理論と思想との融合 ― 牧野先生の人と学問

 

講師 筑波大学名誉教授、白鴎大学法科大学院教授

土本 武司 

平成17年5月26日 於:如水会館

【無断転記転載を禁ず】

社団法人 如 水 会

責任編集

 




◆内容目次

はじめに

原体験

牧野英一の略歴

「茅ヶ崎の草庵」に入る

牧野英一先生の書斎

学問の権化

すさまじい論争・弟子への対応

趣味

牧野法学の源泉

厳しい日常生活

牧野理論の特色

牧野理論の影響と問題点

巨星墜つ

蔵書類のその後

ローマ法に依ってローマ法の上に

牧野英一博士略歴

講師略歴


はじめに

 こんばんは。伝統ある如水会フォーラムにお呼びいただき光栄に存じます。

 ご紹介がありましたように、私はもともとの学者ではなく、検事として30年近く法律実務家の仕事をしてまいりました。日本人的職業観に沿い、一生(と言っても定年までですが)検事で通すつもりでしたが、はからずも求められて1988(昭63)年、最高検から筑波大学へ転身、その後、早稲田大、帝京大を経て、本年4月から白鴎大法科大学院へと渡り歩いているわけですが、その間に私の血となり肉となったものは実務家としてのそれです。したがって、学者としての私も、体系性や精緻な理論構成を目指して研究活動をされる学者とは自ずから異なります。実務家として自分自身あるいは同僚たちが取り扱った事件を通しての問題意識をベースにして、それの理論的昇華を図るという、実践的理論構築をめざしているものであります。

 本日、私に与えられたテーマは「牧野英一先生について」です。が、わが国に新派刑法学理論の花を咲かせただけでなく、すべての法律学分野に新風を吹き込んだ、今日の演題にもあるように「新しい思想と法理論との融合を図った」という、大事業を推し進めた法学界の巨星とも言うべき牧野英一先生の全体像を語るなど、一実務家である私のできることではありません。ただ私は、1年間ほど先生のもとで居候的な経験をしたので、「学者牧野英一」もさることながら、むしろ今日の話の力点は「人間牧野英一」に置かせて頂き、その観点から若干ご紹介することにより責めを塞がせて頂きたいと思います。


原体験

 私は東京高検在任中に、法学博士の学位(論文博士)を頂きました。ヨーロッパ、アメリカなどと異なり、日本において裁判官、検察官で学位を持っている人が他にいなかったので、珍しいこととして、内々に仲間の者たちがお祝いの会をやってくれました。

 そのとき、当時東大法学部長だった松尾浩也先生が祝辞として「こういう快挙を成し遂げるための要因は1に才能、2に努力である。が、3にゲンタイケンが挙げられる」と言われました。1も2も私にとっては誠に気恥ずかしい過褒の言葉でしたが、それよりも「ゲンタイケン」という言葉が、その瞬間には理解できなかったのですね。「何のことを仰っているんだろう」と私が訝しがっていると、先生続けて曰く「土本さんにとっての原体験は、お若いとき、牧野英一先生の座右にあって親しく教えを受けたことにある」と。私は自分自身が気づいてない「自分」を喝破された思いがして愕然としました。


牧野英一の略歴

 お配りした資料の「牧野英一博士略歴」をご覧ください。牧野先生は、明治11年3月(1878)岐阜県は飛騨高山の「玉屋」という郷宿の長男として出生されました。郷宿というのは、江戸時代に代官所に伺候する名主とか村役の人達の定宿だったのですが、その経営者は単なる宿屋の主人というだけではなく、民間人ではあるが、地方の行政・司法の末端の仕事にも関与していました。幼少のころから神童のほまれ高い牧野英一には、お父上の仕事の関係から、自宅の書架にあった司法行政関係の書物に親しんでいたようですね。出身地の小学校、斐太中学校を卒業した先生に対して、お父上は「弁護士になれ」と強く奨められたようで、「弁護士をめざして」というご本人の気もあって、いったんは第三高等学校に入学されたのです。しかし、途中で学者になることに決意を転じて、第一高等学校に転入学されました。

 明治32年に東京帝大の仏法へ入学。後に「法律の神様」のほかに「語学の神様」とまで言われるくらい卓越した語学力を使って、イェーリング、ジェニー、サレイユなどの原書に親しんでいたようです。

 明治36年に大学を卒業して、司法官試補、区裁検事代理、地裁判事・検事を歴任し、実務を体験されたわけですが、36年9月からは東大講師を兼ねることになり、39年からは正規に刑法を担当することになりました。

 わが国の旧刑法は、明治政府が招聘したパリ大学ボアソナード教授の草案をベースにして明治13年に制定されたものですが、その後、明治40年(1907)に現行の日本の刑法が制定されました。牧野先生は旧刑法の下で育ってきた方ですが、現行刑法が制定された明治40年に東京帝大助教授に任ぜられています。

 それから2年後の明治42年、当時にすれば誕生したばかりの新刑法を取り上げて論じた名作中の名作と言われる『刑事学の新思潮と新刑法』が刊行されます。従来の概念法学に対して反旗を翻し、刑法理論のコペルニクス的転換をはかったと評されるこの本の公刊によって、弱冠31歳の牧野先生が華々しく学界に登場、一躍その名が世に知られることになったわけです。

 そして43年にイタリア、ドイツ、イギリスと、ヨーロッパ諸国に留学します。このときに当時のヨーロッパにおける新派系法学のリーダーであったリストやフェリに師事し、大正2年6月に帰国されます。帰国とほぼ同時に東京帝大法科大学教授に就任して、刑法、刑事訴訟法、刑事学、法理学等を教えることになります。帰朝後の牧野先生は、新派理論をより深化し、より精密化して、わが国の刑法学の主流たらしめるとともに、学界の第一人者の地位を不動なものにしたと言えます。

 後にも指摘しますように、牧野英一の人生は正に学問一筋の生活でありました。昭和13年(1938)東京帝大を定年退官して名誉教授になられた後も、よくはし書きに「茅ヶ崎の草庵にて」と書かれる茅ヶ崎の自宅で、学問一筋の生活を続けられました。そして昭和45年(1970)に92歳で逝去されております。


「茅ヶ崎の草庵」に入る

 私は幸いにも在学中(昭和31)に司法試験にパスしましたところ、牧野先生が「急いで任官することもなかろう。自分のところへ来てもう少し勉強したらどうだ」とお声をかけてくださいました。それがきっかけとなり、昭和32年の春から1年間、その「茅ヶ崎の草庵」で先生と起居をともにすることになったわけです。もともと牧野家は、戦前までは都内文京区の護国寺の裏手にあって、先生ご自身が『法律との50年』という本の中で「蔵書は2万5千。天井まで積み上げたそれをながめつつ、朝目が覚めては感謝、夜寝につこうとしてまたありがたしと言い続けた」と書かれた万巻の書籍もあったのですが、戦火で一切が灰塵に帰しました。それで、別荘だった茅ヶ崎の家を本宅にして移り住むようになられたのでした。先生ご夫妻には6人の子どもがいましたが、いずれも独立して東京に居を定めており、茅ヶ崎のお宅に私が住み込んだときには、先生ご夫婦の他に家族は誰も住んでいませんでした。

 その牧野家における私の立場は奇妙なものでして、別に女性のお手伝いが1人と絵を勉強しているという書生もいました。彼らはちゃんと給料をもらって仕事をしていたのですが、私は純然たる書生でもなく、だからといって大学の助手とも違うのですが、結局、書籍を整理したり、先生の必要に応じて検索したり、お使いで東京の出版社(ほとんど有斐閣ですが)へ行ったりという仕事をするなど、書生とも助手ともつかない生活をするようになったのです。


牧野英一先生の書斎

 ここで茅ヶ崎の牧野邸の様子を若干述べさせて頂きましょう。敷地はかなり広大なものでして、庭の部分を入れればざっと500坪ぐらいあったかと思います。そこに完全な和風の木造平屋建ての建物がありました。昭和25年頃に離れ的なものを建て増しをされ、その離れに書斎とご夫婦の寝室がありました。母屋から離れまでは廊下みたいなもので繋がっており、寝室と書斎の間は襖でした。けれども、常にほとんど開け放し状態でしたね。寝室につくり付けのベッドと移動式のベッドがあったのですが、前者は奥様、後者は先生専用ということでした。昼間、先生はしばしば隣の書斎へベッドを移動させており、執筆に疲れるとすぐベッドで横になって休むというふうにしておられました。

  書斎は8畳間ぐらいだったでしょう。真ん中に両そでの大きな木机があって、先生はそこで執筆されるわけです。ご自身の肖像画が掲げられていた他に、日本人では岡田朝太郎、梅謙次郎、穂積陳重など、諸先生の写真も飾られてあり、外国人ではリスト、フェリ、イェーリング等の写真がありました。完全和風の建物でしたから、それらの写真は襖と天井までの間の鴨居にあったのですが、日本の湘南海岸の一角において、世界的大学者たちに見守られながら、碩学牧野英一が世界的視野の思索を練ったわけです。

 先程も触れたように、法律学だけではなくて「語学の神様」だった牧野先生は、英独仏伊スペイン語等、たしか7カ国語ぐらい駆使して学問を進められていましたので、その関係の辞書類が多かったことを覚えています。日本語ものはご自分の著書のものぐらいで、横文字ものが圧倒的に多かったと思います。いずれにせよ、書籍類が余りにも多くて先生の机の周りは山積みになっていたのはもちろんのこと、とても置き切れないで書斎からはみ出るようになります。そうして、母屋のほうも本の置場になりますし、来客が来られる玄関わきにも書棚を造り、それでも足らずに、先程の離れに通じる廊下の両側に積み重ねることになった次第です。


学問の権化

 そういう書斎環境の中で、先生はひたむきに学問の仕事を続けておられました。既に80歳近いご高齢、しかも病気がちであったのに、先生の学問するペースはいささかも緩みません。「読んでは書く、書いてまた読む」というのを、生活のすべてにしておりました。新刊書はもちろん、海外から定期的に送られてくる雑誌類についても、度の強い眼鏡にくっつけるようにして、もれなく目を通されていました。それらを材料にすぐ原稿を書くという感じでした。

 牧野先生の原稿は一種独特です。まず、枡目の原稿用紙はまったく用いられなかった。昔は学生の答案用紙の裏側を原稿用紙にされていた。さすがに私が住み込んだ頃には、そのやり方はしておられなかったけれど、学生の答案の裏に書いた原稿は書斎に残っていました。恐らく奥様でしょうけど、その一部分を風呂の焚き付けに下ろされました(笑)。

 表面は今をときめく検事総長とか最高裁判事というポストについた人たちの答案で、裏面は先生の「原稿」。いま思えばなんとも貴重なものですね。表面の答案にはA、B、C、Dで判定が表示してありました。中には成績かんばしくないものもありました(笑)。ところで、「風呂の焚き付けに下ろす」という行為は、「所有者は所有権を放棄した」ことですから、私はその一部を保管しています。そして、私は私の学生たちに申します。「いまある科目について成績が悪くても、決してがっかりする必要はないのだ」と(笑)。

 広告には、裏に何も書いていないものがあります。その他の印刷物でも裏が白紙状態のものを先生はきちっと切り揃えた上で原稿用紙に使われました。「牧野は大変なけちん坊だ」と言う人もいますので、一応弁解しておきますと、先生の名誉のために敢えて申し上げますが、決して先生はケチではありません。「倹約家」であったのだと私は思います。

 そして、いつも太い万年筆の先をタオルで拭き拭きしながら、独特の筆体、独特の文体で執筆されていました。出版社は「枡目の原稿用紙を使っていらっしゃらないけれども、プラスマイナス1字で、割りつけにはやりやすかった」ということでした。

 先生のベッドの枕元にはいつも新着の外国書類の他に「メモ用紙」が置かれていました。夜中でも、いい知恵がひらめくとすぐ起きて、そのメモに書き込みます。翌朝にはそれを原稿につくり上げておられました。私もこれは真似すべきだと思い、その後は枕元にメモ用紙を置くだけではなく、トイレにも別途メモ用紙を置いてあります(笑)。どうしても適切な言葉が浮かばず、2〜3行のセンテンスを原稿用紙に書き、いったんそれを引出にしまい込み、寝ようとして頭が空白になったときに、ふっと素晴らしいワンワードが浮んでくることがありますね。それを「明日原稿に書きましょう」と思っても、いったん寝てしまうと朝には忘れてしまいます。やはり苦労でも、浮かんだそのときに書き留める必要があると思います。

 湯川秀樹先生は京都の哲学の道を散歩しながら中間子論を発見したと言う。ニュートンもリンゴが落ちるのを見て万有引力の法則を発見したといわれます。私はその話を信じます。恐らくあの偉大な人たちも、猛勉中には、発想そのものは出てこない。散歩したり、休息したりして、ふと頭の中が空白状態になったときに世界的な考え方が浮んでくるのではないか。だけど、すぐにそこで書き留める作業をしないと、またなくなってしまうということだと思います。

 牧野先生は、東大教授定年退官(昭和13年)のときに「私の仕事は35年の間、いわば間断なきを得たのである。読むにしたがって書き、考えるにしたがって書き、論難せられるところについて即ち書き、支持を受けるところについてまた即ち書き、一日として著述の筆を休んだことがないのである」と述べられておりますが、こういう学問一筋の態度は、退官後もほとんど逝去の直前まで、先生の言う「茅ヶ崎の草庵」において連綿として続いたのであります。驚くべき学問的生命力の持続であると言う他ありません。私は彼が書斎において書籍と原稿の中に埋まるようにして仕事をされている、その後ろ姿を垣間見ては「まさに学問の権化だ」と、近寄り難いものをしばしば感じたものでした。


すさまじい論争・弟子への対応

 ここで「先生の論敵に対する態度」に触れなければならないと思います。学問に対して徹底した態度をとっておられたからでしょうか、牧野先生は論敵に対して極めて厳しかったのです。先生が学説を発表します。それに対する反論が他の人たちから出されたとしましょう。そうすると先生は、間髪を入れず、反論に対する再反論を致します。もちろん腕を振り上げるわけではありませんけど、「言葉」でもって相手を叩きのめさなければ気が済まない、そういう感じがありました。有形力を使わないだけであり、単に相手を批判するとか論難するというレベルではなく、まさに「罵る」と言ってもいいものでありました。私は学者というのは紳士で、論敵を批判するにしても紳士的にやるのではないかと思っていたが、少なくとも「牧野対○○」の論争という関係において、牧野先生は口を極めて厳しい言い方をされていました。

 当時まだ青二才の私に向かってすら、「小野が昨日こういう論文を出した。団藤がこういうことを言ってきた。君、どうだ?」と、私をさながら論敵であるかのような調子で、すさまじい言い方をされます。「学問上の争いとはかくもすさまじいものであるのか」と慄然とさせられ、同時に、率直に申せば「もう少しおおらかになれないものか(笑)」とも思いましたね。

 牧野先生とほぼ同世代の泉二新熊という当時の裁判官で、大審院の院長もされた先生がおられました。先程も触れた明治40年刑法が制定されて10年後に、『新刑法施行後の10年』というタイトルの富井記念論文集が出ておりますが、その中で泉二先生が曰く「新派の主張は新派に任すべし。旧派の主張は旧派に任すべし。その間に処して、長所を採択する、また妙ならずや。しかれども、我が新刑法典が新派的にも解され、また旧派的にも解され得るものとせば、立法者の手腕のすこぶる巧妙なること称賛せずんばあるべらかず」と。

 ご承知の通り、牧野先生は新派刑法学の花をわが国に咲かせました。犯罪論においては「主観主義」を、刑罰論において「教育刑」を、本家本元のリストをも超えて発展させた理論をわが国で確立しました。

 それに対して、小野清一郎先生等が旧派刑法学の立場で理論展開します。犯罪論において「客観主義」を、刑罰論において「応報刑」主義を提唱され、両者の争いがすさまじいものだったので、泉二先生が先程のようなことを仰ったわけですね。やはり裁判官という実務家は、理論の純粋さや整然さよりも、実践性のほうを大事にしますから、妥協を求めることが多いという一例ではないかと思うわけです。言わば、泉二先生は両者の仲を取り持ったのでした。

 しかしながら、牧野先生は、この妥協論にもただちに反論しました。「立法は妥協である。妥協というのは、旧法が全然旧理解より成立するのに対して、新法はこれに対して新理論を輸入したことを意味する。単に妥協を1つの平面的事実として見るにおいては、特に新理論を重んず可き理由もなく、旧理論を斥く可き基礎もない。しかし妥協を妥協なかりし以前に対比して、立体的に観察するときは、茲に吾人は進化の事実を認めるのである。進化の事実を看取し、その文化的価値を批判するとき ― 即ち進化的精神を基礎とするとき、吾人はもはや、科学に妥協を許すことを得ないことになるのである」と。絶対に許さないのですね。まだ当時は白面の青年学者といった時期ですが、既にその頃ご自身の学問的方向を決定付けておられ、科学者として一切妥協を許さない気構えがあったのだと思います。

 牧野先生には弟子が少なかったとも言われていました。だが、決して少なかったわけではありません。私が住み込みで居た頃でさえ、あの茅ヶ崎の草庵に何人もの刑法学者が先生の教えを請うべく門をたたいていました。いわんや東大教授在官中は、彼の研究室には非常に優秀な門下生が数多くおり、まさに門前市を成したわけです。が、その多くが牧野先生から離れていったということです。

 その一因として、恐らく学問上の本質の差もあろうかと思います。たとえば、民法と刑法の違いを考えてみます。1個の不法行為には2つの責任が生じます。1つは民事責任、2つは刑事責任です。民事責任は、生じた実害の補償であり、そこでの問題は金銭賠償の衡平性ということです。これに対して刑事責任は、為した行為についての道義的責任であり、そこでの問題は人間そのものの問題です。

 そこで、民事法の研究は、比較的組織的、集団的であることが可能です。たとえば、民事の我妻栄先生が率いた学派は、先生亡き後でさえその遺訓に従い、集団で研究活動することを持続させております。これに対して刑事の研究は本質的に個別的、孤立的です。最初は一緒に始めても、論議を詰めれば詰めるほど、研究そのものの集団性が崩壊してしまいます。牧野英一の最大の論敵であった小野清一郎先生は、実は牧野先生の最大の愛弟子だったのですね。ところが小野先生の場合、仏教思想をベースにして刑法理論(体系)を打ち立てようとされたので、その立場からどうしても牧野先生の新派刑法学についていけない。そこで牧野門下を離れます。しかも、やがて牧野先生の最大最強の論敵になりました。

 その小野清一郎に学んだのが団藤重光先生。小野門下に学んで、小野先生を批判し、小野学派からは独立しています。団藤から学んだ平野龍一先生も団藤から離れて、平野自身の理論(体系)を樹立しています。その平野に学んだ藤木英雄もまた、平野に学んで、離れて、独自に藤木理論を確立している。こういうふうに、いつも離れて孤立し、孤高性を持つという刑法学の性格があるのだろうと思います。

 が、牧野英一先生の場合、そういう学問上の性質の他に、彼自身の持っていた個人的性格も災いしていました。生活万般について余りにも厳しいものがあったので、弟子たちが先生にどこまでもついていこう、従順であろうという気持ちまで阻害してしまったのではないかと思います。


趣味

 学問が趣味であって、趣味が学問である先生には、通俗の意味での趣味とか趣向というものはなかったと言っていいと思います。しかし、人間なのだから、学問以外にも何か楽しみくらいあるだろうと、私は密かに探ってみたのですが、どうしても見つかりません。過去にもそれらしき形跡が出てこない。検事になる者が捜査能力不十分ではないかと思いましたね(笑)。

 先生ご自身が『学究生活の思い出』という本の中で述懐しています。「誘惑というようなこともあったと思うが、(どういう誘惑でしょうか?)私は断然万年助教授ということに覚悟を決め、人の後にくっついておもむろにやるということを信条としつつ、人より先にうま味にありつくということ等考えたことがない。貧乏ではありつつも、生計に困ったということはない。酒は用いないし、煙草は喫まないし、菓子代を払うということもないので、結局思うほどではなかったが、書物を買うことが出来た」と。恐らくあの人にはほんとうに学問以外の楽しみはなかったのだろうと思います。

 強いて言うなら和歌、短歌ですね。これが余技と言えるかもしれません。しかし、佐々木信綱先生を師匠とする会に属しておられて、ほとんど歌人として一家をなしておられ、非常に風格の高い歌をつくっておられましたから、もはや趣味とか余技という域を超えていましたね。私が住み込んでいた昭和33年の正月に、牧野先生は宮中の「新年歌会始」に召人として宮中に招かれ、自作を献上されております。

 御題は「雲」で、

 大いなりや 丹雲のなびき 海ばらに しおじゆたかに 夜明あけむとして

 格調高いじゃありませんか。もう1首ご披露いたします。

 うつくしき 娘の白き うなじより 肩に流るる 線のやさしさ

 いいですねぇ。よわい81歳ですよ(笑)。東京から茅ヶ崎へ帰る湘南電車の中で、乗り合わせた相客のお嬢さんを詠ったらしい。あの先生が(笑)と、ほほえましい。

 あっ、1つだけ、彼には小さな楽しみがありました。それは島倉千代子です。テレビ番組の島倉千代子のところに赤い線を引いて(笑)、時間になるとテレビの前に来ます。目が非常にお悪かったのですが、画面にくっつくようにして熱心に、聞くというのか、見ほれていたと言いますか、していました。島倉千代子さんが好きだったのか、歌が好きだったのか、私には分かりません(笑)。とにかくテレビ嫌いの牧野先生が、島倉千代子さんだけは特別でして、大変熱心に観ておられました。

 先生自身が「煙草も喫まない酒も用いない」と言ったのですが、たしかに「用いる」と言えるほど飲んではおりません。ほんのちょっとだけ日本酒をきこし召すことはありましたが、「酒は用いない」と書いても嘘にはならない程度にほんの少しである。先生の逝去された後、私は奥様から先生ご愛用の徳利を形見分けとして拝領いたしております。


牧野法学の源泉

 それから、先生は散歩がお好きでした。私は彼が散歩をするとき、毎回のようにお供を命ぜられたわけですが、茅ヶ崎の海岸に近いところに先生が「耶馬渓」と命名された場所がありまして、そこを通って、ときには辻堂、さらにその先まで歩いたものでした。休むことなく歩き続けて1時間を下ることはありません。

 私は自分からお願いしたわけではなく、先生からのお誘いがきっかけで住み込むのだから、彼の専門分野である刑法学について教えを受けるものだと思って行きました。が、一向にそれらしきものは教えてくれません。先程述べた1時間の散歩のときにも、法律、特に刑法にはほとんど触れません。逆に、刑法及び法律以外なら、哲学・宗教とか、歴史・文学など、他の分野のことを数多く聞かされました。牧野法学の源泉というものは、法律学以外の豊かな地下水にあることを思い知らされました。

 それにしても、年齢からすれば抜群にバイタリティに富んでいた先生ですけど、タクシーだけは好まれないのですね。敢えてケチだとは申しません。お好きでないから乗らなかっただけだと思いますが、東京方面にお出かけのとき、自宅から茅ヶ崎駅まで2キロ余りあるけど、タクシーは使いません。といっても、歩くのも大変だと思ったのでしょうか、私に自転車をこがせて(笑)、荷台に座布団を敷いて(笑)、またがって行くという次第ですね。私としては、ご老体を背後に乗せるからには安全無事に茅ヶ崎駅まで送り届けなければなりません。1度も転倒したことはないが、大変な注意力を必要とするので、駅に着く都度ホッとため息をついたことを覚えています。


厳しい日常生活

 これほどまで学者として徹底した人は、学問以外の生活面では無頓着で万事気にしないだろうと思われたのですが、こと牧野先生の場合はむしろ逆でした。諸事万端、行儀作法に至るまで実に厳格でありました。ご自分で私を招いておきながら、慈父のように私に対処したわけではありません。先程触れたように、書斎からはみ出した内外の書籍の整理、分類、検索その他は私の仕事の1つだったわけですが、その書籍の順序がちょっと間違ったり、検索が少し遅れたりしますと、まさに「雷が落ちる」のでした。

 何しろ種類、数量ともに膨大ですから、「こういう内容のものを出せ!」と言われても簡単に出せるわけがない。先生の命令が出ると緊張してしまって、余計に時間がかかるわけです。

 実は本だけではありません。「草庵」における全生活がそういう調子でありまして、たとえば先生に命ぜられて先生に代わって法務省へ電話を掛けるとき、私としては、自分として考え得るベストな話し方をしたつもりで受話器を置きます。途端に雷が落ちる。「いまの掛け方はなんだ!」と。ちゃんとチェックしていたわけですね(笑)。聞いているぐらいならご自分で掛ければいいと思うけど(笑)。

 次は食事のとき。ヨーロッパ生活が長かった人にしてはどう調和するのだろうか、「日本の行儀作法では小笠原流というのが非常に科学的でいい」と言うわけですよ。「科学的方法はきちんと守らなきければいけません。おかずのお皿をちゃんと手で持って食べなさい」。仮にテーブルの上にある皿に直接に箸をのばして、おかずを食べるなんてことをやりますと、雷が落ちる。いったん怒りだすと、心臓をえぐるぐらい鋭いものがあり、その上に長時間持続して、なかなか収まりません(笑)。

 世間に老人性頑固症というのがあるらしく(笑)、牧野先生はその症状が強くありました。一遍怒りだすとなかなか収まらないいようです。しかも先生は、かなり目が弱くなっており、天気が良くない日など機嫌が悪くなるわけです。よく見えない不快感がつのり、些細なことが爆発の導火線になります。とにかく文字通り、箸の上げ下ろしから教えられ、怒られました。不作法で自認していた私には、こういう先生の作法に順応するのが大変な忍耐だったですね。今でもその一コマ一コマを思い出すと、唇を噛みしめたくなるほどです。これは私だけではありませんでした。

 なんと奥様に対しても、その例外はないのですね。先生が東京にお出かけのとき、洋服の左のポケットには何、右のポケットには何、内ポケットには何、入れる場所が全部決まっているわけです。その仕事は奥様の担当なのですが、入れる場所を間違うことは絶対許されません(笑)。ある日のこと、東京へお出掛けの先生が間もなく帰って来ました。大変にお怒りの理由は、消しゴム1個が入っているべき左のポケットに入ってなく、右のポケットに入っていたこと。これで東京行きは取り止めてしまった(笑)。半日くらい余震が続くこともありましたよ。

 牧野先生には、6人のお子さんと、全部で17人のお孫さんがおりましたが、茅ヶ崎の家へ行くとお祖父ちゃんに怒られるといって、次第に敬遠されていく有り様です。まして書生は長くはもたないから(笑)、牧野家は非常に新陳代謝が激しい。

 ある日、私がお風呂場で先生の背中を流してあげていましたら、彼がいくらか寂しげに「君はよくもつね」(笑)と。そのとき先生は、長く居付かなかった人達との比較において何かお感じになるものがあったのでしょう、しみじみと言われました。


牧野理論の特色

 次に先生の学問内容に触れてみましょう。先生の学問的業績は、法学ないし法思想の全領域に及ぶのであり、最も光彩を放つのがあまりにも有名な刑法の分野であります。「牧野刑法理論」の特色は、まず従来の概念法学に対立して、自然科学の発達をよりどころにした実証的法学であるということ。しかも刑法学を法思想の系列の中に位置づけようとした点にあると要約できます。

 牧野先生は研究生涯の最初から、単なる刑法解釈学者ではなく、広く時代の法思想を視野に入れ、積極的に自己のものとして展開された、言うなれば「法思想家」でありました。法学の教師というと、いまでも私など、学生たちには法解釈にかなり力を入れて教えているわけですけど、牧野先生の場合は、最初からその次元を超越されておりましたね。法「解釈家」ではなくて、法「思想家」であったと言うのが的確だと思われます。

 では、その牧野理論における法思想の基底をなす世界観は何か。それは進化論であります。牧野は、一切の事物は変化するという自然法則に従い「社会も進化し、法もまた進化する」という命題から出発します。社会の進化には2種類の法則があります。1つ、本能的・反射的なものから、目的的・自覚的なものへ移るということ。2つ、単純なものから、複雑なものに細密化すること。そして進化の究極の理想は、社会と個人の調和であるとします。

 また、法の分化の過程は公法と私法、さらに私法と刑法の分化としてあらわれる。そこから「民事責任の客観性、あるいは刑事責任の主観性」が導かれると。犯罪というのは、社会における生存競争の余弊として一定の法則に支配された社会現象であると規定します。その上で、刑法の重点は「応報刑客観主義から目的刑主観主義へと進化すべきである」と断じます。

 牧野先生は、自由法論を刑法分野に導入して、「解釈は無限なり」としました。これは大きな主張でありました。罪刑法定主義の解消を示唆するとともに、それに積極的な意義付けをします。そして、「類推解釈も許されるべきだ」という実に斬新な主張をしたわけです。一昔前の旧刑法には罪刑法定主義の規定がありましたが、明治40年の新刑法では罪刑法定主義をあらわす規定は削除されています。それについて「各人は法律によって、刑罰から保護されるとともに、また刑罰によって保護されなければならない」という積極的な促進機能があること、その意義で理解されるべしとしました。牧野は刑法の個々の条項の解釈についても、刑法の保障機能を重視した師フォン・リストをも超越して、果敢な主観主義的解釈をほどこしたのです。


牧野理論の影響と問題点

 牧野理論は、まず何といっても、行刑面では大きな影響を与えました。とりわけ正木亮先生が牧野理論の信奉者として、志願囚として刑務所に入るという実体験もするなど、牧野刑法における教育刑理論を実践に移した人として忘れてはならないわけです。そういう行刑面では、まさに牧野理論はわが国において現実化しました。この意味の功績は大きなものがあったと思われます。

 しかし、牧野理論に対しては、牧野先生の生前死後を通じて、さまざまな批判が寄せられております。学界などでも、牧野先生は決して常に幸せな立場にあったわけではなく、むしろ大変な批判にさらされました。曰く「牧野の進化論には、刑法への適応の際の慎重な留保が欠落している」。曰く「牧野が説く警察国家、法治国家を超える文化国家というのは、国家観の内容が不明確である」と。

 曰く「牧野の言う上位概念としての合理的国民性、公序良俗、信義誠実等は、その概念が抽象的に過ぎる」。曰く「牧野の罪刑法定主義解消論は、刑法の保障機能を弛緩させる」。もっと進むと、牧野先生から見ればほんの若僧でしかないだろう、ある若い学者が曰く「牧野理論は際立って楽天的な刑罰観をとっている」と。

 これらの牧野理論批判を総合的にまとめたものとして、平野竜一先生の『刑法』の中の記述が挙げられます。まず冒頭で「刑罰は教育であるという教育刑論は正木博士を通じてわが国の行刑の発達に大いに貢献した」と。これはプラス面ですね。問題はその後で、「しかし牧野博士の刑法理論自体は、必ずしもわが国の学界に受け入れられたとは言えない。それはわが国の社会的基盤が必ずしも社会主義的な新派の思潮をとり入れるまでには熟していなかったためでもあろう。しかし、それだけではない。近代社会を経た後の社会主義的な施策と近代以前の家父長的な干渉主義との間には、外形的な類似性があるが、牧野博士の思潮には後者が深い影を落としていたと言えるであろう」。これを読んで、私も果たせるかなと思いました。

 冒頭に申し上げましたが、牧野英一は山深い飛騨高山の出身です。幼少の頃、そこで父上から教えこまれたのは「君に忠、親に孝、夫婦相和、朋友相信じ……」という縦の系列の思想だったのでしょう。あれだけ言葉に練達で、語学の神様といわれ、留学に2回も行って世界的な知識と流れをくみ取って自分自身の学問的作業をされたお方であるけれど、それとは裏腹に、意外にも幼少の頃飛騨高山で生まれ育ったときの血となり肉となったものが彼の理論形成に大きな影響を与えていたのではないか。これが平野先生の言う「深い影を落としている」ことと結びつくのではないでしょうか。

 私が牧野英一のところに居住していたことが、松尾先生の言う如く、私のその後の人生の「原体験」として深い影を落としたのだとすれば、牧野英一については、飛騨高山における少年時代の「原体験」がその後の彼に深い影を落としていたと言えると思うわけです。

 先程も申し上げましたが、彼は単に刑法だけではなく、あらゆる法分野について革新的な仕事をしました。民法についても実は大きな発言をされています。民法学の権威である我妻栄先生が牧野先生の書かれた民法に関する論文を激賞しておられたほどです。その我妻先生が、戦後の民法改正の作業に関与したときに、従来の日本民法にあった「家」「戸主」「家督相続」、この三位一体を廃止しなければいけない、完全廃止するという方向で、民法第4篇、第5篇を改正しようと一生懸命作業をやっておられたときに、我妻先生は「自分たちを助けてくれるとばかり信じていた牧野先生が、この改正に対して最も激しい論難を加えた」と言い、さらに、「時勢の動きを鋭敏にとらえ、若い世代の思想を陰に陽に援護してくださった牧野先生だから、この民法改正でも同じ役割を演じられるものと思い込んでいただけに、牧野先生の反対に対する我々の痛恨は極めて大きいものがあった。そして牧野先生に対する長年の敬慕の念がガラガラと音をたてて崩れるのを、どうしようもなかった」と、吐露されているわけです。

 実は、彼はどんな知り合いや何かから頼まれても、結婚式には出なかったそうですが、ただ一人の例外として、正木先生のお嬢さんの結婚式には出席されました。そこでの祝辞に、なんと教育勅語を開いて読まれたというのです。この逸話も牧野思想の根幹を知るよすがになりましょう。


巨星墜つ

 昭和45年(1970)4月18日、牧野英一は92歳で逝去しました。当時、私は札幌地検に勤務中でしたので、外交官のお孫さんから通報がありました。すぐ1番機で東京へ飛んで、四男の牧野康夫さんのお宅で葬式が営まれるので、そこに参上しました。ご遺体が安置されてあり、既に頭蓋を切開し、脳が摘出されたあとでした。それは漱石とか鴎外と同じ扱いでありまして、要するに、学問研究のため脳を保存しようという措置がとられていたのです。

 それでも大変安らかなお顔をしておられました。92歳のご高齢で、まさに天寿の全うだと言ってもいい。やりたいことを十分し尽くしての大往生であったと思いました。敢えて言うなら、ただ1つ、恐らく先生として心残りではなかったかと思うことは、先生の後継者がいなかったことです。先程も触れましたように、ご遺族として6人の子ども、それにお孫さんは全部で17人でした。子宝に恵まれていたと言っていいでしょう。ところが、それだけおられた子どもと孫たちは誰一人として、法律学を専攻していません。いわんや刑法においておやですね。

 また、牧野研究室からは、先程も申しましたが、大変多くの俊秀が輩出しました。にもかかわらず、そのほとんどが牧野先生から離れて行き、反発して、先生を論敵としてしまうのでした。あれだけ偉大な仕事をした人であればあるほど、その仕事を引き継いでくれる人を見届けてあの世へ行きたかったのではないでしょうか。


蔵書類のその後

 巨星消えて大団円とはなりません。亡くなられた先生の膨大な蔵書と原稿類が残されました。牧野先生の場合、出版等はほとんど有斐閣でしたけど、原稿類を渡しっぱなしということはなくて、本が出来たら必ず原稿を取り戻していました。それだけでも山のようになったわけでした。それは茅ヶ崎の書斎その他のところにあるのですけど、ご承知の通り、本というのは面倒を見てあげないと、次第に紙が茶色くなってくる。散逸するし、黴がはえる。紙魚(しみ)が食うという悲惨な状態になっていくわけです。「なんとかしなければ」と感じましたね。

 生前は日本一の刑法学者だった牧野の門戸をたたく人がひきもきらなかったのに、彼が死去したらその瞬間に、訪れる人がピタリといなくなってしまいました。残された貴重な資料をどうするか、東北大学の木村亀二先生が1回だけお見えになり、ヨーロッパから先生宛てにきた手紙類の整理を始めてくださいましたが、肝心の木村先生自身がそれから間もなくお亡くなりになってしまい、それ以上進みませんでした。

 どうにも仕方がない。私はその頃、検事として超多忙の中で、茅ヶ崎に出掛けて行っては埃を払うくらいのことをしていました。が、そんな状況では腐蝕したり散逸したりしてしまうことを防止することはできないので、早く何とかしなければならないと焦っていました。そんなとき、つくづく「民法系はいいな。刑法系はなんとも情けない」との思いがしました。

 というのは、牧野先生逝去の3年後の昭和48年に我妻先生が亡くなられ、我妻先生は法務省特別顧問だったのですが、本省民事局の参事官室等々が3班編成をして、我妻先生の所蔵本について、遺族の方に渡すべきもの、法務省に残すべきもの、東大図書館に寄付すべきものに分け、パッパッと1週間ぐらいで整理をしてしまいました。

 それに対する我が牧野博士側はどうなっていたでしょうか。茅ヶ崎草庵に住む人は誰もいません。奥様は横浜に住む四女の方のお宅に身を寄せられ、蔵書類は虫食いと埃かぶりに任せる状態であり、民法我妻班の仕事がテキパキと進んでいくのを横目で見ながら、私はどんなに羨ましかったことか。

 そこで私はご遺族の方々と相談をいたしました。茅ヶ崎の家を、たとえば牧野英一記念館とでもして、そこにきちんと所蔵するとか、いろいろの案が出されたのですが、最終的には「法務図書館に一括して寄贈」ということになり、法務図書館側も引き受けてよいということになり、ここにようやく「牧野図書の安住の地」を得たのでした。その際「寄贈図書目録」を作成したのですが、併せて同図書館員の協力を得て「牧野英一著作目録」もほぼ100%近い完全なものを作成できました。

 このように整理したときに、「はしがき」までついた原稿で、未公刊の『人々の言葉、その折々』というタイトルの著作がありました。これを社会教育協会から出版し、且つ末尾には先程の「牧野英一著作目録」をつけました。その後、さらに法務図書館が作業を継続して、より完璧な「著作目録(新版)」を最近刊行しております。このような次第で、少なくとも、わが国の法務図書館には、牧野英一博士の息のかかった蔵書及び著作物類が整然とした形で保存されております。ご覧頂けるようでしたら、どうぞ法務図書館へお越し願えれば有難く存じます。


ローマ法に依ってローマ法の上に

 お葬式のときには、小野清一郎先生が追悼の辞を読まれました。先程も申しましたが、牧野英一にとっては最初の愛弟子であり、その後に最大の論敵となった小野先生です。「いま私の目に浮かぶのは、研究室でわき目もふらず、文献と取り組み、思索をし、そして執筆された先生の姿であります。先生は一学究でありました。一学究であることを誇りとし、あらゆる俗務を敬遠して、寸時を惜しみ、執筆学問に没頭されたのであります」と。

 このような生きざまが正に最期の瞬間まで続いたのですが、私はそこに自分の原体験の原点を見る思いがいたします。牧野先生は「ローマ法に依ってローマ法の上に」というイェーリングの言葉を愛用されました。しばしばこの言葉を論文等に引用されています。碩学牧野から学んだ学問上の要諦は、この言葉に集約されていると言っていいでしょう。

 しかしながら、私が人間牧野から学んだ最大のものは「克己」の精神でありました。私が検事そして学者生活と、両方の仕事を通じてまがりなりにも一貫して学問的情熱を燃焼し続け得たのは、そしてその間、他人と妥協しても自分との妥協は許さない信念を自分のものとして貫いてきたのは、人間牧野の生きざまに触れたことが烈しくも厳しい「原体験」として私の中で深く息づいているからでありましょう。

 長時間、ご静聴ありがとうございました。(拍手)


牧野英一博士略歴


明治11年3月20日 岐阜県高山に生まれる
明治28年 岐阜県立斐太中学校
明治32年 第一高等学校卒業
明治36年7月 東京帝國大学法科大学(仏法)卒業 
明治36年7月 司法官試補
明治36年9月 東京帝國大学法科大学講師
明治36年10月 東京区裁判所検事代理
明治38年4月 東京地方裁判所判事
明治39年3月 東京地方裁判所検事
明治40年10月 東京帝國大学法科大学助教授
明治43年9月 欧州諸国(独・伊・英)留学(大正2年6月.帰国)
大正2年7月 東京帝國大学法科大学(大正7年より法学部)教授(昭和13年3月定年退官)
大正2年10月 東京高等商業学校講師(昭和18年3月まで)
大正3年6月 兼任法制局参事官(昭和13年3月まで)
大正3年7月 法学博士
大正14年10月 欧米各国へ出張(夫人同伴)(大正15年11月帰国)
昭和2年6月 刑法並監獄法改正調査委員
昭和2年12月 九州帝國大学法文学部講師(嘱託)(昭和6年3月31日まで)
昭和4年5月 法制審議会委員
昭和6年9月 法政大学法学部長兼専門部第一部長(昭和8年1月まで)
昭和9年4月 東北帝國大学講師(嘱託)
昭和11年11月 帝國学士院会員
昭和13年4月 中央大学講師(昭和18年まで)
昭和13年8月 東京帝國大学名譽教授
昭和14年6月 海軍経理学校講師(昭和20年8月まで)
昭和18年  東京商科大学名誉講師
昭和21年3月 貴族院議員(昭和25年5月まで)
昭和21年7月 司法法制審議会委員
昭和22年6月 中央公職適否審査委員会委員(昭和23年5月まで)
昭和23年7月 国立国会図書館専門調査員(昭和33年11月まで)
昭和24年6月 検察官適格審査会委員(昭和33年3月まで)
昭和24年8月 刑務協会会長(昭和32年5月まで)
昭和25年4月 中央大学(新制)講師(昭和37年3月まで)
昭和25年11月 文化勲章受賞
昭和26年7月 文化功労者
昭和27年1月 社会教育協会会長(昭和45年4月まで)
昭和27年1月 東京家庭学園学長(昭和32白梅学園短期大学と改称)
昭和33年1月 新年歌会始召人
昭和33年2月1日 高山市名誉市民
昭和37年4月 白梅学園短期大学名誉会長
昭和41年3月11日 茅ヶ崎市名誉市民
昭和45年4月18日 逝去。92歳。


講師略歴

土本武司

1935(昭和10)年 東京生まれ
1956(昭和31)年 司法試験合格。
1960(昭和35)年 検事任官、東京地方検察庁、東京高等検察庁、法務総合研究所、最高検察庁を歴任。法学博士。
1988(昭和63)年 筑波大学教授・社会学類長、中央大学大学院・法学部、早稲田大学法学部、関東管区警察学校 各講師。
オランダライデン大学・ユトレヒト大学 各客員教授。
1998(平成10)年 筑波大学名誉教授、帝京大学法学部教授。
2005(平成17)年 白鴎大学法科大学院教授。現在、テレビ・新聞等のコメンテイターにも出講。

所属学会
日本刑法学会、国際刑法学会、日本犯罪学会、日蘭学会

著書
「刑法読本・総論」(信山社)
「刑法各論」(北樹出版)
「民事と交錯する刑事事件」(立花書房)
「行政と刑事の交錯」(立花書房)
「過失犯の研究」(成文堂)
「航空事件と刑事責任」(判例時報社)
「刑事訴訟法入門」(有斐閣)
「刑事訴訟法要義」(有斐閣)
「条解刑事訴訟法」(弘文堂)
「犯罪捜査」(弘文堂)
「刑事裁判」(令文社)
「現代刑事法の論点・刑事編」(東京法令出版)
「現代刑事法の論点・刑事訴訟編」(東京法令出版)
「捜査官のための証拠法の理論と実際」(東京法令出版)
「正義への執念」(NHK出版)他多数