いたものとし、ビラやチケットもあった)について、全学ストライキ中でありながら敢えて演奏旅行を行う理由、意義があるのか、話し合う。結局、全面中止と決定する。 6月21日、小平祭にて、演奏を行う。 世界民謡「カリンカ」「Home on the Range」「Abschied」「Loves Old Sweet Song」「フニクリフニクラ」を、指揮横尾優にて、「Missa」(Josef Gruber)より「Kyrie」「Gloria」「Agnus Dei」を、指揮村本卓生にて演奏する。 6月21日、小平祭にて、2年生は歌声喫茶店を開く(恒例)。 6月30日、デル・メル第2号を発行する。 7月10日、兼松講堂発表会を行う。 9月6日、練習を開始する。 9月13日〜16日、尾瀬にて、合宿を行う(パート合宿?)。 9月16日、校舎封鎖状態のまま授業が開始される。 9月22日、東京地区国公立大学音楽会の中止に関する文書が、担当校東京工業大学から届く。 10月5日、本館の封鎖が解除される。 10月6日、新館の封鎖が解除される。 10月6日、デル・メル第3号を発行する。 10月中旬、コンクール合宿が行われる予定であった。 10月下旬、全日本合唱コンクール東京地区大会が行われる予定であった。 11月10日、デル・メル第14巻第4号を発行する。 11月中旬、神戸大学グリークラブが、一時解体状態となる。 11月20日、「学苑」第14号が発行される。 11月23日、全日本合唱コンクール決勝大会が行われる予定であった。 12月4日、デル・メル第14巻第5号を発行する。 12月10日、神田共立講堂にて、第17回定期演奏会を行う。 1970年1月下旬、追い出しコンパを行う。 練習は、月曜日の午後3時30分〜6時30分、木曜日の午後5時30分〜8時、土曜日の午後2時〜5時に行った。 部費は150円であった。 昭和44年度委員会 名誉部長・山田欽一、部長・佐々木潤之介、常任指揮者・北村協一、ヴォイスコーチ・中村博之、同・木村文雄、顧問・荒谷俊治、顧問指揮者・田中信昭、 委員長・直井達也、運営責任者・中村哲朗、渉外・毛塚康男、同・山田哲朗、同・塚田久作、同・赤松哲男、同・鈴木堅仁、同・新田隆一、渉外(補佐)・野村哲夫、庶務・持丸弘太郎、同・大崎信、同・松浦俊二、会計・三枝秀樹、 学生正指揮者・村本卓生(4年)、学生副指揮者・横尾優、インスペクター・小笠原修、サブインスペクター・清水雄司、パートリーダー(トップ)・岩崎里志、同(セカンド)・黒田修一、同(バリトン)・松村孝夫、同(バス)・大橋郁夫、 デル・メル委員会・宗田繁(2年)、同・市村重治(2年)、同・当麻敏雄(2年)、同・由川潤一郎(2年)、 プログラム編集・長野輝雄(2年)、同・原由喜夫(2年)、 規約改正委員会・山川征夫()、同・遠藤敏男()、同・市川舜策(4年)、同・横山潤(3年)、同・市村重治(2年) 部員は、1969年12月10日現在で65名であった。