ドガ ― 作られたまなざし
講師 一橋大学大学院言語社会研究科 教授 喜多崎 親 平成17年2月15日 於:如水会館 【無断転記転載を禁ず】 社団法人 如 水 会 責任編集
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◆内容目次
本日の講義には「作られたまなざし」という題名を付けましたが、お話全体は「ドガの踊子」を中心としています。ドガの踊子というと、どの印象派の画集にも、どの印象派のカレンダーにも、大抵1点や2点入っています。したがって、誰でもドガの踊子の絵を見たことがあるはずで、「ドガといえば踊子」ということになっています。
踊子を描いたドガの作品は、普通に作品を見る限りでは、特に不自然なものを感じません。「舞台を描いているな」あるいは「練習している踊子の姿を描いているな」と思います。ところが、実際にはそういう場で見て描いたものではないのです。今日は、いかにそれらしく作るか、作っているうちにそれがどういうものになっていくか、というお話をしようと思います。
レジュメをご覧ください。最初にドガの踊子が持っている特色を簡単に並べてみました。踊子というのは、バレエの演目でチュチュを着てトゥーシューズを履いて踊っている女性を描いているわけですが、ドガの踊子にはわれわれがよく知っている『白鳥の湖』とか『ジゼル』とか、特定の舞台や演目と分かるものがほとんどないというか、まったくないといってもいいのです。最初期のものにひとつくらい、どの演目だと明確に分かるものがあるぐらいです。
もう一つは、上演されている舞台そのものより練習風景が多いのです。それはレッスンだったり舞台上でのリハーサルだったりします。これはどういうことなのかということです。
もう一つは視点が特殊なものが多いということです。普通、舞台は正面にあって、観客席はそれとほぼ同じ高さのところにあり、そこから、あるいは少し上から見るものです。しかし、ドガの場合は、うんと極端なところから見下ろしたり、斜めから舞台を見ていたり、真横、つまり舞台の袖から見ていたりというものがすごく多いのです。
そしてこれが面白いところですが、通常ドガの踊子を見て、なんとなく「ああきれいだな」、「可愛いな」と思っていらっしゃるのではないかと思うのですが、よく見ると可愛くないのです。これは、今日スライドを見るときに確認していただきたいと思います。
若い女性が舞台に立っている姿を描きながら可愛く描かないということと同様に、もう一つ意識してやっていることですが、同じポーズが頻出するということです。確かにバレエですから、ある一定の型というものはあります。しかし、ドガの絵には、型が同じということではなく、その型を捉える視点、つまりどの方向から見ているかが同じものがいくつもの作品に出てくるということがあります。
こういった特色について、しばしば以下のような説明がなされます。それはどういうことかというと、ドガは、チュチュを着て、足を見せて、トゥーシューズを履き、当時の感覚でいえばかなり肉体がさらけ出されている若い女性たちを描いているが、それは決して女性達を性的な意味で描いているのではない。むしろ、彼は人間の体が作る形に興味があったのだと。これはたしかに事実だとは思います。事実だとは思うんですが、ドガがなぜそういうものを作り、それが同時代にどういうインパクトを持っているのかについては、どうもそれだけでは収まらない部分があるのではないかと思います。今日はそのあたりのことを確認していきたいと思います。
さて、それではドガが描く踊子達は一体どこで踊っているのかということですが、それは、オペラ座です。「オペラ座と踊子」というのはそういう意味です。パリに行くと、たいていの方はパリのど真ん中のオペラ座大通りに行きます。日本人観光客がバスで乗り付けて、その両脇にある免税店で買物をするので、別名「日本人大通り」とまで言われています。
その真正面にオペラ座という19世紀の建物があります。このオペラ座がどうしてパリのど真ん中の広い道の突き当たりにあるのかを考えると、それはオペラ座が19世紀の中頃の大都会にとってどういうものであったかということとすごく関係しているわけです。
オペラ座は単にオペラを見るための劇場ではなかったのです。あれは社交場であり、そして首都の顔の一つでした。当時は今みたいにいろいろな娯楽があった時代ではありません。19世紀の半ばのパリというと皇帝ナポレオン3世の時代です。君主の下には、ヨーロッパの違う国から大統領なり首相なりが来ますが、そういった人たちをもてなすときにオペラ座に連れていくのです。ナポレオン3世は自分のアパルトマンのあるルーヴルの宮殿からダイレクトに馬車で行くわけで、そういう場所に壮麗なオペラ座があることがたいへん重要だったわけです。
皆さんも実際にあるいはテレビや映画で西洋のオペラ劇場をご覧になったことがあると思いますが、日本の劇場にはないような観客席があります。つまり、平土間だけではなくて、両脇に丸く桟敷席が垂直に立ち上がっています。この桟敷は予約制になっていて、そこを定期予約していることが上流階級にとっての一つのステイタスになっていました。季節ごとにそこへ行って、舞台を見るだけでなく、舞台を口実にして、そこへ集まってくる人々同士が会う場としてオペラ座という空間があったわけです。桟敷席を定期予約しているような金持ちの上流階級は、それだけで舞台裏の楽屋だとか舞台の袖だとかへ入っていく特権を持つこともできました。
ドガの特殊な視点、つまり桟敷席や舞台の袖から見ているとか、あるいはレッスンとかリハーサルという裏舞台を見ているという感覚は、このことと結びついています。ドガは非常に金持ちの家の出身だったのです。イタリアのある一族と関係のある銀行家の家柄でした。ドガの時代にはかなり没落していきますが、若い頃のドガは自分で働かなきゃいけないという意識はほとんどなく、親を説得して画家になると言えば親のお金でイタリアに3年位留学できるような身分だったわけです。だから彼は没落したとはいえ、そういった上流階級の価値観、ステイタスみたいなものに生涯すごくこだわっているところがあります。
ドガが踊子の世界を描いてる絵は、もともとそういう視点を持っているのです。これは必ずしもドガが定期予約をした桟敷を持っていたということでもないし、その特権を持っていたということでもありません。ドガの手紙の中には、オペラ座にいる知り合いに頼んで「今度リハーサルの光景を見学させてくれ」とわざわざ頼んだりしているものもあります。つまり、彼は初期には金持ちの銀行家の息子でしたが、だんだんそれがうまくいかなくなったのです。弟にいたっては、アメリカのニューオリンズで事業に失敗し、ドガはそれを助けるためにずいぶんお金を使ったりして困った時期もありました。つまり上流階級ではなくなってきても、そのステイタスに対する感覚はすごくあったのです。
さて、ドガが描いているオペラ座はどのオペラ座かということですが、今われわれがよく知っているパリのオペラ座は、最近では建築家ガルニエの名前をとってパレ(宮殿)ガルニエという名前になってしまいました。どうしてそうなったかというと、ミッテランの時代にバスティーユに新しいオペラ座が出来て、オペラは主にそちらで上演されるようになり、この19世紀のオペラ座の方はバレエが主体の劇場になったからです。
このガルニエ設計のオペラ座がこけら落としをしたのは1875年です。ドガがオペラ座の踊子達を描きはじめるのは70年代の始めなので、ガルニエ設計のオペラ座の前のオペラ座も想定されているのです。それはル・ペルティエ街という所にありましたが、これは1873年に火事で燃えてしまうのです。ガルニエは燃えたあとに建てたのではありません。燃える前に既にナポレオン3世が首都の顔として新しいオペラ座を造ろうとしていたので、一時は並行して二つのオペラ座があったのです。
なぜここでそういうことをくどくど言うかというと、ル・ペルティエ街のオペラ座はマネの話のときに出したオペラ座の仮面舞踏会の舞台なんですね。しかし、ドガが描いているのは、時代的にル・ペルティエ街もガルニエの建物になってからもあるのですが、どちらかということはほとんど意味がないのです。なぜ意味がないかというと、さっき特定の上演だとか舞台を描いていないと言いましたけど、実際どこの劇場であるかを再現したり描いたりするということではなくて、オペラの中のバレエの舞台という設定が必要なだけなのです。ですから、いつ、どこで描いたかなどということは問題にならないのです。逆に言えば、ル・ペルティエ街のときにもリハーサルを見たでしょうし、ガルニエになってからも見たでしょう。しかし、彼はそれぞれの劇場で描いたデッサンみたいなものを組み合わせて舞台の絵として作るということをやっているのです。このことは「作られる瞬間性」のところでまた詳しくお話します。
そこで、オペラ座という歌劇の殿堂においてバレエはどういうものなのかというのが次の問題です。当時バレエはオペラに欠かせない要素と見なされていました。たとえば有名な話なんですが、ある作曲家がオペラの中でバレエを使わない演出を考えると、それだけで定期予約者たち、つまり上流階級のオペラの常連の反対にあって上演を潰されることがありました。ワーグナーなんかはそうなのです。それぐらいオペラの中でバレエは欠かせない要素であったのです。
しかし、やはりオペラそのものが主でバレエは付属物ですから、一段格下に見られていました。今日では、皆さんのお宅にもクラシック・バレエを習っているお嬢さんやお孫さんがいらっしゃるかもしれませんが、現代日本ではピアノと並んでかなり高級な芸術の習い事という感覚があると思います。しかし19世紀中頃は必ずしもそうではなかったのです。
バレエは17世紀のルイ14世の頃、宮廷の舞踏として始まるわけですが、それがある意味で形骸化していったのがこの19世紀の半ばなのです。したがって「バレリーナになることイコール芸術家になること」ではありませんでした。中には有名な舞踏家も出ますが、多くの場合は労働者階級の女性が舞踏を習って舞台に立つのがバレリーナであると考えられていました。舞台で芸術家として名を成すことより、それによってパトロンを持って階級を上がっていく、そしてブルジョアジーの生活に入っていくというパターンができているのです。ですから、当時の小説にバレリーナになる女性を指す「門番の娘」という表現がありますが、これもバレリーナを目指してる女性達の階級自体が上流階級ではないことを示しています。
あとでお見せするドガの絵の中には、しばしばレッスンしているバレリーナの横にその母親らしき女性が一緒に描かれています。これは今日でいうステージ・ママみたいなものですが、彼女達はなんで付いてきているかというと、「悪い虫がつかないように」ということなんです。当時もオペラの舞台や楽屋には新聞や雑誌の記者などが出入りしています。新聞や雑誌の記者は若くて流行に敏感ですが、金持ちではありません。そういう虫がついてはいいパトロンが得られない、だから見張っているわけです。
このようにバレエとオペラと踊子には、階級とか、男性によって保護される若い女性という性差的な価値観とかいうものが絡んでいるわけで、それはドガの作品と無関係というわけには絶対にいかないのです。それらを前提として、ドガは作品を作るわけです。それがドガの作品の中にどう表れてくるのか。あるいはドガの作品はそういうものをどう越えていくのかを考えることができるような気がします。
それでは実際にドガはどういうふうに踊子達やバレエの場面を描いているのか、それが「作られる瞬間性」という問題です。
先ほども視点が特殊であるという話をしましたが、ドガの構図、つまり全体の画面の中にどう人物を置くか、どの視点から見るかという点については、かなり特色があります。しばしば見られるのは、画面の端で人物などを切ってしまいます。たとえば画面の中に手しか見えないとか、足の先しか入っていない人物がいたりということがよくあります。
もう一つは、一般的に画面は、一番手前に前景と言われるクローズアップされたものがあり、それから半ばに中景があり、それからだんだん遠くなる遠景があるという、大きく分けて3段階の空間を持つのが普通です。しかし、ドガは中景を省いて、近景と遠景をいきなり対比させるような構図を好んで使っています。なぜこういうものを彼が好んだかについては、少なくとも結果として、運動とか変化、つまりそのときそのとき演じられている演目だとか劇場の臨場感だとか、そういうものを表現するための工夫だと考えられます。
たとえば、今皆さんがお座りになって、私なりこのスライドなりをご覧になろうというとき、前にいる人の頭が邪魔だと思うことがあると思います。そして、こう動いたりしますが、まさしくそういう瞬間瞬間にあるもの、その場の雰囲気みたいなものを絵の中に組み入れてしまおうとしているのです。つまり、皆さんが見ているのは、この舞台の先だけではなくて、舞台の手前にあるものも含まれているわけで、そういう場をいかに生かすかについて、おそらくドガは考えているのです。
こういう構図の特色については、しばしば写真だとかあるいは日本の浮世絵版画の影響が指摘されています。これがいかに似ているかについては、あとでスライドで実際に比較しますけど、ただ一つ問題があります。たしかに写真は19世紀の半ばにフランスで実用化され、ドガも自ら写真機を持って撮影しています。また、ドガは浮世絵版画もけっこう好きでしたし、印象派の仲間達は皆かなり浮世絵版画を収集しています。
そういう点からいうと、こういったものを知っていたことはたしかですが、しかし、知っていたものと絵が似ているということと、それから影響を受けているということとは、必ずしも同じではないと思います。自分達がやりたいと思っていることや興味を持っていることと同じようなものが日本にあるから興味を持ったのかもしれません。日本のものを見て初めて「こういうことができるのか」「こういうやり方があるのか」といって真似たのかもしれません。この区別は非常に難しいわけです。かつては写真や浮世絵版画の影響が強く認められていましたが、近年では、「必ずしもそうではないのではないか」と言われているのです。それを次に確認します。
1839年にダゲールという人物が写真を実用化しています。実用化という意味は、それ以前から写真技術のさまざまな要素、たとえば光を当てることによって像が出てくるとかいうことは見つかっていたのですが、これを初めてきちっと写真というものに定着させて特許を取ったのがダゲールであるということです。それは、彼の名前をとってダゲレオタイプという、よく銀板写真と言われている写真です。このあと、19世紀の半ばにさまざまな写真技術が工夫されていきます。
絵画に対して写真がどういう影響を与えたかについては、印象派関係では大きく分けて三つ指摘されていることがありました。
一つはハレーションです。写真を撮る方はお分かりになると思いますが、ハレーションは光が強く当たっていると、その部分が実際に目でわれわれが見る物より明暗の対比が強くなり、特に光が当たっている所が白く光ってしまう、あるいはボケてしまって写真として見ても見苦しくなるという現象です。こういうものが、明暗の強調だとか、中間のトーン、つまりだんだん色が移り変わるのでなく、すごく明るいところと暗いところの対比が強いというような意味で、マネの作品なんかと似ていると言われることがありました。
それからボケの問題で、今日では手振れのボケが多いのですが、当時の写真ではまだ技術が未発達なので、画像が定着するまで時間が掛かり、開放にしてそのまましばらく開けておかないと写らないのです。逆に、その間にちょっとでも動くとボケてしまうのです。そして形態がぼやっと影みたいになって曖昧化するのですが、これはモネの作品と似ているとよく言われました。
そして今日のテーマになっているドガですが、これはいわゆるスナップ・ショットと似ていると言われているのです。スナップ・ショットはカメラを構えてバシャバシャ撮ることで、ピストルで連続射撃をするというのが言葉のもともとの意味です。カメラを使ってバシャバシャ撮るということは、まさしく瞬間瞬間のものを切り取ることです。これは構図をきちっと決めて撮らずに、動いているものでも何でも撮ってしまうことを意味します。そうすると、偶然そこを通過する物や動いている物などは全部画面の端で切れ、ドガの画面と似たような構図が作られるわけです。それで写真がドガに影響を与えているとかつてはよく言われたのでした。
ところが1980年代ぐらいから、「それは本当にそうなのか」という検証が行われるようになりました。先ず「ドガがそういう構図を作り出している頃、スナップ・ショット的な写真があったのか」ということが疑問視されます。先程も言いましたように、当時はシャッター・スピードが長く掛かるのです。ということは、モネのようなボケる画面を作ることになり、逆にいうと、通過していく物があるとすればぼんやりとボケた形でしか撮られないわけです。したがって、スナップ・ショットを作ろうとしても、画面の端にきちっと人物が通過する姿が切り取られるということはなくて、それはボヤボヤの影になってしまうのではないか。そして、実際にドガがそういった構図を作り始める1870年代の写真では、そうしたスナップ・ショット的なものを作ることは未だできなかったんです。
もっと面白いのは、写真が持っているそういった特性、写真独自と考えられるスナップ・ショット的な構図は、実は絵画が伝統的に持っている遠近法の問題と同じなのではないかということです。これは難しい問題になりますが、ルネサンスに成立した線的遠近法と言われるものも、額なら額の中に、だんだん物が遠くにいくにしたがって小さくなっていく、そして最終的には奥に向かっていく線が全部集中して1点に集まり、仮想の空間を作り、それで遠近感を出す方法なのです。
これはまさしく額の中に3次元の空間を作ることで、額なら額を一つの窓と見て、そこから一定の距離に立って見ているという視点で捉えるものなので、写真のフレームとまったく同じような原理で絵を描いていたのです。したがって、絵の方が先にあって、それと同じ方法に則って後から写真が出てきたのであり、ドガがやったことは絵画の問題として出てきたとも考えられる。こうしてシャッター・スピードのことだけを考えても、ドガがスナップ・ショット的に偶然捉えるのを写真から学んだのではないのではないかと言われるようになりました。
もう一つの問題になっている浮世絵版画の影響は、いわゆるジャポニスムの問題です。先週お話して下さった馬渕先生はジャポニスムの専門家であり、モネとの関連でジャポニスムのことは若干出たと思いますが、ここに簡単に当時の状況をまとめました。ジャポニスムの話を詳しくすると、それだけで何時間も話ができますが、今日はドガに関係する部分だけをお話しします。
ジャポニスムという言葉は、「ジャポン」に「イズム」が付いているわけで、日本に影響を受けた美術活動全般を指しています。日本の影響がヨーロッパで出てくるのは、日本のものがたくさんヨーロッパに入ってからです。ヨーロッパと日本の交流については、江戸時代から出島を通じてオランダと通商があったり、中国を通じて日本の物が入ったりしていますが、これは微々たるものでした。1858年に日本がアメリカやオランダ、続いてロシア、イギリス、フランスとの間に修好通商条約を結び、貿易が始まりました。これが日本の物品が海外に流れてくる大きなきっかけになります。
もう一つは万国博覧会で、これは1850年にロンドンで始まりました。1862年の万国博覧会のロンドン展に日本の物が出始めました。それはオールコックという外交官が集めた東洋美術の個人コレクションです。幕府が瓦解する直前の1867年には、最後の将軍徳川慶喜の弟昭武を代表とする幕府の使節団がパリに派遣され、このときは、ほかに薩摩や土佐なども別個に出品しました。そして1873年になると、いよいよ明治政府がウイーン万国博に正式参加し、本格化します。
こういう文脈の中で日本の物が認知されるようになっていきます。当然こういった物を面白いと思う人達がコレクターとなり、それを売る東洋美術の専門店ができ、個人コレクションが形成されます。ギメとかセルヌッシなどの日本美術のコレクターが現れます。今でもギメの作った美術館はパリにある東洋美術館としてよく知られています。
日本の工芸品や浮世絵は、印象派を始めとする絵画や工芸運動に影響を与え始めます。これがジャポニスムと言われている現象です。ドガもこういった時代に生きていたので、日本の物に興味を持っていたことはたしかです。しかし、ドガの構図に対する浮世絵版画の影響については、やはりさっきの写真と同じように反論が出ています。
どういうことかと言うと、浮世絵版画に見られる大胆な遠近の対比だとか、全体を入れずに端を切ってしまう構図の作り方は、もともとの日本の絵にあったものではないというのです。つまり、浮世絵版画は江戸時代の後半に西洋から遠近法が入ってきてから大きく変わったのです。あとでお見せする広重の『名所江戸百景』の大胆な構図は、この遠近法の理屈をある意味で極端に応用しています。これは、もともと西欧の遠近法的なものから出てきているわけです。
もう一つは、日本の浮世絵版画はたしかに遠近の対比で面白さを出していますが、必ずしもドガのやっているような、運動だとか瞬間だとか心理描写などとは結びついていないという指摘です。
それでは、ドガはどうしてそういうものを作れるのかということになりますが、これはドガの画面を検討していくと分かるのです。ドガは、先程話したように、皆さんが今、前の人の頭越しに前方を見ているのをその場で画面として作っていたわけではないのです。もっと簡単に言うと、前の人の頭なら頭をササッとスケッチとして描くのです。同じように舞台なら舞台をササッとスケッチとして描きます。そういうものをたくさん描きためておいて、あとでそれを合成していたのです。実際の画面としてそこにある物を描くというより、個々のバラバラのスケッチを集めて画面を作っていたのです。レジュメに「実際には描き止めたスケッチの組み合わせによる知的な作業」と書きましたが、その結果を現実の瞬間を切り取ったように見せるのがドガの技術なのです。
これは非常に面白い問題を引き起こします。どういうことかというと、頭を見るときに少し視点を下げて前の方の頭を見ているとします。舞台を見るときは少し頭を上げて見るかもしれません。舞台を見ているときと頭を描いているときは、同じ日の同じ舞台でも時間的には数分のずれがあるはずです。別の言葉で言えば、それをストックしたイメージとして組み合わせるときは、何年差があっても、全然違う場所でとったスケッチでもいいわけです。つまり、多数の視点とか異なる時間などを一つの画面の中に持ち込む作業を通じて、ある一瞬を作っているのです。逆にいうと、ドガ本人にとっては、もともと違う視点や違う時間を組み合わせることによって画面が作られていることになるわけです。
これは、われわれが通常、「印象派は外の世界を一瞬のうちに切り取っている」と思っていることとまったく反する画面の作り方です。つまり、いかにそれを作り、いかに演出するかということです。このことは、ドガの後の世代にとって非常に重要な意味を持つことになります。画面が現実の空間の瞬間を再現したり捉えるということからどんどん離れていくことになるからです。
最初に提起したドガの踊子のいくつかの特色の中に「可愛くない」という問題がありました。この「可愛くない」ということは、ドガが踊子をどういうものとして見ているかと関係しています。「観相学の呪縛」というのは、ドガの物の見方の一つなのです。ドガは踊子や、カフェ・コンセールというカフェで歌い手が歌ったりするような場をよく描きますが、そういうところで演じている女性歌手の顔を描いたのも決して美しくありません。「場合によっては動物的ですらある」としばしば言われています。これについては、たとえばスポットライトを浴びて下から光を浴びた顔になったからだとか、いろいろな理屈がありますが、それにしても、スケッチを見ると明らかに動物的に描いていることがあるのです。これは一体どういうことなのでしょうか。
ここで考えなければいけないのは、西洋にある「観相学」の伝統です。観相学は「学」が付いてますが、学問分野というよりは、今日で言えば血液型に近い似非科学のようなものです。当時はもちろん科学として信じられており、古代からもこういう考え方はありました。しかし、それが特にまとめられたのは、16世紀のイタリアにデッラ・ポルタという人が出てきて、この人が『人間観相学』という本を書いてからです。
この本で言っていることは、先ず古代の彫刻などに残っているローマ皇帝の顔とか、古代の哲学者の顔のような人間の顔を動物と比較するのです。そして、「この皇帝はライオンに似ている」「この哲学者は鹿に似ている」とします。それによって、鹿のおっとりした、攻撃的でない性格とその人の哲学が関係して「思索型の人間だ」とか関係付けるのです。あるいは、勇猛果敢な戦いに強い皇帝であったこととライオンに似ていることが関係あると言うのです。つまり、動物との比較による性格分析です。考えてみれば、動物に似ているからといって、その性格をくっつけられたらかなわないと思うのですが、これがまともに信じられていたのです。
そういったものが美術の中に非常に強く入ってきます。17世紀のフランスにルイ14世に仕えたル・ブランというアカデミーの大家がいますが、彼がアカデミーで講演した中にこの「観相学」とか「情念表現」と言われる主題があります。情念表現というのは、人間の顔が喜怒哀楽を表すとき眉毛がどうなるか、口の形がどうなるかなどをパターン化して考えたものです。これは、現代のわれわれが生活する中でも、「あの人は笑っている」とか「この人は泣いている」ということが、顔のつくりが違っていても筋肉の動きによって共通してあるパターンでわかることからも納得できる理屈です。
ところが、観相学は、先程言ったように、「動物と似ている顔がこういう性格に見える」ということであり、ル・ブランがなぜこういうことをアカデミーで講演するかというと、それは当時から19世紀まで絵画が中心的に描かなければいけなかった物語や歴史を描くために必要だったからです。どこかで何か事件が起こり、何かが演じられているとき、そこに登場している人物達が悲しんでいるのか喜んでいるのか、この人は悪者なのか英雄なのか、それが分かるように描かないとわれわれは物語として読みとれないのです。そういった物語を表す歴史画を考える上で、情念表現、観相学のパターン化、タイプの体系化は非常に重要な意味を持っていたのです。それが17世紀ぐらいから美術の中で、特にアカデミックな美術の中では重視されていたのです。
18世紀の末になるとラヴァターというスイス人が、『観相学断章』という4巻本の大きな本を出します。これは今までの観相学的なものをいっぱい集めた本で、まさしく外見による分類の集大成です。そして肖像画だとかカリカチュアなどに応用されていき、一つのガイドブックみたいになっていきました。ドガの活躍した時代は、その約百年後です。この時代には、既にアカデミーに対する疑問が強く出てきているというお話はしました。しかし、観相学はアカデミックなものだけでなく、ヨーロッパ人の物の見方の中にかなり強く残っていたのです。
19世紀になって解剖学だとか進化論だとかが出てくると、そういうものと一緒になってある物の見方が作られていきます。先ずレジュメに「比較解剖学的ヒエラルキー」と書きましたが、これはカンペールとかガルとかいう18世紀から19世紀半ばぐらいの学者達が、解剖学的に正確な頭蓋骨の比較をやることによってサルと人間を比べたことを指します。サルと人間を比べると、当然のことながら、似ているのに違います。その違いの間を段階的に埋めていく。そうするとサルと人間の間の骨を作ることができるのです。これはダーウィンの進化論より前に人間とサルの間の存在を考えている非常に面白い理屈です。そういうものから逆に、つまり、「額がサルみたいに斜めになっているからサルに近いので、知能が劣っている」という形で、人間の性格とか能力とかを分析する骨相学という考えが出てきました。これがダーウィンの進化論によってある種の論理的な根拠を与えられてしまうことになります。カンペールやガルは19世紀の前半ぐらいの人ですが、ダーウィンの進化論はは1860年代です。
進化論がこれらの考えと一緒になったときにさらに出てきたのが、イタリアのロンブローゾという人の『犯罪人類学』です。彼はドガと同時代の人ですが、犯罪者を解剖学的特徴で分類しようとしたのです。犯罪者の写真をいっぱい集めて並べて、顔に特徴はないかと探します。そして「犯罪者は一種の先祖返りである」、つまり「より劣った人間に近づいているんだ。簡単に言うとサルに近い顔になっている」と言うわけです。犯罪は、そういう先祖返りして退化した劣等人種が起こすものであり、それは一種の遺伝的なものだから、それを排除していくことによって犯罪者が出なくなる、あるいはそういう人を最初から隔離などすれば犯罪が防げるという発想です。
顔つきだけで犯罪者の因子があると言われるわけで、これは恐ろしいことです。これは笑い事ではなく、人種と結び付いてナチスのユダヤ人問題とか優生学に結び付いていく可能性があるのです。このロンブローゾの考え方は70年代から80年代ぐらいにヨーロッパ中に広まりますが、ドガはこういうことにすごく関心を持っていたのです。
このロンブローゾの『犯罪人類学』がどういうものを劣等人格と考えるかについては、ロンブローゾそのものより、当時の「労働者階級こそ犯罪の温床だ」という考え方が作用していきます。地方から都会に流れてきて肉体労働に従事し、貧しく、週末になると日銭を持って郊外の酒場に酒を飲みに行き、暴れる階級は、知的にも劣っているし、道徳的にも劣っていると見なされます。
これは、もちろん彼らの置かれている当時の生活状況から出ているわけです。彼らは経済的にも教育的にも恵まれていませんでした。そういった後天的な要素から生じているものを、労働者の階級という一つの人間の種類みたいなものと考え、「労働者階級は危険な階級、犯罪者の階級である」という感覚をもつ。そして「劣等的な階級の労働者階級は退化的身体を持つ」という考え方が、決定的にではないものの、なんとなく浸透しているのがこの時代だったのです。
ドガの問題に戻りますが、踊子は労働者階級出身だと言いました。ドガの視点の中にそういう当時の価値観が入り込んでしまっているのです。たいへん残念なことですけど、ドガはユダヤ人も大嫌いなのです。当時有名な「ドレフュス事件」が起きますが、そのときにも彼は完全に反ドレフュス派でした。ヨーロッパの金持ちの階級にはロスチャイルドをはじめ、たくさんのユダヤ人がいますが、ドガも銀行家の家ですから、当然ユダヤ人社会とは付き合いがありました。しかし、ドレフュス事件があってから、彼はユダヤ人に対して非常に強い反発を持って、どんどんそういう人たちと仲違いをしていきます。彼はそういう時代の価値観とか物の見方から離れられないところがありました。踊子達に動物的な顔を与えてしまったのもそういうところと関係がありそうです。踊子達を実際に劣等人種と見ていたかどうかはわかりませんが、そういうことが絵に入り込んでしまうのです。
ドガの踊子が持つ問題をまとめると、ドガの踊子には、今言ったようなさまざまなことが入り込んでいました。それは、基本的には上流階級の男性としての、またユダヤ人や労働階級に先入観を持つ価値観や視点です。「男性として」「女性として」ということを差別的に考えている当時の価値観もあります。
ドガは、非常に鋭い観察眼を持ち、それを生かすだけの知的な作業が可能だったのですが、絵にするときにその価値観が極端に出てくる場合もあれば、隠蔽されて別の要素が際立つこともあります。こういったものを読み解くためには、当然当時の社会史的な視点が必要なのです。それは、当時の社会の中の階級をはじめとする価値観みたいなものでもあり、それが彼の絵画を見る上で重要になってくるわけです。最後に一つだけ確認しておきたいのは、これは社会史の資料として絵画を扱うということでもなければ、現在の価値観に基づいてドガという過去の画家や作品を断罪するということでもありません。そうではなくて、ドガの作品の魅力や当時持っていた意味を考える上で、こういった視点から絵を分析し、そういったものが複雑に絡み合ったものとして作品を考える必要があるということです。
お話ばかりでは退屈なのでスライドに移りたいと思います。
1左 ドガ《バレエ(エトワール)》1876-77年
右 ドガ《踊りの稽古》1874年
まず違うタイプのドガの作品を2点お見せします。左側は一番有名な物なので、どこかでご覧になったことがあるのではないかと思いますが、この2点に先程言った特色が非常によく現れています。
左側の作品はどこから見ているのでしょうか。この絵は全部舞台です。舞台が端から端まであるということは、舞台を斜め上から見下ろしていることになります。つまり、平土間の客席から見ているものではないことが分かります。それと同時に、ここにあるのは書き割りで、舞台の上にある背景の装置です。この背景の装置が層になっている間に踊子や黒服の紳士がいます。これは、舞台を見ている人には見えたらまずいものです。ここに次の出番を待っている踊子や、マネージャーか舞台監督かパトロンか分かりませんが、別の男性まで見えてしまうような視点から見ているのです。舞台に対してこちらが観客席だとすれば、斜め前の方から見ていることがわかります。
踊子の顔を見ましょう。足やチュチュは非常に美しいです。これはパステルという乾いたクレヨンみたいな画材を使って描いてます。しかし、この顔は可愛いいでしょうか。光が強く当たって顎の辺りは真っ白で、目の辺りは真っ黒になっていて、なんとも不思議な顔つきになっています。たしかに舞台の上の照明を考えれば、こういうふうに見えるかもしれませんが、それを変えてまで可愛く描くことをドガはしないわけです。
右側の絵は練習風景です。左側が80年代なのに対して、これは70年代の比較的早い時期の物です。先程言ったこの階段がちょん切れている構図とか、斜めに床が走っていて、そこに同じポーズをとる踊子達がいて、ここにひろい空間が空いてるとか、変わった構図の作り方をしています。
こちら側を見ると、この踊子はここで真っ二つに切れていますね。こういうことがドガの踊子の特色になります。こういった踊子に対してドガが興味があったのは、その人間の体の構造だとか、それが作るポーズだとか言われていますが、それがあながち嘘ではないことは、こういう物を見ると分かります。
2左 ドガ《青年裸体習作》1858年
右 モロー《青年裸体習作》1858年
ドガは1850年代の末ぐらいに3年位イタリアに行ったことがあると言いました。画家になる勉強をしにイタリアへ行ったのです。そのときにヴィラ・メディチというローマにあるフランス・アカデミーの分館を訪れて、画家の友達をつくります。この時期に付き合った画家の一人にギュスターヴ・モローという画家がいます。私はこのモローを専門にしているのですが、彼は印象派やドガとはまったく違う、神話だとか聖書から取材した絵ばかり描いてた画家です。ドガとモローはイタリアにいるときにすごく仲が良くなりました。これは今のわれわれから見ると不思議なのですが、当時のドガは歴史画家を目指していて、七つぐらい年上のモローを歴史画家の先輩として付き合っているわけです。
この二人がヴィラ・メディチで同じモデルを描いたデッサンがこの絵です。同じモデルだというのは髪形とかポーズを見ると分かるのですが、2つの絵では全然違う人間に見えますよね。この差はどこから出てくるのでしょうか。
何が違うかはこの筋肉を見るとよく分かるのです。これは片足がちょっと上がることによって全体がS字型の緩やかな流れをつくる古典的なポーズですが、ドガはこういうポーズをとったときの人間の体の構造にすごく関心がありました。だから、肩や腰だとかの位置や組み立てみたいなものをすごく的確に捉えられるわけです。だから、陰影は強めに付けて体格を強調し、がっしりした感じに描いています。
ところが同じモデルを見ても、モローの方はむしろ優美な曲線の輪郭に興味があるわけです。だから陰影などを強調して筋肉を強調するより、むしろ影を細くして、輪郭線を強調する形で、しかも少し縦長のプロポーションにまとめようとしていることがよく分かります。こういうことからいっても、ドガが人間の体の構造に早くから興味があったのは確かです。
3左 ドガ《バビロンを建設するセミラミス》1860-62年
右 モロー《サロメ》1876年
面白いことに、この時期のドガは歴史画家を目指していました。彼は上流階級の銀行家の出であるし、まだ「印象派」なんていうものが生まれていない時代ですから、画家はどういったものを描くべきかについては古い考え方に基づいていたのです。
その一例が左側の絵です。これはセミラミスというバビロニアを建設した古代の女王の事績を扱った絵画です。1860年頃に描かれたもので、ここら辺はかなり完成されていますが、未完成のままの部分もあり、結局これは完成されていません。こういうものを描こうとして目指していたのです。
こちら側の絵はモローが70年代に描いた≪サロメ≫という有名な絵ですが、こういう絵を作っていく考えがまだ生きている時代です。そのなかで、ドガも「歴史画にとって一番重要なのは何か」を考えて、それは「ある一つの物語を伝えることだ」として、そのために複数の人物を組み合わせ、ある空間の中で物語が演じられていることに取り組みました。先程の絵では、古代の女王であるセミラミスがどれかは一見して分かります。画面のほぼ中心にいて、ひときわ明るい服を着て、他の人みたいにぐちゃぐちゃっと固まらずにいます。こちら側はバビロンの町が今まさしく作られていることが物語として読み取れるように描かれていますが、これが非常に大事なのです。
モローの≪サロメ≫も、サロメという女性が自分の義理の父親である王の前で踊るという主題ですから、そういうものが再現されることが大事なわけです。そういう点では、ルネサンス以来の構図の作り方は、ちょうど舞台を描いたもののようになるわけです。当然「舞台で何をしているのか」「どういう場面か」を読み取らせることをドガは勉強していたわけです。
4右 アングル《欲女》1808年・1855年のパリ万博出品
19世紀前半のアカデミズムの大御所で、もちろん歴史画家であったアングルとのたいへん面白いエピソードを示すのがこの右側のアングルの絵です。彼はアカデミーのメンバーの他、国立美術学校の教授も長らく務めていました。この有名な裸婦の絵は、バルパンソンというお金持ちが持っていて、今はルーヴルにありますが、所有者の名前が頭について≪バルパンソンの浴女≫と呼ばれています。
1855年のパリの万国博覧会でアングルの展示コーナーができたとき、アングルは、このもう売られてしまっていた≪浴女≫を展示したいので、バルパンソンに頼んで「出してくれないか」と言いました。しかし、バルパンソンは、自分の大切な絵を万博なんかに出して傷んだりするのは嫌だし、別に他の人に見せる必要はないと思ったのでしょう。その申し出を断るのです。その話を聞いて、若いドガが怒りました。バルパンソンもお金持ちですから、ドガは銀行家の父親を通じて、直接面識もなかったバルパンソンと会うことができました。そして、「これは是非とも万博に出すべきだ」ということで説得に成功するのです。
それが縁になって、アングルに会って、「自分は画家になろうと思っている」という話をします。そして、当時はもう老大家になっているアングルから「ひたすら線を引くように」というアドヴァイスを受けました。これはドガの一生の中でも一番有名なエピソードの一つです。それは、歴史的な絵画を描きつづけたアングルに若い頃非常に心酔し、線で物を捉えることにこだわり、それがドガの一つの本質になったことからも言えます。
この歴史画という分野には、ドガがこれから描いていくバレエの場面などの風俗画を考える上で見逃せないいくつかの特色があります。その一つが遠近法の問題です。
5左 レオナルド《最後の晩餐》1495-97年
右 バロッツイ・ダ・ヴィニョーラ《遠近法の理論》1683年
左側はミラノにあるレオナルド・ダ・ヴィンチの有名な≪最後の晩餐≫という絵です。これは、イエス・キリストが最後に弟子達と一緒に夕食をとって、「この中に私を裏切る者がいる」という衝撃的な言葉を発し、弟子達が動揺するという有名な場面です。去年ベストセラーになった『ダ・ビンチ・コード』という小説を読まれた方はいますか。あの中ではイエス・キリストの横にいる弟子のヨハネがマグダラのマリアであるという説が出てきたりします。もちろん、それはかなり怪しい説ですが、それが一つのキーになっている面白い小説です。
なぜここにこの絵を出したしたかというと、これは晩餐なので、食事をとっている情景を描いていますが、室内は完全に線的な遠近法の空間をとっているからです。つまり、奥に向かって垂直になっている直線がすべて、ある1点に集中するようになっています。キリストの頭の部分にそういった点を設けて、その空間の中に物を配置して奥行きをつくっていく遠近法で、これがルネサンス期に完成した線的遠近法、つまり線で構成された空間というものです。
だから、この上の天井にしろ、真っ黒の窓みたいに見える織物の壁掛けにしろ、そういうもの端の直線が全部きちっと中心に集まるようにできているのです。こういう空間の作り方は、原理的には右の図のようなことなのです。つまり、ここに立っている人がそこから見ている。目の高さはこの高さで、これが画面のある部分だと思ってください。今でいえば、ガラス板の窓があると考えればいいと思います。そして、向こう側に実際に開いている空間をここに再現するためには、目とそれをつなぐ線を引いて、その線がここに交差するところへ点を打ってつなげていくと、この位置からこれを見たときの絵が写しとられる。そういう原理です。
つまり、この絵でいえば、こういった壁に掛かっている、本当は四角い壁掛けが全部斜めに見えるのは、まさしくこういう作業をしてこの空間を見ているという設定のもとにやっているわけです。逆にいうと、この四角い板を一つの画面、つまり窓枠と考えて、窓枠の中にこういう奥行きのある空間をまず設定する。そして、その空間の適当なところに人物を置くことによって人物の大きさも変わっていくわけですから、空間らしく感じられるという作り方です。ですから、通常はこれを見れば分かるように、画面から切れている人なんていないわけです。この中に全部必要な人物が入って必要なことをしているのです。これが歴史画を作る上での遠近法の基本的な考え方です。それは、同時にイエスが「この中に私を裏切る者がいる」という言葉を言ったとき、弟子達がワーッと動揺する一瞬の時間を捉えているわけです。それは、まさしく写真がその瞬間をパチッと撮るように、本当に作られた絵は写真以前に作られているわけです。このことがあとで問題になります。
6左 ル・ブラン《アルベラの戦い》1669年以前
右 ル・ブラン《感情表現のデッサン》
もう一つ歴史画を考える上で重要な17世紀のル・ブランの作品を見ていただきます。これはルーヴルにある巨大な画面です。アレクサンドロス大王という古代の有名な英雄がいますが、この絵は彼がペルシア王を破ったときの戦いの場面です。したがって当然画面の中央でアレクサンドロス大王が馬に乗っているわけです。こちら側が負けて逃げていくペルシアの兵隊達です。その中で手前にひときわ大きく、口を開けて逃げる方向へ手を広げているペルシアの武将がいます。
こういう顔とかポーズとかを考えるときは、逃げていく、負ける恐怖を顔に湛えているという点で、恐怖の顔を描かなければならないわけですね。ル・ブランはそういうことを図式化していくことを考え、一つの同じような顔がどういうときにどういう顔になるかを研究するわけです。右の図の中のこれがまさしくその恐怖の顔なのです。この絵では口を開き、眉間に皺が寄っています。眉尻が上がる下がるとか、口が開くとかということによってどう見えるかを、非常にうまくパターン化しているのです。ル・ブランの場合には、ただ単に感情表現の研究だけでなくて、どういうタイプに見えるかということまで、動物との比較までやっています。こういう点でも歴史画は後々ドガにつながる要素を持っていることになります。
この絵を見ると、歴史画的な発想がすごくよく見えます。つまり肖像画として描くのでしたら、アップであったり、アップでなくても真正面を向いていて、先ずきちっとその人の顔を捉えることを第一にやるのが基本だと思います。この絵では顔は捉えられていますけど全身像群像ですし、なにより視線がバラバラなんですね。つまり夫と妻は顔を合わせてない。実はこの二人はあまり仲が良くないのですが、ドガはそういう心理的なものを肖像画の中にも組み入れてしまうのです。
またこの額の中に入ってるデッサンは、亡くなった彼女のお父さんなんですが、亡くなったばかりだから彼女はまだ喪服を着ているということも判るようになっています。ここの上には豪華な調度類などがあって、生活の状況などが分かります。つまり、肖像画なのですが、その人の身分だとか生活だとか、お父さんが亡くなったという状況だとか、すべて表わされています。表す手法はまさしく歴史画的な発想なんですね。彼はそういうものを肖像画にうまく持ち込むことも初期の頃からやっています。
こちら側の絵を見ると、これは60年代後半の競馬の情景を描いた作品ですが、馬が列を作っていますね。その影を見たり、こちら側の観客席を見ると、先ほど言った線的遠近法の空間を作っていることがよく分かります。この絵で、これをずーっと延ばしていくと、こちら側は馬ですから、きちっと1列に並んでいるわけではありませんが、やっぱりこの辺り、全部画面の水平線の高さの中心辺りに集まる空間が明確に見てとれるわけです。そのことによって空間を作るということを競馬みたいな風俗画に生かしたわけです。
その当時、ドガは歴史画家を目指していたんですが、あまりうまくいかなかったのだと思います。当時はもっと自分の生活感覚、ブルジョアジーの価値観に合った室内の肖像画、あるいは競馬場という今でいうギャンブルの場みたいな感覚に惹かれていたのだと思います。競馬は当時イギリスから入ってきた上流階級の最新の遊びの一つでした。ロンシャンの競馬場というイギリスを真似した競馬場ができ、ジョッキー・クラブも作られて、そのメンバーになることが上流階級の一つのステイタスになっていました。
8左 ル・プルティエ街のオペラ座
右 パレ・ガルニエ
その競馬場と同じような存在がオペラ座の桟敷席なわけです。ご覧頂いてるこの2点は、先ほど言った新旧のオペラ座の対比です。古い方のオペラ座はもう残っていないので、こういう版画でしか見ることができません。これが古いオペラ座の正面ですが、ここに道があって、角にあることがよく分かります。ナポレオン3世はここの前で爆弾を投げつけられて命拾いしましたが、ここは危ないということで、治安のためにも良い場所に新しいオペラ座をつくりたかったのです。そこで、今のオペラ座の場所にたくさん家があったのを全部取り払って、目抜き通りをつくって、その正面に新しいオペラ座をつくったのです。これがガルニエ設計の当時最新のオペラ座です。
9左 桟敷
右 ドゥタイユ《オペラザの落成式》1875年
オペラ座の空間の話はすごく面白いんですけど、今日確認しておきたいのは、そこがまさしく桟敷という見る空間だったということです。これはオペラ座の内部で、ここに舞台があり、緞帳があります。ここがボックス席と言われ、これが周りの空間を丸く囲んでいて、この下に平土間があります。ボックス席を予約して持っていることが一つのステイタスでした。特にここを見てください。舞台の真横で一番舞台が見づらいところがひときわ豪華ですが、これがナポレオン3世の席として想定されているものです。なぜここに皇帝の席があるかというと、皇帝がここへ来るのが他の席から見えるからです。つまり桟敷席というのは、お互いに見たり見られたりする意味がある空間なんですね。そのため、舞台に近いところほど舞台が見づらいのですが、その場所のステイタスが高いわけです。そこから舞台を見れば、当然上から斜めに見下ろす視点になるわけです。
こちら側はオペラ座が見る空間であったことがよく分かるシーンで、こちらの桟敷席に対して、これはその外にある階段室と言われる部分です。現在でもパリのオペラ座へ行くと大きな階段があることに気づくと思いますが、階段の上が吹き抜けになっていて、そこの各ボックス席に対応する階の廊下部分が全部こういうバルコニー式になっていて、この階段を見下ろせる構造になっています。
これはドゥタイユという画家が描いたオペラ座の落成式の絵です。このときにはナポレオン3世はすでに普仏戦争に負けて退位していましたから、主賓としてはロンドン市長を招きました。これがそのロンドン市長だと思います。これはパリ市長並びに建築家のガルニエなどがそれを迎える儀式の場面です。この儀式を演出するための大階段があり、それを上から見下ろす観客がいて、まさしくこちらと同じように見ることをすごく強く意識した空間であることが分かります。これらのことからいっても、必ずしも劇場は劇を見るための空間だけではないことが分かると思います。
10左 ルノワール《桟敷席》1873年
右 ベロー《オペラ座の舞台裏》1889年
次は、ルノワールが70年代に描いた≪桟敷席≫という絵ですが、この絵では女性がオペラグラスを持ってこちらを見ています。逆にいうと、この絵を見る人、あるいはこの絵を描いた人は、ボックス席の女性を見ているという想定になっているわけです。その女性の後ろにいる紳士はどこを見ているかというと、上の方ですね。つまり舞台なんか見ていないで、他のボックス席を一生懸命見ていることがよく分かります。これもまさしくルノワールなりにオペラ座での視線のやり取りみたいなものを主題にした作品なのです。
舞台裏ではどういうことが繰り広げられているかについて、ベローという画家が1889年に描いたオペラ座の舞台裏の絵をご覧ください。ここに緞帳があり、ここがずっと舞台になっていて、この書き割りの裏が見えています。その後ろではシルクハットの紳士達が踊子達の腰を抱いたりしていますけど、これは父親と娘などという麗しい図ではありません。これはパトロンと、彼が気に入ってる踊子達であり、要するに現実のオペラ座はこういうものが展開する場なのです。この紳士達は当時の政界や財界の大物で、ボックス席を持っていて、楽屋とか舞台裏に出入りすることができ、踊子達と付き合うことができます。踊子達にとってはそういうパトロンが大事なのです。
その前提をもとに、ドガがオペラ座の踊子達をどう見るか、どう描くかという話になっていくわけです。今日はドガがオペラを描いた一番最初の作品を持ってきませんでしたが、この絵は舞台の上で、ある役柄の女性達がリハーサル中にトゥーシューズを脱いで休んでいる絵ですが、ちょっと歴史画に似た画面構成をとっています。
11左 ドガ《オペラ座のオーケストラ》1870年頃 バスーン奏者デジレ・ディオー
右 ドーミエ《音楽のクロッキー 悲劇上演中のオーケストラ》『シャリヴァリ』1852年
もっとドガっぽいものは、この≪オペラ座のオーケストラ≫と言われている1870年頃の作品が最初です。これはたしかに後ろに踊子達がいますが、どう見てもオーケストラ・ボックスがメインで、こちら側が平土間になります。よく見ると、バスーンを演奏している男性がひときわ大きく真ん中に描かれており、顔がきちっと描き分けられていることも分かると思います。この男は実在のドガの友人でバスーン演奏家のディオーという男ですが、おそらくこの人の肖像画として描かれたもので、ディオー自身がこの絵を持っていました。
ところが面白いのは、後ろにいる他の人物達も顔つきを見ればほとんど実在のモデルがいることがわかったのです。しかし、その実在の人物たちは、ディオーと一緒にオペラの演奏をしている音楽家ではなく、全然違う職業の人間が入っているのです。それはどういうことかというと、まさしく作られているわけです。オペラ座のオーケストラとして描いているように見えながら、そうではないところがこの絵の不思議なところです。だから一見風俗画なんだけど、肖像画になっているのですが、こういうところを狙っているのです。したがって、顔の描き分けが非常に精妙になされています。風俗画であれば、個々にモデルがいるいないは問題にならないはずです。オペラ座のオーケストラは個々に知らない人のオーケストラの場面でいいわけです。
さらに細かいことを言うと、いろいろなことがあります。ここにコントラバスを弾く男性が四角い椅子に座っています。この椅子が一体どこにあるのかよく分からないのです。つまり、他の人物に比べてこの位置が明確じゃないのです。これは、本当にここにいる人を描いているのではないことから言っても、寄せ集めて作っているので、構図上必要なところに置くだけだったのです。
それはどういうことかというと、まず画面は、「舞台」とこの「休憩の人々」と「手前」という三つに分かれていて、それを横の斜めの線が作っています。もう一つはこのバスーンがひときわ大きいんですが、これがこの対角線と並ぶ線を作ります。そして、この白い襟元の人物も繰り返しこういう方向を作っていて、ここで強調されているんですね。それは、こういった格子状に画面を作って、一種の安定感を持たせるような構図上の狙いです。そのために、この人物はここにいることが必要になるわけで、もっと下にいたり、こちらにいてはだめなんですね。
そのときに中心になるのはこの男達で、したがって背景に舞踏としてのバレエが繰り広げられますが、それは添え物なのです。それで手前のモノクロームの雰囲気と対照的な鮮やかな色を使っていて、しかもこちら側が全部顔があるのに、踊子には顔がない。つまり踊子は肖像画として描く必要はないのです。これは非常に斬新的な構図と考えられます。しかし、この斬新さというのはどういう意味かというのは微妙なところです。つまり、踊子の舞台を描いた油絵自体はそれ以前はほとんどなく、また、顔を切ってしまうなんてことは非常に珍しいです。しかし、そういう構図のものがそれ以前にまったくないわけじゃなくて、実はあるのです。
右の絵はカリカチュア、いわゆる戯画なんですけど、ドーミエという画家が描いたものです。ドーミエは新聞や雑誌にいろいろと皮肉な漫画を描きましたが、当時こういう漫画みたいな芸術として見なされていないジャンルでは、こういう構図がいくらでもありました。このクローズアップと頭の切れた舞台の絵には≪悲劇の上演中≫という題が付いていますが、上ではギリシア風の悲劇が演じられているのに、手前では見飽きた演奏団があくびをしたり居眠りをしているというのが面白いわけですね。そういうようなものを描き出すために、こういう構図はもうすでに50年代、60年代にありました。しかし、ドガはそれを油絵という形で絵画にしてしまったところに一つの斬新さがあるわけです。だから、切られていること自体に写真や浮世絵の構図が影響しているかどうかという前に、そういうものがまったく西洋の中にないわけではないことがわかるわけです。
12左 ドガ《ダンス教室》1873-1876年頃
右 ドガ《ジュール・ペロ》1875年
ドガは70年頃から盛んにオペラ座の踊子達のリハーサル、あるいはその練習風景を描き始めます。いまご覧頂いている左側の絵が≪ダンスの教室≫という絵です。これは教師が踊子達にダンスの指導をしているところです。この教師は引退した、当時有名な踊子の振付師ペローなんですが、こういうふうに描いた彼の肖像画があり、それをこのままここにはめ込んでいるんですね。はめ込んでいるというのは、ドガがこの絵を描いた70年代には、ペローはもうダンスの振付はやっておらず、ドガがこういう場面を見たはずはないので、これ自体作られたものだということがよく分かります。
それと、面白いのは、このダンス教室の中でポーズをとっている踊子がここにいますが、両脇を見ると、ピアノの上に座って背中を掻いたりあくびをしたりしている女性達が見えるのです。こういうように、真剣な踊りの訓練をしている一方で、退屈している人間心理みたいなものを描き出すということを、ドガはすごく好んでやっております。
13右 ドガ《ダンスの試験》1874年
もう一つ面白いのは、このように、そっくりな構図のものを描きますが、どこかが違うというケースです。ここは出入口になっていますが、ここは鏡になっています。それから、似ているけど向きやポーズが変えられているケースです。一番面白いのは床で、ここにはこういう向きの線が入っています。これは真横になるわけですが、こういうところからいっても、その場とか空間というものが完全に作られたものであることがよく分かるわけです。こうして、彼はいろいろなバリエーションを作りますが、作るために踊子を描きためているわけです。
14左 ドガ《舞台稽古》1874年頃
右 ドガ《リハーサル》1876年頃
ここでダンスの指導をしていた教師は、全然違う構図の中にも表われていることが分かります。そういう点では、これも合成されて作られていることが明らかです。今この二つを対比したのは、こちら側は丸い舞台がここに見えていて、袖のほうには椅子が置いてあったり、ここに見ている男性がいたりということで、舞台では本番ではないリハーサルをやっています。一方、ここには背中を掻いたりあくびをしている女性がいます。ここには踊っている女性がいますが、これは同じ女性で左右反転しているだけです。要するに、組み合わせによって舞台のバリエーションをいっぱい作っているのです。
この絵は、面白いことに、照明の効果をモノクロームとしてわざと描いてるんですが、色を付けたバージョンとしてこういうものを描いています。ところが、これが邪魔になったのか、止めてしまい、舞台の端が丸くて切れていません。それから、座っている男性を二人にしてみたり、振付師を真ん中に入れてみたり、いろいろな工夫を凝らしています。この手を上げている女性は、構図全体の中で見るとずれが生じ、切れてしまっています。したがって、どちらが習作だとか本物だとか言うことではないわけです。こういうように、数年置いていくつかのバリエーションを作っておき、それに繰り返し手を入れたりします。
15左 ドガ《舞台稽古》1874年
右 ドガ《舞台稽古》1874年頃
次は、最初のが油彩画で、もう一つパステルが主の油彩とパステルです。この二つを見比べてたときの違いは、楽器のコントラバスの一番上の部分がここに入っていることです。非常に近景のものが他にもあるんですが、一つだけパッと目立っています。ここでは影の中に沈んで見えていますけど、ここではこのスカートとの位置が調整されていることも分かります。彼はこういうことを何回も繰り返して舞台を作るわけです。だから、場面そのものを一瞬のものとして切り取ったわけではないわけです。
16左 ドガ《劇場》1880年頃
右 広重
そういう操作がよく分かるものとして、左側の絵は桟敷席から見た扇子を持った女性のアップと舞台という構図です。これは舞台の真横にある桟敷席から見下ろす視点です。自分はこの女性と同じボックスに居て見ているということが作られているわけです。このような極端な遠近の対比で、中景がないという構図の作り方は、日本の広重にあります。広重の絵には、手前に大きな桜の花がクローズアップであり、あとは遠景となり、中景がまったくないという遠近の対比の見本みたいなものですね。こういうタイプの絵は、広重の≪名所江戸百景≫の中にたくさんあるので、ドガにそういうものの影響があるんじゃないかと言われるのです。ドガがこういうものを見ていてもおかしくないので、そう言われるのです。
17右 ドガ《扇面》1878-80年頃
たしかにドガは扇子の形を利用した画面なども作っていて、日本の影響が明らかにあります。ここでは舞台の踊子を横から見て無理に扇子の形の中に落とし込んでいます。そのときにドロッとした絵の具のまま残しているのは、日本の琳派などの影響があるのでないかと言われています。
18右 モロー《印象派の遠近法》
このデッサンでは、手前にアップの手があって、ここに顔が3分の1ほど見えて、いきなり部屋の中に遠景があるといった具合に、遠近の対比が非常に極端に出ていますが、これはドガではなく、先程から何回か出てきたモローのデッサンなんです。モローは印象派とはぜんぜん違う画家ですが、ドガの友人であったこともあってドガをからかっているのだと思います。彼は上にペルスペクティヴ・デザンプレッシュオニスト、つまり「印象派達の遠近法」とわざわざ書き込みをしています。つまりモローも日本のものを持っていたし、日本の浮世絵を彼も利用したりしていますが、必ずしもこういうものを日本的ととっていたのでなく、やはり印象派的という印象を第一に受けたのだろうと思います。
19右 ドガ《2点のデッサン》
そういうことを考えた上で先ほどのドガの絵を見ると、この一つの画面はまったく別の二つのデッサンから作られていることが分かるんですね。一つはクローズアップで桟敷にいる女性を横から描いたものであり、もう一つは舞台上の踊子達を描いたものですが、この二人の踊子はぜんぜん別個のものを完全に合成して作っているのです。これは先程のバリエーションと違って、別個のものを組み合わせて貼り合わせるように作っていることがよく分かります。ドガが非常に操作して作っているわけで、この発想は浮世絵と似ているかもしれないけど、必ずしも浮世絵である必要はないのです。
20左 ドガ《競馬場アマチュア騎手達》1876-77年
右 広重
この広重の≪名所江戸百景≫も、ドガの競馬場の絵の構図が断ち切られていて、車輪が部分的に見えるものと並べて、似ているという議論があるものです。たしかに似ていないことはないです。競馬場では馬が走っていますが、馬車の方はここに男性がいるので、必ずしも動いてるかどうか分かりません。全体としてはこういった斜めの構図の中に走っている馬や車を切れた状態で入れることによって動きを出そうとしていることが分かっていただけると思うのです。
ところが、江戸百景の方を見てください。ここにも、たしかに遠近の対比はあります。これも車輪ですが、大八車です。大八車の柄が上がってるということは、「動いていない」ということです。だから、猫がこんなところで何か食べたりしているわけですね。つまり、日本の浮世絵においては、遠近の対比は構図の面白さとしてはもちろんあり、ここではこの車輪と虹が大きな円弧を作っている点でも面白さを出しているんですが、運動性とか動きとか瞬間とかとは関係がありません。したがって、ドガがそれを仮に利用したとしても、全然違う発想によって違うものに応用していることになるわけです。
21左 ドガ《コンコルド広場》1875年
右 ベロー《サン=フィリップ=デュ=ルール聖堂近くの日曜日》1877年
そういうことが非常によく分かるのが、左側の≪コンコルド広場≫という絵です。ここでは、自分の友人のルピック子爵という、貴族で絵を描く人物の親子を描いています。ルピック子爵は娘二人と愛犬のボルゾイを連れてコンコルド広場にいるのですが、向きはバラバラなんです。そうして、何をするあてもない散歩だからフラフラしているという感覚を出しているのです。
こうして一瞬の動きみたいなものを捉えることに、遠近の対比だとか構図の横で切ってしまうことだとかが作用していることが分かります。右は、さきほど踊子達がパトロンと抱き合っている絵を見せた、ドガと同時代のベローという画家が描いたパリの町並みです。印象派と同世代の画家であっても、ぜんぜん違います。町並みの捉え方にしても、こちら側がいわば非常に止まった感じがするのに対して、ドガの方はいかに動きがあるかがよく分かるのではないかと思います。そして、こういった構図にスナップ・ショットと言われる写真がしばしば引き合いに出されるのです。
22右 ジュン《ロンドン、ハイ・ストリート》1887年
これはイギリスで撮られた写真で、クローズアップのシルクハットの紳士が画面で切られていたりして、一見似ています。しかし、この写真は1880年代にロンドンで撮られた写真であり、ドガとはまったく何の関係もありません。ドガが《コンコルド広場》を描いた70年代には、まだこういうスナップ・ショットを撮るだけの短いシャッタースピードのカメラはなかったと言われています。したがって、彼は写真から影響を受けたのではなく、こういうふうに作ることによって瞬間性を演出するという発想があったと考えられるわけです。
23左 ラファエロ《マリアとヨセフの結婚》1504年
右 サンレダム《ブール聖堂の身廊》1644年
この問題は、先程の遠近法の問題と照らし合わせて考えると非常に面白いのです。これはルネサンス期のラファエロの≪マリアとヨセフの結婚≫という絵で、線的遠近法で描かれています。ここでは、画面の中に建物を含む空間をまず想定し、その空間の中に人物を当てはめていくことで全体ができています。だから、手前にマリアとヨセフという主人公達が指輪をはめる結婚の場面を置いて、そこに視線が集まるように人々の向きを調整していって、その他の人々は、それだけ距離が離れたように小さくなっていくという発想です。
こういった遠近法が応用されていくなかで、17世紀になると違う発想が出てきます。歴史画では、画家が実際にこういう場面を見て描くのではなく、こういう場面をモデルを使ったりして作るものでした。ところが17世紀のオランダで教会の内部を描いた絵などは、実際にその教会へ行って場面を見ながら、ここを描こうと決めたところをフレームに区切って描くわけです。つまり、空間を架空のものとして作るのではなく、実際の空間自体を、ここを描こうと決めて枠をはめて切り取るのです。そして、切り取ったものを絵画として描くときには、線的遠近法に基づいてきちっと描きます。したがって原理は同じですが、最初のフレームの作り方が違います。フレームの中に三次元の空間を架空のものとして作るのではなくて、空間があるものをフレームに切り取るのです。これは、要するに歴史画的でないものから出てくる文脈上にあるからこそなのです。
24右 リオタール《アトリエからのジェノヴァ眺望》1765-70年頃
18世紀にはこういう絵が出てきます。この絵はリオタールという画家が自分のアトリエから見たジェノヴァの風景を描いたものです。手前の人物はリオタール自身か友人か分かりませんが、絵の中に人物がちょこっと入ってるのです。この人は、別にここを通り過ぎるわけではないと思うんですけど、それが構図としての面白さを生んでいます。18世紀にこういう構図が出ているというのは、こういうフレームをはめて物を捉えるという感覚が既にできているからです。これが写真の技術なんかとまったく無関係に出てきていることは明らかで、そう考えるとドガがやっていることも、伝統的な遠近法の応用の中から出てきたのであって、写真や浮世絵は必ずしも必要としなかったことがよく分かります。したがって、ドガは舞台の臨場感や踊子達が舞台で動いていることを画面に作るために応用していったと考えられるわけです。
25左 ドガ《白い踊子達》1878年
右 ティソ《乗船》1873年
ここでは、並んで足を上げている踊子達が捉えられていますけど、この踊子がまったく画面の端で切られていますよね。ここがクローズアップになっていて、後ろにも書き割りがあるだけで、パッとこの空間が空いて描かれています。ここには遠近感を示すものは何もないけど、われわれには遠近の対比が強く感じられるのです。
こういう構図をもう一つお見せしますが、これも同じ時代のティソという画家が描いた船に乗り込む女性達を描いた作品です。しかし、こういったものは、何かマネキンに衣裳を着せて飾ってあるような感じがするのに対して、ドガや印象派の絵には「動きそのもの」が感じられるのです。それは構図が切られていたり、あるいはパステルでも絵具でもガサガサとした筆遣いを残すことによっているのです。こういう縞目まできちっと見えると、われわれには止まって見えるわけです。それが動いているような感覚は、こういうところから出てくるのです。前に言ったスケッチ性みたいなものもがドガにおいても活きていることがよく分かるわけです。
ドガの面白いところは、単に瞬間とかということだけでなく、それを人間の心理描写にまで応用していくところです。こちらの踊子と対比すると面白いと思って、踊子でないドガの≪アブサント≫という題名が付いた作品を持ってきました。
26左 ドガ《アプサント》1875-76年
右 ドガ《身繕いする踊子》1879年頃
アブサントというのは、「悪魔の酒」などと呼ばれていたように、非常に強いアルコールで、ニガヨモギを原料にして作られ、中毒性が強くて、アル中がいっぱい出たのはこれが原因とまで言われているようなお酒ですが、それが女性の前にあり、そのすぐそばに男性が座っています。そばに座っているということは、赤の他人ではなく、兄弟か夫婦か恋人同士と感じるのが当然だと思います。
ところが、よく見ていくと、この二人は、片方はボヤーッと宙を見つめ、もう片方は目を逸らすように向こうを見ているのです。二人の間には温かい心の交流が全然感じられないわけですね。しかも、そこには新聞が置かれてあり、新聞がカフェのテーブルの上に置かれている。当時は朝刊しかなかったので、ということは、朝から男女が並んで酒を飲んでいるわけです。それで、この2人は娼婦とその客で、時間は翌日の朝という設定だと判る仕掛けになっている。
実際には、二人ともドガの友人がモデルになって作られたものです。もっと面白いことを言うと、よく見ると、机の足がないのではないかという説もあるんです。それから、この極端な斜めの構図の中で、ここが大きく空いています。ここに机の足を描いてしまうと、ここが空かなくなります。つまり、空くことによって、この二人の心理と対応する、宙に浮いた不安定な感覚がすごく強調されることになっているのです。テーブルや新聞の位置によってもそれを暗示しているのだと思いますが、ドガの場合は、そういう心理的なものと構図の工夫が結び付いているのです。
右の絵では、この断ち切られた画面のところに踊子がいて、トゥーシューズを履いたあとソックスを直しているんだと思います。その後ろには踊子ではない女性がいますが、これはどう見てもその母親で、虫がつかないようにくっついて来ているステージママということになるわけです。一瞬、彼女は「この娘のスカートを直しているのかな」と思うんですが、よく見ると違います。ここでも新聞が役に立っており、彼女は新聞を見ていて、娘が何をやっているかなんて見ていません。そこへ男が来ないように見ていればいいわけです。
それを横から覗き込んでいる別のステージママがいる。彼女はちょっと斜め上からの非常に極端な構図の中で捉えられていますが、これは床自体がこういう斜めの構図を作るのに対して、人物がこういう構図を作ることで安定感を持つからです。こちら側は、どちらかというと、この線がすごく効いてると思いますが、心理描写のためにこういう技法を使うことまでやるわけです。この心理描写の問題では、当然、表情だとか顔の向きだとかタイプだとかが問題になり、さらに先程話した観相学的な問題が絡んできます。
27左 ドガ《14歳の踊子》1878-81年 第6回印象派展
右 カリエ=ベルーズ《バッカント》1863年
次に、左側は、ドガが作った彫刻で、≪14歳の踊子≫という作品です。これは1886年の印象派のグループ展に出されました。この彫刻の不思議なところは、当時の一般的な彫刻と比べると非常によく分かります。
右はカリエ=ベルーズという、ロダンの先生だった彫刻家が60年代ぐらいに作った作品です。この彫刻の女性はバッカスに仕えるバッカントと呼ばれる女性ですが、通常、彫刻はこういう大理石だとかプロンズだとかの色のない固い素材で作られています。ですから布だとか植物だとかにも色がありません。
しかし、ドガのこの踊子の彫刻では、素材は蝋なんです。蝋や粘土は最初に彫刻家が何かを作るときに使う物としては不思議ではないんですが、蝋や粘土はもろいですから、作ったあと、それを石膏型に起こして、その石膏型を基にブロンズや大理石を作るのが当時の彫刻の作り方でした。したがって、最初の段階に蝋を使ったこと自体は珍しくはないんですが、ドガは、その蝋で作った踊子に直接わざわざ布で作ったチュチュを着せているのです。それで、衣裳には色が付いています。それから、人毛を使った髪の毛に本物のリボンを結んでいます。それで、当時の人は、「これで彫刻と言えるんだろうか」とびっくりするわけです。
しかも、展示の仕方も変わっていて、ガラスケースに入っていました。今では小さい彫刻がガラスケースに入っているのは当たり前だと思うんですが、当時のサロン展では彫刻をガラスケースに入れることはないのです。「ガラスケースに入れるの何か」とか、「色が付いてるのはどういうことか」ということを考えると、ドガの踊子の彫刻の性質が分かってくるのです。
28右 コルディエ《スーダンの黒人》1857年
これは、1850年代にコルディエという彫刻家がアフリカの黒人を表した彫刻です。これは黒人ということを明確に表すために黒い大理石を使い、衣裳にも色大理石を使っています。これは19世紀の後半の、彩色、というか色のある彫刻という新しい試みです。しかし、こういうものと比べても違うことが分かります。衣裳に色があるだけで、彼らは石という素材は守っているわけです。ドガは布を使っています。ただ同じ頃、これと似たものは別にあります。
29右 《オセアニア原住民の蝋人形》人類博物館、1880-95年頃
これです。これは民族展示で、人類学博物館みたいなところで、どこかの原住民を作って展示しているのです。蝋で作られ、衣裳や民族的な装身具などを付けてガラスケースの中に入れて展示しています。当時これはある種の標本であり、「彫刻や美術という範疇にはない物」とされていました。しかし、ドガは自ら芸術家でありながら、踊子という素材を使った彫刻作品を民族誌的展示と同じように出してくるんです。これは、ある意味では面白い、不思議なことであり、見る側は「そういう物として見ろ」と言われていることになります。
30右 《犯罪者とその犠牲者の蝋人形》デュピュイトラン博物館
もう一つ同じような物に、当時の犯罪での犯人の顔と被害者の顔を蝋人形で作った見せ物的な発想の展示があります。マダム・タッソーのものが有名な、いわゆる蝋人形館の展示物です。ドガの蝋人形は、こういうものと似ているということが問題なわけです。そして踊子をそういうものとして作りだしたいという発想の背景に何があるかと考えたときに、どういうふうに顔を作るかが関係してくるわけです。
31左 ドガ《犬の歌》1876-77年頃
右 同《歌手のデッサン》
これは、ドガがカフェ・コンセールで歌う歌手を描いた≪犬の歌≫という出し物です。手の形を見ると犬が立ち上がっている形になっていて、カフェ・コンセールの出し物ですから、「犬の鳴きまね」とかが入っているのだと思います。それをデッサンとして描いたのが右ですが、この顔は、普通の顔というよりはゴリラの顔といった方がいいような感じがしますね。彼はわざわざこの顔をここに描いた。そういうものとして見るという視点が出ていることがよく分かる例です。
32左 ル・ブラン《人相学講義のためのデッサン》
右 カンペール《猿からアポロンに到る顔面角度》1791年
こういう発想は、先程言ったように、既に17世紀にル・ブランの観相学的なデッサンの中に出てきています。ここでは、猫の顔と猫をモデルにした人間の顔みたいなものを並べて作ります。すると、猫好きの方には申し訳ないですが、ちょっと小ずるいというか、いい性格には見えないところが出てしまうのです。そういう性格を表すために動物の顔を使うという発想は伝統的にあるわけです。
先程カンペールという名前を出しましたが、19世紀の頭ぐらいに骨相学の考えが出てきました。これは、通常の人間はこれ、サルがこれ、チンパンジーがこれということで、進化論以前に、顔の等級を低い方から高い方へと骨の比較から考え出してしまうのです。普通の人間より上は何かというと、ギリシアのアポロンの彫刻という理想化された人体となります。つまり、動物に近い方が等級が下という感覚で、そういうものと人物を表すことが結び付くのです。
ドガはそういうことにすごく興味がありました。裁判所に実際に行って当時の殺人事件の被告をわざわざ描いて、「犯罪者のフィジォノミー」(観相学)という題名をつけたデッサンを描いて、あろうことか先ほどの踊子と同じときの印象派展に出すのです。
33左 ドガ《犯罪者のフィジオグノミー》1880-81年
右 ロンブロゾーのサンプル、『犯罪的人間』1878年
「犯罪者の顔の特色を私はこういうふうに捉えました。踊子はこういうふうに捉えました。そういうふうに見てください」と言わんばかりのことをしたのです。当時、写真によって犯罪者の顔を集めて、それを比較することによって、「犯罪者のタイプはより劣った人間として先祖返りをしている」というロンブローゾの理論がありました。ドガがロンブローゾの影響を直接受けている受けていないとかではなくて、同時代のそういう発想の中にドガもいたのです。
34左 ドガ《14歳の踊子》
右 同《14歳の踊子の習作》
踊子については、労働者階級から出て上流階級へ自ら入り込んでいこうとするものとして観察し、そういった階級の一つの標本みたいに彫刻として作って出す。一部の研究者は、この踊子の習作と完成作を比べて、「より顎が出っ張って、額と顎の線が下が出ているように作られている。それはより動物的な顔に作られているのではないか」とまで言ってます。
ドガはこうやって踊子に対して非常に冷めた目を向けていますが、先ほど言ったように、一方でいくつものデッサンをして、それを組み合わせて画面を作っていくこともやっていました。
35左 ドガ《バー・レッスンの踊子達》1876-77年
右 同デッサン
この絵はそのいい例で、バーで練習する踊子達をバラバラに描いて一つのバーで練習するように描き、しかも、この斜めの構図の中に足の線を組み入れて、この足とこの如雨露(じょうろ)も呼応しているような構図を作っています。
この如雨露の水は床を湿らせるために撒くものであり、だから水を撒いたところの色が変わっているところまで描かれていることが分かります。そういう細かい作業をするために、ドガはそのバラバラのイメージを集めることをやるわけですが、これはこの時代の一つの特色のような気がします。
36左 モロー《聖なる象》1885年頃
右 ジョーンズ『装飾文法』1865年
画家が何かイメージをつくるときは、さまざまな資料を参照にするんですけど、参照にする仕方はいろいろあります。これは何回もドガと交差して出てきているモローの作品ですが、モローはこういった幻想的な象の上にいる妖精の絵を描いています。これは上野の西洋美術館が持っている水彩ですが、当時装飾を作るのに刊行されていた装飾文様集の中から部分を取り出しているものです。全部木を彫り抜いた模様で、それを椅子だけでなく、冠に使ったり宝石に使ったり、材質や大きさを画面で組み換えて合わせていくんです。ドガとまったく違う主題を扱ったものですが、手法としてはすごく似ているのではないかと思います。
37左 ドガ《緑の踊子達》1880年
右 エルンスト《罪あるいは奇跡:完全なる人》『百頭女』1929年
たとえば、この踊子は、画面斜め上から見下ろした形で、桟敷の上から見ている視点を持っていますが、後ろで待っている踊子達は、ほとんど真横から捉えられています。このように、二つの視点が一つの画面の中で合わされることによって、二つの視点が一つの画面に入ってしまう。気がつくとちょっと変な違和感みたいなものが出てくるのがドガの絵なのです。
20世紀になると、コラージュといって、イメージを切り取ってきて一つの画面の中に合成することが行われます。たとえば、シュールレアリスムのエルンストという画家の手法がそれです。右がそうで、全然違う挿絵を組み合わせることによって、なにか非常に不思議なイメージを作っています。ドガの絵にも、そういうものに通じる、つまりバラバラのイメージを画面の中で組み合わせて、現実の空間や時間を越えていくような感覚が既に出てきているような気がします。
38左 ドガ《シューズのひもを結ぶ踊子達》1895年頃
右 マイブリッジ《馬の疾走》1887年
たとえば、これは踊子がトゥーシューズの紐を結んでいるところを描いたものです。しかし、よく見ると、みんな同じような格好をしている。この二人は紐を結びながら話をしているように見えますが、どうして3番目の女性は真後ろで、4人目は横で少し右を向いてるのでしょうか。だんだん回転していくように見えませんか。これは偶然こんなふうにこの4人が座っていたのではないと思います。一人のモデルをあちこちの視点から描いたデッサンを持っていて、それをこういうふうにわざと一つの画面の中に並べたのだと思います。われわれは「時空は一つ」と思って絵を見るので、4人がこう並んでいると思うのですが、気づけば、一種のアニメーションのように連続する時間の流れを感じます。
右は1890年代の写真ですが、その頃になると、こういった連続写真が撮られるようになります。マイブリッジという人は馬が走っているのを連続シャッターを切ることによって、こういった動きとして捉えました。ドガはその発想を画面の中に持ち込んだようで、実際にこれに呼応するようなデッサンがいくつかあります。
39右 同デッサン
これなんかは、まさしくそっくりです。
40右 同デッサン
これになると、ちょっと視点が違います。つまり、いろいろなものをたくさん見ているんだと思いますが、その中でだんだんポーズが変わったり、自分が動いて向きを変えたりして、捉えているものをいわば連続する動きのように画面の上に置いています。
これは一瞬の時間を捉えるものからは外れていきます。バレエという場面を描いていると思いますから、違うモデルがそこにそういう形で一瞬居たように見えますが、ドガの意図はそうではないかもしれません。というのは、彼自身が写真を撮りはじめるようになると、必ずしもデッサンでなくてもよくなるのです。つまり、基になっているイメージは写真の場合もあるのです。これはドガがアトリエでポーズさせた踊子を撮った写真ですが、このポーズの女性はここに使われ、このポーズの女性はここに使われ、これを組み合わせることによって、画面の中で一瞬のある場面が演じられているように作られているのです。
41左 ドガ《青の踊子達》1898年頃
右 ドガ《踊子のポーズ写真》
これは≪青の踊子達≫という絵ですが、普通こんなにブルーの強いバレエの衣裳はありません。ところが右を見てください。ドガが採った踊り子のポーズ写真のネガですが、強烈な色が付いています。これはそういう変色をしているので、決してカラー写真ではないのですが、こういうものからヒントを得て、強烈な色を意匠に与えたのではないかとも言われています。
42右 同
もっと面白いのは、これとこれを見比べてください。これはたぶん同じものを少し変化をつけているのであり、この女性とこの女性は同じ人物です。こちらの女性は顔の向きも背中の向きも同じですが、手の表情が違っています。この女性は全然変えられています。
43左 ドガ《踊子》1899年頃
右 ドガ《踊子》1899年
これも見比べると面白いです。ここに新たな女性が一人入ってきていますが、この顔とこの顔はたぶん同じ人物で、ポーズもほとんど同じですが、ここでは手を曲げています。この女性は一つ後ろへ下がっていて、そこにはソファがあります。
彼はこういう形で写真を基にバリエーションを作っています。そのときに色を変え、人物の組み合わせを変えるのです。そして連続する一つのアニメーションのような場面を作っています。この中にいる人物達は、こちらからこちらへ動いていく一連の人物の連続する場面として感じられるような気もするわけです。
44左 ドガ《舞台の袖の踊子達》1900年
右 モネ《ルーアン大聖堂》1893年
ドガは1900年よりあとまで生きますけど、晩年は目が見えなくなってきて絵画を描けなくなります。これはほとんど最晩年に描かれた踊子のパステルですけど、この絵にも今言ったようなことが非常によく出ています。ここでも後ろ向きから横向きになり、だんだん前かがみになっていく女性が連続して捉えられていますが、おそらくこれもバラバラに一つずつ描かれたデッサンを組み合わせているのでしょう。
物を並べて差異によってある一つの連続するものを感じさせるという発想は、馬渕先生がお見せになったと思うんですが、ある意味でモネの≪ルーアン大聖堂≫の連作と非常に似ているような気がします。≪ルーアン大聖堂≫も、時間と天気などが違う条件のもとで、同じ聖堂が影を見るとだんだん延びていくのが分かります。それから、これとこれとでは天気が全然違うことも分かるのです。
彼はそういうものをわざと強調して色を変えて並べます。そうして並べることによって、われわれは、それを時間の流れだとか変化だとか、連続したものとして捉えるのです。印象派が「現実の世界を切り取るように見ている」と言いながらも、彼はそれを非常に強く自分の考えのもとで操作して作り上げているのです。その点で、ドガとモネは、若い頃に仲違いしてあまり仲良くないんですけど、ある意味ではすごく似た発想を持っているのです。それは、現実から離れていき、一瞬そう見えるものを切り取るのではなく、画家が感じて作られたものを強調していくという点です。
45左 クノップフ《記憶》1889年
右 妹マルグリットの写真
今日最後にお見せするのは、19世紀の末に出てくる象徴主義という動きの中の画家の一人で、フェルナン・クノップフというベルギーの画家の作品です。クノップフはドガの影響をかなり強く受けています。彼の象徴主義は、現実を描くのではなく、むしろ観念の世界みたいなものを描くことを目的にしています。クノップフがこの≪メモリーズ≫、「記憶」という題名が付いた作品でやっていることは、テニスラケットを持つ女性達が7人いるんですけど、よく見ると全部同じ顔なのです。これはクノップフが自分の妹にこの格好をさせて写真を撮って、それをこの中に合成しているのですから当然なのです。そして≪メモリーズ≫という題を付けましたが、誰が見ても不自然さは明らかです。つまり非現実的な同じ人物がいろいろなときにいろいろな服を着ている、その思い出が一つの画面の中にあるというものになっているのです。
しかし、この発想は、今日お話したドガの中に既に出てきているのであり、クノップフはそれを非現実の段階まで進めているといえます。ドガあるいはモネの≪ルーアン大聖堂≫も、現実を描きながらそういうある種の逸脱が入ってきていると考えてもいいのではないかと思います。
喜多崎 親
1960年生まれ。
早稲田大学大学院博士課程中退。
国立西洋美術館主任研究官をへて、2001年4月から一橋大学に移る。
現在、大学院言語社会研究科教授。
専攻は19世紀フランス美術史。特にアカデミズム、象徴主義などの
研究が中心だが、モネやルノワールに関する論文もある。
近刊に『岩波西洋美術用語辞典』。