1916年(大正5年) 吉野岳三、小野谷健が、霊南坂教会で、鈴木(のち斉藤)茂夫が番町教会で、賛美歌を歌っていた。 他方、教会内部で、一橋YMCA関係の者が5〜6人集まり、コーラスをはじめる。賛美歌中心で「ハレルヤ」「レクイエム」等を歌っていた。教会の慈善音楽会に賛助出演したり、教会の合唱団に交じって各地を回ったりした。 1917年(大正6年) 5月24日、吉野岳三、川口輝武、斉藤茂夫、小野谷健が発議者となり、音楽部(コーラス)開設の議が行われる。学校内の組織とし、名称は「一橋音楽会」と決定される。(まだ同好会組織であった。) 当時、部員は数十名いた。練習は週に1回程度、学生集会所(神田の図書館脇)にて行っていた。また、神田YMCAホールにおいて、原田潤氏(当時宝塚歌劇団指揮者)に指導を願い、これはすぐ中断したが、女子音楽校において、梁田貞氏(「城ケ島の雨」作曲者)に指導を願った。 一橋音楽会、一橋会英語部英語大会の余興に出演する(初ステージ)。 このとき、端艇部に「チョーラス、チョーラス」と野次られた。 その後、財政的に窮乏して、4〜5回しか練習ができずに解散する。 1918年(大正7年) 春ごろ、隈元昴、渡辺義雄らが、隈元氏出身の小学校同窓会で余興として合奏を行う。 5月7日、田辺尚雄氏を招いて、音楽理論の講演を聞く。 1919年(大正8年) 4月、隈元昴、渡辺義雄、細野武彦が設立者となって、一橋トリオ倶楽部(オーケストラ)が設立される。 秋、一橋トリオ倶楽部、一橋会英語部英語大会に賛助出演する(初ステージ)。 このころ、一橋音楽会は、津田塾大学とともに混声四部合唱を行い、また帝国大学とも後援関係があった。 1920年(大正9年) 4月1日、本学名称が「東京商科大学」となる。 4月、一橋音楽会と一橋トリオ倶楽部が合併し、音楽部が設立される。名称は「一橋グリー倶楽部」と決定される。(まだ同好会組織であった。)部長は舟橋雄教授、マネージャーは隈元昴であった。 春ごろ、海軍軍楽隊長瀬戸口藤吉氏(「軍艦マーチ」作曲者)に指導を願った。 秋ごろ、端艇部応援歌の歌詞が公募される。大友春一氏の作品が優秀作に選ばれ、これに瀬戸口氏が曲をつける(これが現在の「東都の流れ」である)。発表兼練習会、第1回大学レガッタのための応援指導を行う。 秋ごろ、一橋会英語部英語大会の幕あいに演奏する。 秋ごろ、如水会の夕食会の際に大食堂の張出しで演奏する。 その後、瀬戸口氏に代わり、陸軍戸山学校軍楽隊楽長補高津敏氏に指導を願った。 11月5日、神田YMCAホールにて、一橋グリー倶楽部第1回公開音楽会を開催する。楽器購入資金獲得のために開催した。入場料を6円、4円、2円50銭、1円50銭とし、純益1300円をあげた。 1921年(大正10年) 5〜7月、上野公園で行われた第一次世界大戦終結平和記念大博覧会にて演奏する。3ヶ月間で2回演奏し、月250円の報酬を得た。 6月4〜5日、大学32番教室にて、第2回一橋グリー倶楽部音楽会を開催する。オーケストラは30人以上、学生のみのステージで、入場は無料であった。 8月、日本女子大学桜楓会支部の招聘を受けて、名古屋演奏会を開催する。 秋、第3回一橋グリー倶楽部公開音楽会を開催する。「管弦趣味のために」と題し、陸軍戸山学校軍楽隊が出演した。入場料は1円50銭、80銭であった。 1922年(大正11年) 6月、第4回一橋グリー倶楽部音楽会を開催する。 秋、上野市政会館において、第5回一橋グリー倶楽部音楽会を開催する。 ウェールズ皇太子(ウィンザー侯)が来日するに際して、在京の大学及び専門学校の学生が合同して歓迎会(武道試合観覧等)を開く。このとき各校の管弦楽団が連合して奏楽を担当することとなり、一橋グリー倶楽部も参加する。文部省講堂で2回練習を行い、オーケストラは総勢200人以上となった。翌々日、関係者に宮城参観が許された。 オーケストラの指揮者が水口幸麿氏に決定する。 資金獲得のため、倶楽部として学校の運動会や学芸会、同窓会の応援等のアルバイトも行っていた。 このころ、コーラスは30名程の部員がいた。部費はオーケストラ1円、コーラス70銭であった。 1923年(大正12年) 3月、学制改革などの影響で、グリー倶楽部の主力先輩の多くが卒業してしまう。 4月、一橋会が本科、予科、専門部の3つに別れる(一橋本科会、一橋予科会、一橋専門部会)。 オーケストラの指揮者が桂平太氏に決定する。のち山口常光氏に交代したと思われる。 9月1日、関東大震災により神田一ツ橋の商大校舎が焼失し、グリー倶楽部一時全滅状態となる。 部室は辛うじて焼失を免れ、委員長を長谷川庄一として練習を再開する。 12月1日、本科、専門部3年は一橋本校で、予科は幡ヶ谷の東京高等学校で、専門部、養成所は渋谷の農業大学で、授業を再開する。 1924年(大正13年) 1〜3月、都立高校で授業を行う。 4月16日、本科、専門部の授業を神田一ツ橋の仮校舎で開始し、同時に予科が石神井新バラック校舎に移る。コーラスの指導者が矢田部氏から青木児氏に交代する。 語学部の英語大会に出演する。 このころの活動内容は、英語大会での演奏、校内演奏会、レコードコンサート等であった。 部員は、管弦楽部、声楽部、マンドリンクラブ、ハーモニカソサィティー合計約100名であった。 1925年(大正14年) 一橋会予科会の部として、「一橋会音楽部」が認められる。これにより、初めて予算がおりる(94円)。 部長は佐藤行人教授、委員長は長谷川庄一、会計は志村実であった。正規練習は週1回(演奏会前は毎日練習)、神田一ツ橋の旧校舎跡バラックで行った。 9月24日、創立50周年記念祭に出演する。 オーケストラの指揮者が高津敏氏に決定する。 1926年(大正15年、昭和元年) 2月13日、「一橋会」を社団法人とすることが決定される。同時に定款も可決される。 はる、予科会音楽部の部員が本科に進むと同時に本科会音楽部が成立する。 秋、如水会音楽同好会が設立される。(1927年6月との説あり) 宮城県白石に演奏旅行を行う。日本音楽学校、東洋音楽学校が賛助出演する。 11月、日本青年館において、第12回定期演奏会を行う。 コーラス指揮者が鳥居忠五郎氏に決定する。 部長佐藤教授が洋行することとなったため、舟橋雄教授に交代する。 本科会音楽部委員長は長谷川庄一、予科会音楽部委員長は段重利であった。部員は本科、予科合わせて20名ほどであり、演奏会の際は、他大学にトラを頼んで数をそろえていた。一橋会からおりる予算は、本科150円、予科80円であった。 このころ、定期演奏会は、大正9年に第1回、大正10年から15年までは、春に主に一橋講堂で1回、秋に主に日本青年館で1回(ただし大正12年は1回のみ)、第12回まで行われたと考えられる。 1927年(昭和2年) 2月13日、東京中央放送局に放送出演する。指揮者は鳥居忠五郎氏であった。 4月1日、商学専門部、商業教員養成所が東京府北多摩郡谷保村国立仮校舎に移転する。 4月15日、専門部国立仮校舎が完成し、授業を開始する。 6月、如水会音楽同好会が設立される。(1926年との説あり) 第13回定期演奏会を開催する。 10月以降、一橋会各部で、教授と学生との間の交流を図り、内容充実を図るため、教授を部長に推戴する動きが生じる。 11月6日、兼松講堂落成式、開館式が行われる。 11月、日本青年館において第14回定期演奏会(復活第3回)を開催する。 本科会音楽部委員長は長谷川庄一、予科会音楽部委員長は森本次興であった。予算は170円であった。 1928年(昭和3年) 第15回定期演奏会を開催する。 オーケストラ指揮者が、牧野守次郎氏に決定する。 大阪中央放送局にラジオ出演する。 12月、日本青年館において第16回定期演奏会(復活第4回)を開催する。 本科会音楽部委員長は谷秀信、予科会音楽部委員長は白井次郎であった。予算は150円であった 1929年(昭和4年) 6月、如水会館ホールにおいて第17回定期演奏会特別演奏会を開催する。 7月、一橋会音楽部の管弦楽団と合唱団が、日本コロンビア社において、一橋会歌「長煙遠く」、端艇部応援歌「東都の流れ」のレコーディングを行う。 11月、日本青年館において第18回定期演奏会(復活第5回)を開催する。 近衛秀麿氏の指揮により、御大典奉祝歌を演奏したと思われる。 本科会音楽部委員長は段重利、予科会音楽部委員長は岡本真澄であった。 1930年(昭和5年) 4月、専門部校舎全部の新築なり、移転完了する。 第19回定期演奏会を開催する。 9月、図書館、研究室建物が竣工し、本科、本科事務部、図書館が移転する。 9月15日、本科の授業が開始される。 11月、コロンビアレコード社において、一橋会音楽部オーケストラ、合唱団の合同演奏でレコーディングを行う。 日本青年館において、第20回定期演奏会(復活第6回)を開催する。 如水会と一橋会の共同事業として、「一橋の歌」の歌詞を募集する。酒井敬三郎氏の作品が当選する。これに山田耕筰氏が作曲し、「一橋の歌」が作られる(「空高く」)。作曲料は200円、一橋会から多額の補助金がでた。 11月18日、日本青年館において、「一橋の歌」を発表、初演奏する。 12月24日、国立本科本館が完成し、事務部が移転する。 本科会音楽部委員長は森本次興、予科会音楽部委員長は大平太郎であった。 1931年(昭和6年) 5月16日、東京中央放送局から、音楽部合唱団が、「一橋の歌」、予科会歌「君よ知れりや」「見よ七彩」を演奏する。指揮は鳥居忠五郎であった。 6月30日、丸之内時事講堂において第21回定期演奏会を開催する。 10月5〜8日、井上準之助蔵相の予科、専門部廃止案に対して、全員がキャンパスに籠城する(籠城事件)。このとき、音楽部主催のレコードコンサートが開かれた。 大阪演奏旅行を行ったと思われる。オーケストラと合唱団が合同し、大阪中央放送局で放送された。帰りに、神戸高等商業学校の講堂で、1ステージ演奏した。 秋、第22回定期演奏会が開催されたと思われる。 オーケストラ指揮者が内田元氏に交代する。 委員長は白井次郎であった。 1932年(昭和7年) 5月20日、旧一ツ橋敷地内に建設中の一橋講堂が落成する。 春、第23回定期演奏会を開催する。 秋、第24回定期演奏会を開催する。 委員長は岡本真澄であった。 1933年(昭和8年) 6月30日、東京府北多摩郡小平村に、予科本館が落成する。 7月、一橋講堂において第25回定期演奏会を開催する。 7月22日、本学予科が小平校舎に移転する。 9月11日、始業式が行われる。 11月5日、一橋復興記念式、一橋発展回顧講演会が開催される。閉会後、一橋会旗授与式、音楽会、運動会、大懇親会が開催される。 12月2日、第26回定期演奏会が開催される。 12月22日、名古屋市公会堂において、第1回東京商大神戸商大交歓演奏会を開催する。 委員長は金子正康であった。 1934年(昭和9年) 6月、第27回定期演奏会を開催する。 12月10日、第28回定期演奏会を開催する。新予科会歌(北原白秋作詞、山田耕筰作曲)を発表する。 委員長は柳瀬晃男であった。このころの音楽部員はオーケストラとコーラス両方の勉強をするのが原則であった。 1935年(昭和10年) 6月23日、一橋講堂において第29回定期演奏会を開催する。 オーケストラの指揮者が鈴木章氏に交代する。 12月2日、創立60周年記念第30回定期演奏会を開催する。 委員長は畑友徳であった。 1936年(昭和11年) 6月11日、一橋講堂において第31回定期演奏会を開催する。 7月、銚子市外犬若海岸において夏合宿を行う。自炊合宿を2週間行い、銚子公会堂で演奏会を行った。 銚子でヒゲタ醤油工場を見学した。 12月8日、第32回定期演奏会を開催する。 当時は、春の定期演奏会を6月に一橋講堂で、秋または冬の定期演奏会を11月または12月に青山日本青年館で行い、入場料は50銭だった。 本科会音楽部委員長は倉森隆郎、予科会委員長は中邨信一郎であった。 1937年(昭和12年) 6月20日、第33回定期演奏会を開催する。 コーラス指揮者が国立音楽大学の横田孝氏に交代する。 11月24日、第34回定期演奏会を開催する。 委員長は小川一郎であった。 1938年(昭和13年) 6月25日、第35回定期演奏会を開催する。 11月26日、第36回定期演奏会を開催する。新作端艇部応援歌を発表する 12月27日、歌舞伎座の新響“第九”公演に、合唱隊として賛助出演する。 名古屋演奏会を行う。 このころ、年1回「学苑」を発行する。 定期演奏会のオンダシに「愛国行進曲」が登場する。 委員長は中邨信一郎であった。 1939年(昭和14年) コーラス指揮者横田氏の斡旋により、新響(日響、現NHK交響楽団)の「第九」公演に、商大音楽部員が応援出場することになり、昭和14,15年の2年間に9回程度出演する。うち2回は大阪朝日講堂まで出張し、1回はJOAK放送に参加し、残りは日比谷公会堂や歌舞伎座等で演奏した。 5月4,5日、日比谷公会堂において、日響(現NHK交響楽団)のオーケストラとともに「第九」を演奏する。 5月20日、新放送局JOAKにおいて、日響のオーケストラとともに「第九」を演奏する。商大生は16名参加する。 6月24日、第37回定期演奏会を開催する。指揮者が当日遅刻し、一部を学生中邨信一郎が指揮した。 7月、野尻湖において合宿と演奏会を行う。 11月3日、十文字高等女学校運動会にジンタバンド出演する。前後5年間出演する。 11月14日、第38回定期演奏会を開催する。 12月7日、日比谷公会堂において東京(七)大学学生音楽連盟第1回演奏会を開催する。 コーラス指揮者横田氏が応召出征する。 委員長は青木利夫であった。 1940年(昭和15年) 5月8日、本学学長上田貞次郎博士が逝去する。 6月15日、第39回定期演奏会-故上田貞次郎本学学長追悼-を開催する。 7月、伊豆美津浜において合宿と演奏会を行う。 11月、東大教授田辺尚雄氏を招き、兼松講堂において「日本音楽の神髄」と題する講演会を開催する。 12月11日、第40回定期演奏会を開催する。 委員長は菅沼精一であった。 1941年(昭和16年) 2月11日、一橋会臨時総会が行われ、「社団法人一橋会」解散が満場一致で可決され、「一橋報国団」が誕生する。 2月22日、一橋予科報国団結成式が行われる。 5月1日、一橋本科報国団結成式が行われる。 5月13日、一橋専門部報国団結成式が行われる。 これにより、一橋会音楽部は、「一橋報国団洋楽班」と改称する。 6月7日、第41回定期演奏会を開催する。 7月、茨城礒浜において合宿と演奏会を行う。 9月12日、全一橋報国隊が結成される。 10月5日、日比谷野外音楽堂において、市民厚生運動、東京都下各大学合同演奏会が開催される。 11月8日、第42回定期演奏会を開催する。 12月8日、真珠湾攻撃。 12月27日、国防要員充足のための在学年限短縮臨時措置により、昭和17年3月卒業予定者が、この日に繰り上げ卒業となる。 部内演奏会「なやまし会」が四ツ谷村山ホールで開かれた。 委員長は岸山守良であった。 1942年(昭和17年) 4月18日12時30分頃、京浜、中京、阪神地区などが初空襲を受ける。 6月20日、第43回定期演奏会を開催する。 9月、本年度より大学学部、専門学校、予科ともに9月に繰り上げ卒業となる。 12月5日、第44回定期演奏会を開催する。 外部より女性のソリストを招くことが禁じられる。 日本光学戸塚工場で慰問演奏会を行う。 委員長は竹内克彦であった。練習場は学校か如水講堂、四ツ谷村山スタジオなどを借りた。 1943年(昭和18年) 2月4日、田辺尚雄氏を招き、予科日本文化講義として「日本を中心とする大東亜音楽」と題する講演が行われる。 4月、予科の修業年限が3年から2年に短縮される。 6月12日または25日、第45回定期演奏会を開催する。プログラムは紙不足のためわら半紙で、末尾に「警戒警報発令ノ場合ハ次週ニ延期」を会った。 10月2日、徴兵猶予が停止される。 10月20日、兼松講堂において、本学関係教職員学生生徒の慰霊祭、学生生徒錬成体育大会、出陣学徒壮行会が行われる。 学徒出陣のため、音楽部は自然消滅する。 10月21日、明治神宮外苑競技場において、出陣学徒壮行会が行われる。 1944年(昭和19年) 2月19日、予科校舎を軍に移譲し、全部を国立に移転する。 10月、本学名称が「東京産業大学」となる。 12月1日、兼松講堂及び大学構内の一部を中島飛行機株式会社に貸与する。 1945年(昭和20年) 7月6,8日、本学が米軍の攻撃を受ける。 8月15日、終戦。 8月26日、一橋報国団が解体され、自治的校友会へ再編するよう通牒を受ける。 8月29日、軍需のため貸与していた校舎、講堂が返還される。 1946年(昭和21年) 3月、復員、復学。 6月、村上修、小川(現立野)健三、間々田良雄、山崎端夫、三浦正、寺井一郎、久我太郎、山葉氏(日本火薬)が集まってコーラスをはじめる。場所は階段教室、事務の女性を交えて混声もはじめる。国立音大の武岡鶴代氏(Sop.)に指導を依頼したが、多忙のため、平岩康雄氏の指導を受けることとなる。 6月、一橋音楽鑑賞会が発足する。 6月1日、化学教室において第1回「一橋音楽観賞会」演奏会を開催する。終了後の懇談会に本学上原専録学長が出席し、「プロとアマ、ということを言う人がいるが、すべてのことにアマであるなんてことはない。」と述べられる。(何事についても、アマチュアだからそんなことで良いなどということはない、という趣旨) 6月15日、第2回「一橋音楽鑑賞会」演奏会を開催する。 11月3日、兼松講堂において一橋復興芸能祭が開催される。 同日、21番教室において戦没学生追悼会が開催される。 兼松講堂において「一橋音楽鑑賞会」演奏会を開催する。 11月18日、三井新館においてOB主催の「学生を励ます会」が開催される。 1947年(昭和22年) 3月、本学名称が「東京商科大学」に戻る。 秋、一橋祭が開催される。兼松講堂で現役OB合同の無料公開演奏会を開催する。このとき、オーケストラが復活する。 このころ、一橋祭において津田塾大学や成蹊大学など近辺の学校と合同音楽会を開催する。 1948年(昭和23年) 11月、東京学生音楽文化連盟商大津田支部を設置する。音楽会や研究会を自主的に行うためであった。 1949年(昭和24年) 4月から11月にかけて、東京学生音楽文化連盟支部で、諏訪根自子、巖本真理、安川加寿子、室井摩耶子、藤田晴子の各独奏会を5回にわたって兼松講堂において“Bechstein”グランドピアノを使用して開催する。 それと平行して、国立の化学教室で数回にわたり野村光一氏を講師として招き、レコード鑑賞会を開催した。電気蓄音機が故障してレコード演奏ができなかったこともあった。 5月、新制大学発足。「一橋大学」が発足する。 6月ごろ、泉遥、宮内勉、高森与一郎、前田邦夫、小林玉夫、竹内和男、森陽、相良靭彦、石原良ら十数名でグループを結成してコーラスをはじめる。 場所は兼松講堂、“Bechstein”グランドピアノを使用し、指揮は交代で行った。部室はなかった。 9月22日、新制一橋大学自治会則が可決され、即日実施される。 12月、初代コーラス指揮者に国立音楽大学の横田孝教授を招くことと決定する。 1950年(昭和25年) 1月、兵藤隆夫、宇留間欣吾を中心にOBの援助で、7〜8人くらいのオーケストラ班が練習を始める。各パート1人ずつくらいであった。 3月、コーラスグループも体裁が整う。練習は兼松講堂で週1回行った。 4月、音楽部が事実上再発足する。新歓オリエンテーションのポスターに「一橋大学音楽部」と記載する。ただし、公式には登録が行われていない同好会組織で、理事会文化部から予算も取れなかった。 部長は山田欽一教授、委員長に当たるものに石原良、コーラス班リーダーは泉遥、オーケストラ班リーダーは兵藤隆夫であった。活動の中心は小平校舎にいた新制1年生であり、国立校舎にいた旧制の部員はおらず、なじみが薄かった。コーラス班は30名くらいになった。冬の練習は、職員集会所のソファーでやったりした。 新校歌の制定事業が行われる。歌詞が公募され、応募作品の中から山口龍吉氏の詩を手直ししたものが採用され(銀杏会同人作詞)、これに山田耕筰氏が作曲した(「武蔵野深き」)。 10月22日、共立講堂において、一橋創立75周年記念祭が開催される。校歌「一つ橋の歌」が発表される。指揮近衛秀麿、演奏東京交響楽団、国立音楽大学と一橋大学音楽部のコーラスであった。 11月3日、兼松講堂において一橋創立75周年記念一橋祭音楽部発表会が開催される。コーラス班、オーケストラ班はまとまった発表ができるまでに成長していなかったので、ショパン没後100年にちなんで、ピアノをやる者でショパン100年祭記念演奏会を企画した。 コーラス指揮者が横田孝氏から国立音楽大学作曲科卒業研究生の佐藤勝氏(当時テレビ、映画の音楽等を担当)に交代する。 1951年(昭和26年) 4月、一橋大学音楽部が正式に発足する。コーラス班、ピアノ班、オーケストラ班に分かれ、部員は合計50名であった。ただし部員は相互に重複して参加していた。委員長は引き続き石原良であった。予算は2万5千円であった(文化部全体の予算は7万5千円)。 4月、入学式において初めて校歌を歌う。「一橋の歌」をコーラス班で斉唱した。 5月14日、一橋会会則が成立する。 6月、関東合唱祭に参加する。23名が出場した。 6月11日、第2回国立評議員会が開催され、石原良が理事長となる。 7月9日、コロンビア社において校歌のレコーディングを行う。理事会の依頼によるものであった。第1面には校歌「一橋の歌」を、指揮佐藤勝、楽団指揮山田耕筰、斉唱一橋大学音楽部、伴奏コロンビア専属楽団で、第2面には「一橋会歌」を、編曲、指揮佐藤勝、合唱一橋大学音楽部、伴奏コロンビア専属楽団で録音した。 10月19日、理事会総辞職する。 11月、76年記念祭音楽部発表会を開催する。 一橋大学音楽部と一橋祭準備委員会の共催で、井口基成ピアノ独奏会を開催する。 12月、大学当局から講堂の使用を禁止される。講堂のピアノ“Bechstein Grand”が痛んできたため、音楽部の負担で修理をしたうえで、その後の使用を禁止されることとなった。 1952年(昭和27年) 4月、初めてオーケストラ伴奏で校歌を歌う。 5月、一橋大学音楽部総会が開催される。音楽部規約を制定し、コーラスの名称を「コール・メルクール」とすることに決定する。 以下、「コール・メルクールの歩み」へ