コール・メルクール略年表 1885年〜1886年(明治18年〜19年)頃 東京商業学校において、「一橋唱歌会」という団体が活動していた。 1887年(明治20年) 4月、鹿鳴館で仮装舞踏会が行われたことを発端として、欧化主義に対する非難が巻き起り、一橋唱歌会も自然廃止となる。 1889年(明治22年) 6月1日、帝国大学講義室において、東京商業学校唱歌会の第2回大演習会が開催される。 1902年(明治35年) 本校の名称、「東京高等商業学校」となる。 11月1日、学生大会において「一橋会」が設立される。当時活動していた「一橋音楽会」は、「一橋会英語部音楽会」となる。 1904年(明治37年) 一橋会により一橋会歌が作られる(「長煙遠く」)。 1906年(明治39年) 10月、一橋会英語部音楽会が廃止される。 1916年(大正5年) 学生が、教会内でコーラスをはじめる。 1917年(大正6年) 5月24日、音楽部(コーラス)開設の議を行う。学校内の同好会組織「一橋音楽会」を、開設する。 宝塚歌劇団指導者原田潤氏、その後女子音楽校梁田貞氏に指導を願う。 一橋音楽会、一橋会英語部英語大会の余興において、初ステージを踏む。このとき、端艇部に「チョーラス、チョーラス」と野次られる。 財政的に窮乏し、解散する。 1918年(大正7年) 春ごろ、学生が、小学校同窓会で余興として合奏を行う。 1919年(大正8年) 4月、一橋トリオ倶楽部(オーケストラ)を設立する。 秋、一橋トリオ倶楽部、一橋会英語部英語大会において、初ステージを踏む。 この頃、一橋音楽会は、津田塾大学とともに混声四部合唱を行い、また帝国大学とも後援関係があった。 1920年(大正9年) 4月1日、本学名称が「東京商科大学」となる。 4月、一橋音楽会と一橋トリオ倶楽部を合併し、音楽部を設立する。名称を「一橋グリー倶楽部」とする。 このころ、海軍軍楽隊長瀬戸口藤吉氏に、その後陸軍戸山学校軍楽隊楽長高津敏氏に指導を願う。 11月5日、神田YMCAホールにて、一橋グリー倶楽部第1回公開音楽会を開催する。楽器購入資金獲得のため、有料とした。 1921年(大正10年) 5月〜7月、上野公園で行われた第一次世界大戦終結平和記念第博覧会にて演奏する。 6月4日〜5日、大学32番教室にて第2回一橋グリー倶楽部音楽会を開催する。無料とした。 8月、日本女子大学桜楓会支部の招聘を受け、名古屋演奏会を開催する。 秋、第3回一橋グリークラブ公開音楽会を開催する。「管弦趣味のために」と題し、陸軍戸山学校軍楽隊が出演した。 1922年(大正11年) 秋、ウェールズ皇太子(ウィンザー侯)来日歓迎会の奏楽に参加する。 オーケストラ指揮者が水口幸麿氏に決定する。 1923年(大正12年) 3月、学制改革。この影響によりグリー倶楽部の主力メンバーが卒業してしまう。 4月、一橋会が本科、予科、専門部の3つに別れる(一橋本科会、一橋予科会、一橋専門部会)。 オーケストラ指揮者が桂平太氏に決定する。その後山口常光氏に交代する。 9月1日、関東大震災。神田一ツ橋の商大校舎は焼失し、グリー倶楽部も一時全滅状態となる。部室はかろうじて焼失を免れ、まもなく練習を再開する。 12月1日、大学の授業再開。 1924年(大正13年) コーラスの指導者が谷田部氏から青木児氏に交代する。 このころ、英語大会での演奏、校内演奏会、レコードコンサート等を行う。 1925年(大正14年) 同好会組織より部に昇格し、「一橋会音楽部」となる。初めて予算がおりる。 9月24日、東京商科大学創立50周年記念祭に参加する。 オーケストラ指揮者が高津敏氏に決定する。 第10回定期演奏会(復活第1回)を開催する。 1926年(大正15年・昭和元年) 秋、如水会音楽同好会が設立される。 コーラス指揮者が鳥居忠五郎氏に決定する。 1927年(昭和2年) 2月13日、東京中央放送局に放送出演する。 4月、東京商科大学、国立校舎への移転を開始する。 11月6日、兼松講堂が落成する。 1928年(昭和3年) オーケストラ指揮者が牧野守二郎氏に決定する。 大阪中央放送局にラジオ出演する。 1929年(昭和4年) 日本コロンビア社において、一橋会歌「長煙遠く」、端艇部応援歌「東都の流れ」のレコーディングを行う。 近衛秀麿氏の指揮により、御大典奉祝歌を演奏する。 1930年(昭和5年) 11月、日本コロンビア社において、レコーディングを行う。 如水会と一橋会の共同事業として「一橋の歌」を作る(「空高く」)。 11月18日、日本青年館において、「一橋の歌」を発表、初演奏する。 12月24日、東京商科大学(予科以外)、国立校舎への移転を完了する。 1931年(昭和6年) 10月5日〜8日、井上準之助蔵相の予科、専門部廃止案に対して、学生全員がキャンパスに籠城する(籠城事件)。このとき、音楽部主催でレコードコンサートを開催する。 オーケストラ指揮者が内田元氏に交代する。 1932年(昭和7年) 5月20日、旧一ツ橋敷地内に一橋講堂が落成する。 1933年(昭和8年) 7月22日、東京商科大学予科が小平校舎に移転する。 11月5日、一橋復興記念式、一橋発展回顧講演会が開催される。閉会後、一橋会旗授与式、音楽会、運動会、大懇親会が開催される。 12月22日、名古屋市公会堂において、第1回東京商大神戸商大交歓演奏会を開催する。 1934年(昭和9年) 12月10日、第28回定期演奏会にて、新予科会歌を発表する。 1935年(昭和10年) オーケストラ指揮者が鈴木章氏に交代する。 12月2日、東京商科大学創立60周年記念第30回定期演奏会を開催する。 1936年(昭和11年) 1937年(昭和12年) コーラス指揮者が国立音楽大学横田孝氏に交代する。 1938年(昭和13年) 11月26日、第36回定期演奏会にて、新作端艇部応援歌を発表する。 12月27日、歌舞伎座の新響(日響、現NHK交響楽団)「第九」公演に、合唱隊として参加する。 定期演奏会のオンダシに「愛国行進曲」が登場する 1939年(昭和14年) このころ、新響(日響、現NHK交響楽団)「第九」公演に、合唱隊として参加する。 12月7日、日比谷公会堂において、東京(七)大学学生音楽連盟第1回演奏会を開催する。 コーラス指揮者横田氏が応召出征する。 1940年(昭和15年) 6月15日、第39回定期演奏会−故上田貞次郎本学学長追悼−を開催する。 11月、東京帝国大学教授田辺尚雄氏を招き、兼松講堂において、「日本音楽の神髄」と題する講演会を開催する。 1941年(昭和16年) 2月11日、一橋会臨時総会が行われ、「社団法人一橋階」解散が満場一致で可決され、「一橋報国団」が誕生する。これにより、一橋会音楽部は「一橋報国団洋楽班」と改称する。 9月12日、全一橋報国隊が結成される。 10月5日、日比谷野外音楽堂において、市民厚生運動、東京都下各大学合同演奏会が開催される。 12月27日、国防要員充足のための在学年限短縮臨時措置により、昭和17年3月卒業予定者がこの日に繰り上げ卒業となる。 四ツ谷村山ホールにて、部内演奏会「なやまし会」を開く。 1942年(昭和17年) 4月18日12時30分頃、京浜、中京、阪神地区などが初空襲を受ける。 9月、本年度より大学学部、専門学校、予科ともに9月に繰り上げ卒業となる。 外部より女性のソリストを招くことが禁じられる。 日本光学戸塚工場にて、慰問演奏会を行う。 1943年(昭和18年) 2月4日、田辺尚雄氏を招き、予科日本文化講義として「日本を中心とする大東亜音楽」と題する講演が行われる。 4月、予科の修業年限が3年から2年に短縮される。 6月12日または25日、第45回定期演奏会を開催する。プログラムは紙不足のため藁半紙で、末尾に「警戒警報発令ノ場合ハ次週ニ延期」とあった。 10月2日、徴兵猶予が停止される。 学徒出陣のため、音楽部は自然消滅する。