社会を支える会計

 

講師 一橋大学名誉教授

中村 忠 

平成17年6月14日 於:如水会館

【無断転記転載を禁ず】

社団法人 如 水 会

責任編集

 




◆内容目次

太田哲三先生について

会計学は社会科学か

牧野英一先生と渋沢栄一

太田哲三先生の人脈図

社会を支える会計

太田先生とパブリック・アカウンティング

昔の教育システム

福田徳三先生と上田貞次郎先生

上田先生の弟子とP荘太郎先生

太田先生

P先生と松本先生

一橋大学百年の学問史

下野直太郎

鹿野清治郎

吉田良三

P荘太郎

太田哲三先生の著書

岩田先生の審査報告

「固定資産会計」の要点

太田先生以降

なぜ太田先生は公認会計士になったのか

活動的な人

公認会計士制度

太田公認会計士事務所

P先生との関係

質疑応答

講師略歴


太田哲三先生について

 ただ今ご紹介頂きました中村でございます。今回の「一橋フォーラム21」のプロジェクトは、「一橋スピリット再発見」という題です。私はその中に太田哲三という名前が含まれているのを見て驚いたのですが、その太田哲三先生について話をしてくれと言われて、さらに驚きました。

 普通、一橋の学問を代表する人といえば、左右田喜一郎、三浦新七、福田徳三といったお名前があがると思いますし、戦後私たちが習った先生の中では、上原専禄、中山伊知郎、山中篤太郎という方々のお名前があがると思います。これらの方々は、いずれも人文科学や社会科学の分野の錚々たる学者です。従来、一橋アカデミズムの中には、会計学なんていうのは入れてもらえませんでした。

 しかし、会計の世界では、太田哲三といえば大スターです。ですから、今度「一橋フォーラム」の中に太田先生が入ったことは、われわれ会計学をやってきた人間にとってはたいへん嬉しいことでして、恐らく地下の太田先生も喜んでおられるのではないかと思います。

 考えてみますと、このフォーラムには12コマがありますので、左右田先生とか三浦先生という方たちだけでは12コマが埋まらないので、幅を広げる必要があった。その結果太田先生が選ばれたと考えるのが常識的ではないかと思います。


会計学は社会科学か

 まず最初に会計学が社会科学かどうかについて今でも議論があることを紹介しましょう。それも他の人が言うのならともかく、会計学者の間でそういう非生産的な議論が行われているのです。一部の人たちは、自分たちがやっているのは科学としての会計学であり、体制派がやっているのは技術としての会計学だと主張しています。会計学の中でさえまとまりが悪いのですから、外部から、会計学は社会科学ではないといわれても仕方がないと思います。

 けれども、私はそういうことはどっちでもいいと思います。しかし、ある問題について、これは税金を取るべきであるかとか、株主に配当して差し支えないどうかについて会計の立場から考えることは、たいへん重要だと思います。そういう議論をすることが社会科学かどうかなんていうことはどっちでもいいけれども、しかしそれを立法や行政に対して主張するのは会計学の任務だと思っています。


牧野英一先生と渋沢栄一

 今回のフォーラムのリストに太田先生が入ったことはたいへん嬉しいことですが、牧野英一先生が入っていることに私は疑問を感じています。牧野さんは刑法学者として有名で、たぶん文化勲章も受けられた方だと思います。一橋へは非常勤で来ておられました。今日ここへ来て初めて知ったことは、牧野さんがお辞めになったときに名誉講師の称号を贈られたということです。昭和19年3月に出た「一橋論叢」の第13巻第3号は牧野名誉講師特集号になっています。

 私は昭和28年卒で新制一橋大学の第1期生ですが、私の世代より上の人の一橋スピリットの中には、オリジナリティーとか、パイオニアとか、チャレンジとかいう要素のほかにもう一つ、「東大に立ち向かう」という気概が含まれていたと思うのです。今の若い人はそういう感じを持っていないかも知れませんが、われわれの世代には東大に負けないという気持ちが残っていたと思います。

 そういう点を考えると、東大の看板教授であった牧野先生が一橋スピリットの中に入ってくるのは、なんとなく違和感があります。本日事務局に伺ったところによりますと、牧野さんは講師をやめても「一橋論叢」に特集号が出るくらいだからということのようで、「それじゃしょうがないかな(笑)」と思った次第です。

 同じ外部の人でも渋沢栄一さんは違います。渋沢さんは商法講習所が作られた当初からの一橋の支持者です。あとからお話する高瀬荘太郎さんも、若い頃に渋沢さんのお世話になったということです。したがって、渋沢さんは外部者でも一橋スピリットのメンバーとしてまったく異論を挟む余地はないと思います。


太田哲三先生の人脈図

 太田先生に話を戻します。皆さんのお手元にお配りしてある太田先生を中心にした人脈図をご覧頂きたいのですが、私は太田先生の孫弟子に当たります。太田先生は一橋で大勢の弟子を養成されましたが、一橋に残ったのは3人です。太田ゼミの一番の高弟は岩田巌先生ですが、岩田先生は1905年のお生まれで1955年に49歳で亡くなられました。亡くなられた日は昭和30年3月3日です。私はその前年の29年4月からの学期に岩田先生の大学院の講義を聴講しておりました。大学院の講義はずっと半年単位でしたが、7月に入り、あと1回か2回というときに先生は体調を崩され、入院されました。秋に手術をされる予定だったそうですが、実際は開いて見ただけで手術はされなかったそうです。12月頃にはよくなってお風呂にも入れるようになったそうですが、1月にはまた再発して、3月3日に亡くなられました。

 というわけで、私は岩田先生の晩年の学生であったのです。岩田先生は会計学と監査を教えていまして、癌は英語でcancerと言いますが、それで岩田先生が亡くなった頃、監査を専門に勉強をしている人は癌にやられちゃうとか、岩田先生は岩田ガンちゃんと呼ばれていて、巌という名前がよくなかったのだといわれました。とにかくガンちゃんは肝臓癌で亡くなられたのです。

 当時、監査をやっているとcancerになるという説を裏付けるかのように、神戸大学の久保田音二郎先生が癌で亡くなりました。慶応大学教授の山桝さんも喉頭癌で亡くなりましたし、早稲田大学の日下部さんという方は46歳で血液癌と言われる白血病で亡くなりました。ということで、監査をやっていると癌になると言われ、私はそれを聞いて監査はやらないことにしました(笑)。

 岩田先生に次ぐ2番目の弟子が私の師匠の番場嘉一郎です。しかし、番場先生のことはあんまり話したくないので、省略させて頂きます(笑)。先生とはどうも馬が合わなかったのですが、それは、重箱の隅をようじで突っ付くような細かいことが好きだったからです。専門は原価計算でしたから、普通なら私は原価計算の専門家になるところでしたが、私はやりませんでした。それでも昭和48年に先生が定年でお辞めになる前の年に、帰ってこいと言われて、昭和47年から一橋に勤めることになったのです。

 もう一人が飯野先生です。飯野先生は1919年のお生まれで、今85歳です。私はしばらくお目にかかっておりませんが、如水会報の6月号にゼミの卒業生たちとお会いになっている記事が載っており、大変お元気のようです。

 もうお一方、一橋には残りませんでしたが、新井益太郎さんという方がおられます。新井さんは太田ゼミの最後のお弟子さんで、一橋を出たあと、茨城大学、明治学院大学、さらに成蹊大学に勤められました。飯野先生の85歳に対し、新井さんは現在84歳です。一度専門部を出て商業学校の教師になり、それから昭和21年に学部に入り、24年に卒業されました。その途中、太田先生が23年にお辞めになったので、岩田ゼミに移りました。新井さんにはつい1ヶ月程前にお会いしましたが、たいへんお元気でした。しかし、85歳とか84歳では、こういうところで1時間半も喋るのはちょっと無理だということで、孫弟子の私がお引き受けしたというわけです。


社会を支える会計

 本日のテーマとして「社会を支える会計」という題が付いております。これは主催者側が付けた題ですが、私はたいへんいい題だと思います。普通、会計というと、「企業を支える会計」と考えられています。企業を支える会計なら当たり前です。しかし「社会を支える会計」というところにこのキャッチフレーズの新しさがあると思います。これはアメリカでパブリック・アカウンティングと言っていることを意味すると思います。アメリカのパブリック・アカウンティングは、報酬を得て不特定多数の人からの依頼を受けて会計の仕事をやるということを指し、大体は監査業務を意味しています。

 これと対照的な言葉としてプライベート・アカウンティングがあります。プライベート・アカウンティングは企業内で行う会計のことであり、経理マンの実務を意味します。


太田先生とパブリック・アカウンティング

 太田先生と「社会を支える会計」についてですが、太田先生の場合は定年のちょっと前の昭和23年に大学をお辞めになり、公認会計士になってパブリック・アカウンティングの仕事をするようになりました。先生は当時59歳でしたが、このフォーラムで「社会を支える会計」というネーミングを付したことは、一橋をお辞めになったあと、亡くなるまでの約20年間の太田先生の活動を意味するものと理解したらよいと思います。具体的には、昭和23年に大学をお辞めになって、24年に公認会計士の試験をお受けになり、一発で合格して25年に会計士の登録をされたのです。

 太田先生の略歴をご覧頂きたいのですが、先生は1889年5月に静岡県清水市にお生まれになり、1913年に東京高等商業学校の専攻部を卒業されました。この東京高商が後に東京商科大学になったわけです。


昔の教育システム

 若い人のために昔の教育システムについて簡単に申し上げると、昔は、小学校が6年、中学校が5年、高等学校が3年、大学が3年というシステムでした。

 小学校を終えて中学、それから高校という名前は現在と同じですが、内容は非常に違います。高校には、東京に一高、二高が仙台、三高が京都、四高が金沢、五高が熊本、六高が岡山、七高が鹿児島、八高が名古屋で、それ以外はナンバースクールになりませんでした。北からいうと、弘前高校、水戸高校、浦和高校、新潟高校、静岡高校といったように地名で呼びました。

 大学も、最初は東京に一つしかなく、帝国大学と言っていましたが、そのあと京都にできたので、東京帝大、京都帝大と呼ぶようになりました。そのあと、さらに北大、東北大、名古屋大、大阪大、九州大が出来て、今でも旧七帝大と言われています。

 しかし、昔は大学へいく人は非常に僅かでした。中学の段階でも中学の代わりに商業学校とか工業学校があり、農業学校もありました。ここで5年間勉強して就職する人が多かったのですが、さらに勉強したい人のために高校に当たるものとして専門学校がありました。それが高等商業であり、高等工業だったのです。

 今の東京工業大学は昔は東京高等工業でした。蔵前にあったために「蔵前」と呼ばれていましたが、これは一橋にあったから「一橋」と呼ばれるのと同じです。高等商業に当たるものとして一橋では専門部を作り、高校に当たるものとして予科も作られました。また、一橋をもっとレベルの高い学校にしようということで、明治30年頃から大学になる大正9年までの間に2年間の専攻部が設けられました。この専攻部の実績があったから大正9年に大学に昇格できたのです。そういう意味で、専攻部は一橋特有のものでした。一橋が大学なってからは、小樽高商とか高岡高商など、地方の高商を出た人が一橋に入ってくるようになりました。たとえば、板垣與一先生は小樽高商出身ですし、高岡高商を出てから商大に入ってきた人に飯野先生とか経済学の篠原三代平先生とかがいます。中山先生も神戸高商から一橋に入った人です。


福田徳三先生と上田貞次郎先生

 太田先生は1913年に東京高商の専攻部を卒業され、中央大学の講師になられました。太田先生の師匠は上田貞次郎先生でしたが、上田先生は大学では「商工経営」という科目を担当しておられました。これは現在の経営学に相当します。そして上田先生は外国留学にあたってドイツへ行かないでイギリスのマンチェスターへ行き、経済史家のアッシュレーという人に習いました。

 アッシュレーには『The Ecnomic Organization of England』という有名な著書があります。私もこの本を読んで荘園とかエンクロージャーという言葉を初めて知りました。上田先生はアッシュレーのところで勉強したおかげで、後年『英国産業革命史論』という有名な書物をお書きになったり、『株式会社経済論』という書物もお書きになっています。株式会社経済論は今日ふうにいえばコーポレート・ファイナンスです。

 最近初めて知ったのですが、上田先生のお師匠さんは福田徳三先生でした。福田先生は1874年のお生まれで1930年に亡くなられましたが、上田先生と年は5つしか違いませんでした。しかしゼミの指導教官であったのです。福田先生と上田先生との関係につきましては、「一橋論叢」の去年の10月号に「福田徳三とその時代」という特集が載っております。今度このフォーラムでレクチャーをする西沢さんという方も『福田徳三の経済思想』という論文をお書きになっています。

 またこの雑誌のおしまいの方に、金沢さんという方が書かれた「福田徳三年譜」および「福田徳三著作年譜」が出ております。それを見ると、晩年の福田先生と上田先生がいかに密接な間柄であったかが分かります。上田先生がお書きになった「上田日記」の抜粋によれば、福田先生とは非常にしばしばお会いになって話をされたことがわかります。去年の10月号ですから如水会館の14階のリーディングルームにもきっとあると思います。


上田先生の弟子とP荘太郎先生

 そういうわけで、上田先生は福田ゼミの出身であり、産業革命とか、後年は人口問題とかの経済の問題も研究されました。しかし、お弟子さんの中には太田先生のほかに、増地庸治郎という方がいらっしゃいます。増地先生のお弟子さんについては、今日の私の話と直接関係がないので書きませんでしたが、私が学生時代には増地門下の古川栄一先生、山城先生、藻利先生がいました。これはちょうど会計の岩田、番場、飯野の3先生と同じで、それぞれ経営学の講義をされていたのです。

 お配りした資料には、もう一つ高瀬荘太郎先生の系列があります。上田先生は東京商科大学の第3代学長でしたが、盲腸炎のために急逝されたのであります。そのあと学長に推挙されたのが高瀬荘太郎先生です。高瀬先生は会計学者ですが、その師匠は佐野善作先生です。

 国立の大学のキャンパスの南側すぐ前に佐野書院というのがあるのをご存じでしょうが、これは佐野先生が寄付したものです。佐野先生は東京高等商業学校の最後の校長であるとともに、昇格した東京商科大学の初代学長でした。2代目の学長は三浦新七先生です。また高瀬荘太郎先生のあとは、5代学長が上原専禄先生、6代学長が中山伊知郎先生というわけです。高瀬先生はそこに書いてありますように1892年のお生まれですから太田先生よりも3年下です。


太田先生

 太田先生は専攻部を卒業したあと中大の講師になりましが、それは当時上田先生が中大で講義を持っておられたからです。上田先生は和歌山の人でしたが、紀州徳川家の藩主の息子さんが外国へ留学するにあたって、そのお師匠さんとして一緒について行かれました。ということで中大の講義を太田先生に譲るということで、中大の専任になったのです。

 当時太田先生は資本利子論を勉強していたそうですが、そういう専門の講義では困るということで、時間を埋めるために簿記会計をやらされました。それが会計学者になるきっかけであったとお書きになっております。そして1923年、大正12年に東京商大の予科教授として転任されます。そして1929年、昭和4年に商大の教授になりました。そして1948年に退職しています。太田先生の一橋での処遇はそれほど良くなかったようです。


P先生と松本先生

 それに対して高瀬先生は、東京高商専攻部を卒業されるとすぐに東京高商の講師になり、さらに1年で教授になり、そしてすぐに外国に留学し、4年半アメリカ、ヨーロッパで勉強して帰って来ました。とにかく高瀬先生は非常に恵まれたコースを歩まれましたが、それだけ優秀であったわけです。

 高瀬先生のお弟子さんは片野一郎先生でありまして、私も習ったことがあります。その下に松本雅男と書いてありますが、この方も会計学者で、私は松本先生にも教えて頂きました。皆さんにお配りしたものには何も書いていませんが、松本先生と高瀬先生とは点線で結んで頂きたいと思います。

 松本先生は井浦仙太郎という金融論の先生のゼミ出身で、一橋を出て今の滋賀大学、当時の彦根高商へいきました。しかし専門は金融だったのに簿記会計を持たされ、そこで簿記会計を専門に勉強するようになったそうです。しかし、もともと金融が専門だったので、彦根高商の雑誌に銀行の経営分析についての論文を書きました。

 高瀬先生も、もともとは佐野先生のゼミで銀行論が専門だったのですが、大学を出る半年前に佐野先生から「お前は会計学を勉強しろ」と言われて会計学に転向したと言われております。佐野先生自身も商業簿記の著書があるくらいで、簿記については詳しかったようです。そういうわけで、高瀬先生は金融の出身ですが、会計学者になりました。

 松本先生は太田先生や高瀬先生と直接のつながりはなかったのですが、経営分析の論文が高瀬先生の目に止まり、昭和16年に一橋へ呼ばれ、それ以後は高瀬門下の一人として行動をするようになりました。

 片野先生のところにはお弟子さんの名前が書いてありませんが、お弟子さんに、今の一橋の会計学の中心になっている安藤教授がいます。安藤君は私より13歳若く、現在61歳です。安藤君は岩田門下の森田君のゼミ出身となっていますが、ほんとうは片野先生のゼミ出身で、正確に書くとゴチャゴチャしてわかりにくいから書かなかったのです。

 そういうわけで、一橋会計学は太田門下、高瀬門下という二つのグループで今日に至っていると言っていいと思います。


一橋大学百年の学問史

 今日のテーマは「社会を支える会計」であり、太田哲三先生は一橋をお辞めになったあと約20年間公認会計士として活動されたのですが、その前に会計学者としての太田先生がいるわけであり、分けてお話をしようと思います。

 一橋は明治8年、1875年に商法講習所としてスタートしてから百年になる1975年に百年記念の行事が行われました。その記念行事の一環として「一橋大学学問史」という非常に厚い書物が作られました。その学問史では、商・経・法・社の順で各学部の現職の教授、場合によっては名誉教授が執筆して、百年間の一橋の学問の発展をまとめました。

 会計学は、財務会計と管理会計に大別されています。そこで、財務会計については私が執筆し、管理会計については岡本君が執筆しました。

 その中で、読んで面白いと思われたものを学生にも読ませようということで、「一橋論叢」が特集を組みました。私が書いたものもその中に入りまして、「一橋会計学を担った人たち」という題で「一橋論叢」の1983年4月号に載りました。そこで取り上げたのは、下野直太郎、鹿野清治郎、吉田良三、高瀬荘太郎、太田哲三、岩田巌、片野一郎、番場嘉一郎という8人の先生方でした。

下野直太郎

 下野直太郎という方は、一橋で最初の会計学者と言われている人で、非常に変わった人だったそうです。べらぼうに点が辛くて、300人試験を受けて3分の2が不合格というひどいような先生だったのです。書いたものは大体が簿記でありました。しかし会計というのは金銭の計算であるという非常にシャープな考え方を持っておりまして、会計学者の天才的な閃きがあった人と言われています。しかし、まとまった著書は残しませんでした。

鹿野清治郎

 その次は鹿野清治郎さんです。普通カノと呼ばれておりますが、一橋大学の人事記録を調べたらシカノとなっていました。この人は山形の人ですが、山形でもカノと読むのとシカノと読むのと二つの名字があるようです。普通はカノ先生と読んでおりますが、私の調べた限りではシカノの方が正しいようです。たとえば上村はカミムラと読む人とウエムラと読む人と両方ありますし、吉川にもヨシカワと読む人とキツカワと読む人があります。アメリカの大統領のレーガンだって、普通ならリーガンと読みたいところですが、本人が「いや私はレーガンです」といえばやっぱりレーガンなのです。

 ある人の説によると、一橋会計学の学者の名前にはある法則性があり、「野」組はシモノ、カタノのように3音の名前であるということです。3音ですと、やっぱりカノよりもシカノの方が法則性に適うわけであります。オオタ、イワタ、モリタは「田」組で、これも三音です。しかし管理会計はマツモト、オカモト、ヒロモトで、やはり3人いないと法則性は主張できません(笑)。

 下野先生はアメリカのフォルソムという人の考え方を基礎にして、簿記の取引要素説を作ったと言われておりますが、とにかく著作は少なかった。鹿野先生はイギリスのピクスレーという人の書いた書物を基にして「計理学提要」という書物を書いております。これは上下2巻になっておりまして、上巻で簿記と会計、下巻で監査を説明しております。

吉田良三

 吉田良三先生は明治43年、1910年に日本で初めて「会計学」という書物を書いたことで有名です。これはアメリカのハットフィールドという人の書いた「モダン・アカウンティング」という書物を材料にして書いたと言われております。そのため鹿野先生から、これはハットフィールドの焼き直しであるという批判を受け、それがこたえたのか、それ以後は会計学の本を書いていません。吉田さんは工業簿記とか原価計算を研究されました。特に「間接費の研究」という論文で博士号をお取りになりました。

P荘太郎

 高瀬さんは、先輩たちの著作が外国の本の受け売りにすぎないことに対して非常に不満を持ちまして、独自の考え方をとりました。そして、貸借対照表の借方と貸方はまったく別個の基準で考えなければいけないと主張しました。貸方側は資本価格、つまり企業の収益力を基礎として評価するのに対し、借方の方は、資産の個々の価値を基準にしなければならない。そうすると差額が出てきます。そして借方に出てくる差額がグッドウヰルであるということで、昭和8年に「グッドウヰルの研究」という書物をお書きになりました。

 今でもグッドウヰルは計上されています。会社を合併したとき、合併会社が消滅会社から引き継いだ純資産額に比べて発行した株式の資本金額の方が大きい場合、それは消滅会社の暖簾を買い入れたものとして処理します。しかし、高瀬先生のグッドウィルはそういう通常実務で行われている暖簾の計上ではなく、理論的に考えて、あるべき暖簾というものは、企業の資本価格と個々の財産価格との差額であるという、非常にユニークな、しかし実務的にはまったく通用しない理論で、そういう書物をお書きになって博士号をお取りにないました。

 高瀬さんの「グッドウヰルの研究」は現在でも神保町の古本屋にどうかすると出るそうですが、会計学の古本で今2番目に高くて、15万円ぐらいするそうです。1番高い会計学の古本は、同じ頃に出た神戸大学の教授であった山下勝治先生が訳したフリッツ・シュミットというドイツの学者が書いた「有機的時価貸借対照表」であります。この山下さんの翻訳は誤訳が多いことでも有名ですが(笑)、値段は20万円といわれています。

 ついでですが、私の書いた本は神保町の古本屋で百円で売られています(笑)。例外は昭和51年に出した「資本会計論」という本で、3万6千円します。古本で1万円すれば高い方ですが、高瀬さんの「グッドウヰルの研究」は15万円しており、いかに現在でも高く評価されているかが分かります。


太田哲三先生の著書

 私が「一橋会計学を担った人たち」の中でいちばん詳しく書いたのが太田先生です。太田先生は、1922年(大正11年)に「会計上の資産」という論文をお書きになっています。その中で福田徳三さんの文章も下野さんの文章も引用しておられますが、そのポイントは「会計学上の資産は常識的な意味での資産ではない」ということです。「ある目的のために企業が取得したものであり、財とか権利が資産ではない」とも言っています。

 具体的に申しますと、繰延資産などは中身がありませんが、企業がある目的のために取得して、将来の経営活動に役立つという認識で繰延資産とするのであれば、会計上の資産だということです。そういう意味で、当時の日本の会計学では言われなかったことを述べております。それが今日の言葉でいう動態論ですが、太田先生は日本で初めて「理論としての会計学」を打ち出した人ということで知られているわけです。

 太田先生の著書のうち最初に出たのは「会計学要綱」という大正5年(1916年)発刊の本で、英米の本を参考にしながらまとめたものです。「会計学概論」という昭和7年に出た書物は、戦前の日本の代表的な会計学書です。それから、昭和18年(1943年)に出た「会計学」があります。これはその後改訂版が出ており、番場ゼミでは毎年この本がテキストに使われました。

 また、「固定資産会計」という本が昭和26年に出ました。これは太田先生の学位論文です。今日もここへ来る前にこの本をパラパラとめくってみましたが、学位論文という感じはしません。外国文献の引用もごく僅かであり、すらすらと書いた感じで教科書風です。頁数は縦組で308頁です。


岩田先生の審査報告

 この書物については岩田先生が審査報告を致しまして、それに若干手を入れて「産業経理」という雑誌の昭和28年(1953年)11月号に「固定資産会計 ― 太田会計学の新しいスタート」という論文をお書きになっています。

 これは審査報告そのものではありません。私も一橋在職中に主査になったことが2回ありますが、学位論文の審査報告はたいへん面倒なものです。大学院ですから、教授会は研究科委員会と呼ばれます。そこで主査が報告をするわけです。それに対して、メンバーからいろいろな質問が出ます。専門家もおりますし、中には審査報告に対してむずかしい質問をして審査員を困らせるのが大好きという人もいます。それで審査員が答えられないと、議長の研究科長は、「この点については次回報告してもらいます」ということになり、審査員が答えられないことが2回、3回と続くと問題になります。最後は投票ですから、投票で勝ち目がないときは、研究科長の判断で論文を取り下げるのです。商学部でそういうケースがありました。ですから、審査員というのは非常にきつい仕事です。

 太田先生の論文については、さすがに岩田先生は褒めるところは褒め、問題があるところは問題を指摘しておられます。


「固定資産会計」の要点

 太田先生の真価は、「資産の会計処理は、その資産に投下された原価を期間に配分することである」と日本で初めて説いたことです。たとえば、固定資産の場合、使用または時の経過による価値の減少を減価償却といいますが、その簡単なものは、コストから残存価額を引いたものを耐用年数に割り振ることで、定額法と呼ばれている方法です。「費用配分の手続きである」と会計の教科書では説明しますが、日本でそういう費用配分の原理について最初に言ったのが太田先生でした。

 ところが、昭和26年に出たこの本では、費用配分の原理が実際は貫かれていないと述べています。費用配分では、たしかに取得原価から残存価額を引いたものを資産の使用期間に割り振りますが、それが決して理論通りに行われていないというのです。太田先生の言葉でいうと、「減価償却はむしろ財政償却である。何年で償却するかを見越して、実際に資産の価値の減少がどれだけあるかということは、物量的には把握できない。だから、それは政策的な会計処理にすぎない」ということで、減価償却について通説を否定したのが、この本の最も大きな特徴です。

 話がちょっと逸れますが、来年から固定資産について新しく減損会計という問題が加わります。それは固定資産の減価償却のほかに、現在使っている資産について、将来にわたって得られるキャッシュフローが帳簿価額に満たない場合は、その見積もり額を損失に落とさなければならないというものです。これはこれまで見過ごされてきた新しい問題です。もし太田先生がご存命であれば、これについてどういう見解を述べられたか、たいへん興味があります。


太田先生以降

 岩田先生が太田先生の考え方をある面で受け継ぎました。岩田先生は損益法という損益計算の方法について体系的に整理して、「公認会計士の監査は財産法の手続きを行うものである」というユニークな位置づけをされました。それが昭和31年に出た「利潤計算原理」という書物です。

 もう時間がないから省略せざるを得ませんが、片野先生はインフレーション会計の大きな書物を書きました。私の師匠の番場先生は「棚卸資産会計」という題で、千頁を超える大著を書きました。それぞれ特徴を持っており、名著といわれています。皆さんは、それぞれの先生の本を自分でお読みになるよりも、私が一生懸命読んで短い枚数にまとめたものを読んだほうが時間の節約になり、参考になると思います。これで太田先生についての第1部の話は終わります。


なぜ太田先生は公認会計士になったのか

 第2部は、太田先生が一橋大学をお辞めになって、会計士として活躍たれた20年間のことですが、その20年は太田先生にとってたいへん実りの多い期間であったと思います。

 太田先生はなぜ会計士になったのでしょうか。お配りした資料の先生の主な著書の終わりに「会計学の40年」という本を挙げていますが、これは1956年に太田先生がご自分の歩んだ道を振り返った随筆です。次の「近代会計側面史」という本は、この「会計学の40年」を12年経ってから改訂したものです。私は「会計学の40年」は持っていますが、「側面史」の方は持っていません。できたら買いたいと思って神保町の古本屋を探しましたが、手に入りませんでした。

 太田先生は自分のことをよくお書きになっていますが、なぜ会計士になったかについては書いておられません。これは私の推測ですが、原因は二つあったと思います。

活動的な人

 第1の理由は太田先生がたいへん活動的な人であったことです。じっとしているのが嫌いで、研究室とか書斎で本を読んで原稿を書いているような生活は嫌いな方なのです。外へ出る方が好きなのです。

 そういうときに日本に新しく公認会計士という制度が導入されました。それまでは監査を職業とする人間は日本にはいませんでした。昭和2年に計理士法ができ、会社を設立するとか、税の問題、会社の整理などの仕事をする専門家として計理士がいました。しかし、法律では外部の専門家による財務諸表の監査を要求してませんでしたから、そういう需要がなく、計理士は監査の業務を行いませんでした。

 株式会社には監査役がいますが、皆さんご承知のように監査はしません。きちんと監査をすると、その人はクビになっちゃうからです(笑)。ところが昭和23年に証券取引法ができ、投資家を保護するために会社が発表する財務諸表を、その会社と特別の利害関係を持たない、しかも会計の専門家である公認会計士が監査する制度が導入されました。これはアメリカに倣ったものですが、わが国には当時その監査を担当する人はいませんでした。

公認会計士制度

 そこで政府は困って、現に計理士として登録している人や、会社で3年以上経理の仕事をしている人に受験資格を与えて、特別公認会計士試験を昭和24年から何年かにわたって実施して会計士をつくりました。現在公認会計士をやっている人の中にも、そういう形で資格を取った人がまだおります。太田先生は第2回目の特別試験を受験して非常にいい成績で合格したそうであります。その後に私が経験したことですが、太田先生は計算が早くて正確であり、記憶力も抜群です。ですから、そういう試験にはもってこいでした。

 公認会計士は1次試験、2次試験、3次試験とあって、大学の2年まで済んだ人は2次試験から受けられます。2次試験に受かると3年間実務補助などをして3次試験を受けるのです。

 昭和24年からそういう試験か始まっていましたので、私は将来会計士になろうと思って昭和26年に2次試験を受け、合格しました。そして翌年の秋に先輩に相談したら、会計士になるのはやめた方がいいというのです。この制度は、当時の日本が米軍の占領下で占領政策に反対できないから受け入れただけで、会社では公認会計士を信頼しておらず、「どこの馬の骨か分からないやつに会社の帳簿を見せるなどとんでもない」という空気が強かったようです。経団連は会計士と契約する場合に、「監査の日数は何日間、人員は何人で報酬は幾ら」と決めて、会計士の代表と話をつけてから契約するように働きかけました。日本では昭和23年に公認会計士法ができ、24年に企業会計原則、25年に監査基準が作られ、26年7月から会計士監査が始まったのです。

太田公認会計士事務所

 太田先生は何といっても会計学の大御所ですから、公認会計士協会の初代会長として経団連と話合いをするというような仕事をされました。太田先生のような方が会計士になったことは、日本の会計士業界にとって非常に大きなメリットがあったと思います。もし他の人がなっていたら経団連に鼻であしらわれただろうと思います。

 太田先生は会計事務所をつくられました。太田事務所は監査契約をしに来る会社の人たちで門前市をなすほどだったようです。そのため開店休業の公認会計士が生じ、これでは不公平だという不満が起こったそうです。

 これに対して、お弟子さんである岩田先生は、「公認会計士というのはお医者さんと同じである。患者は藪医者のところには行かないけれど、名医のところに殺到する。実力のある公認会計士に監査してもらおうと、そこに頼みにいくのは当たり前だから、監査契約が偏るとことは別に悪いことではない。その会計士はそれだけ信頼が厚いことを意味するにすぎない」と教室で言われたことを記憶しております。とにかく太田先生は活動的な人でしたから、会計士をするのに非常に向いていたことが原因の第1であろうと思います。

P先生との関係

 公認会計士になられた第2の理由は(私はこの理由の方が強かったと思いますが)高瀬先生との関係だと思います。

 太田先生は大学を卒業して10年も中大で冷や飯を食っていました。それから一橋へ戻りましたが、高瀬先生は三つも下なのに専攻部を卒業してすぐ講師になり、4年半外国に留学して、昭和2年には太田先生より2年早く教授になりました。太田先生は昭和4年に教授になりましたが、年齢を加味すると5年の差がついてしまいました。

 さらに高瀬先生は昭和15年に上田学長が急逝すると、学長になって大学を引っ張っていきました。しかし、そのために、戦争が終わって公職追放の話が出る直前、昭和21年(1946年)8月に一橋をお辞めになりました。お辞めになったらすぐに、当時の吉田内閣で国務大臣に抜擢され、経済企画庁長官に起用されました。それから参議院議員に当選し、その後は郵政大臣、文部大臣、通産大臣という要職にずっと就かれております。

 それに比べ太田先生の方は、会計学では多くの業績をあげ、自負をお持ちであったと思いますけれども、やっぱり負け犬です。それで一矢報いたいという気持ちが強かったのではないかと私は思います。

 会計士になってからは会計士協会の要職を歴任されました。しかしその期間はそんなに長くはなく、20年弱です。しかも太田先生は会計士一本ではなく、会計学会の仕事とか、出版社が原稿を書かせたり、講演に引っ張り出したりということで、放ってはおきませんでした。私の感じでは、太田先生ご自身も両方やりたかったのではないかと思います。そういう意味では、太田先生の後半の人生はハッピーだったと私は思うのです。

 太田先生が亡くなられてから35年が過ぎました。もう会計学を専攻している学生でも太田哲三という名前を知っている人は1%もいないのではないかと思います。しかしパブリック・アカウンティングは、まさに「社会を支える会計」であります。私は今公認会計士として実務を行っている人、あるいは将来公認会計士として身を立てようとする人たちに対して、会計士の仕事は「社会を支える会計」であることを強調したいと思うのです。予定の時間になりましたので、これで終わらせて頂きます。ご清聴ありがとうございました。(拍手)


質疑応答

質 問 このを見ると、一番右の世代には森田先生、中村先生、岡本先生と並んで書かれております。私は昭和30年代の初めの頃の卒業生ですが、10年位後輩の方々の系譜がこういう図で書けるものなのか。会計学もずいぶんいろいろ変化を起こしていると思うのですが、これを今の図に表したらどういうふうになるのかを教えて頂きたい。
   
講 師 森田君のところの右側には、さっきもお話しした安藤君と、安藤君より一つ下の新田君という森田君の弟子がいます。そして安藤君の弟子が万代君という人です。それから新田君の弟子で、同時に森田ゼミに入っていた慶応出身の佐々木君という人がおります。

それから私の後継者はいま副学長をしている伊藤邦雄です。伊藤の弟子に加賀谷がいます。

それから飯野先生は昭和45年に学園紛争のときに嫌気がさして一橋をお辞めになり、そのせいもあってか門下生は残っておりません。

片野先生の弟子も、さっき申しましたように安藤君が片野ゼミ出身でありますけれども、森田門下ということになっております。

それから岡本君の弟子には廣本君と尾畑君がいます。それから廣本君の弟子で挽文子さんという女性がいます。

ですから、今のところ、安藤、新田、万代、佐々木、伊藤、加賀谷に廣本、尾畑、挽という9人で、私がいた当時に比べずいぶん大所帯になっています。

学科目などもこの頃は名前を少し変えて、近代化されているようです。たとえば、われわれの頃は簿記制度という変な名前の科目がありましたが、現在はハイカラな名前になっております。
   
質 問 中央大学では、専門職大学院で会計学を提供するというシステムができたそうですが、一橋にはそういうものができるんでしょうか。
   
講 師 私は今のところ聞いていません。ご承知のように、いま国際経営戦略を竹内君という人が研究科長になってやっております。これはアメリカのビジネス・ストラテジーが中心です。これは国立にある大学院とは別です。こちらの経営戦略の方にも専任の会計スタッフがおります。そして、この頃は外国人の大学院留学生が多く来ていますので、一橋の場合はアカウンティング・スクールは無理ではないかと思います。

皆さんご存じでしょうけども、昨年ロースクールができましたが、今年は学生がガタッと落ちたようです。アカウンティング・スクールは今日本に10校できていて、さらに来年5校ぐらいできるであろうと言われています。しかし、現在の10校を見ても、6校が定員割れで、定員を超えているのは中央、早稲田、東北、青山の4校だけです。たとえば東京レックという大学院なんかは、定員60名なのに入学者は22人という惨憺たる状況です。

ロースクールの場合は、ご承知のようにロースクールを出ないと司法試験を受けられませんが、アカウンティング・スクールの場合は、短答式の予備試験に2、3科目の免除が付くだけです。そんな短答式の試験なんか、アカウンティング・スクールに進学した人なら朝飯前に解けなければおかしいわけです。だから、そんな程度のメリットではあまり学生は来ないんじゃないか。

一橋の公認会計士2次の合格者数は、他大学に比べ思ったほどではありませんが、合格率は非常に高い。だから、アカウンティング・スクールの必要性はそう強くないと思います。(拍手)

講師略歴

中村 忠

1930年11月 東京に生まれる
1953年 一橋大学商学部卒業
1958年 一橋大学大学院 商学研究科博士課程 単位修得
1958〜1972年 神奈川大学専任講師、助教授、教授
1972〜1994年 一橋大学商学部教授
1994〜2002年 創価大学経営学部教授
2002年以降 創価大学大学院経済学研究科客員教授

主な著書
「新版財務会計論」1997年
「制度会計の基礎知識」2003年
「新稿現代会計学」(9訂版)2005年
「新訂現代簿記」(第3版)2005年