ヴェネツィア ― 水上の迷宮都市
講師 法政大学工学部建築学科教授 陣内 秀信 平成16年5月11日 於:如水会館 【無断転記転載を禁ず】 社団法人 如 水 会 責任編集
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◆内容目次
今日の会場の如水会館の建物はよく知っている建築です。というのは私は大学の建築学科で学び、それから大学院に行きましたが、この建物はその同じ研究室のクラスメートの六鹿政治(ろくしかまさはる)君が、日本設計株式会社の担当として設計したのです。彼は力を入れてデザインしたと自慢していました。彼はアメリカのプリンストン大学のマスターコースで当時のアメリカの最先端のアーバンデザインとか建築のデザインをマスターしてきました。そして日本設計でバリバリやっています。
この建物が設計された頃は、まだ近代建築ということで、豆腐を切ったように鉄とガラスとコンクリートでスマートにつくり、装飾等はあまりつけないで、すっきりした機能的なものがいいという時代だったのです。彼は、それに対してある意味では反旗を翻していました。その当時、建築、美術や文学や思想の分野では、「ポストモダン」という言い方が出てきており、日本でもこの建物のあとから「ポストモダニズム」の流れに入っていきますが、彼はその走りだったのです。
彼はこの建物の一番下の、外から見られ、アプローチしてくる重要な部分にアーチをいっぱいつけました。そういう建物はこのあたりではありませんでした。対面の学士会館は、ほんとうに古い時代の建物で、もちろんコンクリートで出来ていますが、昭和の初期ですから、まだアーチを使ったり装飾がいろいろついていて、非常に建築らしいといいますか、人間の感覚に語りかけてくるデザインです。共立の古い建物もあり、このへんにまだそういうのが幾つか残っていますが、一般的に、当時建て替えて登場してくる建物はもっとスマートです。この建物も、もちろんすごく綺麗でスマートです。
要するに1階部分にアーチを使うということは、古代ローマとかルネッサンスとか、そういう西洋が生み出した建築の文化にそのまま繋がるわけです。ですから、ある種の物語性があって、我々人間の感覚に訴えかけてくるわけです。これは当時、機能的で便利なだけではつまらないという時代になっていった、その走りの建築なのです。今日もキョロキョロしながら入って来ましたが、ロマネスク教会の入口の上によくついているような、小さな可愛い二連のアーチ窓がついています。あれは新しく作ったものか、古い建物からの部分保存で古いものをもってきてはめ込んだのか、そこまで丁寧に見てきませんでしたが、非常に愛らしいディテールがちゃんとついている素晴らしい建築だと思ってまいりました。
今日はヴェネツィアの話なのですが、私は法政で教えるようになってからも東京についての研究はずっと続けております。その中で幾つかのテーマにこだわってやってきましたが、その1つが「水の東京」ということです。実は東京は水の都だったということで、今日のヴェネツィアのお話とピッタリと重なるのです。
ここは皇居に非常に近いですけど、皇居の周りには堀が回っていて、その堀は日本橋川とも言います。これは防御のためでもあるし、舟運のためでもあるし、排水のためでもあったわけです。
舟運という意味は、江戸城とか江戸を建設するために木材も石材も舟で運んできたのです。そのために家康が最初にやった仕事は、掘割を整備するということでした。私たちは普段は東京湾に出て行く釣り舟をチャーターして逆に内側に入って来ますが、ここはもう30回は通りました。メタンガスがブクブクしていて、上には高速道路が架かっていてほんとうに汚なく、もっと浚渫してくださいと言いたくなりますが、でも面白いです。ここをずうっと廻って水道橋まで行くと神田川が入って来るわけですが、そのまま抜けるとお茶の水の聖橋のところへ出ます。あそこはすごい渓谷で素晴らしいところです。秋葉原のほうから柳橋に出て隅田川に行くこともできます。
それと橋が素晴らしいのです。一橋もそうで、ここはもともと一橋大学の発祥の地であり、一橋はここから産声を上げて国立のほうに移られました。東大も確かこのへんから産声を上げていると思います。共立女子大がここにあるというのも意味があるわけで、要するにこのへんは学園都市の母体だったのです。そういうところに掘割も通っていて、我々はよく舟でこの建物も拝見しましたし、建て替えられる前も見ていました。そういう意味で、このへんはなじみがある場所です。そのへんに憲兵隊の宿舎だったコンクリートの素晴らしいモダンなハウジングもありましたが、最近壊されました。
ということで都心の一等地で、歴史がものすごくあるのですけど、あんまり周りに人が住まなくなってしまったもので、コミュニティが少し失われたのです。そのため、江戸の歴史を振り返る中で必ずしも主役としては出て来にくいかもしれませんが、ほんとうは実に面白い場所です。私たちは陸上を歩いても見ますし、船の上からも観察をさせていただいたということで、こういうところでお話をさせていただけることを大変嬉しく思っております。
肝心のヴェネツィアですが、私は大学院のドクターコースに入って2年間ヴェネツィアに留学しました。3年目にローマに移って1年間いましたが、当時のイタリアは経済は破綻しているし、テロはすごいし、ストライキばっかりのとんでもない国で、ヨーロッパのお荷物とも言われていました。
しかし実際にイタリアに行ってみると、みんな大変豊かに暮らしていました。都市の歴史を研究しに行ったのですが、文系の歴史学の方々の中には、ヨーロッパの都市の歴史についての本を書かれた先生たちもおられました。しかし、当時、都市というのがどういうふうに出来ているのか、どういうふうに暮らしているのか、住宅はどんなになっており、広場はどうやって出来たのか等、痒いところに手が届くようにヨーロッパの都市を研究する分野はまったくありませんでした。
一方で、日本でも、ぼちぼち都市に関心が出てき始めていました。ただ私たちの学生時代には、東京はコンクリートジャングルで、とても住めるところではないというイメージがありました。東京を脱出しながらヴェネツィアに行ったわけですが、ヴェネツィアに住みながら、毎日スケッチブックと詳しい地図とカメラを持って、1軒1軒訪ねました。そして出来るだけ中に入れてもらって、場合によっては実測をして図面を作ったりしながら、町がどういうふうに出来ているか調べました。住まいと路地についても、集合住宅ですから1階から上まで違う家族が住んでいたりします。それと小広場とか路地とか運河とか、ヴェネツィアの非常に複雑な都市について、今日のテーマも「水上の迷宮都市」とつけさせてもらいましたが、その迷宮の中でうろうろしながら観察して、都市の研究をやったのです。
当時そういう学問はまったくありませんでした。今は町に出て建物を観察する、タウンウオッチングとか路上観察という言葉も発明され、町への関心が高まってまいりました。ヨーロッパとか海外に旅行でいらっしゃる方々も、ちょっと前までは博物館、教会、宮殿、お城を見るということに大体限られていました。しかし、今はむしろ町を歩き、路地の中に入って行くとか、ほんとうに何でもない町の界隈で、そこに人の暮らしがあったり、そういうところを見たり、感ずること、場合によっては人と出会うのが大好きな方々が増えています。若者にもご婦人方にもそういう方がいて、私もいろんなエージェントと組んで、そういうコンセプトの旅行もずんぶん企画しましたが、そういう面白さを分かってくださるようになりました。
都市論というのもそういう中から育っていったと思います。立教大学で教えておられた前田愛さんという先生が『文学の中の都市空間』という本を書かれました。磯田光一さんという文学者が『思想としての東京』を書かれました。清水徹という仏文の先生が『都市の解剖学』を書かれました。こうして文系の方々も都市論にすごく興味を持ってくれるようになりました。
都市とは一体どんなふうに出来ているのか、どこが面白いのか、そういう都市の柔らかい自分の記憶とか原風景を求めて、『文学における原風景』という本が70年代の前半に生まれてきました。これは奥野健男さんという方が書いたものです。そうして文学と建築と都市計画とみんな相乗りしながら都市を論ずる学問が出てまいりました。
しかし、私にとってはヴェネツィアはほんとうに原点です。今は地中海の周りでアンダルシアのアラブの影響を受けたような都市の調査も学生たちと一緒にやっています。南イタリアのアマルフィという中世海洋都市の調査もしています。イスラーム世界のアラブの都市も調べました。でもヴェネツィアというのは東と西の文化の交流、東西貿易の正に主役であり、東の文化と西の文化を結び付けた大変重要な都市だったのです。
千年の独立自治を保った『海の都の物語』について塩野七生さんが書かれたのはもう15年以上前だと思います。この本は冬休みのエリートビジネスマンの方々の必読書と呼ばれたことがあって、日本の商社マンの生き方と重ねながら論じている面白さがあったり、日本のように資源がなくて、外交をうまくやらないとダメな国としていかにサバイバルをやってきたかを書いたヴェネツィアのダイナミックな歴史の本です。同時に人間の生き方と都市の生き方を絡めて、都市を1人の人格に仕立て上げて書いた大変面白い本だと思います。
ヴェネツィアは政治史的にも経済史的にも面白いですが、演劇都市でもあります。ヴェネツィアからオペラが発達しましたし、ヴィヴァルディの音楽とか、バロックの美しい音楽や演劇や絵画もたくさん生まれました。また祝祭都市、カーニバルの都市であり、人間の欲望の都市でもあります。美しい女性にひかれるということもほんとうに重要であり、ヴェネツィアの高級娼婦、コルティジャーナというのは世界の人々から憧れの的になったのです。
ファッションを生み出したのもヴェネツィアです。中世15世紀までの東方貿易での経済の蓄積を都市の建設にあて、16世紀からは華麗なる転身をはかって、文化都市、演劇、出版、ファッション、手工業などで、見事に千年の経済的独立を続けました。
今もビエンナーレとか、ビートたけしが国際的に映画監督としてデビューしたヴェネツィア映画祭などで光輝いている非常に珍しい都市です。その町の魅力を、ほんとうにみなさんと一緒に町の中を巡り、路地の1軒1軒に入りながらご紹介出来ればと思います。それではスライドを見ていきましょう。
まず一般的なヴェネツィアのイメージとして、この周りの内海のラグーナがあります。ヴェネツィアにいらっしゃった方々も多いと思いますので、あのラグーナを思い浮かべながらご覧ください。
このラグーナという浅い海が周りを取り巻いていて、その上に浮かんでいるのは正に浮島です。こちらのほうには本土大陸があって、天気がよいと、ここにアルプスの手前のほうの山並みが見えます。そして手前にサン・ジョルジョ・マッジョーレ島があって、昔ここでヴェネツィア・サミットが開かれましたが、それは当時イタリアの治安は非常に悪く、島でやればさすがの過激派も攻めて来ないだろうということからでした。ここには教会があって、鐘楼から見ると、こういうふうに見えます。
正面にサン・マルコ地区が見えますが、ここにはヴェネツィア共和国の中心の重要な建物がみんな揃っています。これが大統領官邸にあたる総督宮殿で、15世紀前半のゴシックで1番古い建物です。それから中世のビザンチン様式のサン・マルコ寺院があります。それから、これは本来は物見の塔だったのが鐘楼に変わったものです。ここにルネッサンスの図書館とか造幣局があり、ここからヴェネツィアに入るわけです。正面玄関がこんなに素晴らしい水に向かった都市の玄関の顔を持っている珍しい町です。
今激変している上海のバンドも、揚子江から分かれて入っていく水辺に面した表の顔が有名ですが、ここも水の側から入るのが正式な入り方であり、入って来る人々をびっくりさせる世界で最も美しい都市です。中世、ルネッサンスのものがそのまま受け継がれていて、そのイメージを大変大切にしてきました。
ここには中世末の当時、聖地エルサレムに向かう巡礼の人達が立ち寄ったわけです。したがって塩野さんも書いていますが、ヴェネツィアはある意味で中世から観光都市という性格も持っており、安い値段で泊まるところもいろいろありました。それはオスピーツィオという施設です。これは今のオランダにあたる地域から来たある画家が描いた1480年頃の絵です。このラインは現状とほとんど変わっていません。2本の円柱の他変わっていないところがほとんどで、ここがちょっと変わっているだけです。このイメージは中世末からいまに至るまでそう大きく変わらずに、海の都のイメージをアピールしているのです。
ヴェネツィアの水上都市の成り立ちを見ておきましょう。ヴェネツィアにはいろんな形容句があります。「海の都」は塩野さんが言ったのですが、もともと「水の都」「アドリア海の花嫁」という形容句があります。そして「ヒューマン・スケールの都市」「演劇都市」「祝祭都市」「劇場都市」といった類の形容もあり、最近は「エコシティ」という形容もあります。というのは、ここは不思議な浅い海の上にぽかっと浮かんでいて、毎日2回程海水が出入りする3つの海峡があるので、ここが浄化されるという微妙なバランスの上に成り立っているからエコシティなわけです。
そういう意味で、そういう観点が非常に重要になっている21世紀の中で、ヴェネツィアはいろんな問題を考えさせてくれる発想の玉手箱です。この16世紀の鳥瞰的な絵では、こちらが大陸でアルプスの山並みがあり、飛行機がない時代によくこんなふうに描けたなと思います。このへんに国内線のマルコポーロ空港があって、ローマに飛び立つ国内線はこういうふうに回って行きますので、今もこのように見えます。船はこのへんの海峡から入り、ここを目指していたんです。そしてここにサン・マルコの象徴的広場があります。ここから入るとカナル・グランデ、大運河でして、東方貿易が活躍した貴族たちの館がここにずらっと並んでいましたが、いまも素晴らしい建物がいっぱい残っています。
ここが世界の市場を支配したリアルト・マーケットで、ここに橋があります。ここはちょうど江戸の掘割にかかる日本橋にあたります。掘割は日本橋に入って行く川ですから、日本橋川ということにもなります。そして政治と文化、宗教の中心と、経済、金融の中心ということで、実にうまく町がまとまっています。海軍の工廠というか、アースナル、造船所兼海軍基地がここです。ヴェネツィアの海軍はすごかったのですね。そして、この周りに世界で最初の工業地帯が出来ました。そこには戦後のアメリカの自動車産業のシステムを先取りしたようなベルトコンベア方式さえ一早く取り入れられ、分業をして流れ作業で組み立てていく見事な工業地帯でもあったと言われています。
航空写真で東京を撮影したのを見るのと同じくらい、このスライドで見られるヴェネツィアはこんなに立て込んでいます。サン・マルコ広場はここだけ切り取ったような幾何学的形態を見せております。そこには輝く秩序があるわけで、国家の権力、国家のデザインで総督宮殿や教会といった公共建築が建てられており、これは一種のお役所ですから、官僚制が強かったことをうかがわせます。
日本もすごかったですけど、ヴェネツィアの官僚機構は大変強力でした。ここにリレアルトがあり、このへんはほんとうに生き物のように有機的なぐちゃぐちゃな迷宮空間でした。大きな運河がありますが、これは半分は自然の流れで、本土から川がいっぱい流れ込んできています。全部一様な水面に見えますが、水路がこの中を走っていて水の流れがあるのです。その1つの大きな流れが大運河(カナル・グランデ)で、人工的に少し整備しながら、半分自然の流れとなっています。このようなものが実にうまく出来ており、計算されていないように見えますが、上手に計画されたように逆S字型に流れていて、どこからでも3分、5分歩けば船着場に行けます。
ここがサンタ・ルチア駅と言ってターミナルです。昔「旅情」というキャサリン・ヘップバーンが主演したロマンチックな映画がありましたが、これはヴェネツィアの観光映画のような素敵な映画でした。中年の骨董屋の男性に恋をしてしまう彼女が入って来る最初のシーンがここです。汽車で入って来てターミナルで降りると、目の前に光があふれ輝く大運河が待っているわけで、この出会いはほんとうに感動的です。車で入って来ると、ここにあるバスターミナルでお終いで、あとは歩くしかありません。あとは舟であり、このへんもこういう船がこう行くわけで、人は歩くか舟に乗るしかありません。自転車は子どもだけ部分的に認められていますが、大人は使うことを禁止されていますし、意味がないのです。中世のある段階から、馬の通行も禁止しました。したがって完全にヒューマン・スケールの都市で、モノの輸送は全部船で行います。
これは江戸とそっくりなのです。江戸も馬も牛車も使っていなかったので、東京はもともとヒューマン・スケールの都市だったのです。しかし明治以後、特に震災後に道幅を広げました。それで昔の人間が親しんでいた狭い道、例えば神楽坂なんかは最近非常に人気がありますが、どうも日本人はヴェネツィアのこの空間感覚と近いものを持っていたのではないかとさえ思われます。
もう1つ申し上げたいのは、いろんなものが混ざっていることです。近代の都市計画では「ゾーニング」と言いまして、工業地帯は工業地帯、商業地域は商業地域、住宅地は住宅地で、ニュータウンとか純粋分譲住宅地とか分けちゃうのです。しかし歴史的にはみんな集まっていたわけで、東京の下町もいろんな要素が集まっていたのです。そこでは商売もやるし、物もつくるし、居住空間であるし、寄席があったり茶屋があったり、船着場があったりという具合にミックスし、複合化していたわけです。そこにコミュニティの面白さがありました。
しかし、だんだんこのへんにはほとんど人が住まなくなってしまったのです。それを反省しているのが「都心居住」という言い方です。そこでは郊外ニュータウンとかベッドタウンの時代から、もう1回都心に戻って来よう、高齢化社会になったときは、都心に住んだほうがよっぽど楽しいのではないかという言い方が日本でもされるようになってきました。このように正に複合化の傾向があります。
留学時代、私はヴェネツィアに下宿していましたが、ここも1つ橋を越えれば、古い9世紀から11世紀にかけて最初の骨格が出来た、なかなかいい古い島でした。91年にはもう1回正にサン・マルコ広場のすぐ裏側に1年住んでいました。このへんも驚くことに観光都市であるのに、未だそれなりに生活があって、こういう広場では子どもたちがずいぶん遊んでいるのです。車がない町ですから、小さい子どもにとっては天国です。誘拐もない、犯罪もない、治安がいい。こんなに治安がいい町はありません。泥棒をしてもオートバイも車もないんで逃げられなく、直ぐつかまってしまうのです。留学中の事件で、ここの銀行に強盗が入って現金をかなり持っていったみたいですが、すぐ水上封鎖して(笑)、捕まってしまいました。ただ最近は移民の人達もいるということもあって、水上バスの中でスリにあうとか、私も1回やられてしまいました。しかし一般論としては非常に治安がよく、夜遅く女性が1人で歩いていても大丈夫な町です。
ミックスしていることは非常に重要なんです。ヴェネツィアでは階層的にもミックスしているし、いろんな機能もミックスしているし、そういう意味で近代都市が失ってしまったものが一杯あるのです。今世界ではみんなそれを反省しているんですけど、第1の反省点は「水」を全部否定してしまったことです。その典型が東京で、日本橋の上にも高速道路を作ってしまい、船の交通は完全に否定してしまいました。ヴェネツィアでは交通は船しかないので船の交通を否定することができず、頑張って維持してきて、おかげで魅力ある水の都市をキープしてきました。これが世界の人々を引きつけているわけです。
1970年代以後、アメリカでもオーストラリアでも、イギリスのロンドンのドックランドでも、アムステルダムの周りでも、みんな「ウォーターフロントの再生」が最大のテーマになり、経済活性化の旗印になりました。そして町が蘇えり、ダウンタウンが蘇えりましたが、ヴェネツィアはそのモデルとなりました。そして、だんだんヨーロッパの町に人気が出てきたのは、歩行者空間化に成功しているからなのです。
車が旧市街の中に入らないように抑えています。外に行くときは車をおおいに使いますが、車との付き合いを考えました。歩行者空間のモデルでもあるヴェネツィアに行って、車のない町をゆったり歩く気分のよさを体得してきました。そして、その解放感や、都市全体がサロンのような町であるその良さを何とか自分の国でもやりたいという取り組みを開始しました。広場の話とか公共空間の豊かさとか、そういうことも含めて、エコシティにしないとほんとうに死んでしまうと考えました。
次のスライドはヴェネツィアの夕景ですが、まだヴェネツィアには漁師が何家族かいます。私も友達になって何度か舟で連れて廻ってもらいました。このようにほんとうに美しい夕景は、ヴェネツィアの感性であり、色彩も光も影も含めて感覚的な都市なのです。これは正に「五感の都市」というキャッチコピーそのものであると思います。それはロジックよりも感性であり、だから日本人にはピタリとくるのです。
俳句を生んだ日本のように、ヴェネツィアは四季折々の変化に恵まれ、海も水も空も刻々と変化しますが、人々はその中で文化を育くみました。何よりも海産物の美味しい料理が食べられるというわけで、日本人の我々にとって、ヴェネチアは、とりわけありがたい都市と言えると思います。
次のスライドは、9世紀から11世紀にかけての状態を想像した地図です。もともとこのくらいのぽこぽこがあるところに、島が浮かんでいた状態だったことを想像させます。浅い海で毎日1メーターぐらい干満の差があり、ですから姿を消してしまったり姿をあらわしたりという微妙な地形なのです。こういうところを少しずつ浚渫して土を盛り、島の面積を広げるわけです。そして運河ができます。そして、だんだん70ぐらいの地区が出来ます。その1つずつに教会をつくり、小さいコミュニティが出来ました。隣の島に行くには最初は舟のみでした。だんだん運河を限定して狭め、1つのカナル・グランデを残しましたが、隣の島に行くのには橋を架けることによって、だんだん道をネットワーク化し、それぞれの島には広場も整備しました。
そして大体1500年頃には、このようなものに近い形が出来上がりました。赤いのが運河で、黒いのが道で、黒いかたまりは広場です。ヴェネツィアが非常に複雑な水上の迷宮都市であるのは、まず運河がくねくねと曲がっているからです。特に中心部の9世紀から11世紀にかけてできたこの古いところでは、運河は自然の地形に合わせて有機的に曲がっています。後から13世紀、14世紀ぐらいに出来たところ、といってももう中世ですから古いんですけど、真っ直ぐに作られています。
道は後から整備されてくるんですが、まっすぐどこまでも突き抜けていくような道はあるはずがないのです。しかし、細かいピッチで、人間の歩く感性をよく考えながら出来上がった、ヒューマン・スケールの迷宮都市がヴェネツィアです。この中をさまようのはなかなか心地がいいわけです。
ヴェネツィアがよく形容されるのは「光と影の都市」という表現です。近代都市では光と影というのはなかなか成り立たないのです。影というと、なんか病理的であったり、悪の温床であったり、怖いネガティブなイメージとなります。近代の都市にはダーティなアンダーグラウンドはあり得ますが、空間の場所の意味合いとしての光と影というのはなかなかないのです。どこまでも同じな、機能的に広い場所で、碁盤目型のようなものを理想と考えてしまいましたが、それでは人間にとっては味わいがないのです。
しかし、地中海の周りや日本には、歴史的に時間をかけてできてきた都市が多いのですが、そういう都市では光と影の関係が非常にうまく出来ています。光というのは華やかで演劇的でモニュメンタルで、人々の気持ちを高ぶらせてくれる象徴軸です。これは普通の町では、目抜き通りであったり、大きい中心の広場になりますが、ヴェネツィアの場合は水上の目抜き通りであるカナル・グランデがまずそれにあたります。ここでは始終イベントやスペクタクルが行われ、市民がそれに参加して解放感あふれる体験を共有出来る場所になっています。
そして一方、毛細血管のように運河が中に入り込み、これには浄化作用もあるわけです。運河でモノを運んでくるし、引っ越しもあるし、郵便配達も長距離を移動させるのはボートでやるわけです。消防車も救急車も霊柩車も、みんな消防船、救急船、霊柩船ですし、みんな船しかないわけです。自家用舟もいっぱいあるし、観光用のゴンドラも通ります。ゴンドラは昔は日常の舟でして、各貴族がみんな自家用舟として持っていましたが、今は観光用だけになっています。他にもいろんな種類の舟があり、こうして隅々まで行き渡っている運河の存在がヴェネツィアの最大の魅力であります。
一方その岸辺を夜などにコツコツと足音をさせながら歩くと、ほんとうに気分がいいですね。闇と照明で照らされた路上を歩いて行き、ちょっと見上げると月が出ているというような、正に人間の感覚を非常に研ぎ澄ませてくれる場所が運河です。
目抜き通りのカナル・グランデをご紹介しましたが、それをこう通ってこう来ますと、こちらがアドリア海で、こちらがサン・マルコです。このスライドは向きが逆の方向から撮っていますけれど、このへんには12〜3世紀の、東方の海に出掛けて行って冒険的スピリットで商売をやった貴族の館が並んでいるんです。このへんもそういうものが並んでいる目抜き通りですが、ここは世界の中央市場と呼ばれたリアルト・マーケットでして、このへんは、人がほとんど住んでいない商業機能の地区です。
バザール、スークという感じや、キャラバン・サライというほうがピンとくる方が多いと思いますが、隊商宿もあります。アラブの世界ではこれをハーンとかフンドゥクと言うんですけど、ヴェネツィアでは「フォンダコ」と言って、ヴェネツィア共和国が外国人の商人たちのコミュニティに貸し与えていたわけです。そして、ここはゲルマン系の人達、ここはペルシャ系の人達、ここはトルコ系の人達というように分かれて商売をやり、正に国際交易都市を支えていたわけで、当時ヴェネツィアは人口の1割が外国人だったんです。人口の1割が娼婦だったいう話もありますが…(笑)。そういうようにすべてがミックスなんです。これが有名なリアルト橋です。
このようにヴェネツィアはユニークな都市ですが、それはイタリア語で「ウニカ・チッタ」と呼ばれ、イタリア人はその1つしかない唯一性というか、希少性をみんなが自慢するわけです。
日本は逆で、隣が立派な美術館をつくると、自分のところも同じものをつくらないと気がすまないのです。あるところに大きなショッピングモールが出来ると、自分のところもつくらないと気がすまない。日本は横並びの国です。同じことをみんながやってしまうので、みんなで共倒れになるというこの癖は治りません。イタリア人は逆で、他のところがやらないものをやります。だからみんな共存出来るのです。特にヴェネツィアはこのユニークなシティである「ウニカ・チッタ」をほんとうに文字通りやっています。
こんな不思議な環境の中で、水上に都市をつくるのは建設技術にしても本来難しいはずです。しかしそれをやすやすとつくってきてしまいました。そして、これを維持するのも、ものすごく大変です。日本人だったら早速運河を全部埋めていたと思います。埋めちゃっていたら何の価値も残りませんでした。残っているので、今も世界の人達が憧れる町としてものすごく人気があるわけです。
先日、日曜美術館というNHKの番組で、ゴンドラをスタジオに運び込み、私もヴェネツィアの魅力をお喋りしました。そのゴンドラは10メーターちょっとあったと思いますが、そういうことを考えたディレクターも偉いものです。これは今浜名湖でやっている「花博」で、ヴェネツィアから取り寄せたゴンドラを貸してもらったものです。これを近くで見るとものすごく迫力がありました。
このスライドでご覧いただきますと、非シンメトリーで、こちら側にクッとくびれています。こっちが舳先、こっちが後ろで、女性がお尻をひねったような色っぽい恰好をしています。ここにゴンドリエーレという船乗りさんが立ち、こっちに櫓を入れ、浮力を働かせてバランスを取ります。ゴンドラはあるスピードですいすい細い運河を抜けて行かなければいけないし、回転する必要もあり、運河はほんとうに浅いので、くるくると小まめに回るために機能的に実にうまく出来ています。その機能性は環境の特殊な状態から生まれていて、それが美しい形態のデザインに結びついているのです。
ヴェネツィアではみんなそうで、だから自然条件に基づいたヴェネツィアならではの建築のデザインや、こういうゴンドラの造形を生み、環境デザインになっているのです。
次は別のタイプの2人で漕いでいる幅の広いゴンドラです。ヴェネツィアにいらっしゃるチャンスがあったら是非これに乗っていただきたいですが、これは市民の足です。彼等はリアルト・マーケットに買い物に来た帰りなのですが、面白いことに、男性の方々はネクタイをして買い物に来ているし、女性もおしゃれをしています。つまりマーケットは公共空間で人と出会う晴れがましい場という考えです。そこは単に庶民の台所を支える市場というだけではなくて、人と出会う可能性のある場所なのです。
ここでは後ろを向いて写真を撮っている方だけが観光客で、あとは全員が地元の人達です。地元の人はちゃんと乗るマナーをわきまえていて、転ばないように足を30センチぐらい開いてバランスを取り、人の顔に息を吹き掛けないように皆前を向いています。また、座ると場所をとるというわけで、絶妙なバランスで立っており、これもヴェネツィアらしくコレクティブに生きているという感じで、こういうのがヴェネツィアなのです。これは是非皆さん体感していただきたいと思います。因みにゴンドラ代は100円ぐらいで、1ユーロもしません。
これは1500年に描かれた地図ですが、非常に詳細に描かれています。ここからカナル・グランデに入るのです。1500年というと、日本で言えば近世に入る前の中世のことです。こんなに詳細な地図を描いた人はバルバリという絵描きです。これで見ると、窓の数とか窓の形、煙突の数とか、全部事実と合っているリアリズムに満ちた絵なのです。
確かに日本の都市の景観も、『江戸図屏風」とか『名所図会』とかしっかり描かれています。特に『名所図会』はけっこう信憑性があります。しかし一般的に日本人が描くのはかなり絵空事で、イメージを描くのがうまいのです。しかしヴェネツィアの人は几帳面に正確に描いており、ヴェネツィアの1500年の頃の様子がリアルに分かるのです。それによると今とあまり変わっていません。ここは税関があって、東方から入って来る船がここで荷のチェックを受けて税金を取られたということもわかります。ヴェネツィアというのはそうやって関税をかけて中継貿易で成り立っていたわけですね。
東京も大分水というのを意識するようになりましたが、これは大変にいいことです。そして1985年には「ウォーターフロントブーム」が訪れました。水際にいかに気楽にアクセス出来るかを考えるようになりました。従来の日本の場合、まず治水ということを考え、したがって堤防を高くしたり、コンクリート護岸で固めてしまいました。それに比べてヴェネツィアでは、水に浸かっても構わんということで、このように親水性の高い、さり気ないデザインが素晴らしいのです。日本人はこういうところが重要だというと、すぐ力を入れ過ぎて、また壊したり、デザイン過剰になりがちです。
ヴェネツィアのように直接水から建物が建ち上がって、正面玄関を水に向けているという姿は、アムステルダムにもなければブルージュにもないし、蘇州だってこうはいきません。ヴェネツィアだけのものです。
次のスライドは15世紀後半のカルパッチオという画家の描いた「リアルト橋の周辺」です。リアルト橋はかつての勝鬨橋みたいに、大きい帆船が通ると開閉する形式になっていましたが、とっても情緒のある橋です。橋の上にマーケットといいますか、お店が並んでいます。サン・マルコ広場からリアルトまではずっとメインストリートで、アラブ世界のスークやバザールのようなものが連なってきて、今もそこが目抜き通りです。またブティック街もあり、知らない間に橋を越えてこっちのリアルト・マーケットまで入って来るというぐらいの商業的なにぎわいがあります。そのテナント代が共和国をうるおしていたわけです。この絵もほんとうに当時の風俗、景観がよく分かります。
煙突がいっぱいあって、いまでも3分の1ぐらい残っています。これはアルターナといって、東京の下町の物干し台みたいな感じです。かつては日本でも下町には2階に物干し台があって、ビールを飲みながら花火を楽しむとかいう粋な文化があったと思います。ヴェネツィア人はいまでもそれをやっているのです。かつてヴェネツィアの女性たちは、日本の若者の茶髪のように、金髪に染めるのが流行っていまして、彼女等は乾かすのをここでやっていたということで、ここは一種の自由空間なのです。当時の女性は、いまのようには自由に町には出られませんでしたから、ここで寛いでいたのです。
これが面白いのですが、竹竿を出して洗濯物を干しています。ヨーロッパの晴れがましい中心の都市でそういうことが行われていたのです。いまヨーロッパの町並みは整然としていて、洗濯物を表に干してはいけないことになっていますが、美意識というのは変化するものであり、昔はヴェネツィアもアジアのようだったのです。
現在はこのスライドのように非常に綺麗な空間になっています。橋もこのように16世紀後半につくり替えられました。現在は石造りの素晴らしいモニュメンタルな力にあふれる橋です。この界隈がマーケットで、商業的なにぎわいに満ちています。そして、大蔵省のようなお役所、あるいは裁判所や刑務所のような民法の関連する施設、政治犯を取り調べたり、刑務所に入れたりするような施設は、サン・マルコの権力のお膝元に建てて、使い分けていたわけです。
このスライドの辺りでは、岸辺がついていて、荷揚げをする場所で、使用料を取っていました。それで石炭やワインや鉄を荷揚げするという意味の名前がついています。これが架け変えた後のリアルト橋で、このへんがドイツ人商館、そしてこのへんにペルシャ人商館があり、ほんとうにマーケットの中心です。そしてやっぱり教会があるんですね。
それから回廊が巡っていて、ヴェネツィアは資本主義の発祥の地だという言い方さえあります。これは塩野さんも言っていると思いますが、銀行業とか保険会社の考え方がここで発達したのです。またルーカ・パチョッリという人によって、会計学でとても重要な複式簿記というのもヴェネツィアで生まれたのです。それから現金を動かさなくても取引が出来るシステムもヴェネツィアで開発されたそうで、ヴェネツィアのリアルトが生み出した金融経済の仕組みはたくさんあるようです。私は専門ではないのですが、それくらいヴェネツィアの影響力というのは強かったのです。
また、このへんは貴金属とか高級品を商う小さなお店がいまもぎっしりありますが、このへんに銀行、保険会社のカウンターがあったのです。ここでは、いまは保存食とかアルコールなんかを売っています。保存食とか高級なものを扱うお店は、毎日商品の搬入をする必要がありませんので、ちょっと中にあるわけです。
毎日搬入する野菜とか魚とか肉とかのお店はこっちのほうで、舟で入って来ます。ここには衛生的に保つためのルールがいっぱいあって、罰金の制度もあり、「捨ててはいけない」とか「汚してはいけない」とか始終お触れが出ていたそうです。そういうことで、衛生的に保たれた生鮮食料品のマーケットがこっちにあって、いまもほとんど変わらずに市民の台所を支えています。こちら側はさすがに少し変化して、観光客相手の店も入ってますが、リアルトというのはおおむね、いまも市民のための空間です。
次のスライドは18世紀のガブリエレ・ベッラという画家が描いた絵です。この人は公式のお抱え画家としていろんなシーンを絵で記録しています。だから美術史的に見れば下手な絵ですが、当時のヴェネツィアの人々はどんな暮らしをしていたか、公的な行事はどんなふうに場所を使って営まれたかについての記録性があります。
この絵によって、このリアルト・マーケットが国際的な力を持った出会いの場であり、取引の場であったことがほんとによく分かります。このへんに銀行や保険会社が軒を連ねていたのです。このへんは大蔵省にあたる役所の建物で、1階が貴金属店です。
ここは生糸なんかの製品を売っていたところです。これは現在も変わらぬ姿であり、朝行くと大変活気があるマーケットです。
このつくりは、イランとかシリアとかエジプトとかモロッコまで、西アジアから北アフリカまで共通したイスラーム世界の建築のつくり方です。そこには中庭があり、ここで取引をするし、商人たちが長期滞在するし、オフィスも兼ねることがあります。社交場でもありました。そういうキャラバン・サライについては、ハーン、フンドゥクという言葉があって、ヴェネツィア人はその「フンドゥク」という言葉をとってきて、この港町では「フォンダコ」というのをつくったのです。したがって、そういう考え方や空間の形式もアラブ世界からとってきたということになり、ヴェネツィアは非常にオリエンタルな都市だったのです。
なぜならば、12世紀をピークにして、当時は東のほうがずっと文明度が進んでいたのです。ハスギンズというアメリカの中世史家が「12世紀ルネッサンス論」と呼んでおり、13、14世紀ぐらいもずっとそうだと思いますが、当時は東のビザンツ世界とかイスラーム世界のほうが西ヨーロッパよりもずっと文化が高かったのです。建築も美術も含めて、何か新しくやろうと思うとモデルは東にしかありませんでした。ヴェネツィアはそういうものをいち早く取り入れる絶好の場所にいて、情報も持っていたし、旅行にも行っていました。何しろヴェネツィアには1割の外国人がいましたけど、海外で活躍するヴェネツィア人の数も非常に多かったのです。
というわけで、ヴェネツィアは先端都市でしたが、そのマーケットの周りにはいろいろな要素が集まっていました。これは日本橋でも同じで、いまも日本橋の周りにはお寿司屋さんや海苔屋さんや蒲鉾屋とか老舗の店がたくさんあります。ほんとうは吉原の遊廓もあのへんから生まれたわけです。芝居町、堺町、葺屋町というのも日本橋の周辺部にあったのが、みんな外に追い出されちゃったのです。旧吉原は明暦の大火後、浅草の田んぼのど真ん中に強制移転させられて、新吉原になったのです。遊女も役者もほんとうはマーケットの周りのラディカルなところにいたわけなんですが、それと似たような構造がヴェネツィアにもありました。
このスライドは居酒屋で、こういうのをオステリーアとかバーカロと言い、ヴェネツィア独特のものです。大体こんな感じの、お酒飲みにはこたえられない立ち飲みの居酒屋がヴェネツィアには至るところにあり、地元の人達は毎晩行っているのです。これはポピュラーなところですが、さっきの写真のドモーリというお店は、ほんとうに写真を撮るのも気がひけるぐらいエレガントなところです。お摘まみが海産物と野菜で、すごく美味しいです。ワインは1杯飲んでも100円もしないということで、大変楽しい、日本人にもぴたりと合う空間がマーケットの周りに特に多いのです。
歴史的には、ああいうお店の2階は、旅人を泊めるインのような感じだったので、そこに自ずと夜の女性たちがあらわれるようになりました。だんだんその数が増えてくるので、これはいけないということで、共和国は遊廓をつくって、そこに閉じ込めることにしました。そして、「昼間は外に出て商売してもいいけど、夜は戻って来い。外に出るときも黄色いハンカチを付けて出なさい」という規制をつくりました。しかし、だんだんそういう規制も出来なくなって、ヴェネツィアは遊女で有名な町になりました。その中から高級娼婦、コルティジャーナというのも出て来て、それがファッションリーダーにもなったりして、ヴェネツィアらしい官能的な文化の時代が17世紀、18世紀に来るわけです。
次はリアルト・マーケットの周辺部にあります「ポンテ・デッレ・テッテ」で、これは「乳房の橋」という意味です。「乳房の橋」という言葉が堂々と書いてあるあたりがいかにもイタリアで、嬉しくなってしまいます。ここには娼婦の方々が窓辺にいて、男性を誘ったというふうに伝えられています。私の友人の建築家がここの修復デザインをやりましたが、なかなか探しにくい場所んですけど、行ってみると何となく味わいがあります。
芝居小屋もあのへんに出来ました。それから12世紀、13世紀の商人の館はこんなものでした。その後いろいろ改造があり、オリジナルの姿は少し失われてはいますが、このスライドのは全部オリジナルです。1階は船着場でアーチがいっぱいあいてました。
次のスライドは2階までオリジナルの姿を留めていますが、現在は市役所で、ここに市長さんの部屋があります。上のほうはその後の時代の増築なんですけど、ほんとうによくキープしてあり、13世紀の建物そのものですが、中は機能的に快適に変えています。
次は松杭を固い岩盤まで打ちつけて、その上に旧ユーゴスラビアのイストリアというところから運んでくる質の高い石を積んで基礎をつくり、水から直接建ち上がるような建築を実現させたのがわかるスライドです。林達夫さんという昔の学者はこの建物について、「ヴェネツィアは地上の美しさだけ見て感心していたのではダメだ。地中に森林がある。そういうふうに思いなさい」と仰っていましたが、なかなか達観した意見だと思います。
ここには荷重が来ないように、ここを軽くしているのです。何よりもここは馬車が通るわけでもないし、埃がたつわけでもないし、よそ者が攻めて来る危険性はありません。ほんとうにヴェネツィアは歴史的にも治安がよく、千年の独立を維持出来ましたが、理由の一つとしては政治システムが素晴らしかったからと思います。
これは塩野さんも言っていますが、1つの家系に権力が集中することを極力避けたわけです。だからトップが暗殺されても痛くも痒くもないし、一人の人がずっと長く総督をやることもありませんでした。もちろんシンボリックな存在で影響力があり、優れた政治的手腕を発揮した総督もいますが、一般論としては共和国の5%が貴族で、その5%のファミリーの男性が政治を支えていたわけです。その中から総督を選ぶという一種の集団指導体制だったのです。
塩野さんはヴェネツィアは日本の商社の考え方にも近いと言っていますが、リスクを回避する、安定した非常にいいバランスで外交が行われ、非常に難しいバランスパワーの地中海、ヨーロッパの中で常に独立を維持出来たと言っています。こんなちっぽけなくせに、ローマ法王庁からも独立していましたが、そんな都市は他にないわけです。治安がいいし、治安がよければ泥棒も少ないし、内紛や騒乱がありません。
というわけで、こういうふうに建物を開放的にしても大丈夫です。馬車が駆け抜ける町では埃がたってこういうわけにいきません。ローマやフィレンツェやパリではあり得ないことです。それで15世紀初めの建築ですが、こんなに優雅なゴシックでほんとうに綺麗です。
次は演劇空間のような中庭が見えますが、メインフロアーは2階ですから、この外階段から2階まで恰好よく上って行くというわけです。
ここはエコシステムで、雨水を蓄える貯水槽があり、それを濾過して飲料水に使っていたのです。
次はロッジアというんですけど、カナル・グランデに面しているバルコニーがある建物で、貴族はほんとうに贅沢な生活をしていたのです。もちろん当時は階級差が激しく、9割の人達は庶民ですけど、5%が貴族、あとの5%がチッタディーノという官僚を支えていた階級でした。
しかし、次の庶民の住宅を見ていただきましても、日本のウサギ小屋や長屋に比べれば相当大きいんで、やはり豊かだったのかなと思わざるを得ません。
カナル・グランデの役割や意味も時代とともに変遷します。12世紀、13世紀に東方貿易で稼いでいた頃は、ここには荷を満載する舟が行き交っていました。16世紀、17世紀、ルネッサンス、バロックの頃になると、祝祭空間のイメージを強めます。そして外国からどんどん国賓が来るようになります。何しろヨーロッパのエリートたちは、ヴェネツィアに行きたくてしようがないのです。そこは神話化された美しいイメージの町であり、美しい女性もいて、非日常的な空間体験を味わえるということで、現在以上に彼らは憧れをもっていました。したがってそこから招かれれば絶対に行くわけです。
いまだって会議やシンポジウムや講演でヴェネツィアから呼ばれたら、断る人はまずいないと思うんです。今度横浜市の方々が、ウォーターフロントの開発の問題で、ヴェネツィア・ビエンナーレの建築展から招待がありましたが、誰も断らないと思います。これは東大名誉教授で西洋史専門の木村尚三郎先生がよく言われましたが、ヴェネツィアはホスピタリティに非常に長けていました。
そういうわけで、もともと中世には船着場や倉庫や商品展示場やオフィスのようなビジネスのための空間と住まいだった商館建築が、16世紀、17世紀となりますと、華やかな祝宴の場となり、人々を呼んでもてなすためのステータスシンボルの空間になります。様式もオリエンタルじゃなくなって、ヨーロッパ古典主義というのか、ギリシア、ローマ、ルネッサンスの系譜になり、オリエンタルな美しさとは違う質の威厳のあるものになっていきます。
もてなし方にもいろいろあったわけで、カナル・グランデでは始終スペクタクルが行われて、歓待の意を示すのです。それが市民にとっても、いろんな面白い経験が出来る機会でもありました。このスライドは、フェラーラというところから王女と王妃たちを招いたときに歓迎の意を示して行われた女性のレガッタの風景です。これはいまも続いている優雅で力強く大変面白いレガッタです。
こういう貴族の館のデザインやインテリアも目的が変わったので変化していきます。このスライドはパラッツォラビーヤというものですが、このように華やかな内部空間になりました。これはクレオパトラとアントニウスの愛の物語をモチーフにしたフレスコ画ですが、ティエポロという18世紀のヴェネツィアを代表する画家と弟子たちが描きました。この建築的なフレームはだまし絵で、1枚の平板なのです。そこにトリッキーな「トロンプ・ルイユ」という、要するにイリュージョンの世界に誘う最大の演出が行われました。こんなところに手すりとかはありません。ちょっと触ってみましょうかという感じですが、これはひょっとすると出ているのかと思いますけれど、こちらは完全にだまし絵です。というわけで、こういう上に音楽士たちが乗って音楽を奏で、そしてここで舞踏をやるのです。正に音楽の間とか舞踏の間です。
これはイタリアのNHKにあたるライ・テレビジョンのテレビ局の建物です。こういうものをちゃんとキープしながら、ここでは記者会見とかセレモニーをやるのです。ここにはスタジオや放送をつくっている制作部門の部屋がちゃんとあって、全部コンピュータで制御されていて、防音も二重壁にしています。こうして文化のために歴史的なものを大切にしながら、しかも現代のテクノロジーでちゃんと武装しているわけで、大変な努力をしており、そこがイタリアの底力だと思います。
さて、これでカナル・グランデを終わり、サン・マルコ広場に足を向けたいと思いますが、ここは上から見るとこんなに素晴らしいデザインです。これは歪んでいて、幅はこっちのほうが広く、だんだん狭まっています。近代人は平行定規で平行線を書いてしまうので、こうはならず、だからつまらないわけです。このデザインのほうがよっぽど楽しく、ここに立ったとき、こちらのほうはガーッと迫力をもって迫ってきます。平行かどうかなど、こんなところに立ったときには気にならないわけです。しかもうまく出来ていて、こっちはびしっと真っ直ぐで、こっちは運河がくねくねしていますから、表の顔と裏の顔は違うのです。
しかも時間をかけていますので、違う時代のものがうまく組み合わされています。一番古いのは11世紀で、ここにゴシックの後から13世紀、14世紀のものが加わります。他がだんだん立派になって広場も拡張されましたので、後からこんもりしたイスラム風のドームを載っけて目立つように自己主張しています。内側のドームはぺたんこなのです。これが次に古くて15世紀のものです。何回か建て替えましたが、これがやっぱり古くて中心にあり、これも後からとんがり帽子を載っけたのです。このへんは最初は2階建てで、広場は半分で終わっていましたが、やがて拡張して3階建てになるというふうに、いろいろバランスを考えながら見事に成長していきました。考えてみれば、みんな様式や時代が違いますが、実にいいバランスをとっています。こういうのがいい町です。みんな勝手につくって全体でダメにしているのが日本の町です(笑)。
この教会も最初は木造の教会で、これは9世紀から10世紀までのもので、ここには葡萄畑があって川が流れていました。これは小さい教会で、鐘楼がありました。最初の総督宮殿もプリミティブなものがありましたが、東方貿易で稼いだので、少し広場を立派にしようということで、こういうふうに広げました。しかし、ここには運河が流れているので平行線は出来ません。運河のほうが強いので捩じれましたが、初期条件で捩じれたということが面白く、ずっと捩れっぱなしなわけです。そしてこういう軸線が出来ました。海に開く小広場には、東方からかっぱらってきた戦利品の2本の円柱が立っていますが、次にルネッサンスの頃にこの小広場の西側を整備して、正面奥に時計塔が出来て、軸線がここに出来ます。ともかく千年かかってこの形が出来たのです。
サン・マルコ寺院には11世紀のビザンツ様式のモザイクがあります。当時は進んだモデルは東方にしかないので、ビザンチンの職人を呼んでコンスタンティノープルの教会を真似したのです。
これが12世紀の広場を拡大して整備したときに合わせて持ってきた略奪品の2本の円柱で、この円柱が門構えをつくりました。ルネッサンスの頃に遠近法を使ってこういう見事な造形をやっております。遠近法とは、パースペクティブという、いかにもヨーロッパ風の考え方で、1点から立派な空間を三次元的につくり上げ、ここに焦点がきます。これは綺麗な造形ですが、みんなボリュームとか高さとか様式が違います。しかし絶妙なバランスでこれも生きているのです。
鐘楼は20世紀初めに突然瓦解してしまったことがあり、煉瓦の建物は危ないのです。これがないときのサン・マルコ広場の写真がたくさん残っていますが、間延びしてしまってどうしようもありません。この垂直線が生きていて、これがないと困るのです。だから何が1つなくてもダメで、全部うまくおさまっているのです。
日本の町では、いつの間にか空き地になっていて、ここに何があったかなということが多いですよね。1個とっても成り立ってしまうし、あってもあんまり存在感がなかったという感じです。1つ1つの建物がうまく合って、全体としてバランスが出来ていて迫力がある、個性があるという建物は、どうやったら出来るのかは非常に難しい課題ですけど、ヴェネツィアを見ていると、そういうことのヒントがありそうです。
これが1500年の状態ですから、まだとんがっておらず、ここまでは立派に出来ていません。こういう状況の中で、次のアーキテクトがここに立派な建築をつくり、これよりもずっとレベルアップしました。これを壊してはいません。
出来上がりますと、ここが劇場空間になり、年中ここでスペクタクルが行われ、水上までスペクタクル空間になりました。これは一種の理想都市の広場であり、劇場空間でした。
ここには、ほんとうにスペクタクルの場面を描いた絵が多いのです。日本の将軍とか天皇とかは民衆の前に姿をあまり現しません。ところがヨーロッパはもっと直接的なので、ローマ皇帝とか国王とか、ヴェネツィアで言えば総督とか、オスマン帝国のスルタンも含めて、民衆の前に出て来てこそ価値があるのです。ですから、これは総督宮殿ですが、お立ち台のようなものがこういうところに出て来るわけです。そして総督宮殿があって、その横の広場で教会もあるということで、熱狂するとここでのスペクタクルは盛り上がるわけです。
最終的にここまで出来上がってきて、18世紀末にナポレオンがここを支配したときに、ナポレオンはヴェネツィアが大好きでしたから、「世界の大広間」と言ってサン・マルコ広場を絶賛しました。彼はそれまでは高級官僚の邸宅でありオフィスだった建物をうまい具合にナポレオンの王宮に変えました。そして華やかなエントランスが欲しいということで、ここを取り敢えず壊してしまって、コンペをやって、いろいろな案が出ましたが、結局ここには、わりとおとなしい建物を完成させることになりました。
広場が完成していくのと同時に、ヴェネツィアは祝祭性を帯びてきて、広場でのパフォーマンスが多くなりました。同時に「水上」ということが華やかな舞台として強く意識されるようになります。御召船という金箔で覆われた船でパレードが行われました。この風景はここまでがアドリア海の入口で、これが最近の映画祭で北野武が賞をとったリド島です。
そしてここまで来て、金の指輪を投げて、「我はなんじと結ばれる」と言って、永遠の平和と安全を祈願するという儀礼をやるのです。そしてその水上パレードの華やかな舞台が形成されます。
いままで「光」のほうばかりを見てきましたが、少し「影」のほうも見てみましょう。ヴェネツィアの街を歩いていて慣れてくると、どこが古いのかというのがすぐに分かります。まず両側に岸辺の道がなく、建物が直接建ち上がっているところは古いところです。運河が曲がっていればもっと古いところです。
こういうのは新しいところですが、新しいという意味は16世紀ぐらいで、古いのは13世紀、14世紀、あるいは9世紀から11世紀という感じです。こういうのは世界中にないのです。
こういう中間のもあります。そして最初橋はなかったんですが、あとからねじ曲げて架けているんですね。意識しないで勝手にそれぞれの島でつくっていたのです。
これはヴェネツィアで1番狭い道で、傘をさしてすれ違うのも大変なんですが、ヴェネツィアはみんなほんとうにお行儀がよく、こんな道でもどんどん行き来しています。
いまのはここから入って行ったところにあるんですが、こういう内部の運河が非常にいいのです。こういうヒューマン・スケールの町があります。
橋は後から架けているので、アクロバットのような橋もあります。橋というのは日本でも弁慶と牛若丸が橋の上で戦ったり、なにかドラマチックです。辻斬りや通り魔も橋の上が起こりやすいという人もいて、文学とか民俗学でも橋が重視されます。つまり、それはあの世とこの世の境目です。ヴェネツィアを見ていても、やはり橋は特別の意味があるように思います。それは物理的にも説明出来るわけで、ここは路地の狭い道の空間よりは光がさすのです。運河は道よりも広いので、ここは明るいです。そして、船を立体交差させるために橋は太鼓橋になっています。したがって、舞台の上に上ったような感じで気分がいいものですから、ここで立ち話をしています。そこで夜にはちゃんとここにワンポイントの照明をつけるようにしています。
日本でも、どこまでも均一に明るくするというのはナンセンスだと思います。もう少し明るいところと暗い場所を作れば雰囲気がよくなるのに、そういうデリカシーがなくなっています。神楽坂の料亭街なんかに行くと、ほんとうに日本人は素晴らしいセンスをもっていたことが分かるのですが。
橋の上で乳母車を押す技術もみんな持っていまして、軽快に昇り降りします。カタンコトンとリズミカルで、子どもたちもそれに合わせて、身体の中にそのリズムがしみついています。こういうところにいいデザインのワンポイントのアクセントとして照明があります。ほとんどまっ平らな町ですけど、太鼓橋の昇り降りは上下運動にいいのです。こういうところにゲートがあって、また別のヒューマン・スケールの商店街に入って行くのです。
これは14世紀ぐらいの建物で、ずっと持続しているという意味ではヨーロッパで一番古い商店街だと思います。いまも商店は生きていて、高級なレストランも入っています。次は14世紀のショップで、アラブにはもっとありますが、ヨーロッパではここが1番古いだろうと思います。
これはヴェネツィアで私が好きな住宅の1つです。ここはこういうように運河が変則的にT型に交わっているところですけど、上と下で違う2家族が住んでいます。この家族の陸の入口はこれで、水の入口はこれです。背中合わせに中庭があって、反対側から入った人はここへ来て向う側の水の側から入るのです。2家族は顔を見合せないで、自分の家族が全部を使っている気持ちで、貴族住宅に住んでいる気持ちであり、実にうまいプランニングだと思います。
入り口を入って行くと、中世の頃なので大階段を上って行き、貯水槽があって、水と緑でアラブの地上の楽園、パティオという感じであります。
ヴェネツィアにはだんだん広場の思想がゴシック時代に出来上がっていき、ヴェネツィアほど広場がいっぱいある町はないと思います。車が来ないから天国ですし、運河に落っこちる子供もめったにいません。私が91年にもう1度行ったときに、1人落っこちましたが、通りがかった若者が飛び込んで救って、名も言わないで立ち去ったという新聞記事がありました。日本の掘割を埋める動機に、行政側が責任をとらされるからということも多かったですが、日本は自分で身を守るというようにしないといけないですね。
これはいまの広場ですけれど、地図で見ても複雑です。いまからここに入って行きますが、マリア像が祀られています。ずうっと行くと、このへんは大学のキャンパスの施設があり、ほんとうに複雑です。
こういうふうに雨水を集めて濾過して飲むというエコロジカルなシステムがありました。ヴェネツィアの島では、島に降った雨は運河に落ちてしまったらお終いですけど、広場に落ちれば広場の共有の貯水槽、屋根の上に落ちればプライベートな中庭の貯水槽に入り、1滴残らず活用するという理念だったのです。
ここはカナル・グランデ沿いの日本語科のある大学の建物です。教授室のバルコニーからは、貴族の優雅な眺めが体験出来ます。
11月から1月くらいにかけて海の水位が上がり、岸辺より高くなることのあるシーズンになりますが、最近その頻度が増えているとみんな心配する向きが強まっています。しかし、ヴェネツィア人は慌てず騒がずです。海峡のところに3か所大体400メーター幅の厚い箱が置いてあり、この中が空洞になっていて蝶番で下にとめてあるのです。いざアドリア海の水位が上がりそうだというときには、高圧空気を送って浮力で上げてダッと水門になるということです。これは実験上はうまくいってるそうですが、いろんな反対があって、まだ実働はしていません。ベルルスコーニ首相はゴーサインを出したと言われていますが、まだ分かりません。基本的には、まだこういう状態がずっと続いていますが、でも慌てず騒がずというのは大したものだと思います。
一方で市民の生活は豊かに続いているわけで、水位のあがる冬場でも広場に集まり、リアルト・マーケットの広場の賑わいも変わりません。
私が最初に留学した頃より、どの家も修復再生して、新しいデザインを取り込んで、中は綺麗になるし、外壁も美しくなっています。先程申し上げたルネッサンスの頃、ご婦人が金髪に染めていたアルターナもいまはこんなに綺麗になっています。これは既得権であり、新たに作るのは認められていません。したがって既に持っているところだけがこんなに見事になるのです。
そして水上テラスなど、水辺空間の使い方がだんだん上手になってきて、現代的な水の都市のメリットを最大限生かしています。デザインも日々進化しているし、ここでポケッとしているほど気持ちのいいことはないわけで、留学していた頃、授業をエスケープして、このへんにいるのは最高の贅沢でした。
これはあるカナル・グランデ沿いのホテルのテラスですが、朝食をこういうところで食べられるわけです。国際会議とかシンポジウムとか催物もカナル・グランデ沿いのもとの貴族の館を使うことが多いです。したがってホテルもカナル・グランデ沿いにあります。朝はモーターボートのタクシーが迎えに来てくれます。それでかつての貴族のように、水の側の正面玄関から入って、そのメインフロアーのホールでイベントに参加して、夕方にはまた舟で送られて、ホテルに戻り、シャワーを浴びて正装して、またレストランに舟で行くのです。
こういうことはとても楽しいわけで、日本でも江戸時代にはそういうことがあったのではないかと思うのです。東京でも、こんなに運河があるのに、どうして出来ないのかと思います。船着場もつくろうと思えばつくれるのに、当局が認めてくれないわけです。ニューヨークでもアムステルダムでもパリでも、もうちょっと自由に川や運河を使っています。ヴェネツィアほど上手にはいかないかもしれないが、東京の水際線は晴海とか豊洲とかを含めると水際線が長く、水辺の空間の可能性があると、これからに期待したいです。
それからイベントがともかく多いんです。これはフィアットが買って、内部を模様替えして見事に出来上がったミュージアムです。ここでほんとうにお金をかけて、素晴らしい展覧会が行われ、世界中から美術愛好家が集まるわけです。
オペラ劇場のフェニーチェも焼けてしばらく中断していましたが、去年の12月にオープンしましたので、またオペラファンを魅了するに違いないでしょう。ビエンナーレがあり、映画祭があり、ともかく催物が多い文化都市です。ですから「観光」という概念の幅が非常に広く、観光に依存している比率はどのくらいですかとよく聞かれますが、数字では表わせません。むしろ文化産業と言ったほうがいいと思います。あるいは「文化的コンベンション・シティ」と言ったほうがいいかもしれない。それだけ経済力があるのです。
水上で舟遊びを楽しんでいる次のスライドは、のんびりしたシーンで、ほんとうにうらやましいです。東京でも、もう少しみんな舟を使ったほうがいいのではないかと思います。
お祭りもほんとうにいいもので、こういう浮き桟橋のアプローチをパっとつくってしまいます。終わるとまたすぐに取り壊すんです。これも舟を仕立ててみんな行く風景です。我々もみんな白装束で行ったんですが、楽しいパーティでした。東京でも隅田川の花火のときには屋形船や釣り舟を仕立てて行くわけですが、お金を払います。東京では自分で友達の舟にただで乗っけてもらうことはなかなかありません。しかしヴェネツィアではみんな友達が持っていますから、観光の人も岸辺から楽しみますが、市民はみんな舟で思い思いにご馳走を持って楽しんでいます。
ヴェネツィアの住宅のつくり方の特徴は、そう数が多く出来ているわけではないんですけど、町の伝統とかセンスに合わせて現代的建築を丁寧にデザインしていることです。ここは汽車でヴェネツィアに入って来るときに目立つ一番重要な顔にあたる部分ですが、ヴェネツィアの伝統の漆喰の窓枠の色、そして煙突のデザインも素晴らしく、ヒューマン・スケールの路地や船着場があり、これが現代的なヴェネツィアのイメージです。
日本だって深川とか隅田とかにマンションをつくるのなら、このぐらいのことは出来ると思うのですが。そこに舟が入って来るのです。晴海あたりなら、これくらいのことをやるという発想の転換をすべきです。そのために必要なら法律を変えるべきです。しかし目標のイメージがなければ議論にもなりません。
ヴェネツィアを見ていると、歴史的な知恵が現代のセンスで実にうまくつくられていて、世界の人々を現代の感覚で魅了しているわけです。これはノスタルジーだけではないのです。ヴェネツィアはクリエイティブに何かつくっていくときの発想の玉手箱ではないかと思います。我々日本の人間も、もう1度ヴェネツィアをその目で見たらいいと思います。
私はいままでヴェネツィアに関して幾つか本を書きました。その中でいまでも本屋さんで簡単に見つかるものとしては、まず『ヴェネツィア ― 水上の迷宮都市』(講談社現代新書)があります。これは91年に留学したときに書いた、今日のテーマと同じタイトルの本です。もう1冊は、この留学した直後に書いた新書版をリメークしてもう少し情報を加えて出版した『イタリア 都市と建築を読む』というタイトルの文庫本です。これは講談社のα文庫で出ています。両方とも専門書というよりは一般の方々に広く読んでいただきたいと思って書いた本ですので、今日の話とかなり重なると思いますが、もしチャンスがあったら読んでください。どうもありがとうございました。(拍手)
| 質 問 | 今日は貴重なお話を大変ありがとうございました。私はユーテリティ関係を教えていただきたいんですけど、電気のことです。ヴェネツィアで外灯やライトアップ用の電気があるのに、電線が全然見えなかったので、電線は水中なのか、あるいはある程度何戸か単位で自家発電をやっているのかと思いました。またガスの話は全然なかったですが、都市ガスではなくてプロパンボンベでやっているのか。あるいはガスは使っていないのか。水関係では、雨水だけ使うので水道局とかはないのか(笑)。下水については、浄水場があるのか、それともそのまま海に流してしまうのか。これらの点についてのお話をお願いいたします。 |
| 講 師 | どうもありがとうございます。すっかり歴史的な話ばっかりしてしまいました。私は留学する前に電気もないのではないかと脅かされたぐらいですから、いまのご質問はほんとうにリアリティがあります。もちろん彼等は快適な現代生活をしているわけで、電気もガスも大陸からきているわけです。鉄道橋と車の橋がありますから、その下に併設していると思います。 ヴェネツィアは今日ご覧いただいたように、数多くの小さい島が寄せ木細工のように集まっているわけで、隣の島に行くのには、橋の下を配管して通しています。ですから工事しているのをよく見ますけど、電線も地中に埋めているわけです。ガスもパイプを地中に埋めております。したがって普通の大陸の都市と変わりません。水道も19世紀の後半になって大陸から引っ張ってきました。それは鉄道橋と一緒に引っ張ってきたわけですね。したがって各島、各家に全部水道もあります。 プロパンの使用は、イタリアの田舎町に行くとまだあります。例えばアマルフィというヴェネツィアと並んだ中世海洋都市で、魅力的な町がナポリの南にあるんですけど、そこはプロパンです。しかしアマルフィは斜面都市ですから、男どもがプロパンを上まで担いでいくので大変ですが、そういう都市もありますけど、ヴェネツィアでは基本的には都市ガスが早くから入っています。 問題は下水道で、ヴェネツィアは物理的に下水道を敷設するのが非常に難しい構造になっています。前近代の時代、ヨーロッパでは下水道はもちろんなかったわけです。トイレの設備は日本のほうがはるかに進んで清潔だったのです。ロンドンなんか漫画チックに人が通っていない夜に上から捨てている絵がありますが、ある真実をついていたんだと思います。普通はおまるみたいなもので受けて、明け方町の外に運び出すとかいう仕組みがあったと聞きます。それからだんだん簡易下水道が出来て、いまの都市下水道に移行していくんですけど、ヴェネツィアの場合はそれが出来ません。 しかし、19世紀の後半には衛生思想が広がりますので、その段階でいろいろ実験をして浄化槽を開発しました。それは3槽に分けておいて分解をどんどん進めて、最終的にはかなりの部分をきれいに液体状に浄化して流してしまうのです。固形物がたまりますが、それは定期的にバキューム船がくみ取りに来ます。いまもときどき見ることがあるんですが、ホースをものすごい長さで伸ばしていきます。我々の子どもの頃、東京でも1960年代までバキュームカーが来てましたが、ヴェネツィアの船では、ホースを50メーターとか100メーターも伸ばすのもあります。 そういう浄化槽は、ホテルとかレストランのように大勢人が集まるところでは設置が義務づけられていましたが、一般の家庭はどうなっているか市当局もよく分かってないという状況でした。ですから垂れ流しもけっこうあるわけで、実態はよく分かっていないのです。出来るだけ、どの家も浄化槽を持つように義務付けていますが、ほんとうに建て込んでいる古い島では無理なところもあります。少し周辺のゆとりのあるところでは、その島の中で完結する下水道システムも開発しており、徐々にそうやって広げつつあるというのが現状です。 ただ基本的にラグーンは半分海水ですから分解作用があるわけです。しかし化学洗剤を使ってしまったり、ガソリンが流れ込んだり、あるいは大陸の市街化、住宅化が進んでそこからの生活汚水が垂れ流されるということで、ラグーナの水質が悪くなり、分解機能が衰えるということで問題が出てきています。いまは環境思想も高まってきたので、多少よくなりつつあるという状況ですが、夏なんかに行くと、耐えられないぐらい臭いという状況に遭遇する危険性はあります。日本人は清い、澄んだ水をこよなく愛するので、そういう目で見れば、ヴェネツィアは汚いと思われる方が多いようです。一般の基準からするとそんな汚くないと思います(笑)。 |
| 質 問 | 新聞で、しばしばヴェネツィアはもう沈没しそうだと報道されます。さっきのも写真でもサン・マルコの半分が水浸しでした。日本の建築会社が行って、一生懸命何かやっているとかいう話も新聞に出ていましたが、そのへんどうなっているんでしょうか。 |
| 講 師 | 歴史的にも水に浸かっちゃうアックア・アルタ、高い潮、高い水と呼ばれる現象はありました。そして歴史的にもだんだん低いところを嵩上げしていくという工事も行われていました。サン・マルコ広場は、いまは非常に美しいペーブになっていますが、大分下のほうから12世紀の煉瓦で舗装したレベルが出てきています。だからこれまでも大分上げてきながら、何となくしのいできましたが、ときどき浸かっちゃうという状況です。 そして近代に入って大陸で工業地帯をつくったとき、地下水の汲み上げをやったため急速に地盤が下がりましたが、ヴェネツィアでもタンカーが入りやすいようにラグーナの中に運河を深く作ったため、外からの潮の入りを加速するようになりました。つまり非常に微妙なバランスで出来ていたラグーン全体のエコシステムが崩れたわけです。 もう1つの問題は、やはり島でも工業地帯のために埋立地をつくったため、水が押し寄せてくるときに逃げ場がなくなり、相対的に水位が急に上がるようになったということです。特に冬場は、いろんな気圧のこととか風向きとか気象条件が全部悪いほうに重なると、一気に水が押し寄せてくるのです。そういう時期に昔はあった逃げ場がなくなって水が上がってくるのです。決定的なのは地下水の汲み上げで地盤が下がったということです。 1966年には大水害があり、3日間、孤立してしまいました。このときは大変な騒ぎになって、ユネスコがリーダーシップをとって「ヴェネツィアを救え」という国際キャンペーンがありました。それ以来ヴェネツィア保存、ヴェネツィア救済という大事業が国際的に始まるわけです。もちろん地下水の汲み上げはすぐやめましたから、ローカルな意味での地盤沈下はおさまりました。問題はグローバルな環境問題の地球温暖化ということで、海面の上昇が世界的にあるわけです。ですから世界のいろんなところと一緒にヴェネツィアが沈むという危機があるわけです。 それに対して、ともかくアドリア海の水位が急に上がるときだけ食い止めようという技術の開発が選択され、実験が行われ、うまく成果を上げ、ゴーサインも出ているということは先程お話しました。これに反対する論理としては、お金がかかり過ぎるということと、閉め切る時間帯によっては水の流れが中断し、エコシステムとしてまずいということと、港湾都市ですから船の出入りが常にないと経済活動に支障がくるというようなことです。そういう幾つかの理由があって、ゴーサインが出たり、ダメだと言ったりを20年繰り返しているんです。 いま日本の技術者たちが提案していることについては、私はよく知りません。沖種夫先生という年輩の建築家が、ご自分で提案したものを私にも送ってくださいましたが、綺麗に図面に書いて、日大の海洋工学の千葉のキャンパスで展覧会をやっているようです。このように個人で提案されている日本人の方がおられるのは知っていますが、もうちょっと大がかりに、ある技術をもったグループの方が提案しているというのは、まだ聞いていません。 これは長い目で見ればほんとうに困った問題ですけど、我々が生きている間は絶対に問題ないし(笑)、200年は大丈夫だと思います。その先は難しいです。嵩上げをしていくことは、建物のオリジナルの立面というか、外観と岸辺のレベルの関係が変わってしまい、変なプロポーションになるということで、そういう問題について提起して、去年の6月に法政大学で大きい国際会議をやりました。そのときにはヴェネツィア建築大学の専門家が来て、その問題を提示されました。ですから当事者たちの間でもいろいろ議論がありますが、議論しているだけで実際はあんまり事は進んでいません。一方、日本はというと、問題があるとすぐ動きますが、5年後にはもう条件が変わっているということが多いので、慌てず騒がずのほうが私はいいと思いますけれどね。 |
| 質 問 | ヴェネツィアの市政というのか、政治や行政の特徴、特に日本の都市や県とか市に比べてどんな特徴があるのか。それから市民の参加の程度としてはどんなふうに関わっているのか。市民の生活のレベルについても、恐らく日本の市民生活に比べて、コミュニティがあって満足度は高く、我々の学ぶべき点があるのではないかと思いますが、そのへんをお教えいただきたいと思います。 |
| 講 師 | ヴェネツィアの島を書きますと、こう島があって、ヴェネツィアがあります。ヴェネツィアの市域はこんなイメージですが、このへんは埋め立てが進んだ工業地帯ですね。このへんに商業ゾーンがあり、ヴェネツィアの歴史的な島はここです。ここのところはヒストリック・センター、チェントロ・ストーリコといって、ほんとうに世界遺産です。ヴェネツィアは行政的にはここまで一緒なんです。商業地のほうをメストレと言って、石川島播磨の方々が技術指導に行っていた造船所もある石油化学コンビナートのほうをマルゲーラと言っています。ここで地下水を汲み上げて地盤沈下の元凶になりましたが、これを合わせて30万ぐらいいるんですが、古い島の中はどんどん減ってきて、いまは7万ぐらいだと思います。でも我々からすれば生活感があるんです。 |
| 司 会 | ありがとうございます。本日は「水上の迷宮都市」というテーマで、ヴェネツィアについての新しい見方や、同時に東京を見る見方のヒントも与えていただけたんじゃないかと思います。それでは時間ですので、これで終わりたいと思います。陣内先生にもう1度大きな拍手をお願いいたします。(拍手) |
陣内秀信(じんない・ひでのぶ)
1947年、福岡県に生まれる。
東京大学大学院工学系研究科修了・工学博士。
1973年、ヴェネツィア建築大学に留学、その後ユネスコのローマ・センターを経て、1976年帰国。
現在、法政大学工学部建築学科教授。
専門はイタリア建築・都市史。
サントリー学芸賞、建築史学会賞、地中海学会賞、日本建築学会賞受賞。
著書に、『東京の空間人類学』(筑摩書房、1985年)、『都市を読む ― イタリア』(法政大学出版局、1988年)、『ヴェネツィア 水上の迷宮都市』(講談社現代新書、1992年)、『都市の地中海』(NTT出版、1995年)、『南イタリアへ!』(講談社現代新書、1999年)、『地中海都市周遊』(共著、中公新書、2000年)、『歩いてみつけたイタリア都市のバロック感覚』(小学館、2000年)、『イタリア 小さなまちの底力』(講談社、2001年)、『イタリア都市と建築を読む』(講談社+α文庫、2001年)、『水辺から都市を読む』(共編著、法政大学出版局、2002年)、『シチリア』(淡交社、2002年)、『地中海の聖なる島サルデーニャ』(山川出版社、2004年)ほか多数。