印象派とは何か

 

講師 一橋大学大学院言語社会研究科 教授

喜多崎 親 

平成17年1月18日 於:如水会館

【無断転記転載を禁ず】

社団法人 如 水 会

責任編集

 




◆内容目次

はじめに

筆触分割の画家達?

モダニズム(modernism)

フォーマリズム的発展史としての美術のモダニズム

抽象画の誕生

近代美術史は「抽象」へ至る発展史

印象派の筆触分割重視

印象派とは筆触分割をやった画家のことか?

印象派という名称と展覧会

命名の由来

モネの「印象 日の出」

第1回印象派展

なぜ無審査の展覧会が開かれたのか

その後の印象派展

背景としてのサロン(le Salon)とそのシステム

歴史

1667年以降サロン・カレで開催

1864年からの運営変更とその特色

価値観の変化

風景画の台頭と美術批評の隆盛

改革と終焉

アカデミーの影響の減少と民営化議論

グループの形成

新しい絵画運動の系譜

新しい試み

戸外制作(plain air)

筆触(色彩)分割

主題としての現代生活

斬新な構図

中核メンバー

1860年代前半のモネを中心とする交友関係

1860年代後半のカフェ・ゲルボワの集まり

印象派評価の変遷

同時代

1870年代

1880〜90年代

ポスト印象主義

20世紀前半

1970年代以降

1980年代以降

スライド上映

第1回の印象派展

Societe anonymeのカタログ

カタログの表紙と中味

スケッチ

一連の展覧会

国立美術学校

ローマ賞コンクール

パンテオン

どんどん大きくなるサロン

サロンの絵の展示の仕方

サロンのカタログ

授与式

歴史画家の生き方

ジェローム

アンティーニャ等

クールベ

戸外で描くこと

バルビゾン派など

ブーダン

1860年代のモネ

1860年代後半のモネとルノワール

ブーグロー

色彩理論家シュヴルール

補色

筆触分割と補色

筆触分割と質感

ルノアールと筆触分割

カイユボット、ドガ

バティニョールのアトリエ

講師略歴


はじめに

 ご紹介に与かりました喜多崎です。一昨年の9月か10月に「都市と美術館」というシリーズでこのフォーラムでお話しております。あのときは、こんなに早く、またここでお話ができるとは思っておりませんでした。あのときお聴きになった方がいらっしゃるなら、後半にオルセー美術館のところでだいぶ印象派の話をしたので、今日の「印象派とは何か」の序章に当たる部分では、多少ダブるところがあると思いますが、なるべくそうならないようお話をしたいと思います。

 今ご紹介頂いたことのなかで一つ訂正がございまして、最新刊と言われた岩波の美術用語辞典はまだ出ておりません。実際の出版はおそらく春ぐらいになると思います。これは大胆にも一つの辞書をたった二人で書き下ろすということをやっています。

 私の話は、始めにお手元のレジュメで30分ほど説明をし、その後にスライドに入ります。さて最初の「印象派とは何か」ということですが、印象派という名前は有名ですし、日本では大変に人気がありますので大体分かっていると思われる方が多いと思います。たとえば美術全集を作って売る場合、配本として何巻から出すかというのは大事なのですが、本来なら古い方のギリシアから始まって20世紀の美術まで出していくと思われがちです。ところが、実際は古いほうから出す出版社はなく、売れる巻から出すのです。それはたいてい印象派か、せいぜいレオナルドやラファエッロあたりが入っているイタリア・ルネッサンスからということが業界では常識化しています。それだけ印象派は人気があるわけです。印象派に人気があるのは日本だけではなくて、アメリカでもフランスでもそうなのですが、日本ではそれが特に顕著というところはあります。それはなぜかという話は、この講座が全部終わったときになんとなく分かって頂ければいいと思っています。

 ところで、今回印象派というテーマを如水会の方から提示して頂き、どういう方に何を話していただくかを相談したときに、印象派の中にセザンヌとかゴッホも入れるべきかどうかが一つの大きな問題でした。これは世代とか、何をやっているかという問題にからんでいます。日本ではゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、あるいはスーラという画家たちは「後期印象派」と言われており、そして後期印象派なのだから「印象派のグループに入れてもいいのでは」と思われていますが、レジュメの最後に出てくるように、それは多少問題がある言い方でもあるのです。


筆触分割の画家達?

 では肝心の印象派というのは何かということですが、印象派のことに関して書かれている書物を見ると、たいてい筆触分割という言葉が出てきます。今日はまずその話から入ります。「筆触分割の画家達?」として「?」を付けましたが、この?にはもちろん意味があります。

モダニズム(modernism)

 この話をするには、まずモダニズムという概念についてお話しなければなりません。モダニズムという言葉は、モダンという言葉にイズムが付いているわけで、直訳すれば「近代主義」ということです。

 近代主義という概念はどういうものかというと、まずいつから近代なのかという話が出てきます。フランス革命からがいいか、産業革命からがいいか、あるいはもっと遡ってルネッサンスからがいいかとか、実はいろいろありますが、ここではとりあえず、近代とは19世紀の後半以降ぐらいのことと考えて頂きたいと思います。これは、われわれの現代につながる百年ぐらい前の時代を特別視し、それを今につながる一連の流れとして見ようとする考えです。つまり、今を準備する期間として大きな変化があった時代として近代を考え、その動きをモダニズムと呼ぶということです。

フォーマリズム的発展史としての美術のモダニズム

 美術の世界でこのモダニズムを考えるときに問題になるのが、フォーマリズムという概念です。イズムという言葉ばかりが続きますが、フォーマリズムというのは言葉の中にフォーム、つまり形という言葉を含んでいて、形式主義とか形態主義と訳されることもあります。これは美術を見るときに何が描かれているかとか、何を意味しているかということではなくて、どういう描き方をしているかという「形」だけに着目して美術を評価しようという立場です。

抽象画の誕生

 なぜこういう考え方が出てきたかというと、それは1910年代に、皆さんよくご存じの抽象画、アブストラクションというのがヨーロッパの美術の中に出てきますが、これと関係があります。つまり、それまでは絵画は何らかの意味を持っていました。聖書の主題という物語を持っている場合もあるし、セザンヌの場合ではリンゴを描いているという具体的な指示対象があるわけです。ところが、そういうものを一切外して、円なら円だけ、大きな色のトーンなら色のトーンだけで絵を作るという抽象画が出てきたのです。

近代美術史は「抽象」へ至る発展史

 そこでは直接何を意味するということはありません。そうすると、そういう絵について考えるとき、このフォーマリズム的な、どういう描き方をしているかという形だけに着目する見方に非常に意味がでてくるわけです。そして形だけに着目して見るという見方で、近代を遡っていくという作業をやるわけです。つまり近代の美術史は、この抽象というものが生まれてくる前段階、一歩ずつ階段を抽象へ向かって昇っていくものとして把握するという物の見方が、20世紀後半の60年代ぐらいまで、非常に強く美術史を支配してしまうのです。その考え方に沿っていくと、いつから近代が始まったかというあたりに、来週お話するマネがいたり、あるいは印象派がいるわけです。そうすると、印象派はどういうところで近代、つまり抽象画に向かう方向に一歩進んでいるかというふうに見ることになります。

印象派の筆触分割重視

 印象派というのは、英語でいえばインプレッショニズム、フランス語でいえばアンプレッショニスムですが、この主義は次の世代、20世紀になるとフォーヴィスム、あるいはキュビスム、フューチュリスモ、未来派と訳されたりしますが、こういった運動につながります。これらの「イズム」が交代しながら、一歩ずつ抽象に至る階段を上がっているように位置づけられていくわけです。そういう見方で印象派を見ると、印象派はいったい何をやったかというと、筆触分割という新しい描き方をした。つまり、印象派の絵画はベタベタっとキャンバスの上に絵具や筆遣いがそのまま残った描き方をしているということになります。そういった評価が非常に強く印象派のイメージをつくることになるわけです。

印象派とは筆触分割をやった画家のことか?

 しかし、こうした印象派の評価が印象派を考える上で完全に有効なのか、印象派は筆触分割をやった画家達のことなのかというと、これは違うのです。実際にはそれは印象派の中のある一部でしかなかったわけです。ここにフォーマリズム的な見方のある種の限界があります。印象派の画家達は、べつに抽象という目的が先にあるということを知って自分達の活動をしていたわけではありません。それまでの伝統的なものから、少しずつ新しいことを始めるために踏み出して行った中に、たまたま抽象を生む方向へつながる部分もあっただけです。彼らが考え、やろうとしていたことは、べつに抽象の準備段階だったわけではないのです。ということで、印象派というのは実際は何なのか、改めて考えてみようということになるわけです。


印象派という名称と展覧会

命名の由来

 印象派という名前は本人達が名乗ったわけではありません。それは展覧会をやったとき、批評家によって付けられた悪口として始まったのです。近代美術の場合は、しばしばこういうことがあります。その命名にからんだ話は、1874年の彼らのグループ展に対する、批評家ルイ・ルロワという人の文章に出てきます。それは『シャリヴァリ』という当時の新聞に出たのですが、この記事の名前が、「印象主義者〔仏語でアンプレッショニスト〕の展覧会」という題なのです。このルイ・ルロワの批評が書かれるまで、「アンプレッショニスト」という言葉は、美術の傾向や人々を指す言葉としては用いられていません。したがって、これが初めて悪口として使われたレッテルなのです。

モネの「印象 日の出」

 この中でどうして「印象」という言葉を使ったかというと、実はこの展覧会に有名なモネの《印象 日の出》という作品が出展されていてそれに基づいたわけです。これは有名な作品で、現在パリのマルモッタン美術館にあります。ルロワの記事では、印象派の展覧会場に行った2人の人物が、何というひどい展覧会だろうという話をする設定をとっていて、そしてモネの《印象 日の出》のタイトルから取って、「こいつらは、いわば印象主義者だ」とレッテルを付ける。この悪口が数年後モネの属するグループを指示する言葉になるのです。

第1回印象派展

 「印象主義者」とか「印象派」という名前はこうしてできるわけですが、では、このグループの展覧会はまさしく最初から「印象派」の展覧会なのかというと、それは違うのです。第1回印象派展と言われている展覧会は、たしかにこの1874年のグループ展ですが、このグループ展が開かれた後で「印象派」という名前ができたのですから、そういう名前を持った展覧会であったはずはありません。何という展覧会だったかというと、この展覧会は直訳すると「画家・彫刻家等の芸術家による共同出資会社」の展覧会と題されていたのです。

 これはフランス語で「Societe anonyme cooperative d’artisites - peintres, sculpteurs, etc」と言います。最初の「Societe anonyme」は共同出資会社と訳されます。「anonyme」というのは「無名の」という意味で、誰が会社組織の責任を取るかということを示します。

 皆様の中には、これまでのお仕事のなかでフランス企業とお付き合いのあった方もいらっしゃると思いますが、Societe anonymeは今のフランスでは株式会社を指しています。つまり、株式会社と同じように、出資額に応じて利益が還元されるというシステムであり、個人の事業ではないということなのです。

 このSociete anonymeを彼らが作ったのはどうしてかというと、展覧会をやるのには当然会場を借りたりお金が要るわけで、そのお金を「みんなで出し合いましょう」ということです。出し合ったお金で展覧会をやって、「作品が売れたら売上げからそれぞれの出した額に応じて分配しましょう」という考え方です。だから、実際に株券を売るとか売らないとかというものではないので、一応「共同出資会社」と訳すことにしています。

 この展覧会はそこに書きましたように「会期:1874年4月15日〜5月15日」、「会場:バリのカプシーヌ大通りという大きな目抜き通りの35番地」という形で開かれました。19世紀の半ばは写真が徐々に浸透している時代でしたが、ここはナダールという写真家が持っていたスタジオでした。そこがたまたま空いていたので、そこを借りて展覧会をやったのです。

なぜ無審査の展覧会が開かれたのか

 ところで、重要なのはどうして彼らは自分達でお金を出し合ってまで展覧会をやったのかという点なのです。それは無審査の展覧会をやりたいということでした。無審査というのはどういうことかというと、「この作品はいいから展示しましょう」、「この作品はだめですよ」ということはやらないで、お金を出して参加したいという人の作品はすべて並べるという意味です。

 彼らは画家として生活をしていきたいわけで、その展覧会では、ただ見せるだけではなくて、作品を当然売りたいのです。そのとき彼らがなぜ無審査の展覧会をやることにこだわったかについては、背景になっている当時の画壇の問題、サロンという問題があるのですが、それについてあとでまた確認することにして、先へ進みます。

その後の印象派展

 このグループ展は都合8回開かれました。1874年に始まり、76年、77年、79年、80年、81年、82年、86年です。組織名、つまり会の名前は変わりますし、会場も参加者も変わります。基本的にお金を出してくれる人は参加を認めるわけですが、だれそれは入れたくないとか、喧嘩別れして出ていってしまう人もいます。

 そうやって、ぜんぜん違うものとして8回やられていますが、やっている人達のなかに中核メンバーがだいたい残っていたこともあって、彼らは展覧会としては一連のものという意識をしていたし、見る側もそう思っていました。これがいわゆる「印象派展」と言われる8回の展覧会です。

 問題は、先程言った無審査の展覧会ということであり、つまり「これはいい。これはだめ」とか言わないということは、どんなふうに描こうが、何を描こうがいいということなのです。先程言った筆触分割でなければいけないという決まりも一切ありません。それが「技法、主題等の点で統一性がない」という意味です。したがって「印象派展」と言われている8回の展覧会に参加している人たちの作品を全部が、今日われわれが言っている印象派とイコールではないわけです。つまり、自由参加だったということがたいへん重要な意味を持つわけです。


背景としてのサロン(le Salon)とそのシステム

歴史

 なぜ当時この画家達がそういう展覧会をやりたいと思ったかということですが、その背景にあるのがサロンというものです。今日サロンといいますと、街を歩いていて「ヘアサロン」というような看板なんかがありますが、もともとはサロンとは「部屋」という意味を持っています。そのサロンという言葉が19世のフランスの美術にとっては絶対的にあるものを意味しています。「le」という定冠詞、英語でいうと「the」を付けて、大文字で「SALON」というのですが、これは国が主催する大展覧会のことなのです。当時は毎年ないしは隔年に行われる非常に大きな展覧会です。

 このサロンはどのように始まったかというと、起源は17世紀のルイ14世の時代です。そのとき、王室をバックにして、彫刻家や画家達を集めて絵画彫刻アカデミーという組織が作られます。芸術家達を王家が保護して特権化し、ヴェルサイユ宮殿の装飾などに参加させるのです。そして、そしてこのアカデミーのメンバーが、それぞれいわゆる教授となってアカデミーで教えて、次世代の芸術家を育てるというシステムです。

1667年以降サロン・カレで開催

 彼らは自分達アカデミーの会員という、ほんの何十人かの芸術家の作品を展示する場として、ルーヴル宮殿の中のサロン・カレという部屋を四角いホールを使用しました。そこで最初に展覧会をやったのが1667年で、これがサロンという名前の元になっています。だから歴史はすごく古いのです。

 そして、1791年には、この年代はフランス革命と関わっているわけですが、特権階級が廃止され、したがって、アカデミーも廃止され、アカデミー会員以外もサロンに参加できるようになりました。これがフランス革命以降の大きな違いです。つまり、誰でもそこに作品を平等に出すことができるようになり、参加者は当然アカデミーの数十人のメンバーだけでなく、何百人という単位に増えました。誰でも平等に参加できるといっても、会場の大きさには限度があります。下手くそな素人画家が持ってきたものまで展示していたら、どうにもならなくなるわけで、そこで当然、線引きをしようということで、審査という問題が生じてきます。ちなみにこのころから隔年で開催されるようになります。第2帝政の末期が近づいてきた1864年、原則として毎年開催になります。

1864年からの運営変更とその特色

 こうして革命後、主催者は政府になり、評価のシステムにも審査が導入されたのですが、その方法は、先ず開催前に、どれを入れるか、どれを落とすかという審査員による選別をするのです。そして、入選回数によって無審査の資格を得られるようになりました。すでに一定の回数展示されているから良い芸術家であり、だから出したい作品はいつでも出すという資格です。

 開催されたあとは、評価のシステムとしてコンクールをやりました。出品された作品のなかで1等賞はこれ、2等賞はこれ、3等賞はこれというように賞を決定して、オリンピックと同じようにメダルを配ることになりました。一部の作品は国が予算で買い上げ、それを国の財産として美術館や各地の公共施設などの飾りとして配ったりするシステムもでき上がりました。

 一方で、このサロンには何千点という作品が集まって、2カ月にわたって大展示場で展覧会が行われるようになりました。したがって、すごい人数の観客が来ますので、芸術作品に関する一種の見本市のようなものにもなっていきました。

価値観の変化

 しかし、時代に応じて変化が生じてきます。先程も言いましたように、初期のサロンは、ルイ王朝時代に国王が王宮などを装飾するための芸術家を意識して作ったアカデミーという組織があり、それは次世代の芸術家を育てていくための組織でもあったわけですが、その管轄下にありました。

 皆さんは、たとえばイタリア・ルネッサンスの絵画はよくご存じだと思いますが、ラファエッロとかミケランジェロあるいはレオナルド・ダ・ヴィンチは静物画や風景画をほとんど描いていませんね。つまり、ルネッサンスにでき上がった西欧の美術の目的、特に絵画の目的は、何よりも歴史的な人物を描くとか、聖書の物語を描くことだったのです。この価値観はルネッサンス以降、19世紀まで続いています。したがって、ルイ王朝にできたアカデミーもそうした価値観を持って、そういう芸術家を育てていくシステムを作っているわけです。

 しかし、フランス革命以降、美術を取り巻く環境は変わりました。フランス革命では「みんな平等になりましょう」と言ったわけで、もちろんフランスは何度も皇帝政になったり王政になったりして貴族が復活したりしますけれども、家柄ではなく、商業活動によって新しく実力をつけたブルジョアジーが育ってきて、新しく芸術を保護したり、享受する階層になっていきます。

風景画の台頭と美術批評の隆盛

 王様だったら天井画として神話的な場面が描かれているのがいいのでしょうが、たとえば普通の社長さんの場合、家にそういうものを飾りたいかというと、やっぱり違うということになってきます。神話の世界は自分たちの生活の中から出てくる意識と「ずれ」があって当然です。既に17世紀オランダの市民社会では、風景画とか静物画といった、ルネッサンスの画家は描いていない絵が好まれるようになっていました。フェルメールなんかはそういう中で出てくる画家です。

 したがって、19世紀の前半になると、サロンでも、風景画が歴史画をどんどん押しやっていくという状況になりました。しかし、保守的な層は、「絵画といったらまず歴史画であり、風景画などは趣味の範囲でしかない」と非難したり、「こんなのは絵になってない」と言ったりしました。そういう侃々諤々の議論が、結局美術批評というものを生みます。特に政治的に混乱している19世紀のフランスは、共和制になったり王政になったり皇帝政になったりしているわけですから、ジャーナリズムもさまざまな政治的な立場を代表することによって、いくつも新聞ができたり雑誌ができたりしては潰れていくわけです。そういう中で美術批評が成立しました。

 新しく台頭してきたブルジョアジーも、芸術に手を出したいのです。しかし、貴族社会のような伝統もありませんし、その感覚は自分たちとはどうも違う。しかしどういうものが本当にいいのか、自分の感覚が正しいのか、あるいは自分の感覚をどういう方向へもっていくのが優れた芸術の理解につながるのか分からないのです。美術批評は、当然保守的な立場もあれば革新的な立場もありましたが、そういういわば戸惑いを持っている層に対して一定の教育的な意味を持つようになります。

改革と終焉

 そういう状況のなかで、サロンというものが審査をします。当然新しく出てくる人たちの新しい試みは保守的な人たちから排斥されます。かつてアカデミーが中心だった制度ですから、当初はアカデミーのメンバーが審査員を兼ね、そうすると歴史画が中心のものになります。しかし、それでは広い層からだんだん不満が出てきます。そしてアカデミーのメンバーだけでなく、どういう人を審査員にするかという選出方法について度重なる改正が行われます。結果として、審査員が誰かによって審査の状況は大きく変わるということになります。

 面白いのは、1848年の2月革命と呼ばれる民主主義的な革命によって第二共和制が成立したときと、1870年の普仏戦争によってナボレオン3世が退位して帝政が終わり、パリでコミューンという共和政府ができたときです。この2つの年のサロンは、「平等だ」という概念から審査を行わず、無審査でした。そして、もう一つ面白いのは、1863年のことで、このときはサロンでは審査が厳し過ぎるという声があまりに高く、皇帝ナポレオン3世は落選者の作品を集めたサロンをやりました。これは来週お話するマネのスキャンダルと結びつくことになります。

アカデミーの影響の減少と民営化議論

 こうして、歴史画を重視するアカデミーの影響力は次第に低下していきますが、それでもサロンには審査がありました。そのような状況の中で、1870年代に入って印象派が出てくる頃から、サロンを国が主催するのはやめて、芸術家の団体に投げて、民営化しようという議論が始まります。実際1881年には芸術家たちがフランス芸術家協会という協会をつくって、そこの主催というかたちに移行しました。

 芸術家の協会ですから当然喧嘩があり、国民美術協会というのが分立して二つになります。すると一つだったサロンは国のものでもなく、唯一絶対のものでもなくなります。サロンがいわば展覧会という意味しか持たなくなってくる状況が1890年代には生じます。

 この70年代から90年代にかけては、まさしくモネやルノワールが次第に画壇に出て活躍しだす時期で、彼等とサロンとの関係はそういう点では非常に微妙なところがありました。70年代には、「サロンに受け入れられない」、だからサロンとは違う無審査の展覧会をやって、自分たちでダイレクトに顧客を開発したのが印象派展でした。しかし、それでも作品は売れないので、「やっぱりサロンで認められなければだめだ」ということから、70年代の後半になると、またモネやルノワールはサロンに作品を出したりするような動きもありました。


グループの形成

新しい絵画運動の系譜

 こうした形でサロンと対峙するグループをつくって展覧会をやる。しかしスタイルはバラバラであるというとき、印象派が何かを見ていくときに決め手になるものが4番目に書いたものです。彼らは新しい絵画運動として何をやろうとしていたのか。前に挙げたのは筆触分割という描き方でしたが、これだけで全部がカバーできるかというと、できません。

 印象派の前の新しい絵画運動の試みは、目立つものだけでも次のようなものがあります。1820年代ぐらいにはドラクロワを中心とするいわゆるロマン主義が生まれています。40年代にはコローやバルビゾン派を中心とする風景画の台頭があります。50年代にはクールベのいわゆるレアリスム、写実主義が生まれ、1860年代になると来週お話するマネが出てきます。こういう大きな山がありますが、これをいま逐一説明していくと印象派の話ができなくなるので、今日はそういう動きを経ているということに止めておきます。

新しい試み

 そして60年代の後半から70年代にかけて、いわゆる印象派といわれている人達がそれ以前の潮流に対してどんな新しいことを始めたかということが重要なのです。以下四つの視点からそのことを考えます。

戸外制作(plain air)

 まず最初は戸外制作です。フランス語で「プレネール」というんですが、これは要するにアトリエで絵を作るのではなく、外で絵を描くという意味です。小学校や中学校の「外で写生をしましょう」という教育を受けた我々にとっては風景画を外で描くのは当たり前なのですが、歴史的にはこれは当たり前ではありません。

 風景画がいつ完全に成立したかを言うことはできませんが、だいたい17世紀です、それまではいわゆる歴史的な場面の背景として描かれていたわけです。たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチの≪モナリザ≫の背景は風景です。そのモナリザがいない状態、つまり風景だけで絵が成り立ってくるのがだいたい17世紀ぐらいなんです。

 なぜ風景画で戸外制作が問題になるかというと、スケッチとか習作をどれだけ外でやるかということなのです。17世紀の画家は絵具を使ったスケッチや習作すら外でやりません。鉛筆描きで建物や木を写したりはしますが、それをアトリエに持ち帰って画面の中で組み合わせて想像の風景を作り上げていたのです。

 外で油彩習作を描くことは19世紀になって始まりますが、外で油絵を使うには、当然のことながらチューブ入り絵具のような持ち歩きできるものが必要なわけです。チューブの発明も実は19世紀なのです。それまで、画家達は自分で顔料を砕いて粉にして、それを油で溶くわけです。溶いたら液体になりますから、これを豚の膀胱に詰めて、乾かないうちに使い切るわけです。当然そんな革袋をいくつもさげて外で絵を描くことはできなかったのです。ところが、先に練ってあり、栓を閉めれば乾かないチューブの絵具ができたので、外で描くことが格段に進みました。そして、外で油絵具を使うことになったことにより、実際にその場その場で経験していること、つまり太陽が雲に隠れればサーッと物の色が変わりますし、風が吹けば今まで見えていたのと違う反射が起こるようなことを実体験としてつかみ、それをその場で色のあるスケッチにしていくことができます。

 こういった大気や光の効果のことをエフェ(effet)と言います。効果という意味の言葉ですけれども、特にこの大気や光の効果をエフェと言います。それを追求することが始まるのです。それをスケッチで捉えて、そのスケッチを持ち帰ってアトリエで完成作を作り上げるのです。実はここに「印象=アンプレッション」という言葉も関わっているのです。アンプレッションという言葉は個人的な感性で捉えられた粗描きという意味で、まさしくエフェを効果的に追求したものがアンプレッションなのです。あとでお見せするモネの≪印象 日の出≫はきわめてスケッチ的に描かれています。これは戸外で制作するスケッチ的なものにある種の魅力を見いだしていく方向と考えられます。そしてスケッチ的なものは、緻密に完成させないで、筆遣いが残った描き方、つまり筆触分割を生んでいくわけです。

筆触(色彩)分割

 2番目が筆触分割です。これについては、先程簡単に筆遣いが画面に残っていると言いましたが、これは、筆遣い1個ずつが一つの絵具の色を画面に残すという意味では、色彩分割といってもいいわけです。その色は混ざらないで画面の上に並べて置かれるわけです。ただこれは印象派のすべての画家に共通して行われた手法ではありません。

 印象派の中では特にモネや初期のルノワールに顕著な描き方です。彼等がなぜこの筆触分割をやるようになったかというと、ひとつはスケッチ性と関わっているわけです。スケッチは、先程も言ったように、ササッと描き止める瞬間性の動きです。もう一つは色を混ぜないことです。これは色彩理論の話とつながりますけれども、絵具は混ぜれば混ぜるほど濁っていくので、なるべく混ぜずに置くことによって明るい色を出したいという、画面の明るさの追求です。この二つが筆触分割のいわば目的なのです。

 その結果何が起こったかというと、この机なら机を描くにしても、画面の上に机の輪郭線とか微妙な茶色を再現することより、ベタベタっと机らしきものが筆で付けられた絵具によって描かれているという状況が生じます。「この机は何色に見えますか」とみなさんに聞いたら、たぶん多くの人が「赤っぽいこげ茶」と答えると思います。この、われわれが赤っぽいこげ茶と思っている色は、ものそれ自体が持っていると考えられている色で、「固有色」といいます。しかし、実際には明るさや電灯の色によってものの色というのは異なって見えます。これを重視して絵を描けば、そのもの自身が持っている色は画面からなくなってしまいます。同時に、筆遣いが残っていますから、輪郭や前後関係があいまいになって、きちっとした奥行きがある空間は壊れていってしまいます。つまり、いろんな意味で再現性が否定されていくのです。そして、絵のなか独自の世界ができていくのです。

 筆遣いによって残っている粘りのある感じの絵具そのもの、あるいはその絵具としての質感のことをマティエールと言います。これは物質という意味ですが、このマティエールの魅力というのが感じられてくるようになります。同時に何を何色で描くかということが、固有色を再現することから外れてしまいます。つまり、この机を描くのに、「白く輝いているところは真っ白に塗りましょう。赤っぽいところは真っ赤にしましょう」というように描くわけで、それはまさしくアンプレッションですけど、その見た状態から得た主観性を強調して描くことになるわけです。

主題としての現代生活

 ただ印象派の中には、先程も言ったように筆触分割をやらない画家達もいます。2月に私がもう1回お話するドガは、ほとんど筆触分割を用いていません。しかし彼は、今日では明らかに印象派の画家の代表的な一人と目されているのです。それでは印象派をくくるもう一つの要素は何でしょうか。それが3番目、先程言ったフォーマリズム的な物の見方では落ちてしまう「何を描こうとしていたのか」という主題の問題なのです。そして、それは現代生活というものです。フランス語でラ・ヴィ・モデルヌと言いますが、これは現代性、「モデルニテ(modernite)」といいますが、にこだわって絵を描くということです。

 それは、簡単にいえば、今生きているわれわれという感覚を絵の中に生かしたいということです。19世紀になって新しく鉄道が出てきます。あるいは社会の階層が変わるし、遊び方も変わっていきます。そういう自分たちの生活の変化に密着したものを扱いたいのです。それまでだったら農村を描くということは、田園に対する憧れ、自然に対する憧れ、あるいは農民という昔からの素朴な生活をしている人たちに対する憧れがテーマでした。その憧れが、都市のブルジョアジーがその絵を見て感じて喜び、心が慰められるというかたちで描かれていた。それと比べると、都会などは自分たちが今生きている場ですから、そんなものは絵にはならないと思われていたわけです。しかしそうではなく、そういうものも絵になるというのがモデルニテという考え方です。だから都市の情景だとか、都市にいるブルジョアジー達が実際に遊びにいく行楽地やレジャーが主題になるのです。

斬新な構図

 4番目はそれをどう描くかという構図の問題です。つまり筆遣いの問題や色彩の問題だけでなく、画面の中に何をどう置くかということです。これは絵にとって非常に重要な問題です。瞬間を切り取ること、つまり臨場感を出すために、どういう構図がいいか、どういうふうに画面のなかに切り取るか。皆さんがカメラを構えて何か写真を撮るときのカメラのファインダーの中をのぞきますね。どこまでが見えてどこが切れるかということで、そのための構図を一生懸命探すと思います。それと同じ意味で、どう切り取られた画面が今というものを感じさせるか。

 これはドガの場合特別に問題になりますが、この時代にそういうことが非常に変わっていきました。それは画面の中に今まさしく移りゆくもの、つまり動きや変化を導入していくという視点が出てきたからです。これはただ単に人物が画面の中を通り過ぎるという動きの場合もあれば、気候の変化や光の変化である場合もあります。モネの話は馬渕先生にお願いしてありますが、モネの連作などはまさしくそういったものから来ているわけです。

中核メンバー

 上に挙げたものは、すべての印象派の芸術家達にどれもが当てはまるというものではありません。しかし、こういうものを相互に関連させながら、自分たちの持っている関心をどう描くか、捉えるかということなのですね。そして、こういうことをやっている人たちが「サロンには受け入れられない。あそこでは落とされちゃう」と言って、自分たちの展覧会をやろうとするいわゆる「印象派」の中核メンバーになるわけです。

1860年代前半のモネを中心とする交友関係

 この中核メンバーは、実際には友人関係とか知り合いということでできていくわけで、その一つにモネを中心とする交友関係があります。それは1860年代の前半にモネが通っていたアカデミー・シュイスの交友関係です。これは絵画、彫刻のアカデミーではなく、シュイスという人が個人で作った学校みたいなものです。学校といっても先生はいなくて、モデルがいる大きなアトリエです。そこへ登録しておくと、広い部屋が使えて、そこでモデルを見てデッサンしたりすることができるのです。ちょうど今でいうと予備校の自由室、自習室みたいなものだと思ってください。ここで知り合ったのがピサロ、セザンヌ、ギヨマンなんかです。

 もう一つのモネが通っていたのが、歴史画を描いていたグレールという画家の画塾です。そこでルノワール、シスレー、バジールなどという人と知り合いました。そして一つの非常に若い世代のグループができました。そこに彼らにとってちょっと先輩格に当たる画家がいましたが、それがマネでした。

1860年代後半のカフェ・ゲルボワの集まり

 マネが印象派かどうかという話は来週改めてすることにしますが、少なくとも1860年代にマネは反逆的な芸術家の代表格と見なされていたことはたしかです。そして、印象派の流れが出てきたとき、彼らが何よりもマネの仲間と見られたこともたしかです。マネは自分のアトリエをバティニョールという通りに持っていましたが、その近くにカフェ・ゲルボワというカフェがあって、そこでしばしば仲間と飲んだり騒いだり議論したりしました。

 マネを中心とする前衛芸術家は、ファンタン・ラトゥール、ブラックモン、ギース、ナダールらで、かれらはいわゆる印象派ではありません。ファンタン・ラトゥールの絵の技法は印象派とはまったく違います。またブラックモンは版画家ですし、ギースは油絵の画家ではなく、挿絵画家です。ナダールは写真家でした。そのほか文筆家のデュレもいましたが、かれは後に印象派を擁護する有名な批評家になります。写実主義の小説家のゾラもマネと友人関係にありましたが、かれもどちらかというと印象派を擁護する側になります。

 ここにもっと若い世代としてのモネの一派やドガが合流するという感じでした。そのことによって、マネのグループも世間からは全体的に印象派的なグループと見なされるわけです。しかし先程も言ったように、マネは印象派展には1度も参加してないし、印象派と言えるかどうか疑問です。マネは生涯サロンを勝負の場にするわけで、あそこで認められなければだめだと考えていた画家でした。


印象派評価の変遷

同時代

 最後にちょっとだけ固い話になりますが、それは印象派がどう評価されているかということについて触れます。芸術家の活動については同時代には理解されないことが多いのは、ゴッホなんかがいい例だと思います。しかし、それでは死後評価されるようになったら、その評価がずっと同じように続くかというと、これも違うのです。学問の世界でもいろいろと状況の変化があり、物の考え方が変わります。

 たとえば、先程言った、モダニズムを筆触分割に始まったフォーマリズムで評価するのは、一つの学問的な見方ではあったのですが、今日では完全な近代美術の見方の大枠を決めるものではありません。むしろ、その一部でしかないと思われているのです。どういうふうにその変化が生じたかというのは、ここに関係するのです。

1870年代

 皆さんご存じのように、印象派は同時代の人からはあまり高く評価されなかったわけです。特に「マネの後継者である」というのは「反逆者だ」という意味でした。一部の批評家は褒めてくれますが、なかなか絵が売れないのです。こういうときに、ある画商が、「印象派の絵は、もしかするとこれから売れるかもしれない」という、今から言えば先見の明、当時の人々の基準から言えば野望を持って着目します。これがデュラン=リュエルという人です。デュラン=リュエルは70年代前半に現れますが、早くから印象派の絵を買っていって後に成功した人です。

 70年代の後半になると、モネやルノワールはサロンに戻っていってしまいます。つまり、印象派の展覧会活動をやっていても、やはり売れないのです。彼らが一番経済的に苦しかったのは70年代です。

1880〜90年代

 80年代の前半ぐらいになると、どんどん他の画商も印象派を扱ってくれるようになり、コレクターも増えてきます。このコレクターというのも、きわめて近代的です。ルネッサンスや17世紀の王侯貴族だったら、自分の好きな画家を雇ってそれに描かせておけばいいわけです。ところがコレクターはお金をかけて、主として既にできている物を集めるわけです。注文もしますけれど、それはむしろ少ない。当時の印象派のコレクターになる人たちは、「これから値が上がるかもしれない」ということで、同時代から投機という意識をかなり持っていたらしいのです。デュラン=リュエルなどは、そういうことを多少煽る面がありました。実際、印象派の絵は、1880年代以降どんどん値段が上がっていきました。

ポスト印象主義

 80年代の後半には、次の世代であるポスト印象主義が登場します。次の世代というのは、まさしく印象派を乗り越えて次の新しいことを始める世代のことです。セザンヌは最初の印象派展から参加していますが、むしろ印象派を乗り越えてしまっています。それから点描のスーラが出てきますし、このシリーズの中でも扱われるゴッホやゴーギャンがいます。彼らは最初は印象派のやり方を真似ていますが、その後それを応用していく印象派後の世代であり、ここでは「ポスト印象主義」という名称を使います。それは印象派の後ということで、「後期」印象派ではないという考え方です。

 後期印象派という言葉は、最初岡倉天心が明治時代に使ったらしいのです。彼が使ったときには、まだポスト印象主義という言葉、つまりポスト・インプレッショニズムという言葉がヨーロッパでも普及していない時期ですから、彼も訳語として使ったわけではありません。それが後の方の世代という意味で「後期印象派」という言葉が「ポスト印象主義」の訳語のように使われために、大きな「ずれ」が生じたと今日考えられています。

 1890年代になると、モネやルノワールは大成功を収めます。特にモネなんかはジヴェルニーに大きな日本庭園のある屋敷を構えますが、それは当時絵がすごい値段で売れていったからであり、彼らは既に生前に評価が高まっていました。

20世紀前半

 20世紀の前半になると、先程言ったように1910年に抽象画が生まれて、モダニズム的な評価がどんどん強くなっていく時代になりました。これは戦後まで続きます。ところが戦後の1960年代になると、アメリカでポップアートというのが出てきます。よく知られているもので言えば、マリリン・モンローの顔をシルクスクリーンで刷ったりするもので、アンディ・ウォーホールなんかがそうです。あれはぜんぜん抽象画ではないですね。こうして抽象画とぜんぜん違う芸術が出てくると、抽象だけが美術の行き先ではないことが歴史的に明らかになってしまいました。

1970年代以降

 当然その中からそれまでの近代美術史観、つまり抽象への発展史としてのモダニズム観は崩れてきます。そして、より一層各時代に即して美術を見ようという見方が強くなるのが1970年代以降です。つまり各時代の社会的な状況の中で絵を考えるので、ここに「社会史的評価」と書きました。

 社会史的評価とは、簡単に言ってしまえば、画家がどういう価値観に基づいて何を描いているのかということを問題にするということです。1870年代の普仏戦争が終わった後は、フランスがパリを始めとする復興と新しい国づくりという意識を持っている時代ですが、そういう点から印象派の絵画を考えようという見方があります。そして、多くの印象派の画家はブルジョアジーの階級だったことによってその価値観を作っていたという視点があります。印象派が描くレジャーに着目するなんていうのがこれです。あるいは、性差と言われる男性中心社会での女性画家とか女性を描くこととか、それがどういう意味を持っていたかという研究もあります。あるいは画家達もまた絵を売って暮らしていたという点では、サロンとは別の場で展覧会をやることは彼らの戦略だったわけですが、それらがどう受け入れられていくかといった受容という視点が導入されます。

1980年代以降

 そして1980年以降になると、70年代に再評価された世紀末の象徴主義と言われる流れが、それまでは印象派と対立するものとしてしか捉えられていなかったのが、むしろ印象派と象徴主義には共通点があるのではないかという見方も出てくるようになりました。これらについては、おそらくこれから各先生方が、この70年代以降の着眼点を踏まえてお話してくださると思います。


スライド上映

第1回の印象派展

左 モネ《印象 日の出》1872年
右 ナダールの空スタジオ
 ご覧頂いているのは何かと
いうと、左側が有名な≪印象 日の出≫と言われている絵です。ノルマンディー地方と言いますから、英仏海峡に面したフランスの北側ですが、これはル・アーブルという港のはずです。ル・アーブルにはパリから鉄道で行けて、モネは商人の家の生まれで、親戚がル・アーブルにいたりするので、ここへはよく行き、そこで港を描いたのです。

 この絵がまさしく筆触分割です。たとえば、ここでは波を描いているはずですが、波の一つ一つの盛り上がりが一つの筆遣いになってしまっています。こんなところもガサガサッとした筆遣いです。それまでの風景画と大きく違うのは、港を描いてるといっても、ここに煙突から煙が出ていて工場なんかがあるということで、よく見るとちっとも自然という感じがしません。

 ≪印象 日の出≫は72年に描かれて、74年にナダールの写真スタジオのあったキャピュシーヌ大通りの35番地で展覧会が始まります。

右 レピーヌ《コルト街》1871-73年
 
その第1回の印象派展にはさまざまな画家が出展しています。画家だけでなく彫刻家も出しているんですが、その中の1点がこのレピーヌという人がパリのモンマルトルのコルト街の通りを描いたものです。これを左右比較して見ますと、描き方がぜんぜん違うのが分かります。これはいわゆる筆触分割になっていないわけです。この絵では、ぼやぼやした絵ではなくて、きちっと空間の奥行きだとか、あるいは石畳だとか、壁の質感だとか、それから木が何色をしているか、明確に分かる描き方をしています。

右 オッタン《アングルの肖像》1840年
 この展覧会は、「お金を出せば誰でも」というのが基本ですので、オッタンという彫刻家はこういう大理石造りの胸像を出しています。このモデルはアングルという有名な画家で、彼は19世紀の前半のフランス画壇で最も高位に上り詰め、画壇を支配していたといってもいい人物です。そして新古典主義というスタイルと、明確な歴史画中心の考え方を持っていた画家です。したがって印象派とは無関係どころか敵対するような関係ですが、このアングルの胸像が出ていることからも、審査なしの展覧会というものがよく分かります。

Societe anonymeのカタログ

右 カタログ表紙
右 同裏表紙
 この展覧会のカタログがこれですが、ここに「第1回展覧会」と書いてあります。当時はまだ印象派という言葉が生まれていない頃ですから、どこにも印象派とは書かれていません。一番上に組織名があり、ここにSociete anonymeと書かれてあるのが分かります。

 Societe anonymeは、先程も言ったように、今日では「株式会社」と言われる、誰々の会社ではない「共同出資の会社である」ということを意味しているわけです。その展覧会は赤字のため第1回だけで潰れてしまいます。

 面白いのは、このカタログが50サンチームで、入場料が1フランとあるところです。当時の1フランは今日いくらぐらいの感覚かは難しいところがあります。つまり収入とか、階級とか、それから出品に掛かる費用とかが今といろんな意味で違うので、簡単には対比できませんが、千円ぐらいかなという感じがします。

 その千円位の入場料を払って展覧会を見るわけですが、展覧会カタログの一番後ろには、「すべての情報については以下の所にご連絡ください」と書いてあります。そこに住所が書いてあって、ここに事務所を置いていたことがわかります。そして「この展覧会に出品された作品の販売に関しては、ここへ連絡して買ってください」とわざわざ書いてあるということは、売りたいという意思表示です。

カタログの表紙と中味

 表紙に戻りますと、「この展覧会は4月15日から5月15日まで、朝10時から6時まで、そして夕食の時間を空けて夜の8時から夜の10時まで」という時間が書いてあります。ということで、夜間も開館しているのですが、なぜ夜間開館しているかというと、昼間だけだったら来られない人がいるからです。逆に昼間だと来られない人に見てほしいんです。つまり、功成り名を遂げて、お金も持っていて、働かなくてもいいような身分の人たちは年も取っているだろうし、保守的な美術にしか目を向けない可能性が高いわけです。それよりは、比較的若くて、昼間はバリバリまだ働いている、しかしちょっと美術品を買ってみようという人に来て欲しいのです。彼らにもいろいろな意味で投機という気持ちがあるかもしれないし、純粋に自分の好きな物を集めたいという人もいるでしょうが、そういういわばホワイトカラー的な人たちに来てほしいということがよく分かります。

右 モネの頁
 カタログの中のモネのページを見てみると、当時はまだ写真を印刷する技術がありませんので、当然のことながら題名だけが並んでいます。ここの98番に≪アンプレッション:ソレイル・ル・バン≫=≪印象 :日の出≫と書いてあります。印象=アンプレッションというのは、まさしく「こういう描き方、こんな感じで物を捉えましたよ」という、いわばスケッチ的な意味を残している言葉です。もちろんサインもありますし、展覧会に出してますから、これをスケッチとは言っていませんが。

スケッチ

 もう一つ面白いのは次の項目です。図版も何もデータが他になく、こんなところに「ドゥ・クロッキー」、つまり「2点のスケッチ」と書いてあるだけです。つまり、一つの額の中に2点の小さなスケッチが入ってるものなんでしょう。これしかデータがないので、実際に何が出品されたか、いまだに分からないのです。≪印象 日の出≫も題名しか書いてありませんでした。

右 モネ《印象 日の出》
  実はモネにはもう1点ル・アーブルの港の日の出らしきものを描いた絵があり、それがこれです。実際にはどちらを出したかという証拠がありません。つまり、額の裏にSociete anonymeの展覧会に出したとわかるラベルが貼ってあったりすればいいのですが、そういうことがないのです。だから、どちらが出されたか分かりません。当時の批評を読んでも、確定的にこちらだと言えるものがないのです。

 印象派の研究者にリウォルドという、ずいぶん前に亡くなった人がいます。この人は『印象派の歴史』という分厚い印象派の基礎研究の著作を書いていて、去年の秋に翻訳が出ました。彼はこの本のなかで、「こちらではないか」と言ったのですが、これも証拠がありませんので、いくら大家の言ったことでも受け入れられていません。

一連の展覧会

右 印象派展への参加者
 
この一連の展覧会は8回ありましたが、出している芸術家達は延べ40人位になります。しかし、全部に出しているのはこのピサロぐらいです。われわれが印象派の代表的な画家と考えるモネにしても、1、2、3、4と出して、真ん中が抜けているんです。同じような動きをしているのがルノワールで、ルノワールとモネはすごく仲が良くて行動を共にしたのです。それと対立していくのがドガで、ドガはずーっと出し続けているんですが、ここで抜けており、この抜けたときに復帰してきたのがモネとルノワールだったりします(笑)。

 この頃になると、お互いに避けていたというのがよく分かります。仲違いした原因は、性格が合わないとかいろいろあると思いますが、一つはルノワールとモネがサロンに復帰したことなのです。つまり、サロンに反発してグループ展をやっているのに、サロンに出すということは首尾一貫してないということで、ドガは気に入らなかったのだと思います。ところが、皮肉なことを言うと、初期にはみんなサロンに受け入れられたいと思っていましたし、一番入選していたのはドガなんですね。ここら辺が微妙なところです。

国立美術学校

左 パリの国立美術学校
右 解剖学の講義 
  ここでアカデミックなものがどういうものだったかというのを見て頂きたいのですが、これは今日のパリの6区にある国立美術学校です。日本の芸大に当たるものです。ここに入って絵の勉強をして芸術家になるのが19世紀の画家にとって画家になる道でした。

 当然入学試験があります。ここで何が行われていたかというと、まず解剖学の講義、「人体とはいかにつくられているか」ということが教えられていました。それから、遠近法の習得、そして描く方でいえばデッサンです。今日でも美術学校へ入るために石膏デッサンをやりますが、あの伝統はここから来ていると思ってください。この三つが主で、油絵の技法は国立美術学校では教えていませんでした。少なくとも1863年に改革されるまでは教えていないのです。それらは自らが、あるいはどこか他のところで学ぶものであり、それだけ絵を描く上でデッサンが重視されていたわけです。

右 古典の講義
 
ここでは古代の物語、古代史だとか神話だとか、そういうものを画家が身に付け、そういう主題を描くことが求められているわけで、その講義もありました。

 だから、国立美術学校で静物画を描いたり、風景画を描くことはありませんでした。風景画や静物画は、もともとの概念が歴史画のごく一部なのです。そういうものも個人で楽しむ分にはいいだろうが、それは公的な美術になるものではないという考え方が根本にあったわけです。したがって、ここで学んだ画家達は、なによりも歴史画家になるわけです。

ローマ賞コンクール

 印象派が出たのは1874年です。国立美術学校では毎年一種の卒業コンクールとして歴史画のコンクールがありました。これはローマ賞コンクールと言い、優勝者は4年間位、ローマにあるビラ・メジチというところで勉強することができるという制度です。そこにはフランスのアカデミーが持っている出張所みたいなビラがありました。その賞は美術だけでなくて音楽にもあって、「アルルの女」を作曲したビゼーはローマ賞を取ってそこに行っています。

左 ベナール《ティモファネスの死》1874年のローマ賞
右 ヴィラ・メディチ 
  74年に国立美術学校のローマ賞コンクールを取った作品がこれです。およそ印象派と同時代の絵には見えないと思うのですけれども、ベナールという画家が描いた≪ティモファネスの死≫という絵です。このローマ賞のコンクールは、学内コンクールではありますが、アカデミーが強く関与しています。それから、歴史画家を育てるという点では、聖書や古代の物語から毎年題が出て、同じ主題について同じフォーマットで描くことが求められ、審査を受けるというシステムです。

 このティモファネスという人を知ってる人がいたらびっくりしますが、これは古代のローマの共和制の時代の人物で、北アフリカの総督になった兄弟のうちの1人です。ティモファネスはお兄さんだったかな。そして暴君になってしまうので、弟は友人を使って諌めるんですが、うまくいきません。結局泣く泣く良き政治のために兄弟をも死に追いやるという悲劇です。つまり、ここではこういう道徳的な主題みたいなものを古代から引っ張ってきて、それをいかに説得力のある描き方で提示するかが目的なのです。それが公的な美術のあり方なのです。そのために解剖学、遠近法、デッサンは、何よりも人の体について古代の彫刻が理想的なプロポーションに近づけていく方法だったのです。そして19世紀の後半になって君主がいなくなっても、公的な機関に飾られるものはやはり歴史主題のものだったのです。

パンテオン

左 パンテオン(サント=ジュヌヴィエーヴ聖堂)
右 同内部:ドローネー《パリの群衆を鎮める聖ジュヌヴィエーヴ》
  これはパンテオンといって、ソルボンヌの近くにある建物で、建物自体はルイ15世時代のものですけれども、中の壁画は印象派と同時代の1870年代に制作されています。ここには何人もの画家が制作した絵がありますが、今エリードローネという、後に国立美術学校の教授になる画家が描いた作品をお見せしています。  

 今はパンテオンと言っているこの建物は、当時はサント・ジュヌヴィエーヴ聖堂、つまり聖ジュヌヴィエーヴというパリの守護聖人に捧げられた聖堂という意味の名前で呼ばれていました。聖ジュヌヴィエーヴという人は、中世にアッチラのフン族が東からヨーロッパを席巻してきてパリを包囲したとき、人々が混乱に陥るのをなだめてパリを救ったということで、パリの守護聖人になっている聖女です。そのパリの人々をなだめるところを描いたのがこの『聖ジュヌヴィエーヴ』という絵なのです。

 この壁画の大きさは、ここに人がいるのでどれだけ大きいかよく分かります。こういった大画面で複数の人物が組み合わされているのは、まさしくコンポジションということなのです。物語を訴えかけるような構図を作るという能力は、当時画家にとって必要なものとされていて、こういうことを教育するものとしてアカデミーの美学に基づく国立美術学校は機能していたのです。そして、国立美術学校やアカデミーの影響を強く受けつつ、サロンという展覧会の審査が行われていたわけです。

どんどん大きくなるサロン

左 ルーヴル美術館サロン・カレ
右 産業館
 左側は当時サロンの会場になっていた17世紀のサロン・カレというルーヴルの中の1室です。フランス革命以降サロンはどんどん大きくなります。当時は、審査はするけれども、アカデミーの会員でなくてもよくなったのですから、毎年何千点と作品が並びました。それで万博で使ったパヴィリオンなどが展示室として使われました。右は1955年のパリ万博で造られた建物で、今はグラン・パレという建物がここに建ち、建物はなくなりましたけれども、当時は「産業館」と言われ、新しい産業技術を展示する建物としてできたのです。ちょうど今の日本でいうと幕張メッセみたいなものと思ってください。そこで毎年サロンという大展覧会をやるわけです。

右 グレール《夕べ(失われた幻影)》1842-43年
左 サロンにおける絵画の展示1861年

 右側は歴史画家のグレールが描いた絵です。モネやルノワールが知り合ったのがこのグレールの画塾だったのです。彼らも当初はこういった歴史画家の下で習っていたのですが、当然、師のやり方に限界を感じるわけです。この絵はグレールが1840年代に描いて有名になった頃の絵で、ルーヴルにある≪夕べ≫という絵です。

サロンの絵の展示の仕方

 サロンでは何千点という作品が展示されるわけですから、建物の中は下から上まで全部絵という感じで、よくもまあと思うぐらいうまく組み合わせ、展示されていました。展示のプロがいるわけですから当然なのですが、よく見ると小さいのが下に、大きいのが上にあります。人間の普通の釣合いの感覚からいうと変です。大きなものが下にあった方が安定しますよね。なぜこうなるかというと、下から見るからで、大きなものはこんな高いところにあっても見えるけど、こんな小さなものを上に掛けられたら何も分からないですから、こういう掛け方をするわけです。

右 サロンにおける彫刻の展示1874年
 
こちら側は産業館の中庭です。上は鉄とガラスで出来ていて、19世紀的な新しい技術を見せる建物ですが、そこに彫刻が並んでいます。彫刻には白いものが多く、大理石と思われるかもしれませんが、たいていは石膏です。どうしてかというと、当時の彫刻家は粘土で造ったものを石膏にして型取りして、その原型を自分のアトリエに置いていました。それを基にブロンズに鋳造したり、大理石を彫ったりするんですが、大理石もブロンズも材料が非常に高価なので、よほどのことがないと自費でそんなものは造りません。注文でお金を払ってくれる人がいるという段階になって初めて造るのです。だからサロンに出す段階では、ブロンズや大理石になっていないものがたくさんあったのです。

サロンのカタログ

左 サロンのリブレット:表紙
右 同:前年のメダル受賞者の報告
 左は「エクスプリカシオン」といって、解説書という名前が付いていますが、いわゆるカタログです。これも1874年のものですが、こちら側を見ると、このサロンがいかに芸術家を評価してランク付けしていたかというのがよく分かります。

 一番最初にあるのは、昨年のサロンで誰が何賞を取ったかというリストです。これは絵画部門で第1等賞を取った2人の画家の名前です。賞は作品に与えられるのではなくて、芸術家に与えられるものとして、芸術家の名前が書かれてあります。同じように第2等賞の受賞者はこれだけいて、それらが全部リスト化されて載っています。

左 同:受賞歴のある芸術家のリスト
右 サロンにおける授賞式 

  次にそれまでサロンでメダルを取った人のリストが来ます。去年とか今年とかということではなく、これまでのすべてです。そうすると膨大な数になるのではと思いますが、そのとき生きている人しか載せませんので、17世紀の人なんかは入っていません。

 アルファベット順でこう苗字が並んでいますが、H・Cと書いてあるのはオー・ル・コンクールといってコンクール対象外になっている人です。つまり、「もう何回も賞を取っているから、この人はコンクール対象外です」ということです。それだけ評価が高いという意味になります。

 どこの出身だとか、ここに「Med. 3e」とあるのは、第3等賞のことで、数字が受賞年です。全部今までの賞が出ているわけです。

 この1845年に勲章マークでO.と書いてあるのを見てください。ナポレオンが作ったレジオン・ドヌールという勲章がありますが、それのオフィシエという芸術家に与えられる勲章を意味しています。シュバリエというのもあり、ランクが上がるとそれになるわけです。このアモーリ・デュバルという画家は二つ付いているので、そういう点では評価が高いということが分かります。日本でいえば文化勲章クラスということでしょうか。

授与式

 サロンでは、最終的には後半にそういった賞が決まります。そうすると授与式を行いますが、授与式では上にはアカデミーのメンバーだとか美術行政官だとかが並んでいて、芸術家に賞を与えます。みんなフロックコートを着て正装しているということは、正式な集まりだということがよく分かります。つまり、こういうかたちで国が芸術家をランク付けしていくものとしてサロンは機能しているわけです。

 だから、ここに入るか入らないかは芸術家にとって非常に大きな意味を持っています。入らないと、一度売れた絵が突っ返された例もあると言われています。サロンで何回も賞を取って、勲章も得て、売れっ子になると、もうサロンになんか出さなくてもお客は付いてくるのです。したがって、下手にサロンに出して美術批評で叩かれて、「あいつは大家になったのにこんな絵を描いている」なんて言われるより、偉くなるともう描かない、出さないという人が出てきます。

左 ドゥタイユ《モルスブロンにおける第9胸甲騎兵連帯の突撃:1870年8月6日》1874年
右 リスサンス《クレオパトラの死》1874年

 当時は歴史画家といっても歴史画を描いて売ることはそんなにありませんでした。国や公共機関でもない限り、戦争の絵などを部屋に飾りたいとは思わないからです。この絵も、向こう側の絵も、1874年のサロンに出た作品です。これは≪クレオパトラの死≫という絵ですが、いくら世界三大美人でも、「死んだ女の絵を部屋に飾りたいか?」ということです。これは横2メートルぐらいもある絵ですから、今日のわれわれの部屋にはもちろん入らない大きさです。したがって、このようなものは、要するに公的な場を意識して描いていて、そういうところで評価されるために意味があったのです。歴史画を一般の人が趣味で買うことは普通考えられませんでした。

歴史画家の生き方

 そうすると、歴史画家は功成り名を遂げたあと何をするかというと、一つは肖像画を描いて生活をするのが中心になっていく人があります。もう一つのやり方は、当時はやっていた歴史的な風俗画という微妙なジャンルを描きました。つまり、歴史画家ではあるけれども、ガチガチの事件みたいな絵ではなくて、18世紀のロココ風の人々が遊んでいる絵のようなものを描いて、それが受けるという状況がありました。そういう絵はうんと小型化していきました。

 そういう点からいっても、歴史画を美学として公的な場に必要なものとして残していきたいというのと、実際の芸術家が物を作り、売るというのが、だんだん乖離している状況がこの時代にありました。

 左側にドゥタイユという戦争画家が描いた1870年の普仏戦争のときのエピソードにちなむ絵があります。この題名が長いんですけど「モルスブロンにおける第9胸甲騎兵連隊の突撃、1870年8月6日」といいます。モルスブロンは地名で、胸甲は甲冑みたいなものを付けた騎兵のことです。事件の見出しみたいな題名ですが、要するにこれは、負仏戦争の時に、フランスの騎兵隊が活路を開くためにモルスブロンという村を突破しようとする、ところが、村はもうドイツ軍に占領されていて、上から一斉射撃を受け、行く先にはバリケードが築かれていて馬が越えられない。そして全滅するという、フランスにとっての悲劇的かつ英雄的行為を称賛するために描かれた絵です。これもあまり飾りたくはない絵です。

ジェローム

左 ジェロームの頁
右 アルバム・ミシュレ

 この1874年にこだわってサロンを見ていくと、この年のサロンの栄誉賞を得たのはジャンレオン・ジェロームという画家でした。彼は国立美術学校の教授で、しかもアカデミーのメンバーでした。ここにはどこの生まれか記されており、ドラロッシュという画家の弟子であって、アカデミーのメンバーであると記されています。そしてコンクールは対象外になっている大家です。

 彼は3点の作品を出していますが、栄誉賞を取ったので記念の写真が残っています。ジェロームという画家は国立美術学校の教授ですから当然歴史画家ですけれども、自分が描く歴史画をどんどん風俗画っぽくしていきました。次はルイ王朝時代のモリエールという劇作家の様子を描いたものです。それからフリードリヒ2世という笛を吹くのが趣味のプロイセン王。彼の絵には英雄的行為だとか、死だとか、堅苦しい道徳的なものは一切ないわけです。

 この3点の中で今でも所在が確認されているのは、最後の≪レミナンス・グリース≫。「灰色の枢機卿」という意味の絵です。

右 ジェローム《灰色の枢機卿》
  これがボストンの美術館に残っている《灰色の枢機卿》です。皆さんはアレクサンドル・デュマの心踊る冒険小説の「三銃士」の中に出てくるリシュリューという悪役をご存知でしょうか。ルイ13世の宰相ですが、この絵はそのリシュリューの知恵袋だった1修道士にまつわるエピソードです。何しろ宰相の知恵袋ですから、宮廷の中で隠然たる権力を持っていましたが、それが表に出ないいわば黒幕的存在です。

 画面を見ると、階段を貴族たちが上がっていきます。こちら側には本を読みながら降りてくる粗末な黒服の修道士が描かれています。それに対してみんなお辞儀をしますが、彼はそれを一顧だにしません。ということで、彼がいかに権力者であるかが分かります。こういう物語的な場面を緻密に描いています。階段の質感、上からの木漏れ日の感じ、衣裳の豪華さ、サテンや毛皮の描き分けなども含めて、そういうものが精密に描けることが当時の歴史画家にとっては非常に重要だったわけです。描こうと思えば静物画だって描く技術はあるのですが、そういうものを描くのは卑しいこと、芸術家がすべきことではないという価値観で生きているわけです。

アンティーニャ等

 ところが、印象派の画家はそういうものをまったく描きません。ではそういう画家達はいつ頃どういうかたちで出てきたかということが問題になります。

 オランダの17世紀には風俗画、風景画、静物画が成立していましたが、それがだんだんフランスに入ってくるのが18世紀です。有名なところではシャルダンという画家がいます。風俗画や静物画を描いた画家です。ところが当時の静物画や風俗画はある意味を持っていました。花の静物画は「切られた花は枯れてしまう」ということでこの世の空しさを象徴していましたし、独楽回しの少年は、空しい遊びに時間を費やすことを戒めるという道徳的教訓を持っていたわけです。これが18世紀ぐらいまでの静物画や風俗画だったのです。一見しただけでは、われわれには分からないような意味が結構ありました。

 そういうものから離れて、たとえば労働者の生活を描くなどという発想は、18世紀までは事実上ありませんでした。しかし19世紀の半ばになると、フランス革命の影響を受けて共和主義的な思想を持っている画家が、労働者階級にもっと目を向けるべきだという文脈で絵を描き始めたりします。

左 アンティーニャ《火事》1850年 
右 クールベ《石割》1850年

  これは1850年のサロンに出たアンティーニャという画家の描いた≪火事≫という絵です。ここでは父親、母親、兄弟といった家族が火事に巻き込まれています。これが何を意味しているかというと、労働者階級の悲惨な生活なのです。これを見てください、炎はもうドアの外まできていてこちらからは逃げられないということがわかります。労働者階級は、当時のパリの、あの7層8層の建物の一番上の天井裏の部屋に住んでいました。消防車もない時代ですから、飛び下りることもできませんでした。彼らは火事に遭えば確実に焼け死んでしまうような貧しい暮らしをしていたわけです。そのように、労働者階級がいかに悲惨な生活をしているかを悲劇的な場面の中に落とし込んで、メロドラマチックに見せるということがここで行われているわけです。

クールベ

 次に、右側は失われてしまった絵ですが、クールベが描いた≪石割り≫という絵です。これが当時スキャンダルになったのは、石を割っている行為がどうして絵として描かれるのか、汚い労働服を着た男達が働いているだけの絵は見ていてもちっとも美しくも楽しくもないではないか。いやそれだけでなく、労働者が槌を振るって何かを壊すというのは反乱のイメージではないか。下層階級が暴力的な反乱をしていくというイメージと重なって、労働者階級の反乱を助長することに画家自身も共鳴しているのか。まあそんな風に取られるわけです。19世紀の半ばの印象派が出てくる10年15年位の前の画壇では、まだ、こういうものがサロンの中に現れても、そういう批判が出るような時代でした。

戸外で描くこと

左 コロー《モルトフォンテーヌの思い出》1864年
右 戸外製作をするコロー

 次にプレネール、つまり戸外で描くという問題をちょっと確認しておきます。右が屋外でキャンバスに向こうコローです。左側はコローの代表作の1点である≪モルトフォンテーヌの思い出≫という絵です。コローは非常に長生きした画家で、印象派が出てくる直前の70年代の頭まで生きていたんですが、50年代ぐらいにはだいたい画風を確立しています。コローはこうやって屋外で習作を描くんですが、彼が描いている絵の多くは、この≪モルトフォンテーヌの思い出≫で使われた手法と同じです。

 それはスーヴニール=思い出というタイトルが示すように、自分の頭の中にある光景なのです。いつなのかとも、どこなのかともつかないような世界です。そこには、たしかに光は満ち溢れていますが、夢の中みたいに全体が銀色に霞んでいる感じです。これがコローのスタイルの代表的なものですが、そこにあるのは現実の世界を描くとか、光によって常に移り変わる今の状況というのとは違うわけです。つまりコローは屋外で描くことから水の反射だとか光の靄のかかった様子だとかを繊細に捉えてに描くようにはなりますけれども、まだ印象派的な感覚までいっていません。

バルビゾン派など

右 ルソー《リラダンの森》1849年
 50年代ぐらいには、ルソーといういわゆるバルビゾン派の画家がいました。右側の絵は、フォンテーヌブローの森にいって屋外制作をしたものです。この絵では太陽が当たって明るいところと、森の陰になっているところの対比に関心があるということがよく分かります。こういう絵がだんだん風景画の中で出てきて、屋外で物を描くということ自体がいわば一つのスタイルになってきます。その中から光の効果に気づく画家が出始めました。印象派の一部はここから出てきているわけです。

左 ランシエ《ピエールフォンの城館》1868年
右 ブルトン《ブルターニュの少女》1872年

 次は当時サロンに出ていた風景画や風俗画と言われるものがどういうものかということをお見せしようと思って選んできたものです。左側がランシェという画家が描いた≪ピエールフォンの城館≫という1868年の絵です。描き方は印象派とはぜんぜん違って、むしろフォンテーヌブロー派みたいな感じですが、これは壊されていたお城が再建されてすぐのもので、要するに、ここではお城という歴史的な建造物を描いているわけです。絵はがきと同じように、特殊な対象が絵になっているわけで、都会でもない、田舎でもない、しかし歴史的建造物みたいなものが絵になったということです。

 こちらがジュール・ブルトンという画家が描いた≪ブルターニュの少女≫です。ブルターニュというのはフランスの北西部で、イギリスに近いところですが、カトリックの信仰が強く残っていて、独特の髪飾りだとか衣裳だとかが残っているところです。悪くいえば当時のフランスのなかでも後れている田舎ですが、そこへ画家が行ってその風俗を描いたものです。珍しい昔ながらの素朴な農民の姿だから絵になるわけですね。こういう間隔の中では、都会だとか今だとかを描くのは、やはりずいぶん新しい視点なわけです。

ブーダン

左 ブーダン《トルーヴィルの浜》1865年頃
右 ブーダンのスケッチ

 ブーダンという画家はトルーヴィルという北フランスの海水浴場で海水浴客の様子を描きました。ブーダンも例のプレネールといって屋外での制作をやるのです。こちら側は 彼のスケッチ帳ですが、こういう形で水彩でスケッチを描きとめるわけです。ペンでサッサッと描いて色をポッポッポッと付けて、ほんとに数分で画家達は描くと思いますが、屋外でできるのはそこまでですね。左の横が1メートル近くあるような絵は、このスケッチを基にして、またアトリエで描いていきます。

 屋外の経験を基にしていますから、雲に微妙に当たる空の光の様子、あるいは同じ海面でも光が強く当たって白くなっている様子など、非常に的確に捉えてます。面白いのはこの海水浴客です。当時の上流階級の海水浴は服を着たままで、浜辺でこうやってお散歩をするみたいな感じです。

 皆さんも知っておられるルキノ・ヴィスコンティという監督の映画作品に、トーマス・マン原作の『ヴェニスに死す』というのがあります。この映画では世紀末のヴェネツィアの海水浴場を舞台にしていて、もちろん子どもは水着で出てきますが、大人たちは着衣で、特に女性はヴェールをかけて、日傘をさして浜辺にただ座っているという感じでした。

 海水浴はある意味では一つの健康法であったので、バカンスにそういうところへいって遊べる階級を描き、しかもその土地でこういうものを売るというのは、おそらくそういうものをお土産として「いかがですか」というような売り方をしているわけでしょう。

 ブーダンは初期のモネに影響を与えます。モネはブーダンの絵を見て最初は「なんだこの絵は?」と思ったらしいんですが、そのうち本人と知り合って教えを受けました。そういう頃に描かれたものが次の2点です。

右 モネ《オンフルールのセーヌ河口》1865年、習作と完成作
 これはオンフルールというノルマンディー地方のセーヌの河口付近を描いてるんですが、この2点を見比べてください。灯台があって同じ場所を描いてることが分かります。もっとよく見ると、同じ雲、同じ船が描かれてるのが分かります。

 これはどういうことかというと、モネがおそらく屋外でスケッチ的に描いたのがこちらで、つまり本物の情景です。もう一つはこれをサロンに出すためにこれだけの演出をしたということなんです。だから手前に大きな傾いでいるボートを配し、海も少し波を荒立てて、こういう絵にしたのです。当時の「風景画として絵にするのはどういうことか」というのが、この2点を比べるとすごくよく分かります。しかし、モネはそれをやりながらも、だんだんそうでないものにも意識が行くわけです。そして、よりスケッチ的な絵を模索しはじめます。

1860年代のモネ

左 モネ《庭の女達》1866-67年
右 モネ 部分

 1860年代のモネは、この屋外という風景画の問題と、人物という二つの問題をくっつけようとします。後に自分の妻になるカミーユという女性をモデルにして、違う衣裳を着せて、庭で楽しそうにしている少女達の絵を描いています。これは縦が2メートル以上もある背の高い絵なんですが、影を黒くしないのです。それから、アップを見ていただくと、日傘があって木漏れ日があります。木漏れ日も、この後ろの木も、一つ一つの筆触分割になっていることが分かります。この顔を見ると、変なところに薄紫みたいな水色みたいな色が使われていますが、これはこの白い衣裳から反射した光です。それまでの肖像画家や人物画家はそういうことを絶対しません。そんなことしたら顔が斑になるからですが、これは顔が斑なのではなくて、光というものをそういうふうに捉えるという一つの新しいやり方なのです。

左 『ル・モニトゥール・ド・ラ・モード』1863年
 これは当時のファッション・プレートです。今でいうと、いわゆるファッション雑誌のグラビアです。当時は写真印刷がないですから、版画として描いていますが、ドレスの柄が大変よく似ています。

 モネがやりたいことは、こういうものとすごく近かったのです。ファッション・プレートというのは、今パリではやっている生活や衣裳を地方の人々や、あるいはパリのこれから買いたいと思う人達に、いかにすてきに見せて買わせるかということが重要なわけです。モネはそういう衣裳を着て公園で話をしている二人と同じものをここに描いているわけです。もちろんモネが描いているのはファッション・プレートではありませんから、衣裳を売りたいわけではありません。そうでなくて、今流行の遊び、今流行の生活とはこんな感じというものが描きたいわけです。また、当時のモネは売れていませんから、貧乏で、こんなに衣裳を揃えられるはずがないので、それでこういうファッション・プレートを使って描いたんだろうとも言われています。

1860年代後半のモネとルノワール

左 モネ《ラ・グルヌイエール》1869年 サロン出品作のための粗描
右 ルノワール《ラ・グルヌイエール》1869年

 1860年代の後半、モネとルノワールは二人でパリ近郊のラ・グリヌイエールというところへ行って風景画を何点か描きました。ここでは向こうがルノワール、こちらがモネの作品です。

 グルヌイエールというのは蛙がいるような水たまりという意味ですが、セーヌが大きく湾曲して水の流れがゆっくりになっているところに作られた水上レストランなのです。そこは日曜日になるとパリの人々が遊びに行く場所です。そこで2人は同じ場所を描いているのです。同じ場所なので、描き方が同じ筆触分割でもスタイルの差があることがよくわかります。特にルノワールはここにいる人物達に、それからモネはこの水面にすごく興味があるということも分かります。2人の資質みたいなものがここではよく出ています。

 ただし、このいかにも印象派の絵のように見える2点は、当時の二人にとっては習作だったんです。つまり、これはプレネールとして屋外で描いたスケッチで、これをもとにあとでアトリエで完成作を描きサロンに出そうとしたのですが、結局その絵は描かれませんでした。印象派の技法とかやり方がいかに習作から出ているかよく分かります。

右 デプレ《パリ郊外の日曜日》1879年
 右側は当時の雑誌に出ているラ・グルヌイエールの絵です。これは「パリ郊外の日曜日」という題名の記事の挿絵です。ここは日曜日にパリの人々がレジャーに行く近郊の遊び場で、今の東京の感覚でいえばディズニーランドだとか、あるいはお台場のような感じだと思ってください。彼らはそういう流行の遊び場でそこの風俗を描くことにこだわるわけです。

左 モネ《アルジャントゥイユのヨットレース》1872年
右  ドービニー《ボンニエール近くの村》1861年

 これはセーヌのヨットレースを描いた72年の絵ですが、ここでは明らかに筆触分割が見えます。しかし、それが何を壊しているかということも明確なのです。物の質感、奥行きなどがほとんど分からなくなります。たしかにこれは水面に映っている像に見えます。ヨットに乗っている人もまだ分かります。しかし、こちら側は何人いるかも分からないし、この家は2階建てなのか3階建てなのかもよく分かりません。この木がこの2軒の家より手前にあるのか、奥にあるのかもはっきりしません。ここになんかチョンチョンとあるのは、もしかすると人が歩いて来ているのかしらとわかるぐらいです。

 こちら側は50年代に描かれたドービニーという画家の描いた同じような水辺の絵ですが、比べて見ると、どれだけ空間や質感が、筆触分割によって壊れるかがすごくよく分かると同時に、どれだけ物の色が変わっているかもすごくよく分かると思うのです。

ブーグロー

左 ブーグロー《バッカスの幼年時代》1883年
右 同エスキース

 この絵は印象派と同じ時期にジェロームと一緒に国立美術学校の教師にだったブーブローという画家の絵です。左側が完成作で、右側はエスキースと言われる、その全体構図を示す油絵によるスケッチです。左側は横が2メートルぐらいある大きな絵ですが、右側は横が何10センチという小さなものです。習作で使われている筆遣いは大変粗いことがよく分かります。衣の質感などは追求されていませんし、立体感もそんなに細かくなく、少し影が付いているぐらいです。つまり、全体の明るさだとか、色の様子を見るのに、こういうものを描くということがされていました。

 だから、印象派の絵画は素早く描かれている分、エスキースと同じように未完成の作品、あるいは習作にすぎないというのは当たっているわけです。当時の人々から見れば完全にそう見えたはずです。それと印象派が大きく違うとすれば、その違いはどこにあるのでしょうか。こういった絵は、完成作のための準備なので、各筆触はこういう形でこういう色が置かれるということを示すためにそこに置かれているのでしかないんですが、印象派のタッチは、それ自体がもっと生き生きとしていて、光の様子、波の動きといったものとつながっているということです。そういう点では、エスキースと似ていながら、それを乗り越え、筆遣いそのものに意味を持たせたところに特徴があるといえるわけです。

色彩理論家シュヴルール

右 タピスリー
右 補色の原理
 印象派の問題を扱うときには、しばしば筆触分割と色彩理論ということが問題になります。19世紀の前半にシュヴルールという色彩理論家が現れます。この人はもともと化学者でして、ゴブラン織というフランスでは有名な綴れ織の研究者だったのです。ゴブラン織は染物ではなく、染められた糸を織って図柄を作るものなのです。これはゴブラン織のアップですが、それぞれの糸に色が付いてるのであって、染めではありません。その工場からなぜ依頼を受けたかというと、外国の綴れ織と比べてフランスのものは発色が悪いと言われることがあったからです。しかし、悪いと言われても、糸の色を見比べるとちっとも劣っていないのです。どうして発色が悪いと言われるのかということで研究を頼まれたのです。

 シュヴルールが研究した結果分かったことは、色というのはその色だけでわれわれにある印象を与えるのではなくて、隣にどういう色が置かれるかということが非常に強く影響するということでした。だから、組み合わせまできちっと考えないと、織り方によっては発色が悪くなるのです。

補色

 その中で特に出てきたのは補色と言われるものです。3原色の赤と青と黄色を混ぜると紫やオレンジやグリーンが生じます。また、混ぜると色は暗くなるのが絵具の色の特色です。この青に対して他の二つの要素、つまり黄色と赤色の要素を両方持っているオレンジ、あるいは黄色に対して他の二つの色を共通に持っている紫、赤に対しては緑、こういった関係を補色と言うのです。

 こちら側にその対比がありますが、これが色彩の中で最も強くお互いに響き合う、あるいは反発し合うといってもいい色なのです。これが補色関係についての研究の成果です。

左 ドラクロワ《レベッカの略奪》1858年
 ドラクロワは19世紀の前半の画家ですが、この補色のことをシュヴルールを通じて知り、自分の絵のなかでそれを考えて描いています。たとえば青い空に対してオレンジ色がかった城壁という組み合わせ、赤い服に対して緑の帽子、それから紫色の鎧に対して黄色いマントなど、補色の関係をすごく意識して描いているのです。もともと色は画家が選べるわけですから。それによってドラクロワは当代一の色彩画家として認められるようになります。

左 モネ《セーヌの日没》1874年
 印象派の画家もこういうことを当然意識しています。たとえばこれはモネが70年代に描いたセーヌの夕べの絵ですが、ここではさっき言った補色の関係からいえば、黄色と紫という対比、あるいは赤と緑という対比が効果的に使われている感があります。夕暮れで影ができるといっても灰色や黒は一切使っていません。そういう色を使うことによって絵が暗くなることを避けているのです。影というのは光が当たらない状態ではありますが、「影にだって色はあるのだ」というのが印象派の考え方の一つなのです。したがって影は紫色なんかで描いても、黒く塗ったりはしません。明るさや画面全体が光を放つような効果を彼らはすごく意識しています。

筆触分割と補色

左 ピサロ《パレットの上の風景画》1878年頃 
右 加法混色と減法混色

 右側を見てください。絵具の色は混ぜるとだんだん濁って暗くなるわけですが、ここにセロハンを貼ったライトが当たっていると仮定します。赤というかオレンジ色のライトと紫色のライトと緑色のライトと、三つに分かれて並行しているものを一つに重ねると3倍の明るさになることが分かりますね。つまり、実際の光は色を混ぜれば混ぜるほど明るくなります。絵具の色と実際の物の色は違うわけです。だから絵具も混ぜずに併置して置けばより一層明るくなるのです。ですから緑を見せるのに、黄色と青を併置すれば緑色がかって見えると考えて筆触分割をやったと、ときどき言われますけれども、これはうそです。

 どうしてうそかというと、この筆触を見てください。これは大きすぎて、とても色は混じらないのです。せめて混じるとすれば、これを点で描かなければならないでしょう。スーラなどはまさしくそのことを考えて点描で描きました。しかし、印象派はそこまでは行きません。彼らはそこまで理論を突き詰めて描いてはいないのです。彼らは補色のことはもちろん知っていましたが、もっと経験的に行いました。この色彩の混合に関する部分は実際に自分の絵の中に採り入れていないのです。

 左側の絵はピサロが描いたものですが、変なところに穴があります。これは何かというと、画家が絵具を溶くパレットなんです。パレットに色を6つだけ置きますが、その中に黒はありません。この6色だけを用いて、混ぜずに絵を描いているわけです。まさしくこれだけの色しか使わずに、絵具を混ぜないでこれだけの絵が描けるというのをやって見せるわけです。

筆触分割と質感

左 モネ《睡蓮》1903年(逆)
右 同(正)

 印象派の筆触分割を考える上で、たとえばこの1890年代のモネの絵を見てください。一見して「あれっ?」と思った方がいると思いますが、同じ絵を左右に上下逆さにして出しています。なぜこんなことをわざわざやったかというと、どちらが正しいかということです。雲だけ見ていると、なんとなくこちらが正しく見えるんですけど、当然こちらが逆さです。これは水面に映った雲で、ここに岸があるわけです。だから岸の上に生えている草がこう映って、上から垂れている柳がこう映って、空の雲がここにあり、これらは池の上の睡蓮です。よく見れば質感が少し異なって描かれていることが分かるのですけれども、一瞬ではそれは分からないのです。

 ここから筆触分割が物の質感だとか奥行きだとかを排除していく方向にあることがすごくよく分かります。だから、絵具の塊が持っている色そのもの、絵具のねっとりした質感の面白さ、美しさみたいなものに目を向けることになっていきます。もちろん、これはあくまで抽象画ではなく、睡蓮の池を描いたものとしてあるわけです。しかし、印象派がそういうふうに向かっていくということは、たしかに分かるわけです。

左 モネ《柳》1920-22年
右 ポロック《No. 30秋のリズム》1850年

 左は晩年のモネが描いたもので、モネは晩年白内障になりますから、その影響もあるとか言いますが、それはモネの目を通してのことであり、確認はできません。彼は白内障になって物が見えにくくなっていたことはたしかです。しかし、だからといって、庭の柳がこんな色に見えるはずはないと思います。これはモネがどんどん自分の印象という手法、まさしく主観的に物を捉えるということを推し進めていった結果出てくるものです。

ルノアールと筆触分割

 これはもう抽象に近づいています。画面全体に絵具の筆遣いが均等にあるようなものになっています。だから、右の1950年代のアメリカの抽象表現主義のポロックの画面などと比べても、同じような効果を持っていることは確かです。

 しかし、印象派の画家がすべてこの筆触分割を生涯やり続けたわけではありません。既にドガなどは筆触分割そのものをほとんどやっていないと言いました。

左 ルノワール《日の当たる裸婦》1875-76年
右 ルノワール《水浴》1887年

 これはルノワールが1870年代に描いた裸婦で、ここでは筆触分割を使っています。この絵では木漏れ日がここに落ちていて、影の部分が紫です。それを当時の批評家はいやがらせで、「死斑が浮いてるみたいで気持ち悪い」と言いました。

 悪口を言われた絵ですが、筆触分割なので非常に画面は明るいし、光がパーッと満ち溢れている感じがします。ところが顔を見ると、顔も筆触分割ですから、当然目の線、鼻の線、口の線がぼやけてしまうわけです。人物画を描きたいルノワールにとって、このことはすごく大きな問題になっていて、70年代の後半からそれに苦しみます。

 80年代になると、右のように、人物に対しては輪郭線を極めて明確に出して陰影をつける、いわばアカデミックな方法に戻ってしまいます。しかし、風景を見ると、筆触分割そのままというか、それをもっと極端なかたちで推し進めているのです。こういうようなことで、筆触分割については、印象派でもルノワール一つとってもたいへん複雑な問題を持っているわけです。

カイユボット、ドガ

左 カイユボット《鉋掛け》1875年
右 ドガ《オーケストラ席の楽士達》1870年代

 印象派のグループの中に、カイユボットという、知名度はありませんが、すごく面白い画家がいました。彼は自分のアパルトマンの床を削る職人の姿などを描いているんですが、まったく筆触分割は使っていません。彼はむしろアカデミックな技法を使っています。労働者が働いていますが、その苦しみというより、ここを見たらわかるように、ワインを楽しみながら仕事をしているわけで悲惨ではない。このカイユボットという人は印象派の画家の中ではお金を持っている方で、仲間の絵を買い取ってやったりもする人だったそうです。ここでは労働を主題にしているというよりも、改装されているアパルトマンが主題みたいなものです。そういう点では現代の生活を描いてるわけです。

 次は有名なドガの絵ですが、彼はクローズアップの手法を使い、舞台が後ろにあります。彼には多少筆触分割的な粗描きがありますが、手前の方を見ると、そんなものはありません。いわゆる印象派と言われている画家が全部筆触分割をやっているわけではないということです。

左 モネ《アルジャントゥイユの鉄道橋》1874年
右 フランセ《オーグロンヌの谷、プロンビエール(ヴォージュ権県)近郊》1889年

 モネは1870年代にはアルジャントゥイユという所に住んでいて、汽車がパリからセーヌ川に架かっている鉄橋を通るのをよく描いたりしています。こちら側は比較的伝統的な風景画家が描いた鉄道の絵です。こういう絵を印象派のグループとかその周辺にいた人たちではなく、当時のサロンに絵を出す画家達はいつ頃描き始めたかというと、印象派より20年近くも後なんです。現代性への興味が浸透するのにそのくらい時間がかかったということなんだと思います。鉄道なんていうものを絵の中に入れることは、風景画家にとっては自然の美を損なうことだったのです。

バティニョールのアトリエ

左 ファンタン=ラトゥール《バティニョルのアトリエ》1870年
右 マネ《笛吹き》1866年

 最後にちょっと、来週へのつなぎとして2点の絵をお見せします。左側は≪バティニョールのアトリエ≫という絵ですが、印象派の画家が描いたものではありません。中央にいるのがマネです。マネとその仲間達というイメージで、ファンタン・ラトゥールという画家が描いた肖像画です。ファンタン・ラトゥールは、ランボーとかヴェルレーヌなんかの集団肖像画を描いていることで有名な画家ですが、この≪バティニョールのアトリエ≫ではマネが絵を描いています。その周りで見ている彼の仲間達の中でひときわ背が高いのがバジールといって、最初は印象派のグループに入っていた画家です。彼は70年に普仏戦争に参加して戦死してしまったので、印象派の画家としては今日知名度はそんなに高くありませんが、初期の印象派にとっては非常に重要な人物でした。

 これがモネで、これがルノワールのはずです。つまり、若い彼らがマネという尊敬する先輩のもとへ集まっているという設定です。「設定で」というのは、実際にマネのアトリエに彼らが集まったという事実はないのです。彼らはせいぜいそばのカフェで話しいてたぐらいです。これは技法からいっても立派なもので、サロンに入って特別賞みたいなものをもらっていると思います。

 ここちらはマネが1860年代に描いていた絵で、昔から音楽室によく掛かっている皆さんご存知の≪笛を吹く少年≫です。マネをモデルにして友人のファンタン・ラトゥールが描いたものと比べて、人物の描き方の差の大きさがよく分かります。どうしてこういうように描くかというような問題は、当然マネのときにお話をするわけですので、今日はこれぐらいにしたいと思います。


講師略歴

喜多崎 親

1960年生まれ。
早稲田大学大学院博士課程中退。
国立西洋美術館主任研究官をへて、2001年4月から一橋大学に移る。
現在、大学院言語社会研究科教授。
専攻は19世紀フランス美術史。特にアカデミズム、象徴主義などの
研究が中心だが、モネやルノワールに関する論文もある。
近刊に『岩波西洋美術用語辞典』。