経済哲学の創始者
―左右田喜一郎と杉村広蔵―

 

講師 一橋大学名誉教授

塩野谷 祐一 

平成17年6月21日 於:如水会館

【無断転記転載を禁ず】

社団法人 如 水 会

責任編集

 




◆内容目次

はじめに

左右田、杉村の業績に一橋精神の源泉を求める

2つの条件

一世を風靡したか

現代的意義を持っているか

われわれ自身の解釈が問題

経済哲学の対象は経済そのものではない

知の知としての“フィロソフィー”

二人の略歴 (一橋の歴史を背景に)

商法講習所から商科大学への曲折

商業教育と学術研究との対立

申酉事件

漱石がストライキを非難

遂に生まれた東京商科大学(1920年)

歴史、哲学、文学を含む幅広い教育

籠城事件

白票事件

左右田喜一郎の略歴

左右田銀行の御曹司

ドイツで業績を挙げる

杉村広蔵の略歴

左右田ゼミで哲学を学ぶ

1936年白票事件で辞職

貿易統制会理事、交易営団理事等

惜しむべし、早世の二人

左右田、杉村の二人を取り上げる2つの視点

時代という視点 ―「新カント派」の興隆

理念主義の立場からの認識論の確立

一世を風靡した左右田の経済哲学

学問の内容という視点

二人の哲学の本質

ヨーロッパ思想の単なる輸入ではない

経済学とカントを直接に接触させる初の試み

主な業績

左右田喜一郎の業績:文化価値主義の導入

文化価値の提唱

文化価値の基礎としての創造者価値

極限概念としての文化価値

社会哲学としての文化価値主義の提唱

杉村広蔵の業績:取り組んだ3つの大きなテーマ

経済学方法史概念の提起

経済性原理の主張

社会理念主義の提唱

解釈と評価

左右田の「文化価値=創造者価値」の解釈と評価

道具主義に立つ方法論

徳の倫理学

卓越主義に裏打ちされた文化価値主義

杉村の「経済性原理」の解釈と評価

ウェーバーやシュンペーターにも伍すべき左右田・杉村の文化価値、経済原理

社会制度の倫理学

杉村の博士請求論文と白票事件

商大退官後、実業界の評論家

結論:左右田・杉村は経済哲学の源流である

正義の倫理学と徳の倫理学との連結:今日的課題

「効用」と「能力」の間に位置づけられるべき「達成」の理論

「理念」と「制度」の相互関係を解明した杉村

終わりに

温顔とは逆に厳しい先生だった左右田

左右田が残した目に見えるもの

才気煥発、皮肉屋の杉村:東商大退官後の仕事

幻の安本長官

貿易統制会、交易営団の理事としての杉村

質疑応答

左右田喜一郎と杉村広蔵の略歴

講師略歴


はじめに

左右田、杉村の業績に一橋精神の源泉を求める

 今夜の私の講演テーマは、大正期及び昭和初期の一橋大学において、経済哲学という領域を確立した2人の学者、左右田喜一郎と杉村広蔵についてであります。この私の話は21世紀フォーラムという如水会の催しの中に組み込まれておりまして、このフォーラムのねらいは、かつての一橋の黄金時代を形成した偉大な先輩の業績を回顧して、一橋精神の源泉を再認識したいということですが、このような趣旨に私の話が沿うかどうかは分かりません。

2つの条件

一世を風靡したか

 私は、このような試みが一橋という小さな村の昔話、回顧談にとどまらず、もっと大きな意味を持つためには、2つの条件が必要であると考えています。第1に、対象とされる過去の学者がほんとうにその時代において学界をリードするような人であったかどうか。あったということならば取り上げる価値がある。第2は、彼らの業績が今日依然として現代的意義を持っているかどうか。持っているならば取り上げる価値がある。

現代的意義を持っているか

 かつては一世を風靡した学者であっても、いまはもう顧みるに値しない学者が大勢いるのではないか。そうだとすれば、第2の条件を満たすことは、かなり難しいのではないか。過去の学者が今日の学問的状況の中で、なおかつ顧みるに値するものであるかどうかということは、既定の事実ではなくて、現代の研究者であるわれわれが、解釈を通じて現代的意義を見いだすことができるかどうかにかかっているのです。

われわれ自身の解釈が問題

 かつて一世を風靡した数世代前の先生たちは、多くの場合、外国の理論や思想を輸入したのですから、その時代にそれなりの意義ある役割を演じたとは言えるが、その業績が今日依然として顧みるに値する価値を持っているかどうかは別のことであって、それはわれわれ自身の解釈によるのです。

 私は経済哲学的な関心から、これらの先輩の貢献を振り返ってみますと、驚くほどの現代的意義を持っていると考えます。今日は左右田・杉村二人の先輩の業績を顧みることを通じて、むしろ現代の経済哲学のあり方を語ることが出来ると思います。

 最初にお断りしておきますが、以下では「左右田・杉村」と敬称を省略して話させていただきます。私は2人に直接お目にかかったことはありません。ただ書物の上だけの客観的な存在として受け取っているわけで、したがって、夏目漱石とか福沢諭吉を呼び捨てにするのが何らおかしくないのと同じ意味で、自然であります。みなさんの中には、抵抗感を感じる方がおられるかもしれませんが、学問的対象として扱っているということでお許しください。

経済哲学の対象は経済そのものではない

 私が扱う話の内容は「哲学」であります。哲学というのは本来難しい話ではないのですけれども、普段それに接することが少ないために、それを難しいと思って避けている人が多いのではないかと思います。経済学は経済を対象とします。そして経済理論が生まれる。哲学は経済を対象とするのではなく、経済理論という知識を対象とするわけです。哲学は現実から一歩下がって、理論というものの根底にあるものは何かを尋ねるわけで、どんな方法によってこの学問が成立しているのか、どんな存在概念に基づいてこれが成り立っているのか、何のためにこういう経済学はあるのかという三種類の問いを提出し、学問の基礎にある「認識・存在・価値」を考察する学問です。

知の知としての“フィロソフィー”

 したがって、経済哲学は経済そのものの知ではなくて、経済学という知を対象とする知であります。それが“愛知”つまり“フィロソフィー”です。知を愛するということは、知自身を問題にして、知に関心を持つということです。ですから、現実から一歩下がって知そのものを考える。そういう意味では、哲学は「グルントリッヒ(ドイツ語“根本的に”)にものを考える」「知識の根底を考える」ことであり、それほど難しいものではないと思います。しかし、漫談のようなものをお聞きかせするわけにはいかないので、みなさんの聴覚に頼るだけでは十分ではないと考え、みなさんの視覚に訴えるために、かなり詳しいレズメをお配りしましたので(笑)、それを見ながら理解していただければと思います。

 それからもう1つ、左右田・杉村という主人公に臨場感を与えるために、レズメの最後に二人の写真を添えました(笑)。かなりよく撮れているでしょう。


二人の略歴 (一橋の歴史を背景に)

商法講習所から商科大学への曲折

 さて、話を先ず左右田喜一郎の略歴から始めます。左右田と杉村の2人の生涯を歴史的な背景の中に置いて考えたいと思います。背景と申しましても、一般的な社会経済の事件を述べるのではなく、一橋の歴史を背景に置くことにします。一橋大学はご承知のように、1875年、商法講習所として発足して以来、今日まで130年の歴史を持つといわれていますが、最初のうちは大学とは言えない、学問の場とは言えないようなものであって、大学になったのは1920年であります。ですから本当は85年の歴史なのです。一橋大学はかなりサバをよんで、尾張町の鯛味噌屋の二階における商法講習所の発足をもって大学の出発点としておりますけれども、その頃学生は20数人であり、卒業したのは3人かそこらだったということですから(笑)、それを大学の出発点と考えるのはかなり怪しいものです。

 しかも、商法講習所から東京商業学校、高等商業学校、東京高等商業学校等々と名前を変えていきますけれども、大体明治30年頃までは実用的な商業知識の教育に限られており、主たる講座は英語、簿記、商品学、貿易実務、商業地理といったようなものであります。商法講習所から約20年の間、矢野二郎という人が所長、あるいは校長をしていましたが、彼の教育方針は、前垂れ式商業の技術に優れた学生をつくること、人に使われる人間を養成すること、商店の小僧を養成することに専念していたのです。

商業教育と学術研究との対立

 実はこの一橋大学の展開過程には「商業教育対学術研究」の対立というモチーフがあったと思います。このテンションがポジティブであれ、ネガティブであれ、常に一橋の歴史を動かす力となりました。最初は商業教育と学術研究は対立的な関係にあり、商業教育一辺倒でありました。学生自身もそういうことに関与していて、書生っぽく天下国家を論ずるような学生と、商店の若旦那のようなおとなしい学生との2つのタイプがあったという事情も、対立の1つの現れでありました。

 このモチーフは後になると、「実学対アカデミズム」といったふうに、対立を隠す形で、両方を兼ね備えた大学という折衷的理解が出来てきました。つまり、実学でありながらアカデミックであるというふうな解釈が出てきましたが、最初のうちは「商業教育対学術研究」は大きな対立点でありました。ようやく大学らしい形を整えたのは明治30年頃からであって、福田徳三が明治29年に専攻部を最初に卒業し、外国へ留学に行ったりしました。明治33年には、渋沢栄一が一橋の昇格を念頭において商業大学の必要性を世に説くようになりました。

申酉事件

 明治34年のいわゆる「ベルリン宣言」は、当時ドイツに留学中の一橋の先生たちが8人集まり、商業大学の必要性を学長に建議したものです。商業大学設立の機運が高まったとしても、世の中ではそういうものは余り必要でないという認識が強かった時代でした。明治40年頃になりますと、衆議院等で商業大学設立の建議案が可決されますけれども、一橋の人達は「高商の専攻部を独立させて大学にしたい」と考えたのに対して、文部省は「帝国大学の法科大学に経済科あるいは商業科を置く」という形で対応し、一橋に対しては、専攻部という大学レベルの機関を廃止するという措置を採りました。

漱石がストライキを非難

 ここでいわゆる「申酉事件」が起きました。明治41―42年、文部省に抗議して、高商の学生たちが総退学を決議するなどの事件が起きたのです。世の中の人達はこの行動を必ずしも支持していませんでした。夏目漱石の日記がありますけれども、以前にどなたか一橋の方で、「申酉事件」に関連してこれを引用していた方がいたのを覚えております。明治42年4月の日記に、こういうことが書いてあります。

 「商科大学を大学に置くといふので、高商の生徒が同盟罷校、一同母校を去る決議の由新聞に見ゆ。由来高商の生徒は、生徒のうちより商買上のかけ引をなす。千余名の生徒が母校を去るの決心が、恫喝ならずんば幸也。況んや手を廻して大袈裟な記事を諸新聞に伝播せしむるをや。渋沢何者ぞ」

 渋沢栄一が学生たちを支持したということですね。

 「それ程渋沢に依頼するなら、大人しく自己の不能を告白して渋沢にすがるのが正直也。高商の教授校長二三辞職を申し出づ。尤も也。早く去るべし」と(笑)。

 関一や佐野善作らが辞表を出して辞めましたが、数年後にまた帰って来ました。5月24日には

 「高商生徒無条件にて復校ときまる。仲裁者は実業家也。高商生徒は自分等の未来の運命を司どる実業家のいふ事はきくが、現在の管理者たる文部省の言ふ事はきかないでも構はないといふ料簡と見ゆ。要するに彼等は主義でやるのでも何でもない。あれが世間へ出て、あの調子で浮薄な乱暴を働くのだから、実業家はいい子分を持ったものである」と。

 このように漱石の日記に申酉事件が出てきますが、実はこれは漱石の断片的な感想ではなくて、重要なのは明治42年4月、5月というこの時期に、彼が『それから』という小説を書くための資料として集めたものだとということです。評論家によると、『それから』は漱石自身の仕事の中でも1つの画期的なものと言われている。小説の中で、文明批判型の主人公である代助という人間が勝手な文明批評をいろいろするわけですが、大学を出て3年経ってもブラブラしている主人公であって、いまのニートというのにあたる(笑)のではないかと思います。この男がまた書生を置いて、ニートが2人生活をするのです。『それから』から引用しましょう。

 ある日、「先生、大変な事が始まりましたな」と、書生の門野が話しかける。

 「学校騒動の事じゃないか」と代助は言う。

 「だって痛快じゃありませんか」

 「校長排斥がですか」

 「ええ、到底辞職もんでしょう」

 「校長が辞職でもすれば、君は何か儲かる事でもあるんですか」

 「冗談いっちゃいけません。そう損得ずくで、痛快がられやしません」

 「君、あれは本当に校長が悪らしくって排斥するのか、他に損得問題があって排斥するのか知ってますか」と代助は聞く。

 「知りませんな。何ですか、先生は御存じなんですか」

 「僕も知らないさ。知らないけれども、今の人間が、得にならないと思って、あんな騒動をやるもんかね。ありゃ方便だよ、君」と。

遂に生まれた東京商科大学(1920年)

 漱石は、主人公代助の口を借りて、高商の学生のやり方、損得で行動するやり方を批判し、文明開化の中の非常に望ましくない個人主義の趨勢として述べているのです。この事件は結局、一橋に有利に解決されましたが、その後、再び大正2年(1913年)に文部省が商大案をつくり、今度は東大と高商とを合併して、専門部を別個に置くという案をつくったのですが、これも潰されました。結局、大正9年(1920年)に東京商科大学が出来上がりました。これは第一次世界大戦の勃発を背景とした経済発展に伴って、経済界における人材の必要性が高まり、高商時代の学問的な業績が蓄積されたことも基礎になって、大学昇格が決まりました。一橋だけがこうなったのではなくて、大正7年に「大学令」というのが出来て、いままで帝国大学1つであったのが、京都大学などが置かれるようになり、一橋もこの大学令に基づいて単科大学として出発したのです。 

歴史、哲学、文学を含む幅広い教育

 この際に特筆すべきことは、いままでの商業を中心とし、保険とか交通などを含めた領域を学問的にレベルアップすると同時に、経済学、法学、さらに特徴的なことには、歴史、哲学、文学といった幅広いグルントリッヒな(ドイツ語“基本的な”)学問分野を置いたことです。時代的に言えば教養主義、あるいは文化主義といいますか、後ほどお話しますが、いわゆる大正デモクラシーの機運の中で、東京商科大学が商業学以外に研究・教育の分野を増やしたわけであります。この中で左右田の哲学は、一橋の学風を「商業教育」から「学術研究」にシフトさせるのに大きな寄与をしたのです。

籠城事件

 それからもう1つ、同じモチーフが昭和6年の「籠城事件」として現れます。今日にも見られるような行政改革の必要性から、政府が予科・専門部の廃止を打ち出したのです。この頃の学校制度は、中学校があり、それを4年ないし5年終えると、上の学校を受験できるようになっていました。中学の上の学校としては、一高、三高などの高等学校と並んで、大学の予科、専門学校(高等商業学校とか高等工業学校)があり、一橋の専門部はそれにあたるわけです。中学の上に高校あり、予科あり、専門部あり、高商ありというふうに、いくつかの同じようなレベルの学校があるわけですから、減らしたほうがいいということで、一橋については予科と専門部を廃止することとなり、これが籠城事件を引き起こしました。

白票事件

 「白票事件」がそれに続いて起きますけれども、これもまた実は「商業教育対学術研究」のモチーフのネガティブな現れでありました。大学に昇格した後も、商業教育のスタッフが依然として多数派で、社会科学や人文科学に関する若い年齢層の人達との間に人事上の対立関係が生じ、こういう悲惨な事件が生じたわけです。後に述べるように、これには杉村広蔵が中心人物として関与することになります。

左右田喜一郎の略歴

左右田銀行の御曹司

 左右田と杉村のそれぞれの略歴は添付資料の通りです。左右田については、祖先は新潟の豪農であります。左右田の数世代前から群馬県に出てきて、商人となりました。左右田の父は次男でありましたので、丁稚としていろいろな商店に奉公に出ていましたが、明治維新の直前に横浜に来て両替商に勤め、そこで財産を成し、明治28年に左右田銀行をつくったのです。これは横浜の有名な大きな銀行となりました。左右田喜一郎は明治14年に生まれ、高商、予科、本科、専門部と進み、そこで福田徳三、佐野善作のゼミで経済学および貨幣論を学びました。

ドイツで業績を挙げる

 明治37年、専攻部を卒業すると、ただちに外国留学に出かけます。大学からの派遣ではなくて、自費留学です。9年間ヨーロッパにいました。主としてフライブルク、チュービンゲンにいます。これはドイツの西南地方にあり、新カント派の西南学派の拠点です。そこでドイツ語の論文や書物を書き、博士号をとり、帰国して東京高商の講師になります。教授ではありません。父親の銀行の重役を経て、やがて頭取になります。その他、社会問題研究所を立ち上げたり、京大の講師をしたり、貴族院議員にもなっています。これは多額納税者ゆえですけれども。

 1927年、不況のため左右田銀行は倒産し、本人も死去します。胃ガンでした。注目すべきは、わずか46歳で死ぬまで、活動したのは明治末期から大正期全体の20年間に過ぎません。左右田喜一郎は彗星の如く現われ、そして光芒一閃、再び暗闇の夜に消えていったのであります。

杉村広蔵の略歴

左右田ゼミで哲学を学ぶ

 杉村広蔵は、左右田のゼミで哲学を学び、1925年、イェーナに留学します。イェーナは、今から200年ぐらい前、ドイツ・ロマン主義およびドイツ観念論のメッカでありました。杉村はそこに留学しますが、わずか2年後、恩師の死亡のために急遽留学期間を短縮して帰国しました。

1936年白票事件で辞職

 それからしばらく一橋にいるわけですけれども、昭和10年、「白票事件」が起こり、責任を取って辞職します。そのとき、わずか41歳でした。その後、如水会の方々の世話で、戦時中にかけて上海日本商工会議所理事、貿易統制会理事、交易営団理事という、実業界の評論家のような仕事をします。もちろん他の大学、私立大学等という口もあったのですが、それを全部断って、こういう生き方を選んだのです。

貿易統制会理事、交易営団理事等

 戦後、招かれて商大の講師を1〜2年やったことがありますが、1948年に死去しました。53歳、直腸がんでありました。卒業してからのことを考えると、20数年学究の期間があるわけですけれども、いま述べたような事情で、商大にいたのは1921年の助手から1936年の退官まで、約十数年であります。上海時代のいろんな文章がありますけれども、雑文と言っていいものであります。貿易統制会、交易営団に入った頃は、統制経済あるいは営団経済という大きなビジョンを描いたりします。戦後は社会主義を論じたりしますけれども、私は、退官後1〜2年で杉村の学問的生命は尽きたと考えております。わずか10年ぐらいの仕事しか出来なかった悲劇の哲学者です。

惜しむべし、早世の二人

 もし左右田が46歳でなく80歳まで生きていたならば、あるいは杉村広蔵が53歳でなく80歳まで生きていたならば、ということを考えると、左右田の場合は1961年まで生きたことになります。杉村の場合は1975年まで生きていたことになります。この20年とか30年という余分の人生は、彼らにとって学問的に油の乗った長い時期であったに違いありません。彼らがこのような時期を持たなかったことが何を意味するかということが、先程の私の問題提起である「彼らの現在的意義はどこにあるのか」を解明することになるでしょう。逆に言えば、「彼らがもっと生きていたならば何をやったであろうか」という問いが、彼らの現代的意義に答えることになるだろうと思います。


左右田、杉村の二人を取り上げる2つの視点

時代という視点 ―「新カント派」の興隆

 まず2人を取り上げるに当たって、2つの視点を申し上げたい。1つは時代的な背景です。先程申しましたのは、専ら一橋の背景ですけれども、それは日本全体の時代的背景、学問・思想的背景の一部でありました。日本における経済哲学は、19世紀半ばから20世紀初めに至るドイツ哲学思想の消長を反映することによって生まれました。当時観念論に対する不信と実証主義に対する懐疑とから、カントの批判哲学への復帰、「カントへ帰れ」という運動が新カント派を生み出したのですが、新カント派は2つの学派からなっていました。コーエン、ナトルプ、カッシラーという3人がマールブルク学派、ヴィンデルバント、リッケルト、ラスクの3人が西南学派です。西南学派は、左右田の留学したフライブルク、チュービンゲン、ハイデルベルグを本拠として活動していました。

理念主義の立場からの認識論の確立

 新カント派は、自然科学中心の実証主義的考え方に対して、理念主義あるいは観念論の立場から、文化科学・歴史科学・精神科学を学問として認識論的に基礎づけようとする試みであります。カントの批判哲学は、自然科学と数学を基礎づける認識論を確立しようとしたわけですが、それを人文科学、文化科学あるいは精神科学に適用しようとしたのが新カント派であります。このドイツ哲学界の傾向と日本および一橋の独自の事情とが結合しました。当時は、商学、簿記、保険などを「私経済学」と呼んでいましたが、こうした商業実践教育から出発した東京高商の教師たちは、これらのものは「追求に値する学問であろうか」という反省から、学問を探究する大学への昇格を目指して、幅広い社会科学・人文科学の基礎研究に乗り出したのです。

一世を風靡した左右田の経済哲学

 明治30年代の初めから商業大学設立の機運が高まります。申酉事件は、東京帝国大学に経済科を設置し、東京高商専門部を廃止しようとした文部省への対抗意識が大きな動機でした。一橋では社会科学の基礎に哲学・歴史・文学が意識的に位置づけられたことは先程申しました。ドイツに留学した左右田・杉村の経済哲学は、社会科学としての経済学を学問として基礎づけると同時に、経済生活の意義を哲学的に解明するという独自の意図から生まれたものです。左右田は「科学哲学・道徳哲学・宗教哲学・法哲学・政治哲学があるのに、なぜ経済哲学がないのか」という問いを提起したのです。

 左右田の経済哲学は一世を風靡し、「商業教育から学術研究へ」脱皮しようとしていた東京商科大学の学問的地位を著しく高めるのに貢献しました。帝国学士院賞制度は明治44年に創設されましたが、左右田は大正13年に経済学者として最初にこれを受賞しております。受賞論文は“Geld und Wert”(貨幣と価値)および“Die logische Natur der Wirtschaftsgesetz”(経済法則の論理的性質)の2つで、両者ともにドイツで発表されました。日本に帰って来てから、生前の単著としては『経済哲学の諸問題』『文化価値と極限概念』等があります。これらは、何度か版を重ねて、よく売れたと言われますけれども、ほんとうに学生等が読んで分かったとは僕には思われない。当時の学生が神田あたりで左右田さんのドイツ語の本を探して買ってきたら、苛性ソーダのソーダという題名の本だった(笑)という話を、どこかで読んだことがあります。

 西田幾多郎の『善の研究』は1911年に出ておりますが、教養主義の流行の中で、旧制高校の学生や大学生が競ってこれを読んだと言われますが、こんな難しいものを素人が読んで分かるはずはない。しかし、左右田は若くして死去し、杉村も大学内部の紛争によって学界を去り、その弟子たち、本多謙三、川村豊郎等も夭折し、経済哲学の伝統はわずか半世紀足らずで消滅しました。

 さらに第二次大戦後になると、理念主義自身が衰微して、実証主義が経済学界の主流を形成しました。「経済哲学」という言葉は、経済学辞典の中からも姿を消します。社会哲学としての新カント派哲学は、本来没価値性の自然科学、つまり価値を扱わない自然科学や経済至上主義の唯物論に対する批判から生まれたものであり、観念、主観、自我の優位を説いたわけですけれども、新カント派がなくなった後、経済学界が第二次大戦後、近代経済学とマルクス経済学の2つの盛況を招いたというのは当然であります。なぜなら、それは哲学的反省を持たない唯物論と自然科学的経済学であったからです。これは経済成長の時代を象徴するものとなりました。

学問の内容という視点

 二人を取り上げるもう1つの観点は「学問の内容」であります。内容について言いますと、彼らの経済哲学の基礎はカントおよび新カント派であります。キー概念は「価値」と「人格」という2つのものです。認識論における「コペルニクス的転回」と呼ばれるものがカントの批判哲学の特徴であります。常識的に言えば、理論というのは、与えられている対象をできるだけ正確に模写し、それを概念によって再現することであると考えますけれども、実はそうではないというのがカントの「コペルニクス的転回」です。現実は混沌としたものであって、われわれが直観の形式や概念を当てはめて、初めて現象というものが形を成してわれわれの前に現れてくる。だから主観が先にあって、客観はそれによって可能になる。このように認識の基礎を180度転回したのがカントの「コペルニクス的転回」であります。

 つまり、対象の認識に先行して主観の側に超越論的形式と概念がなければならない。カント哲学の常識でありますが、「超越論的」(transcendent)と「超越的」(transcendental)とは違うものです。超越的というのは、経験の世界を超えるということですが、超越論的というのは、ある知識が可能となるための条件を遡って考えるということであります。認識が可能になるためには、どんな条件がなくてはならないかを考えるのが超越論的哲学であり、認識に先行する直観の形式として、時間・空間・因果性といった観念がなくてはならない。新カント派はこれを「価値」として理解したのです。つまり価値を設定することによって現実の理解が可能になる。価値と関係づけることによって認識が可能になる。これを「価値関係(Wertbeziehung)」というわけです。

 左右田は、カントの根本概念を経済学に適用することによって経済哲学をつくり上げたのです。後になって考えれば非常に簡単なことで、カントの考え方を、これまで誰もやったことのない経済学的認識の成立条件に適用すればいいわけです。その場合、一方で貨幣によって支えられる経済価値の概念に基づいて経済を評価社会としてとらえる。つまり、貨幣によって経済社会が成り立っていると考える。他方で、経済を文化価値の実現を図る場として考える。またカントの倫理学における「人格」概念は、左右田においては、創造者価値を持つものとして規定されます。つまり、文化価値を担った人間の行動は、何らかの価値をつくり出すためのものである。つまり、人間は意味を持ち、価値を持つものとして、いろんな行動をしている。そういう形式に対応して、内容は何かというと、実は「創造者価値」であると考える。文化価値を基礎づける役割を担うものは、新しいことを実現する創造者である。これは私の解釈で言えば、シュンペーターの言うアントレプレヌアシップ(entrepreneurship)およびイノベーション(innovation)の概念と同じことになると考えます。

二人の哲学の本質

 左右田と並んで、杉村は、「人格」は社会価値の主観化されたものであるとしてとらえ、社会制度、社会倫理の分析の出発点を築きました。左右田が形而上学的な議論をし、学問ないし経済学の認識論を研究したのに対して、杉村は社会倫理あるいは社会哲学という実践の分野における規範哲学を展開した。さらにその価値を具体化する制度、組織の問題を考えたということになります。

ヨーロッパ思想の単なる輸入ではない

 この分野で左右田の卓越した論文が1つあります。「カント認識論と純理経済学」という論文ですが、これは1915年の東京高商創立40周年記念の講演として述べられたものです。この年に杉村は東京高商に入り、「1年生としてこの話を聴いて感銘した。何ら分からなかったけれども感銘した」と(笑)書いています。彼らの哲学がヨーロッパ思想の単なる輸入ではなくて、国際的な標準における業績を生み出したことは特筆すべきことであって、東洋主義や国粋主義に支えられた当時の西田幾太郎や和辻哲郎等の哲学の行き方と比べて注目すべきことであったと思います。新カント主義が起こったときは、ちょうど日本における哲学の揺籃期であり、新カント派哲学は日本の哲学界が最初に直面した同時代的思想であって、これを哲学者はみな学んだわけですけれども、積極的な対決をしたのは左右田と西田に限られていました。今日「西田哲学」という言葉は、普通に使われていますけれども、この言葉をつくったのは左右田であります。

経済学とカントを直接に接触させる初の試み

 さて、現代に戻って、1970年以降、ジョン・ロールズというアメリカの哲学者によって展開された道徳哲学は、カントの伝統に属するものであります。これはイギリスの経験主義や功利主義の系譜とは違うものであり、それに対抗する系譜であります。ロールズの理論について、超越論的な「価値」および「人格」という2つの論点を考えてみますと、いずれも「カント的構成主義(Kantian constructivism)」と呼ぶことができるものです。そういうことを考えますと、左右田と杉村の哲学研究の文脈は、倫理学においても認識論においても、きわめて現代的かつ普遍的であったと考えることができます。彼らの試みは、経済学とカントとを直接に接触させる初めての試みでありました。

 今日、経済哲学は復権を果たし、発展しつつありますが、アングロ・サクソン的偏向を持っています。つまりイギリスやアメリカの学者によって押し進められているために、その哲学的基礎はイギリス経験論に基づくもので、功利主義であったり、実証主義であったりします。

 したがって、現代経済哲学はドイツ観念論に立脚した思想を評価し展開する地盤を欠いています。またイギリス功利主義の伝統によって支配された厚生経済学の領域においては、個人が効用や満足を高めるという観点からのみ道徳規範が考えられており、権利や義務という道徳規範を説明することができない。従来の経済学の効用主義や功利主義的ゆがみを批判するに当たって、現代の経済哲学が最も強力な原動力としているものは、ドイツの伝統、カントの伝統であるということが言えます。


主な業績

左右田喜一郎の業績:文化価値主義の導入

 左右田の主な業績を立ち入って考えることにします。左右田はリッケルトの弟子であり、彼の業績は、総括的には「文化価値」というキーワードで示すことができます。彼はこの概念をドイツの西南学派から学び、独自の価値観を展開しました。杉村の体系化によると、経済哲学は3つの分野から成り立っています。「存在論」「認識論」「価値論」です。存在論あるいは経済形而上学は、経済現象の意味を解明する世界観であり、左右田はこれを「文化価値主義」として展開し、これを基礎にして他の2つの分野を扱いました。左右田の文化価値の規定は、ヴィンデルバントやリッケルトという新カント派の哲学のそれとは異なっています。彼らは宗教的価値(聖)・学問的価値(真)・倫理的価値(善)・芸術的価値(美)といった抽象的価値に対して、これらの価値を実現し、客観化する行為を意味づける形式として文化価値を定義したのです。つまり、真・善・美を実現するような行為、それらを意味づけるものが文化価値である。

 これに対して左右田は、価値の階層化ないしヒエラルキーを拒否して、価値を並列化したのです。経済活動の価値、すなわち経済的な文化価値は、本来人々の生活と結びついた非常に基礎的なものでありながら、マルクス以外は哲学的に経済を扱ったことがなかったのです。左右田は「経済的文化価値」を経済活動の言わば論理的形式として考えたのです。経済は他の文化生活を支える手段であり、人類がいつも厖大なエネルギーを費やしている活動でありますが、そうだとすれば、「哲学者はこれを真剣に受け取るべきではないか」と左右田は言います。したがって、人間と社会における経済の位置を問うことは、左右田にとって経済哲学の確立を要請する根底的な動機でありました。

文化価値の提唱

 左右田の業績を列記すれば、第1に、認識目的としての「文化価値」であります。経済生活は普遍化された客体的メカニズムではなく、認識主体が想定する文化価値に照らして個別的に形成される世界である。つまり、経済の世界というものは、客観的にそこにあるものではなくて、人間が設定する文化価値に応じて現れてくるものである。これは理論とヴィジョンとの関係であると言えば分かりやすいかもしれません。

文化価値の基礎としての創造者価値

 第2に、その「文化価値」という抽象的な形式概念に対比されるものとして、「創造者価値」があります。文化価値と創造者価値との関係は、社会と個人の関係を表すと言います。あるいは文化価値の根拠は、創造的な天才の行うイノベーションであり、それが社会全体の新しい価値として定着する。そういう価値は創造的な活動を通じて確立される。それは社会のすべての人が行うものではなくて、創造的な能力を持った革新的な人たちが、経済だけではなく、さまざまな分野において、イノヴェーションを行う。そのような創造者価値が定着したものが文化価値であると考える。

極限概念としての文化価値

 3番目に「極限概念としての文化価値」という観念があります。これは事実と価値、あるいは経済生活と創造者価値という対立物の関係を二元論としてとらえるのではなくて、それを一致させようという1つの工夫であります。一種のレトリックですが、極限概念というものを置く。つまり、事実を無限に続けることによって、1つの究極の価値規範に近づくことが出来ると考える。無限等比級数があって、1+1/2+1/4+……をずっと足していく、究極的には2になる。それと同じように、実践を理想の方向に無限に繰り返すことによって、究極的理想にたどり着く。しかし、それは現実の有限の実践によっては決して到達しない。そういうものとして、規範と現実との関係をとらえるのが極限概念としての価値という考え方です。

 実証主義の立場はそうではなくて、事実と価値を二分して、価値の方を対象から排除する。しかし、左右田は両者の間の認識論的な相互依存関係をこういう言葉で表現しようとしたのです。こういうアプローチは他のドイツ観念論の場合にもよく見られるものであって、自我あるいは主観が世界をつくり上げるといった場合、本当は主観の言うままにならない客観的な世界が外にあるわけですけれども、しかし、道徳的なアプローチをすることによって、客観的世界を自分の設定する規範に近づけることが出来ると考える。これはフィヒテという哲学者の知識論のアプローチですけれども、それに似たような極限概念によって、左右田は価値と事実とが一致するという考えをとっています。

社会哲学としての文化価値主義の提唱

 4番目に、以上を総括するものとして、左右田は社会哲学としての「文化価値主義」という言葉をつくりました。共同体における各人は、それぞれの意思に基づいて分業的に、芸術・学問・宗教・道徳・技術・法律・経済などの文化資本の生産・創造に参加することによってのみ、人格としての価値をもつ。人間が人格を持ち、尊敬されるべきであるのは、さまざまな分野において活躍し、文化の生産・創造に参加することによってである。そういう意味で、彼の文化価値主義は、大正期の人格主義、教養主義、文化主義の一翼を形成しました。

 大正時代には、「文化」という言葉をいろいろなものに付けることが流行したようであり、文化住宅を始めとして、文化映画、文化火鉢、文化御召などもありました。文化住宅というのは、玄関の横に必ず来客用の洋間があって、あとはすべて畳の日本間でした。左右田はそういう流行の一翼に参加したことになります。

杉村広蔵の業績:取り組んだ3つの大きなテーマ

 杉村は、認識論に関して言えば、「方法なくして学問なし」という彼のモットーが物語っているように、経済学の方法に関心を払いました。彼の主たる業績は、経済形而上学と経済倫理学の分野でありました。彼は西南学派に基礎を置く左右田の形而上学的なアプローチに反対し、その立場を経験的、内容的に補完するために、価値を実現する社会機構を問題としたのであって、これはもう1つの新カント派であるマールブルク学派の影響であります。彼が取り組んだ主要なテーマは3つあります。

経済学方法史概念の提起

 第1に、経済学の方法について、彼は経済学史が学説の陳列に終わっていることを批判し、経済観の論理を明らかにするものとして「経済学方法史」という概念を提起し、西欧客観主義とドイツ主観主義の2つの潮流を経済学形成の座標軸として設定して、経済学方法史を論じました。これは科学哲学ないし方法論の実践される場として学問の歴史をとらえるものであるということができます。

経済性原理の主張

 第2に、世界観としての「経済性原理」の主張が彼の特徴であります。彼はカール・メンガーの限界効用理論を経済性原理と解釈しました。メンガーの限界効用理論は通常、効率的な資源配分の論理を明らかにした新古典派経済学の創始とみなされていますが、そこに含まれている経済性原理をもっと哲学的に理解しようとするのが杉村の仕事でありました。つまり、経済原則は自然現象の規則性とは違って、人間の実践の根底にある合理的精神の表明とみなされる。これは限界効用理論の心理主義的解釈とは違って、人間の個々の主観を超えた歴史哲学的普遍性を表すものであって、カントのアプリオリな総合判断の考え方を背景とします。

社会理念主義の提唱

 第3番目に、社会倫理としての社会理想主義の提唱があります。彼はマールブルク学派のナトルプに従い、カントの人格概念を実現するような社会機構を追求しました。つまり理念を実現するような制度は何かということを考えたわけで、資本主義の経済倫理を超えて、福祉や人権や平等といったものを考えたわけであります。戦後になると、杉村は、こういう視点から社会主義を論じております。


解釈と評価

左右田の「文化価値=創造者価値」の解釈と評価

 以上は、いくつかのキーワードを二人の業績について挙げただけですが、次に、これらの「解釈と評価」に移りたいと思います。先程述べましたように、経済哲学を構成する3つの分野は経済の「形而上学」「方法論」「倫理学」であります。方法論については、私は以前に、新カント派のリッケルトに由来するウェーバーの理念型の方法論と、初期実証主義のマッハに由来するシュンペーターの道具主義の方法論との類似性を論じたことがありますが、この立場から左右田の「文化価値主義」を評価すると、次のように言えます。

道具主義に立つ方法論

 第1に、左右田はリッケルトの系譜に属することによって、自然科学の一般化の方法と文化科学の個別化の方法との対立という論点を継承しつつ、「経済法則の論理的性質」に照らして、経済学が一般化の方法をとり得ることを主張しました。左右田の方法論の特徴は、もっと分かりやすく言えば、実在主義対道具主義、リアリズム対インスツルメンタリズムという論点について、道具主義の立場に立ったと解釈をすることができると考えます。先程挙げた左右田の論文「カント認識論と純理経済学」(1915年)から引用しますと、

 「純理経済学の概念構成上の主導観念としての先天的要素を宣明し、兼ねてこの要素に係りて経済学上の総ての概念が従来の如く実在論的でなく観念論的に構成せられるべし。」

 つまり、経済学の主要概念は、われわれが持つアプリオリな要素によって構成されるのであって、実在論的、客観的に存在するものではない。経済学の認識は、実は主観的に構築されたもの、あるいは恣意的に構築されたものであって、これは先程のカントの「コペルニクス的転回」を経済学に適用したものであります。これはシュンペーターの道具主義の立場に等しいと言うことができます。

徳の倫理学

 第2に、左右田はリッケルトの価値の形而上学を継承しながらも、シュンペーターの実体的なヴィジョンである創造的指導者論によって文化価値を人格的に内実化しようとしたのです。文化価値は形式的な概念ですけれども、これを実現するのは創造者であるという。アプリオリな文化価値の概念に対して、その内容を創造者価値としてアポステリオリに特定化して、これを経済学を含む社会科学の研究のためのアルキメデスの点を設定したのです。つまり、文化価値論=創造者価値論は、一方で社会科学の認識論的基礎を与えると同時に、他方で人格の概念に内実を与える。これは文化創造の倫理学であり、後に「文化価値主義」となるものであります。左右田の倫理学は、今日の言葉で言えば、正義の倫理学でも善の倫理学でもなく、徳の倫理学であったと解釈されます。

卓越主義に裏打ちされた文化価値主義

 徳の倫理学、つまりvirtue ethicsの主導原理は、「卓越主義」(perfectionism)であります。人間が持っている能力をフルに発揮することによって、人間性が完成されるということです。これは理想ですから、その方向に努力することが徳の倫理学ですけれども、彼の創造者価値論が言おうとすることは、正にそのことではないかと思います。1970年代以降、ロールズのカント的伝統の展開は、新しい正義論を生み出し、革命的な倫理学が成立しましたが、それに対して、左右田はカントおよび新カント派の立場から、卓越主義として解釈されるべき文化価値主義を提起したのであります。つまり、カントの伝統がロールズにおいては正義論を生み出したけれども、左右田と杉村の場合には、卓越主義ないし徳の倫理学を生み出した。それが「文化価値」とか「教養主義」とか「人格主義」というものと結びつくことになったわけです。

 文化価値は、今日の共同体主義(communitarianism)思想が主張する「共通善」(common good)と解釈することが出来るでしょう。社会あるいは集団の共通の価値目標を共通善と呼びますけれども、それはロールズが主張するような普遍的、抽象的な正義の観念に対抗して、コミュニティにおける共通善の観念から出発するものです。ちなみに、シュンペーターの創造的指導者論は、単に経済領域におけるダイナミックスを説明するだけではなくて、人間のさまざまな社会領域における卓越の達成を正当化する目的論と見なすことができるわけで、政治、道徳、芸術、学問などの分野にそれぞれイノヴェーションがあって、それが時代の傾向、軌道をつくり出す。これがシュンペーターの総合社会科学的なイノヴェーションの理論であります。左右田の文化価値=創造者価値の理論は、このような文脈で理解することができる。イノヴェーターとか創造者という概念は、ドイツ観念論に固有の自我の創造的な能力、自発性を意味するものであり、単に客観的にあるものを受け取るという受動的な理性ではなくて、自発的にものをつくり出すという人間の力、これを強調すれば、創造者理論になるわけであります。

杉村の「経済性原理」の解釈と評価

 他方、杉村については、彼の「経済性原理」によるメンガー解釈は非常に面白いと思います。メンガーは通常、主観的価値論と解釈されていますが、杉村はカント的超越論の立場に立って、それを経済生活一般の世界観的構成原理を提出したものと見なし、個々の主観を超えて歴史哲学的普遍性を表しているものと解釈して、経済哲学の基礎としたのです。したがって杉村によれば、経済性原理は、むしろ有機体観あるいは自生的秩序観を含むドイツ歴史学派の真髄でした。19世紀末、メンガーの理論学派とシュモラーの歴史学派とが方法論争をしたのですけれども、杉村のように解釈するならば、メンガーの考え方は歴史学派の根底にあるものを示していることになるわけであります。

ウェーバーやシュンペーターにも伍すべき左右田・杉村の文化価値、経済原理

 経済性原理の発見は、杉村においては経済の世界観的考察を意味するものであったが、社会科学研究において一層広範な視野を持つウェーバーと比較してみると、ウェーバーは「経済性原理」に対応して「合理性」を強調したのです。また左右田の「文化価値」とシュンペーターの「創造的指導者」と比較してみると、杉村の「経済性原理」とウェーバーの「合理性」との関係と同じことが見出されます。ウェーバーやシュンペーターの言説はよく知られていますけれども、左右田も杉村も、それと同じ文脈あるいは思想的な流れの中で「文化価値」や「経済性原理」を唱えており、これらは類似のものとして解釈できるのではないかと思います。これらはいずれも、経済と社会に関してドイツ主観主義が定式化した世界観としての内面的原理であります。

社会制度の倫理学

 さらに、経済性原理は、杉村の倫理学においては、人格形成を通ずる社会制度の形成と結びついている。左右田がどちらかと言えば、内面的な人格の活動としてとらえた文化価値の倫理学を、杉村はそのような人格の活動を可能にする社会制度の倫理学を発展させたのです。したがって、制度と人格との交渉が杉村の経済倫理学の問題となります。それが資本主義の後に来るべき社会主義の問題、あるいは平等や福祉といった問題であり、これはロールズの正義論に見られる現代的視野に相当するものです。

杉村の博士請求論文と白票事件

 さて、杉村の業績のインパクトは、単に書物の上にとどまりませんでした。彼は商科大学における研究者のコミュニティを活性化させるために、進んで博士論文を出そうという運動の先駆者として、昭和10年に「経済性原理」の分析を中心とした学位請求論文を提出したのです。ところが、そういう改革者的行動も旧態派から嫌悪される理由となり、同年の教授会は、論文を可票13、否票1、白票7によって否決しました。可決には投票総数の4分の3の可票(16票)が必要でした。複雑な学内事情のもつれもあったが、杉村論文は経済学には関係がないというのが表向きの理由とされました。哲学、歴史、文学を含むグルントリッヒで綜合的な学問を掲げたはずの大学の教授たちが、哲学も理解し得ないというていたらくでした。

 ここから「白票事件」と呼ばれる学内紛争が始まり、杉村は「一体白票とは何を意味するのか」を教授会に問い、若手の助手、助教授、学生たちは彼を支持し、旧態派の老教授たちを攻撃したのです。紛争は約1年半続きました。佐野善作は引責辞任をし、代わりに三浦新七が臨時の学長として外からやって来ました。三浦新七が学内の人心一新を図るために、役職を一新したのですけれども、それに対してまた古い人達が文句をつけ、白票派の人たちの名前も分かり、改革派対旧態派の対立がいっそう鮮明になり、それに如水会も加わって、天下にその醜態を晒したのです。やがて上田貞次郎が学長に選出され、杉村は他の白票派の2人と一緒に大学を辞めました。学界からも身を引くことになり、左右田・杉村の経済哲学は外面的には自己破滅的な運命に終わったのです。

商大退官後、実業界の評論家

 その後、杉村は、先程申しましたように、大学に戻らず実業界における評論家のような活動をしたのですが、上海に赴き、中国の経済を論じたり、中国文化、東洋文化、日本文化を論じたり、あるいは「営団」という新しい制度のあり方を論じました。営団は統制会をもっと官営的にしたもので、民から官への移動ですが、交易営団は、貿易を国家目的に沿うように運営するもので、中国やアジアから原料を持ってくることが仕事でした。杉村は交易営団の実践を通じて、統制経済の倫理を論じたのです。戦後は、社会主義を社会哲学の観点から論じましたけれども、見るべき業績はないと考えます。


結論:左右田・杉村は経済哲学の源流である

正義の倫理学と徳の倫理学との連結:今日的課題

 1970年代以後、ロールズによって展開されたカント的構成主義はアメリカで現れたものですが、内容はカントの哲学です。カント以後の社会哲学を直接に同時代において継承した左右田・杉村の思想は、以上のように独特な展開を生み出した。彼らは、経済学にカントをよび新カント派の思想を方法論的に適用したのであります。倫理学に関して注目すべきものは、左右田の文化価値主義を構成する価値体系論としての「卓越主義」であります。倫理学の歴史は、アリストテレスの徳の理論、カントの正の理論、功利主義の善の理論の3つに分けられますが、アリストテレスの徳の理論すなわち卓越主義と、正義の倫理学とをカント的視野の下で連結を図ることは、重要な思想史的プロジェクトであり、今日的な課題であると思います。

 これについて私の考えている問題意識は次のようなものです。イギリスの実証主義的、経験論的な哲学として、功利主義が長い間支配的でありましたけれども、ロールズの正議論は功利主義に挑戦して、福祉を増大させるということは何を意味するかを問いました。功利主義は効用を増加する、満足を増加する、快楽を増加することが望ましいと考えた。それに対して、ロールズは、効用の次元から資源の次元に道徳判断の基準を移動させたのです。つまり社会的基本財(人々が生きていくために必要とする自由、所得、保障などの資源)の配分を対象として、正義の道徳理論を形成したのです。

「効用」と「能力」の間に位置づけられるべき「達成」の理論

 効用対資源という現代の経済哲学の二面的アプローチに対して、アマティア・センという学者は「効用」と「資源」の中間に「能力」という概念を設定したのです。capabilitiesです。人間は生きていくために、活動するために、いろんな能力を使わなければならない。歩いたり、食べたり、話したり、聞いたりする。そういう能力をフルに発揮していなければならない。それを平等に発揮できるようにすることが、福祉の増大であると考える。これはアリストテレス的な徳の倫理学を意味します。

 しかし、能力というのは何を達成するものか。食べることができる、歩くことができるというだけでは不十分であって、何かを達成することによって初めてその人が福祉を感ずる、幸福を感ずるはずであります。これは機能ではなくて、「達成」という概念が必要になってきます。左右田の文化価値主義は、効用と能力の間に位置づけられるべき「達成」の理論を提起したと言えます。したがって、カント的視野の下では、現代の正義論と共同体主義の適切な連携を可能にするものであると思われます。 

「理念」と「制度」の相互関係を解明した杉村

 また、杉村について言えば、彼は形而上学的な倫理よりは、社会倫理あるいは制度を重視し、「理念」と「制度」との2つの次元にかかわるものとして両者の相互関係を解明するという重要な接近を行ったと考えられます。新カント派と接触することによって生まれた日本の経済哲学は、悲劇的でありましたけれども、単なるあだ花ではなく、カント的系譜の経済哲学の1つの基本的なあり方を展開して見せたと考えられます。

 もっと広い観点から見れば、彼らの仕事は、アングロ・サクソンの分析哲学と対比される大陸哲学の世界観に基づく経済哲学の可能性を実践しようとしたものである。これが今後、世界的標準の経済哲学の中で一層展開されるべきであるという意味で、左右田・杉村を経済哲学の源流と呼ぶことができます。


終わりに

 左右田・杉村が亡くなってから、それぞれについて何度か追悼会が開かれたり、追悼録が出版されています。これらは本人たちを知っている同時代の人々が、思いを込めて書いた非常に貴重な資料です。写真を見ると、左右田は大変温厚な紳士のように見受けられますけれども、学生たちの指導は大変厳しかったと言われております。

温顔とは逆に厳しい先生だった左右田

 左右田の弟子である川村豊郎はこう書いています。「論文をつくることは、先生にとっては芸術的創作と全然同一であって、そこにはやむにやまれぬ学問的衝動、あるいはまた純粋なる学問的意識が動くにとどまった。もし門下生にして原稿料稼ぎのため一夜漬けの論文を作成する場合には直ちにその不純なる動機を看破されて一喝の下に却下せられた。およそ論文というのは一個の芸術品であって、それには身も魂も打ち込むべきもの。従ってまたそれは1か年あるいは2か年かかって1つも出来れば結構だというのが先生の考えであった」と。

 同じく左右田の弟子であった南亮三郎は、次のように書いている。「私は経済論文を書いて日本の経済学界に出てみたい、そのためには左右田博士のご校閲を得たいと思うに至りました。私は一論文を書いて先生のもとに送りました。やがて先生からこまごまとコメントを書き入れた私の論文原稿が帰ってきました。お手紙も別に参りました。私は自分の経済論文を先生のコメント通りに書き改めて、これならば大丈夫だと思ってそれを先生に送りました。すると先生からこんなお手紙が参りました。『一晩で書き改められるようなものは論文にあらず、冷水を一杯かぶって来い』むろん場所が北海道でありましたので、先生のお仰せの通り冷水をかぶったという記憶はございません」と。

左右田が残した目に見えるもの

 左右田がわれわれに残したものは、以上のような学問的な業績ですが、もっと目に見えるザッハリッヒ(sachlich)なものとして「左右田文庫」が一橋に残されております。彼は銀行の御曹司ですから、全くお金には困らなかったとみえて、ヨーロッパに留学した9年間、第一次大戦の前の平和な時代でしたけれども、ヨーロッパの有名な古本屋では、彼の名前を知らないものはいないほど、多くの書物を買い集めました。ファイヒンガーという有名なカント研究者がいますが、彼の蔵書を全部買った。しかし左右田の略歴が示すように、1923年の大震災で、彼が集めた文庫は全部焼けてしまったそうです。その後は、1927年までしか生きていませんから、その4年間に、彼は現在の左右田文庫を買い集めたということになるわけです。

才気煥発、皮肉屋の杉村:東商大退官後の仕事

 杉村については、人々は彼を「寸鉄人を刺す」という表現で述べております。毒舌家であり、皮肉屋であり、才気煥発、アグレッシブ、敵をつくるようなタイプの人であったと言われます。中山伊知郎先生は杉村の17回忌の追憶会の席で挨拶をしています。昭和39年のことですから、中山先生はすでに定年退官をしておられました。中山先生は「杉村君に済まないと思っていることがある。その1つは、私自身の大きな、恐らく生涯の失敗の1つであろう」とまで言っているのです。

幻の安本長官

 「杉村君が亡くなられる前の年のことですか、経済安定本部の長官が欠員になっておりまして、それをみんなが探している時期がありました。私はたまたま何かの縁故で、その候補者を推薦する役割を持ったのでございます」と。中山先生は吉田首相と仲がよかったのでしょう。東畑精一、中山伊知郎、有沢広己等が吉田のブレインになっていました。吉田はしきりに東畑を農林大臣に、有沢を安定本部長官に採用しようとし、いずれも断られました。結局、安定本部の第一期の長官は膳桂之助という財界の人になりましたが、彼がやめた後、中山先生は推薦の役を仰せつかったというわけです。結局、高瀬荘太郎という一橋の先輩が引き受けたわけです。会計学の先生です。

 「私はあのとき、ほんとうにあの仕事をやって下さる人が杉村広蔵君であったということを後から考えて、それはもう間に合わないことでございましたけれども、非常に残念に思っている。これは私自身の大きな、おそらく生涯の失敗の1つであろう。そのときはたして杉村君がそんなことを引き受けたかどうか分かりませんが、彼は大きな志をもった人であり、常に大きなことを考え、大きな問題と取り組んでいたわけであって、ああいうときに、杉村君のような人が一番よかったのではないかということをつくづく考えますと、私がそこまで思い至らなかったことは非常に残念である」と。これは、亡くなられた鬼頭仁三郎さんが、何故杉村を引っ張り出さなかったのか、と中山さんに言ったそうで、そのことではっと思ったとのことでありますが、実現していたら、面白い安本長官が出来たかもしれません。

貿易統制会、交易営団の理事としての杉村

 貿易統制会および交易営団理事としての杉村についてでありますが、城山三郎さんの作品に、『粗にして野だが卑ではない――石田禮助の生涯』という小説があります。石田禮助は一橋の先輩であり、三井物産の最高トップにまでいった人ですけれども、昭和18年、交易営団の総裁になった。三井出身である前の総裁が三井に戻ったために、入れ代わりに起用されたのです。交易営団は、国家的視点から貿易をコントロールし実践するという企画と運営の両方を兼ねた公社的なものであり、当然そこには商社等実際の知識をもった人々と、革新官僚かぶれの人々が集まる。そして両者は対立する。石田禮助は自由主義の権化である。三井物産のトップであり、世界をまたにかけて博打をうった男であるということで、革新派は内部で大いに抵抗をした。

 先程触れた杉村の追悼会にも、交易営団の左翼系の人、林大作いう社会党の代議士ですが、その人も来ていて、杉村のことについて話をしています。商社の出身者たちや革新官僚の男たちと並んで、一群の学者もいたと、城山は書いています。「その中には、理事兼調査部長として、経済哲学の大家、杉村広蔵の姿もあった」と。城山は杉村のことをよく書いている。「一億一心などと団結の説かれる時代なのに、杉村は、『皆が集まるから強いのではない。一人一人が問題であり、一人一人が強くなければならぬ』などと訓示した」と、書いていますが、杉村は営団経済、あるいは統制経済について、国家主義的立場から経済を運営することに新しい時代の仕組みとして、大いに意欲と関心を持っていたのであって、先程の林大作が言うように、杉村は左翼系の職員には、大いにやれやれと駆り立てたというのが本当ではないかと思われます。

 私は、一橋辞任後の杉村の業績にはほとんど学問的にとるに値するものはないと考えます。中山先生は同時に追悼会の中で、そんな思い出話に加えて、「この17年間」つまり杉村が昭和23年に死んでから昭和39年までの間、「杉村君が健康で活動されていたならば、いまどんなことになっていただろうかということを思うのです。今日、当時の経済哲学というようなものは無くなっているが、彼が生きていたら、おそらく経済哲学が樹立されていたのではないだろうか」、と。つまり戦後の経済学はマル経と近経であって、およそ哲学なき経済学であったわけですけれども、欠けているものを杉村は提供したのではないか。これが杉村の大きな仕事として完成したのではないかと言っております。その内容がどんなものであったかということは、私が先程述べたように「左右田と杉村の現代的意義」として述べたことであります。ご清聴ありがとうございました。(拍手)


質疑応答

司 会

ありがとうございました。それでは先生にご質問がございましたらお受けいただきます。

   
質 問 どうも有り難うございました。少し乱暴な議論かもしれませんけれども、経済哲学の問題意識には、1つは主流派経済学に対する批判という立場からのアプローチと、本当の学問は哲学だということで、哲学一般から経済哲学へ向かうアプローチと二つあって、それは深いところでは結びついているようにも思いますけれども、仮にそういう議論が成り立つとしたら、このお二人の先生方はどういう立場であったのか。あるいはそういう分類そのものが、あまり意味のないことなのかどうかを含めてお尋ね致します。
   
講 師 経済哲学は、経済についての知識を理論化した経済学を前提として、その成立根拠を問う学問なのです。だから哲学は「知の知」です。知を対象として知を論ずる。ですからいま存在する経済理論を基礎づけるような経済哲学のアプローチもあれば、これを批判して、もっと違う方向に拡張すべきであるというようなことを示唆するアプローチもある。一方をとるとか他方をとるとか、そういうことにはならない。

知の根底的なものは何かということを問うことによって、ある理論が前提としている見方とは違うものが出てくるのは当然ですね。哲学が経済的知の根底を問う場合、三つの哲学の領域が区別される。第一に、経済とは一体何かと問う「存在論」ないし形而上学があり、第二に、経済の知識はどのようにしてえられるかを問う「認識論」ないし方法論があり、第三に、一体経済は何のためにあるのかという「価値論」ないし倫理学がある。しかし、哲学の中には世界観や方法論の違いがありますから、経済的知への哲学的接近の結果が多様であるのは当然です。例えば論理実証主義のように、自然科学の方法論をそのまま受け取っている科学哲学は、現在の主流派経済学を支持し、観念論的なビジョンや党派的なイデオロギーを主張する経済学を否定したりするでしょう。

ですから哲学の立場にはいろいろなものがあり得るわけで、既存の理論を否定する場合もあるし、もっと拡張して新しい分野を示唆する場合もあるわけです。哲学的基礎に立ち返ることの意味は、現在の経済理論を相対化して、それとは違うアプローチを示唆するような、クリエイティブな議論を行うことにある。ところが、現在の経済哲学は、経済学の方法論だけになってしまっているのです。哲学には、存在論、認識論および価値論の三大分野があると言いましたけれども、20世紀になって経済学が実証的になり、哲学から離れたわけですが、何から離れたかというと、まず存在論や形而上学から離れた。形而上学的という言葉は、非科学的なものを指すように使われますね。ですから形而上学が経験主義的な経済学から排除される。つまり経済についての世界観というものが問われないことになる。

さらに倫理学や価値論はゾルレン(規範)を扱っていますから、実証的な経済学から排除される。残るのは方法論だけです。理論を正当化する根拠は何かを問う認識論あるいは方法論だけが残っているわけです。しかもその方法論は、自然科学の方法論を模倣したものなのです。2つの失われた哲学の分野、すなわち存在論ないし形而上学と価値論ないし倫理学の観点から経済学を検討することは、論理実証主義的、自然科学的科学観に基礎を置いている経済学に対する大きな挑戦であり、批判を意味するものです。
   
司 会 他にございましたら。もうよろしいですか(笑)。
 
講 師 皆さんの中にどなたか杉村をじかに知っている人はいませんか。左右田は無理でしょうけれども、杉村の講義を聴いた人はいませんか。昭和21−22年に短期間、一橋で講義をしたのです。その当時接触できた方がいませんか。おられないようですので、配布した写真でご対面ください(笑)。
   
司 会 それでは本日のフォーラムはこれにて終了させていただきます。本日もご参加いただきましてありがとうございました。 (拍手)

                                  


左右田喜一郎と杉村広蔵の略歴

左右田喜一郎
杉村広蔵
背景
M14(1881) 横浜に生まれる   M8(1875) 商法講習所
    M17(1884) 東京商業学校
    M20(1887) 高等商業学校
  M28(1895) 函館に生まれる  
M31(1898) 高商予科入学
   
M32(1899) 高商本科入学   M34(1901) ベルリン宣言

M35(1902) 東京高商専攻部入学(福田ゼミ、佐野ゼミ)
  M35(1902) 東京高等商業学校
M37(1904) 東京高商専攻部卒、留学(Freiburg, Tubingen)    
    M41-42(1908-9) 申酉事件
T2(1913) 帰国、東京高商講師    
T4(1915) 左右田銀行頭取    
  T4(1915) 東京高商予科入学  
  T5(1916) 東京高商本科入学  
  T8(1919) 東京高商専攻部入学 (左右田ゼミ)  
    T9(1920) 東京商科大学
  T10(1921) 東京高商専攻部卒、東京商大助手  
  T13(1924) 助教授  
  T14(1925) 留学 (Jena)  
S2(1927) 死去 (46歳) S2(1927) 帰国  
    S6(1931) 籠城事件
    S10(1935) 白票事件
  S11(1936) 退官  
  S13(1938) 上海日本商工会議所理事  
  S17(1942) 貿易統制会理事  
  S18(1943) 交易営団理事  
  S21(1946) 東京商大講師  
  S23(1948) 死去(53歳)  
     

なお、講師がこのテーマのために用意された、かなり詳しいレズメがありますので、ご希望の方は如水会事務局にお申し越しください。


講師略歴

塩野谷 祐一


昭和7年1月2日生

学歴
昭和28年3月 名古屋大学経済学部卒業
昭和33年3月 一橋大学大学院経済学研究科博士課程修了
昭和60年3月 経済学博士 (一橋大学)

職歴
昭和33年5月 一橋大学経済学部助手
昭和34年11月 一橋大学経済学部講師
昭和39年4月 一橋大学経済学部助教授
昭和47年4月 一橋大学経済学部教授
昭和60年4月 一橋大学経済学部長(昭和62年3月まで)
平成元年12月 一橋大学長(平成4年11月まで)
平成7年4月 一橋大学名誉教授
平成7年4月 社会保障研究所長(平成8年11月まで)
平成8年12月 国立社会保障・人口問題研究所長(平成12年3月
まで)

受賞
昭和60年11月 日経・経済図書文化賞(著書『価値理念の構造 ― 効用対権利』に対して)
平成元年11月 日経・経済図書文化賞(共著『長期経済統計』第7巻・財政支出および第8巻・物価に対して)
平成3年6月 日本学士院賞(著書『価値理念の構造 ― 効用対権利』に対して)
平成14年11月 文化功労者

著書
『福祉経済の理論』日本経済新聞社、昭和48年。
『現代の物価 ― インフレーションへの体制論的接近』日本経済新聞社、昭和48年、増補版、昭和52年。
『価値理念の構造 ― 効用対権利』東洋経済新報社、昭和59年。
『シュンペーター的思考 ― 総合的社会科学の構想』東洋経済新報社、平成7年。
Schumpeter and the Idea of Social Science: A Metatheoretical Study, Cambridge: Cambridge University Press, 1997
『シュンペーターの経済観 ― レトリックの経済学』岩波書店、平成10年。
『経済と倫理 ― 福祉国家の哲学』東京大学出版会、平成14年。
The Soul of the German Historical School: Methodological Essays on Schmoller, Weber, and Schumpeter, New York: Springer, 2005.
Economy and Morality: The Philosophy of the Welfare State, Cheltenham: Edward Elgar, 2005.

編著・共著
『経済成長と産業構造』山田雄三・今井賢一と共編、春秋社、昭和40年。
『財政支出』(長期経済統計第7巻) 江見康一と共著、東洋経済新報社、昭和41年。
『物価』(長期経済統計第8巻) 大川一司他と共著、東洋経済新報社、昭和42年。
『日本経済論 ― 経済成長100年の分析』江見康一と共編、有斐閣、昭和48年。
『昭和財政史 ― 終戦から講和まで』第10巻、鈴木武雄他と共著、大蔵省財政史室編、東洋経済新報社、昭和55年。
『国立大学ルネサンス ― 生まれ変わる「知」の拠点』1・2、有馬朗人、太田時男と共編、同文書院、平成5年。
The Good and the Economical, ed. with Peter Koslowski, Berlin: Springer-Verlag, 1993
Innovation in Technology, Industries, and Institutions, ed. with Mark Perlman, Ann Arbor: University of Michigan Press, 1994
Schumpeter in the History of Ideas, ed. with Mark Perlman, Ann Arbor: University of Michigan Press, 1994
Competition, Trust, and Cooperation. A Comparative Study, ed. with Kiichiro Yagi, Berlin: Springer-Verlag, 2001
The German Historical School, The Historical and Ethical Approach to Economics, ed. by Yuichi Shionoya, London: Routledge, 2001
『企業内福祉と社会保障』藤田至孝と共編、東京大学出版会、平成9年。
『先進諸国の社会保障』全7巻 (イギリス、ニュージーランド・オーストラリア、カナダ、ドイツ、スウェーデン、フランス、アメリカ)、武川正吾その他と共編、東京大学出版会、平成11-12年。
『福祉の公共哲学』鈴村興太郎・後藤玲子と共編、東京大学出版会、平成16年。

翻訳書
シュルツ『国民所得分析』東洋経済新報社、昭和40年。
クズネッツ『近代経済成長の分析』上・下、東洋経済新報社、昭和43年。
シュンペーター『経済発展の理論』上・下、中山伊知郎・東畑精一と共訳、岩波書店、昭和52年。
モグリッジ『ケインズ』東洋経済新報社、昭和54年。
ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』東洋経済新報社、昭和58年。