「ウィーン美術史美術館のコレクションとアルベルティーナ版画素描館の再生」

 

講師 国立西洋美術館 主任研究官

佐藤 直樹 

平成15年10月28日 於:如水会館

【無断転記転載を禁ず】

社団法人 如 水 会

責任編集

 



◆内容目次

はじめに

ハプスブルグ家の勃興とコレクションの始まり

国際性豊かな大都会ウィーン(城壁の撤去)

ハプスブルグ家のオーストリアへの定着

美術史美術館コレクションの始まりと発展

帝国領土を拡大し、コレクションに手を染めたマクシミリアン一世

新しいメディアとしての版画への興味

コレクションの基礎を築いた皇帝たち

フェルディナンド二世コレクション「驚異の部屋」

珊瑚

駝鳥の卵

象牙細工

多彩な関心とコレクション:ルドルフ二世

糞石

天球儀

動物の牙

ブリューゲル

デューラー

イオとガニュメデス

パルミジャニーノ、シュプランヘル、ハンス・フォン・アーヘン

アルチンボルド

鑑識眼の高いレオポルド・ヴィルヘルム大公

「画廊画」に表わされたコレクション

ラファエッロ《草原の聖母》

作品は少ないが完成度高いフーホー・ファン・デル・フース

ヨハネ祭壇画

レオポルド一世、マルガリータ王女との結婚

トルコ戦争でウイーンの危機、勝利の英雄オイゲン公

オイゲン公もまた優れたコレクター

一般公開への道

美術史美術館建設、帝室美術館として開館

アルベルティーナ版画素描館の再生

三つの美術館が入った美術館地区

講師略歴


はじめに

― ウイーンは“良い風の吹く街”

 本日は「ウィーンと美術館」というテーマで、ウィーンにあります美術館の中でも最も代表的な美術史美術館のコレクションの成立を中心にお話していきたいと思います。

 おそらく皆さんの中でも、ウィーンという街には行かれた方が多いと思いますが、このウィーンの中心部、街の真ん中にザンクト・シュテファン寺院があります。このゴシック建築様式の教会が、ウィーンという街のシンボルで、その中心的な教会堂です。

 さて、オーストリアはもともとドイツ語圏の最東部にできた、東方から出発した東の国です。オーストリアというラテン語名は東の国という意味になります。中世初期以来、東方諸民族の侵略に対する欧州の防衛の砦でもありました。またウィーンという名前(ドイツ語ですとヴィーン)ですが、この名前はラテン語のヴィンドポナ「よい風が吹く街」という意味だったのです。


ハプスブルグ家の勃興とコレクションの始まり

― ウイーンへ、そして大帝国の皇帝に ―

 オーストリアは、中世にはバンベルク家が、近世からは皆さんご存じのハプスブルク家が支配した国でした。このハプスブルク家はもともとスイスのアールガウ州のハプスブルク城という、非常に小さな城から出た貧乏貴族だったのですが、ここからオーストリアに来まして、ウィーンは発展を遂げ、後に宮廷所在地、帝都として、また美術と音楽の都としての性格を帯びて来ます。

 ウィーンは帝国の都ですから内外のあらゆる職業人とか文化人、外国人が集まる正にメトロポリタンでした。ドイツ、ボヘミア、ハンガリーの人々が入り混じる、いわゆるごった煮的な文化がウィーンの特徴です。ドイツの国に比べてウィーンを旅行された方はおそらく欧州諸国の人々、東洋人、あるいはアフリカ人などを多く見かけるはずです。こうした人種のるつぼから、パリやロンドンに匹敵する国際都市であるということは実感して頂けると思います。ドイツにはなかなかそういう街がなく、ウィーンがやはりドイツ語圏を代表する国際都市であることには、共和国となった現在もなんら変わりありません。

 こういったごった煮的な文化を誇るウィーンそれ自体が実にヨーロッパ的なものでありまして、ECの思想的創始者であるクーデンホーフ・カレルギーがウィーン出身であることも象徴的なことかもしれません。

国際性豊かな大都会ウィーン(城壁の撤去)

 本日の主要なテーマですけれども、ウィーンの街の発展とともに欠かせない存在はハプスブルク家です。このハプスブルク家の都をスライドで見てご説明したいと思います。地図が非常に小さくて見えにくいと思いますが、どのガイドブックにももちろんこういう地図は出てますので、きょうは少し、街の構造を頭に入れて頂けたらと思います。

 ウィーンの中心部というと、このリンク・シュトラーセという環状道路の内部です。この環状道路というのは山手線みたいな大きい道路ではなくて、この通りの内部を徒歩のみで簡単に回ることができます。この通りは、昔は街を守るための城壁の跡なのです。それを19世紀に壊して、リンク・シュトラーセという環状道路を造りました。これがウィーンの大変化、一番大きな変化ですね。その外になりますと、そこはもう住宅街です。たとえばこちらのマリアヒルファー・シュトラーセという通りがもう一つの大きな繁華街になっています。この辺まで住宅地が延びているわけです。

 先ほどのザンクト・シュテファン寺院というのはウィーンの中心にあり、美術史美術館はリンクの外になります。リンクの外に建っている建物が美術史美術館で、向かい合うかたちで自然史博物館があります。この2つの建物は、全く同じ形で、双子のように建っています。王宮をはじめ、音楽の都ウィーンの代表的な建物、オペラ座など新しい建物、国会議事堂や大学などは、リンクに沿うかたちで発展していったんですね。つまり、城壁を壊したということが大都市になる一番大きな要素でした。

 王宮は三年位前に大きな改修工事が終わりまして、いま見られるのはこのように美しい姿です。国立図書館、鎧や甲冑類、食器類、宝物館、そういったものがすべてこの王宮の中に収められています。つまり美術史美術館だけを見ても、ハプスブルク家のコレクションの全貌を見ることにはならないわけです。美術史美術館は絵画中心の美術館で、実は工芸品についても大きな展示スペースが一階にあるんですが、気が付く人が少ないのが現状です。

ハプスブルグ家のオーストリアへの定着

 オーストリアにハプスブルク家が定着するのは、13世紀に同家で初めて神聖ローマ皇帝となったルドルフ一世の孫の世代からになります。良く知られているように、ハプスブルク家は婚姻政策によって着実にヨーロッパの版図を広げていきます。神聖ローマ帝国の帝位は1438年以降、1740年から45年の5年間の空白があるんですけども、1438年以降1806年の帝国解体までハプスブルク家が帝位を継承していきます。しかしよく勘違いされる方が多いんですが、常にウィーンが宮廷所在地だったわけではありません。あとでお話するように、チェコのプラハが宮廷の所在地だったこともあります。神聖ローマ帝国が滅亡するとオーストリア帝国という呼称を得て、1867年にはオーストリア=ハンガリー二重帝国が形成され、1918年まで続いてゆきます。

 では、ウィーンで現在見ることのできるこの王家の美術品の大半は、どのようにして集められて来たのでしょうか。しかし、その蒐集史の開始を定めることは不可能です。ハプスブルク家の誰から、どの作品から蒐集がスタートした、こういうことを見極めることはできませんが、当初はおそらく実用的な家具類とか食器類、あるいはその宗教的な祭具というものがコレクションの始まりだったと推測されています。


美術史美術館コレクションの始まりと発展

― ハプスブルグ家のコレクターの系譜 ―

帝国領土を拡大し、コレクションに手を染めたマクシミリアン一世

― 美術史美術館へ繋がる道の最初の一歩 ―

 14世紀のオーストリア大公ルドルフ四世。このルドルフ四世以降は、ハプスブルク家の宝庫、宝物庫が存在していたことは確認されていて、そこには財貨と並んで美術品や歴史的記念物なども収められていました。そして、ゴシック最後の皇帝フリードリヒ三世は15世紀にこの家財を受け継ぎ、息子のマクシミリアン一世にその家財を受け渡す重要な役割を果たします。

 マクシミリアン一世、このルネサンスの王肖像画はアルブレヒト・デューラーという、ルネサンスのドイツ最大の画家が宮廷画家として仕えた時代に描いたものです(スライド)。「最後の騎士」と称されるマクシミリアン一世の時代にこのコレクションというものが少しずつ明らかになっていきます。このマクシミリアン一世は、ブルゴーニュ公国の跡取り娘マリーと結婚することで現在のオランダ、ベルギー、そしてディジョンを中心とするブルゴーニュ地方をハプスブルク家の領地として受け継ぐことになりました。このときに領地や財宝を受け継ぐだけではなく、当時ヨーロッパで最も先進的だったブルゴーニュの文化を受け継ぎました。特に騎士文化、そしてアルプス以北の美術の一大中心地であったネーデルランド地方(現在のベルギーとオランダ)を領有することによって多数の美術品がハプスブルク家に入ってくるようになります。

 また、この皇帝は音楽もネーデルランドから輸入することになりまして、当時ポリフォニー(多声音楽)が起こり始めていた時期なんですけれども、ネーデルランドで少年合唱団を結成し、ウィーンに連れて来ます。かの有名な「ウィーン少年合唱団」を結成したのは、実はこの皇帝で、「ウィーン少年合唱団」に行きますとマクシミリアン一世の肖像が複製で飾られています。こうしてこの皇帝は、音楽と美術の両方を先進的なブルゴーニュ地方から受け継いだわけです。

新しいメディアとしての版画への興味

 この皇帝は非常に頭のいい皇帝でして、当時新しいメディアであった版画に注目します。現代で版画といいますと、紙に印刷することですから、何でもありませんけれども、ルネサンス時代に紙が新しい媒体として広まり、印刷技術が普及します。マクシミリアンは、自分の肖像画などを印刷し、多数のコピーを作ることで自分のプロパガンダを行います。そして、アルブレヒト・デューラーという宮廷画家を中心に「凱旋門」と呼ばれる非常に興味深い、ローマ帝国では石で出来ていた凱旋門を紙で作り上げるプロジェクトを実行しました。3メートル四方の非常に巨大な紙のカーペットを作り上げると、これを自分の親戚、姻戚、ヨーロッパ中の関係の深かった王家に配布したのです。この凱旋門は紙で出来ているので、裏打ちしても丸めて持ち運べます。そこには、例えば、マクシミリアン一世がどういう戦争を勝ち抜いてきたかを詳細に、マクシミリアンの偉業として表現するだけではなく、家系図もあらゆる関係を掘り起こして図像化し、領土の広大さを印象づけるものでした。凱旋門下部にここに表わされたものすべてについて、文字による説明もあります。

 ところで、その凱旋門の一部には、マクシミリアン一世が所有していた宝物庫が描かれています。この宝物庫には、食器類、金製の杯、カップのようなもの、あるいは聖人像までもが一つの部屋にまとめて収蔵されれているのがわかります。ここから、ハプスブルク家の財宝の保存管理を垣間見ることができます。一つの収蔵庫があったわけです。するとここが、いわば美術史美術館の最初の一歩と言うことができるのではないでしょうか。現在の美術史美術館はここにまで遡ることができるのです。

コレクションの基礎を築いた皇帝たち

 マクシミリアンの話はこのぐらいにしまして、本来的な意味でのコレクションの始まり、本当に物を集めることが好きだった人、それは誰かといいますと、マクシミリアン一世の曾孫で、ティロルを治めていたティロル大公のフェルディナント二世です。1529年から1595年まで約70年近い生涯をこの王はさまざまな物を集めることに費やしました。皇帝フェルディナント一世の息子として生まれて、初めはボヘミア総督、その後ティロル総督となり、インスブルック近郊のアンブラス城という城館に非常に珍奇な物、奇妙な物(Mirabilia=ミラビリアとラテン語で呼ばれます)、珍奇な物を集め始めていました。彼を表わしたこの肖像画も実は絵ではないんです(スライド)。これは蝋細工ですね。蝋人形館というのがイギリスにありますけども、額縁のように見える蝋細工です。寸法は22.3×19.9センチ。現在はアンブラス城ではなくて、ウィーン美術史美術館の彫刻・工芸コレクションに所蔵されています。

 ここで、きょうお話する人の系図(スライドを見ていきたいと思います拡大してご覧ください)。先ほど言いましたマクシミリアン一世の孫にフェルディナント一世という皇帝がおります。その皇帝の息子(つまりマクシミリアン一世の曾孫)がフェルディナント二世です。

 このフェルディナント二世の甥っ子に、かの有名な「プラハのマニエリスム皇帝」のルドルフ二世と言う人がいましたが、この人がまたフェルディナントと非常によく似た、奇妙なコレクションを始めます。この二人がハプスブルク家のコレクションの基盤を作ったと考えて差し支えありません。さらに後世に時代が進みますと、ルドルフ二世の二代後となりますが、オーストリア大公レオポルト・ヴィルヘルムが登場します。この大公は絵画を中心に蒐集し、現在、美術史美術館で見られる絵画の大部分がこのレオポルト・ヴィルヘルムが集めたものです。

 その後カール六世、マリア・テレジア、息子のヨーゼフ二世と続いてコレクションが拡大していきます。ただし、ここで一人ずつ見ていくことは致しません。というのもコレクションに興味のない皇帝もやはりいるんですね。ただ親の財産を継承しただけ、という皇帝がいたこともあります。実際にコレクションを積極的にしていたフェルディナント二世とルドルフ二世、レオポルト・ヴィルヘルム、この3人を中心に見ていけばハプスブルク家のコレクションの大筋はつかめることになります。

 今説明したフェルディナント二世が珍奇な物を集めていたものが現在もあります。インスブルッ クの山の上にアンブラスシロスというお城があります。ここは現在も美術史美術館の分館として存在していて、コレクションもけっこうまだ残されています。ただ、やはり皆さんウィーンに行かれることが多いですし、なるべく保存環境のいいところ、となるとやはりウィーン美術史美術館の方でしょう。もしインスブルックに行かれることがあったら、非常にきれいな状態で残ってるお城ですし、フェルディナント二世が集めたコレクションの一部もまだこちらにありますので、機会があったら行かれるとよろしいでしょう。

フェルディナンド二世のコレクション「驚異の部屋」

珊瑚

 フェルディナント二世はインスブルックのアンブラス城(スライド)にヴンダーカンマー=Wunderkammerあるいは芸術庫、美術倉庫=Kunstkammerと呼ばれる展示室兼収蔵庫をつくり、世界中から不思議な物を集め、収めていきます。いまお見せしてるのは、珊瑚とか貝を集めたキャビネットです(スライド)。オーストリアという海のない国では、珊瑚は高価なものでした。キリスト像をご覧になれると思うんですけど、まるでゴルゴタの丘に磔になっているような様子で、貝とか絹とかさまざまな宝物で装飾した小型の祭壇になっています。ただ、このキリスト像は後世付け加えられた物で、当時フェルディナントが集めていたのは珊瑚や貝でした。海の物なのか山の物なのか判然としない、植物なのか動物なのかも分からないような珊瑚というのはやはり珍品として尊ばれたのでしょう。

駝鳥の卵

 これはウィーンの美術史美術館に移されていますけれども、非常に細工の見事なものです(スライド)。帝国の直接の管轄地で帝国都市と呼ばれたアウグスブルクというルネサンスの町があります。このアウグスブルクは金細工が盛んで、こうした駝鳥の卵を駝鳥の彫刻の上に飾って、モーア人が駝鳥を引くというアフリカのイメージを演出したわけです。これは蓋の付いた杯になっています。実際に何かを飲むときに使うということはおそらくないのですけれども、テーブルなどに飾って食卓を華やかにするために使用されました。こういった珍しい物、しかも豪華に装飾した美術品によってお客さんをもてなしたわけです。

象牙細工

 これは象牙細工です(スライド)。象牙を削って、このように非常に細かな、そしてエマイユとかガラスの粉などで飾った小型のフィギュアが取り付けられています。こういった象牙細工というのはマニエリスムからバロック期にかけて非常にはやるんですね。こういったものをテーブルにセッティングするとお客様もあまりの素晴らしさに驚くわけですし、王の力を見せるには十分な飾りとなるわけです。

 ウィーンに行かれた方は沢山いらっしゃると思うんですけども、美術史美術館に行かれても、こういったものはほとんど見ないと思うんですね。絵画を見るのでもう疲れてしまって、おそらくへとへとになるはずです。なにしろ美術館というのは巨大ですし、名作が多いですから、見るだけで疲れるんですね。集中できるのは二時間位がおそらく普通の人の限界だと思います。われわれ専門家も三時間見るということはないですね。もう二時間以上経っちゃうと見てないんですよ。ただ歩いてるだけになってしまって。ですから一日じゃなくて、二日三日なるべく長く滞在してゆっくり見ることをお薦めします。そうしないとこうした工芸品にぜんぜん目が向かないはずです。一階左手のウイングに工芸類があるんですけど、たぶん入られた方は少ないと思うんですね。でもそこにこそ、コレクションの基礎になっているフェルデナント公の収集品が多数所蔵されていますから、ぜひ次回に行かれるときは絵画館を訪れる前にこちらの方もちょっと覗いてみると、美術史美術館のまた違った側面が見られると思います。

 石類なども、ダイヤモンドとかルビーなどの宝石だけではなくて、さまざまな石への興味というのが出てきます。この作品も(スライド)ただ石をそのまま集めるのではなく、羅針盤などを埋め込みまして、物語風の風景を蓋を開けたところに表わしています。下部には引出しがあるので、何か入れたのかもしれません。

 鉱物と言えば、美術史美術館の向かい側に自然史博物館というのがありますけれども、そこへ行かれた方がいらっしゃるかもしれませんが、信じられないくらいの石のコレクションがあるんです。とにかく巨大なガラスケースの中にずらりと並んでおりまして、当時の王家が科学的な興味も持っていたことの証明でもあります。こうした網羅的なコレクションは、日本ではなかなか考えられないことです。

多彩な関心とコレクション:ルドルフ二世

 次にお話するのは、プラハに宮廷を移した皇帝ルドルフ二世についてです。この人も石が大好きで、プラハのヴァツラフ広場という巨大な広場のいちばん高いところに国立博物館があるんです。ここもウィーンの自然史博物館とまるで双子のように、信じられない数の石のコレクションが並んでいます。ところが全然お客さんがいないんですね。部屋に2、3人しかいつもいない。ウィーンもそうなんですけれども。ここはじっくり見るには、よほど石に興味がないと、あるいは石の仕事をしてないと、不可能でしょう。あまりに石ばかりで飽きてしまう。けれども、そこを流して見るだけでもヨーロッパのコレクションの不思議さ、ちょっと日本人のコレクションとは違う感覚、美術品以外の興味、自然の脅威というもの、そういったものを感じることができるはずです。

糞石

 次にもう1人の重要な皇帝ルドルフ二世に移りましょう(スライド)。この皇帝は、芸術に限らず物を集めるのが大好きで政治にはほとんど無関心であったと言われています。在位中、ほとんど政治をせずに、プラハの宮廷で非常にマジカルな、不思議な物を集めて過ごしました。ケプラーという名前を皆さんご存じだと思うんですけど、ケプラーという天文学者も抱えて、プラハは文化と学問の中心地となっていました。プラハの話となりますと、ウィーンというテーマからは外れてしまうんですが、ルドルフのコレクションの多くは、現在、ほとんどがウィーンに移ってるんです。ですからプラハの話は、ハプスブルク家のコレクション史という枠組みの中で決して忘れてはならない要素であります。

 フェルディナント二世の甥であるルドルフは、ハプスブルク史上最も偉大な蒐集家でした。プラハのフラチャニー城でマニエリスム期の爛熟した文化をリードした偉大な皇帝です。宮廷画家も多数抱えて、自分の趣味の絵画を制作させました。多少、フェルディナントを継承する傾向があるのと同時に、まさに宇宙論的な(ケプラーの影響もあったでしょう)コレクションの特徴があります。彼は、世界を構成しているものはなにかということもちょっと考え始めて来たということです。ここにお見せしているのは糞石(スライド)。糞石には二種類あって、恐竜の糞が化石になった糞石と、あと動物の内蔵の中に結石したものの二種類があります。こちらは見てもきれいなので分かる通り、動物の内蔵で出来た糞石です。そこにエメラルドとかルビー、あるいは金というもので飾っています。

 この糞石というのはそこら辺にころがってるものではもちろんありません。非常に珍しいものなんです。山羊や馬などの内蔵の結石で、中世から近世にかけては医療品として扱われていました。メランコリー、つまり憂鬱病ですね。鬱病にかかった場合、この糞石を胸のところに当てると良くなる、というふうに言われていました。このルドルフ二世も、やはり鬱病だったようです。糞石を集めさせていたのは自分の治療のためなのでしょう。多数の糞石が残っています。中世や近世に、具合が悪いからといって糞石を胸に当てるということは庶民には当然できないわけで、糞石が発見されれば即座に皇帝や王に送られ、こうした宝石で飾られました。

天球儀

 これは天球儀です(スライド)。先ほどからケプラーという名前を出しておりますけども、素晴らしい器具を通じてこの頃の宇宙学を知ることが出来ます。エマイユ装飾も素晴らしい作品です。エマイユは、プラハの宮廷工房で盛んになされました。現在でもウィーンにも、こういった伝統工芸が引き継がれています。高さは50センチ位。ヨハネス・ラインホルトという時計師が中心になって作り上げました。ドイツ、ザクセン公国のドレスデンにも全く同じようなコレクションがあります。ザクセン公は、当時非常に裕福で、目はウィーンに向いていました。まだ当時プロイセンなどは力がなく、今でこそドレスデンは、東ドイツにあったせいもあって忘れられた町になっていますけれども、当時ウィーンと一番近くて文化的に優れたところでした。

動物の牙

 こういった宇宙論的な奇妙なコレクションをルドルフ一世はしてる一方で、実は芸術的な面もなかなか鋭い皇帝でした。例えばこれは猪の牙と犀の角を利用した酒杯です(スライド)。自然の動物の牙は象牙のコレクションなどがフェルディナントにもありましたけれども、ここでも犀の角を彫り抜いてカップを作って、このような蓋で飾る。ただ牙を持つだけではやはり皇帝としては物足りないわけですね。

ブリューゲル

― 冬の狩人、子供の遊び、バベルの塔 ―

 また、この時代は素晴らしい芸術がいっぱい生み出されているということだけでなく、スペイン・ハプスブルク家のフェリペ二世のマドリードの宮廷でルドルフ二世は成長した経緯もあって、スペインでの素晴らしい絵画コレクションの影響も受けています。そこが彼の絵画趣味というものを培ったようです。美術史美術館の至宝と言われるブリューゲルのコレクションのほとんどが、このルドルフ二世によって集められました。これは《冬の狩人》(スライド)と呼ばれており、四季を表わした月歴画のシリーズの一点です。これはブリューゲルの代表的な作品で、ネーデルランド地方の風景を描いた、と思ってしまうんですが、実はこれは大嘘で、オランダに行ったことがある人はお気づきだと思いますけれども、ネーデルラント地方には山なんかないんです。ここに山が描かれているのは、当時の世界観の表れで、画面の中にいわゆる風景らしい風景を作り上げたものです。それは世界というものを表すためにオランダには全く存在してない山を描いた「世界風景」と呼ばれるモチーフです。ですから、ここの部分はブリューゲルの創作であり、絵画のイディオムなわけですね。そしてあらゆる子どもの遊びを百科全書的に描いた《子どもの遊び》、《バベルの塔》や《農民の結婚》もルドルフが購入したものです。

 このルドルフという皇帝は美術品室、画廊というものを公式に設けた人物です。そして伯父のフェルディナント二世のコレクションであるアンブラス城の収集品をプラハに移します。その後、ネーデルラント総督であった弟エルンストの遺産をすべて受け継ぐことになります。ブリューゲルの作品というのは実はエルンストがネーデルランドで集めた作品でした。ただし、≪バベルの塔≫はルドルフ自身が購入したものです。

デューラー

 ルドルフはアルブレヒト・デューラーも大好きな芸術家でした。しかし、デューラーはすでに没していたので、市場に出ている作品を買い集めます。なかでも≪聖三位一体の礼拝≫という作品は美術史美術館の非常に重要な作品です。ここでは、父なる神と聖霊、キリストの三者が表わされるだけでなく、諸聖人がすべて勢揃いしています。現在、この作品の額縁だけニュルンベルクにあり、泣き別れの状態になっています。

 ≪一万人の殉教≫もルドルフが購入したものです。キリスト教徒が迫害されて一万人もの信者が殉教したという話です。首が切られた人物が前景にいるとか、また死体が多数描かれています。こういうものがやっぱりルドルフの趣味を代表するでしょう。

 また、≪ローゼンクランツ祭壇画≫という作品ですが、これのみが現在もプラハに残っています。これはベネチアのドイツ人商会のためにデューラーが制作したもので、ここにはマクシミリアン一世が横顔で描かれています。さらにデューラー自身の肖像画も見られます。この作品はスウェーデンがドイツに攻めて来たときに焼けてしまうんですね。修復済みですが、焼け跡が残っていて、保存状態が非常に悪く、移動できなかったためにプラハに残されているのでしょう。

デューラーの水彩画
 
この美しい鳥の羽根の水彩素描はアルベルティーナ版画素描館に所蔵されています。これもルドルフが購入して、さらに、こういったルドルフが購入したデューラーの作品によって、宮廷画家たちがデューラーの強い影響を受けるに至るんですね。デューラー・ルネサンスと呼ばれるんですけれども、ハンス・ホフマンという画家がプラハの宮廷でデューラー風の作品をたくさん作り上げました。これは偽物を作って売ろうとしてたわけではなくて、皇帝の趣味に合う作品を作り出したわけです。しかしながら、後世になってADというこのデューラーのモノグラムが付けられて売られ、市場が混乱してしまうわけなんですけれども、当初はこのような嘘のサインを付けて売りさばこうとか、そういう目的ではなかったわけです。

イオとガニュメデス

 ルドルフのもう一つの特徴として官能的な主題の偏愛があります。例えばイタリアのコレッジョによる≪イオとガニュメデス≫という作品ですけれども、雲にまぎれてゼウスがやってきてイオと雲の中で交わろうとしています。対作品として作られたのがガニュメデス、少年が大きな鷲に連れ去られていくところです。ここでも後ろ姿ですけれど、エロティックな裸体像として描かれています。そういったものをルドルフは非常に好んで自分の宮廷に飾っていました。

パルミジャニーノ、シュプランヘル、ハンス・フォン・アーヘン

 さらにパルミジャニーノ。イタリア・マニエリスムの作家ですけれども、≪弓を研ぐアモール≫(スライド)つまりキューピットですね、キューピットが愛の矢を射るために弓が必要なわけで、その弓を自分でいま削っているところ。少年の裸体画が後ろ姿で描かれています。

 次はシュプランヘルという作家ですが、この作家はルドルフ宮廷で最も活躍した画家です。≪アドニスとヴィーナス≫の話ですが、かなりエロティックな交わりの場面であることがわかります。女性の裸体像を真珠の輝きのような技法で描くのが彼の最も得意とするところです。こういった物もすべてウィーンに移されて、現在も見ることができます。

 ハンス・フォン・アーヘン。先ほどのルドルフ二世の肖像画を描いた画家です。この画家も≪バテシバの水浴≫のような、宗教主題ではありながら女性が裸になって誰かに覗かれている場面 を描きました。本来は、ここでは二人の老人が若い女性の水浴場面を覗いているんです。自分の言うことを聞かないと犯すぞみたいなことを言ってバテシバを苦しめたわけですけれども、本作品では老人は描かれていません。しかし鑑賞者が彼女を覗いている、という構成になっています。皇帝ルドルフが、自分が覗いてるかのような仕組みを喜んだに違いありません。

アルチンボルド

 そしてルドルフと言えば、アルチンボルドを忘れてはいけません(スライド)。先ほどからずーっとルドルフやフェルディナントの話をしておりましたテーマと重なりますが、自然物・自然の脅威と宇宙論、これを一つの絵画に統合したのがアルチンボルドです。もちろんこうした作品のコンセプトは、ルドルフが宮廷に抱えていた学者たちのアドバイスによって作り上げられました。この《冬》という作品は木による騙し絵になっていて、鼻とか口、耳、人間の顔になってるのが分かりますね。レモン。これはだから自然物で構成されているんですが、これで一つの人間像である。こちらは魚介類。魚介類で作られた物、あるいは本で作られた物とか、自然物、人工物、そういった物で人間のからだを構成するという、まぁ宇宙論的な思想がこの絵画の中にありました。ルドルフのコレクションとか、ルドルフの思想を一つの作品で説明せよというなら、もうこのアルチン・ボルトに代表させることができるでしょう。

鑑識眼の高いレオポルド・ヴィルヘルム大公

 次に大公レオポルト・ヴィルヘルムに話を移しましょう。絵画のコレクションに力を注いだ、いわゆるわれわれが美術史美術館で慣れ親しんでいる多くの作品をコレクションしたのはネーデルラント総督のレオポルト・ヴィルヘルムです(スライド)。これはペーター・タイスという作家が1650年に描いた肖像画です。大公は、ジョルジョーネとかティツィアーノに代表される北イタリア、ベネチアの絵画を熱狂的に集めました。彼は皇帝フェルディナント二世の末子で1646年にネーデルラント総督になります。10年間ブリュッセルに総督として住むことによって、なんと1400点の絵画を集めました。

「画廊画」に表わされたコレクション

 レオポルド大公が集めた作品が「画廊画」として見ることができます(スライド)。これはレオポルドがブリュッセルに持っていた自分のギャラリーです。当時は確かにこのように所狭しと掛けられていたには違いないんですけど、現実の様子ではありません。こんなに絵の大きさをびっちりきれいに合わせてパズルみたいに掛けることはできません。ここに描かれているのは、彼が所有していた作品であることは間違いないんですけれども、宮廷画家のダーフィット・テニールスが「絵画目録」として発注されたものなのです。4点ほどの画廊画が現在ウィーンにあり、これは小さい方のバージョンなんですけれども、有名なティツィアーノの≪刺客≫をはっきりと確認することができます。ここにレオポルト大公がいて自分の画廊を視察してる様子となっています。

 残念ながらここに描かれている作品がすべて現存するわけではないんです。さまざまな理由で売却されたり、消失したりしているんですね。美術史的に重要な作品がここで多数見受けられることから、美術史的なそのドキュメンテーションとしても重要な作品になっています。

ラファエッロ《草原の聖母》

 さて、美術史美術館の至宝ともいうべきラファエッロの≪草原の聖母≫(スライド)を見てみましょう。当時も現在も、ラファエッロの作品を持つということはコレクターにとって最大のステータスであることは皆さんも御理解いただけると思います。ラファエッロは生前から一貫して評価の高い作家で、神話化しています。一流のコレクターならば、ラファエッロはどうしても持ってないとなりません。この作品は、もう晩年も晩年、レオポルト・ヴィルヘルムが死ぬ直前に入手できた作品です。ようやく死ぬ前に購入することができた。それだけ欲していたわけです。もちろんネーデルラント総督という地位を利用して、イタリアの作品だけではなくて、いわゆるネーデルランドの古絵画、初期ネーデルランド絵画と呼ばれるヤン・ファン・アイクとかロヒール・ファン・デル・ウエイデンなども精力的に蒐集しております。

作品は少ないが完成度高いフーホー・ファン・デル・フース

 いまお見せしてるのは(スライド)フーホー・ファン・デル・フースという、非常に長くて覚えにくい名前の作家の作品です。この小品こそが、美術史美術館の中では、個人的には一番素晴らしい作品だと思っているものです。非常に小型の二連祭壇画で、個人で礼拝するために作られました。きょうは一枚しかスライドをお見せしませんけれども、これはアダムとエバが楽園を追放される直前の、知恵の実をもぎ取る場面です。このフースというのは非常に作品が少ない。ですけどもヨーロッパでは非常にファンが多い作家です。なぜ作品が少ないかというと、悲しい話ですが、彼はヤン・ファン・アイクのように絵を描きたいと願っていました。ヤン・ファン・アイクの次の世代の作家なんですね。どうしてファン・アイクのように描けないのか。思い悩んで狂死してしまうのです。でも実はもうファン・アイクに近いほどの完成度も、まぁファン・アイクに優ってると言ってもいいぐらいの完成度なんですけれども。自分では達せないと悩んでいたわけです。この小さいながらも素晴らしい作品、これをヴィルヘルムが購入していて、すごい審美眼の持ち主だったことがこれからも証明されるでしょう。

ヨハネ祭壇画

 初期ネーデルラント絵画からは、ヘールトヘン・トート・シント・ヤンスを見ましょう。《ヨハネ祭壇画》は大型の作品です。ヘールトヘンのこの作品を購入したことが、大公レオポルドのコレクターとしての優秀さを証明してくれます。先ほど、ほんの少しでしたがデューラーの≪一万人の殉教≫というのを映しました。プラハの皇帝ルドルフが買った≪一万人の殉教≫がすでにハプスブルク家のコレクションにあったのです。デューラーはネーデルランドに遍歴したときにこの作品を見ていると推測できます。ヘールトヘンのこの作品の構図を利用してデューラーは制作したのです。もちろん大公レオポルドがそこまで理解していたかどうかは分かりませんけれども、おそらく直観的にこの作品の重要性とか素晴らしさを分かって購入したと思われます。そういった意味でもコレクターとして優れていると言えるでしょう。自分が持ってる作品をさらに広げていける力。偶然にしても、そういう能力を彼は持っていました。

 さて、レオポルト・ヴィルヘルムの作品購入の方法についてもう少しお話しますと、もちろん同時代の作家のルーベンスとかヨルダーンス、ヴァン・ダイクなどからは、直接そのアトリエに赴いてイーゼルに架かっている状態から購入してるんですね。いま描いてる途中の未完成作を見て、これを買いますよと、そういう買い方もしています。ただ今日は時間の都合上ルーベンスをお見せすることはできません。もちろん美術史美術館は、ルーベンスの素晴らしいコレクションを持っています。この画家のみに一部屋あてがわれています。そちらも十分堪能できると思います。

 1656年、レオポルト大公はネーデルランド総督を辞めて、コレクションすべてを持って馬でブリュッセルからウィーンに移りました。ウィーンの、現在もありますその王宮の一角にシュタールブルクと呼ばれる馬屋の二階に彼のコレクションを飾りました。現在そのシュタールブルクは美術史美術館の別館として近代美術館になっていますが、たぶんここに行かれた方は誰もいないんじゃないかと思うんですけれども、ほんとに小さいスペースです。1659年、ウィーンに戻って来てから三年後に、そのシュタールブルクの陳列と所蔵目録を刊行致しまして、517点のイタリア絵画、880点のドイツ絵画、そしてネーデルラントの絵画も合わせて1400点以上の絵画が蒐集されていたことが記録に残されています。

 ウィーンに行かれた方はスペイン式の乗馬学校へ行かれた方が多いと思います。その訓練所と呼ばれてる建物の隣につづく一角がシュタールブルクです。現在もその馬屋というか、厩舎として使われているんですけれども、二階部分は1721年より帝室画廊になったわけです。つまり馬屋の二階が帝室画廊としてオープンし、現在の美術史美術館の基礎になったと言えます。

  このレオポルト大公が亡くなってから、しばらくコレクションの拡張はありません。

レオポルド一世、マルガリータ王女との結婚

― ベラスケスのマルガリータ王女の肖像画 ―

 大公レオポルトの甥っ子にあたるレオポルト一世の時代にはスペインの宮廷画家ベラスケスの作品が入ります。無類の音楽好きとして知られていたレオポルト一世でしたが、かの有名な肖像画に表わされたマルガリータ・テレーサと結婚します。マルガリータ王女はスペインのハプスブルク家の王女です。ハプスブルク家は結婚することでどんどん版図を広げていったわけです。スペインも運良くカール五世のときに、スペイン王家に跡継ぎがいなかったため、婿となりスペイン王家を手に入れました。その後、両ハプスブルクは財産の散逸を防ぐために近親結婚していくわけです。

 そこでレオポルト一世はこのマルガリータと結婚することが、彼女が子どもの頃から決められていました。まず3歳のときの肖像画(スライド)をご覧下さい。その次に描かれるのは五歳のときです。つまり、これは今で言うお見合い写真なんですね。ちょっと可哀相な話でもありますけど、ベラスケスという素晴らしい宮廷画家が描いたこの肖像画をウィーンに送って、今こういうふうに成長していますという成長ぶりを見せたわけです。不幸なことにこのマルガリータは結婚前に亡くなってしまいます。三枚目の肖像画が最後で、まだ17歳の時でした。決して嫁ぐことのなかった幻の花嫁の姿です。

トルコ戦争でウイーンの危機、勝利の英雄オイゲン公

 このレオポルト一世、ヨーゼフ一世、カール六世と三代の皇帝が、バロック皇帝と呼ばれ、ウィーンの外観を調えて行きます。しかし、バロック文化が非常に栄えたこの時代には、ウィーンは実はトルコ戦争の危機にありました。トルコはウィーンを包囲し、何回か陥落してしまいますが、サヴォイ公のオイゲンというトルコ戦争に勝利する英雄が出てウィーンは救われます。

オイゲン公もまた優れたコレクター

― その城館がやがてベルヴェデーレ美術館となる ―

 トルコ戦争の英雄オイゲン公の夏の離宮というのがベルヴェデーレ宮殿です(スライド)。ウィーンの街はずれにあるこの宮殿がとてつもなく大きいんですね。ウィーンでは王宮についで大きな建物となっています。この大きさの離宮を一貴族でしかなかったサヴォイ公のオイゲンが所有できるというのはそれだけオイゲン公に力があったことを証明するでしょう。実は王宮の真ん前にたつ騎馬像もオイゲン公なんですね。王宮の前に騎馬像があると、当然皇帝かと思うんですけど、オイゲン公はウィーンの救世主という位置付けなのです。

 このオイゲン公も美術作品を集めるのが非常に好きでした。この時代にレオポルト一世、ヨーゼフ一世、カール六世の三皇帝がプラハのコレクション、インスブルックのコレクションをすべてをウィーンに集結させたのも、オイゲン公が持っていたコレクションに刺激されたと伝えられています。このベルヴェデーレ宮殿というのは、その後ハプスブルク家の所有に移り、シュタールブルクにあった帝室ギャラリーが移ったりと、いろいろな変遷をみることとなります。

 マリア・テレジアの息子のヨーゼフ二世と弟のペーター・レオポルトです(スライド)。弟はトスカーナ大公でした。いまこの2人はローマで会って、なにか会議をしてるところなんです。後ろにバチカンとサンタンジェロ城が見えます。この作品は、ローマで会議を開く兄弟を主題とした二重肖像画になっています。

 さて、馬屋のシュタールブルクの帝室画廊が手狭になると、マリア・テレジアはベルヴェデーレを購入し、コレクションを移すように、かのヨーゼフ二世に命令します。ヨーゼフ二世は1776年から78年の2年間をかけてゆっくりとベルヴェデーレに作品を移しました。そこで遂に一般公開が始まるのです。

 現在この宮殿では近代美術館が上宮にあります。なだらかな坂をあがるとある宮殿が近代美術館で、クリムトをはじめとするオーストリアの近代美術をここで見ることができます。下宮はというと、中世バロック美術館となっていて、中世美術、ゴシック、バロックの教会芸術を見ることができます。

一般公開への道

 このヨーゼフ二世は非常に進んだ人で、まず2カ国語で所蔵目録を出します。フランス語とドイツ語です。当時国際語は英語ではなくフランス語でした。展示室もこの二カ国語で表示しました。

 外国のお客さんといっても基本的に貴族とか、王族関係だったわけですが、画廊は週3回一般公開されていました。条件として記録されているのは、面白いんですけれども「靴を整えて入場を許可する。ただし雨の日と子どもは除く。入場料は12グルデン。皇室にあるシャッツカンマーを見たい人は25グルテン」と記載されています。このシャッツカンマーというのは宝物庫のことです。今でも王宮にはシャッツカンマーという宝物庫があり、歴代の宝物を鑑賞することができます。靴を整えた上で、というのは土などを払って、それなりの身なりをした人が入れるという意味合いなのでしょう。これがヨーロッパで初めて実施された一般公開でした。その後ドレスデンなども一般公開に踏み切っていきます。

美術史美術館建設、帝室美術館として開館

― フランツ・ヨーゼフ一世の英断 ―

 リンクと呼ばれている城壁の跡に作られた環状道路に沿って美術史美術館(スライド)が建てられたのは、皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の時代です。帝室美術館が開館するのは1891年10月17日のことです。美術館の入口のホールでヨーゼフ一世による立派な開館式が行われました(スライド)。フランツ・ヨーゼフ一世が1857年、ウィーンの城壁を取り壊すことを決意して、リンクシュトラーセが建設され、ウィーンの姿が一変します。その後30年間にわたって大学、ブルク劇場などの文化施設をゼンパーやハーゼナウアーといった当代随一の建築家に造らせていきます。

 美術館の向かいに建つ双子の建物は自然史博物館です。両館のあいだにマリア・テレジアの肖像がありまして、王宮の方角を向いています。王宮とこの美術館のあいだにリンクシュトラーセが通ってるんですね。


アルベルティーナ版画素描館の再生

 最後にあと5分位お時間を頂いて、アルベルティーナ版画素描館のお話をしたいと思います。どうしてアルベルティーナの話をしたいかと言いますと、今年の3月14日にアルベルティーナ版画素描館がリニューアル・オープンしたからです。

 でもこれは長い長い、ほんとに信じられないぐらい、おそらく少なくとも20年は閉まっていたために、ここにいるどなたもアルベルティーナに入ったことはないのではないでしょうか。しかし、一応細々とですが、研究者向けには閲覧が許可されていましたし、特別展も小規模ながら開催しておりました。ただし、常に足場が組んであって20年間ぜんぜん進まないでいたわけですから、多数の観客を迎えるような状態ではなかったのです。そのアルベルティーナはもともと、マリア・テレジアの愛娘のマリア・クリスティーナの婿、アルベルト・ザクセン=テッシェン公のコレクションに基づいています。ドイツから来たお婿さんのコレクションでした。このお婿さんが非常に素描と版画を集めるのが大好きで、あまりにこのコレクションが素晴らしいので、ここにありますその宮殿の一部をアルベルト公に提供するわけです。

 これがリニューアルしたアルベルティーナの入口です(スライド)。ここに現在4万5千点の水彩と素描、版画に至っては「ないものはない」と言われているほどです。まさに、名実ともに世界一の版画素描コレクションなのです。

 現在開催中なのがアルブレヒト・デューラー展。ここにデューラーの≪兎≫という素描があります(スライド)。1502年の水彩画です。この世界的名作をはじめ、アルベルティーナが所有するデューラーは全部出ています。これが2003年11月30日までアルベルティーナでご覧頂けます。この規模の展覧会はもうおそらく、今後20〜30年はできないでしょう。素描展というのは、作品の保存上の理由から簡単にできるものじゃありませんので、これは空前絶後の展覧会と言わなければなりません。

 ところで、この新生アルベルティーナの賛否についてお話したいと思います。先ほども申し上げました通り、工事中の間も研究者のための閲覧は行われていました。閲覧室では見たい作品を持って来てくれます。つまり、額縁に入っていない「生」の状態で見られるんですけれども、閲覧室に入る前に希望作品を申請しなければならないので、なかなか一般の観光客が入るのは難しかったです。しかも料金は無料という非常に贅沢なシステムなんですが、この閲覧室がリニューアル・オープンしたらなくなってしまったのです。アルベルティーナは、将来再開すると言っていますが、いつになるかは未定の状態です。

 すると研究者であっても、素描を見たいときはアルベルティーナに働く知り合いを通して(知り合いがいれば幸運ですが)見にいくか、手紙で事前申請しなくてはならず、不便になりました。そして、ウィーン大学の学生たちが作品研究をするときに、実物を見にいけなくなったんですね。研究のための閲覧室は、展示場になってしまったのです。この不幸は実は、オーストリアの独立行政法人のひとつの「あり方」なんですね。アルベルティーナは今まで無料で作品を見せていたんだけど、お金を稼がなくてはならない。となると特別展をしなければならない、という論理です。日本の博物館・美術館も独立行政法人になりましたが、ウィーンと同じ道をとるのか、それとも違う道を探っていくのか、今、非常に難しい状況におかれています。

三つの美術館が入った美術館地区

 最後に、新しく出来た美術館群「ムゼウムス・クヴァルティエ」を御紹介します(スライド)。ウィーンという街が観光都市として生きていく決心をした一つの表れなんですけれども、ここも、長期にわたって工事中だったというのを覚えてらっしゃるかもしれないんですけれども、ここは宮廷の馬屋なんですね。ウィーンは馬屋が多かったわけです。ようやくここも去年オープンしました。ムゼウムス・クヴァルティエ、ちょっと日本語でどう訳していいのか分かりませんが、英語で言うとミュージアム・クォーターということです。つまり美術館地区ですね。ここには三つの美術館が入っています。

 まずこの建物に入りますと、中庭に出てすぐ右手に墓石のような、なんかちょっと宇宙的な石の塊みたいに見えるんですが、近現代美術館が登場します(スライド)。これまでは、ウィーン南駅からずっと外れたところに近現代美術館があったんですけど、お客さんがぜんぜん来なかったんですね、町から遠いので。それがこちらに移って来ました。とりわけ現代美術、非常に素晴らしいルートヴィヒ・コレクションという、現代美術のコレクターのルートヴィヒさんという人がいるんですが、その人が寄贈した素晴らしいコレクションが入っています。これは4フロアぐらいありますので、エレベーターで最上階に上がって、下りて見ていくのがいいと思いますが、これもかなり時間が掛かります。この建物の反対側にレオポルト美術館があります(スライド)。このレオポルト・コレクションというのはおそらく日本でクリムトとかシーレの展覧会を昔伊勢丹でやったのをご覧になったことある方がいらっしゃるかもしれませんが、エゴン・シーレのコレクションで世界的に有名なレオポルトさん、現在も元気に作品蒐集に励んでいます。目薬の開発で巨万の富を得たとは言え、借金して作品を買いまくってる状態です。このままだと結局差し押さえられるのでウィーン市に寄贈することにしたということです。

 この建物、先ほどの現代美術館に比べると小さく見えますが、こちらも4フロアぐらいありまして、ワンフロア全部シーレとクリムト。その他には19世紀のオーストリアの作家たちとか、あとウィーン工房、モーザーとかホフマンといったオーストリアを代表する非常に素晴らしい家具類、ワンフロア全部家具類の展示になっています。他にはアフリカ彫刻コレクション、地下にはクリムトとかシーレの素描が展示されています。これもすごい量で、このムゼウムス・クヴァルティエだけでもかなりの時間を必要とします。

 ちょうど時間もあと5分になりましたので、これで本日の「ウィーンと美術館」という話を終わらせて頂きたいと思います。ご静聴ありがとうございます。

― 了 ―


講師略歴

学歴
東京芸術大学大学院美術研究科西洋美術史博士課程単位修得中退
1989〜90年 ロータリー財団奨学金でベルリン自由大学美術史学科留学
帰国後、東京芸術大学芸術学科西洋美術史研究室助手を経て1993年より国立西洋美術館研究員
1996〜98年 文部省在外研修によりハンブルク大学美術史研究所ヴァールブルク・ハウ ス客員研究員

展覧会歴
1995年 「宗教改革時代のドイツ木版画」展
1999年 「記憶された身体−アビ・ヴァールブルクのイメージの宝庫」展
2003年 「ドイツ・ロマン主義の風景素描」展
2005年 「ドレスデン国立美術館展−世界の鏡(仮称)−」(準備中)