朝鮮半島から見た日本

 

講師 帝塚山学院大学教授

上垣外 憲一 

平成16年2月10日 於:如水会館

【無断転記転載を禁ず】

社団法人 如 水 会

責任編集

 




◆内容目次

はじめに ― 自己紹介に代えて

日本の歴史を振り返って

白村江の戦い

文禄・慶長の役

日清戦争

日露戦争

日本の対外戦争はすべ朝鮮半島を巡って起きている

日朝関係には暗い時期も明るい時期も

日本人の体質は朝鮮半島の人に極めて近い

人名にも朝鮮半島由来のものがある

日本化した姓、同化の進行

国籍概念のなかった時代

弥勒菩薩は朝鮮半島から

高麗仏画伝来の由来

日朝交流の起源

黒曜石が語る交流の起源

天皇家と朝鮮半島の関わり

日本語と韓国語

日本と韓国、意識の違い

日韓物の交流、日本は資源大国?

日本では尊重された高麗茶碗

朝鮮出兵反対勢力

日清戦争は回避すべきであった? 

質疑応答 

講師略歴 


はじめに ― 自己紹介に代えて

 ただ今ご紹介に与かりました上垣外(カミガイト)です。字はもう配られた物でご存じだと思いますけれども、講演で時間の余裕があるときは自分の名前の講釈をしたりして話をはじめることにしています。長野県の出身でして、もう少し詳しく言うと私の父の出身地は木曽なんです。私は松本市で生まれたんですが、5歳位のときに父の転勤で東京に出ています。世田谷に30年以上住んでおりました。ですから、言葉は今でも関東の言葉とか、東京の言葉しかできないんです。その後、国立の研究所の助教授として京都に10年間住みました。それで、今は芦屋に本拠がありまして、大阪の大学に勤めているんですが、日本の中でも少し移動が多かったかなという気もします。

 私が今まで暮らして来た場所の中でも、1年間、正確には11カ月しか行っていないんですが、ソウル、韓国が自分にとって非常に大きかったと思っています。著書の紹介にもあるように、私が今まで書いてきた本の大部分が韓国関係です。歴史的なもの、古い時代のことが多いんですけど、韓国関係のことが私の仕事の中心になりました。

 きょう頂いたお題は「朝鮮半島から見た日本」ですが、私がこの題名を語るのに一番ふさわしいかというと、おそらく朝鮮半島出身でいま日本に住んでいらっしゃる方のほうが、こういう題名で話をするのにはふさわしいのではないかと思ったりします。ただ、私も住んだのは1年間ですが、実はその前から旅行というかたちでは韓国へ行っていました。その後いろんなお付き合いができて、毎年2回から3回ずつ行っていると思います。それから韓国語なんですけど、やはり1年住んでいる間にだいたい覚えました。韓国語で電話で20分30分喋っていても、そんなに苦痛を感じない程度にはできます。韓国語で物を考えるというとちょっと言い過ぎかもしれませんが、相当にできる外国語ではあるんですね。ですから、普通の日本の人たちが知らない韓国語の世界にもけっこう入り込んで生きた時期もあるということからいえば、「朝鮮半島から見た日本」についてをお話する資格があるのかもしれないと思います。


日本の歴史を振り返って

白村江の戦い

 私がそれについて語る資格があるかどうかは別として、朝鮮半島から見た日本というのは、日本人あるいは日本にとって、とても重要なテーマだと思います。なぜか。まず第一に、日本の歴史を振り返ってみますと、日本は大きな戦争はあまりしていない国なのですが、でも、ときどきはしているわけですね。古い方でいいますと、一番大きな古い時代の戦争といえば、7世紀、天智天皇のときの有名な白村江の戦いがあります。これは古代の日本が戦った最大の戦争だと思います。「日本書紀」では、5万の兵を出したと言っています。奈良時代の日本の人口がだいたい500万人と言われています。そうすると5万人というのは、人口の比率でいうと100人に1人なんです。「日本書紀」の記述を信じれば、ですけどね。でも、その当時最強であった唐の軍隊と正面から戦ったわけですから。あのときは百済は滅びていまして、百済復興軍というかたちだったんですね。それで、そんなに戦力があったわけではない。ですから日本から出ていった軍隊の方が主力で、5万人という数はあながち誇張ではなかろうと私は思っています。これはやはり大戦争だったわけです。

文禄・慶長の役

 それから文禄・慶長の役。つまり豊臣秀吉が朝鮮に軍隊を出した事件ですね。このときは白村江のときから見れば日本も人口が増えていると思いますが、半島まで行った軍隊は15万人ですね。この15万人が多いか少ないかというと、私は非常に多いと思うんです。江戸時代の人口は3千万で、豊臣秀吉のときはまだだいぶ少ないと思いますが、やはり15万人というのは100人に1人位の動員に当たると思いますね。これが日本では明治以前の最大の海外の戦争ということになるわけです。

日清戦争

 では近代に入ってからはどうか。まず日清戦争ですね。日清戦争は日本と中国、清国の戦いでしたけど、直接の問題は朝鮮半島を巡ってであったわけですね。簡単に言うと、朝鮮半島における覇権、あるいはどちら側が優越した地位を得るかということを巡って争われた戦争であって、敵は中国でありましたが、主題というか、テーマ、目的は朝鮮半島にあったわけです。

日露戦争

 それからもう一つの戦争、日露戦争ですね。日露戦争は普通はロシアと満州を巡って戦ったと言っていいと思いますが、実はその直前の交渉の過程をよく見てみますと、たとえば私は伊藤博文の伝記を書いたんですが、伊藤博文などが言ってることは、要するに、ロシアと交渉していたとき何が問題だったかというと、実は朝鮮半島なんです。伊藤博文の言葉によれば、たとえば大同江、ピョンヤンのところを流れているあの大同江を境界としようと。つまり大同江以北はロシアの勢力範囲、そこから南は日本の勢力範囲としようと交渉している。ところが、まとまりかけると、次はソウルの辺り、ソウル以北をロシアの勢力範囲とせよと言ってくる。これは、もうきりがないので、戦争しかないかもしれないと伊藤が言っていたという話が残っています。

 それから日露戦争に至る最大の事件にこういう事件があるんです。皆さん日本海海戦というのはよくご存じだと思いますが、あの日本海海戦のとき東郷平八郎が率いていた連合艦隊というのは、日本の港にいたんじゃないんですね。釜山の少し西側になりますか、鎮海(チネ)といういまは軍港です。韓国海軍の本拠地ですが、この鎮海という良港にいたわけです。そこに連合艦隊は停泊して、バルチック艦隊が来るのを待っていたわけです。日露戦争の起こるしばらく前の時期にロシアがこの鎮海の土地を買い占める、あるいは買収しようとしたことがあって、日本側はある意味で震え上がったわけです。つまり鎮海というところは、対馬のすぐ向こう側ですから、ここにロシアの艦隊の根拠地ができたら、旅順なんかとは比較にならないわけです。日本海から東シナ海からみんな押さえられてしまう場所ですから。ですから鎮海まで取られたのではたまらない、というのが、日本が日露戦争に傾いていった大きなきっかけだったと思います。これもあまり知られていない事件かと思いますが、日本と朝鮮の関係、日露戦争を考えるうえで重要だと思いますね。つまり、日露戦争は満州における優越的な地位をロシアに対して確保する戦争だったというのは、後から見ればそうなんですが、実は、始まったところの交渉を見ていると、むしろ朝鮮半島が取られてしまうという危険から始まっている。日本の戦意というか、戦う気持ちというのは、そこに始まっていると私は思います。

日本の対外戦争はすべ朝鮮半島を巡って起きている

 いま日露戦争までのことを考えたわけですが、そう考えてみると、日本という国が歴史の中で戦った大きな対外戦争は、みな朝鮮半島を巡って起こっているということになるんです。この後の話をすると少し複雑になりますから、日露戦争までで考えたいと思いますが、要するに朝鮮半島という場所は、いま言った軍事的な意味においても日本にとって極めて重要な地域であるんですね。この地域、つまり朝鮮半島が安定していないと、日本はすぐ不安を感じるわけです。

 いま北朝鮮との関係が問題になっているわけですが、ミサイルが飛んでくるかもしれないと。これは日露戦争のときの危険に比べると、まだずいぶん小さいなというふうに感じますけど、もしかして飛んで来たらと思うとやっぱり不安であるわけですよね。私は幸いにして関西に住んでいるので、最初に飛んで来るのは東京だろうと(笑)。安心して、待っているわけじゃないけれど(笑)。東京にいるときは怖いなぁと、思ったりもするんですが。私は年に2、3回ソウルに行っていると言いましたけど、北朝鮮のミサイルが話題になったときにソウルで学会がありまして、4、5日行ってなきゃいけないんですが、こういうときはソウルへ行きたくないなと思いました。ソウルに行くと板門店という南北の軍事境界線にある休戦会談の行われた場所があって、韓国語ではパンムンジョムと言いますが、あそこに行かれた方もこの中にあるかと思いますが、近いですよね。バスに乗っていくわけですが、1時間位で着く感じです。これもソウルなんかに行くと、よく聞かされることですが、北側から撃ちこむミサイルだったら長距離ミサイルは要らないわけです。短距離ミサイルで十分届くわけです。それどころじゃなくて長距離砲です。境界線近くにいくと北側の山が見えるわけですが、その山にいっぱい穴が掘ってあって、その中に長距離砲が隠されてるというわけです。要するにソウルは射程内に入るわけなんですよ。もし万一何か起こったときは、北朝鮮は当然化学兵器を開発していると思いますから、その砲弾に化学弾頭を付けて撃ったら30万人は死ぬだろうとか言っているんですよね。これはやっぱり怖いですね。それで、ソウルにいて北朝鮮との関係が悪くなったら、もし戦争が始まったときは、どうやって逃げようかと考えながら寝ますよね、やっぱり。神経過敏と言われるかもしれないけど、やっぱりソウルにいるとちょっとそういう思いがありますね。

日朝関係には暗い時期も明るい時期も

 今は戦争の不安という暗い方から考えてみたわけですが、日本と朝鮮半島の関係というのは暗い時期もあれば明るい時期もあるわけですね。どういうふうに長さを測ったらいいか微妙だと思いますが、私は全体として見れば、日本と朝鮮半島のあいだ、日本と韓国のあいだというのは、いい時代の方が遙かに多かったと思っています。

 今までの歴史の書き方は、要するに戦争と王朝の歴史というか、徳川幕府なら徳川幕府が成立して、それが潰れて明治政府ができる過程を書く。その明治政府ができるときには鳥羽・伏見の戦いとか、会津若松の白虎隊だとか新選組だとか、政治の変動のときにはそういう血なまぐさい話があるわけですね。だから、われわれの知っている歴史というのは、ある意味で政治と戦争の歴史、つまり政治と軍事の歴史ということになるわけです。しかし、人間の生活全般を考えたときには、そうじゃない部分が多いわけですよね。つまり平和な時代には普通に商売が行われているわけです。でも、これは毎日行われていることですから、ニュースにならないですね。新聞だって、たとえば北朝鮮とのあいだで緊張関係が生じれば書きますけど、きょう日本と韓国のあいだは平和である、いつも通りに飛行機が飛んでいるというのは書かないわけですよ。つまり当たり前のことだから。その当たり前のことの方が実は分量としてはずっと多いということです。

 あるとき韓国で開かれた文化交流の関係の会議に韓国の一番大きい航空会社である大韓航空の副社長が来賓で来ていまして、日韓のことについて話をしたのです。最初に言ったのは、大韓航空では年間200万人のお客さんをいつも日本と韓国のあいだで運ばせて頂いていますと。たしか200万人だったと思いますが、聞いたときにはあまりにその数が多いので、ちょっと驚きましたが、日本で200万の都市ってほとんどないですよね。ともかく大都市の人口に匹敵する数を、大韓航空一つが運んでいるわけですから、日本の航空会社を合わせれば、おそらくその倍以上の人が動いていると思うのです。そういう大都市の人口に匹敵する数の人たちが日本と韓国のあいだを、いま行ったり来たりしているわけです。観光客が多いとは思いますが、仕事の人もあれば親戚訪問の人もあり、いろいろだと思います。ともかく、驚くべき人の往来の数であると思います。でも、こういうことはあまり新聞に載らないですね。現代においてそうなんですが、昔においてもそうだったんじゃないかと私は思うんですよ。だから、公式の歴史は戦争とか、緊張があったとか、そういうことしか書いていないんですが、古代あるいは古代以前、つまり有史以前においても日本と朝鮮半島のあいだには非常に深い交流があったと私は考えています。


日本人の体質は朝鮮半島の人に極めて近い

 まずどういう証拠があるかというと、一番簡単なのは要するに皆さん方というか、私も含めてですが、日本人の体質です。つまり遺伝的な素質を見た場合に、日本人はいったい日本の周りのどこに一番似ているか。中国の南の方に似ているという人もいます。確実なのは、朝鮮半島の人たちと日本人は体質的に極めて近いことです。日本人と朝鮮人はまったく一緒じゃありません。おそらく中国の南の方の要素が入っていますが、大雑把に言えば日本人の人種としての血統を考えると、半分は半島から来たと言っていいと思います。

 半島的要素が多い人もあれば少ない人もあって、私はどちらかと言えば韓国のことを専門にしていますが、半島系の要素は非常に少ないそうです。どこが少ないかというと、目が丸い、二重まぶた、それからちょっと見には分からないですが、私はわりと毛深い方なんですね。毛が濃い。こういう特徴は韓国人的ではない。それから、頬が高いというのも(私はそんなに高くないかもしれないですが)韓国人的ではないそうです。韓国の人の特徴は目が細い。それから一重まぶたが多い。顔は比較的頬の部分が平らである。悪い言葉でいうと下駄顔とか言うらしいんですが、そういうのが韓国的な特徴だそうです。

 たとえばモンゴル、朝青龍とか、いまモンゴルの力士が日本で活躍していますが、モンゴル人も比較的そうなんですね。あるいは韓国人以上にそういう傾向が強いといっていいようです。人間の顔の特徴でいうと、日本人の場合は、いま言った韓国の人に非常に近いタイプの人と、私のようにむしろ韓国人的ではない、どちらかといえば中国の南の方とか、東南アジアとか、そういう方に源流を認めた方がいい人と、両方の要素が混ざっているらしい。混ざっていますから、韓国人とまったく一緒じゃないんですが、その混ざっている半分位は、どうしても朝鮮半島から来たと考えざるを得ないんですね。

 実は今までは、形質人類学とか自然人類学とか言われる観点から、肉体的な特徴、毛が濃いとか、目で見て分かるようなことで比較していたんですが、最近はいわゆるDNAの分析が進んでいますから、もっと精密に朝鮮半島と日本人の関係が分かってくると思います。しかし、今まで分かっていることからしても、日本人は人種的には韓国人と極めて近いことは間違いないですね。

人名にも朝鮮半島由来のものがある

 たとえば人の名前ですが、この中に荒木さんという方はいらっしゃるでしょうか。あるいは日本人の名前で唐木という名前がありますね。こういう名前の方はご先祖、父方が朝鮮半島から来たのではないかと考えてみた方がいいと思います。なぜか。唐(から)というのは後の時代では中国のことを指すようになるんです。ですから、唐(とう)という字に「から」という訓を当てたりするわけですが、もともとは韓国の韓(かん)という字に「から」という音があったわけです。で、この韓(から)という地名は実際には古代でどこを示したかというと、それは朝鮮半島の一番南の端のところです。釜山のすぐ西側に洛東江(ナクトンガン)という川が流れているんです。そこを橋で渡っていきますと、今は金海(キムヘ)市という町があります。いま国際飛行場、空港がある場所ですが、ここが韓(から)という国だったんですね。今は市の大きさ、日本式にいえば郡ぐらいの広さと考えていいのですが、そういう県の大きさもないような小さな国家が韓(から)という国でした。ですから入口の小さい国だったんですが、日本人はみんな対馬からこの韓(から)に渡って、それから朝鮮半島へ行っていたんです。ですから、その入口でもって韓国全体、朝鮮半島を呼ぶようになった。それが、たとえば「古事記」では韓国(からくに)と出てきますが、実はその釜山の隣のごく小さな国だったわけですね。

 そうしますと、唐木(からき)というのは、今は植物の木の字を当てていますね。「から」も韓国の韓ではなくて唐という字を当てています。ですが、もともとの意味から言うと、「韓(から)から来た」ですから「から」の方は韓国の「韓」で書くべきだし、この木材の木は、実は「来る」という字です。「韓(から)から来た」という意味に考えるべきです。それが唐木の意味です。

 そうすると荒木というのはどうか。同じように「あら」というところから来た人という意味になりますが、これも「あら」というのは韓国の古代の国の名前です。釜山からあまり遠くないところですが、今は、晋州(チンジュ)と言っている町があります。ここは豊臣秀吉が朝鮮を攻めたときに一番激戦になった場所なんです。釜山から洛東江をしばらく遡っていって、洛東江が少し曲がりかけるところにある町ですね。支流が流れ込んで来ています。ここが古代の「あら」です。ですから荒木さんというのは、もしこの名前がその韓国の地名と結ぶとすれば、荒木さんというのは「あら」という国から来た人ということになります。絶対にそうかというと、名前というのはいろいろ変わったり、贋の系図ができたりしますから、絶対ということはなかなか言えないのですが、そういう可能性が高いということです。

日本化した姓、同化の進行

 日本の場合は姓から先祖を辿っていくのがかなり難しいです。どうしてか。日本人の場合は、地名から姓をつくっていく場合、名字という言い方もしますよね。つまり地名の名(みょう)で姓にしていく場合がたいへん多いので、明らかに朝鮮半島から来たという人たちでも分からなくなってしまう場合が多いんです。

 幾つかの例を申し上げると、たとえば最初日本に渡って来たときには王という姓である場合、たとえば「日本書紀」を読んでいますと、蘇我稲目というのは蘇我氏が交流した一番の重要人物で、蘇我馬子のお父さんですね。その蘇我稲目に仕えたいわゆる帰化人、最近は渡来人という言い方をしますが、朝鮮半島から渡って来た人に王辰爾という人がいた。姓は王です。ところがこの人、3代目ぐらいになると姓が変わるんですよ。たとえば白井という姓をもらったと。これは岡山県、吉備国にある宮家の名前が白井といって、この姓を賜ったということが「日本書紀」に書いてあります。そうすると、いま日本で白井という姓はかなり多い姓ですが、もしかすると、元は王さんだったかもしれないですね。こういう姓はたくさんあるんですよ、実は。たとえば高橋、それから大原、これは普通の日本の地名ですし姓ですよね。ですけれども「日本書紀」などを見ていますと、元は王であったとか、そういう朝鮮の人の姓が地名によって変わっていくわけなんですね。ですから、こうなると日本人なのか韓国の人なのか分からなくなってくる。まぁそれでもいいのかもしれないですよね。私はかなりの在日韓国人、在日朝鮮人の人とお付き合いがありますが、もう日本の中に住み着いて、コリアンだとみんな民族性を非常に強く主張しますけど、でも2世から3世になって韓国語を喋れる人って非常に少ないですよね。よほど頑張って勉強して韓国の大学に留学した人でないと韓国語を喋れないのが普通です。つまり3代も経てば、いわゆる母国というか、祖国の言葉は忘れていくわけです。これはもう仕方がない。当然のこと。つまり新しい国の言語や文化にだんだん同化されていくわけですね。だから本人はまだ俺は韓国人だ、日本人に差別されていると思っていても、生活や言葉はほとんど日本人と同じになっているわけです。まったく同じとは言いませんよ。もちろんいろんな点でまだ名残りを残している部分はあると思いますが、でも3代目になれば、ほぼ新しい国に同化していくわけですから、元は韓国から来たといっても、日本人とほとんど一緒ではないかということです。


国籍概念のなかった時代

 昔は今のように国籍なんていう概念はあまりはっきりしていませんでしたから、大原というところに住んでいるんだから、もとは王さんだったかもしれないけど、もう大原でいいやとなってしまうと、これはもうほとんど日本人と区別がつかなくなってしまう。つまり同化してくるわけですね。そういうかたちで、だんだん朝鮮半島から入って来た人たちは、日本人と結婚して混血していくわけですし、融和、同化していくわけです。今、日本人と言いましたが、昔はだいたい日本人という概念があったのかどうか。私がお話しているのは、たとえば飛鳥時代とか、あるいは6世紀の頃とか、そういう時代のことなんですが、こういう時代にたとえば朝鮮半島から渡って来た人は、国籍ということを考えていたんでしょうかね。今みたいな出入国管理というのは、ないとは言わないまでも、あまり厳しくなかったとは言えると思います。要するに、こっちは日本で、向こうは韓国だという、それは自然な区別としてあったわけなんです。なぜかというと、たとえば6世紀とか7世紀の時代でも、朝鮮半島と日本では文化は違っていたし、言語も違っていたと私は考えています。それはたとえば「日本書紀」を見ると、ちゃんと高句麗語の通訳とか、新羅の通訳とか出て来ますから、通訳が必要ということは、言葉は違っていたんですね。だから、1500年前だったら日本と韓国のあいだには言葉の違いはなかったというのは大うそです。言葉の違いはあったんですね。ですが、いまわれわれが考えているような国家の区別、国籍の区別というのは、その当時はとても原初的な段階であるか、非常に希薄なものだったと思います。

 ちょっと大雑把な話ですが、たぶん1500年前の日本というのは、たとえば18世紀、19世紀のアメリカに似ていたんじゃないかと私は言ったりするんです。要するに、日本というのは、その当時はまだ、これから開拓される余地の多い土地でした。農業用地もそうですし、たとえば鉱山などについてもそうですが、未開発の広い土地があった。いま日本は狭いと思っていますけど、朝鮮半島から見れば、今言ったように韓(から)なんていう国は小さいんですから、そういうところから見れば、日本の九州にしても、本州なんかはもっとですが、広い土地なんです。それから隙間が多い土地、つまりまだ開墾されてない土地がたくさんある。朝鮮半島に中国から伝わって来たような新しい技術を使えば、いわゆる新田開発が可能なところがまだ手つかずで残っているわけですね。ですから、そういうところに入り込んで住むことができるわけです。特に関西に行くと、6世紀、場合によっては5世紀、つまり仁徳天皇とか、そういう天皇の頃に作られたと思われる灌漑用の池がたくさんあります。

 私がいま勤めているのは帝塚山学院大学といって、大阪狭山市というところ、大阪の南の方にありますけども、この辺は朝鮮半島からこういう技術者がたくさん渡って来た場所です。どういうことをしていたかというと、たとえば高い温度で焼いた陶器である須恵器を焼いてる。それから池を掘っている。灌漑用の池です。今、大阪狭山市には狭山の池という大きな池がありますが、これはおそらく朝鮮半島から渡って来た技術者が設計や工事を指揮して作った物だと私は思っています。こういう物を作れば、今まで水がなくて水田にならなかったようなところが、どんどん開発できたわけですね。「日本書紀」を読んでいますと、そういう池を作ったという話が5世紀6世紀の頃の話としてずいぶん出てきますけど、こういう灌漑用の池などは当然朝鮮半島から来た人たちが中心になって作っています。

弥勒菩薩は朝鮮半島から

 そういう例の一つ。姓。日本人の姓で面白いのは秦(はた)という姓ですね。京都に東映の映画村がある太秦(うずまさ)というところがありますよね。あそこは、実は秦氏が開拓した場所でして、太秦の秦(まさ)は秦の始皇帝の秦(しん)という字ですね。あれは秦氏の秦(はた)とも読むわけです。ところが、この秦氏はいろいろな記録やその他のことから、だいたい新羅から来たと言われています。たとえば太秦に広隆寺というお寺がありますね。あそこに国宝第一号とか言われている弥勒菩薩があります。これはほぼ間違いなく朝鮮半島から渡って来た仏様ですが、あれは非常に古い物ですね。もしかしたら6世紀に作られたかもしれない、日本の飛鳥時代より前かという、非常に古い、しかも非常に優秀な造形の優れた仏像ですが、朝鮮半島製であることはほぼ間違いないと思います。

 それで、この太秦の広隆寺というのは、もちろん渡来人系の秦氏の氏寺ですから、朝鮮の仏様があってもちっともおかしくない。これも現代になると、韓国からときどき修学旅行などにやって来る高校生などが、あれは朝鮮半島で作られた物だから朝鮮に返せ、韓国に返せとか言ったりするんですが、これは日本人としては、歴史を知っていれば言い返せる。あれは日本人が盗んだものじゃない。「日本書紀」にも書いてありますが、聖徳太子が亡くなったときに新羅の王様が仏像を送ったという記事がありますから、あれはおそらくそのような事情で送られた物、あるいは広隆寺が創建されたときに親戚が日本でお寺を作ったからというので、その秦氏の親戚が、じゃ朝鮮半島の優秀な技術で作った仏像をあげようというかたちが一番考えられるケースなんですね。決して戦争で取ってきたわけじゃない。略奪品じゃありませんから、むしろ恩恵というか、贈り物として送られた物ですから、もともと奪ったと言われれば、それはそうじゃないだろうと言った方がいいと思います。

高麗仏画伝来の由来

 もちろん豊臣秀吉のときに奪って来た物もけっこうあるんですが、これは、ちょっと話が飛びますが、そう言ってるんだけど、そうじゃないかもしれないということを考えておいた方がいいんです。たとえば日本には高麗時代の仏像とか仏画がけっこうあるんです。地方のお寺などに宝物として収められているような高麗仏画があるんですが、じゃあ、これは豊臣秀吉が朝鮮を攻めたときにみんな略奪してきた物か。お寺でも説明として、これは豊臣秀吉の朝鮮征伐のときに奪ってきた戦利品であるとか説明が書いてあったりするんですよ。だけど、これは疑ってかかる必要があります。昔はそれはかっこいいことだったんですよね。つまり豊臣秀吉が勇ましく攻めていって分捕ってきた分捕り品だというので、これは恥ではなかったわけです。むしろ威張るべきことですから、そういうふうにお寺があとから説明をしたということはあると思いますが、高麗仏画が日本に渡って来た状況はいろいろあったと思います。たとえば日本の室町時代にかなりこういう物が渡ってくるんですが、これは必ずしも略奪じゃありません。なぜかというと、朝鮮半島では李氏朝鮮というのが建国されます。この李氏朝鮮は仏教ではなくて儒教を国の国教というか基本の教えにするわけです。ですから仏教寺院は、潰されたとまでは言いませんが、抑圧された。抑仏政策と言うんですが、朝鮮半島では仏教が抑えられるわけですね。そうすると、このお寺の美術品が日本に流出する。なぜなら、日本ではまだ仏教が盛んで、朱子学という、この新しい儒教はまだ完全に入って来ていないんですね。ですから、まだお寺にお金が回っている日本の方に、これは良い物だといって高麗仏画が貿易のかたちで来るか、朝鮮政府が贈り物として送る。たとえば、高麗版の大蔵経というのがあります。つまり最も優れた大蔵経、間違いが少ない完璧な大蔵経として知られていますが、あれは李氏朝鮮の政府から室町幕府とか大内氏のような大名に贈り物として贈られてきている場合がかなりあります。なぜか。それは朝鮮では仏教があまり重んじられていないわけですから、日本にあげれば喜ばれる。自分たちとしては、そんなに価値を認めていないわけですね。だから、それだったらこれはある意味で、くれてやってもいいと。贈り物の効果はあると。それで、自分たちはそんなに損するわけではない。大蔵経を不要だとまでは言いませんけどね。でもそういう感じがあるので、室町時代には高麗版の大蔵経が日本にかなり入ってきますね。これも豊臣秀吉が分捕ってきたわけではないんです。むしろ平和的な交流の中で、贈り物として、日本では歓迎されて渡ってきた物ですね。

 こういうところに歴史の見方が歪む点があるわけなんです。つまり、日本と朝鮮のあいだは戦争の歴史であったと。そうすると、お寺に高麗時代の美術品がある、朝鮮の物が日本へ入ってきている、これはきっと豊臣秀吉の軍隊が行ったときに取ってきた物に違いないと。戦争の歴史しか考えていないと、そういう見方しかできなくなるわけです。もちろん秀吉の軍隊はかなり略奪しています。それは確かで、その重要な物は実は本、書籍だったんですが、そういうふうに略奪品として日本に来た物も相当数あります。でもそうじゃない物もある。それはなぜか。やっぱり平和的な交流があって、むしろお互い納得ずくで、贈り贈られてきた物もかなりある。あるいは貿易というかたちで入ってきた物も。


日朝交流の起源

黒曜石が語る交流の起源

 そういう交流の起源というのは恐ろしく古いのでして、少なくとも考古学的に確定できることで言うと、ざっと1万年とか、もしかしたらそれ以前、つまり縄文時代じゃなくて、旧石器時代に日本と朝鮮半島のあいだに交流があったという証拠があります。それは何かというと、隠岐島という島を皆さんご存じですね。あの隠岐島には幾つか島がありますが、最大の島は島前(とうぜん)といいます。隠岐島の島前の北の海岸の端に黒曜石の産地があるんです。日本の中で黒曜石の産地は限られています。ご存じのように、黒曜石は火山が爆発してできるものです。たとえば八ヶ岳の麓にある尖石の遺跡は有名ですが、あの辺りでも黒曜石が出ます。ですが、日本の中国地方、あの辺りでは隠岐島しかないんです。ですから、たとえば中国地方の縄文時代の遺跡から当然隠岐島の黒曜石は発見されるし、場合によっては北陸とかにかなり運ばれているんです。ただ、もっと驚くのは、実はこの隠岐島の黒曜石はウラジオストックとか、今のロシアの沿海州の遺跡から発見されるんです。しかも、それは年代からいうと旧石器時代、つまり1万年以上前だというんです。ほとんど年代測定を疑いたくなるようなことなんですが、どうも間違いないらしい。つまり黒曜石というのは石器時代にはたいへん貴重な物だったわけです。あれはガラス質で、叩いて割れば非常に鋭い刃ができるんです。ですから、鋭い石器を簡単に作ることができる。それが鏃(やじり)とかに用いられたわけで、非常に貴重な物です。火山でしかできませんから日本は産地なんです。というわけで、遙々日本海を越えて、ロシア沿海州、対岸にまで運ばれているということなのです。朝鮮半島からも出ているそうです。

 どういうふうに運ばれたか。隠岐島は日本海に浮かんでいる島ですね。その隠岐島の北の端で、黒曜石が出るところを案内してもらった人の話を聞いていたら、「私のおじいさんは、明治時代に竹島、いま領土問題で話題になっているあの竹島で漁場を開発したんです」と言っていました。実は隠岐島から竹島というのはすぐなんですよね。当然、明治時代で、日本の力が強いときですから、隠岐島の人がその漁場を開発したということなんです。ですから、隠岐島の黒曜石がロシア沿海州から出るとすれば、どうしても竹島経由です。竹島の先には鬱陵島という大きな火山島があるんです。私は行ったことがありますが、韓国ではウルルンドと言います。竹島から鬱陵島、そこから韓国の東海岸はすぐですから。おそらくこういうルートで、朝鮮半島経由で沿海州まで運ばれたと思います。あの時代は、直接日本海を横断するまではしないだろうと思います。でも運ばれている。交易があった。しかも竹島経由だろうということです。当然ですよね。だって旧石器時代だから。縄文時代でもないです。ですから日本だ韓国だっていう区別は、その当時はもちろんぜんぜんないですから。その旧石器時代の隠岐島の人たちは、国境など考えないで海に乗り出して行ったと思うんですが、そうすると今より自由だったと考えられなくはないですね。いま日本人が竹島へ行こうと思ったらたいへんですよ。おそらく近づいたら撃たれるでしょう。いま日本人が上陸することはできないわけですね。鬱陵島までは自由に行けます。私は韓国の港からフェリーで10時間位で行きました。鬱陵島へ行ったら、竹島はすぐ先だと言われましたこが、これはもう申請したって絶対許可は出ませんから、最初から諦めて行きませんでした。無理して近づけば、おそらく向こうは撃ってくると思います。これだと、いったい1万年前と今の状態と、どちらがいいのかと言いたくなるんです。当時の船とかは、いま日本海を走っているような立派な船とは比べ物にならなかったと思いますが、お互いの行き来の自由ということを考えると、今の時代の方がよっぽど世知辛いということですね。

天皇家と朝鮮半島の関わり

 だから、われわれもよく反省しなきゃいけないと思うんですが、日本人が韓国人によく似ているといっても何も不思議なことはないんです。昔はそういうふうに往来自由だったのですから。混ざって当然です。恥でもなんでもない。でも恥だと思う人が日本にはまだいるらしい。あれは何年前でしたか、今の天皇、今上陛下が、たしか誕生日のときの談話で、朝鮮半島と自分は非常に深い繋がり、絆を感じると。これは天皇の先祖である桓武天皇のお母さんが百済王家の出身であることを指しています。つまり桓武天皇のところから母方を遡っていくと朝鮮になる。というので、どこかで系図が、血筋が間違いなく繋がっていればですけど、今の天皇と桓武天皇はやはり繋がっていると私は思います。切れているとは思わないですね。そうすると、当然日本の天皇家には朝鮮の王家の血が混ざっているということになるわけですね。これが日本でどう受け止められたかは別として、韓国ではずいぶん反響を呼んだらしいですね。やはり韓国の人というのは血筋対する意識が非常に強いので、自分は朝鮮半島と繋がってるという発言は、韓国では非常に驚き、それから好感、良い感じで受け止められたということでした。なにかの日韓の会議で、そのときに駐日大使をしていた方と同席して、雑談のように話しているのを聞いたんですが、「私はその天皇の発言があった後で宮中に参内したときに天皇陛下に御礼を言いました」と。あの発言のお蔭で韓国の国民の対日感情が非常に良くなりましたと言って御礼を申し上げたら、天皇は何と言ったかといったら、「いや事実ですから」と言ったというんですね。僕はそれはいい答えだと思うんです。つまり事実なんだからしょうがない。しょうがないというのはおかしいけれど、それは良いとか悪いとか、そういう問題ではないですね。繋がっているんだから本当に。

日本語と韓国語

 日本人の場合は、好むと好まざるに関わらず朝鮮半島とは深い繋がりがあります。たとえば仏教がやってきた。いま日本では皆一生懸命漢字を勉強しますが、漢字そのものも朝鮮半島からまず渡って来ているわけですね。後で遣唐使とか中国と繋がりますけど。そのように日本の文化の多くの部分が朝鮮半島から渡って来ているわけです。それからいま私たちが喋っている日本語、これも言語学者はいろいろ言うんですよ。つまり、日本語と直接的な親縁関係は認められないとかね。僕は言語学者はばかだと思います。真面目に韓国語を勉強したことがあるのかと言いたくなる。つまり、韓国語をちゃんと使おうと思って、日常生活でちゃんと喋ろうと思って勉強したのなら、そういうばかなことは言わないはずです。絶対に似ています。だから僕は今の言語学はおかしいと思っています。たとえば韓国の言語学者はそんな変なことは言いません。なぜなら、韓国の人の方が日本語をよく勉強していますから、日本語の性質もよくわかってっています。日本語と韓国語が非常によく似た言語であることは自明の理です。私がソウル大学に行っていたときは、研究所の所長がたまたま韓国語学、言語学の大家で、お蔭で韓国の一番偉い言語学者といろいろ話をする機会があったんですが、彼らは日本語と韓国語が同じグループに属しているのは常識だと思っていましたね。この辺も日本の方が韓国認識が弱いと思われる理由ですね。

 だってソウルへいって見てれば分かるんですよ。日本人は圧倒的に韓国語が上手になります。アメリカ人などにとって韓国語というのは恐ろしく難しい言葉でね。あるいはヨーロッパの人も四苦八苦して覚えるんですよ、ほんとうに。よほど才能がある人間でないと、なかなか上達しないんです。だけど日本人は、もう遊び半分で、留学に1年位行ってこようかという感じで行っている女の子でも、半年位すればかなり喋りはじめますから。1年で流暢に喋っている日本人は珍しくないです。日本語と韓国語がよく似ていなかったら、そんなことには絶対にならないです。だいたい日本人は語学の才能ないという定評があるでしょ。その中でソウルにいった留学生だけは抜群にできるんですよね。日本語と韓国語が似ていなかったらこんな現象が起こるはずないです。私は1年居てだいたい自由に喋れるようになりました。後の方では、電話で20分30分喋っても、たぶん間違ってるとは思うんですが、自由に喋れるようになりました。私は一応勉強して、ある程度できるという言葉は五つありますが、ほかの言語とはぜんぜん比較にならないですね。たとえば、私は中国に1年半住み、なるべく中国語ができるようになりたいと思って勉強しましたが、とても韓国語のレベルにはいかないんです。中国語は難しいです。同じ漢字を使っているとかいっても、ぜんぜん違う言語ですから。性質が似ていないわけです。ですから韓国語の3倍難しいと私は言っているんですが。隣にあるから似ているっていう問題じゃないんです。やっぱり韓国語は日本語の親戚なんです。

 たとえば韓国語にはテニヲハがあるんですね。でも中国語にはテニヲハないでしょ。中国語には「なになにヲ食べる」とかいう「ヲ」はないんですよ。ヲを使わなくても言えるんですね。英語もそうです。ですけど、韓国語は「なになにヲ」というときのヲに当たる助詞が存在するわけなんですね。それから、たとえば外国人が日本語を勉強するときに一番難しいことはなにか。ハ(わ)とガの区別だと言いますよね。これはさんざん時間をかけて日本語の先生が外国人に教えることなんです。ハ(わ)とガの使いわけですね。留学生の研修コースみたいなので世界中から留学生が来てますね。東京外語大なんかにそういうコースがありますが、そこでは講師が一生懸命ハ(わ)とガの区別を教えている。それから日本語には擬声語あるいは擬態語が多い。「ばたばた」とか「にやにや」とかね。これも時間をかけて教えるわけですよ。これは韓国から来た学生にとっては、ぜんぜんばかばかしい。なぜか。だって韓国語にもハ(わ)とガの区別があるあるから。つまりハ(わ)に当たる助詞とガに当たる助詞があって、僕の知る限り、この使い分けの仕方は99%以上日本語と韓国語で一緒です。こんな言語を僕は知らないですね。それから、韓国語は擬声語、擬態語が日本より多い。ともかく日本語のように多いです。だから韓国人は、こういうことを勉強する必要ないですね。そのぐらい似てるんです。ただ、日本語と韓国語のあいだで、いわゆる比較言語でいう完全な音韻対応と呼ばれるものは認めにくいんです。そういう問題はありますが、実際に韓国語を勉強して使ってみれば似ていることは一目瞭然です。これを言語学者が言えないというのは、ちゃんと勉強してないんだと思います。

日本と韓国、意識の違い

 日本と韓国の関係を考えるときに、言葉の問題みたいな一番基本的なことでも今言ったような認識ですから、そりゃ日韓のあいだはうまくいくわけないんですよ、僕に言わせれば。相手のことがよくわかっていないんですね。国籍という観念がなくて自由に行き来していた時代は良かったんですが、だんだん国家というものができてくると、いわゆるナショナリズム、国家意識というのが生まれてきます。そうなると国と国とのあいだの戦争というか、そういう事が起こってくるわけです。ですから白村江の戦い、それ以前もいろんな戦争があったと「日本書紀」には載っていますが、日本が国家としてまとまったものになっていくのは、やはり飛鳥時代から後でしょう。7世紀ですね。この時代から後は、こっちは日本、あっちは新羅になります。こっちは日本で、向こうは朝鮮半島だと。別のものであるという区別の意識、それがナショナリズムですが、それが生まれてくる。平和の時代にはお互い人間じゃないかということで仲良くできているんですが、ときとしてうまくいかなくなることがあるんですね。これが戦争の時代です。それはどういうことによって生まれるか。いろいろな理由があると思いますが、基本的には相手に対する無理解が多いと思います。というか、一番基本になるのはそれだと思います。うまくいっている時代はどうか。たとえば高麗時代ですね。日本は平安時代です。高麗時代というのは、仏教が非常に栄えた時代で、文化的に見ても日本の平安時代にちょっと似た「優美な文化」という趣があります。そういう時代、同じ仏教を両方で奉じていますから、意思の疎通が簡単なんですね。平安時代の説話を見ていると、日本のお坊さんで高麗に渡った、あるいは漢文をやっている学者ですが、漢文のできる人が坊さんになって高麗へ行ったというような話が幾つも載っています。こういうのも、ある意味で知られざる交流なんですよね。交流はあるんです。ただ知られていないだけ。あまりに平和で、あまりに日常的だったので、注目されていないだけです。

日韓物の交流、日本は資源大国?

 黒曜石の話をしましたが、物として重要なものでいうと、焼き物があります。豊臣秀吉の朝鮮侵略はなぜ起きたか。朝鮮の側は朱子学、儒教を中心とする国家体制で、自分から戦争をすることは考えられないですね。儒教はいろいろ欠点があると思いますが、優れている点は平和主義です。軍人ではなくて、文官が政治を握っていて、戦争は基本的にあまりやらないというか、好まない国家です。日本の室町時代は完全にそうじゃありませんが、ある程度そういう時代だったと思います。半ば日本に儒教が入って来て、それから一方では仏教、禅宗とかがまだ栄えているわけですね。室町時代は実は日本と朝鮮のあいだの交流が非常に盛んな時代です。最近は日本史の教科書にも載っているようですが、たとえば、日本からは銅が輸出されています。朝鮮からの主要な輸入品は何かというと、それは木綿なんですね。今ではそれは不思議に聞こえるわけです。三河の木綿とか、あるいは河内、大阪の辺りは産地として有名ですけど、ああいう木綿が日本で盛んに栽培されるようになるのは江戸時代になってからですね。室町時代に日本の農民は何を着ていたか。木綿じゃないです。それまでは麻だったわけです。しかし、朝鮮半島では早くから木綿が栽培されていました。ここに文化の差異があるわけです。それで、朝鮮半島から木綿が盛んに輸入されたわけです。

 銅が主要な輸出品だったというのも不思議に思うかもしれませんが、これもいろいろな誤解があると思うんです。それは、おそらく明治時代以後、国策としてこういうことが言われ続けたからだと思います。つまり日本は資源の少ない国である。だから海外に行って領土を求めなきゃいけないと。これは日本の歴史から見ると長い歴史ですよ。近代以前を含めた歴史から言うと嘘です。なぜなら室町時代、日本の主要な輸出品は銅だったんです。日本は地下資源の豊富な国だったんです。この中で住友系の会社にお勤めの方いらっしゃるでしょうか。住友の富の元は銅ですよね。別子銅山。徳川時代でも日本は世界的な銅産国なんですね。明治時代に入って初めて工業が発達してきて、足りないという話になったんですが、昔は余っていたんですね。それから豊臣秀吉の時代は金銀ですね。特に豊臣秀吉の場合、富の源泉は生野の銀山です。豊臣秀吉の頃、日本は世界で第二の銀産国だったんです。絶対かと言われるとわからないですが、日本が非常に銀の採れる国だったというのは間違いないです。1番はどこでしょうか。今もそうかもしれませんが、メキシコですね。メキシコがスペイン人によって征服されてメキシコの銀山が開発されるんですが、同じ時期に日本でも銀山が開発されるんですね。それが生野銀山です。それから佐渡の金山が開発されますから、安土桃山時代から慶長、徳川の初期にかけて、日本は世界的な鉱産資源の国だったんです。だから主要な輸出品は金であり銅であったわけですよ。江戸時代でもそうです。

 ちょっと話が逸れましたが、朝鮮半島から見ると日本は地下資源の豊かな国なんですよね。日本人の今の常識とは非常に違うけど、歴史の中では事実です。そういうことで見れば、亜鉛、神岡鉱山とか、けっこう産出量があるんですよね。つまり日本の工業がただ大きくなり過ぎて足りなくなっただけで、そんなに貧しいとは言えないと僕は思うのですが、どうでしょうか。朝鮮半島から見れば絶対に日本は地下資源が豊かだと思うんです。朝鮮半島も北の方にいくと鉄とかいろいろなのがありますけど。

日本では尊重された高麗茶碗

 平和な時代の交流はいろいろありますが、たとえば、お茶、茶道の方で高麗茶碗というのは非常に尊重されますよね。利休がこれを鑑定した時代には、城一つが茶碗一つとか、そういう価値があったわけで、今だって非常な名品と言われる物は大変な価値があるわけです。でも、あれは朝鮮半島のどこで作られたかもわからないような地方的な物だったんですね。いわゆる官窯、李朝白磁と言われますが、豊臣秀吉が朝鮮を攻めた頃に李朝で生産されていたのは、高麗茶碗のような物は主流ではないんですね。韓国の博物館へ行ったらわかるんですが、日本でお茶の方で非常に高値のついている高麗茶碗みたいな物は、たとえば韓国の国立中央博物館の陶磁室にはまず陳列されていないですね。その当時の主流とみなされていた焼き物じゃないからなんです。李朝白磁は白い色が貴重であって、高麗茶碗の茶色というか、ちょっと濁ったような釉薬(うわぐすり)の色というのは田舎の物なんですよね。だから朝鮮ではほとんどあれは尊重されてなかった。おそらく南の方の民間の窯で作られていた地方的な焼き物なんだけど、なぜか利休はこれがいいと言ったわけですね。だから大変な値段がつくようになった。つまり利休はその当時の一番の目利き、鑑定家ですから、利休がいいと言ったら、いいことになるわけですね。ということは、利休は朝鮮との貿易で儲けていたということになるわけです。鑑定料というのは今でも高いんですが、おそらくあの頃もそうだったろう。その焼き物の目利きをしてもらえば、当然利休のところには相当な報酬が転がり込んだと私は思ってるいるんですが、それは別に利休をけなすことにはならないと思いますね。利休はもともと堺の商人の出身ですし、今まで知られていなかった美しい物を自分の目で発見して、そのことによって対価を得ることは恥だとは思わなかったと私は思います。鑑定料もちゃんと貰っていた、儲けていたと。つまり、朝鮮の焼き物で儲けていたんですね。秀吉は利休が切腹させられる直前に朝鮮を攻める計画を立てていたんですね。秀吉がなぜ利休を殺したか。いろいろな理由があると思いますが、私は最大の理由は、利休が朝鮮との戦争に反対していたということだと思います。口では言わなかったと思いますけどね。でもあの時代をいろいろ調べてみると、朝鮮との戦争には反対だと思っていた人たちはかなりいるんです。

朝鮮出兵反対勢力

 一つの例を挙げると、秀吉の弟の大和大納言秀長という人がいます。いわゆるナンバー2、良き補佐役というか、最高のナンバー2であるというのが堺屋太一さんの評価ですが、その良き補佐役である秀長は、明らかに朝鮮との戦争に反対だったんです。どうして反対したか。今は天下統一が成って平和の時代であると。であるから外国とも、まず平和が第一で、交易を行って富を得ることが一番大事なことであるというのが秀長の主張だったと伝えられています。この秀長の主張は利休と合うわけです。朝鮮から陶磁器が輸入されていて、日本からは銅とかいろいろな物が出ていって、硫黄とか鉱産物が出ていって貿易が行われていれば、儲かる人たちがたくさんいるわけですよね。だから貿易で儲けている人たちは当然、貿易が途絶すれば困るわけだから反対なんです。利休は朝鮮貿易で自分も儲けているけれども、人脈から見ると、堺の商人とか、博多の商人とか、あるいはこういう平和主義者で戦争に反対だった秀吉の弟の秀長とか、こういう人たちとつながるんです。だから秀吉が利休を殺したとき、秀長はこれに反対だったんですね。なぜか。戦争反対ということでは同志だったからだというのが私の解釈です。ですから秀吉の朝鮮出兵とか侵略とか、いろいろ言い方は難しいですけれども、朝鮮の戦争を見ても、太平洋戦争じゃありませんが、戦争に反対する人たちはけっこういるんですよ。そういう人たちを見てみると、朝鮮との貿易が見えてくる。

 たとえば戦争が始まる直前に、最後まで戦争を回避しようとして一番中心になったのがどこかというと対馬なんですね。対馬というのは朝鮮との貿易で食っている所ですから、戦争が起こってしまったらもう収入がなくなってしまうわけですよ。それで、必死に戦争を回避しようとするんですが、その対馬の殿様と、博多の大商人で、その当時では利休と並ぶ有名な茶人だった嶋井宗室という人物がいます。これは博多だけではなくて、その当時の日本を代表する豪商ですね。この貿易商人で茶人であった嶋井宗室と、その対馬の宗義智という殿様、この2人が戦争が始まる直前に釜山に現れるんです。なんとか戦争を回避しようと思って、朝鮮側に譲歩してもらおうと思って来るんですけど、朝鮮は、日本の要求は理不尽だというので怒っているんで追い返されるんですね。これで戦争が始まるんですが、この嶋井宗室という博多の大商人も当然朝鮮貿易で儲けていたに違いない。ですから対馬の殿様とも前からつながりがあって、こういうことになったと思いますが、こういう歴史があるんです。文禄・慶長の役でもね。だから、ただ秀吉が朝鮮を攻める、最後に中国まで取ってやろうという、それだけの話ではないわけですよ。実は歴史をもう少し別の方から見ると、いろいろなことがあるわけです。


日清戦争は回避すべきであった?

 きょうは日清戦争の話まではできませんでしたけれども、日本と朝鮮の近代の関係を考える上で、やっぱり日清戦争って極めて重要だと思います。これで決定的に日本と朝鮮、中国の関係が悪くなる。ある意味で戦争と植民地化の道しかなくなるわけなんですが、日清戦争は回避できなかったか、あるいはやった方が良かったかというのは、まだ日本人の中できちんと整理されていない問題だと思います。皆さんどう思いますか。僕は自分のゼミとかに出て来る学生にいつも訊くんですよ。日清戦争はやってよかったと思うかと。常識的な答えはどうでしょうか。僕も昔はそう思ってたんですけど、戦争そのものはよくない。あるいは中国を侵略するのもよくないけれども、日清戦争は日本の近代化に役立った、ぐらいじゃないですかね、今の日本人にとっての最大公約数的な日清戦争の意義は。

 私は近代の日本と朝鮮、韓国の関係をいろいろ調べてきて、秀吉の文禄・慶長の役じゃありませんが、実は日清戦争に反対していた人がずいぶんいたということがだんだんわかってきました。誰が一番反対していたか。戦争の一番の張本人と見られている伊藤博文、それから明治天皇。この辺は政治の中心にいた人で、結局引っ張り込まれたんですね。伊藤博文は明らかに清国と戦争することに反対でしたけれども、現地の軍が戦争を始めた。満州事変とほとんど同じですね。いわゆる独断専行的に現地の軍が無理やり戦争に持っていったんです。あるいは川上操六という参謀本部の次長ですけれども、こういう人たちが外務大臣の陸奥宗光と組んで戦争を無理やり始めるんです。でもこれを抑えきれなかったのは、伊藤博文の一生の失敗だと思いますね。明治天皇も明らかに反対でした。だけど明治天皇と伊藤博文、つまり天皇と総理大臣が反対なのにどうして戦争が始まってしまうのか、あるいはそのままどんどん進んでしまうのかというのは、近代日本の大問題ですけれど、日清戦争の過程をよく見ると、満州事変とほとんど一緒だということがわかります。現地で軍が戦争をおっ始めちゃうんですよ。しかも、どんどん勝ちますから、勝ったところでやめられなくなるんですよね。こういう近代日本の体質は、日清戦争の頃からあります。私はやったのは間違いだったと思っています。その当時の朝鮮も中国も、相当時代遅れな駄目な国ではありましたけれども、この2国とのあいだの平和を維持しておいた方が最終的に日本の利益になったと思っています。

 たとえば日露戦争ですが、日本は国債を出して、莫大な負債を負うわけですよね。収入はほとんどなかったわけですから、満鉄の利権を得ただけで、取り返したとはとうてい言えないと思いますね。日露戦争に入るのが日清戦争をやった必然的な結果です。最終的には中国侵略までいって、近代日本がいっぺん滅びるところまでいくわけですが、これも朝鮮が発端であるわけなんですね。もう時間がないのでお話できませんが、日清戦争に反対した人で、一番勢力もあって、影響力もあって、一番いいことを言っているのは勝海舟ですね。勝海舟には「氷川清話」というのがあります。氷川というのは赤坂に氷川神社がありますが、あの辺りのことですよね。あの辺りに屋敷があって、彼はもう引退していましたから自由に喋れたんだけど、普通の人が今の戦争は反対だと言ったら警察が飛んで来たかもしれませんけれど、勝海舟ですからね。誰も手を出せないで言いたい放題新聞に喋っていて、それが残されたのが「氷川清話」です。文庫版で読めますからぜひ読んでほしいと思いますけれど、日清戦争なんてやったのはばかだと。それからロシアが三国干渉で旅順を取っちゃったとか言って、みんな怒って臥薪嘗胆、次に戦争をやるんだと、こう言ってたわけでしょ。そんなばかな話はないと。日清戦争、清国と戦争を始めたらロシアがその隙を突いて出て来るなんてことは最初から分かっていたことだ。だから言わないこっちゃないって言うんですよね。旅順を取られてしまったではないかと。やり方が下手なんです。ですから日露戦争という、お金でいえばすごく損な戦争をやることになるわけです。これは、まだ私の個人的意見ですが、皆さんにも、それから日本の若い人にも、もっとよく考えてもらいたいと思うのです。戦争がよくないという理想主義だけではないと思います。日清戦争は損だったというのが勝海舟の見方なんですよ。それで、僕もそういうふうにだんだん思うようになりました。

 今の日本と韓国、それから日本と中国の状態を見ると、基本的にはいい方向に向かってると思いますね。少なくとも外交的にはお互いを一応尊重して、経済的には非常に活発な往来がありますね。中国貿易についていうと、特に関西経済圏では、中国貿易の量が対米貿易を超えたと言っていましたね。日本全体がそういうふうになっていくかもしれませんけれども、韓国、中国とのあいだの平和と経済的な関係というのは、昔も今も重要だと思います。ですから、日清戦争というのは、そういう方向でない方向を日本が選択したということなんですが、私は大きな誤りだったと思います。これは中国からお金を取って、それが日本の産業革命の資金になったというようなことで補いがつくようなことではない、というのが今の私の考えです。

 日本と中国の関係のあいだ、発端にあるのが、常に朝鮮半島なんですね。朝鮮半島との関係を誤ると、今度は中国との関係に波及していきますよ。第二次大戦ではそうでしたけれども、遂には全世界を敵に回すというか、そういう方向にいく危険というのは今でもずいぶんあると思います。今は中国ブームで、中国に行こう、中国を知ろう、中国のことを勉強しよう、そういうブームみたいですけれど、私は韓国という国は、人口は4千万で日本の3分の1、経済力からいうともっと小さいわけですが、その大きさよりもずっとずっと日本にとって重要であると思います。小さいからといって無視するのは同じ間違いを繰り返すことになると思います。これから中国との関係は日本にとって絶対に重要ですが、その前に日韓がぎくしゃくしていたんでは、日中だってうまくいかないというのが私の考えですね。

 まず日韓から固めて日中にもっていく。これでなければ日本の周りは絶対に安定しないと思っています。これは歴史の中で何回も繰り返したことですけれども、こういうことについての地政学的な位置関係というのはずっと変わらないと思います。ですから歴史をよく見て、やはり日韓、それから日中という関係をどういうふうに安定的に維持していくかということが、これからの日本にとって、特に経済にとって一番重要であると思っています。それで、「朝鮮半島から見た日本」という題にぴったり合っていたかどうかわからないんですけれども、私が今、言いたいことの内容はだいたいこういうことです。ご清聴ありがとうございました。(拍手)


質疑応答

司 会 ご質問を受けたいと思いますのでどうぞ。
   
講 師

あまり現代のことをお話できなかったんですが、私が本で書いていることは歴史的なことが多いのです。いま「東アジア共同体」ということを小泉さんが言っていて、実は私はずっと前から東アジア共同体って考えているんです。ですから、そういう本を書こうと思っているところなので、今からのことについてもお答えしたいと思います。

   
質 問 先ほど日本語と韓国語の類似性について、かなり積極的に肯定論があったのですが、ほんとに不勉強で申し訳ないのですが、ハングルというのは人工言語というふうに僕らは……。
   
講 師 文字ですね。
   
質 問 人工文字ですか。ハングル・イコール韓国語ではないのですね。その辺の、韓国語とハングルとの、僕らはすぐ同じように考えてしまうのですが、ハングル自身が人工文字ですね。むしろエスペラントに近いような印象で僕らは受け取るのですが、それに比べると日本の言語というのはもっと歴史的に古いものがあるんで、比較的新しい人工文字と、古い歴史を持つ日本の言葉の類似性があるということがもう一つよく理解ができないのですが。文字イコール言語ではないと思うんですが、そこら辺をもう一つご説明頂ければ有り難いと思います。
   
講 師

文字についてはある意味ではおっしゃる通りですね。ハングルというのは世界で使われている文字の中でも非常に珍しいものです。普通、文字というのは、だんだん自然にできてくるものなんですね。たとえば西洋のアルファベットにしても、元をただせばフェニキア語のアルファベットが元になってるとか、いろいろ言われているんです。でもだんだん、だんだん、最初はどこにあったかわからないんだけど、だんだん、だんだん出来てきてるんですよ。ところが日本の平仮名も、漢字の草書体が元になっているのはたしかでしょうけど、漢字がだんだん、だんだん変形してできて来た。このだんだん、だんだん自然にというのがあるんですが、ハングルはそうじゃないんですね。あれは非常に珍しい例で、他には僕は知らないんですけども、あれは李朝の第4代の世宗大王という人が学者を集めて韓国語の音韻を徹底的に研究して、その韓国語の音を表記するにはどういうふうに書けばいいかということで、科学的に創りだされた文字なわけですね。それで、韓国の人たちはこれを非常に誇りにしていますけれど、たしかにそうで、韓国語の発音を表記するためにはほぼ完璧だと思います。それから文字の音を表記するシステムとしては、あれは非常に優れていて、たとえば私たちが学校で英語の発音などを勉強するときに発音記号ってありますよね。だけど、あの発音記号は見ればわかるように、西洋のアルファベットをいろいろ工夫して、引っ繰り返したり何したりというかたちで、いろいろ工夫してやってますよね。決して合理的に組み立てられてはいません。

ハングル語の場合、すごいと思うのは、たとえば、これ絶対そうというわけじゃないんですけど、発音するときの歯とか舌との関係をあの形に表しているという説もあるぐらいです。そのぐらい音声学というか、音韻学というか、そういう科学的な知識に基づいて人工的に突然創りだされた文字です。こういう点は日本の平仮名と非常に違うんですが、そうではなくて喋っている言葉、喋り言葉、つまり字を考えないで、ふだん喋られてる言葉でいうと、実によく似ているということです。たとえば私最初に韓国語を勉強して驚いたんですが、韓国語の動詞の活用表というのがあって、活用形の形を日本の文法とまったく同じ言葉で言っているんです。つまり未然、連用、連体、終止と。特に連用形とか連体形。たとえば英語で連用形とか連体形とか考えられますか?私は西洋の言葉はドイツ語もフランス語も勉強したけど、そんな考え方はないですね。だから用言と言われる動詞とかにつながる場合はこの形で、それから体言、つまり名詞につながる場合はこの形という文法の概念そのものが日本語とほぼ一緒なんです。ところが動詞そのものを見ると形はぜんぜん似てないんです。ですけど、今いった動詞の活用の概念は日本語とほぼ同一。形容詞も同様です。形容詞の活用の仕方も日本語の形容詞の活用と同じように連用形とか連体形で考えて構わないんです。韓国語の文法というのは、ほんとは難しいんですけど、日本人にとっては日本語の文法とほとんど変わらないですから、文法を意識しないでどんどん喋れるんです。でも今いった動詞の活用の仕方は概念としてはよく似ているのに、動詞そのものはぜんぜん似てないんですね。

僕は東洋大でドイツ語の教師を10年していたんですけど、英語とドイツ語というのは実によく似ているんですね。ところが、韓国語と日本語は、動詞にしても身体語ですね。それから数詞、形はみな似ていないんですよ。ところが文法の概念からいうと驚くほど似ているんですね。だから非常に不思議な関係ですけど、似ていることは間違いないです。だから今までの比較言語学というのは不完全だと考えているんです。

大雑把な言い方ですけど、英語とドイツ語は兄弟の関係。それから日本語と韓国語というのは従兄弟の関係だと。だから英語、ドイツ語よりは遠いですけれども、親戚なのは間違いないというのが僕の考えです。 (拍手)


−−以上 −−


講師略歴

上垣外 憲一

出生 1948年5月3日 長野県 松本市生まれ
学位 東京大学学術博士
現職 帝塚山学院大学教授
 
住所 日本 神戸市 北区 有馬町 1229-2-720
電話 81-78-904-3930

学歴
1968年4月 東京大学教養学部文科一類入学
1972年4月 東京大学大学院人文科学研究科比較文学比較文化課程 修士課程入

1974年4月 同上 博士課程進学
1977年三月 同上 単位取得退学 (同大学院 博士学位取得 1995年)
 
職歴
1977年4月 東洋大学文学部講師(ドイツ語担当)
1980年4月 東洋大学文学部助教授
1987年5月 国際日本文化研究センター助教授
1997年4月 帝塚山学院大学教授
現在に至る
この間、1984〜5年 韓国 ソウル国立大学 韓国文化研究所 研究員
1993年 中国 北京外国語大学 日本研究中心 客員教授
1995〜6年 カナダ アルバータ大学 東アジア学部 客員教授
2002〜3年 中国 北京外国語大学 日本研究中心 客員教授
 
主要著作  
日本留学と革命運動  東京大学出版会, 1982.
        (金素雲賞受賞)  
雨森芳洲 : 元禄享保の国際人  中央公論社, 1989.
        (サントリー学芸賞受賞)
「鎖国」の比較文明論 : 東アジアからの視点. 講談社, 1994.  
聖徳太子と鉄の王朝 : 高句麗からよみとく飛鳥  角川書店, 1995  
ある明治人の朝鮮観 : 半井桃水と日朝関係   筑摩書房, 1996
(博士学位論文)  
日本文化交流小史 : 東アジア伝統文化のなかで  中央公論新社, 2000.                            
花と山水の文化誌 : 東洋的自然観の再発見  筑摩書房, 2002  
文禄・慶長の役 : 空虚なる御陣   講談社, 2002