「アテネ/パルテノンと考古学博物館」
講師 広島大学助教授 長田 年弘 平成15年9月16日 於:如水会館 【無断転記転載を禁ず】 社団法人 如 水 会 責任編集
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◆内容目次
美術研究の手がかり
ご紹介頂きました広島大学の長田です。きょうは「都市アテネとアテネ国立考古学博物館」というテーマでお話させて頂きます。たまたま来年はアテネでオリンピックが行われます。
もちろんアテネにも、中世のキリスト教の時代があり、古代だけでありませんが、多くの遺跡が語るように、古代ギリシアの時代がギリシアにとっては非常に大切だと思うわけです。アガメムノンという名は、神話に出てくるミュケナイの王様の名前ですし、またサッフォーと言う名の詩人も古代にいた人ですが、現在もアガメムノンという名の人も、サッフォーという名の人もいます。現に両方とも私の知人の中にいます。彼らは古代の名前を現在でも受け継いでいて、たとえば古代のスパルタの軍隊が非常に強かったことをとても誇りにしているのですね。古代ギリシアの世界が、彼らにとって、更にヨーロッパ人にとっても、思考のルーツになっているのはたしかだと思います。
私はオーストリアに留学していたんですけど、留学していたときに先生が一言仰ったことで、忘れ難い言葉があります。先史時代の有名な壁画で、ボクシングをしている少年たちのフレスコ画がありまして、美術史の授業中にそれをスライドで映写しながら専門的なことを話しておられたときに、先生がポロッと一言漏らしたのですが、何と言ったかというと、ボクシングをする少年たちを描いた絵を指して、ここには自由にボクシングをしている少年たちが描かれていて、こういう絵はわれわれヨーロッパ人の祖先が描いた絵なんだというんですね。彼が言いたかったのは、これらの絵は、例えばペルシアの作品と違う。例えば、ペルシアの作品は、ほとんどの場合大王がいて、その前に臣下が跪いてるというような封建的な主題が多いのです。で、そういう絵ではなくて、こういうふうに自由にスポーツをしている人たちが描かれていて、これがわれわれの精神的なルーツなんだということを言ったんですね。
学生たちは、私を除いて全員オーストリア人で、彼らにとっては、それはわかりきった、当たり前のことらしくて、私はただ一人、ああ、この人たちは、こういうふうに感じているんだなと、興味深く認識したものでした。またこうした印象を持つことは、その後も何回か経験しました。
それはともかくとして、古代ギリシアの美術の話なのですが、私どもの研究対象は古代ギリシアの美術史で、それは当然歴史的なものですから、その当時の人たちがどんなふうに物事を感じたり、考えたりしていたかを復元してみたい訳ですね。実際にどういう気持ちでいたのか知りたいのです。今日はパルテノン神殿が出てきますけれども、それは女神アテネに捧げられた神殿なのですが、これを始めとして古代ギリシア美術の研究で難しいのは、その文化の非連続性にあります。
現在私たちの周りには数に多少があるとはいえ、キリスト教信者、仏教信者などが現実にいらっしゃるから、中世の時代まである程度連続して遡ることができるのです。想定し復元することができるけれども、古代になってしまうと、それが難しいわけです。女神アフロディテのために羊を捧げるという人は現在はいないのです。女神アテネのために何をするかというと、羊を祭壇に連れていって首を切って血を流し、その肉をみんなで食べるのです。
そういう儀式が神々のためのお供えだったのです。ポセイドンとかゼウスとか。そういう人たちの、このような宗教文化が今日お見せするような美術を造ったんですけども、そこには、いくら考えたり文献を読んだり、ギリシア悲劇なんかを読んでも、やはりどこかにまるっきり見当がつかないような感じが残るのですが...。かといって無理だと諦めてても仕方ないわけで、できるだけ接近することが出来ればと思います。
今日は、前半でパルテノン神殿のフリーズ浮彫を、後半でお墓の浮彫のお話しようと思います。どちらについても、今お話したように、当時の人たちがどういうふうに感じ、考えていたかに少しでも迫ることができればと思います。
さて、古代ギリシアの世界というのは、現在とは違って奴隷制だったのですね。奴隷については、その人数とか、どのような生活をしていたかとか、不明な点が多くて難しいのですが、とにかく奴隷がいた。また、アテネとかスパルタとかに都市国家が分立していたギリシアの場合、それぞれがかなり激しく対立していて、戦闘状態が起こったりするのですね。多くの場合は農業が主体になっているので、その縄張り争いのような非常に小さな小競り合いから、もっと国家的な戦争まで幅はいろいろあるのですが、とにかくそういう小競り合いが絶えなかった社会に暮らしていたわけです。
今日お話する時代はほとんど古典時代で、古典時代もその様相に変わりはないのです。そこでは、王様がいないですから、デモクラシー、一応民主主義の時代で、市民と呼ばれる人たちは重装歩兵の鎧を自弁します。それは国家から支給されるのではなくて、言い方を換えると、それを自弁することができる人間が市民たり得るのです。戦争となれば、銅製の大きな丸い楯を持って、それから脛当てとかヘルメット等、完全に装着して、軍隊の中に自分たちのいるパートがあるわけです。そのパートを受け持って、それでもって国を守るために戦う人間というのがその都市国家の市民たるべき人間なのです。それが出来なければ、必要条件を満たさないという、かなり厳しい社会なわけです。われわれが考えるよりは多数の奴隷がいて、奴隷の反乱を押さえなければならなくて、且つ隣国との戦闘状態というのがかなり頻繁にあったような世界に生きていたのです。
そのデモクラシーはわれわれの民主主義とは相当に様相が違っていて、自らその民主主義を、そして国を守っていくのですね。それは古代ギリシア人にとっては、自分たちの国あるいは家族を守るということだったんでしょう。しかし、それは青年男子に対して、また女性に対しても、非常に厳しいストレスを与えていたと思います。
普通に言う意味での男尊女卑の世界ですから、女性には市民権は全然与えられず、ちょうど日本の江戸時代のようなことを思い浮かべて頂ければいいのですが。女性には女性のすべきことがあるのです。いわゆる婦徳があるわけです。親兄弟が、夫が戦場に行かなければならない事態が頻繁に起こっている社会だということを頭の隅に置いておかないと、古代ギリシア人が実際何を感じてどういうふうに考えていたかに近づくことは難しいと思うわけです。
いま申し上げたように、前半はパルテノン神殿についてお話しますが、先ず時代の背景を簡単にお話しておきます。パルテノン神殿は、アテネのアクロポリスに建っているのですが、その当時の様子は、現在の様子とはかなり違っていました。お配りした2番目の資料が古代の様子を復元した略図で、紀元前5世紀のアクロポリスの様子です。
アクロポリスというのは丘という意味ですが、アテネならアテネのポリスの主要な建築物、公共建築物とかが集まっている場所です。そのアテネのアクロポリスの丘に建っている主要な建築物ですね。右端の上の方に見えてるのがパルテノン神殿なのですが、これは紀元前5世紀の真ん中ぐらいから建て始められたもので、丘全体がそうです。
紀元前5世紀の前半は古代ギリシアの歴史にとって非常に大きなエポックになった時代です。大国ペルシアがギリシアに侵攻しようとしたという大事件が発生しました。古代世界にとっては、それほどの大戦争が起こるというのは稀でしたが、それが起こったのです。蒙古が日本に攻めてきたような状況を思い浮かべてください。あの巨大な帝国が、何倍もの軍勢を駆ってやって来たんですが、元寇の場合と似て、神風が吹いてペルシアの軍勢が大損害を受けたという事情もありましたが、アテネから少し離れたマラトンというところで、アテネ人たちが、数倍のペルシア軍に相対して戦うわけてす。先ほど言ったような重装歩兵の市民たちが出掛けていって、それで戦争するわけです。ファランクスというスクラムを組む特殊な戦法でもって、歩兵だけなのですが、その歩兵が数倍のペルシア軍をやっつけるのに成功するわけです。
マラトンから首都アテネまでの距離は42.195キロです。で、戦争が終わり、勝ったということを知らせる使者がそこから走ってきたのが、マラソンの起源になったというのですが、その伝説自体は古代ギリシアからあったものだそうです。伝説かどうかはとにかく、そういう話が伝わっていてマラソン競技の始まりになったわけです。ともあれペルシアがどうして攻めてきたかははっきりしないんですけど、とにかくペルシア軍を退けることに成功したのです。
ギリシアはいま言ったようにそれぞれの都市国家が並び立っているような状況だったんですが、ペルシアが攻めてきたことによってギリシア人たちは一応連合軍を作って同胞意識が高まり、ペルシア軍を撃退することに成功するわけです。ペルシア軍を撃退することに成功したのに非常に大きな力があったのは、海軍を持っていたアテネだったんです。アテネはそれ以前はそれほど大きな国ではなかったんですが、ペルシア軍を退けたときにたまたまアテネの近郊で鉱山が発見されたこともあって、(大きな鉱山が発見されるというのは、古代ギリシアの小さな経済規模のなかでは、すごく大きな出来事です)アテネはそれを利用して海軍の軍備を増強し、ペルシア戦争を機にギリシア世界のリーダーの地位に上り詰めるわけです。リーダーというのは名ばかりで、実際何をしていたかというと、貢納金を納めさせるようにするわけです。ただし、他のギリシア人ポリスを属国化させて、そこから経済的に利益を吸い上げて、その資金を使ってこれだけの公共建築物を建てた、と断言することは難しいんです。古代ギリシアの文献などで絶対と断言できるような証拠は非常に少ないものですから、今言ったような筋道の事が本当に起こったかどうかというのは断言できません。大まかにいって、多くの都市国家を従えてアテネという国が帝国化していったのではないか。帝国化していって、その経済的な基礎でもって、こういう華々しい古典時代の建築群を造り上げたんじゃないかと推測されています。
現在は丘の入口の部分がジグザグの階段になってアクロポリスの入口になっていて、当時はこんなような斜面の通路だったのではないかと考えられています。ペルシア戦争の後、紀元前5世紀の後半ですが、パルテノン神殿を含めて、玄関に当たる建物とか、エレクテイオンとか、幾つかの建物、さらにアテナニケの神殿とか、幾つかのものが改修されたり、新築されたりしたことがことがわかっています。
同時代に輩出した人間が誰かというと、演劇作家でソフォクレスが出てきたり、哲学者でソクラテス、プラトンが出てくるわけで、パルテノン神殿が建てられた、いわゆる古典時代は、アテネあるいは古代ギリシアの歴史上の黄金時代と言っていいのかもしれません。古典文化の最盛期に当たる時代になるわけです。紀元前5世紀から紀元前4世紀ですね。
今日はパルテノン神殿のすべての装飾についてお話をするわけではなく、フリーズ浮彫を中心にお話をしようと思います。このフリーズ浮彫、フリーズというのは細長いバンド状の画面を指す言葉です。実際の映像で見るとこういうような感じですね。現在は神殿には取り付けられてなくて、美術館に納められています。
フリーズ浮彫がどの部分にされているかを正確にお話しておこうと思います。これがパルテノン神殿の正面玄関ですね(◆スライド1)。(「◆スライド」などの文字をクリックすると別のウィンドウが開き、画像が表示されます)。その前に2列の柱が立っています。前から2番目、奥の柱の上の部分にあります。ギリシアの神殿というのは必ず東側が正面玄関になっています。これに対して、キリスト教の教会は西側が正面玄関です。レリーフは、2列目の柱の上でした。こういうふうに取り巻くかたちで外側、建築の内壁の上の部分に取付けられていました。パルテノン神殿には他にもあと2種類浮彫が取り付けられていて、それぞれ優れた作品として有名です。フリーズ浮彫は古典時代、あるいはギリシア美術の代表作として知られているものです。
これは19世紀のイギリスの画家が、古代ギリシアではこんな様子だったろうと描いた歴史画で、櫓が組んであってその上に人が立っていて、パルテノン神殿が出来上がったときに芸術総監督をしていたフェイディアスが市民たちにそれを公開している様子です。もちろん実際にこうだったかどうかはわからないんですが。
ただこれをお見せする意味の一つは、フリーズの部分をご覧頂きたいのですが、人物が赤茶色の肌で、それから背景が青っぽい色になっています。こういうふうに古代ギリシアの神殿とか彫刻とかは、全部着色してあったわけです。真っ白い大理石で建っていたわけではなくて、神殿も、彫刻もです。
男性像の場合は肌が今いったように茶褐色で、女性像の場合にはクリーム色で色を付けてあるわけです。目とかも。現在発見されるもので着色の跡が残っているのは、目が黒く薄く残っているものがありますし、髪の毛がブロンドであることもあるし、黒っぽい色の場合もあるし、さまざまなものがあるのですが、とにかく全部が完全に着色されていたわけです。
ギリシアの神殿というと列柱が非常に目立っていますけれど、列柱の部分は白のままです。列柱の部分は色が塗られていないんですが、他の部分はべたべたの原色が塗られています。多くの場合、非常に目立つ赤と青です。
紀元前5世紀に建てられた神殿なのですが、パルテノン神殿は、乙女の神殿という意味です。パルテノン神殿はいわばあだ名であって、本来の名前は女神アテナの神殿です。女神アテナの立像がこの部分に建っていたのです。要するに本尊ですね。女神アテナは戦闘の女神なので、古代ギリシアで戦争が頻繁に起こってたものですから、女神アテナ信仰が非常に盛んだったのです。アテナはヘルメットをかぶって、槍を持った姿でここに立っていました。高さ12メートル位で肌の部分が象牙で出来ていて、衣裳の部分に金箔を張りつけた黄金象牙像だったことが文献の上でわかっています。基本的にはそういうふうに都市の守護神という性格が非常に強いのですが、たぶん人々はその神殿に入ってきて、プライベートなお祈りを捧げていたんじゃないかと思います。多くの場合、国が大きな戦争をするとか、あるいは、どこかに植民都市を築いて移住するとか、国家的な規模でなにか行動するようなときに、お祈りを捧げたり占いをしたりする対象だったのです。その浮彫にもそういう女神に関わりのあるような表現がされていたのです。
さて、元のフリーズ浮彫に戻ることにします。これは資料の1枚目のところに「パルテノン・フリーズ配列図」と書いてあり、ここには騎馬隊の行列が描かれています(◆スライド2)。高さが1.6メートルで163メートルの長さにわたっていますが、あとで説明します。現在はいろんなところに分散してるのですが、ほとんどはロンドンの大英博物館の所蔵になっています。イギリス人が19世紀にロンドンに持ち去ってしまったのです。1997年に、日本の研究者がグループを作って調査をさせてもらったことがあって、そのときの写真ですが、大英博物館が開館する前の1〜2時間を使わせてもらって調査したときの写真です。上からビデオで写真を撮っているのですが、こんなふうにして、色々と細かい事がわかって面白かったです。
この行列は、アテネで女神アテナのために毎年行われるお祭りのうち、4年に1度のパナテナイア大祭のときに市民たちが行列を作った、その様子を表しているというのが一般的な説で、現在でも100人の古典考古学者に聞けば、90人位はそういう答えをするだろうと思います。つまり、定説ということです。
フリーズ浮彫は見上げる軒の高さにあるのですが、その四面を取り囲むように掛かっていました。フリーズに表された行列は、方向でいえば西南の隅が出発点です。一つの行列は、西南から出発して、西面、北面と進んでいって、東面中央に到達します。もう一つの行列は、同じ西南隅から始まって、南面をぬけて、東面の中央に到達するように配されています。二つの進行方向で成り立っているのですが、行列の内容自体はほとんど同じです。
行列が東面の中央で出会っているというのは、ここに玄関があって、いちばん大切な玄関にくる部分に大切な場面が描かれているわけです。ここら辺は行列が描かれているだけで、大切な場面は東面になるのであとでお見せしながらお話します。このスライドには、英語でライダーズと書いてありますが、ライターズというのは騎士たちですよね。馬に乗ってる青年たちです。それからチャリオスと書いてあるのは戦車です。4頭立ての馬と二輪の戦車が描かれています。それからエルターズは老人たちというような意味です。それから音楽家、竪琴を持ったり笛を吹いたりしている人がいます。さらに物を持ってる人たち。それから犠牲に捧げる羊とか牛とかが描かれていて、あとは女性たちの場面で、ここは神々も入り混じっているので、あとで説明することにします。大まかにいって、左右対称ではないんですが、西南隅から始まって東側へ向かって行列が流れているとお考えください。先ほど言いましたように現在は大英博物館に所蔵されていますが、やはり163メートルなので、全体として見ると本当に壮観です。デュビンギャラリーという特別な部屋がつくられていて、そこに展覧されています。
このパルテノン・フリーズは面白い点がいろいろあります。フリーズと呼ばれる細長いバンド状の画面は、日本の絵巻物を思い浮かべて頂くとわかりやすいのですが、時間が展開していく様子が描かれているのが非常に面白い。それから、うまいデザインの方法だと思われる点があります。行列が始まっているこの西側の部分とか、この南北の部分では、まだ行列の準備の様子が描かれています。それが行列が進んでいくに従ってスピードがアップしていって、そのあとでまた行列の様子になっている。最後はその行列の行き着く先で儀式が行われているというふうに、行列を組んで、人々が移動していく、行列が進んでいく様子が描かれているのを面白い点として挙げることができます。
4年に1度のパナテナイアの大祭のときに人々は、アテネの城壁のディピュロンという門の外で早朝に行列の準備をして、この祭りのための大きな道路をパルテノン神殿まで、行列をつくってこういうふうに登って行ったのです。これが現在の道です。ここはもう遺跡になっています。こういうふうにかなり急カーブして曲がって、こっちへ上がっていくわけです。そういう行列をした昔の跡が現在でも少し残っています。
先ほど申し上げたように、絵巻物風に、準備をしている様子や、まだ出発を待つ頃の様子が描かれている部分があります。行列が始まりかかっているあたりが、ちょうど建物の平面図だとすると、今いったように西面の辺りはまだ準備している様子が描かれてるわけですね。まだ馬に乗ってない様子が描かれてるのですが、これもそうですね。準備の様子が描かれているのですが、少しずつ馬に乗る人がいたり、馬に乗って動きはじめている人もいます。まだサンダルのひもを結んでいる人が描かれていたり。こういうふうに、なんというか、くつろいだ感じで描かれているのが古代ギリシア美術の美点かもしれません。
これはちょっと写真ではわかりにくいかも知れませんが、この1枚の浮彫のパネルのくる場所というのが、西面のちょうど真ん中部分ですね。真ん中はやはり大切な箇所でして、浮彫の質も非常に優れていることで知られています。163メートルもありますので、彫刻家によってやはり上手、下手があり、大切な場面にはやはりうまい彫刻家が当てられたらしくて、明らかに質が高くなっています。これはある程度行列が進んで来て、裸の青年が後ろを振り返って片手を上げたりしてる様子なのですが(◆スライド3)、これを彫った彫刻家と、こちらの変化の少ない作品の彫刻家では、その技量に差が認められます。
全体に言えるのですが、宗教的な内容の祭りだからか、青年たちが真面目そうな顔つきですね。西面をこういうふうに見てきて、今度は北面の行列部分に入っていくんですが、ここが角の部分ですね。この人物像、裸体で顔をこちら側に向けていて、腕をこういうふうに上げていて、頭のところに手がくっつくような感じになっていますが、少し前に見た人物像と、胸の辺りの筋肉の描写、顔の頬っぺたがすごく大きい感じとか、顔の角度とか腕がこうなっているとか、裸体の胸のつくりとか、おなかにすごくしわが寄ってるような様子が非常に似ているのですね。で、あまりにも類似点が多いので、おそらくこれを作った彫刻家と、ここら辺にあった先ほどの彫刻家は同じ人だろうということは推測がつくわけです。
当然ながら全部の場合、こんなにはっきりと彫り手が推定できる訳ではなく、こういうふうに明らかに非常にうまくて、作品に特徴を残す彫刻家の場合には、ある程度識別できるわけです。それに比べると後ろの方に顔だけ見えているこういう人物は、ぎごちない感じがするのですね。頭だけひょこっと出ていて遠近感もあまり感じられません。おそらく偉いマスターの弟子かなにか、そういう彫刻家じゃないかと思われます。
細かく見ていくといろんなことがあるのですが、ここら辺も北面の浮彫なのですが(◆スライド4)、浮彫の質としては本当に素晴らしいと思います。バリエーションがありますね。ヘルメットをかぶっていたり、革の帽子をかぶっていたり。これは裸体の人ですね。指揮官でしょうかね。裸になって目立っています。そういう人物はやっぱり手前にいますね。というわけで、ある程度のグルーピングがあるんだろうということも推測されています。こういう背中の筋肉の描写は、浮彫の厚さが僅か5センチ位ですから、遠近感を出すのはすごく難しいでしょう。騎馬隊の様子をご覧ください。騎馬隊が続いていくのですが、今まで見たところと反対に、これは右側に向かっていますね。先ほどは北面のレリーフを見ていましたが、今は南面に配された浮き彫りを見ていると言うことです。言い方を換えると、向かって右側に行列が進んでる場合には南面に配されていた浮彫だし、向かって左側に向かってる行列として表されてる場合には、北面に配された浮彫だということがわかるわけです。
大学の講義なんかでは、ここら辺にくると受講者に質問を出して、もしこれが売りに出されていて、いずれも1万円だといったら君はどっちを買うかと訊くのですが、皆さんはどちらでしょうか。
名指しでお尋ねするのはちょっと憚られますから当てませんけれども、どちらというふうにお感じでしょうかね。私自身は北面の作品なのですが、大学で質問した時には、それほどでもなかったので、ちょっと意外に思いました。私は北面(◆スライド5)のほうが表現力が非常に豊かで、馬が首を引いていたり、前を見ていたり、俯いてる人物がいたり、裸の人物がいたり、表現のバリエーションが非常に豊かで、こういうふうに足を踏ん張ってる馬がいたりして、優れているように思います。それに対して南面の浮彫は、馬が全部単調に並んでいて、人物も真っ直ぐ立ったままですね。これも同じなのですが、馬の表現が割合単調で、人物がこういうふうに顔を出していたりというように、南の方がやや単調に感じられます。率直に言ってしまえば、質もそれほど高くないと言われているのですが。
というのは、アクロポリス全体のパルテノン神殿の建ってる位置で、南側というのはあまりスペースがないんです。あとで地図をご覧になればおわかり頂けるのですが。南側には立って見上げるスペースがあまりなく、一方北面は大通りになっているのですね。人の来るところになってるので、それで北面の方が質の高い浮彫が配されているのではと推測されています。
先ほどお話した97年頃の調査のときに、ビデオで撮ったりしてると、面白い発見もありました。先ほどの裸体の青年は、浮彫の配された位置の高さが10メートルから12メートル位あるのですから、下からはぜったいに見えないんですけど、馬のタテガミをちょんまげのように結っており、タテガミの上にこの人の指が四本彫ってあったりして、面白いなと思ったものです。作った動機として、神々に捧げる意味から、人目に触れないところも非常に丁寧に作ってあります。このパルテノン神殿が作られた時代ぐらいまでは、人々は本当にアテナとか女神、ポセイドンとかアフロディテとかを信じていたのではないかと一般的にも言われています。
騎馬隊のあとは、戦車が進んでいる様子が描かれています。行列の一部ではないかと考えられています。これも馬が疾走してる様子は非常にうまいと思います。
キリスト教とはどんな宗教かと聞かれれば、漠然と私たちが思い浮かべるのは、神父さんがいて説教して人々が聞いて、そしてミサなど儀式を受けてというようなことです。教会があってね。
では、ギリシアのポセイドンとかゼウスとか、女神アテナという宗教の本質は何だったのか。本質というか、中心になってるような行動は何だったのかといえば、それはたぶん犠牲を捧げる行為ですね。牛とか豚とか羊とかを犠牲として捧げる。あるいはお酒を神々に捧げるという行為なのですが、それが中心になっていたわけです。
牛を祭壇に連れて行き、然るべき儀式の後に首を切り落としてその血を流して、肉は人間が食べるわけです。人類学的に解釈すれば、神話学者や宗教学者が考えているのは、そうやって人々が一緒に食事をすることが非常に大切だったのだろうということです。あるいは一緒に食事をするだけじゃなくて、一緒に動物を殺すという行動に意味があるという説もあります。動物の生命を奪うということ自体が、人間にとってためらいを起こさせるものだから、それを浄化するためにそういう儀式を行っていたのではないだろうか。動物の命を奪ってしまう罪悪感を取り除くために、言い方を換えると、神々の前でそれを演ずることによって、ためらいを取り除くことが意味があったのではないかと言われています。動物の犠牲の儀式というのは非常に大切だったわけです。
連れていって屠ったりの儀式を行うんですが、そのための牛とか羊とかが描かれているということになります。あとは、儀式に使う水を運んでいる。これもちょっと俯いてるように立ってる人物像が描かれてるわけです。保存状態も非常に良好です。
さて、それで東面に移ります。ずーっと行列が進んできて今度は東面ですが、左右対称になってるので、このプリントを見て頂いた方がわかりやすいのでスライドを離れます。行列が神殿の北の部分と南の部分から進んでいって、東の部分でこういうふうに鉢合わせするわけです。これが東側の部分ということになります。行列が両側から迫っていますね。そして椅子に座っている人たちがいて、中にひときわ大きい人物像があるのですが、これは神々です。椅子に座って背中を向けているのが神々で、向こうからやって来る行列を見ているわけです。
ちょうど真ん中をご覧ください(◆スライド6)。真ん中のところに神々が背中合わせに座っているなかに立ってる人物が子どもを交えて5人います。これがちょうど真ん中で、それでその儀式の場面になっているわけです。これは4年に1度のパナテナイア祭の大きなお祭りのときに行列をつくって進んでいくんですが、その最後の儀式に何を行ったかというと、女神アテナの像に着せ替えの儀式を行ったわけです。現在は失われてしまったのですが、当時アテネの守護神と言われていた女神アテナの非常に古い木彫像があったことがわかっています。その木彫像の着せ替えの儀式が、4年に1度のお祭りの一番大切なことだったわけです。機織りで織ってきれいに刺繍をした、非常に美しい着物を着せ替える儀式をやったので、その準備をしている様子が真ん中に描かれていると考えられています。アテネの守護神である女神アテナの古い木彫像の着せ替えの儀式のための準備をしている様子が、ちょうど真ん中のぽっかり開いた部分に描かれていたのだろうと考えられています。
もう一度スライドに戻ります。行列が進んできて、これは右側の方からですね。先ほど質の話をしたんですが、東側はやはり一番質が高いと言われています。乙女たちですね。たぶんその市民たちの中から選ばれた乙女たちがその役を務めたのでしょう。これは有名なルーヴル美術館にある部分で、石膏で取ったものが東京の八重洲口のブリヂストン美術館を入ったところに掲げてあります。この部分だけはルーヴルにあるのです。少女たちが並んでいて、監督の男性がいるのですけど、それがちょっと振り向いていたりして、リズミカルな感じがなかなか見事です。
今いったように中心場面ということになるわけです。定説に従ってお話するのですが、儀式を司ってる男性がいて、この人はベルトをしてないんですが、とにかく男性がいて、だいぶ磨滅してますけれど、小さな子ども、少年か少女かわからないんですが、一緒にその着せ替えのために布を畳んでる様子、それから儀式に使う椅子を準備してる少女がいて、たぶん女神官かなにかが監督している様子が描かれています。こういうふうに一番真ん中になるところ、構図の一番中心になるところに、わざとくつろいだような力の抜けた場面を持ってくるのが面白いですね。なにかすごく大切なものを持って来るとかえって息苦しい、ガチガチの構図になってしまうからか、自由な感じを持ってくるのが面白いと思います。
さて、神々が向こう側の行列を見ています。背中合わせにですね。これが神殿の主人になってる女神アテナですね。それからヘファイストスですね。ヘファイストスという神です。こうした神々の一族がいるというふうにおそらく人々は考えていたのです。アテネのアクロポリス美術館にあるのですが、左からポセイドン、アポロン、アルテミス、これも神々ですね(◆スライド7)。列席して行列を見ている神々です。女神アルテミスは頭部が残ってるので、図版に取り上げられることが多いんですけど、先ほど申し上げたように、浮彫でこういうふうに向こう側の肩が見えている、見えているというか、奥行きがある様子を表したりしているのは本当に上手だと思うんですが。やはり先ほどの青年と同じような、少しこう、沈鬱な顔をしている気がします。
少しくつろいだような様子なのですが、戦(いくさ)の神様のアレスと、デメテルと、ディオニュソスですね。お酒の神様のディオニュソスと穀物の女神のデメテルと、戦(いくさ)の神様の、青年の神様のアレスとか、いわゆる12神と呼ばれるギリシアの主な神々が描かれています。もうちょっと続けますけれど、女神、先ほどアルテミスがいて、だいぶ欠損していますが、アフロディテがいて、エロスがいて、向こうの方から行列がやってくるよ、と子どもに教えている。子どもといっても神々の一人ですが、教えているような様子です。
さて、一般的にはこれまでにお話ししたような推測が定説として伝えられているのですが、異説を二つ紹介しておこうと思います。主張者の一人は、ジョン・ボードマンというイギリスの学者ですが、わりとショッキングなというか、影響力の大きい論文を書いて、賛成する人が多いとは言えないんですが、発表された当時は非常に話題になったし、現在でもパルテノンのフリーズ浮彫を語る場合には欠かせない文献の一つです。
ギリシアの中でアテネが大国になった、ポリスとして成功した原因はペルシア戦争での勝利です。特にマラトンの戦いにあるということをお話しました。マラトンの戦いはちょうど一昔前の日本人にとっての日露戦争かもしれませんが、大国に対して勝った、しかも非常に少ない軍備で。この戦争は、ギリシアにとって、文字通り祖国防衛の聖戦だったんですね。
マラトンの戦いで戦死した人たちが192人だったことがわかっています。それは文献が伝えているからです。悲劇コンクールで何回も優勝したような、アイスキュロスという悲劇作家として功なり名を遂げた人物が、自分自身の墓に「私はマラトンの戦士であった」という一言だけを刻ませたぐらいに、マラトンの闘いは名誉の戦いなのです。少ない軍備でもって大国ペルシアを防いだというのです。その戦死者が192だったことが文献の上でわかっています。
ボードマンが計算したところによると、先ほどの騎馬に乗っている人物たちの数に戦車を駆る人たちを加えると192になるというのです。欠けている部分があるので断言できないのですが、ある程度想定できます。それで、マラトンの戦死者の栄誉を称えるために彼らを英雄として描いたのがパルテノン・フリーズなのではないだろうかと、大まかに言えばそういう説をボードマンが提出したのが80年代です。これはかなり大きな影響を与えたのですが、ボードマンの説は弱点が幾つかあります。一つには先ほど申し上げたように、欠損部分があったりして完全に確定できない点です。その仮説自体が面白いから非常に話題になりました。
1787年以来パルテノン・フリーズはパナテナイア大祭の行列を表したものだというのが定説になっていたんですが、それにしてはおかしい疑問点があるのはたしかです。ボードマンが指摘するまでもなく、その前から言われてたんですが、たとえば戦車の場面が入ってるけれど、戦車は行列になかったはずであるとか、幾つか齟齬があるのです。文献に伝えられているところと矛盾する点がある。で、実はこうなんじゃないかという説が幾つか出ているわけで、今の192という数を基にしたボードマンの説というのはその中の代表的なものです。
もう一つは、ジョアン・コネリーという人が「アメリカン・ジャーナル・オブ・アーケオロジー」という代表的なアメリカの雑誌に1996年に発表した説です。これは私が読んだときに非常に驚いたとともに、これだけのことを考えたコネリーを非常に尊敬したというか、立派だなと思った、面白いなと思ったんです。コネリーの一番肝要な点は定説に対する反駁、チャレンジしているそのポイントの正確さにあります。その中に一つ非常に大切なことがあるのです。それは何かというと、パルテノン神殿は女神アテナに捧げられた神殿であって、あらゆるギリシアの神殿を見ても、一般的な市民を描くということは一度も例がないんです。
パルテノン神殿のフリーズ浮彫だけが例外になっている。どういうことかというと、神殿を装飾する浮彫、あるいは絵画、彫刻には、すべて必ず神話が描かれているのです。ですが、パルテノン・フリーズ浮彫だけは、当時のアテネの市民が描かれてるというのが定説になってるわけです。
普通に考えた場合、たとえば100判明しているなかで99神話が描かれていて、1個だけ例外になってるというのは、ちょっと考えにくい。常識的にはやはり考えにくいと思います。99だったら100番目もやはり神話と考えるのが自然だと思います。で、コネリーは、ここに描かれたのは神話であって、パナテナイア祭の祭りの行列ではない、ギリシア神話の一部分なんだ、というわけです。その反論は取り上げる価値がある。その点だけでも価値があると思うわけです。これを現在多数の人が認めているかというと、そうでもないんですが、とにかく今いったように大切だと思いますので、紹介したわけです。
エレクテウスが自分の娘を犠牲に捧げたという神話が描かれているというのがコネリーの説です。で、この「エレクテウス」という神話、筋書きがはっきりしなかったんですが、1962年にパリでミイラを包んでいたパピルス文書が発見されて、そこに偶然その「エレクテウス」の筋書きが記されていました。現代でいうと、ちょうど新聞紙で詰め物をしてあった、その新聞紙から当時の情報が引き出せたという感じなのですが、「エレクテウス」の筋がはっきりしました。で、どういう内容が書かれていたかというと、当時のギリシア人たちがその神話をよく知っていたことがわかっています。その神話の物語は、アテネに伝説的な王様のエレクテウスという人がいて、その王様は隣国と戦争をしたことがあり、その際に、神々に対して、女神アテナに対してお伺いを立てたところ、お前が自分の娘を犠牲に捧げれば、つまり人身御供ですね、人身御供に差し出せば、その戦争に勝てるだろうというお告げがあったのだそうです。
当然、父親のエレクテウスと母親がそれに対して非常に葛藤するのです。自分の娘を犠牲に捧げなければいけないと。先ほど申し上げたように祭壇に捧げて首を切るというようなことをしなければならないわけです。エレクテウス王の奥さんの名前がプラクシテアで、断片的に科白が残っています。「エレクテウス」の筋書きを基に出来上がったエウリピデスという劇作家の悲劇が発見されて、そこに科白が残っていたのです。それは彼女が苦しんでいることを示す科白で、「たくさんの人を助けるためには一人を犠牲にしなければいけないのか。その方が悲しみの家が少ないのはたしかである。もし問題になっているのが息子であれば戦場にいかなければならない。私は公よりも子どもを選択する女を憎む」というものです。つまり人身御供を差し出さなきゃいけないという内容なのです。こうして、エレクテウスは結局のところ、自分の娘を犠牲、人身御供として捧げることにします。
古代ギリシアに人身御供という習慣はなかったことがわかっていますが、悲劇の筋書きの上ではそういう極端な例が出てくるわけです。詳しいところは不明ですが、そのように娘を犠牲に差し出すことによってエレクテウスが勝利を収めたという筋書きだったようです。最後の方で女神アテナが登場して、その女神アテナが言う科白も残っています。「あなたの娘は国のために死んだ」、「3人の娘のうち2人の妹たちも彼女を見捨てなかった」という科白が出てきます。これはどうやらエレクテウスには3人の娘がいて3人の娘たちは互いに誓ったらしい。もし私たちのうちで1人が亡くなったら、残った2人もその1人の後を追うと。一緒に死のうという誓いを立てて、その悲劇の中では1人が亡くなってしまう、すると2人も後を追った、となっていたんじゃないかと推測されています。冒頭にお話したように、そのプラクシテア、母親の科白で「私は公のためよりも子どもを選ぶような母親、女を憎む」と言っているのです。
古代ギリシアの悲劇というのは市民全員が見ている劇場で上演するものだったので、非常に公共的な性格が強いわけですね。どういうことかというと、ある程度まで人々が共有すべき思想、簡単に言えば、「国家のために」の精神が充満していたので、そういう科白が生まれたのではないでしょうか。人身御供というのはモチーフとしては考えられても、実際に行われたことはありませんでした。ただし、そういう科白が出てきた、そういう悲劇が上演されたということは、何らかの理由で、公と私との領域で葛藤が起こっていて、非常に厳しい選択を迫られる事態が日常的に起こっていたのはないか。そういう生活からそういう神話が生まれ、そういう悲劇が上演されたのだろうと思われます。
さて、エレクテウスの筋書き自体は1960年代にわかっていたんですが、コネリーの説で私が非常に面白いと思った点は、コネリーの次のような指摘です。今まで誰も指摘していないが、ここに男性がいて、女性がいて、娘が3人いることはわかっている。で、その娘ですが、背の高さが、これが一番上で、これが中くらいでこれが一番下。つまり3人が同じ年齢じゃなくて、3人の年齢の違いが表されているというんです。 それは今まで誰も指摘していないが、たしかにそうです。で、筋書きの上では一番下の妹が犠牲に捧げられたことになっているので、これが父親、これが母親で、長女、次女、末娘で、これは娘が犠牲に捧げられるときにその衣服を整えている、そういう様子が描かれてるのではなかろうかと言っているわけです。
パルテノン神殿自体も、女神アテナに捧げた神殿なんですけど、さっきの上演された悲劇と同じように非常に公共性が高い建築物であることはたしかなんですね。だから人々に対してある程度市民としてのお手本を示すというか、規範を示すとか、そういう役割は非常に強くあるわけでして、コネリーの主張は一考の余地はあると思うわけです。
あと騎馬の場面がたくさんありましたけれど、これらはおそらく隣国との戦争を表しているんではなかろうかと、細かな傍証が幾つか続いています。ちなみに古代ギリシア神話では父親が王様で、娘を犠牲に差し出すという、戦いのために神々のお告げによって娘を犠牲に差し出す、というタイプの神話はわりあい数が多いです。「イーピゲネイア」が一番有名なんですけども、ポリュクセナの神話とか、あと悲劇作品を取り上げても7〜8編ありますので、さっき言ったように、それだけそういう神話が多いのは、事実はどうであれ、たぶんアテネがたくさんの国々を従えていたという政治体制、あるいは奴隷を従えていた経済社会などから来るストレスが反映されているんじゃないか。ストレスの原因を遡っていけば、おそらくそこへ辿り着くでしょう。
そういう環境で、国をスムーズに動かしていって、利益を平等に分配していくためのシステムが民主主義だったのですが、その民主主義は当然構成員同士がお互いに監視し合って、お互いの利益を崩すような行動は許さないはずですね。それが言葉を換えると「国家のため」なんですけれども。そういう非常に強いストレスが市民のあいだに生まれて、それがお手本として示されているという例がおそらく悲劇とか、美術とかにも窺われるのではないかと言う説が考えられたのでしょう。
ところでコネリーの説を認める人が多いかというと、先ほど申し上げた通り、多くはないのですが、やはりギリシア神殿で神話を描いていないというのが、パルテノン・フリーズだけだから、それはおかしいという彼の主張は聞くだけの価値があると思います。
さて、古代ギリシアでは女性は社会的には非常に価値が低かったのです。社会制度上は市民権がないわけですし、それから政治的な活動というのは男性市民が行っています。というのは、はじめに申し上げた通り、男性市民はそれだけの負担を実際に抱えているからです。彼らは戦士として戦わなければいけないからです。私自身がたまたま興味があってそういうことを調べておりますが、戦陣の一角を崩したりすると、つまり戦場から逃亡したりすると、社会的な制裁というのはすごく激しくて、村八分だけじゃなくて、あらゆる暴行が容認されたようですね。相当厳しい感じがします。だからといって、常に殺伐とした時代だったというわけではありませんが、ことが戦争となると、厳しい軍紀で縛られることになっていたのですね。
そのような男性市民の世界だったんですが、一方で女性の立場がどうだったかというと、大まかに分けてしまうと、女性たちは軽んじられていたという意見と、それほどでもなかったという意見があります。公平に言えば、両方とも正しいのでしょうね。一概に女性が軽んじられていたとして腹を立てる人が沢山いますが、私は、父親と娘の愛情とか、夫婦の愛情は、社会的な身分とは全く別のもののような気がします。ただし、女性は男性と同じように重んじられていたというのも間違いだと言うところに、結果としては落ちつくんではないかと思います。なんか八方美人的な言い方してますけれど。実態を取り上げればおそらくそうだと思います。女性を人身御供にする話は出てきましたけれど、お墓なんかには女性を慕って描き、表現している例がむしろ多いですね。
紀元前5世紀の前半に作られたお墓でベルリンの国立考古学博物館に保存されているものなんですけれど、パルテノン・フリーズとちょっと雰囲気が似てますね。俯いた沈鬱な表情とかですね。これは生前の彼女、これはお墓です。生前の彼女を描いてるもので、宗教的な儀式を行ってる様子を描いています。これはニューヨークのメトロポリタン・ミュージアムにある物で、こちらの方は子どもですね。ペットの鳩などと遊んでる様子なんですけれど、パルテノン神殿の少し前からパルテノン神殿ぐらいまでは、非常に質の高い芸術が多いんじゃないでしょうか。やはり先ほど申し上げた通り、ギリシアの黄金時代といっていいと思います。
ヘゲソの墓ですね。高校の教科書に時々載っていたりするのでご覧になった方もおられるかと思いますが、このようにお墓を建てた人物は当然、夫か、さもなければ父親なんですね。自分の奥さんなり娘なりのお墓を建てているということになります。
あるいは母親の例もありますけれど。値段についていえば、大学で話すときは、車の値段だと考えなさいというんですが。もちろん数千万する物から数十万でできる物まで、ピンからキリまであるわけですが。スライドでお見せするような物は、数千万とまで言わなくても、かなりランクの高い物になります。芸術的であり、時間がかかっている。それから腕のいい彫刻家が造っています。ただ、アテネの古典時代の墓碑というのは靴屋さんの墓碑があったりして、ひどく粗末な物ではありませんが、職業的な階層でいえばそれほど高くない層の墓碑もわりあい見つかっています。
だいたい古代ギリシアでは、お墓に描かれてるものは生前の姿です。これも化粧箱から取り出して何かを見つめている女の人を描いたものですね。
これはアムファレテの墓なんですが、赤ん坊をあやしてる母親が描かれています。古代ギリシアの美術というのは、赤ん坊の描き方があまりうまくなくて、これは大人のミニチュアみたいで妙な感じなんですが、「アムファレテの墓碑」というものです。銘文があります。「アムファレテ、私の娘の子、その子を私は愛し、共に陽の光を見ていた。生前よく、こうしてこの子を膝に抱いたものだ。いま死者わたくしは、死んだその子を抱いている」という銘が残っています。
気が付かないと読み飛ばしてしまうんですけれども、「私の娘の子ども」と書いてあって、そして「いま死者であるわたくしは、死んだその子を抱いている」と書いてありますから、これが要するにおばあちゃんと孫ということになりますね。いまお墓を幾つかご覧にいれてますけど、全部アテネの国立考古学博物館の1階に所蔵されている物です。
女性と子ども、男の子なんですが、「ムネサゴラ、ニコカレスの墓ここに立つ。彼らを示すこと叶わず、父と母とに大いなる悲しみを残してダイモン彼らを奪い去り、両人は死してハデスの住居に赴きし故」ですね。ダイモンというのは神々ですね。神々が彼らを奪い去って2人は死んでしまった。ハデスというのは死の神様です。死の神様の住まいにいってしまった。つまり姉と弟ということになるわけです。こんなふうに生前の様子を表してることが多いんです。
これはギリシア語なんですけれど、ある程度ラテン文字と同じものですからMIKA、ミカとディオンですね、ディオンという文字が見られますけれど、これは特に銘はない。「ミカとディオン」という名前が書いてあるだけなんですけれど、女の人が鏡を見ていて握手をしている様子が描かれています。これは銘がミカとディオンという名前しかないので、関係はわからないんですけど、多くの研究者が普通に考えて夫婦なんじゃないかなと推測しているわけです。鏡を見ることには、どういう意味があるのか。二つ意味が考えられます。
一つは彼女が生きていたときに身だしなみに気を遣う、女性として徳のある人物だったことを伝えたいという意味。二つ目の意味ですが、女性が鏡を見るのはどんなときかというと、これから出かけるときではないか。おそらくディオンは夫で、生きていて、ミカが亡くなってしまって、握手をしているということは、別れの場面である。つまりお墓はミカのために建てられたお墓で、夫が建てたお墓で別れの握手をしている場面ではないかと推測されています。
古代ギリシアのお墓で面白いのは、生きている人間と、死んでしまった人間との別れの場面を描いてると思われるものが非常に多いことです。これが大きな特徴になっています。死んだ人だけじゃなくて遺族の様子が描かれている。これは「テアノ」と「クテシレオス」という名前だけが残っていて、関係がわからないんですが、おそらく先ほどの「ミカとディオン」の場合と同じで、クテシレオスが夫で、テアノが妻じゃないかと考えられています。
この場合、この男性はじーっとこの女性を見つめているのに対して、この女性はぼんやりした視線になっていますね。どこかあらぬ方を見つめているような感じになっている。ですから、男性の方が生きている遺族で、女性が亡くなった方だと推定されています。他に類似例が幾つかあるので、そういう推測が成り立つんです。墓碑の場合は、こういうところが非常に印象的ですね。だれかが欠けてしまった空虚さが良く表現されていると言えます。生きている人と亡くなってしまった人の間には、越えがたい溝があるわけですね。それがうまく表されている。意図的にか、自覚しなくてもそういう表現になるのか、そういう溝のようなものがよく現れているような気がします。ともかく夫が亡くなった妻のために建てた墓ではないかと考えられているわけです。
悲劇とか墓碑とかには、こういうふうに一概に女性を人間並みに扱っていないと一方的に非難する立場を支持しない作品が残されているので、先ほど申し上げた通り、一面的な見方はできないという考え方が主流になっています。父親と娘の愛情、親子の愛情はかなり普遍的だと思いますが、夫婦はどうでしょうか。私は古代ギリシアの男女間、夫婦のあいだに現代日本と同じような感情があったと簡単には思えません。そこから先になるとちょっと難しいですね。いずれにせよ、別離の悲しみというのは洋の東西を問わず同じものでしょう。
ちょっと時間が足りないので、最後に一つだけ作品を見ておくことにします。最後の3枚目のプリントをご覧ください。
大学の授業で、今までの話を総合して「亡くなったのは誰ですか」という問題を学生たちに出すんですね。左の女性と右の女の子が握手をしていて、だいたい意見の一致が見られるのは、亡くなったのはこの背景の男性ではないということです。左の女性か、右の女の子か、亡くなったのはどちらかになるんですけれど。両親と亡くなった少女を表しているのではないかというのが多くの意見です。手前にいる二人のうちのどちらかが死者として表されているだろうと思われます。
私は『少女と両親の墓碑』を使って大学の授業で、学生たちに今までの話を総合して「亡くなったのは誰ですか」という問題を出すんです。すると、意見の中で多いのが「左の母親が亡くなって少女が残された」というものなんです。この図を娘が母親を見つめていると受け取るのですね。それは可能性としてはあるのですが、しかし、この墓はたぶん、右の娘を死者として表していると思われます。亡くなったのは娘なのです。そう推測できる根拠がたしかにあります。理由は何でしょうか。それが、娘が亡くなった人物だろうと推定する根拠になります。
答えはこの背景のお父さんですよね。もし左のお母さんが亡くなったのだとしたら、お父さんは亡くなったお母さんにそっぽを向くのはおかしいから(笑)。左の女性、つまりお母さんが亡くなったという可能性がないわけではないんですが、しかし、やはり背景のお父さんがじっと見つめているのが、亡くなった娘だと思われるわけです。
この場合には銘文も何もなくて、名前もまるっきりわかりません。もし興味をお持ちになったら『アッティカの墓碑』という澤柳大五郎という、もう亡くなった先生がお書きになった本がありまして、これはもちろん非常に学問的にもよくできた本ですので、ご覧になって頂ければと思います。左頁の一番下に参考文献として挙げてあります。グラフ社の出版です。
一方、ゲルトルート・カントロヴィッツと言う人がいて、彼は『ギリシア美術の本質』という本を書いてるんですけれど、その翻訳の一部分が載っています。この翻訳は私の翻訳ではなくて、この澤柳大五郎先生の翻訳なんですけれど、それをちょっと載せておきました。カントロヴィッツの文章です。今お見せしているスライドの説明です。
「母と娘とが手を執り合ひ、見つめ合っている。別れの悲しみか、愛の誓ひか。近しさの感動か別離の動揺か。悲愁か歸依か。若し我々がこれを墓碑と知らなければ、それは何とも分らないだろう。我々が知っているのは、この二人の間には引裂き難い結びつきがあるといふことだ。命の流れが出逢ひ、容姿から容姿へ流れ、眼と眼を引合ふ見えない力が腕から手へ、手から首へと傳はるさまが見え、両人の圍りに輪を閉ぢる。しかしさらに我々には見える、母の凝視は娘のそれとは違ふ。母の視線は纏ひつくやうに、己が姿を刻み込むやうに眞直にきつとしてをり、その體躯は力強くはつきりした姿勢で向けられている。しかし少女の方は首を傾けている、その身體と着衣とを通して或る動きがある、多分身をめぐらせているのだろう、・・」
たしかにこの両親に比べると少女だけがちょっとこう、からだをめぐらせてるような感じに実際なっています。
「そしてその手は握られてはいない。彼女を繋いでいるものは、しつかりと掴んでいるものは、ただ眼差しだけである。その上、少女は母と同じ空間にはいない、母親は父親と同じ身振りで、同じく眞直に殆ど硬直したやうに、少女の弛みと相對している。かくて我々は知る、少女が行くのだといふことを、別れを告げていることを。我々はこの人々の感動を知る、彼等が境を異にしていることを知る、さう、我々は死の訣別を察知する。」
この文章はこのあとちょっとわかりにくいかもしれないですが...
「さて、このことは、これらの人々の姿が、後世の美術作品のやうに我々に語りかけていることを意味するのか。この浮彫によって我々はその表情に惹きつけられるだろうが、−−恐らくまづ迂路によって、といふのはその表情が我々には普通より弱く不明瞭に思はれるから、−−しかしながら今我々が讀み解いたことも依然として區々たる心理學的な經緯であって、或る特定の出來事に對する特定の心の反應として理解し得るもの−−我が子に先立たれた両親を襲ふであらう感情として−−理解する、さういふように我々は解釋しがちである。しかし、・・」
ちょっとこの文章はわかりにくいんですけど、ともあれカントロヴィッツは何を言ってるかというと、私たちは一見したところこんなふうに考えがちだということです。そこに表されているのは何かというと、我が子に先立たれた両親を襲う別離の感情ですね。そういうものが表されているのだろうと理解する、そういうようにわれわれは解釈しがちである、というわけです。簡単に言ってしまえばそういうことになります。しかし、もっとよく見ればそれは、われわれのいま認めたものとは全く違う。一見したところは両親が娘を亡くしてる、別れる場面だというふうに、そういうふうに考えてしまうのだけれども、そうではないというわけですね。
「さうではなくて、我々の見ているのは、この人々の結びつき、ともにあること、一つであること、この上ない親密さ−−誓ひと愛、持つこと、保つこと、確かなこと−−そして同時に、それにも拘らず、離れること、遠いこと、越え難い遠離−−柔らかさ、感動と苦しみ。それは死の、そして生の内容である、人間が互ひに與へ合ふといふことに含まれるすべてがそこにある。お互ひの間柄を満たすもののすべて、その間にあったすべてがある。−−また全く別の、死によって知らされること、恆常ではあり得ないこと、失ふこと、掴まれること、絆を斷たれること、そして決して斷ち得ないこと。」
つまり両親が娘に先立たれてしまったので、それで別離の状況を描いてるというのではなくて、別離によって断たれるわけですが、間柄を断たれるわけですが、決して断たれることはない。一緒にいることとか、そういうことがほんとうは描かれているのだということを、おそらく言いたいのでしょう。この辺までいくとなにか文学的な、いや文学的というと適切ではないかもしれませんが、ちょっと難しいですね。そのニュアンスは辿ることが難しいような気がします。講演の会場ですのでパーッと読んでしまいましたので、もしよろしかったら図書館かなにかにもあると思いますので、興味がおありだったらご覧になって頂ければと思います。
だいぶ時間が過ぎました。私自身は思うのですけれども、ギリシアの美術で面白いと思うのは、そういうふうにある程度大きな、さっきからストレスと言ってますけれども、公共性が強いために人々を縛っている非常に重い負担のようなものがあって、それが美術にも表れている、あるいは悲劇にも表れているケースがあると思うわけです。
人々にとって手本とならなきゃいけない、規範とならなければいけない、そしてそれはたぶん人々に対して押しつけられていたものであって、非常に重荷となっていたものだし、おそらく他国を支配していることが原因になっていると思うのですが、ストレスはそういうところからくるのではないか。あるいは、絶え間ない戦闘状態にあったりすることから社会的な重圧とかがあって、そういうことが美術の上にも表れてくるのではないかと思うわけです。
ただ、一方で思うんですが、葛藤があったんでしょうが、そういう負担とか重い枷になっているものだけが表れているのではなくて、要するに、負担や枷が人々にとって苦しみになったり、犠牲になったり、辛さになったりするわけですよね。そのことが芸術に表れているというのは面白いなと思うわけです。単に負担そのもの、あるいは枷そのもの、あるいは社会的な重圧、人々を縛りつけていたものだけが表れているのではなくて、それによって重圧を受けている苦しみや辛さが、読んだり見たりしているとわかってくるのですね。それがわかることが面白いと個人的には思っているのです。それから、その負担に喘いでるような人々の苦しみや辛さを表すような可能性があったということが、ちょっと言葉で言いにくいんですけど、私自身は面白いと感じております。
とにかく古代ギリシアのそういうふうな人々の気持ちとか、感じ方に近づくことができればと思っています。どうもありがとうございました。
(拍手)
| 質 問 | きょうは貴重なお話をありがとうございました。墓碑のお話がたくさん出たんですが、当時のギリシア、アテネの市民の方々の死後の世界観を知りたいと思います。もちろん当時のギリシアは一神教ではないし、オリンポス12神とか、なにか茶目っ気とかいたずらっぽい神様の集団みたいな感じもあります。その一方で、ソクラテスの魂を清め磨く、死後に至ることがむしろ生きてるときの、そのためのプロセスだとか、あるいはプラトンのイデアの考え方とかいうのは、実際になにを反映しているのか。あるいはハデスの世界というのはぜんぜん別のものとしてあったのか。 それからもう一つ、「パンドラの箱」ってよく日本人が申しますけど、元は「パンドラの壺」だったと思うんですけど、どこで箱になっちゃったのか。もしご存じでしたら教えて頂きたい。 |
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| 講 師 | 質問の後半からお答えしますが、中世だと思うんですけど、実際には壺だったんですが、パンドラの壺の訳し違えが起こって箱になったみたいです。そういう間違いはよく起こるんです。時期ははっきりしないんですが。 質問の前半は死後の世界観ですね。「天国があって地獄があって」という考え方はぜんぜんしていないので、それをお話しなければならなかったんですが、古代ギリシアの場合には、今いったように「天国があって地獄があって」審判されるという考え方自体、一般的ではなかったと推測されています。なにぶん死後の世界のことを書いている文献がないものですから、わからないって言ってしまうと身も蓋もありませんが、非常に不明な点が多いんです。生者と死者が両方描かれていることからもわかるように、おそらく亡くなった人が生前と同じ姿で、地下の世界で影のような存在をずーっと続けていくと考えられていたんでしょう。 転生輪廻については少し言及があって、何かに生まれ変わるという言及がないわけではないんですが、一般的ではなくて、おそらく一般的には生きてる方がいいんですね。死後の世界で影のような存在を続けていくというのは、そうなるんだったら奴隷でもいいから生きていたいという科白が出てくるくらいで、そのように非常に嫌なことだけれども、死者は影のような存在を続けていくと考えられていたとされています。実際に墓碑では亡霊のような感じで描かれています。亡霊というと、ちょっとよくないですけど。描かれてる女性がいることからも、ある程度までそれが言えるのではないかと思います。それからプラトンとか幾つかの例が知られているんですが、それがどこまで一般的だったかというのはちょっと難しい。おそらく特殊だったのでしょう。 |
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-- 了 --
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長田 年弘
| 学歴 | |
| 昭和57年3月15日 | 早稲田大学政治経済学部経済学科卒業 |
| 平成5年4月15日 | オーストリア、ザルツブルグ大学古典考古学研究所博士課程修了 |
| 平成6年3月31日 | 早稲田大学大学院文学研究科芸術学美術史専攻博士課程中途退学 |
| 職歴 | |
| 平成6年4月1日 | 跡見学園女子大学文学部非常勤講師 |
| 平成7年4月1日 | 早稲田大学第一文学部非常勤講師 |
| 共立女子大学文芸学部非常勤講師 | |
| 杉野女子大学家政学部非常勤講師 | |
| 平成8年4月1日 | 東海大学文学部 |
| 実践女子大学文学部非常勤講師 | |
| 平成9年4月1日 | 広島大学総合科学部助教授(現在にいたる) |
著書(単著)
1 Stilentwicklung hellenistischer Relieffriese, 160 + IV p. Toshihiro
Osada, Europaeische Hochschulschriften, Reihe 28, Bd. 185 (VerI. Peter Lang;
Frankfurut
am Main, Berlin, Bern, New Yorik, Paris, Wien; Okt. 1993)
2 『神々と英雄と女性たち』中央公論社(中公新書)290頁、挿図39枚、平成9年10月。
3 第1章、ギリシャ・ローマ『西洋美術館』80-85、124-137頁、全1151頁、小学館、平成11年。共著者(長田年弘、青柳正規、飯塚隆、今井桜子、土居通正、中村るい、平山東子、その他)
4 II-5 腰抜けパリスと美女ヘレネ
― ギリシア神話と美術『人間理解のコモンセンス』133-150頁、培風館、平成14年4月。共著者(長田年弘、上領達之、高谷紀夫、岩永誠、加藤徹、中坂恵美子、その他)