日本の高等教育と一橋の学問

 

講師 国立大学財務・経営センター教授

天野 郁夫 

平成17年8月2日 於:如水会館

【無断転記転載を禁ず】

社団法人 如 水 会

責任編集

 




◆内容目次

はじめに

日本の大学と一橋

高等教育の二元的構造

高等専門学校の昇格運動/大学との同格化

原型としての東京大学・東京高商

同格化への歩み ― 対抗と同調

学者の育成装置としての留学

大学への道

国費による留学生制度の発足

経済学・商学関係の留学生

留学制度の変質

学者の身分的象徴としての学位

戦前期の学位制度

三種の博士

経済学系の学位取得者

法学博士(〜大正8年)

商学博士と経済学博士(〜昭和12年)

一橋の学問的な特質

明治30年代半ばの一橋と帝國大学

士族と平民 ― 士・農・工・商

学校と親の職業 ― 戦前期

商家と学問

講座制という装置

非帝大系の学科目制

おわりに

質疑応答

講師略歴


はじめに

 ご紹介頂いた天野郁夫です。昭和33年の経済学部卒業、山中篤太郎ゼミの出身です。卒業して1年間ほど就職していたのですが、辞めて、当時東京大学に学士入学という制度があり、3年編入試験があったので、受験して入学しました。高校の先生にでもなってのんびり暮らしたいという思いがありました。最初に入った会社(富士通)があまりにも忙しくて、もう少しのんびり生活したいと思ったわけです。ところが、いざ東大教育学部に入ってみたら、高校の先生になるにはいろいろ取らなければいけない単位があり、大変だということが分かってきました。「資格を必要としない先生というと、大学教授だろうか」と(笑)、大学院でうろうろしているうちに大学の先生になってしまいました。あまり自慢できるようなキャリアではありません。

 私は東大に再入学してから教育社会学という社会学の一領域を勉強し、研究してまいりました。それを教えてきたのですが、だんだん高等教育の問題に関心を持つようになりました。東京大学を辞めるときに私立大学からいろいろお誘いもありましたが、国立大学に永年お世話になったので、それと何か関係ある仕事をしたいと思っておりました。そこで、国立学校財務センターという小さい組織、研究部といっても部員2人しかいない組織に移りました。この如水会館の隣にある総合学術センタービルにオフィスがあります。

 国立大学が法人化したので、少し大きくなって現在30人規模の組織ですが、研究部には依然として総員4名しかおりません。「国立大学財務・経営センター教授」という大層な名前ですが、何をやっているのかは話が長くなるので省略します。一橋で、少しは商学概論や簿記を勉強したことになっていますが、まったく頭の中に残っておりません。昔の不勉強を後悔している次第です。

 国立大学も法人化されて、私立大学並みとは言いませんが、財務の問題点、経営課題が深刻な問題になってまいりました。一橋大も同様ですが、そういう問題を否応なく考えさせられています。一橋を出て何十年もたってから、如水会館の隣にオフイスを持ち、財務や経営のことを考えなければならない。私の人生は一橋で始まって一橋で終わる(笑)のかなどと思っています。

 今日はそういうこととはまったく関係のない、「日本の高等教育と一橋の学問」というタイトルでお話させていただきます。世話役の方から依頼を受けたとき、「とても一橋の学問を語る資格も能力も私にはありません」と一度はお断りしました。けれども、私の古くからの知人のご子息が担当者で、遂に押し切られてしまい(笑)、実は後悔しながら、しかし楽しく、準備をさせていただきました。

 このシリーズは、一橋と関係のあった著名な学者たちを取り上げて、その業績等についてレビューすると伺っています。私は経済学をろくに勉強しないうちに東大に移って、教育学や社会学を勉強するようになりましたから、一橋の学者たちの学問的な業績を云々する能力はありません。そこで今日は「一橋の黄金時代を担った学者たちが、どのようにつくられてきたか」というお話をさせていただこうと思っています。学者がどうつくられたかというのは、もちろん学者自身の資質の問題もありますが、それ以上に「システムや組織の問題」です。そういう角度から話をさせていただきますが、この問題は「日本の大学とは何か」を考える上でもなかなか興味あるテーマだと思います。

 これまで一橋の学問とはなにかなどと言うことは、あまり考えたことがありませんので、いざ話をすることになると、いろいろなことをあらためて調べざるを得なくなりました。その結果、まるで学生のゼミ報告のような中身になって、資料もたくさん用意せざるを得なくなりました。ご覧になりながら話を聞いていただければと思います。

 まず最初の表(リンク)は、日本の経済学の世界における一橋大学の、現在の位置を知るための1つの手掛かりとして用意しました。朝日新聞社から毎年『大学ランキング』という本が出ていますが、2005年版から引用しました。最近の流行りですが、大学の国際的水準や日本国内での水準を知るために、ある大学の先生たちが国際的なジャーナル、学術雑誌にどのくらい論文を書いているかという「論文掲載数の分析」があります。そのひとつ、「国際経済学術誌 99〜04年」の分析によれば、一橋大学は、総合・特定分野とも東京大学に次いで2番目に掲載数が多いことになります。経済の世界では、一橋は東大に準ずる、あるいは阪大や京大と並ぶ地位を占めていると言ってよいでしょう。

 資料2(リンク)はちょっと古いのですが、大学教授職の学部別市場占拠率です。つまり、日本の大学教員全体のなかで、たとえば一橋大学出身者がどの程度のシェアを占めているかという調査です。私自身の分析ではありませんが、1962年と1982年という2つの調査時点の数字対比です。古い数字になっているのはお許しください。その中の「経済学部」の欄を見ますと、62年には圧倒的に東京大学が高い位置を占めています(22%超)が、京都大学と一橋大学がほぼ並ぶ(各10%超)ところにあります。東大が2に対して、京大1、一橋1ぐらいという比率になっていました。まだ大学の数が少なかった時代ですから、大学自体の数が増えてくると、当然そのシェアは下がっていきます。82年のデータを見ますと、東大が依然として1番多い(13%超)のですが、早稲田が2位(8%)に上がってきている。京都(7%)と一橋(6%)がそれに続き、神戸大(5%)の地位がだんだん上がってきたということがデータから分かるわけです。これは経済学だけではなく、商学・経営学系の学部も含んでいる数字です。


日本の大学と一橋

 つまり、まず申し上げておきたいのは、社会科学系・経済・経営学系で、一橋大学は東大に準ずる地位を占めてきたということです。一橋大学の地位は、先程の62年と82年の比較でも分かるように、時代を遡るほどに高いところにあったと言っていいと思います。戦前期には、一橋の地位は極めて高かったわけです。なぜかといえば、まず大学の数そのものが極めて少なかった。しかも高等教育機関に進む人達の数も、同年令人口比で言えば数%しかありませんでした。大学の「エリート段階」と言いますが、大学生がエリートであっただけではなくて、大学の教員たち、学者はスーパーエリートであったわけです。

 大学の名前や、ある学問領域が、学者の名前と関連づけて記憶されるような時代でありました。「学者の英雄時代」と言ってもいいでしょう。経済学にあっては誰々教授、あるいは東大経済学部であれば何々教授というようなことです。大体、昭和30年代ぐらいまでは、一橋の経済学といえば中山伊知郎、東京大学の経済史といえば大塚久雄と言うように、それぞれ学者の名前と関連づけて記憶されていた時代があるわけです。いまはまったく大衆化して、「一橋の経済学を代表する先生は」と言われても、失礼ですがすぐには特定の先生の名前が思い浮かばない時代になっている。東大でも同じことですが、時代を遡るほど、そういう学問のヒーローとかエリートが輩出した時代があったのです。

 きょうは、そういう時代の話をいたします。一橋の学問の黄金時代と言ってもいいかもしれません。英雄になった人たちは、どのようにつくられたのか。これは歴史的な物語でもありますので、まず最初に、背景としての日本の大学や高等教育のオリジンについて、話しておきたいと思います。

高等教育の二元的構造

 近代日本の大学、高等教育制度は、19世紀の第4四半世紀、1870年代に出発します。後で年表を見ていただくとよく分かりますが、日本が近代化を開始して大学をつくり始めた19世紀というのは、どういう時代であったのか。なによりも、中世以来の歴史を持つ大学という制度・組織の母国とでも言うべきヨーロッパでは、中世的な大学の時代が完全に終わって、近代的な大学が急激に発展をし始めた時代でした。当然、産業化の時代ですから、産業化が進むにつれて、だんだん新しい学問が現れます。経済学や工学は当時の新しい学問であったわけで、新しい知識職業も次々に登場してくる。ところがヨーロッパでは、伝統的な大学の壁が非常に厚くて、新しい学問や、新しい専門的な、高度の知識を要求する職業人の養成が、伝統的な大学の中に入り込めない。そのため、一種の二元構造が生ずることになりました。

 「学問の府」である中世以来の大学、ドイツ語でいえば「ウニベルジテード」は、哲学、神学、法学、医学という4学部から成り立っていました。哲学部というのは今風に言えば教養教育にあたる基礎的な教育をする一方で、大学教授や中等学校教員の養成機能も併せ持っていました。法学部、医学部は、最も伝統的な専門職業人の養成の場です。これに対して、それ以外の実学的な職業人養成の場は、大学の外側にありました。それが高等専門学校です。ドイツ語で「ホッホシューレ」と言いますが、ハイスクール、高等学校であります。ヨーロッパの多くの国で、大学とは別の高等教育機関としてつくられてくるのですが、工業、鉱山、農業、林業、そして商業などの職業領域の人材養成は、このホッホシューレで行われることになります。ウニベルジテードとホッホシューレという二元的構造が成立したわけです。

高等専門学校の昇格運動/大学との同格化

 そのホッホシューレ派、最初は大学に比べて一段低いレベルの学校でしたが、だんだんとレベルがあがってくると、やがて大学との同格化運動が起こってきます。ドイツはその運動が早くから展開された国で、その運動の先端を切ったのは「TH」と呼ばれる、テヒニッシェ・ホッホシューレ、高等工業専門学校でした。そのTHが大学との同格化運動を激しく展開するわけですが、一体どういう高等教育機関を大学と呼ぶべきなのか。それには、いくつかの条件があります。

 いまではどこの国にもある大学ですが、基本的な条件は次のようなものとされてきました。

@ 大学は学位の授与権、しかも博士号の授与権を持っている。これは大学だけの特権です。

A 大学は自治権を持った組織です。「大学の自治」と言いますが、教授を選任し、推薦する権限、あるいは学長を自分たちで選ぶ権限を大学は持っている。つまり学問をするものの共同体として、自分たちの仲間を自分たちで選ぶ権限が、自治権の基本です。

B 大学は、知識人・学者の共同体・宿り場ですから、後継者養成の機能も持たなければなりません。つまり大学は、学者の育成と自給の能力を持っている必要がある。大学で教授職に就く人達を養成する必要がある。中世の大学は一種の徒弟制で、徒弟から出発して職人になり、それから親方になる。徒弟時代が学生ですし、博士号をもらうと職人のステータスになる。親方というのは大学のプロフェッソール・教授にあたります。

C それからさらに大学は、特に19世紀になってから、「学問の府」でなければならないとされました。教育と研究の統合された場、教育と研究の両方の機能を持っている高等教育機関ということです。それを象徴するのが講座制です。

 これは最後のほうでまたお話することにしたいと思いますが、ヨーロッパの大学は、教育研究の基本的な組織単位として講座をおいています。1人の教授が、たとえば経済史講座であれば、経済史の教育と研究の責任をもつ制度です。大学に講座がおかれるということは、学問の世界でその学問領域が、1つの独立した学問領域として認知されたことを意味しています。講座の連合体が学部であり、学部の連合体が大学だと考えていいと思います。こうした特性を持っているのが「大学」という高等教育機関です。高等専門学校が大学になるというのは、大学の持つこうした特権的な様々な要件を、獲得していくことであるわけです。

原型としての東京大学・東京高商

 戦前期の日本の場合も、ヨーロッパと同じような高等教育の二元構造がありました。象徴的に言えば、東京帝国大学と東京高等商業学校との関係ということになるかと思います。これについて資料3(リンク)に用意した略年表をご覧ください。東京大学と東京高商に関係する項目だけを抜き出したもので、シャドーかけのところが一橋関係の事柄です。

 まず1874年、明治7年に東京開成学校が設立されました。東京大学の前身で、場所は現在神田の学士会館があるところです。東京大学の起源はさらに遡るなら、幕末の蕃書調所までいくのですが、ここでは東京開成学校から始めます。次の年に、一橋の前身である商法講習所が東京府立として木挽町に設立されました。明治10年に東京開成学校は東京大学になります。法・理・文の3学部および医学部の4学部制で、はじめて「大学」とついた高等教育機関が発足しました。東京大学の設立年は、この明治19年とされています。

 明治17年には、既に「東京商業学校」の名前になっていた一橋の前身校は、東京府から農商務省に移管されます。同じ年に東京外国語学校に付属高等商業学校が設立されました。その東京外語のあった場所は、昔の一橋講堂の跡地、いま私のオフイスのある学術総合センタービルの前のところです。記念碑が建っていますが、そこに東京外国語学校があった。ですから東京大学の斜向かいに置かれたわけです。翌明治18年(1885年)には、農商務省の東京商業学校とこの文部省立の付属高等商業学校が一緒になり、東京商業学校という文部省所管の学校になります。これが、実質的に東京高商、一橋の始まりと言っていいでしょう。

 1886年、明治19年に帝国大学令という法律が出来ます。日本の近代大学の歴史は明治10年、東京大学の発足とともに始まるのですが、実質的には明治19年に、それが帝国大学になったときに、現在まで引き継がれている日本の大学の「原型」が決まった、作られたと言っていいと思います。帝国大学は法・医・工・文・理の5学部(当時は分科大学と呼んでいました)で発足しました。それ以前に東京には工部省の工部大学校、司法省の法学校といった、官立の専門教育機関がありましたが、これら官立の学校を統合して、国家の大学として、唯一の総合大学、帝国大学を発足させたわけです。数年遅れて明治23年には、駒場にあった駒場農学校という農商務省の学校が統合され、法・医・工・文・理・農という、その後大正期まで長く続く、東京帝国大学の6学部体制が出来上がりました。明治20年には学位令が公布されて、博士号の制度が初めてできました。これについても後で詳しく話をいたします。

 そしてこの同じ年(明治20年)に、東京商業学校は高等商業学校という名称に変わります。そして26年には、帝国大学が講座制を導入する。東京高商のほうは、この年に、創設以来の矢野二郎校長が辞職しています。矢野が辞めたことが、大きな意味を持っていたことは、一橋の校史でも指摘されています。

 明治30年、京都に2番目の帝国大学が出来まして、帝国大学は東京帝国大学と名称を改めます。東京高商側はこの年に専攻部(1年制)が設置され、また福田徳三・佐野善作の2人がヨーロッパとアメリカヘそれぞれ留学しています。明治32年には、京都帝国大学に法学部が設置されました。それ以前には医学部と理工学部しかなかったのですが、この新設の法学部に、東京帝国大学の場合と同様、経済学の講座が置かれることになります。高商ではこの年に専攻部が2年制になり、さらに2年たって明治34年になると専攻部卒業者に商業学士の称号が認められることになりました。この(1901)年は、一橋の歴史のなかで有名な伯林宣言が出された年です。この辺から商業大学、商科大学の設立運動が始まるわけです。

 明治35年、私立専門学校に大学名称が認められるようになりました。当時、東京専門学校と呼ばれていた早稲田大学の前身校がはじめて、大学と称することを認められたわけです。ただし法律上はあくまでも専門学校で、正式の大学ではありません。その後、私立専門学校の中で、慶応、明治、法政などが大学名称を認められていくことになります。この年(1902)にはもう1つ、神戸に高等商業学校が設置されましたので、東京の高等商業学校は東京高等商業学校という名称になりました。

 明治40年東北帝国大学設立。41年には東京帝国大学法学部(まだ法科大学と呼ばれていましたが)の中に、経済学関係の講座を集めて拡充し、経済学科が置かれることになりました。このことと、東京高商専攻部の廃止論とが深いかかわりをもっていることは、もう度々お聞きになっている話だと思います。翌42年には東京帝大に、さらに商業学科が創られます。この辺は商科大学設立運動ともからんで、様々な出来事があった時期です。さらに43年になると、九州帝国大学が設立される。大正3年になってようやく、京都帝国大学の法科大学にも政治経済学科が設けられる。この年に東京高商では卒業生としてははじめて、佐野善作が校長に就任しています。

 大正7年になって、「大学令」という法律が公布されます。それまでは帝国大学令しかなかったのですが、この大学令で帝国大学以外の官公私立大学の設置が認められることになりました。同年、元の札幌農学校を引き継いだ北海道帝国大学が設立。翌大正8年には、東京帝大と京都帝大の法学部の中にあった経済学関係の学科が独立し、帝國大学経済学部が正式に発足します。

 大正9年には東京商科大学が発足しました。1920年のことです。先程、実質的な一橋の始まりは明治18年と言いましたが、それから丁度25年目です。この年はまた、慶応義塾大学と早稲田大学が正式に大学になった年でもあります。

 大正11年東北帝大、13年九州帝大に法文学部が設置されます。この2つの大学では、経済学関係の講座はこの法文学部に置かれたわけです。昭和3年、大阪市立の高等商業学校が大阪商科大学に昇格し、翌4年に神戸商科大学が設立されて、いわゆる「三商大」が出来上がりました。昭和6年大阪帝大設立、昭和14年名古屋帝大設立となりますが、大阪や名古屋には経済学関係の講座はまったく置かれていません。帝大として医学や理工学の学部だけが置かれていました。

 これがおおよその、戦前期の我が国の大学の歴史です。


同格化への歩み ― 対抗と同調

 この略年表から分かるように、日本の大学の世界では、長い間、帝国大学による独占の時代が続いていました。大正7年(1918)までは、帝国大学以外の大学の設置は一切認められていませんでした。高等商業学校が、我が国最初の高等専門学校(ホッホシューレ)であったことも、大学の設置が帝国大学に限られていたことと関わりがあります。最初につくられて、しかも最高のレベルをもつ専門学校としての東京高商が、その歴史からいって大学昇格へのエネルギーを蓄えていったことがよく分かるわけです。

 それでは高等商業学校は、どうしたら大学と同格化できるのか。そのプロセスは、先に見た「大学」とは何かを規定している諸条件と関係しています。それは「同格化」への歩みと言うより、「対抗と同調」のプロセスと言うべきかと思います。対抗しながら、次第に同じような性格を獲得していくわけです。

 そのプロセスの重要な1つとして、中等学校との接続関係があります。中学校の卒業生を入学試験によって選抜し、入学許可するということは、当時は高等教育機関としての水準の高さを示す、大変重要な条件でした。一橋大の前身である高等商業学校は、明治26年に初めて中学校卒業者を試験した上で入学させる制度を導入します。

 2つ目の条件は、専門教育に入る前に、予備教育を行うことです。当時は高等普通教育と呼ばれていましたが、その予備教育のための予科を開設する必要がある。旧制高等学校は正に帝国大学進学者の予科として作られたものです。それと同様のものを高等商業学校も持とうということでした。高商の予科を含む教育課程の編成には、種々な変遷があります。明治26年にまず「予科1年、本科3年」という4年制になります。翌年には、これに研究科をつけ加えて、「予科1年、本科3年、研究科1年」という5年制になるわけです。先程見たように明治30年にこの研究科が専攻部に昇格します。そして、明治32年には専攻部が2年制になる。これは数合わせのように思われるかもしれませんが、「予科1年、本科3年、専攻部2年」を総合する6年制です。合計して6年となるのは、帝国大学の旧制高等学校3年、帝国大学法科大学3年という制度と対応しているわけで、6年間の教育年限を持つことには、そうした意味がありました。教育年限の同一化のためにこそ、予科と専攻部の設置、年限延長があったとみることができると思います。

 3つ目は、学士の称号についてです。卒業者に学士の称号を承認してもらう。これが明治34年です。東京高等商業学校専攻部の卒業生に商業学士号を認めることになりました。学士の称号をみとめられたのは、帝国大学以外では、東京高商と、北海道大学の前身、札幌農学校の卒業者だけでした。

 4つ目は、さらに重要なこととして、学問的な自立をしなければならない。そのためには学者の自家養成をしなければならないということは、先程も申しました。さらに言えば象徴的なこととして、自校出身の校長を持つということもありました。これは大正3年に至って、佐野善作が校長に就任することによって達成されました。

 こうして遂に、大正9年に大学としての設置認可を受けることになります。こうした長いプロセスを東京高等商業学校はたどってきましたが、そのプロセスはすべて、一橋側から見れば、帝国大学との対抗的な運動のプロセスとして理解されているわけです。一橋の校史を読むと、華々しい対抗の歴史として書かれている。いずれにせよこうしてようやく大正9年、東京商科大学になったのです。


学者の育成装置としての留学

大学への道

 このように、様々な条件がありますが、「大学」昇格のための最大の問題は、なんといっても学問的自立です。特に経済学や商学の領域で、「いかにして教員の自給体制を作ることができるか」が、東京高等商業学校の抱えていた最重要の課題でした。日本の学問はよく知られているように、近代的学問は即輸入学問でありました。社会科学系の学問は事実上それ以外に何もないと言ってもいいわけです。特に商業学や経済学は典型的な輸入学問でした。その学問の教育研究を最初のうちは、外国人教師に全面的に依存していました。一橋の場合もそうですが、東京大学も初期の教授の大部分は、いわゆるお雇い外国人でした。そのいわば学問的植民地常態から、いかにして抜け出すかが、帝国大学を始めとして日本の高等教育機関にとって、非常に大きな問題であったわけです。

 東京高商にとっての学問的な自立のプロセスは、こうして1つには先ずは外国人依存から抜け出すことでしたが、同時にもうひとつ、帝国大学の支配下から抜け出すということでもありました。さらに言えば、実務家型の教員ではなくて、学者型の教員のほうに重心を移していくことも、大学としてのステータスを獲得するための重要な方策、手段でした。高商の場合、教員養成をどのように実現してきたのか。帝国大学の場合は、早くから留学制度がありました。そして、後年一橋黄金時代を担う学者の大部分も、文部省の留学制度によって養成されていくのです。そこで留学生制度は一体どうなっていたのか、簡単にお話しておきたいと思います。

国費による留学生制度の発足

 これは明治期の高等教育を考える場合に、非常に重要な問題です。明治8年、文部省は「貸費留学生規則」を定めました。資金を貸して留学生を海外へ送り出す。帰国したら、資金を出してくれた機関に奉職する義務があり、何年間かはお礼奉公をしなくてはいけない。奉職できない場合には、資金を返させるという仕組みで、先ずスタートしました。留学生は幕末時から、かなりの数、外国に出ていましたが、正式に規則が制定されたのはこの時からです。明治15年には、それが「官費留学生規則」と変わりますが、最初は東京大学の学生及び卒業生にしか、留学が認められていない制度でした。明治18年になって、東京大学以外の官立学校にも拡大されることになったわけです。

 明治21年(1888)になると、高商からは原田貞之助という卒業生(明治16年卒、母校の教員として勤務)が最初の留学生としてアントワープ高等商業学校に留学、そこを卒業して帰国。商業学の教員になります。当時は非常にベルギーの高等商業教育の影響が強かったのです。

 次に、明治22年に村瀬春雄という本科2年在学中の学生が、私費留学で、やはりベルギーに行きます。この人もアントワープの高商を卒業したと思いますが、ベルギー国商学士となっています。そして23年にもう1人国費で行く。同年卒業の祖山鐘三がパリに留学し、パリ高商を卒業しています。

 以上の3名が初期一橋関係の留学生です。このころの一橋の卒業生名簿は、全て、卒業成績の順に並んでいました。名簿をくってみると、原田も村瀬、祖山も、それぞれ1番か2番で卒業しています。成績優秀者を選んで送ったということです。

 明治25年には文部省「外国留学生規程」が出来ました。これによって、それ以後長い間、留学生が外国に多く送られることになるわけです。これは制度の問題ですが、それでは一体どのくらいの数の留学生が、送られたのかが次の問題になります。

経済学・商学関係の留学生

 これについては資料4(リンク)をご覧ください。「明治期経済学・商学関係留学生一覧」というものです。苦労して時間をかけ、調べました。分らないところもあり、完全ではないですが、少なくとも国費で留学した人たちは完全にカバーしていると思います。私の調べた限りでは、国費・校費(学校の費用)で行った人と私費で行った人を合計すると、明治13〜38年までの25年間に、36名の経済学・商学関係の留学生が日本から外国へ行っています。表にして気付いたことの1つは、意外に帝国大学出身者が少ないことです。目立つのは東京高商の卒業生で、全部数えると15名、約4割です。

 先程の原田貞之助から始まり、村瀬、祖山まで話しましたが、4番目に明治30年の福田徳三(明28卒)の名前が出てきます。同年佐野善作。次いで関一、滝本美夫、石川文吾、石川巌(帝大卒の高商教員、商品学)、津村秀松(神戸高商教授へ)、そして下野直太郎までで10名になります。うち30年〜33年の4年間に7人が留学しているわけです。石川巌を加えると、8人の一橋関係者がこの短い期間に留学していることが分ります。その顔ぶれをいま一度確認すると、福田、佐野、関、滝本、石川文吾、石川巌、津村、下野というメンバーです。一橋の黄金時代を築き、支えた教員・学者の大部分がこの時期、1897〜1900年、まさに19世紀末に留学をしていました。しかもヨーロッパに集中しています。

 もう1つ重要な特徴は、村瀬までの初期の時代と異なり、福田徳三から後の世代は一部、高商だけに留学した人もいますが、ほとんどは正規の大学で学んでいることです。商業学校だけではなく、大学で学んでいる。留学の名目は、ほぼ全員が商業学修得ということでした。しかし、実際に学んできたのは、ほとんどが経済学です。経済学は、ヨーロッパでも当時の新興の学問だったと思いますが、「ヴィッセンシャフトとしての経済学」の発展期に出会い、ドイツの大学でその発展期の経済学の先端を研究して帰国したわけです。

 巷間、一橋は文部省と仲が悪かったと言われますが、仲が悪いどころではない。昔は、帝国大学よりも、高商の卒業生を大量に留学生として送り出していたのですから。しかし、なぜこれほど多数の留学生がこの領域で、高商の卒業生に認められたのでしょうか。

 それは1つは、高等商業学校の専攻部の整備と深い関わりがあると思われます。そして商業学士号の授与を図ることとも。学士号は当時、帝国大学の卒業者にしか出せませんでした。例外は札幌農学校(北大農学部の前身)です。その特権に、高商もあずかることになった。そうした高等商業学校のレベルアップと、留学生の集中的な派遣とが関係しているのではないかと思うのです。

 また、高等商業学校の増設計画も進行しています。明治35年に神戸高商設立(32年留学の津村秀松が教授就任)、38年には長崎高商(一橋関係で明治35年田崎慎治、36年平尾丹治の2名の留学者が教授就任)、さらに山口高商と相次いで設置されました。高等教育機関をつくれば、当然教員が必要になりますから、そこで海外派遣で教員養成をする。総合大学である帝国大学には、法科大学に経済学の講座はありますが、商業学の講座はまったくなかったわけです。商業系の高等教育機関の教員養成を確実にするためには、東京高商のレベルアップを図ると同時に、海外留学をさせる方法しかなったのではないかと思うのです。つまり帝国大学の中で養成するのでなく、海外に派遣して高等商業の教員のレベルアップを図るほかはなかったということと、高商と帝国大学との関係の微妙さとは、裏腹の関係にあったのではないか。

留学制度の変質

 その学者養成の手段としての留学も、だんだん国費だけではなくなり、さまざまな変化を見せるようになります。国費の留学生制度を含めて制度的にも多様になっていく。先の表を見て目につくのは、明治32年に慶応が3人の留学生(校費)を送り出していることです。同じ年に一橋は3〜4人で国費です。慶応もこの頃から、大学レベルの高等教育機関になることを目指して、当時は理財学と言っていましたが、経済学の教員養成のためにアメリカ、あるいはイギリスに留学生を派遣しはじめます。

 また政府のほうも、先程申しましたが、京都に帝国大学を新設する、あるいは各地に高等商業学校を次々につくるということになると、多数の教員が必要になってきます。大学・専門学校等の新設のたびに、教員養成が必要になる。そのために、教授予定者をあらかじめ3年間、海外派遣する制度に変化しています。さらにいえば明治30年代の後半になると、だんだん留学の性格が従来の実学的留学というか、最新の知識を得るために正規の学生として入学し、外国大学の学位をとるための留学から、ある種遊学的なものに、あちこちの大学や教授を訪ねて、視野を広げ、学者としての経験をつむ方向に、変質していく動きが見られます。

 この頃から、特に帝国大学教授になるためには、3年間の海外留学が義務づけられる、あるいは必要条件とされるようになりました。たとえば、ある助教授を選んで海外に派遣する。3年間、どこで何を勉強してもいい。かつては学位取得して帰国することに力が注がれていましたが、学位を取る必要はない。いろいろな国の大学に行き、出来るだけ見聞を広めてきなさいという、大変ありがたい制度になったわけです。そして、それが高等商業や高等工業の教員にも徐々に広げられていく。戦前期の日本政府は、先見的というか、長期的方向を見て研究者の養成を進めてきたことが分ります。

 それと同時に、私費で留学する人たちも徐々に出てきました。明治の初期には私費留学者もいましたが(一橋関係では明治22年、村瀬春雄)、その後は長らく私費留学者は出ていません。日本が貧しい国であったこともあると思います。しかし、明治後期になると私費留学者たちが出てきます。一橋関係で言えば、20世紀はじめですが、明治36年の三浦新七と37年の左右田喜一郎のような著名な学者が、いずれも私費留学でした。三浦はドイツに行っている間に国費留学生に切り替わったようですが、留学生が自分の金で外国へ行くようになる。なお、三浦と同年留学の掘光亀、明治38年上田貞次郎の2名は国費で、共に英独留学です。いずれにせよ、このような留学生制度により、一橋黄金時代の教員層が形成されたのです。


学者の身分的象徴としての学位

 学者の育成ということを巡って、もう1つの問題は学位(博士号)です。教授は自動的に学者になれるわけではない。教育だけでなくて、研究もするのが学者です。その学者(現代風に言えば研究者)としての公的な認知のシステムがあるわけです。それは学位制度です。お気付きでしょうが、日本は非常に不思議な国で、「教授職まずありき」なんですね。ヨーロッパではどの国でも等しく、まず始めに学位があって、その先に教授職がある。日本では教授職が先で、そのあとに学位がある。これは21世紀の現在も変わらず続いている日本の特異性です。日本の大学教員になるためには、必ずしも学位は必要とされない。恥ずかしながら、私自身ずいぶん年をとってから学位をとった1人です。少しずつ変化してはいますが、別の言い方をするなら、日本では職人にならないうちに親方になってしまう。そういう不思議な構造になっている。それでも戦前期の学位には、いまと比べてとはるかに高い値打ちがありました。教授の資格としての学位ではなくて、既に教授になっている人たちの、いわば名誉の称号としての博士号が厳然とあった。その意味で、この学位制度は非常に重要な意味をもっています。

戦前期の学位制度

 学位制度を簡単にお話しておきます。実は我々が大学卒業時に頂いた学位、たとえば経済学士とか商学士という学士号は、ごく最近まで学位ではありませんでした。ご自分の卒業証書をご覧頂くと、多分、「学士の称号を授ける」と書いてありますが、「学士の学位を授ける」とは書かれていないはずです。単なる称号です。ただ、それを称するためには文部省認可を受けた公的教育機関を卒業していなければいけない。本来は大学だけが認められるものでしたが、例外として専門学校時代の東京高商と札幌農学校が認められていたことは先程お話しました。

 ヨーロッパでは、大学は、学位授与権を持つことによってはじめて大学になると考えられています。即ち、大学は必ず学位授与権を持たなければならない。日本で最初に学位授与権が認められた高等教育機関は、東京大学であり、明治11年のことでした。このときには学士号だけが学位とされていました。つまり日本でも学士号が学位だとされていた時代が短期間ですが実在したわけです。 

 明治20年に、学位令という法律が交付されたときに、学位は博士号だけになりました。実はもう1つ大博士という学位があったのですが、これは授与された実績がない。ですから実質的には博士だけが学位でした(修士号は戦後につくられたものです)。この博士号の授与権は、はじめ大学にはなくて、文部大臣が持っていました。これも特殊です。そして先程の学士は、このときに学位ではなくなり、単なる称号になったわけです。

三種の博士

 そこで博士ですけが、これが大変複雑で、3種類の博士号の授与方法がありました。1つは「課程博士」と呼ばれるものです。現在もそういう言い方をしていますが、大学院の課程を修了し、論文も提出して審査に合格すると博士になる。ここでは課程修了によるものですから課程博士と呼んでおきますが、先ずこれがありました。第2は、「論文博士」というべきものです。文部大臣に博士論文を提出し、その審査が帝国大学評議会に依頼される。そこで審査をパスして、文部大臣が学位を授与する仕組みです。もう1つ、3番目に推薦博士という制度がありました。文部大臣が立派な学者と思われる人を推薦し、それを受けて、帝国大学評議会が審査をし、パスすれば認められる、そういうものです。このように3種類の博士がありましたが、いずれにしても、博士位授与の審査権(実質的決定権)は大学にしかありません。ですから、帝国大学に学位授与のすべてが集約されていたわけです。

 日本の特異性は、この三種のうち、推薦による博士が圧倒的な多数を占めていたという点にもありました。明治20年の学位令から明治31年の改正学位令まで、約10年余の実績で見ると、授与された学位の8割以上は推薦によるもの、つまり論文を提出した、課程を修了したことによるのではない博士です。博士号がいかに名誉の称号化していたかを示す事実です。

 明治31年に学位令が改正されると、さらに推薦枠が拡大されることになりました。課程博士と論文博士だけでなく、推薦博士の中がさらに二分され、「博士会の推薦」というカテゴリーが出現しました。つまり、博士号を持っている人たちの集まり、博士会が出来て、その会合で、仲間うちで、そろそろ某々に博士号をやろうか、やるまいかという議論がされる。そこで「いいじゃないか」ということになって、文部大臣に推薦すると、何某が博士号をもらえるというルートです。

 もう1つ、文部大臣に代わって、「帝国大学総長の推薦」という枠がオーソライズされました。帝国大学総長は、帝国大学教授について、博士に推薦する権限を持つことになったのです。これは大変な権限です。依然として文部大臣が学位授与権を(形式的に)保持しているのですが、実質的に大学側の力が非常に強くなった。さらに博士会の力もこれに加わったということです。

 ご承知の方も多いかと思いますが、明治44年に「漱石の博士号拒否事件」が起こりました。夏目漱石に、推薦で文学博士号を授与することが決まりました。文部省が、その旨通知をしたところ、「そんなものは要らない」と言って、受領に行きません。前代未聞のことで文部省から再度高官が出向いて、なんとかして「受けてくれ」と懇願しますが、遂にウンと言いません。一旦授与した博士号は、相手が受け取らないからといって、文部省は取り消すこともできない。博士号を授与された人の中にその名前が登載されているのですが、漱石自身は遂に受取拒否のままでした。証書は文科省の金庫の中にでも眠っているのかもしれません。有名な事件でした。漱石の博士号も、博士会推薦でした。だから彼は「要らない」と蹴飛ばしたのでしょう。

 大正9年になり、ようやく学位令が改正されます。学位授与権は、文部大臣の手を離れて、それぞれの大学に名実とも移されます。その前々年(大正7年)に大学令が公布されて、帝国大学以外にも官公私立大学の設置が認められていたことは、先程お話した通りです。それに伴って私立大学も学位授与権を持つようになったということです。

経済学系の学位取得者

法学博士(〜大正8年)(リンク)

 大正8年までは、経済学とか商学とかいう名称をもつ博士学位はありません。明治21年の第1号田尻稲次郎以来、大正9年まで、47名の経済・商学関係の博士は全て「法学博士」でした。というのも、帝国大学に法科大学しかなかったからです。法学博士として大正8年までに学位授与された人たちを見てみますと、ほとんどが推薦(論文は4名だけ)、しかも博士会の推薦(27/47名)だということが分かります。

 原データの中から、経済や商学関係の学位取得者を抜き出したのですが、全部で47人でした。その中で高等商業学校の卒業生は9人ですが、福田徳三(明治27卒・会推・授与明治38.5)から始まり、内池廉吉(明治31卒・会推・授与大正8.4)という人までです。佐野善作と津村秀松は論文提出による博士だったこと、それ以外の7名はすべて博士会推薦であったことがわかります。帝大総長が一橋出身者を推薦することはあり得ませんから、博士会の推薦により学位取得をしたということです。

 47名の中で大学総長推薦による博士号取得者は、16人おります。推薦ですから、特に大学総長推薦枠は、本当に学問水準の高さによるものかは疑わしい。しかし、博士会推薦のほうは、博士号を持っている人たちが推薦するのですから、それほどおかしなことはなかったと思われます。学位取得という点で見ても、高等商業学校の時代に既に、学問的な水準の高さで、帝国大学に次ぐ位置を占めていたと見て良いと思います。博士が9人いるわけで、他校では、東京専門学校(早稲田)2人、慶応2人、同志社2人、京大2人、北大1人という数字になります。だから、学位の取得者の数で言えば、一橋は東京帝国大学に準ずる位置にあったわけです。

商学博士と経済学博士(〜昭和12年)(リンク)

 大正9年以降、昭和12年までの商学・経済学関係の学位取得者のリストも挙げておきました。商学博士は21人いますが、一橋出身は10名、うち8人(藤本幸太郎、石川文吾、下野直太郎、松崎壽、高瀬荘太郎、吉田良三、加藤由作、増地庸治郎)は東京商大で審査を受けて学位を取得しており、10名とも出身学校欄は「東京高商」です。大正6年以前の卒業生だからです。

 経済学博士の13人のうち、一橋関係は3名です。上田辰之助は東大で審査を受けているので、東京商大審査は2名(田崎仁義、井藤半弥)です。昭和前期まで、商学系では東京高商の卒業生が博士号をほぼ独占する状態、経済学系では帝国大学とほぼ肩を並べる水準ということになるかと思います。この辺が一橋の学問的水準を示す、間接的な指標になるのではないかと思います。


一橋の学問的な特質

 ところで、この一橋の黄金時代のことを別の角度から見てみたいと思います。明治30年代半ばの東京高商と帝国大学の教授陣の顔ぶれを担当科目を含めて対比した表(リンク)が、それです。2年ほどずれますが、ほぼ同じ時期と考えていいと思います。それによると明治38年の高等商業のほうが、帝大の経済学関係よりも、はるかにスタッフの数も揃って充実していたことが分かります。

明治30年代半ばの一橋と帝國大学

 帝国大学の経済学の講座は、既にお話したように、法科大学の中に置かれていましたが、正式の教授は2名(金井延と松崎蔵之助 ― 東京高商校長も兼任した人物)しかいません。アメリカ人のグリッフィンという外人教師1人、河津進助教授は留学中。あとは2人の講師(山崎覚次郎と田尻稲次郎)がいる。要するに、全部で6名で専任は3名、それだけしかスタッフがいなかったわけです。

 それに対して高等商業は、数・質ともスタッフが揃っていました。総員19名、特に経済学と商業学という科目担当は、佐野善作、関一、下野直太郎、石川文吾、上田貞次郎他という錚々たる顔ぶれが揃っており、簿記・商品学という実践的科目も下野・鹿野清次郎・星野太郎と充実しています。外人教授はブロックホイス(ベルギー)とスプレーグ(米)。8名の講師陣は、帝大兼任の田尻・河津のほか、村瀬・藤本幸太郎(後に商学博士第1号)の名前も見られます。非常に充実していた。

 この時期の、2つの高等教育機関を対比してみれば、明らかに高等商業のほうが内容が充実していました。高商対帝大問題は明治40年代に発生しますが、その背景にはこうした2つの高等教育機関の整備の度合いの違いがあった、と考える必要があるでしょう。

士族と平民 ― 士・農・工・商

 学問の特質を考える場合に重要なのは、学風あるいは校風とでも呼ばれるものです。現在の一橋大学と東京大学とで、どの程度の校風や学風の違いがあるのか。あまりはっきりしない問題ですが、時代を遡りますと、先程の比較でみても、はるかに鮮明なものであったのではないかと思われます。今回いろいろ資料を読み込んで、そういう気がしてきました。

 その底にあるものは一体何なのか。考えてみますと、第一に、それは日本の近代化と社会構造との関係の問題ではないかと思われます。着目したいのは「士族と平民」という日本の、特に明治・大正期までの社会構造を考える上で重要な族籍の区別です。その背後にある「士・農・工・商」身分制度については、江戸時代に遡って検討してみる必要がありますが、ここでは、明治以降の「士族と平民」という問題に限って考えてみたいと思います。

 『一橋五十年史』という古い校史があります。まとまった書物としては、最初の一橋大学史だと思いますが、読んでみると大変面白いことが書かれています。明治初期に一橋の学生には、二つの流れがありました。そのまま引用しますと、「所謂書生風で素朴粗野を喜び、蓬頭垢面敢えて意に介するなく、握飯をかじって談論風発、四辺を憚らざる程のもの」というのが第一のタイプです。言うならば、書生タイプ・バンカラ風の学生です。第二タイプ、「他のひとつの型は商人風で、この方の生徒は大家の若旦那、あるいは御店もの然と唐桟の着物に、縞の羽織を着流しに、前垂れかけの拵えであった」。これは商法講習所の流れをくんだ、東京商業学校の学生のタイプだとも書いています。そしてこの2タイプのうち「書生派はむしろ少数で、商法講習所を流れている空気は商人風であった」と表現されています。

 先程も話したように木挽町の東京商業学校は、東京外国語学校付属の高等商業学校と合併するわけです。合併のことについて「木挽町の講習所の生徒に対し一橋の東京外国語学校(高等商業学校)の生徒は、富国強兵を金科玉条となし…… 着衣のごときも衣至幹袖至腕式の所謂バンカラを標榜し、兵児帯を用い破袴を穿って、常に自ら称えて浪人を以て任じていた。かかる気風の生徒が、木挽町商法講習所の町人臭い生徒と合併することとなったのであるから、一橋側の生徒は大いにその不当をならして、算盤手習いをなすは学問に非ずと唱え、木挽町側を蔑視していた」。矢野二郎は算盤手習い、前垂れ風の商業教育ばかりを強調したというので、後年の学生の排斥運動と退陣に繋がるわけですが、そういうことを学校史で書いている。

 合併後も「学生の二風派依然としてその姿を改めず、一橋に二つの潮流が流れていた」。「世間一般からはこの頃の一橋の学生は一高と慶応の中間に位置する程に見られていた」と書いています。一高と慶応の中間というのは、一高はバンカラで自治寮、武士のエトスをもった子弟の教育機関と見られていました。慶応は明治の中頃までは士族の子弟が多かったのですが、福沢諭吉が方針転向して、地方の商家や豪農の子どもたちが入学してきます。だんだんと富裕な平民の学校になったわけです。ですから、その中間といえば、士族学校と平民学校の中間的なところに一橋が存在していたということになります。

 「尚、武士町人という伝統的差別観念が人々の頭より抜けきっていなかったために、寮内においても士族の子弟が大いに勢いを張り、平民の子はフラットと称して同室を許さず…」「当時裕福なるものの子弟は一橋に多く来なかった」ともあります。富裕な平民の子弟たちは一橋を敬遠して、あまり入ってこなかったということです。慶応は事実上入学試験もなく、富裕な平民の子弟をたくさん集めて成功するわけですが、一橋のほうは厳しい入学試験がありましたし、官学として硬いスクールカラーもある。それでなかなか入ってこなかったのかもしれません。いずれにせよ、士族と平民という二つの族籍、身分的な違いがその背景にある。日本社会における身分文化の違いです。言うなれば、初期の高商の中では士族文化と平民文化という二つの身分文化がせめぎ合っていた。どちらかというと、歴史を遡るほど町人風、つまりフラット派の文化のほうが強かったということです。このことは、江戸時代の士農工商の区別を引きずっている側面もありますが、日本の高等教育について明治時代には、遡るほど、また官学であるほど、士族の世界であったという事実を無視することができません。

 日本の高等教育機関の卒業者に占める士族出身者の比率(学校・専攻別/明治23、33年)を示した表(リンク)があります。それぞれの領域別の卒業生に占める士族出身者の比率も示しています。「士族」の族籍をもっていた人たちは、いろんな数え方がありますが、人口比で大体5〜6%程度というのが、一般的な推計値です。その5〜6%の士族が、高等教育の世界でマジョリティを占めていたことが表から分かります。

 先ず、帝国大学とそれ以外の学校で言えば、帝国大学は圧倒的に士族の学校でした(法・工・理の分野で、明治23年7〜9割、33年5〜6割)。 次に官立と私立を対比すると、官立専門学校の商・工でも、私立の法に比べて、ずっと士族出身者の比率が高い。当時は「法学、工学、文学、理学」などの学問領域は、天下国家と直結する学問領域と見なされていて、そういう分野へ士族の子弟が集中して行きました。それと対照的に平民が多いのは、ある意味では当然ですが、「医学、商業、農業」という領域で、そこはまた私立専門学校の優位分野でもあります。こうした区分がはっきりしていたので、明治23年の官立商業学校の場合、士族・平民の比率はフィフティ・フィフティに分かれています。官立の中では、医学を除けば、商業は平民出身者の比率が高い高等教育機関であったということです。一橋で二つの流れが拮抗していたというのは、この辺からも分かるわけです。

 東京高商を卒業して、法学博士号学位を取得した人は9人いました。この人たちの族籍を調べてみると、士族出身者は2人だけで、あと7人は平民です。士族は関一と上田貞次郎だけ、福田、佐野、津村、三浦、左右田などはいずれも平民です。商学は平民の、商家出身者の学問として出発したと言ってもいいでしょう。

学校と親の職業 ― 戦前期

 現在では、医学を別にすれば、親の職業と進学校や専攻する領域はあまり関係がなくなっています。しかし戦前期、特に時代を遡るほど、親の職業と進学校の選択との間には強い因果関係があったことが知られています。十分な資料はないのですが、たまたま昭和13年に当時の文部省が大がかりな調査をしています。全国の、かなりの数の大学・専門学校を対象に、在学生の親の職業が分かる調査です。その調査結果を整理した表(リンク)があります。東京帝大(残念ながら経済学部だけの数字はありません。全学ベースです)、東京・神戸・大阪の三商大、それと私学の慶応。5校の数字を並べて見た表ですが、様々なことを考えさせられます。

 先ず、東京帝大と東京商大は非常に異なっている。商大は親の職業で商業が30.5%と一番多い。次いで銀行・会社員が25%と大きい。農、工、官公吏とか無職は非常に少ない。官公吏・軍人・教員というのは、言わば国家公務員ですが、東京帝大ではこれが22%になります。商大の場合は12%しかないということで、違いが鮮明に出ています。一番下に無職欄があり、東京帝大は23%ですが、これは現在考えられる無職ではありません。特定の職業に限定できない生活をしている人たち、つまり生業ではなく資産や金利で生活している資産家です。大地主である、いろいろな会社の取締役をしている、家作を持っている、職業というカテゴリーと関係ない人たちがマジョリティを占めていたと思われます。東京商大のこの数字が一番小さいわけで(慶応、帝大、大阪・神戸より下にある)、別の言い方をすれば、一橋在学者の親たちはホワイトカラーとか自営の商業関係(56%)、そういう人たちが過半数を占めていた。これは昭和13年の数字ですが、時代を遡ればさらにその傾向は顕著だったのではないかと思われます。

商家と学問

 日本の階層構造や身分制の研究はいろいろありますが、武士や士族、農民、労働者や俸給生活者等の個別の研究は数多くあっても、「日本の商人・商家」の研究、特に明治維新以後の「商家」の研究はあまり多くはありません。江戸時代の商人の研究は、宮本又次さんなど、いろいろな方が書かれていますが、明治維新以後についての研究はあまりない。高等商業の研究をするのであれば、維新以後の商家の研究と、どこかで重ね合わせて議論しなければいけないと、常々思っています。時間的に余裕がなくて、そうした研究に正面から取り組んだことがないのですが、高等商業と言わないまでも、戦前期に各地につくられていった県立商業学校の背後に、ほとんどの場合、「商業者の集団」があったのです。京都の第一商業学校、京都一商は戦前期の商業教育の歴史の中でも、有名な学校の1つですが、京都の商家の子弟たちがたくさん進学する学校で、中学校よりもむしろレベルが高かったのです。こうした商業学校の歴史は、どこかできちんと押さえておく必要がある。商家という1つの社会層を研究対象として考えたことがあまりないのですが、商家は、家業を継承する必要性が非常に高い職業です。総体的に富裕で、自営業者層でもあります。時代を遡るほどに、農民とも武士とも異なる文化を持っていたと考えていいだろうと思います。このことは、維新後に彼らが選んだ学問とか学校にも、当然のことながら、深く影響しているはずです。こうした研究もあまりなされていません。裕福でかつ家業を継承しなければならないとなれば、立身出世の手段として学問する必要は、没落階級である士族の子弟と違って、あまりないわけです。

 そう考えると、商家の出身者については、教養としての学問とか、修養ないし趣味としての学問ということもあり得ると思うのです。三浦新七にしても左右田喜一郎にしても、立身出世や社会的上昇志向のために学問をしたのではなく、純粋に学問をしたいという願望から、という筋が一本ある。三浦新七の場合、学問をすることにずいぶん苦労しているわけです。それは、明治の初期にはまだ、商人の子供に学問はいらない」という意識、風潮が非常に強かったためです。なまじ学問等をすると家業を潰すことになるというのです。たとえば牧野富太郎は有名な植物学者ですが、徳島の地方の大きな商家の子どもでした。正規の学校へは行かないで趣味的に学問に専念して、東京帝国大学の助教授にまでなりますが、遂に家業を潰してしまいます。商人の子どもが学問をするとろくなことがないというので、慶応の福沢も最初の頃は商人の子弟が学問をしにこないので、学校経営に大変苦労するわけです。

 しかし、学問すること自体を自己目的化するような商人の層が、実は存在したのではないかと思うのです。大阪では、石門心学を中心に、懐徳堂という、いまで言えば私立大学のような学校を商人たちが設けて、財政的に支えた例もある。貧乏士族の学歴を取得して、社会的な上昇移動をはかろうという、功利的学問観とは違った、純粋な学問観を持った人たちが日本の近代にもいたのではないか。慶応はその典型的なひとつであり、一橋の場合にはその二つの流れが併存していたのではないかという感じがするわけです。日本のブルジョアジーの原型とでも言うべき、在野の、民の思想を強く持っていた人たちがいた、高商は、そのひとつの受け皿であったとみてよいのではないか。

 一橋大学は歴史的に、官学の中の私学と言ってもよい存在であったと思います。歴史を遡るほど、反骨精神をもって知られている。そこには、先ほどの「士族とフラット」の話ではありませんが、官学の中の私学という位置づけ、あるいは官に対する民という認識がどこかにあったのではないか。一橋と帝国大学との微妙な関係も、そうした社会的・文化的なバックグラウンドのもとで、考えてみると面白いのではないか。

 一橋の場合、商人層との関係でもう一つ重要なのは、商業学校から高等商業へ、そして商科大学へという独自の進学ルートがあったという点です。どの程度の数の人達が商業学校を経由して高商、さらには商科大学まで行ったのか、詳細な研究はありません。いつか調べてみたいと思っているのですが、著名な学者の中に「他の高商から商大へ」という方々もかなり多いようです。もちろん商業学校から予科・専門部を経て、専攻部まで進学した人たちもいます。左右田喜一郎、三浦新七という大学者にしても、商業学校系出身者だったと記憶しています。こういう人たちは、一橋大学、高等商業学校の歴史は、前垂れがけからキャプテン・オブ・インダストリーまで、基本的に実学の系譜です。そうした実学系の流れの中で、純粋に学者を志すとか、学問を目指すというのは、虚学とは言わないまでも、帝国大学ではじめから学者の道を歩むのとは相当異なった条件があったのではないか、と思います。むしろ実学への反発から純粋に学問に指向するという傾向が、一橋の学者には強かったのではないか。「左右田の経済哲学」、「三浦の文明史論」と言われるように、理論体系とか哲学、歴史や文明論、そういったテーマへの指向が非常に強い。商業に根ざす実践的学問をやらざるを得ないという、制約された条件の中で、だからこそ純粋学問に対する憧れが強くなるという、パラドキシカルな状況が、そこにはあったのではないか。

 福田徳三は、日本の経済学の歴史のなかで、屹立した巨峰でした。彼は高商で育ち、専攻部を卒業し、留学、帰朝して、母校の教授に就任します。次いで、ある時期慶応で教壇に立ち、後に一橋に復帰し、法学博士・商大教授となっています。その彼は、最も強く純粋に近代大学の理念を唱えた人です。「フンボルト理念」と呼ばれていますが、ドイツ大学の精神を支えてきた理念です。「大学は学問の府でなければならない」という考え方を、最初に強調したのは福田徳三なのです。彼は東京高等商業を卒業してから、商業学分野を選考する目的でドイツの大学に留学しました。当時のドイツの大学は世界に冠たる学問の府でした。その大学で発展期の経済学を学ぶ中で「大学とはこうあるべきものだ」という高い理念を掲げて、商科大学論を考えていたわけです。ある意味で帝国大学以上に純粋な、学問の府としての大学理念を彼は構想していたと思われます。帝国大学というのは言うなれば、初めから学者養成の機関として設立された、制度的に保証されたアカデミズムの場です。しかし、東京高商は実学の府であり、そこでのアカデミズムは制度的に保証されたものではない。そこで純粋に学問をするというのは、相当にエネルギーの必要とされることではなかったのかと、強く感じるのです。

講座制という装置

 帝国大学と高等商業の違いを象徴するものに、最初のほうでもちょっと触れましたが、「講座制」という制度があります。私は一橋の卒業生ですが、東大に入って初めて講座制というものの性格が見えてきたように感じています。一橋だけの経験では絶対にその基本的な性格が見えない制度です。

 講座制は、たとえば法学部で言えば、民法、刑法、民事訴訟法、商法といった学問領域に応じて、講座が設定されてきました。また財政学とか経済学関係は、帝国大学法科大学の場合、長い間、第1〜第5まで番号が振られたのですが、いずれにしても、そうした学問領域に応じた講座が置かれていました。すなわち、ある学問体系・学問領域がまずあって、それに対応した講座が設けられ、教授が任命される。講座はチェアと呼ばれますが、その講義用の椅子に座った教授が、その学問領域の教育研究の全面的な責任を負うという制度です。裏返せば、ある学問領域はそれに対応する講座が開設されてはじめて、学問の世界で正式に認知されたことになります。

 私は、東京大学に在任中は教育社会学という講座を担当していました。戦前期には、文学部に「教育学」の講座があるだけで、戦後、教育学部が文学部から独立し、新しく教育社会学の講座が創設されました。私の前の講座担当の先生方は、この新しい学問の確立に大変な努力をされたわけです。そのうちに、私は高等教育に関心を持ち、「高等教育」関連の講座を創りたいと考えるようになり、十数年努力しました。学部のなかでその必要性を主張し、文部省と粘り強く掛け合い、やっと宿願を達したのですが、それから数年で、大学院の重点化問題が起こり、いくつかの講座を統合して大講座化するというのが、大きな流れになりました。チェアがソファになったわけです。そして、私が作った講座も僅か2年で姿を消すことになりました。

 いまは講座制は、前世紀の遺物として、解体される方向にあり、日本の大学は大きく変わりはじめているのですが、それについては、ここでは触れません。しかし、戦前期の我が国の大学をみる場合、講座制がきわめて重要な問題であることに変わりはありません。

 講座は1人の教授が教育・研究の全責任を持ちます。実質的には、文系の講座で言えば、「教授1、助教授1、助手1」という構成になっています。医学部で言えば、内科の講座は「教授1、助教授1、助手3」という構成になります。教育研究の責任は教授が持つことになっていますから、その講座にいる助教授や助手は、職務規程によれば、助教授は教授を、助手は教授及び助教授を助けることになっています。この「助ける規程」は、これまで長い間継続してきたのですが、「助ける」ということは、助教授や助手は、教育研究上、主体性も持つことができないことを意味しています。

 帝国大学の大部分の講座では、助教授は教育する権限を持っていません。つまり、その学問領域を代表しているのは教授ですから、教授の講義だけがその学問領域の正統的な講義なのです。少なくとも助教授は、自分の教授と対立するような講義は絶対にしてはいけない。しかも長い期間にわたって講義もさせてもらえない。ましてや、教授が亡くなるか停年で辞めない限り、その講座で教授になることはできない。そういう制度が長く続いてきたのです。

 したがって、そこでは「教授がいるから講座がある。講座があるから教授がいる」という関係になります。そして、講座を担当する教授には、講座俸という特別の手当てが支払われていました。もちろん助教授には講座俸はありません。教授だけの特権です。講座の名称は、法規にきちんと書き込まれていますから、一旦設置されると、それを潰すことは簡単にはできない。従って、その講座を担当する教授を必ず任命しなければいけない。担当の教授が欠けたとなれば、後任の教授を誰か必ずその講座に任命しなければならない。ということで、講座担当の教授は、後継者を養成する責任も負っているわけです。これが講座制度の概要です。制度としては明治26年(1893)に誕生し、ごく最近まで継続していました。帝国大学系の大学は、全ての学部で講座制、旧制の医科大学もそうでした。戦後も医学部だけは、どこの大学でも講座制をとっています。

非帝大系の学科目制

 ところが、高等商業はもちろん、東京商科大学や神戸商業大学のような、旧高商系の官立大学には講座制がありませんでした。これらの学校は、「学科目制」をとっています。要するに、ある授業科目を教える教員が配置されるだけです。先程、明治36〜38年頃の教員について、帝国大学と高商の教員名と専門領域を一覧しました。帝国大学の「経済学第2」、「経済学・財政学第1」とあったのが「講座名」ですが、高商のほうは書かれていません。東京商科大学になってからも、講座制は取り入れられることはなかったわけです。

 東京大学のような旧制帝国大学系のところでは、ごく最近まで講座制が残っており、ようやくこの春に講座制の全面的廃止が実現しました。それと同時に、これまで教授、助教授、助手と呼ばれていた教員が、「教授、准教授、助教」という名称に変り、三者は対等ということになった。つまり「助ける規程」はなくなり、助けなくてもいいことになりました(笑)。

 それはともかくとして、従来から講座制をとっていたところでは、学問をする、研究をすることが教員にとって、大学にとっての制度的前提になっていたわけです。それに対して、一橋のような、高等商業という、異なるオリジンをもって大学になったところは、必ずしもそうではない。そこでは講座制という制約がなかったから、逆に非常に自由な学風を持つことができた。「商業学を勉強する、研究する」と言う建前で留学しますが、実際には別のこと、「経済学、文明論、経済哲学」等を研究して帰朝する。講座制があれば、その、あらかじめ指定された学問をどうしても勉強し研究して、帰らなければならない。夏目漱石が、ロンドンでノイローゼになったというのも、多分にそのことと関係しているように思われます。

 そうした、講座制という制約がない一橋で、生まれ発展していったのが「ゼミナール制度」でした。ゼミナール制は、講座制とは対極的な性格のものです。裏返せば、それは一橋の後継者養成は少なくとも戦前期について、帝国大学のそれに比べて相対的に弱かったということでもあります。

 帝国大学の場合、経済学や商学系の講座が増設されると、制度的に保証された後継者養成システムですから、安定的に学者・研究者が養成されるようになる。だんだん一橋の自由な学風や、ゼミナール制だけでは追い付けなくなる、対抗できなくなるという側面もあったのではないか。講座制を持つか、持たないかということには、学者の養成という点でメリットとデメリットの両面がありますが、それがなかったことが、一時期は一橋に非常に有利に働いて、黄金時代をつくる役割を果たしたと言えるのではないかと思うのです。


おわりに

 いろいろ申し上げてきましたが、現在では、大学そのものが非常に大衆化しています。かつての高商対帝大時代のように、個性を競い合う研究・教育の学風ということよりも、高等教育のマス化とか、大学のユニバーサル化が問題になっています。かつては同年齢人口の数%であった大学生が、いまやもう50%近くもいる。大学の数も、戦前期は40数校しかなかったのが、平成の現在なんと750 校近く存在しているわけですから、大変な変貌を遂げているわけです。大学の校風とか学風というものが、ほとんど見えなくなった時代といってもいい。

 一橋が、明治末から大正にかけての時期、どうして学者の黄金時代をつくることができたのか。いろんな条件が寄与していたと思います。一つは、帝国大学と対抗しながら、時には、併合や廃校の危機にさらされながら、自分たちの学問研究と教育の水準を高め、同格化を図っていかなければならない。そうした絶えざる危機感と緊張感があったことが、もっとも重要な要因だったといってよい。それがまた、学校騒動などの事由にもなっていたわけですが、重要な点だと思います。

 それからもう一つ、経済学という、欧米諸国でも新しい学問が急速に発展していく時期に、商業学を修得すべく留学した人たちが実務的な問題だけに満足できず、新興の経済学を学んで帰国してきたことも重要な要因でした。留学生も、帝国大学以上に多くの人数が派遣されたことも見逃せません。

 さらに第三に、社会の階層的ないし身分的出自とも関係して、実学の府であることが逆に、アカデミズムへの強い憧れを生んだということもあったでしょう。

 いずれにせよ、幾つかの独自の条件があって、黄金時代を担う学者たちが創出されてきたことが、はっきりしたように思います。そうした良き時代はとうに過ぎてしまいました。マス化・ユニバーサル化した高等教育システムのもとで、独自の学風を持ち続けることはますます困難になっています。しかし一橋が事実上単科の、小規模の大学である限り、大学としての独自の学風をどう維持し、再創造していくのかは、これまで以上に問われなければならない問題であり、そのためにも、何が黄金時代をもたらしたのかは、改めて問い直されるべき問題ではないかと思います。

 どうもありがとうございました。(拍手)


質疑応答

質 問 最後に触れられた一橋の伝統については非常によく分かりました。いま大学の数が700幾つ、これから少子化が進んで一体どういう形になるのか。戦後ずいぶん変わってきましたから、一概に明治以来のこととの比較は難しいですけど、明らかに学問のレベルが落ちてきているのではないでしょうか。いまの学生を見ると、とんでもないのが多いような気がしてなりません。将来の大学は一体どうなっていくのだろうか。簡単に展望いただければと思います。
   
講 師

簡単にお話できそうもありません。的確に答えられない問題でもあると思います。いまは、石を投げなくても、大学生に行き当たる時代です。学生の意識とか知的なレベルが、大きく変質してきているわけですね。私の世代には、学生は教師の背中を見て育つものだと言われていました。教室で講義をすることだけが教育だとは、考えないのが普通の教師でした。しかしいま、学生とは「教育する対象」です。教師は背中を見せてはいけない。背中を見せればいつ刺されるかもわからない時代です(笑)。いつも前を向いて、学生に対さなければいけない時代です。

知的好奇心が弱いというか、黙っていたら勉強しない学生が増えたのは、帝国大学の後身である東京大学でも、例外ではありません。ましてや「学問をやろう」という学生は例外的にしか存在しません。学問をするときには、初めから「研究者になる」「大学教師になろう」という志向が強い。つまり社会的上昇移動の手段としての性格が強くなっているわけです。

同時に学問の世界自体も大幅に変貌しました。かつてのような安定した学問体系そのものが、大きく崩れつつあります。卒業するときにもらう学士号にしても、昔の経済学士、文学士という呼称は、いまはありません。「学士(何々)」と書くことになっています。この括弧の中の「何々」が500以上ある。学部の名称にしても、みなさんがお聞きになったら絶句するようなものがあります。学部の名称は「一文字」から始まりました。元祖とも言うべき東京大学は、法、医、工、文、理そして農の6学部体制で発足しました。やがて「二文字」の学部が出てきます。「経済」学部とか「教育」学部(一橋にも「社会」と「経済」がある)等々。それがいまや「四文字」はごく普通で、「国際文化」学部、「環境情報」学部などという学部があります。六文字の学部も出てきて、「国際文化コミュニケーション」学部など、もう数え切れない学部名称もあります(笑)。

学問の世界も大衆化し、十九世紀的な学問体系は崩壊してしまった。教育する側も学習する側も大衆化された状況下にありますから、学生たちは何をしていいのかさっぱり分からない。こうした状況に対応するために、研究者を養成するにはどうしたらいいのか。最近は、大学院問題が大きく浮上してきています。これまでは、大学院には学問をしたい、学問が好きな人たちが入ってきて、結果として大学教師や研究者になっていったわけですが、最近でははじめから職業としての大学教員、研究者を目指して入学してくる傾向が強くなっています。学問のスタイルが変質してきているということだと思います。

学問自体が細分化が進み、しかも学位論文をなるべく早いうちに書かないとならない。昔のように、博士号は名誉の称号だなんて言ってはいられません。いまや「学位」が大学教員や職業的研究者になるための飯の種ですから、大急ぎで、細分化された、ピンポイントの領域で論文を書く。

「現代の学生は教養がない」と言われますが、「先生もまた」と付け加えるべきかもしれません(笑)。全般的に教養に欠ける時代になりつつあるこれは日本だけではなくて、他の国々でも起きている傾向です。たとえばイギリスでも、いまや40%近い人たちが大学に進学していますから、学問や大学の性格 はどうしても変化せざるを得ない。卒業者の対部分は、大学以外のところに、主としては企業に就職するわけですから、「実用的な知識をもっと多く教えろ」という要求も強くなっています。こうした風潮の中で、研究者の養成を中心とした、いわばエリート的な部分を大学としてどう確保していくか。どこの大学も対応を迫られている問題だと思います。

一橋大学でも、最近、法律家養成の為の大規模な法科大学院の定員を設置しましたが、それでは、法学の研究者養成をどうするのかという課題が改めて表面化してくる。ビジネススクールの場合にも、同じ問題が起きます。専門職大学院という名前で、実務・職業教育重視の大学院教育を拡充していこうというのが、政府の方針ですが、それでは従来型の大学院や、学部教育との関係はどうするのか、混乱した状態にありまして、一体日本の大学はどうなっていくのか、見えにくい状況になっている。世界の多くの国々の大学も、同じような問題で悩んでいます。

かつて明治時代、一橋の黄金時代を作った大量の留学生が勉学に行った「ドイツの大学」は、いまや沈没状態です。日本の大学も、あるいは沈没状況にあるのかもしれません。アメリカの大学が、いま世界の学問の中心地として、高い評価を誇っていますが、それもいつまで続くかは分かりません。いろいろ問題を抱えています。それほど、大学がグローバル化し競争が激しい時代になっています。

日本でも、帝国大学対高等商業という時代はとっくの昔に終わって、一橋大学対どこの国の、どの大学なのか。ハーバード大学なのか、ロンドン大学なのか。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスなのか、ハーバードの経済学部なのか、ビジネススクールなのか。そういう次元で問題を考えなければならない時代に突入しているのです。最初に触れたように、国際的なジャーナル登載の論文数などで見れば、日本の研究者も健闘しております。自然科学系だけではなく、社会科学系でも、特に経済学の領域で日本の水準は決して低くはありませんが、そういうことも踏まえて、大学のあり方というものを考えなければならない時代になっていると思うのです。

   
質 問 昭和34年の中村と申します。天野さんの大変な努力と非常に貴重な資料に対して、一言敬意を表したいと思います。

どうして一橋の対抗が可能だったのか、ずーっと疑問に思っていたポイントが、この資料で非常に明快な答えを得られたような気がします。ほんとうにありがとうございました。
   
講 師

実は、私は大学を含めて教育の歴史に、関心があり、資料も集めてきましたので、それほど手間ひまをかけたわけではありません。先程もご紹介いただいたのですが、もし関心をお持ちでしたら『学歴の社会史』(平凡社ライブラリー2005年)という本をご覧ください。新潮選書で出版されたものですが、最近平凡社ライブラリーで再刊されたばかりです。この中にも、関連して集めた資料と新しい分析を入れておりますので、当時の日本の学歴社会の中での一橋の位置が、よく分かっていただけるのではないかと思います。

この問題には、私も関心をもちつづけておりますので、いつか暇になったら、日本の商業教育史をb、商人や商家の歴史と重ね合わせて議論し、データの分析等をしてみたいと思っています。

帝国大学と旧制高等学校の卒業生については、詳細な研究があり、本もたくさんかかれていますが、それ以外の学校についてはあまり研究されていないという思いがあります。もう少し長生きして(笑)、そのうちに本にでも書きたいものだと思っています。(拍手)

 


講師略歴

天野 郁夫

1936年1月7日生まれ

現 職  国立大学財務・経営センター教授・研究部長
研究室  東京都千代田区一ツ橋2−1−2 国立大学財務・経営センター
     (TEL 03−4212−6003)
     (FAX 03−4212−6250)
      e-mai: amano@zam.go.jp

略 歴
1958年 3月  一橋大学 経済学部 卒業
1961年 3月  東京大学 教育学部 教育学科 卒業
1963年 3月  東京大学大学院 人文科学研究科修士課程 修了
1966年 3月  東京大学大学院 教育学研究科博士課程 中途退学
1966年 4月  国立教育研究所 研究員
1971年 7月  名古屋大学教育学部 助教授
1979年 4月  東京大学教育学部 助教授
1984年 4月  東京大学教育学部 教授
1990年 9月  教育学博士(東京大学)
1994年 4月  東京大学教育学部長・教育学研究科長
1996年 4月  国立学校財務センター研究部教授
1996年 6月  東京大学名誉教授
2000年 4月  国立学校財務センター研究部長
2004年 4月 (独法)国立大学財務・経営センター研究部長

研究業績(1996年以降)
『日本の教育システム』東京大学出版会 1996年
『教育と近代化―日本の経験』玉川大学出版部 1996年
『大学に教育革命を』有信堂 1997年
『大学―挑戦の時代』東京大学出版会 1999年
『大学改革のゆくえ』玉川大学出版部 2001年
『日本の高等教育システム』東京大学出版会、2003年
『大学改革―秩序の崩壊と再生』東京大学出版会 2005年
『学歴の社会史』平凡社ライブラリー 2005年