歴史の中のゴッホ ― 社会史の中で

 

講師 学習院大学文学部教授

有川 治男 

平成17年3月29日 於:如水会館

【無断転記転載を禁ず】

社団法人 如 水 会

責任編集

 




◆内容目次

はじめに

ゴッホの自画像

サン=レミからオーヴェール

社会史の中のゴッホ

絵画が映し出す近代社会

鉄道、汽車、駅

近代都市の大通り

パリは雨の日でも快適だったか?

大都会の影の部分

工業の発展と農業の変貌

農民の姿

オランダ時代の主題

人物画の割合が多い

近代社会での風景画の役割

近代化の部分

社会の中の芸術家

アルル時代の作品

鉄道の発達と観光の成立

セーヌ川沿いの自然を楽しむパリ市民たち

おわりに

講師略歴


はじめに

 きょうはゴッホの2回目です。この3回は、各回それぞれ独立した視点からゴッホを見てみようということで、先週は美術史の中で、もっぱらスーラ、モネ、ゴーギャンといった人たちの中でゴッホの仕事がどういうものだったか、あるいはゴッホはどういうことを目指していたのかというお話でした。先週のプリントには年表が付いており、たとえば印象派の展覧会がどうだった、マネの作品がどうであったというようなことが載っています。

 きょうのプリントには、きょうの話に関係ある世界の主な出来事が書いてあります。これをご覧いただくと、「社会史の中で」ということで、同じゴッホの作品を見るのでも、同じ時代の年表でも、だいぶ異った方向から見られるようになっています。ここで詳しく見ていくことはしませんが、だいたい1850年頃、19世紀の半ばからゴッホが生きていた1890年位までは、美術史の上でもずいぶん重要な事がたくさんあった時代ですが、一般の歴史、社会史とか政治史の上でも非常な動乱時代であったわけです。

 フランス史を見ると 重要な出来事として1870〜71年のプロシアと戦う「普仏戦争」があります。これが一つの大きなきっかけになるのですが、その前から、たとえば1852年の「オスマンによるパリ大改造」があります。パリの古い町家や城壁を取り払って、古い道や建物も取り壊して、今日見るブールヴァールという何十メートル幅の道路を直線で取り付けてしまう。パリのあるセーヌ県の県知事だったオスマンという人が、ある意味でかなり強引に、近代都市へ向けての大改造をやります。つまりパリが、現在われわれが見るような「パリ」の姿をとったのは、まさにこのオスマンの大改造の成果であったわけです。

 パリ万国博は、1867年と1889年の2回開かれています。万国博は最初がロンドンだったわけですけど、そのあとパリでも必要なものとされて、これらの万国博には日本も華々しく登場します。世界の華々しい近代的姿の象徴としての万国博が、パリで1867年にまず開かれました。

 それから海外でいえば、1859年にフランス軍がベトナムのサイゴンを占領しています。現在のホーチミン市ですね。そして1887年にはフランス領インドシナが、カンボジアとラオス、そしてベトナムを含めた範囲のフランス領土として創設されています。まさに、いうところの帝国主義の時代ですね。一般的に資本主義の帝国主義段階というのは、だいたい1870年頃、ちょうど普仏戦争が終わったあたりからです。普仏戦争でいわば新興のドイツとフランスがぶつかりあい、世界中の海外植民地をめぐって列強の争いが一層過激になってきます。たとえば1881年にフランスがチュニジアを保護領化しているし、1884年にはアフリカ分割に関するベルリン会議が開かれています。列強間で、ある程度のアフリカ分割の約束事ができたということですね。従来のイギリス、スペイン、オランダなどの持っていた植民地に加えて、新たにドイツとフランスが植民地化政策を急速に進めていって、ついに1914年の第1次世界大戦へとつながっていく、そういう時代であったわけです。フランスもドイツも、とにかくどんどん富国強兵策を推進していきます。

 そのなかで、きょうのお話の印象派の絵あるいはゴッホの絵にも関係してくることですが、フランスもドイツも重工業化を進めながら、どんどん鉄道を引いていくという現象が起こります。

 近代社会の展開のもう一方で、資本主義が急速に展開していく過程で、パリとかベルリンといった大都市が急速に成長していく。そういう展開につれて、社会の中での貧富、階層の差が大きくなっていく。つまり、新しく登場してきた新興の大ブルジョアジーと、それまで都市の市民であり、田園地帯の農民であった人たちがいわゆるプロレタリアートに転落していく階層分裂現象が生じてくる。重工業化、近代工業化とともに、前の時代までの支配階層(王候貴族等)と市民と農民階層(平民たち)という身分制社会構造が、いわゆる資本主義の構造へと変化していく過程として急速に出現してくる。それが19世紀半ばから第1次世界大戦までの時期です。

 その間に大変な転換が見られるわけで、いわゆるバブル期もあれば、その反動としての恐慌もあるといったバブル・恐慌を繰り返しながら雪ダルマ式に近代資本主義世界が展開していく時代が、まさに美術史の上で言う印象派の登場からゴッホが死ぬあたりまでの大きな転換期であったわけです。社会史、政治史、経済史というような分野でも、この1860年代〜1880年代はとても重要な意味を持つ時代でした。そのような歴史の流れが、絵画、たとえば印象派とかゴッホの絵画と無縁でしょうか。実はそうではなく、印象派やゴッホの絵画には、そのような社会的な大きな流れがいろいろな意味で深い関係を持っていたということがきょうのお話になります。

(スライド解説)

 大きい基本的枠組みをお話した上で、具体的に個別の作品を見ていきます。ちょっとだけ先週のおさらいと、最後に見残したところもありますので、まず先週の「美術史の中で」でどんなことを話したかを、少し新しい別の局面から補足して、最初10分間ほど見ておきます。

ゴッホの自画像

 先週は、美術史の中で、ゴッホがパリで何を学び、どうやって独自の作風を創り出していったかというお話をしたのですが、このスライドは、左右両方ともゴッホが描いた≪自画像≫です。左側のパリで描いたものは、印象派あるいはスーラなどの影響を感じさせます。明るく鮮やかな色彩、細かいタッチで描いていくという作風だったわけですね。

 それに対して、右側はアルルで描いた≪自画像≫です。先週見たように、アルルでは、風景画でずいぶん大胆な展開がいろいろあったわけですが、人物画の場合にはどちらかというと、奔放なタッチを見せるというよりは、わりと輪郭線がはっきりとして、大きく色の面が並べられるといった作風になっています。もう一つアルルでの人物画の特徴は、わりと抽象的な概念が付いているということでした。これも有名な、日本のお坊さんとしての≪自画像≫というものですが、かなり概念性の強いものですね。

 アルルでの人物画の特徴をいちばん典型的に示している≪自画像≫といえば、この作品です。ゴーギャンとの事件があり、入院して、まだ退院できるかできないかという頃に描いた、パイプをくわえて、耳を切ったあとの包帯がある≪自画像≫ですが、まさにゴーギャンの影響が典型的に表れていますね。

 ちょうど同じころゴーギャンが描いたゴーギャンの≪自画像≫もずいぶん概念性の強いものです。頭の上にはまるでキリスト教の聖者であるかのように光輪が付いています。このゴッホの≪自画像≫は、ゴーギャンの作品に典型的に見られる、輪郭線がはっきりして、背景なんかもキッチリ色で分けて塗っていくようなやり方を示しているわけです。

 しかし、遂にゴッホはゴーギャンの影響から脱して、サン=レミからさらにオーヴェールへ移り住みます。そして最晩年の作品になると、完全にゴーギャンを越えてゴッホ自身の様式を確立しています。

 たとえば、これも有名なサン=レミでの代表的な≪自画像≫ですが、画面は鮮やかな色彩がぶつかり合うというよりも、ほとんどもう1色で、顔のオレンジっぽい色と背景の薄青というほとんど2色になっています。画面がどう構成されているかというと、特に重要なのは背景の部分で、べっとりと二つの鮮やかな色に塗られていたアルル時代の≪自画像≫に比べれば、後ろの部分は1色で、しかし、その1色の部分に炎のように渦巻くような筆のタッチが見られます。こういうふうに、色彩、絵具の力、それ以上にタッチのうねり、タッチの組み合わせで画面を見せていく作風が、このサン=レミの≪自画像≫にも非常にはっきりと表れています。

サン=レミからオーヴェール

 このようなことが典型的にサン=レミ時代の油彩画に見られます。これなども、パッと見ると風景画というより抽象絵画ではないかと思われるぐらいです。サン=レミの近くにあった岩山や洞窟地帯の風景画ですけど、画面に何が描かれているかというよりも、われわれの眼前には「絵具のうねりがある」「タッチの絡み合いがある」といった作品です。ほんとうにパッと見ると抽象画じゃないかと思えるような絵具の力を見せている。そのタッチのうねり、組み合わせで見せていくことが、もうサン=レミ時代にはごく当たり前のことになっています。

 タッチの使い方にもいろいろあります。これはもう少し分かりやすい、サン=レミの病院の入口を描いたものですが、空の部分、木の部分、幹の部分、地面の部分と、さまざまなタッチを組み合わせている。もしこれが平面的にペタッと塗られていると、ずいぶん違った感じになるだろうと思わせる作品です。

 ゴッホのサン=レミの病院の窓から見た風景があります。病院の近くの麦畑とか≪オリーブの果樹園≫です。先ほどの岩山の様相などと並んで、このオリーブ園などは、「オリーブが描きたい」「山が描きたい」というよりも、山やオリーブの樹という形を借りて「タッチの躍動感を見せたい」というか、「絵具がうねるような世界」といった感じの作品になっています。そういう意味では、ゴッホのサン=レミ時代の作品の中では最も抽象性の強い作品だと思います。

 この麦畑もそうですね。≪刈取る人のいる麦畑≫ですが、画面全体がほとんど真っ黄色になっている。そして、地面の刈り取られた麦の部分と空の部分とは、タッチの違いだけで対象の違いを描き出しています。

 次はサン=レミ時代、ゴッホの見事なタッチの頂点にくる2点です。左側は≪星月夜≫(何年か前MOA展覧会で日本にも来ている)、右側は≪糸杉と星の見える道≫(1890年)(今回のゴッホ展に来ている)です。この≪星月夜≫は、ほんとうの空には渦巻きなんてないのですが、夜空の星の輝き、星と月の光が満ちている夜空をこういう大胆なタッチの渦で描いていくことをゴッホは行っています。

 つづいて、最後の半年ほどのオーヴェール時代の作品をお見せします。サン=レミで培われた彼の手法はオーヴェールでも一層展開されています。右側は今回も展示されている広島美術館所蔵の≪ドービニーの庭≫という作品ですが、色彩の変化はそれほど大きくありません。ゴッホは色彩の画家と思われがちですが、サン=レミとかオーヴェール時代の作品だと色の幅はそれほど大きくない。どちらかといえば、わりと一つの系統の色ですね。≪ドービニーの庭≫にしても、白から青と緑の幅を越えていないのです。でも、それほど大きくない色彩の揺れの中で、濃淡と明暗、タッチの違いで画面をこしらえているわけです。

 有名な≪オーヴェールの教会≫≪カラスのいる麦畑≫といった作品は、どちらかといえば色の塗り方が平面的で、鮮やかな色彩がぶつかり合っています。しかし、同じ麦畑でも、ほとんど同じ時期に描かれた、黄色と青の色彩のぶつかり合う≪麦畑≫もあるかと思えば、先ほどの≪ドービニーの庭≫と同じように、白から青、水色、薄緑、青、緑といった辺りまでのおとなしい控えめな色彩でタッチの変化を見せていく麦畑も描かれています。

 ゴッホにとって、手段は単に強烈な色彩だけではなくて、タッチがとても重要な役割を果たしていたと先週も申し上げましたが、サン=レミとオーヴェールの作品を十分お見せできませんでした。それで、きょう少し補足してご覧いただいたわけです。


社会史の中のゴッホ

 いま出ているスライドは≪麦畑≫です。ゴッホは実はアルル時代、サン=レミ時代、それからオーヴェール時代を通じて、非常にたくさんの「麦畑」を描いています。麦畑に関しては、ここまでの話の中ではタッチのこと、色彩のこと、そういった専ら絵画技法等の視点からお話してきましたが、じゃあ「麦畑という主題」はなにか特別の意味を持っているのでしょうか。

 ゴッホは、パリという都市から南仏アルルへ移住する時点で、「人物画よりも風景画を選択したのだ」と私は言いました。南仏へ行ったのは、風景の新しい主題ないしテーマとして、それまであまり開拓されていなかったこと、そして当時モネとかセザンヌが開拓しはじめた「南仏風景」というものを、ゴッホも一つの新しいテーマとして狙っていたのだということです。

 たとえば南仏のテーマ、あるいはサン=レミでもオーヴェールでもいいのですが、さまざまある風景の中で「麦畑」というのは何か意味を持っているのだろうか。あるいはゴッホの風景画の中でも、特に「麦畑」がたくさんあるけど、どうしてそれらは描かれたのだろうか。麦畑には麦のさまざまな成長ぶり、変化を見ることできる。それによって多様なタッチを見ることができたという部分はある。だけど、麦畑という「主題」がタッチだけで描かれたとは必ずしも言えない。

 「主題が意味を持つ」と考えると、実は単に様式や色彩のことや「美術史の中で」だけではなくて、どうしても「当時の社会の中」で、たとえば、農業というのはどういう意味を持っていたのだろうかを考える必要があります。フランス社会で小麦栽培はどういう意味を持っていたのかと考えるわけです。

 たとえばモネのところで出てきたと思いますが、モネが1880年代からしばしば「積藁」を連作で描いています。そのようなことと、ゴッホが「麦畑」を数多く描いたということは何か関係があるのだろうか。それが当時の「社会の中で」どういう意味を持っていたのか。あるいは、当時の人々がこういう「麦畑」に描かれた原風景を見たときに、どういう思いを感じていたのだろうか、というような方法で、きょうのお話へ入ります。


絵画が映し出す近代社会

(スライド解説)

 これはゴッホのアルルの≪ミリエの肖像≫(1888年)です。アルルで親しくなった飲み仲間のウジェーヌ・ミリエというアルジェリア歩兵の肖像画を描いています。「アルルにアルジェリア歩兵」というのはいったい何だろうか。実はアルルは地中海に近いわけで、海の向こうにはアルジェリアがあります。

 先ほど年表で見たように、この時期フランスはアルジェリア、チュニジアといったところ、とりわけ地中海に面した北アフリカの領有化を展開しており、アルジェリアは第2次世界大戦後までフランス領だったわけですね。アフリカ現地には、アルジェリア人を主体とした軍隊組織を置いていたのですが、そこにはフランス人も数多く参加しています。このミリエという人物は、そのアルジェリアに本隊を置くフランス領アルジェリア軍の兵士だったわけです。フランスとアルジェリアとの関係の中で、当時アルルにもアルジェリア歩兵連隊の一部隊が駐在していたという事情から、そこにミリエがいたわけですね。

 調べてみると、ミリエは1888年にアルルにおいて初めてゴッホと知り合っています。その直前はどこにいたかというと、アルジェリアではなくてトンキン湾でした。つまりベトナムに駐在して、インドシナの占領に関わっていたわけです。ゴッホがアルルへ行くと、北のパリにいるよりはアフリカが近い。そしてアジアが近い。そういう感じです。フランスが単に北のヨーロッパの一国ではなくて、南の地中海を挟んですぐアフリカや海外に向かい合っているわけです。そこにいる「アルジェリア歩兵」という人たちは、東洋のインドシナに派遣されていたのだということが、北フランスにいる以上に身近に感じられる。そういう「場」でした。ゴッホが描いた肖像画の中に、まさに時代、近代社会が映し出されているわけです。しばらくは、こういった当時のフランス社会が反映されている作品を選んで見ていきたいと思います。

鉄道、汽車、駅

 先週と同じように、話題をゴッホの中にだけ止めておくのではなく、モネとかスーラといった印象派の画家たちの作品も含めてお話します。

 モネは「鉄道や汽車」という作品を非常に多く描いています。いちばん有名なのはこのモネ≪サン=ラザール駅≫(1877年)のようなモネの「連作」の最も早い時期のものです。右側はモネが住んでいたパリ郊外のセーヌ川に面した≪アルジャントゥイユの鉄道橋≫(1873-74年)です。当時最も近代的な鉄で出来た橋を蒸気機関車が渡っていくところを描いたものです。

 印象派の画家たちは「近代社会の画家たちだ」とよく言われるのですが、まさにその典型として、モネは鉄道にたいへん興味を持って、繰り返し繰り返し描いているわけです。新時代を代表する立派なサン・ラザール駅も鉄骨で組み上がった大きな駅舎であり、そういう近代の構築物、まさに「近代エネルギーの象徴」としての蒸気機関車や鉄道をモネは描いています。誰が見ても、とてもこれは素晴らしいというふうに、明るく大きな駅構内で、機関車が力強く蒸気や煙を吐いている情景があるわけです。

 そのパリのサン=ラザール駅から出たところには、やはり当時の技術の粋を集めたヨーロッパ橋という鉄でできた橋があります。駅、橋、そして鉄道という、まさに「大都会パリ」の一つの顔を示した場であったわけです。そのようなものを、モネはある意味たいへん肯定的に描いています。

 彼がサン=ラザール駅を描くときには、西鉄道会社と直接交渉して、自分が絵を描くときはしばらく他の人々を構内に入れないよう要請し、特別貸し切りで描かせてもらったという伝説があります。当時、モネはそれほど大画家でもなく、「モネならば特別な措置を図りましょう」というほど有名ではなかったらしいのですが、この鉄道会社が実際に便宜を図ってくれたのは、当時の最新技術の鉄鋼製の駅舎を描いてもらうことが鉄道会社にとって宣伝になると判断したからです。

 モネがこういう絵を描いたことを見ても、単に印象派画家として明るい空気とか煙の「印象」を描きたかっただけではなく、当時の鉄道はどういうものだったのか、あるいは鉄道会社が自分たちの保持している駅や鉄道をどういうふうに見せたかったのだろうかという接点の中で≪サン=ラザール駅≫などが生まれてきたのだと思います。

 サン・ラザール駅は、実際こんなふうに天井が大きく、明るくて、生き生きと光に満ちていたのか。おそらく必ずしもそうではなかったはずです。これは、ちょっと後になるけど、1900年の≪サン=ラザール駅≫です。あまり有名でない画家の作品ですが、これで見ると実際のサン・ラザール駅の中の状況は、よく考えてみると大変なんですよ。一応、駅の中では大きな煙を吐かないのですが、やっぱり煙が充満している感じだし、さまざまな人々、労働者らしい姿が行き交っている。ある意味でゴミゴミしており、それほど明るくもないのです。都会の明るい部分だけではなく、暗い部分も含まれているという意味では、都会の坩堝(るつぼ)あるいはその象徴のような場所でもあったわけです。だが、そういう側面は、モネの作品ではそれほど強くは表れてこないですね。

近代都市の大通り

 モネやルノワールも当時できたばかりのパリの大通り、行き交う人々や馬車といった風景を、たいへん明るい光の中に描きだしています。当時の世界最先端の大都市パリの明るい側面、未来へ向けての自信を「フランスはもうこれだけ立派な国になったのだぞ」と、ある意味では大変はっきりと誇示しています。

 左側はルノワール≪ポンヌフ≫(1872年)です。まさにパリのど真ん中ですが、なにげないようにフランスの三色旗が見えています。三色旗があるというのは決して偶然ではなくて、やはりルノワールがここでまさに新しい「近代国家フランスの中心としてのパリ」を華々しいものとして描きだす意図をはっきり示しているわけです。

 右側は第1回印象派展に出品したと考えられているモネ≪キャプシーヌ大通り≫(1873年)ですが、ここでも面目一新した近代都市パリといったようなものが前面に押し出されています。両方とも同じ頃に描かれていますが、実は普仏戦争に敗れて、その後パリ・コンミューンという大激動があった直後の時期ですね。

 パリ・コンミューンというのは、簡単に言えば、当時急激に階層分裂を起こしつつあった、いわゆるブルジョアジーの新興層と、都市部の下層労働者たちとのあいだの政治的闘争だったわけです。そこで完全に下層労働者側が敗退します。ある意味では、フランスのブルジョア的近代社会がそこから急速に進展していくわけです。数年前の敗戦でプロイセン軍に占領されていたこと、さらにパリ・コンミューンという大激動があったこと、それらの痛みなどほとんど感じさせないような、むしろ前向きな未来へ向けて明るいパリの姿を描いたのが印象派の画家たちであったと思います。

 先週お話したような、明るいパリを描く印象派の画家たちの明るい色彩と光の満ち溢れる描き方、様式というものが、まさに彼らが描きたいものと合致し、当時のフランス市民たちが見たかった「そういうパリ」に適合したわけですね。右側は当時の写真です。左側は同じような光景としてルノワールが描いているものです。誰もが憧れて行ってみたいと思うような、今日まで続いて変わらない「花の都パリ」といったイメージ、思いが印象派画家たちの中では非常に強く押し出されているのです。

 新しく出来上がったパリの町々は、晴れた日でなくても、「たとえ雨の日でもけっこう快適だよ」といっているのは、右側のモネ≪ポンヌフ≫です。人々が傘をさして歩いていることから、雨の日ですね。雨が降っていても非常に多くの人々が歩いているし、馬車は普段の日と変わらぬように行き交っています。

 印象派の仲間であったカイユボット≪パリの街路、雨≫はサン=ラザール駅の近くの光景ですけど、雨のパリです。人々は皆傘をさして、快適そうに歩いているし、道路もちゃんと舗装されている。水たまりがあっても、どろどろになることはない。雨の日でも快適なパリ、とても「住み心地のいいパリ」といったものが表されているわけです。

パリは雨の日でも快適だったか?

 実は、必ずしもそうではないですね。そうではないパリの側面を描きだした画家たちもいます。1860〜80年代、ちょうど印象派と同じ時代に、いわゆる自然派のクールベ辺りから出てくるような、社会の実際の姿をそのまま描きだそうとする写実主義または自然主義の画家たちは、同じパリでも異なる様相で描き出しています。

 右側はチャイルド・ハッサムというアメリカ生まれの画家が描いた作品≪ボナパルト街≫(1887年)で、ちょうどゴッホがパリにいた時期です。一方に、雨の日だけど快適に傘をさして子供を連れて買い物をしている上流階級の人たちがいる。そういう人たちが使う辻馬車が客待ちしています。だけど、パリにはそういう人たちだけが住んでいるわけではなくて、他方で、こちらの親子たちは雨が降っているのに傘もない。おじいさんと孫でしょうか、労務者ふうに重そうな荷車を引いて、雨の中を俯きかげんで歩いていく姿。まさに大都会の光と影、裕福な者もいるし、貧しい者もいる。同じ雨でも、裕福な者にとってはきれいな服を着て散歩、買い物を楽しめるけど、そうでない人たちにとって「雨はとても辛い状況なのだ」ということを、この画家たちは確かに描いていますよね。印象派の画家たちが描かなかったもう一つの側面を、同じ時代の自然主義あるいは写実主義の画家たちは描きだしているのです。

 やはり同じ雨のパリの大通り。ジュール・アドレという画家が1893年に描いた絵ですが、大通りには、毛皮をまとって傘をさした裕福そうなご婦人もいれば、傘もさせずにボロボロの服を着て、ふてくされた顔付きでポケットに手を突っ込んで歩いている社会下層の職も持てないような人たちもうろついている。ご婦人は「いやぁね。絡まれたらこわいわ」といって、そそくさと逃げていく風情が見られる。大都会には常にそういう情景が見られるんですね。同じ「雨」という情況の中でも、こういう光景は、当時のパリに住んでいれば必ず目にしたはずですけど、あえていうなら、印象派の画家たちはそういう側面を描かないのです。少なくともその方向性は、はっきりと見られます。

 雨よりも、もっと辛い雪が降る。だが、雪を描いたピサロとシニャックの絵を見ると、雪の日でも「楽しいパリ」という感じですね。むしろ雪景色、雪化粧をして、とても明るくきれいだ。雪の日でも賑わいを見せているパリ、そういうものとして印象派の画家たちは描いているわけです。

 しかし、ここで働き、かつ生きなければならない人たちにとっては、やはり雪が降るというのはありがたくないですよ。これは、当時パリで活動していた北欧出身の画家が1885年に描いたパリの大通りの雪の日です。雪が降れば、舗装してあっても道はぐしゃぐしゃになってしまう。しかも道は市民たちの楽しく利用する辻馬車だけではなくて、仕事で荷車を引いて歩く人たちの道路でもあったわけです。

大都会の影の部分

 いま見た雨の季節のパリの街角を描いたカイユボット≪ヨーロッパ橋≫ですけど、サン=ラザール駅に近いここを歩いているのは、少し裕福な人たちだけではなくて、パリで働いている店員とか徒弟といった階層の人たちですね。もっと典型的なのは右側のカイユボットの作品ですが、床を削る労働者の姿を描いています。そのような印象派画家もいたという一例です。これまでのシリーズを思い出していただければ、他にも何人か見当たると思いますけど、たとえば「ドガ」という画家は、モネやルノワールが描くような明るいパリだけではなく、むしろ影の部分のようなものも確かに描きだしていますね。

 ドガ≪アイロンをかける女≫は労働者階層の女性です。左側の≪アプサント≫(1875-76年)ではカフェで強い酒を飲んだくれている、誰が見てもまともな仕事に就いているとは思えないような男女の姿です。ドガはこういう世界も描いています。

マネ≪サン・ラザール駅≫(1873年)
 マネやゴッホなどの印象派の画家たちが多く住んでいたのは、サン・ラザール駅のすぐ横、「モニエ街」というところです。ここにマネはある時期住んでいたのですが、その「通り」の様子です。たとえばマネは、裕福そうな人たちが乗る馬車と同時に、その道で道路工事をしている労働者たちも描きます。右側の絵でも、同じような馬車と並んで、おそらく普仏戦争で足を失ったであろう傷痍軍人、そういう人たちの姿を描きだしています。マネが描きだしたパリには、もちろん上流階級の明るいパリもあるけど、その中に必ずそれを支えている下階層の人たちの姿を描き出していたわけです。マネが1869年に描いた作品でも、浮浪者や乞食、屑拾いといった人たちの姿を取り上げています。

 近代社会の一番下の底辺で社会を支えている人たちの姿を描きだす。「実際の世界を描こうとするならば、社会を支えている人々を描かなければいけない。写実またはリアリズムとはそういうものだ」と主張したのはクールベでした。

 クールベ≪石割り≫はリアリズムの典型と言われている作品です。1840年代から始まるクールベのそういう「社会を見る眼」というものが、実は印象派の時代にも、あるいは印象派の画家たちの中にも、引き続いていきます。社会上層にいて支配しているブルジョアジーではなく、社会の底辺の人たち、特に労働者階級にも目を向ける画家たちの流れは40年代から脈々と続いているわけです。

ドーミエ≪洗濯女≫
ボンバン≪アイロンをかける女≫
 先ほどはドガの≪アイロンをかける女≫を出しましたが、こういう都市の中で労働をする女性として、洗濯女とかアイロン掛け女であるとか、そういう主題はずっと描き続けられているわけです。

ラファエリ≪デクラッセ≫(1881年)
 これは印象派展にも何回か出品している画家で、ゴッホはけっこう好きだったようで、ゴッホの手紙の中にしばしばその名前が出てきます。要するに没落者を描いたものです。昔はちゃんとした服を持っている階級にいたのだけど、没落してしまった。先ほど申しましたが、バブルと恐慌を繰り返した時代ですから、一儲けしても、すぐ次の波のときに没落してしまう人たちが大都会には数多く出てくるわけで、そういう姿を描いたものです。大都会の中に常に出てくるものとして、とくに労働者層の中でも最も弱い子供たち、住む家や親まで失った子供、浮浪児といった姿を描き出しているのがバスティアン・ルパージュという画家の作品(1881年)です。このような姿、風景も、間違いなく大都会の中にはあったわけです。

工業の発展と農業の変貌

 このように近代工業化が進む過程で、印象派の時代は、未来へ向かってどんどん広がり、展開していくという大きな流れがあり、とかく明るい印象を帯びています。と同時に、近代化の急展開に乗り遅れ、こぼれ落ちて下の方へ溜まっていく層が社会の中に出てくるわけです。絵画も、まさにそのような近代社会の階層を、ある意味では「明暗ともに」映し出していると言いたいわけです。

 別の側面を見れば、工業化は農業、田園地帯にも決定的に大きな影響を与えるわけで、農村が流動化されていきます。

 典型的に言えるのは、工業、重工業化を進めていくためには、その原料としての石炭という物資が必要になってくる。そうすると、主として農村地帯では炭鉱地域の開発と企業化が進みます。そこで働く労働力として農民が炭鉱へ吸収されていきます。イギリスなどもそうですが、仕事の現場にはもちろん男がいますけど、他の労働者より効率よく安く使える労働力として女性と若年者が農村地帯では工業化社会の中に組み込まれ、吸収されていくことになる。

 左側はコンスタンタン・ムーニエ、右側はレオン・フレドリックという画家の作品ですが、両方とも1880年代です。つまりゴッホが絵を描いていたのと同じ時代をお見せしているわけです。社会相として、大都会だけではなく、農村地帯にもこのように社会的状況は大変な影響を及ぼしていくようです。両方とも炭鉱で働くとか、コークスの燃えがらのようなものを拾い集めるといった女性労働者の姿を描きだしています。これは別の画家が描いたもの。くたくたになって休憩をとっている女性炭鉱夫の姿です。

農民の姿

 絵画史の中では、クールベからミレーといった画家たちが、19世紀半ばに、しきりに農村の様子を描いていたことをご存知かと思います。左側はクールベ、右側はミレーの作品です。彼らは農村地帯で働く農民の男や女の姿を、ある意味では、大変に力強く、肯定的なものとして描いています。力強く労働に携わって豊かな収穫を得ているという意味で、豊かな農村の姿、そこで逞しく生き生きと働く男や女の姿をクールベやミレーは繰り返し描いています。けれども、ミレーやクールベが描いた農村の姿がほんとうに当時の農村の実態をうまく反映しているのだろうか。若干疑問もあります。

 左側は有名なミレー≪落ち穂拾い≫、右側は≪晩鐘≫です。落ち穂拾にせよ、晩鐘にせよ、大地は神聖であり、実りをもたらすもの、そこに働く人々は、辛い労働だけれど信仰心を持って、日々真面目に規則正しく働く農民として意味づけてミレーは描いています。1日働いて夕方になると神に感謝を捧げる理想的な農民の姿を描きだしているわけですが、実際の農民たちの生活というのは、はたしてどういうものだったのでしょうか。

 そうではない、いかにも農民生活の現実面に即したものを描きだしている画家たちもいます。たとえば、これはバスティアン・ルパージュ≪じゃが芋の袋づめ≫(1879年)。先ほどの乞食少年を描いた画家ですね。左側のミレーの落ち穂を拾う女たちは、腰を曲げて、辛い仕事を淡々とやっていますが、対する右側のじゃが芋を掘り出して袋に詰めている女たちは、もっと実際の仕事の場での「労働の状況」というものを示しています。

 同じくバスティアン・ルパージュの対になっている≪しゃがみ込む女≫ですが、その辛い仕事をしたあとでヘトヘトになり、仕事の合間にへたったまま、ほとんど自失したようにしゃがみこんだ女性の姿が描かれています。過酷な労働の合間も、ただ眠り込むか、起きていてもほとんど何も考えられない放心の態で、ただ座り込むしかないといった姿がほんとうの労働の一つの姿だったわけです。クールベやミレーが描いたような、ただ「逞しい」「平安」というだけではない、農村における労働の様相がクールベから流れてくる同じ自然主義や写実主義画家たちの中には描きだされていたわけです。

オランダ時代の主題

 右側はゴッホがまだ画家になろうと決める以前、ごく初期に描いた作品です。ゴッホは画家になる前にさまざまな仕事を転々としました。一時は貧しい人びとや労働者たちに教えを伝える伝道師になろうと心掛けましたが、うまくいかなかったのです。その一環で、ベルギーのボリナージュ炭鉱地帯で教会へ行くこともできない労働者たち、鉱夫たちのあいだを巡回しながらキリスト教を説くという仕事をしています。≪袋を担ぐ女たち≫(1879年)は、そのときの体験を基に描いた絵ですが、炭鉱地帯で重い袋を背にかついで歩いていく女性労働者たちの姿が描かれています。

 左側はセシル・ドゥアールという、先ほど見た、くたくたになって休憩している炭鉱夫を描いている画家の絵です。やはり炭鉱地帯、しかも女性の、とても過酷な労働を描き出しています。それと同じような様相をゴッホは描いているのです。ゴッホは、ただそれを絵にしたのではなく、むしろ画家以前に、その炭鉱地帯へ入り込んで彼らと一緒に寝起きしており、まさに最下層の人びと、ほんとうに生きているだけの最低限の生活を共にしています。かつキリスト教を伝道するという活動に挑んだわけですから、当然のこと、後に画家となったゴッホのスタート地点においては、社会の明るい面ではなくて、むしろ社会を底辺で支えている人たちの姿、人物を描こうということが一つの目標であったわけです。とりわけオランダ時代のゴッホの関心は、田舎の人びとの生活という「主題」に向けられることになります。

 ハーグ時代、ゴッホは画家になることを志していましたが、とにかくたいへんな貧乏生活でした。彼が描きだすのは、彼と同じように苦しい生活をしている人たちであり、ハーグの町中の風景を描くにしても、歩いているのは裕福そうな人たちよりも、むしろ労働者ふうな人びとですね。右側は国営宝くじ売場に群がる貧しい人びとの姿を描いたもので、こういうような都会の姿をゴッホは絵にしています。

 ゴッホは、農民の姿を描いた画家としてミレーを非常に尊敬していました。有名なミレー≪種播く人≫を基にしたゴッホの素描があります。ゴッホは生まれがオランダ南部の農村地帯で、子供の頃から農業に大変に親しみがありました。それもあって、偉大なる先輩ミレーをお手本にしたわけですが、まさにこれはミレー≪種播く人≫を手本にして模写した作品ですね。が、そういう模写をするだけではなく、オランダ時代、ヌエネンに暮らしていた頃には、実際の農夫にポーズをとってもらって、やはりミレーの絵で見たポーズが手本になっているのですが、農民の労働の絵を描いています。

人物画の割合が多い

 その時期の人物画のうち、圧倒的多数は農民の姿を描いたものでした。ゴッホが、たとえば種播く人という農民たちの姿を描いたのは、アルル時代からサン=レミ時代まで続いていきます。これは先週も見たアルル時代のゴッホ≪種まく人≫(1888年)です。ここでのポーズはやはりミレーを借りていることが分かるかと思います。

 ミレーやクールベと同じように、ゴッホの場合も田畑で働く男や女をいろんな形で描きだしています。腰を曲げて草を刈ったり、土を掘り返している女性の姿を描いた右側の絵はヌエネンで1884年に制作したものです。

 左側の絵で描かれているのはもっと過酷な労働かもしれません。本来は馬に引かせて地面を掘り返す鉄製の「馬鍬」というものですが、馬を雇えないので、その重い道具を農夫が自分で引っ張っている姿ですね。これは手紙の中の素描ですが、オランダ時代のゴッホは、たいへん苦しいけど大地に密着した農民の仕事振り、労働の様子を繰り返し描き、制作しています。それがオランダ時代ゴッホのメインの「主題」であったと言えます。

 左側のオランダ時代の絵には農民の顔、パイプも見える。ただ働いている姿のほかにも、農民のさまざまな様相、ヌエネンに過ごしていた男や女の顔を丹念に描いています。本来、画家は農民たちの肖像画を描こうなんて考えません。普通、肖像画というのは、誰かが自分の姿を描かせたり、誰か有名人を描くということです。だから、農民から肖像画の依頼など基本的にあり得ない。農民が注文することはないし、特定の農民の顔を見たいから絵を買うという人もいません。だけど、ゴッホはヌエネンで、何人でもはっきり区別できる個性あるものとして農民の顔を何十点となく描いています。そのゴッホの農民を描く興味は、アルル時代にも続いていくわけです。

 オランダ、ヌエネン時代の農民の姿を描きたい、あるいは農民の現実生活の場を描きたいという狙いの頂点にあるのがゴッホ≪馬鈴薯を食べる人々≫(1885年)です。彼は、できるだけ多くの人たちに見てもらいたいと考えて、自ら版画も作っているわけです。このように見てくると、ゴッホがオランダ時代に主たる関心をもって描いた作品は、印象派時代の絵画の中で考えれば、大都会の人間が見た近代化と明るい未来へ向かって展開していく近代社会や工業化の明るい側面というよりも、むしろ近代化を大地に立って支えているという側面でした。少なくともオランダにいた時期までは、それを自身の関心の中心に置いていたと言えます。要するに、印象派の画家たちの興味よりも、むしろそれとは違う、同時代に流れていたクールベからの写実主義ないし自然派リアリズムの流れにゴッホの主題、様式があったということです。

 これはまさに農民の素朴な食事の様子です。しかし、家族というものが目的を共にして働いて、共に糧を得て、生きているという一つのあり方をゴッホは描きだしているわけです。その意味でも、オランダ時代のゴッホの社会的関心は、いわゆる印象派の画家たちとはかなり異なったものであったと言えます。

 ≪馬鈴薯を食べる人々≫を見ると、とても苦しいのだけど、みんなで一つの働きをして、ジャガイモのような寒冷地にしか育たない、地味悪い土地でも育つような最低限の食物を得ている。とにかく家族一緒に同じ場所で生きていく。ある意味ではミレーから流れてくるような、大地にしっかり根を下ろした農業共同体社会といったものが描かれています。

 しかし、ゴッホが描いていたヌエネンという南オランダの農村地帯では、何百年も続いていた農業共同体あるいは家族の生活が実は変わりつつあったのです。それを示す機(はた)織りのテーマは、今回の展覧会にもちょっとしたコーナーがありました。左側は農村地帯の農家ですが、大きな機織機を使ってはた織りをしている人々の姿を描いています。なんとなく女性の仕事と思われますが、実はここで織機に従事しているのは男性なのです。左側はゴッホの絵で、右側は同じ時代のドイツ人、リーバーマンという画家が描いたものです。ドイツの農村地帯でも同じようなことが見られました。狭くて暗い農家の部屋の中に、入りきれないくらい大きな機織り機械が置かれて、はたを織っているのは男性です。こういうテーマがドイツでもオランダでも共通してこの時代に見られます。

 農村地帯に工業が入ってくる、いわゆる工業化展開の中では、家内制手工業はかなり古くからあったのですが、その次の段階に問屋制家内工業と言うか、大きな問屋という資本が機織り機という設備も原材料もすべて提供して、それぞれの家で加工させて、できた製品を問屋が引き取り、各戸に手間賃を払う形態があります。さらにその次の段階が工場制労働形態となりますが、これはその前段階で、農村の労働力を、まずそれぞれの家にいるままで、資本は全部問屋が出して製品をつくるという、この時代にオランダやドイツの農村地帯で共通して起こっている現象ですね。大きな織機で能率を良くする。そして、しっかり織るためには、女性ではなく、力強い男性労働力が必要である。

 女性はどうなるか。このゴッホの作品が典型的ですが、ヌエネン墓地の塔も見えますけど、外に見える畑で働いているのは女性たちです。ゴッホが描いたこういう姿が意味するのは、農村の中で男女が一緒に畑を耕すという昔ながらの情景がこの時代の工業化によって崩れつつあったということですね。

 つまり、より多く現金を稼げるものとして、男は農地へ出るよりも機を織る方が魅力になってくる。そうなると、畑の方は女性が主に耕すわけです。右側もゴッホが描いた素描ですが、男が機を織っており、その狭い部屋の中に赤ん坊もいる。男は赤ん坊の面倒を見ながら機を織る。お母さんは外で畑仕事をしている。そのように近代化が農村地帯ヘ進展していくことによって農村が解体されていく状況をゴッホは描きだしていたのです。なにげなく窓の外に見える情景ですけど、やはりこの当時、1870年代のオランダの農村地帯における近代社会化の流れ、真実を的確に映し出していますね。

 そう考えれば、ミレー≪晩鐘≫に表されていたような姿は1870〜80年代にかけては、ある意味で、もう過ぎ去った昔の理想のような世界になっていたと思うわけです。

 オランダ時代のゴッホは農村の実際の姿を描きだしていましたが、それに対して印象派の画家たちはどうだったでしょうか。先ほどモネやルノワールが大都会を描くときに影の部分より、もっぱら光の部分を描いたというお話をしました。農村を描くときにも、やはり、印象派の画家たちは、どちらかというと農村の明るい面を正面に押し出していますね。

 たとえば、これは両方ともピサロが描いた≪積み藁と羊飼い≫≪リンゴの収穫≫です。≪リンゴの収穫≫は倉敷の大原美術館にあるピサロの作品の中でも非常に優れた作品です。印象派の画家たちは明るい収穫、実りを強調して描いていますね。この積み藁は、正確にいうと、ただ藁を積んであるのではなく、まだ小麦の粒が付いている収穫したばかりの小麦の束を重ねているわけですが、一般に「積み藁」という名前で親しまれています。こういう積み藁を描く場合、たとえばピサロのものなどはミレーをお手本にしているのですが、ミレー以来、まさにこの積み藁、その周りのたくさんの羊といった主題によって豊かな実りを強調しているのが印象派の画家たちです。

 フランスは農業がとても重要な国です。19世紀の工業化においてもフランスは、どちらかというとイギリスなどよりずっと後れていたわけで、この当時のフランスの最も重要な産業として農業がありました。フランスは土地が豊かですから、農業の中でも、とりわけ小麦の生産量はヨーロッパ随一だったのです。イギリスやドイツ、イタリアに比べても19世紀末頃のフランスの小麦生産量は非常に多く、農業、とりわけ小麦の生産はフランスにとって最も重要な産業であったわけです。ミレーから印象派の画家たちまで、その豊かなフランスの農地を描き出しましたが、ある意味ではナショナルな「自分たちの国はこんなに豊かな農業、土地の幸に恵まれた国なんだ」という誇りのように描いたのだと考えます。ほんとうに実り豊かな大地を繰り返し描いていますね。

モネ≪積藁≫(1890年)、ピサロ≪藁≫
 とりわけ70〜80年代にかけて、ピサロやモネは繰り返し農業の富の象徴として黄金色に輝く積み藁を連作しています。近頃の美術史研究の中では、たとえばモネの積み藁という主題は単に造形的にモネの興味を引いただけではなく、「積み藁というテーマが当時のフランス国民にとって誇るべき輝かしいものであった。モネが積み藁を連作する根底には当時の社会の中での農業の意味がある」というようなことがしきりに言われているようです。そのことは、モネだけではなく、たとえばピサロなどにも当てはまるわけです。

 これもやはりピサロが描いた積み藁ですが、たいへん横長の画面に、広大に広がる大地と大きな空のもと、実りを示す積み藁がいくつも並んでいます。実はこの横長の画面に描かれたピサロの積み藁という作品をゴッホが見ていました。と言うのは、ゴッホがサン=レミまでは見られなかった試みである「横長の麦畑」を最後にオーヴェールヘ行ってから数多く描いています。この≪烏のいる麦畑≫などがそうです。

 最近の研究で、ゴッホの手紙を丹念に調べると、ゴッホはこの横長の麦畑を描いたピサロの4点組になった作品を知っていて、しかも大変な興味を持っていたことが分かっています。ゴッホがオーヴェールで麦畑を繰り返し描き、それを横長作品にしたのは、ピサロの作品の影響があるのではないかと言われています。作品の影響が直接あったかどうかは別としても、パリ時代以降のゴッホが、アルルにおいてもサン=レミでも、そしてオーヴェールに移り住んでからも、そういう「麦畑」の主題を描くところには、ミレー、モネ、そしてピサロといった画家たちが大地の豊かな恵みという主題としてしばしば「麦畑」、「積み藁」を描いていたことが非常に強く影響しているのだろうと考えます。

 「積み藁」というテーマに限っても、パリ時代を経由したゴッホは、アルルにおいて、こういう積み藁だとか刈り取ったばかりの麦の束をしきりに描いています。ゴッホがアルルで描いた麦畑は、青い麦畑よりも、熟して黄金色に輝く麦畑の繰り返し、また繰り返しです。ゴッホが滞在していたアルルの近辺は豊かな穀倉地帯でもあったわけで、そこでゴッホがこういう黄金色に輝く麦畑を描いていたのですが、そこには、ゴッホがパリで見たにちがいないミレーから印象派の画家たちまで流れてくるフランス19世紀風景画の中での麦畑のイメージ、あるいは当時のフランスの「豊かな大地」というイメージが強く影響していたのではないかと思われます。とりわけゴッホがアルルで描いた「黄金色の麦畑」は、「豊かなる実り多きわがフランスの大地よ」という想いをパリの市民たちに想起させたのだろうと思います。あるいはサン=レミでもそうですね。豊かに、たわわに実る麦畑はゴッホの風景画の非常に重要なテーマの一つであったわけです。

 このように、たとえば麦畑一つをとってみても、1860年代、70年代、80年代のフランスの農村の様子はどう描かれてきたのか、農業が近代化の過程でどういう位置を占めていたのかといった知識をある程度持ったうえで見ると、ゴッホの絵にも別の側面から光を投げかけることができるわけです。きょうはまず一つ、ゴッホの絵あるいは印象派の絵画に反映された当時の社会的状況や産業状態をさらっと見たわけです。が、もう一つ別の問題として、工業化が進んで、都市化が進んでいく近代社会の中で、農業はどういう意味を持っていたか、そもそも田園といい田舎ともいわれるもの、あるいは自然が、都市との関わりでどういう意味を持っていたのかに話を進めたいと思います。


近代社会での風景画の役割

 19世紀あるいは印象派画家やゴッホの絵画の中で風景画はどういう意味を持っていたのか、風景画が都市と田園という関係の中でどういう役割を果たしていたのだろうかというお話です。

 これを考えるために、非常に分かりやすい作品をまず最初にお見せします。これは、印象派とかではなく、むしろ写実的な絵を描くフランソワ・ルイ・フランセという画家の1889年の作品です。この頃、ゴッホはサン=レミにいました。これは、ベルギー国境に近いフランスの田舎の様子を描いた作品です。1880年代のフランスにおいて都会と田舎がどういう関係にあったか、あるいは田舎、田園地帯と近代工業化がどういう関係にあったかを分かりやすく示している作品です。

 簡単に言うと、周りには山々があり、渓谷に川が流れている、かなり草深い田舎です。地元の人たちが草刈りをしており、そろそろ山の端に日が隠れかけている夕方どきですね。「さぁ仕事を終えて帰ろうかな」と考えているのでしょうか。道には家路について、牛に引かせて荷車を運ぶ地元の人の姿が見られます。昔から変わらぬ田舎の農村地帯の人々の生活の一端ですね。が、かなり奥深い渓谷地帯にも、すでに近代化あるいは都会の波は押し寄せています。いくつものかたちで入り込んでいますね。

近代化の部分

 一つは汽車です。こんな山間の渓谷地帯に鉄道が通じています。第2に、ここには釣り人がいますが、これは明らかに都会の人です。女性は服装から見て地元の人であり、もう一人の人物は都会の服装をしている。すでに山野の中に、労働のためではなく、自然を享受する都会人たちが入り込んでいます。3番目は道です。これだけ広くて、橋などもしっかりと造ってある真っ直ぐな道路が通っています。

 要するに、一方では道路が通じて、他方で鉄道も伸びてきて、この田園=田舎の地域も完全に都市=中央と結ばれている。しかも都会人が地方へ入ってきているという近代化状況図の1889年版というわけです。そのような役割の一端をこの作品は示しています。1880年代のフランスでは、まさにこの絵が示しているように、それまでの大都会と無縁の田園自然ではなくて、田園都市化とでもいうべき融合が展開され始めていたわけです。

 先ほどもゴッホの作品で「工業が田舎に流れてくる」という言い方をしました。それを運んでくるのも鉄道です。道路と鉄道によって都市と田園地域が結ばれて、逆に農民たちはやがて田舎から都会へと流れ込み、労働者階層となるわけです。都会からは、レジャーを楽しむということで都会の人たちが地方ヘ移住したり、旅行も盛んになってくる。それがまさにゴッホが生きた時代、19世紀の後半であったわけです。

 これは1850年の鉄道図(画像1)です。上がフランス全土で下が南仏の部分拡大図です。この段階では、フランスの鉄道はまだこれしか敷設されていません。ゴッホやモネが生まれた前後の時点では、まだこれだけです。たとえば、パリから2番目の大都市であるリヨンまで、まだ鉄道は通じていません。ところがそのちょうど30年後の1880年の図(画像2)では、まだ細部が略されているのですが、主要な路線だけでも完全にフランス全土を覆い尽くしています。実はこの30年間、とりわけ普仏戦争に負けた直後の1870年代にフランスでは急速に鉄道が整備されます。敗戦による反省も要因でした。いち早く鉄道設備を整えていたドイツは、戦争の初期段階における戦闘要員の輸送力においてフランスを完全に圧倒していたからです。その反省は、「勝つためには鉄道網を整備しなければならない」でした。

 かつて日本でも、日清、日露の両戦役、とりわけ日清戦争のときなど、大陸への輸送力強化のために東海道、山陽本線という幹線鉄道が急速に整えられたわけです。鉄道は、実はなによりも国家が戦争に勝つために敷設されていったのです。もちろん鉱工業のさまざまな原材料運輸といったことも重要でした。鉄道の歴史は、実は戦争の歴史と工業化産業転換の歴史と極めて密接に結び付いているのですけど、フランスにおいて最も典型的に展開されたのは普仏戦争の敗戦直後の1870年代であったわけです。

 このように考えると、たとえばモネが鉄道に興味を持ってそれを描いたのは、単にモネが新しい物好きだったからだけではない。まさに鉄道がフランスの近代化社会でとても重要な役割を果たしていたことを反映しているわけです。人々が鉄道に興味を持ったのは、単に汽車は早くて力強く恰好いいというだけではなくて、鉄道がまさに社会を前へ引っ張っていく機関車、社会の牽引力になることをみな十分承知していたからでした。

 また、大都会にあって、絵を見たり、絵画を買ったりできる人たちの富は、まさに鉄道とか戦争、投機とか工業など、もろもろによってもたらされていたわけです。そういう意味では、印象派の画家たちが描いた大都会、そして都市や田園などをいろいろと結ぶ鉄道は、社会史的に見ても重要な役割を果たしていたと思うわけです。


社会の中の芸術家

 近代化と鉄道敷設という側面にゴッホが大きく目を開いたのは彼のパリ時代においてです。右側はパリの様子を描いたゴッホの作品で、左側はモネの1886年の作品です。ゴッホはパリにやって来て、やはり大都会の魅力に引きつけられます。

 左側はピサロ、右側はゴーギャンの仲間だったアンクタンの作品ですが、大都会は夜でも灯りがついていて、賑わいがあります。先ほど、「都会は雨でも雪の日でも楽しい」と言いましたが、大都会は「夜でも楽しい」わけですね。

 あるいは大都会の近郊に新しい工業地帯がどんどん出来ているわけで、先週見たように、ゴッホもパリ郊外の工業地帯を描きます。今日見ると、こんなものは絵の題材にもならないと思いますが、ゴッホやシニャックやモネといった画家たちは、間違いなく、モクモクと煙をあげる工場に新しい未来というか、明るい期待を見ていたと思われるわけです。

 セーヌ川沿い。セーヌ川は今日でもそうですが、たいへんな交通路でして、パリからずーっと西北へ流れて、大西洋岸の河口はル・アーヴルというところです。パリから下流の川沿いにはさまざまな工業地帯ができます。あるいはセーヌの支流であるオワーズ川周辺もそうですね。スライドは左右両方ともピサロが描いたセーヌ川とかオワーズ川の周辺の工業地帯の様子です。右側が「ルーアン」です。モネが描くルーアン大聖堂でも有名です。パリから河口までの3分の2くらい下流にあります。大聖堂と共に古くからある町ですが、当時のルーアンは実はル・アーヴルからパリまでの工業関連輸送路の拠点にあったわけです。

 ル・アーヴルに大きな港があり、イギリスとの重要な交易の窓口になっていました。この港では主にイギリスから運ばれてくる石炭等を受け入れていました。その後、アメリカとの大西洋航路の拠点にもなります。ル・アーヴルに入港した船でも、ある程度以下の大きさだと、セーヌ川の中のルーアンまで遡ることができ、あるいはル・アーヴルで艀(はしけ)に積み替えてセーヌ川を遡って運送するといった事情もあって、この町は工業都市という側面を強く持っていたわけです。

モネ≪印象、日の出≫(1873年)
 印象派の名称の由縁となったこの絵はル・アーヴルの港を描いています。賑わいのある港、船が停泊し、煙が出ていて、港湾労働者たちがボートに乗って仕事場へ向かう朝の光景だと解釈されていますが、描かれているのは単なる朝の靄に包まれた「印象的日の出」だけではなく、まさに新しい「フランスの近代工業」を担う港としてのル・アーヴルの賑わいです。

 モネは、ほとんど全生涯にわたって、パリからル・アーヴルまでのセーヌ川沿い、アルジャントゥイユとかヴェトゥイユ、そして晩年のジヴェルニーというところに暮らしています。モネが暮らしたそのセーヌ川沿いが実は工業地帯だったのです。パリからル・アーヴルまでを結ぶ鉄道の出発点がパリの「サン・ラザール駅」でした。そういうことから、モネと鉄道はいろいろな意味で密接な関係がありますけど、さらにいえば、このパリ―ル・アーヴル間の西鉄道は、もとはイギリス資本で造られていたといいます。このように、たとえばモネが鉄道を描いた絵一枚の背後に、当時の国内産業のさまざまな連関あるいは国際的な貿易関係がいろいろと浮かび上がってくるわけです。モネに限らず、印象派の画家たちは、そういう鉄道の状況をしばしば好んで描いています。

 たとえば左側は西洋美術館にあるピサロ≪田舎の風景≫という作品です。なんということはない道に沿って鉄道線路が見えます。これはドービニーが描いた作品を基に版画にされたものです。海岸に近い地域ですけど、従来型の馬車を引いていく道があり、その横に鉄道が走っています。当時のフランスで、パリを中心にした全国鉄道網が張りめぐらされつつあり、昔ながらの田園地帯の中に鉄道が入り込んでくる様子が印象派の画家たちの作品にも反映されています。

アルル時代の作品

 1888年、ゴッホはパリを離れ、南仏のアルルへ移ります。当時、もう鉄道は全国的に整備されており、ゴッホもアルルへは汽車で行っています。時間はかなりかかったのですが、それでもパリからアルルへ直行の汽車があったから、24時間まではかからずアルルまで行けたはずです。アルル時代のゴッホは自分をパリから運んできてくれた汽車をしばしば描いています。

 左側は今回の展覧会にもきているゴッホ≪黄色い家≫(1888年)、フアン・ゴッホ美術館です。画面の右奥、背後に鉄道橋があって、煙を見せて汽車が走っていますね。なにも汽車まで描かなくてもいいような構図なのですが、ここにわざわざ汽車を描くということは、ゴッホは「ここには鉄道が来ているのだ」と強く明示したかったわけですね。いや、もっと言えば、その鉄道のガード自体をゴッホは描いています。新しくできた近代的な鉄橋、ガードは、それまではなかったものです。その上を鉄道が通る橋がある風景。今日でもわれわれが見るいわゆるガード下、当時はたいへん近代的な構築物を、わざわざアルルという田舎へ移り住みながらもゴッホは描いているわけです。

 これは鉄道橋ではありませんが、当時アルルのローヌ川に架かったばかりの大変モダンな形の橋です。今日見ても21世紀の構築物かと思うぐらいモダンな、当時の最先端をいく鉄の橋。真っ直ぐ橋桁が通っている。ゴッホはそういう鉄橋をわざわざ南仏アルルへ行って描いています。だからアルルへ行ったゴッホは、ただ都会から切り離された別世界の田舎を描きたかっただけではありません。アルルは遠い田舎町だけど、やはり近代化の中にあって、都会としっかりと結び付いている。この絵を見るパリ市民たちは「あぁ、汽車に乗ればアルルへ行けるのだなぁ」と思うだろう。そういうことを伝える意味を持っていたわけです。

 要は、ゴッホにとって風景画、アルルの風景は、単に大都会の人びとが考えるまったく違う世界ではなくて、大都会の人が自分でも行けるような、あるいはゴッホがまさにそうしたように、汽車に乗れば1日掛からず気軽に行ける場だった。そういう場として南仏アルルが描きだされていると思います。

 よく注意して見ると、ゴッホがアルルで描いた田舎っぽい風景の中に、実は近代化の様相がちゃんと描き込まれています。たとえば≪種播く人≫。何百年も変わらず手で種を播いている人。しかし、背後になにやら煙突があって、煙が出ています。川で洗濯をしている背後には赤い屋根の長い建物がありますが、これはアルルの運河のすぐ横にあったガス工場ですね。つまり、都会ではない田舎のアルルなのだけど、確かに近代化が進みつつある。そのような場としています。昔ながらの良さだけの田舎を描こうとするなら、背景にある煙突なんて簡単に消せるわけです。敢えてそれを描いているところを見ると、ゴッホはやはり「アルルもパリと結び付いているのだ」ということを明示したかったはずです。ゴッホの描き方についても、こう言えると思います。       

 画面のほぼ8割位が鮮やかな真黄色で、豊かに実る麦畑ですね。しかも、その麦畑はまったく切り離された別世界ではありません。ここに黒い汽車が走っているのです。全面の黄色とはまさに対照的な黒い汽車が長い煙を吐きながら走っていきます。工場の煙突が見えています。ゴッホがアルル時代に描いたのは、単なる豊かな田園地帯ではなくて、近代的工場がある、鉄道も来ている、そういうものと結び付いた19世紀的な、当時でいえば現代的な国家をつくっているというイメージです。ここには間違いなくそれが表現されているわけです。

鉄道の発達と観光の成立

 典型的な都会と田舎の関係を示している作品にしばしば現われる鉄道は、近代工業化あるいは戦争といった次元だけで都会と田舎を結んでいるわけではなく、観光という意味でも実は同じ働きをしています。そして、まさにこの時代、19世紀後半に、今日われわれが普通に考えているようなレジャーとか観光の成立、その一般化が見られるわけです。主として近代工業化等の促進要因により、鉄道が通じ、交通ネットが整備される。それと同時並行して、大都会ではある程度の余裕、時間と金を持ったブルジョアあるいはプチブルという階層が形成されてくる。そういう彼らが、ある意味ではゴミゴミ密集している大都会の中で近代的な暮らしをしている。金とある程度の余裕は持っている。一方で、だんだん鉄道が出来てくる。今日われわれが考えるような大都会に住んでいて、金と時間があれば、「旅行にでも行こう」ということになる。そういう状況や条件が、まさにこの近代社会化の中で典型的に起こってきたわけです。南仏アルルまで1日かからずに行けるというようにです。たとえば、そのはしりとして、パリから直ぐ近い郊外へ出かけるようになります。

 左側はモネの作品です。パリの近郊、フォンテーヌブローの森とかには早い頃から鉄道が通じていますから、都会で歩いているような姿のご婦人が女の子を連れて、ご主人はいないようですが、「安全に汽車に乗って簡単に行けるわ」という状況、情景が出ています。

セーヌ川沿いの自然を楽しむパリ市民たち

 ゴッホが最晩年を過ごしたオーヴェール・シュル・オワーズというところは、今日ではパリから電車で30分位で行けます。セーヌ川下流のポントワーズという所で合流するのがオワーズ川ですけど、その北、上流になります。当時はまだ農村でしたが、パリ市民たちが別荘を持つ格好の場所にあります。ゴッホの医者だったガッシェ博士はパリで開業していたのですが、自分の家はオーヴェールにあり、パリまで鉄道を利用すると40分位でサン・ラザール駅に到着できたそうです。画家ドービニーもここに別荘を持っていました。パリ市民の別荘が数多くある地帯が「オーヴェール」だったわけです。

 そのオーヴェールを描いたゴッホの作品を見ると、昔ながらの麦畑の中に洒落た都会人が住むような家が建っており、鉄道が走っています。ゴッホが最晩年を過ごしたオーヴェールは、まさにパリ市民たちが鉄道を使ってパリから抜け出して自然を楽しむという、ちょっと贅沢なレジャーの過ごし方の1つの拠点だったわけです。だからオーヴェールには、一方で昔ながらの藁葺き屋根があるかと思えば、いかにも洒落た都会人のための家もありました。まさに鉄道を通じてパリ近郊で都会と田舎が融合し合うという状況があります。もちろん都会から来る人はその田舎を楽しむためにやってくるわけですね。

 印象派の絵画でいえば、もっと近場でスーラが描いたグランド=ジャット島とか、アニエールとかいうセーヌ川沿いの風景もあります。そのように近いところであれば、休みの日にパリの市民や労働者たちがみんな一緒に自然を楽しみに行くことができる。鉄道を使って人々がレジャーを楽しみにパリから出かけていくという大衆レジャーの出現ですね。それまでは貴族が馬車をあつらえて出かけて行くということだったのですが、安く、迅速に、簡単に、大衆が鉄道でレジャーを楽しむ時代が始まるわけです。

 セーヌ川沿いには、モネが描いた≪ラ・グルヌイエール≫とか、ゴッホの描いた≪レストラン・シレーヌ≫など、水浴場やレストランがありました。もう今日と同じパターンですね。今日の都会の住人が考えるような観光やレジャーの施設が整いはじめるのがまさにこの時代です。

 そうしたレジャー施設はセーヌ川沿いに展開されています。モネが一時期暮らしていた「アルジャントゥイユ」はセーヌ川沿いのヨットやボートを貸すボート屋があったようなセーヌ川の船遊び、川遊びの拠点であったわけです。

 西鉄道をずっと先まで乗って行く英仏海峡沿いのサン=タドレスの浜辺、トルーヴィルの浜などもそうです。モネとか印象派画家たちがよく風景画に描いている場所、あるいは小説家プルーストが楽しんだ避暑地ですね。

 1880年のパリからル・アーヴルの鉄道時刻表を見ると、大体4時間程で行けるようです。英仏海峡まで気軽に行けるところができてくるわけです。だんだんそれが進んで、どんどん遠くへ行けるようになります。モネが少年の頃に暮らしていたサン=タドレスという浜辺にも、一方でこういう漁民がいて漁船がありますが、当時も休みの日になるとパリから鉄道に乗って都会の人たちが海の空気を吸いにやってくるような状況が印象派の時代には生まれてくるわけです。

 このように観光の時代が始まると、あとはどんどん展開していくわけです。たとえばみんながぞろぞろ行くところは、もう面白くない。日曜日なんか「海岸中みんなパリ市民たち」なんていうのは面白くない。今日もそうですね。そうすると他の人が行かないところへ行きたいというようなことが起こります。

 鉄道も簡単には通じていないし、なかなか人が行きづらい。そういうところにだんだん目が向いていく。モネが描いた、エトルタとかベリールなどもそうですね。そして、ついには、やはりモネがやったように、鉄道は通っているけどそう気安くはいけない「南仏」という新しいところへ羽を伸ばそうということになります。

 あるいは、ゴーギャンが行ったブルターニュのように、観光化が進んでもまだ人が滅多にいかない、都会の手垢の付いていない昔ながらの生活があるようなところへ出かけて行く。まさにブルターニュなど、今日でも行きにくいところです。

 行きにくいところに着目したというのは、前段階として、印象派の画家たちによって行きやすいところは開拓済みであったという事情がありました。今日の観光事業と同じで、箱根や伊豆は飽きられたので、温泉でも人があまり行かない「白骨に行くか」というようなことが起こる。印象派の世代に開拓された有名観光地ではなくて、「未開の秘境へ行こうよ」というようになる。さらに進んで、ゴーギャンの場合は、大都会から離れ、ブルターニュを離れて、遂にヨーロッパから飛び出してしまう。「マルティニク島だ」「タヒチだ」ということになったわけ。「今度は海外旅行にしようよ」というような今日21世紀の社会で経験しているパターンのはしりがこの時代に起こっていたわけです。

 このように考えてみると、19世紀後半の鉄道とレジャーの関連で、なぜゴッホはアルルへ行ったのだろうかということも、また別の側面から考えられるわけです。それまでまだみんながいってなかったから、まだ人々の手垢に汚れていない観光地を目指すといった「社会史の中で」、レジャーとか余暇、観光といった視点からもゴッホのアルル時代の作品を眺めることができると思うわけです。


おわりに

 当時の観光はどんなものだったかという例を一つだけお見せしておきます。今日でも観光旅行に欠かせないものとしてガイドブックがありますけど、1820年代から重要なガイドブックが出されるようになり、大体70年代から80年代にはかなり確かなものが揃うようになります。

 たとえばドイツ。今日でもある「ベデカー」という有名なガイドブックの本屋ですが、これはベデカー「南フランス」です。ドイツ語版だけではなくて、完璧なフランス語版も作られていました。いま私が手に持っているのは、そのベデカー「南フランス」1886年版です。ゴッホがアルルへ行くときに持っていこうと思えば持っていけたであろう大変なもので、総ページ5百頁余りあります。こういう地図があり、レストランとか交通手段の案内に始まり、ホテルはどこがあって値段はいくらであるかなど、今日われわれが旅行案内書に必要だと思っているようなデータが文字データとして、ある意味では今日以上に豊富に載っているわけです。

 フランスには、やはり今日まで続いている「ギド・ブルー」、青ガイドというものもあります。その基になる「ギド・ジョアンヌ」というフランス旅行案内のシリーズで、私が持っている「プロヴァンス」は、ちょっと後の1896年版です。こんなに分厚くて、こんなにいろんな地図がたくさん付いています。字がものすごく細かいので、情報量としては今日の旅行案内の比ではない。そういうものが実はもう出ていたのです。つまり観光というものが既に産業化されていたと言えます。

 おそらく印象派の風景画とかゴッホの風景画を見る人たちは、こういうものを見ながら鉄道を使って、実際に観光したい人たちである。それを念頭に置いてみると、こういう絵画を当時の人たちがどう見たかということは、おそらく今日のわれわれが考えているようなものとも違っていたと考えられます。逆にいうと、今日考えているよりも、むしろとても親しいものがあったのではないでしょうか。「これは自分たちが行った場所だ」あるいは「今度はアルルへ行ってみたいけど、アルルってこういうところか」などと思うわけです。

 だいぶ時間オーバーになりました。今日はこれで終わりにさせて頂きます。


講師略歴

有川治男

1948年生まれ。
1966年〜1979年 東京大学、ミュンヘン大学で西洋美術史を学ぶ。
1979年〜1992年 国立西洋美術館に勤務。「クリンガー展」、「ゴッホ展」などを担当。
1992年〜現在 学習院大学文学部教授

専門はドイツを中心とした19〜20世紀美術、カンディンスキー、ゴッホなど。

著書
 『クレー』、『カンディンスキー』、『デューラー』、『ベルリン美術館』など。