上田貞次郎と保守主義・自由主義・社会主義

 

講師 法政大学社会学部専任講師(社会学)

上村 泰裕 

平成17年7月26日 於:如水会館

【無断転記転載を禁ず】

社団法人 如 水 会

責任編集

 




◆内容目次

はじめに

1.一橋精神――学校のためではなく

2.学者三代――実学の系譜

父・上田章(1833-1881、儒学者)──紀州藩の改革参謀

次男・上田良二(1911-1997、物理学者)──ナノテクの先駆者

3.人と思想――ケンブリッジの夢

保守主義の遺産――紀州藩の人々

自由主義の息吹――福沢諭吉と元良勇次郎

社会主義との邂逅──ウェッブ夫妻

福田徳三との特異な師弟関係

4.研究の軌跡――日本経済の歩みとともに

『外国貿易原論』──自由通商の論拠(24歳、1903年)

『株式会社経済論』──実業の将帥への期待(34歳、1913年)

『英国産業革命史論』──産業民主化の可能性(44歳、1923年)

『新自由主義』──後発国の進むべき道(48歳、1927年)

『日本人口政策』──自由社会の存立条件(58歳、1937年)

研究の軌跡と三つの思想

5.上田貞次郎の遺したもの──70年の後に

講師略歴

◆資料

講演当日のレジュメ: www.mt.tama.hosei.ac.jp/~kamimura/uyeda.pdf
上田貞次郎年譜: www.mt.tama.hosei.ac.jp/~kamimura/uyeda.xls
「ケンブリッヂの夢」: www.mt.tama.hosei.ac.jp/~kamimura/dialogue.htm


はじめに

 御紹介いただきました上村泰裕でございます。今日は悪天候のなかを御来聴下さいまして、誠にありがとうございます。伝統ある如水会で話をさせていただきますことは大変光栄に存じます。ただ、小物の子孫が出てきて大物の先祖について語るのは非常にみっともないことだと自覚しておりまして、最初はお断りしたのです。できれば一橋の経営学の先生に御講演いただいたほうが皆様にも興味深いのではないかと申し上げたのですが、適任の先生はだいたい御多忙ということで、あまり忙しくない若輩者がやることになった次第です。

 私は日ごろ上田貞次郎を専門に研究しているわけではありませんが、この三日三晩ほど一生懸命に勉強しまして、曽祖父はいったい何がいいたかったのかを考えてみました。今日はその成果をお話するわけです。御紹介にありましたように、私は昨年から法政大学社会学部で講師をしております。日ごろはたち前後の若者を相手に喋っておりますので、今日は自分の父親世代、あるいはそれ以上の方々を前にしてお話するということで緊張しております。うまくいくかどうか、ちょっと心許ないところです。

 ところで、上田貞次郎は、私にとってはアイドル的な存在です。なぜかというと、あとからお話しますように、私の亡祖父や父は物理学者です。それで、私も何となく理科系に進まなくてはいけないような圧力を感じながら育ったのですが、そのわりには数学が非常に苦手でして、まず小学4年生のときに割り算の筆算でつまずきました。一方、社会や歴史について調べることは大好きでした。数学や物理では人生を切り拓けないなと思っていたところに、貞次郎の『英国産業革命史論』の文庫本が家にありまして、中学のときにそれを読んだのです。この本は中学生でも読めるような平易な文章で書いてありますが、いま読んでもたくさん発見があるくらい含蓄深い内容です。この本を読んだことで、社会学という学問があることを知りました。裏表紙の宣伝文句に「デモクラシーの原点に社会学的考察を加えた」研究であると書いてあったからです。「これは面白い。僕にもできそうだ」と思い、現在に至っております。そういうわけで、個人史的にも曽祖父のお蔭をこうむっているのです。

 今日は私の貞次郎論をお話するよりも、むしろ貞次郎本人の言葉を引用するかたちで話を進めたいと思います。ただ、どの言葉を取り上げるかは私の好みで決めましたので、私好みの貞次郎像を描くことになります。つまり、他の描き方も当然ありうるということです。貞次郎は1879年に生まれて1940年に亡くなっていますから、1972年生まれの私は会ったことはありません。著書や日記を通じて知っているだけです。それでも、こんな人物だったのではないかというイメージはもっております。私の祖父はもう亡くなりましたが、祖父の兄の上田正一は95歳、弟の上田勇五は87歳で存命です。彼ら三人の風貌や性格を総合すると、曽祖父のイメージに近くなるのではないかと想像するのです。


1.一橋精神――学校のためではなく

 ところで、この連続講演は「一橋精神再発見」をテーマに掲げていますので、一橋精神とは何だろうかと考えてみました。私は残念ながら一橋出身ではありませんので、正直なところあまりピンと来ておりません。

 貞次郎ならどう考えたでしょうか。貞次郎が亡くなったときに、門下生の上田辰之助が追悼文を書いていて、「一橋の上田、上田の一橋」と記しています。その意味は、「上田先生は一橋の恩人であるが、一橋は先生の育ての親であった」ということだそうです。

 また、一橋の歴史のなかでは、1931年に、予科と専門部を廃止するという通達が文部省から一方的にきて、それに対して学生と如水会と貞次郎を中心とする教授たちが連携しながらこれを阻止したという輝かしい事件、すなわち「籠城事件」があります。そのとき貞次郎は、「学生に何の悪いことがあるか。正しいことをする者に解散の命令を出す教授会ならば、自分は即刻辞職する」という言葉を吐いたそうです。

 たぶんこの連続講演は、こういうところに重点を置いて学園史を回顧するのが趣旨ではないかと推察したのですが、そういうことに私は適任ではありません。ただ、貞次郎自身も「自分は学校のために生まれてきたのではない」と述べておりまして、「一橋精神」をこの学校のためだけの愛校心として狭く捉えていたとは思えません。

 それから「一橋ブランド」という言葉がプログラムにありましたので、これについても貞次郎が何か発言していないか調べてみました。貞次郎は「暖簾というものは全く有難いものだが、皆がそれにぶらさがったら破れてしまう」と述べています。暖簾というのは御存知の通り「ブランド」のことです。また、東京高等商業学校が商科大学に昇格した年の新入生歓迎会では、次のように挨拶しています。

 「諸君、東京商科大学に入学しておめでとう。しかし、いい大学に入ったなどと思ったらとんでもない間違いだ。東京商科大学は上田貞次郎が出ているからいい大学なのだ。諸君もこの大学に入ったからには、おれが卒業したからあの大学はいい大学なんだと言えるようになってもらいたい」。

 つまり、他人が作った過去のブランドに寄りかかってはいけない、ブランドはこれから自分で作るものだ、ということではないでしょうか。


2.学者三代――実学の系譜

 以下、御免こうむりまして、一橋の学園史よりも貞次郎その人の思想の展開を軸にお話していきたいと思います。手はじめに門下生の猪谷善一が、貞次郎の学問について次のように書いています。

 「慶応三年に神田孝平がイギリスのウィリアム・イリスの経済書をオランダ語の重訳から邦訳して『経済小学』と題して出版してから、日本経済学界は次第に隆盛となった。明治、大正、昭和にわたり多数の優れた経済学者が輩出した。しかし、独創的であり、日本的であり、翻訳臭味のすくない経済学者は多くない。その第一人者を私は上田貞次郎博士であると信じている」。

 猪谷は貞次郎の門下生ですから、ちょっと身びいきなところもあるでしょうが、貞次郎の学問が外国の経済学のたんなる翻訳ではなくて、日本の現実的な政策課題に答えるための自前の学問だったということはいえるかと思います。

 その背景には、貞次郎の生まれた環境がありました。貞次郎の父親も学者でした。それから貞次郎の次男である私の亡祖父も学者でした。三人とも、実学を志向したという点、つまり学問のための学問ではなくて、世の中のためになる学問を志していたという点で共通していると私は感じています。そこでまず、三人の事績について簡単に述べたいと思います。

父・上田章(1833-1881、儒学者)──紀州藩の改革参謀

 貞次郎の父親は上田章という人で、肖像は残っていませんが、青山墓地に大きな碑があります。上田章の実家は、赤坂一ツ木町の松屋という裕福な舂米屋(精米業者)でした。章の父・上田直吉は、商売よりも学問を好んだ唐様で書く何代目かで、大変な教育パパでした。それで、松崎慊堂という大学者のところに8歳の息子を預けて勉強させたのです。

 その父親が間もなく亡くなり、やがて慊堂先生も亡くなりますが、慊堂の高弟の安井息軒と塩谷宕陰が章を非常に可愛がって養育してくれました。章は若いころ、息軒先生の三計塾で主席執事(塾頭のようなもの)をつとめていたそうです。このことは、三計塾で学んだのち西南戦争のときに熊本城を死守したことで知られる谷干城が伝えています。そういうわけで、章は商家の出身でありながら幕末の大学者のもとで儒学を学び、やがて五十五万五千石の紀州藩に教師として就職したのです。これには、実家が紀州藩の江戸屋敷出入りの米屋だったという縁もありました。章の墓誌にはこう書いてあります。

 「文久辛酉二年、先生年二十九、擢んでられて明教館寮長となる。人となり敦厚にして気節あり。人と接するに備わらんことを求めず、好んで後進を奨励す。その諸生を訓督するや、章句末節をもって責めず、もっぱら元気を振起し、国脉を維持することをもって務めとなす。ここにおいて青年有為の材、続々乎として輩出す」。

 先生というのは章のことで、明教館は紀州藩江戸屋敷にあった藩士の子弟のための学校です。章はそこで、小学生くらいの子どもたちを教えたのだと思います。「備わらんことを求めず」というのは書経の言葉だそうですが、出来のよい生徒だけ贔屓したりしないということだと思います。細かい字句の解釈や語学の出来不出来ではなく、精神教育を重んじて、社会に貢献する有為な人物を育てることに主眼を置いたのです。これを読むと、自分が大学でやっている教育について反省させられます。教師の仕事は学生の元気を振起して国脉を維持することなのだと気づかされます。

 その後、明治2年に紀州で改革がありました。廃藩置県は明治4年ですから、明治2年はまだ和歌山藩といいました。その和歌山藩が全国に先駆けて近代化を始めます。私たちは明治元年から日本の近代化が始まったように思いがちですが、そうではありません。廃藩置県が明治4年ですから、明治2年から3年にかけては、中央政府はまだ何もやっていません。そういう時代に、紀州藩では武士の特権を廃止し、四民平等の徴兵制を敷いて西洋式の陸軍を編成したり、洋式技術を取り入れて殖産興業に努めたりして、いち早く近代化改革に乗り出します。

 改革を断行したのは、殿様に抜擢されて全権を委ねられた津田出という宰相です。津田の改革については、司馬遼太郎の『明治という国家』の第4章に書いてあります。これは司馬遼太郎の受け売りですが、西郷隆盛や大久保利通は明治維新をやって、その後どんな国家を作るか、どんな政策を実行するかについてプランをもっていませんでした。そこに津田が紀州で近代化改革をやっていると聞いて、西郷は大久保に向かって、「津田先生をかしらとして仰ぎ、その下につこう」といったというのです。

 その津田を助けた参謀の一人が上田章でした。改革にともなって「政治府」の下に公用・軍務・会計・刑法の四局が置かれたそうですが、章は公用局の副知事に任命されます。これは主に人事課長みたいな役割だったと思うのです。章はそれまで藩校で教えていましたから、優秀な卒業生を藩の改革推進役として取り立てる、というような人事担当の仕事をやっていたのではないかと想像します。貞次郎は章の晩年の子で、章は貞次郎が2歳のときに亡くなりました。後年、貞次郎は父の事績について、章の門下生から聞かされて知ったのです。以下は『上田貞次郎日記』からの引用です。

 「海軍中佐津田三郎氏は、かつて亡父の門にありし人。頃日余に語りていわく、子が厳父は元気満々たりし人、その紀州藩に仕えて教育の事に従うや、廉恥節義をもって門生を率い、和歌山にて為政の官に昇りては、さかんに西洋の兵法を講ぜしめてついに歩騎砲の聯隊を編成せしむ。もって紀州藩青壮者の気風を一変せしめたり」。

 この記述はやや大げさなようです。歩騎砲の聯隊を編成させたのは、章ではなくて津田出だと思います。一方、『上田章日記』も残っていて、これは近く国文学研究資料館のホームページに公開される予定です。そこには、貞次郎が生まれて「内人拉貞児拝八幡宮(妻が貞次郎を宮参りに連れていった)」と書いてありますが、同じページに、あとで話に出てくる岡本柳之助が来たとか、鎌田栄吉が来たとか、小泉信吉(信三の父)に会ったという記述が見られます。また、貞次郎の1歳の誕生日を祝ったというページには、勝安芳(海舟)を訪ねたことや、親友の三浦安がやってきたことも書いてあります。

次男・上田良二(1911-1997、物理学者)──ナノテクの先駆者

 さて、貞次郎本人の話を始める前にその息子の話をするのは順序が逆ですが、この写真が私の祖父・上田良二です。貞次郎の次男にあたりまして、8年前に亡くなりました。さきほどちょっとお話しましたが、祖父は貞次郎とは全く違う道に進みました。祖父は貞次郎についてこう書いています。

 「私は自分を全く不肖の息子だと思っている。中学時代に歴史で落第点をとり、父から《歴史は面白いはずだ》と言われたことがある。戦後になってそれを思い出し、『英国産業革命史論』を読んでみた。《なるほど面白い》と思ったが、父の本を読んだのはそれ一冊だけだ」。

 私は中学時代にこの記述を読んで、非常に勇気づけられました。「そうか、べつに父や祖父と同じ分野に進まなくてもいいんだ。おじいちゃんも落第点をとったんだから」ということで、「それなら僕も数学ができなくてもいいじゃないか」と思いました。それで、私も『英国産業革命史論』を読んだわけです。さきほども申しましたが、これは非常に面白い本ですので、機会がありましたら皆様にもお読みいただきたいと思います。

 さて、これは1922年の上田家の写真です。貞次郎、妻てい、息子の正一(『上田貞次郎伝』の著者)、良二、信三、勇五が写っています。祖父はこのとき11歳でした。祖父は自分のことを「不肖の息子」だと思っていたのですが、貞次郎は祖父のことを非常によく見ておりまして、この写真を撮った年の日記にこう書いています。

 「良二は正一よりも観察力、推理力においてまさり、学校の理科の教師はほめているそうだ。また彼は機械などに趣味を有している。しかし実行力においては正一に及ばない。彼は温良で如才ないが勇気には乏しい。まず工科でもやらしたらと思う。」

 祖父の人生は、まさに11歳のときに父親が期待した通りになったのです。この写真は、私の祖父が戦時中に設計した電子回折装置です。これは、今でも名古屋大学の博物館に飾ってあります。祖父はその後、電子顕微鏡の研究に従事します。最近、化粧品のコマーシャルなどで「超微粒子」という言葉を聞きますが、その超微粒子を世界で最初に人工的に作り出したのが祖父です。金属や炭素を非常に細かくしていくと性質が変わって非常に有用な物質になることを故・久保亮五教授にちなんで久保効果と呼ぶそうですが、祖父はそういう現象に興味をもって実験したのです。

 これはいま非常に有望な研究分野になっておりまして、ナノテクノロジーという言葉を耳にされたことがあるかと思います。そのナノテクの源流ともいうべき研究が、すでに戦時中の名古屋大学で行なわれていたのです。カーボンナノチューブというのが最近話題になっていますが、それを発見した飯島澄男博士は晩年の祖父の共同研究者だった方です。飯島博士は1987年にNECに移って、その後しばらくしてカーボンナノチューブを発見されました。

 祖父はそういう現在につながるような研究をしたのですが、それもたんに物理学の発展のためというよりは、何か世の中に役立つものを創り出したいという情熱のためだったように思います。さきほどの上田章もたんに儒学を究めることよりは、紀州藩をどうやって立て直していくかに関心がありました。貞次郎の学問も、たんに経済学の発展のためではなくて、日本の経済や社会をいかに進歩させるかということを考えていた点で、父親や息子の学問と同じく実学を志向していたといえます。


3.人と思想――ケンブリッジの夢

 次に、貞次郎がどんな人たちから影響を受けて自分の思想を作り出していったかを検証していきたいと思います。貞次郎が、タイトルに掲げた「保守主義・自由主義・社会主義」とどう向き合ったかを考えます。三つの思想のうちいずれかといえば、貞次郎は明らかに自由主義者でした。しかし、保守主義や社会主義とも無縁ではありません。保守主義というと、何となく保守的でよくないような感じがするかもしれません。あるいは、社会主義というと、今はもうソ連が崩壊して社会主義なんていうのは時代遅れな感じがするかもしれません。しかし貞次郎は、自由主義を基礎としながら、保守主義のよいところ、社会主義のよいところ、そのいずれからも学んで自分の思想を作っていきました。

 最終的には、貞次郎は自分の思想を「新自由主義」と名づけることになりますが、それは保守主義・自由主義・社会主義のいずれからも養分を取り入れた結果です。ここで申し上げたいのは、貞次郎は三つの思想を本から学んだだけではなくて、具体的な人物、身近な人物から実感をもって学んでいたということです。たんに知識として思想を取り入れたのではなくて、実際の生活のなかで思想を呼吸していたのです。

 貞次郎は、第一次大戦が始まった1914年にケンブリッジに留学しておりまして、そのときに夢を見たというのです。「夢のうちに会った人が三人ある」という書き出しで、「Dialogue──ケンブリッヂの夢」(1915年)というエッセイを書いております。

 「世界の歴史上忘るべからざる1914年の秋、僕が英国ケンブリッヂにいたときのことである。ある晴れた日の午後、はらはらと散るライムの落葉をながめながら、パイプ煙草をふかしている間に、ついうとうととねむってしまった。そのときの夢物語を綴ってみたのがこの書物である。夢のうちに会った人が三人ある」。

 その三人が誰かというと、保守主義者と自由主義者と社会主義者だったというのですね。中江兆民の『三酔人経綸問答』という本がありますが、それと似たような趣向で、保守主義の主張はこうだ、自由主義の主張はこうだ、社会主義の主張はこうだというふうに、登場人物に対話させて、良いところと悪いところ、自由主義から見たら保守主義はこういうところが悪いといったふうに、ストーリーを展開しています。ここでは、このエッセイにちなんでお話したいと思います。

保守主義の遺産――紀州藩の人々

 まず保守主義については、紀州藩の人々、つまり自分の父親の友人や教え子たちからの影響があります。父親の上田章は貞次郎が2歳の時に亡くなったのですから、貞次郎は章から直接には学んでないわけです。けれども、周りの人が章を非常に尊敬していて、当時、紀州の人々のあいだで先生といえば上田章先生のことだったそうです。つまり、父親はもう死んでしまっていないのですが、貞次郎は「お父様のように偉くなれ」といわれて育ったわけです。これは非常に効果的な教育だったといえるでしょう。つまり、実際の父親を身近に見ていれば幻滅する場合も多いはずですが、貞次郎は想像上の父親、理想化された武士としての父親から学んだわけです。

 保守主義には、権威を振りかざしたり、父親が子どもを殴ったり、無理やりいうことを聞かせたりといった好ましからざる面がありますが、貞次郎はそういうものとは無縁でした。つまり、家には母親と兄しかいませんでしたから、子どものころから自分で判断して自主的に暮らしていたわけで、保守主義の息苦しい面とは無縁でありながら、その保守主義の遺産に親しんでいました。さきほど『上田章日記』のなかにちらっと出てきましたが、新政府に出仕して貴族院議員や東京府知事をつとめた三浦安という立派な人物が父親の同僚だったわけです。貞次郎は、少年時代にこの人に会ったことがあります。ちなみに三浦は、幕末の京都で佐幕派として活躍した人で、坂本龍馬の暗殺を指示した嫌疑を受けて海援隊に襲撃され、新撰組の防戦によって難を逃れたという、大河ドラマに出てきそうな人物です。

 一方、岡本柳之助という男は、父親の門下生で、さきほど申し上げた紀州の改革のときに砲兵隊長に抜擢された後、新政府の陸軍に入りました。ところが、西南戦争後の不満が爆発した竹橋事件の黒幕と見なされて、陸軍をクビになってしまったのです。つまり、明治新政府で活躍できない不満分子、不平士族でした。その男が朝鮮に渡り、1895年に朝鮮の皇后であった閔妃(明成皇后)を暗殺する実行犯となったのです。この事件は日本では忘れ去られていますが、当然ながら韓国の人たちは覚えております。ソウルに景福宮という元の皇居がありますが、そこには閔妃暗殺の場面の絵が今でも飾ってあります。ぎらぎらした血眼のサムライたちが朝鮮王朝のお妃たちを無残に斬りつけている絵が描いてあって、日本人がいかに悪いことをしたかを記憶しているわけですが、その首謀者は上田章の門下生だったのです。

 そういうわけで、紀州出身者には明治政府でうまく立ちまわった人もいるのですが、全体から見れば薩長政府でしたから、有能でも活躍できない人が多かったのでしょう。それで、不満分子のなかから近代日本史の暗い部分に進む者も出たのです。岡本柳之助は、貞次郎が留学する際の壮行会に出席しております。貞次郎の身近には、三浦安のように穏健な保守主義者がいた一方で、岡本柳之助のように過激な保守主義者もいたわけです。『上田貞次郎日記』を読むと、青年時代の貞次郎は彼らに尊敬と嫌悪の両方を抱いていたことがわかります。

 父親の上田章は、三浦安と同じく新政府に出仕するチャンスがあったそうですが、維新後も亡くなるまで紀州徳川家の家扶として暮らしていました。その父親の没後も、貞次郎は飯倉にあった紀州徳川家の邸内で子ども時代を過ごしました。そうした関係があったので、貞次郎も学校勤務のかたわら、徳川家の世嗣・徳川頼貞の教育係もつとめていました。ところが、1931年にその徳川家の顧問を辞任しております。徳川頼貞という人は浪費家だったようで、徳川家が没落していくのにこれ以上つきあいたくないという理由で辞任したのです。貞次郎は江戸時代以来の華族の伝統を身近に感じながら、しかもそれが没落の道をたどらざるをえないことを見越していたわけです。

 さて、さきほどの「ケンブリッヂの夢」に出てくる保守主義者の名前は、古山巍といいます。これは保守主義者らしく、なかなかうまくつけた名前ではないでしょうか。

 「どうしてここへ来たかわからないが、七十近くの老人。さすが昔の武士教育に鍛えられただけあって、体格の頑丈な、広額隆鼻でしかも両頬に流るるごとき雪白の長髭をなびかせている。風骨高邁の国士。古山巍というて亡父の旧友だから僕はよく知っている。彼はもと明治政府の大官であったが、よほど前に退官して貴族院議員に勅選されている」。

 これに該当する人物は、三浦安ではないかと思います。ですから、これは完全なフィクションではなくて、身近にいた人物を想定しています。その古山がこういいます。

 「世間では明治政府を藩閥とか、官僚とかいって攻撃するけれども、明治初年の官吏は少なくともみな国家の重きをもって自ら任じていた。その政治をいま成金や百姓議員らに任すのはじつに心細いことである。このありさまで進めば、大和魂も武士道もすたれてただ金の世の中、腕の世の中になり、天下の蒼生その堵に安んぜず、ということになりはしないか」。

 「いまの世界は文明とかいっても、国際問題になれば義理も人情もないのだから、このうちに立って日本帝国の勢力を強め、いわゆる国威国光を発展せしめんと思えば、どうしても一死国に報いんとする国士が出て、国民を導かなけりゃいかぬと思う」。

 このセリフは老人らしく古くさく書いてありますが、貞次郎はこうした危機意識に多少とも同情していたと思います。貞次郎は自由主義者といっても、無邪気に新思想を振りまわすタイプの学者ではありませんでした。

自由主義の息吹――福沢諭吉と元良勇次郎

 しかし、貞次郎が最も共感して自分の血や肉としたのは、いうまでもなく自由主義です。貞次郎は、少年時代から福沢諭吉を非常に尊敬しておりました。英語で日記を書いていたのですが、17歳のときに“I read Mr. Fukuzawa’s Fukuo-Hyakuwa on the Jiji Shinpo.”、つまり「福翁百話」というエッセイを時事新報で読んだと書いております。たんに新聞で福沢を読んだだけではありません。紀州藩から多くの青年が慶応義塾に入学しています。父親の門下生のなかにも、慶応義塾に入った人がたくさんおります。この写真は小泉信吉という人です。少年時代に上田章に学んだ門下生で、慶応義塾で学んだ後、横浜正金銀行を創立したり、大蔵省に勤めたり、最後には慶応義塾の塾長をつとめたりした、福沢の高弟です。貞次郎は福沢に直接会ったことはありませんでしたが、福沢のごく身近にいた人と知り合い、そういう人を通じて福沢の思想と人格を尊敬しておりました。その思想というのは、御存知の通り独立自尊ということで、自由主義であり個人主義です。福沢が亡くなったとき、貞次郎は葬儀に参列しています。

 さて、貞次郎は少年時代、正則予備校という学校で学びました。そのときの先生が元良勇次郎という人です。この人は東京帝国大学に心理学科を創設した初代教授ですが、狭い意味での心理学者ではありませんでした。ジョンズ・ホプキンズ大学に留学して書いた博士論文はExchange: Considered as the Principle of Social Life、つまり『社会生活の原理としての交換』で、ものを交換するということが社会を構成するうえでの基礎をなしていることを論じたものです。これはまさに社会学の研究テーマです。貞次郎は、少年時代に社会学者の教えを受けていたわけです。元良は貞次郎が正則予備校に入学したときに33歳でしたが、東京帝大の教授をつとめるかたわら、正則予備校で少年たちを教えていました。元良と、社会学の初代教授である外山正一、それに東京高等商業学校でも教えた神田乃武という英語の先生、この三人のアメリカ帰りの学者が協力して、正則予備校という新しい学校を創ったのです。

 その学校で、貞次郎は元良から自由主義を学びました。たんに授業で習っただけではなく、元良の家をしばしば訪ねて、スペンサーやミル、フランクリン、それからスマイルズの『セルフ・ヘルプ』について学びました。元良は教育心理学者でもありましたから、子どもに一方的に教えるのではなくて、30分講義をしたらあとの30分はそれを題材に生徒とディスカッションするというふうに、自発性を高めることに主眼を置いたアメリカ流の教育をしていたそうです。貞次郎は少年時代にそういう先生に学びました。後年、一橋でゼミをやるときも、元良のような姿勢でやったのではないかと思うのです。

 「ケンブリッヂの夢」に戻りますが、自由主義者としては中川成吉という人物を登場させています。中川のモデルは、中井芳楠という人ではないかと思います。中井は上田章の門下生で、慶応義塾で学んだ後、横浜正金銀行の初代ロンドン支店長をつとめ、日清戦争の賠償金の送金や戦後の公債募集に手腕を発揮した人物です。貞次郎は学校を卒業するときに、この人の紹介で横浜正金銀行に入る可能性もあったようです。

 「次は僕の同窓の先輩で実業界にその名を知られた中川成吉。二十貫もありそうな大男で、顔に光沢のある元気満々たる人物。学校にいるときには、ミルの経済学を三度くりかえし精読したので有名になった。大の個人主義者だが、いまでは実際の経験によってすこぶる穏健な説を立てる」。

 自由主義者である中川成吉は、古山の懸念に対して次のように反論します。

 「自由競争は、古山様にいわせれば「金の世の中、腕の世の中」かもしれないが、私はさほど残酷なものとは思わない。かえって大体公平に、智者と愚者とをふるいにかける適当の方法である」。

 「自由主義の社会においては、各人みな自分の意思によって活動するのだから、自然に責任を感じて独立自尊の人になる」。

 「政府の保護干渉をやめて、個人の自由を許し、そのオリヂナリチーとイニシャチーブを発揮させなければならぬ」。

 これらの言葉は、おそらく貞次郎自身の肉声だと思います。貞次郎自身、まさにこういうふうに考えていたと思います。「自由が責任を生む」という考え方ですね。たんに政府からの自由とか、自分勝手にすればいいという自由ではなくて、個人の自由と責任ということを同時に強調していますけれども、それは福沢主義というか、独立自尊の考え方です。

社会主義との邂逅──ウェッブ夫妻

 保守主義については紀州藩の人々から学び、自由主義については福沢や元良を通じて学んだわけですが、最後の社会主義は、貞次郎の育った環境からすればいちばん縁遠いものです。ですから、日常生活のなかで実感しながら身につけたというよりは、本を通して学びました。しかし本だけではなくて、あとでお話しますが、第二回留学のときにイギリス社会主義の教祖ともいうべきウェッブ夫妻のゼミに通って、夫妻から直接、社会主義について学んでおります。ここで社会主義というのは、革命的社会主義ではなくて、イギリス流の社会民主主義ないしフェビアン社会主義のことです。留学中、妻ていに宛てた書簡(1913年11月23日付)に、こう書いています。

 「一週二度ずつ、シドニー・ウェッブという人の講義を聴きに行く。この人は有名な社会主義者だ。英国ではソシアリストというたところが、少しも乱暴とか革命的とかいう意味はない。ただ私有財産をだんだんに少なくして公有財産に移し、富者の所得の一部分を租税として取って貧者のために用いようというだけのことだ」。

 「シドニー・ウェッブの奥さんはやはり学者だ。本も夫婦で共著にする。講義も交代にやる」。

 そのシドニー・ウェッブの奥さんが、ベアトリス・ウェッブです。この写真は、貞次郎が会ったウェッブ夫妻よりもう少し若いころのものだと思います。貞次郎はベアトリスのほうのゼミにも出ましたが、「演説などはウェッブよりも奥さんのほうがウィットがあって面白い」などとも書いております。

 さて、「ケンブリッヂの夢」に登場する社会主義者の名前は、新島進一です。

 「いままでドイツに留学していたが、こんど学位を得て帰朝しようという瀟洒たる青年紳士。これは僕が子供の時から知っている某県豪農の子でその名を新島進一という。洋行前には熱烈な帝国主義者であったが、近ごろは変わって社会主義に興味を有している」。

 新島のモデルが誰かというのはちょっと難しいのですが、当時ケンブリッジに、小泉信吉の息子の若き小泉信三が来ていました。その小泉がモデルではないかと私は見ています。小泉については御存知の方も多いと思いますが、父と同じく慶応義塾の塾長となり、現天皇の皇太子時代の教育係をつとめた人です。小泉はのちに『共産主義批判の常識』を著わして社会主義を批判するわけですが、当時はフェビアン社会主義に興味をもっていたということですから、モデルと考えてもよいのではないかと思います。新島の主張はこうです。

 「現在の財産制度というものを変更しないでたんに自由競争を許しただけでは、万民平等の理想が行なわれないばかりでなく、かえって不平等になります」。

 「社会主義者は、大名や士族の特権を廃止して四民平等の主義を打ち立てるのみならず、土地や資本を公有にしてこれを人民全体の利益のために用いよう、と主張します」。

 「月給は地位の高下にかかわらず、平等に当人の必要だけを渡します。たとえば子供の多い人には少ない人よりも多くくばり、病気や、出産や、死亡のときは平生よりも多くくばります」。

 明治維新で権利のうえでは四民平等になったわけですが、それだけではだめで、経済的な平等を実現するためには、土地や資本を公有にすることが必要だというのです。また、社会保障を実現しなくてはいけないとも主張しています。貞次郎は、保守主義・自由主義・社会主義のいずれからも学びました。基本にあるのは自由主義ですが、古山や新島のような考え方にも親近感をもっていました。そのことが貞次郎の思想の懐の深さにつながっているのではないかと思います。

福田徳三との特異な師弟関係

 貞次郎が東京高等商業学校で卒業論文を書くときに、福田徳三がドイツから帰ってきました。貞次郎は、福田の学問の深さに感激して指導を受けることにしました。しかし、福田の人物に敬服していたわけではありません。貞次郎は当時の日記にこう書いています。

 「何というても福田徳三氏は余の恩師なり。余は氏に接するごとに、思想の博大高遠にして、かつ精神の活動の活溌なるに感服し、身をつり上げらるる心地す。ただ氏の人物の偏屈狭小なるは疑うべからず。…しかし大体についていえば、氏は狷狭不介にして、利害を度外視し、情の行くところに任ずる人なり。高尚なる人格にあらざれども、また決して下劣にもあらず。調子はずれの奇人なり。この奇人たる性質は氏の生涯を不幸にする基なれども、また奇人なるがゆえに奇抜なる説を出しうるなり。奇行奇説はすなわち氏の本領にして、充分に本領を発揮するの外なし」。

 恩師といっても、年齢は5歳くらいしか違いません。先輩と後輩くらいの年齢差ですが、しかし貞次郎は福田に接すると「身をつり上げらるる心地」がしたのです。この表現からは、先生もすごい人だったことがわかりますが、生徒のほうもそれに呼応する感受性をもっていたことが窺われます。ただし、「氏の人物の偏屈狭小なるは疑うべからず」とあって、ここでは省略しますが、いろんな実例が書いてあります。

 貞次郎は1902年に福田に入門しましたが、1904年に福田が校長と喧嘩して休職させられた際、慰問に訪ねたところ福田に殴られるという事件がありました。貞次郎はてっきり破門されたものと思い込んでしまい、それ以降、二人は疎遠になります。もちろんその後も関係は続くのですが、学内政治でも意見を異にすることが多かったようです。福田の学問に対する尊敬は続いたと思いますが、この二人は学問も人物もタイプがまるで違っています。福田は天才肌で、語学ができて、新しい説をどんどん取り込んでいく人ですが、貞次郎は常識人で、いろんな説をもってくるよりは自分で調べたり考えたりすることに重きを置いた人でした。けれども、貞次郎の学者としての出発点に福田の大きな影響があったことは疑いえません。


4.研究の軌跡――日本経済の歩みとともに

 残りの時間で、貞次郎がどういう研究をしたかをかいつまんでお話したいと思います。「日本経済の歩みとともに」というのは、学問のための学問ではなくて、外国にこういう研究があるからそれを輸入するというのでもなくて、日本経済が今こういう状況だからこういうことを考えなくてはいけないという姿勢で研究していたという意味です。他にもたくさん書いていますが、主なものはこれだと私が考える五冊の本に限って紹介することにします。

『外国貿易原論』──自由通商の論拠(24歳、1903年)

 これは貞次郎の卒業論文で、23歳のときに書いて24歳で発表しました。この論文は、指導教授だった福田徳三から絶賛されます。

 「考証該博、しかして紛糾せる学理を寸糸乱れず、明快流暢に論断し去りてほとんど遺憾なし。著者の造詣の深きは、その学理的思索の鋭きと相まってこの一篇をなす。独り卒業論文中の白眉たるのみならず、また我邦幾百の経済論中まれに見る所」。

 これはものすごいほめ方だと思います。ふつうは学生の卒業論文をここまでほめないものです。これはおそらく、貞次郎が優秀だったというよりも、初めて受け持った学生を福田が並々ならぬ熱意で指導した結果だろうと思います。

 『外国貿易原論』は自由貿易を説いた本でありまして、日本はこれから自由貿易を通じて工業国にならなければならない、保護貿易はだめだということが書いてあります。御存知の通り、リカードは比較生産費説で自由貿易の利益を論証しました。貞次郎はリカード説に依りながら、ドイツの保護貿易の主唱者リストの説も入れて、イギリスとは違う後発国日本型の自由貿易はいかにあるべきかを論じたのです。保護も時には必要だが、それに限界を設けなくてはいけない、というのがこの本の主張です。貞次郎によれば、保護は以下のように限定されるべきです。

 「第一)保護の目的は保護を受くる工業をして後年完全に成立せしむるにあれば、この完全なる成立が永久の障害によりて妨げらるる工業に対しては、始めより保護の方針を取らざるを可とす」。

 「第二)保護の目的は自立すること能わざるものを興起せしむるにあれば、すでに自立の力を具えたるものにこれを施すべからず」。

 つまり、最初から自立の見込みのない産業は保護すべきではない。また、すでに自立した産業は保護してはだめだというのですね。

 「しかれども、貿易政策の原則は、あくまでも膨張的自由貿易主義たることを要す。輓近、世界の大勢を云々してわが国に保護策を擬するがごときは、断じて非なり」。

 これは帝国主義的自由主義の主張とでもいいましょうか、自由貿易主義といってもたんに自由にすればよいのではなくて、日本帝国が世界に雄飛するための自由貿易主義ということだと思います。

『株式会社経済論』──実業の将帥への期待(34歳、1913年)

 この本は、最近の言葉でいえばコーポレート・ガバナンスについて論じています。貞次郎は、この研究によって法学博士の学位を授与されました。副題につけた「実業の将帥」は、御存知の通り、一橋大学のモットーである「キャプテン・オブ・インダストリー」のことです。この本は貞次郎の経営学の基礎になっているだけでなく、日本の経営学の源流とされています。

 さて、さきほどの『外国貿易原論』からこの『株式会社経済論』までには10年の歳月が流れています。その間に、貞次郎はイギリスへ留学しております。留学は5年にわたっていて、ドイツやフランス、アメリカにも行っておりますが、主にバーミンガム大学で学びました。バーミンガム大学では、ウィリアム・アシュレーという歴史主義的な経営学者が教えていました。この人は有名なアーノルド・トインビー(文明論のトインビーの叔父)の弟子で経済史家でもあり、『英国経済組織の史的考察』という本を書いています。

 ただし貞次郎は、この先生にあまりよい印象をもたなかったようです。それはなぜかというと、貞次郎はすでに東京高等商業学校教授でしたから、自分は一人前の学者だという意識をもっていたのですが、アシュレーのほうでは貞次郎を学生扱いしたので何となく行き違いがあったようなのです。アシュレーはその後の貞次郎の研究に内容的には大きな影響を与えますが、貞次郎は直接それを先生から一字一句学んだというわけではありません。貞次郎は講義を真面目に聴くよりも、工場見学や名所探訪に時間を費やしたようです。

 ところで、この連続講演では比較文明史の三浦新七についてもお話があったかと思いますが、三浦は貞次郎の畏友でありまして、ドイツに行ったときに三浦を訪ねています。これはそのときの日記です。

 「三浦新七君と四年ぶりで会い、非常に愉快なりし。談論の際、同君の説が理論的かつ書物的なるに対し、余の考えが実行的かつ旅行的なるを悟れり。同君の洋行の方針は真の留学なり。余のは見物的なり」。

 旅行的見物的な留学というのは楽しそうですが、貞次郎はこの5年間、図書館にこもって勉強するのではなく、西洋の社会をじかに見学してきたのです。今の大学教員からすると非常にうらやましいことで、当時の一橋が若い学者にいかに寛大だったかがわかります。ちなみにこの写真は、留学から帰ってきたころ、30歳当時の貞次郎です。

 さて、『株式会社経済論』はやや専門的な本ですので、同時期に出た「株式会社の倫理」(1912年)という講演録のわかりやすい部分で代用したいと思います。

 「一方においては事業に接しその事業の衝に当たる人〔経営者〕、一方においては事業がまるきりわからない、ただただ金を出す人〔株主〕、この両方の者が相対して株式会社というものを組織している。〔経営者は〕悪いことをしようと思えばいくらでもできるのである。自分の親類、旧主人、友人に対する個人的道徳と全く違うところの道徳、世の中の公衆に対する道徳に基礎をもたなければならぬ。これなければ株式会社というものは到底うまくいかない」。

 これは要するに、コーポレート・ガバナンスの問題を指摘しています。最近の用語でいえばプリンシパル‐エージェント問題というのですが、つまり株主が経営者をコントロールすることが難しいという問題です。所有と経営が分離した結果として起こるこうした問題は、1930年代にアドルフ・バーリとガーディナー・ミーンズが指摘するわけですが、貞次郎は彼らより20年早くそのことをいったわけです。もちろんアダム・スミスも『国富論』にそのようなことを書いておりますので、貞次郎の独創とはいえないと思いますが、同じような問題意識をもっていたことは確かです。貞次郎によれば、この問題は新しい公共道徳を基礎としなければ解決できない。そこでクローズアップされるのが、士族の役割です。

 「日本の歴史においてこの株式会社の起源進歩はどうかというと、日本では士族がやったのである。従来の商人は、商売上の道にかけては士族よりもえらい。しかしながら、人の金を預かって正直に注意して取り扱うということは、今までの普通の商売人は知らなかった。士族はどうかというと、これは較々似寄ったことを昔からやっていた。つまり役人としての経験である。株式会社の当局者と政府の役人のあいだに、道義上似寄った基礎があるのであります」。

 福田徳三は町人階級の出身だったそうですが、貞次郎は士族の出身であり、士族に思い入れがありました。さきほど申しましたが、貞次郎の父親は町人の家に生まれて就職して士族になったわけですが、それだからなおさら「武士とはいかにあるべきか」ということを理念的に考えて、もともと武士だった人以上の武士になった。貞次郎はそういう人の息子です。士族は各藩の役人として殿様の財産を管理運用していたわけですから、自分の所有物でなくても責任をもって経営するということに慣れている。貞次郎によれば、この経営能力が明治時代になって株式会社の創設に役立ったというのです。

 ところで、東京商科大学で貞次郎が学生に教えようとしていたのは、「士族たれ」ということだったのではないかと思います。学生のなかには士族出身でない人もたくさんいたわけですが、その学生たちを士族たらしめ、エリートに仕上げていくということが教育の目標でした。これは保守主義の考え方ですね。エリートが責任をもって社会をリードしていかなければならないというのは、保守主義の考え方です。もう少し後になりますと、経営者の株主に対する責任だけではなく、社会に対する責任についても指摘するようになります。これは1921年に書かれた「実業家の社会的責任」という論文の末尾です。

 「今日の実業家は、もはや昔の町人とは違って一個の私人ではない。天下の公人である。この人の進退如何によって幾百千万人の運命が定まり、日本の国運が決せられるのである。これすなわち今の社会的大変動の時代にあたりて、私が特に実業家の社会的責任を問わんとする所以である」。

 「一介の町人と天下の公人」という対照については、いろんなところで述べております。これは最近流行の言葉でいえば「CSR(コーポレート・ソーシャル・レスポンシビリティー)」ですが、日本語で「企業の社会的責任」といったほうがわかりやすいですね。貞次郎は、そのことを1920年くらいから主張していたのです。「天下の公人」は、たんに金を儲ければよいのではなくて、士族のように社会に対して責任をもたなくてはなりません。社会的責任というのは、従業員や顧客、地域住民に対する責任、それから社会一般に対する責任もあります。

 これに関連して、御存知の通り一橋のモットーはキャプテン・オブ・インダストリーですが、その由来はカーライルの『過去と現在』の「キャプテン・オブ・インダストリー」という章です。いくつか訳書が出ていますが、重要な部分については貞次郎の「カーライル及ミルの産業論」(1922年)という論文のなかに訳文がありますので、それを御紹介します。

 「産業の指揮者は、じつは世界の将帥なり。混乱と欠乏と悪弊とに対する闘士として、偉大なる世界的福祉を人の世にもたらすべき者は彼らなり。汝、実業の将帥よ、拝金の夢より醒めて英国を救え。しからずんば亡びよ」。

 「実業の将帥よ、汝の周囲を見よ。社会は乱れたり、荒みたり、まさに爆発狂乱の際にあり。人はもはや、一日六ペンスの賃金と需要供給の法則のみによって汝のために働かざるべし。汝は貴き指導によりてのみ、人をして貴き忠義心を起こさしむるを得ん」。

 「汝の千両箱を数うるをやめよ。しかして汝の心中に生くる貴きものを滅びしむるなかれ。もし汝が千両箱を数うるをやめずんば、その金こそは長く汝の手にのこることなからん」。

 これは、将来キャプテン・オブ・インダストリーたるべき一橋の学生に対して呼びかけたのだと思います。カーライルが『過去と現在』を書いたのはチャーティスト運動さかんなりし1840年ごろですが、貞次郎は第一次大戦後、すなわちロシア革命後にそれを訳したわけです。何のために訳したのか。それは、一橋の学生にこれを教えたかったからだと思います。「汝の千両箱を数うるをやめよ」というのですから、上田経済学を学んでも儲からないですね。社会的責任のほうが大事です。さもなければ、革命が起こって財産を没収されてしまうぞというのです。

 こういう教育を受けた上田ゼミの代表的な卒業生を挙げるとすると、茂木啓三郎(1899〜1993、キッコーマン)、正田英三郎(1903〜1999、日清製粉)、森泰吉郎(1904〜1993、森ビル)、小坂善太郎(1912〜2000、外務大臣)といった名前が思い浮かびます。キッコーマンの会長をつとめた茂木さんは、83歳になって貞次郎の教えを回顧しています。

 「先生の教訓として、私が特に肝に銘じていることがある。それは、《君、世の中へ出てみると、男一匹どうしていいかわからないという難問にぶつかることがあるよ。その時は、決してバタバタあわててはいけない。腰をじっと据えて、目を輝かして周囲を見ているのだ。そうすると必ず何かの動きがある。それを捉えて疾風迅雷、事を処理するのだ。》と教えられたことである」。

 これはずいぶん武士道的というか『葉隠』的な教えです。斬るか斬られるかの場面での判断力が大事だということですね。『葉隠』は、個人主義であり自由主義です。つまり、人に聞いたり頼ったりするのではなく、自分で判断しなくてはいけない。落ちついて事態を見極めたうえで迅速に断行するということです。これは自由主義といっても、たんに学者が隠遁して本を読む自由、社会から逃れる自由ではなくて、まさに社会のただなかで個人として責任を果たしていく自由です。貞次郎は、そういう判断力を教えようとしていたのではないか。それを83歳になって、つまり大学時代から60年経っても鮮明に記憶していて、こういうふうに生き生きと再現できた茂木さんは、優れた学生だったのだと思います。上田ゼミではそういう教育がなされていたのですね。

『英国産業革命史論』──産業民主化の可能性(44歳、1923年)

 産業民主化は社会主義の考え方です。政治上の民主主義だけではなく、経済にも民主主義を適用すべきだということです。貞次郎は、この本を書いたころ社会主義に接近していました。貞次郎が接近した社会主義は革命的社会主義ではなくて、フェビアン社会主義でした。きっかけはロシア革命で、第一次大戦後には日本でもマルクス主義が流行しました。それに対してどうしたらよいか考えた。その前提として、1913年から14年にかけての第二回留学がありました。

 さきほども出てきましたが、紀州徳川家の若殿様に徳川頼貞という人がいて、日本で最初の音楽学者になりました。南葵楽堂というパイプオルガンつきの音楽ホールを建てたり、海外の有名な音楽家を招待したりしました。のちに貴族院議員になり、戦後は参議院の外務委員長をつとめた人です。私の祖父などは、この人は「ばか殿」だと聞かされていたそうです。貞次郎が家族にそういう話をしたのだと思います。貞次郎はこの人の教育係として、ケンブリッジへの留学に付き合ったわけです。この写真は、留学に出発する直前に撮ったものだと思います。若殿様の徳川頼貞、貞次郎、鎌田栄吉、小泉信三が写っています。鎌田栄吉の話はすぐ後に出てきます。小泉信三についてはすでに御紹介しました。貞次郎は留学の途中で大学から呼び出しがかかって帰国しなければならなくなったので、たまたま第一次大戦が始まってドイツからイギリスに避難してきた小泉に、若殿様の教育係を交代してもらったそうです。

 さて、今回の留学が第一回留学と違うところは、徳川家から費用が出ていることです。第一回留学のときは学校から「商事経営学をしっかり仕込んでこい」といわれて行ったわけですが、今回は狭い専門を離れて政治思想史を研究することにしました。政治思想史とは何かといえば、19世紀イギリスにおける保守主義・自由主義・社会主義の交錯ということです。貞次郎はもともと少年時代からそういうことに興味があったのですが、父母が亡くなって家が貧乏ですから、早く経済的に自立したいと思って商業学校に入ったのです。ところが、福田徳三に見いだされて学問の道に進むことになった。ですから学問的興味としては、べつに商業学や経営学にいちばん関心があったわけではなくて、ほんとうは社会がどう進んでいくべきかを明らかにする思想に関心があったのだと思います。その関心を目一杯に開花させたのが、第二回留学のときでした。

 ロンドンではさきほど申し上げたウェッブ夫妻のゼミに出ましたし、ケンブリッジのキングズ・カレッジではディキンソンという政治学者のところで学びました。ディキンソンは、今ではほとんど知られていませんが、ケインズの先生の一人であり、『ポリティカル・ダイアローグ』という、『三酔人経綸問答』みたいな本を書いています。貞次郎はこの本をヒントにさきほどの「ケンブリッヂの夢」を書いたのです。もっとも、じつはこれ未刊に終わったのですが。さて、キングズ・カレッジでは、若きケインズとも交流しております。ケインズは当時、「エコノミック・ジャーナル」の編集をやっていました。貞次郎よりも4歳下ですが、同世代の経済学者として交流したのだと思います。貞次郎はのちに、ケインズの『自由放任の終焉』を日本に紹介しています。貞次郎はそれを「一種の新自由主義」と形容していますから、ケインズの思想に親しみを感じていたはずです。

 留学から帰ってしばらくして、1919年、第一次大戦が終わった年にワシントンで第一回国際労働会議、今のILO(国際労働機関)の第一回会議が開かれ、紀州出身の鎌田栄吉が日本政府代表として出席することになりました。この人はやはり上田章の門下生で、福沢諭吉に学び、慶応義塾の塾長もつとめた人です。鎌田は福沢の影響でドイツ学ではなくイギリス学を勉強した人で、貞次郎にドイツではなくイギリスに留学することを勧めたそうです。この人が政府代表になったので、貞次郎は請われてその顧問として随行したのです。貞次郎はいろんな会議に出て日本の立場を説明するとともに、鎌田の演説草稿に手を入れたりしました。帰国してからも、国際労働条約の批准を求めて運動しています。『株式会社経済論』では経営者の責任を強調したわけですが、この時期の貞次郎はもっと労働者側からも考えて、民主主義の将来について見通しました。その成果が『英国産業革命史論』です。その序文にこう書いてあります。

 「1918年11月、欧州大戦争の終了してから数か月の間にわが日本の思想界が非常の変動をなしたことは、いかに健忘性な人でもよもや忘れはしまい」。

 「1920年の春、余はワシントンにおける第一回国際労働会議から帰って以来、右のごとき思想界の紛糾を眼前に見て深く考慮したが、ついに英国の産業革命、およびこれに次いで起これる新実業階級および新労働階級の歴史を、かつ研究しかつ講義することを始めた」。

 そこで現在の危機の原因をたどると、産業革命に行きつく。貞次郎の理解によれば、以下のとおりです。

 「産業革命の真の意義は産業の合理的経営であって、それがいわゆる資本主義的大企業の発達となり、またその結果として資本的企業者と労働者との二階級があい対抗することとなり、現代の難局を醸成したのである」。

 つまり産業革命には、生産が豊富になる、物がたくさん作られるようになって経済が発達するというプラスの側面と、分配の不平等が起こって階級対立が起こるというマイナスの側面がある。そのきっかけは産業の「合理的経営」ということでした。産業革命のマイナス面を解決するために、多くの思想家がさまざまな提案をしました。ジョン・スチュアート・ミルは生産組合ということを提案した。労働者自主管理というか、経営者を追い出して労働者だけで経営する会社を作ろうとしたが、それは失敗した。なぜかというと、労働者に経営能力がなかったからです。

 「ミルの楽観したところの生産組合は失敗に帰して、企業の指揮はますます独裁的に傾きつつある。19世紀は政治上のデモクラシーを完成したけれども、産業上には企業の規模が増大しただけ、多数の人が一人または数人の指揮者の下に服従しなければならなくなった。しかしながらいわゆる産業の将帥は、カーライルの描いたような徹底的温情主義を取らずして、ますます営利主義の完成に走っていった」。

 つまり、大企業になればトップは一人だけで、あとは従業員ということになる。しかし、キャプテン・オブ・インダストリーとして期待された経営者は、じつはそんなに慈悲深い人ではないことがわかったわけです。それに対して、労働者が参加して企業を民主化していくためにはどうしたらよいか。企業をひと握りの経営者に任せるのではなく、労働者が自分の職場を自分のものだと感じながら仕事ができるようにしたい。そこでやはり、経営能力ということが問題になります。

 「第一に、生産事業の経営は、カーライルのいえるごとく一の大なる組織であって、その指揮監督は有為なる人材の力にまたねばならぬ。資本は死物であるけれども企業は活物であるから、産業の社会化されるためには、資本の問題とともに人物の問題を解決せねばならぬ」。

 「有為なる人材」というのは、もちろん東京高等商業学校の学生を念頭に置いていたことでしょう。つまり、たんに社長やホワイトカラーを追い出して労働者だけでやろうとしても無理だということです。仮に社会主義の世の中になっても経営者は不要にならない、というのが貞次郎の見解でした。

 「第二に、産業の社会化は、ミルの理想としたような労働者のデモクラシーによらなければとうてい完成することのできないものであるが、そのデモクラシーなるものの運用は、政治上においても産業上においても、今はなおすこぶる幼稚の域を脱しておらぬ。デモクラシーが社会組織の原則となるためには、煽動および雷同の気分を脱して真の自治協同に至らねばならぬ」。

 この最後の文句、「デモクラシーが社会組織の原則となるためには、煽動および雷同の気分を脱して真の自治協同に至らねばならぬ」というところが私は中学時代から大好きです。このころの貞次郎は社会主義、とくに企業単位のギルド社会主義に共感を寄せていましたが、しかし経営学者としての貞次郎は、経営能力の問題を解決しなければそんなことは不可能だ、というふうに冷静に見ております。そして、たんに理想として民主主義がよいというだけではなくて、民主主義を運営する人々の能力を育てなければならないと考えたのです。先進国のイギリスでさえ試行錯誤を続けているのに、日本で一朝一夕に民主主義や社会主義を実現できるはずがない、というのが貞次郎の理解でした。

『新自由主義』──後発国の進むべき道(48歳、1927年)

 今日から想像すると、戦前の昭和はぜんぶ暗黒時代で、軍国主義一辺倒でやっていたように思いがちですが、大正末期から昭和初期にかけて、日本の知識人たちが社会主義に驚くほど傾いた時期がありました。それに対して貞次郎は、日本では社会主義など時期尚早であって、まず自由主義を徹底しなければ社会主義はたんなる国権主義に堕してしまう、と警告したのでした。これが『新自由主義』という本です。

 副題に「後発国の進むべき道」とつけました。いつの時代も新しい思想は先進国からどんどん入ってきて、先進国の思想家が「社会主義だ」というとインテリはすぐそれに飛びつくわけですが、社会はそんなに急には進まないことを貞次郎は見ぬいていたのです。後発国は後発国なりの進路を見いださなくてはいけないということです。

 この本を書くきっかけは、1925年に普通選挙法が成立して、日本の民主政治が新たな段階に入ることが予想されたことです。そこで、ちゃんとした政策論争にもとづく選挙が行なわれなければならない。貞次郎は門下の若い学者たちとともに雑誌『企業と社会』を創刊して、来たるべき選挙に備えて政策論を打ち出したのです。

 「無産党以外にあって、しかも保守党に入る能わざる分子が多数に残るであろう。これらの人々が一定の思想体系に基づいたところの主義政策を立てうるならば、それは必ず日本の将来に大なる勢力となり、また国運の進展に貢献しうることを私は確信するのである。しかしてその思想体系は、新自由主義でなければならぬと思う」。

 これは、さきほどの保守主義・自由主義・社会主義に対応する考えです。明治時代には自由民権運動がさかんでしたが、その後の日本では自由主義が非常に弱くなってしまいました。当時は、自由主義など時代遅れの思想だと考えられていたのです。そこで貞次郎は新自由主義を唱えたわけです。

 ところで、アレクサンダー・ガーシェンクロンという経済史家がいましたが、「後発効果」という説を述べています。これは、工業化が遅れて始まった後発国では、先進国にはないさまざまな特徴が表われる。例えば、工業化を政府が主導することや、金融が証券ではなく銀行中心になることなどです。それから日本の経済学者・村上泰亮は、「開発主義」について考察しています。政府が幼稚産業を保護育成すると、最初はよいのですが、既得権益が生じて途中でやめることが難しくなります。そういう政策をいかに日没させるか、これが大問題なのだと論じています。貞次郎は、すでに1920年代にそうした問題意識をもっていたのです。それは、次のような記述に表われています。

 「現代日本の欠点は、明治維新以来の伝統たる国権的保護干渉主義である。この欠点を排除するものは、同様に集権的なる社会主義でもいけず、またこれをいくぶん緩和したところの社会政策主義でもいけない。個人の自由と個人の責任に重心を置くところの思想が起こらなければ時弊を救うことはできぬ」。

 この部分だけ読むと、1980年代以来のサッチャリズムやレーガノミックスといったネオリベラリズムを思わせます。ネオリベラリズムも日本語に訳すと「新自由主義」ですから、貞次郎はそれを先取りしていたなどという人もいます。しかし、部分的には似ていますが、全体として両者は明確に違います。貞次郎の新自由主義は、英訳すればネオリベラリズムではなくて「ニューリベラリズム」です。これは当時のイギリスで起こっていた思想です。たんに自由放任すればよいという古典的自由主義に対して、ニューリベラリズムは、個人が能力を発揮できるような自由でなくてはいけないと主張しました。貞次郎の新自由主義もイギリスのニューリベラリズムの影響を受けていますが、直訳ではありません。日本の歴史の発展のなかでいま何が必要かを考えたうえでの翻案だったと思います。

 「新自由主義は、旧自由主義のごとく単純なる個人の自由、すなわち個人が他の個人または政府の干渉を免れるということだけを理想としてはならぬ。それは、わが国民の一人ひとりをして天分を充分に発育し得しむるの自由でなければならぬ。けれどもわが国の現状にては、かつて国民経済の隆興を促すために取られたる資本主義扶殖策がその目的を達したる後においてもなおその余弊を残しているから、まずこれを一掃して資本主義そのものを自主的ならしめなければならぬのである」。

 つまり、後発国日本ではまず開発主義を中止して自由にする必要がある、というのです。これは偶然にも、ガーシェンクロンや村上の考え方を先取りしています。

 ところで、私の専門は社会政策や福祉国家論です。福祉国家論なんていうのはだいたい反自由主義的でありまして、貞次郎が聞いたら何というだろうかと考えることがあります。ただ、貞次郎も福祉国家に対して条件つきの賛意を表しています。それは、次の箇所です。

 「旧自由主義は個人の自主独立を可能ならしむるところの基礎条件として教育機関の完成を主張したことは顕著なる事実であるが、吾人はそれと同じ精神をもって労働者の職業上および職業外の衛生および保健に関する施設を整えなければならぬ。また、生活安定の基礎を作らなければならぬ。いずれにしても、労働者の一人ひとりがその施設経営の趣意を理解して、その目的の達成に協力することを必要とする。《依らしむべし、知らしむべからず》の方針にもとづいた社会政策は、むしろなきにしかない」。

 つまり19世紀の自由主義者は、社会保険には反対しましたが、義務教育が大事であることは熱心に主張しました。家が貧しくても能力さえあれば教育を受けて活躍できるということが、自由主義が成り立つための条件です。貞次郎は、この考え方を年金や医療にも拡張しようと述べているのです。ただし、それが国権主義や官僚主義に陥るくらいなら、ないほうがましだともいうわけです。これはなかなか難しいところです。以下、各政策分野について、貞次郎の主張を簡単に整理しておきます。

 通商政策については、産業保護よりも関税引き下げを実行せよといっています。関税引き下げと自由貿易、これは『外国貿易原論』以来の主張です。関税は消費者に対する課税であると指摘しています。

 社会政策については、産業国営よりも進歩的税制改革を進めよと主張しています。つまり相続税をたくさん取る、それから所得税の累進性を強めるということです。今は逆のことをやっているわけですが、貞次郎の主張はこの点で近年のネオリベラリズムとは正反対でした。

 労働政策については、組合は政治運動よりも団体交渉に徹せよと述べています。組合は革命や政治に手を出すよりも、まず労働者の生活条件の向上に努力すべきだ、つまり労働組合主義に徹するべきだということです。

 農業政策については、農村保護よりも農業経営効率化をはかれと指摘します。現行の農村保護政策は農民保護になっていないと批判しています。農業経営を効率化して、余剰人員は都会に出て工業部門に移ればよいというあたりは、当時の農本主義などとは鋭く対立しています。

 教育政策については、高等教育よりも義務教育完成を優先せよという意見です。やたらに大学を増やすよりも、義務教育への就学を完全にせよという主張です。これは、普通選挙に備えて民衆教育を徹底すべきだということでもあります。

 ところで、民本主義で有名な吉野作造は、今でいえば社会民主主義者でした。その吉野が『中央公論』の巻頭言で貞次郎の新自由主義に対する批評を書きました。

 「博士の提説は必ずしも理論上社会主義的改造論を排斥するものではないらしく、日本当面の問題として、自由主義的訓練の機会を国民に提供すべしとの論と観られぬこともない。いずれにしても、日本独特の国状を背景として社会主義的改造観がその実際政策の綱目中にまずもって何を顧慮すべきか、を暗示せる論文として、上田博士のこの説は敵も味方も大いに味わうべき必要あるを思うのである」。

 貞次郎の新自由主義は、マルクス主義者からはひどい批判を浴びせられることになりますが、社民主義者の吉野はこれを好意的に見ています。「敵も味方も」というのはよい言葉ですね。貞次郎のほうは、当時すでに社会主義にそれほど同情的ではなかったと思いますが、吉野にとっては貞次郎の主張が援軍に見えたようです。ちなみに、吉野がこれを書いてから70年後の1996年にこの如水会館で、私の叔父で貞次郎の孫の上田貞治と吉野の孫・雪子が結婚しました。これは、学説や主義とは全く関係のない偶然の幸運でした。

 貞次郎の新自由主義は、実際政治のなかでも多少の影響力をもちました。田沢義鋪という内務官僚が近衛文麿を担いで結成した「新日本同盟」という小政党が、新自由主義を綱領として取り入れました。また、ジュネーブ国際会議(1927年)の首席代表になった志立鉄次郎は、貞次郎の自由通商論に共鳴して貞次郎を代表の一人に招きました。その後、貞次郎は志立や平生釟三郎らとともに「自由通商協会」を結成して、関税引き下げ運動を展開します。

『日本人口政策』──自由社会の存立条件(58歳、1937年)

 さて、貞次郎が社会主義に反対して新自由主義を唱えてから5年後には、早くも満州事変が勃発しています。日本の1920年代から30年代にかけての歴史が、いかに目まぐるしく展開したかがわかります。満州事変が起こったとき、貞次郎は表向きには発言しておりませんけれども、日記には「国民が軍国主義に引きずられていくのを見ているのが不愉快でたまらない。いつか機会を見て公然、反軍国主義を唱えてみたいなど考えた」と書いています。

 結局あからさまに反軍国主義を唱えることはなかったわけですが、それを間接的に社会科学として主張した。それが人口問題研究です。「余は満州事件の突発以来、日本の人口問題に興味を深くもち出したから、これを中心問題と定めた」と記しています。日本経済研究会という集まりを作って、人口問題をその中心テーマに据えたのです。なぜ反軍国主義が人口問題研究につながるのか。貞次郎によれば、満州事変は人口問題だというのですね。狭い国土のなかで人口が急増してきている。マクロに見れば、それが爆発したのが満州事変です。

 日本経済研究会は「背広ゼミナール」ともいうのですが、上田ゼミ出身の若い学者を中心とした集まりで、1930年から9年間続きました。学者も50歳代になると研究が停滞してくる人が多いようですが、貞次郎の場合は若い仲間の助けを借りながら、新たな研究をはじめる意欲をもっていました。メンバーは有名なところでは、猪谷善一、山中篤太郎、美濃口時次郎、小田橋貞寿、森田優三、それに加えて、中山伊知郎、東畑精一、杉本栄一らも顔を出していました。錚々たる若手学者が参加していたわけですが、その研究会のテーマが人口問題研究と小工業研究でした。

 小工業研究というテーマも偶然選ばれたわけではなくて、国際問題と関係があります。当時、日本はソーシャル・ダンピングを行なっていると諸外国から批判されていました。つまり、劣悪な労働条件で安いものを作って輸出するのはけしからん、ということです。労働条件が低く抑えられているのは、主として小工業です。それで日本の小工業が海外から槍玉に挙げられるのですが、貞次郎たちは、いやそんなことはないのだと主張したのです。中小企業の労働者の生活水準も次第に向上してきているのだ、ということを証明するための研究だったわけです。この研究会のなかから、日本の人口学や中小企業研究を担う代表的な研究者が育つことになります。研究会の一場面として、メンバーの一人だった猪間驥一がこんなエピソードを伝えています。

 「ある夜、集まりに出てこられた先生は、嬉しさにはちきれそうな顔をして言われた。──《日本の人口の将来の数を予測する方法を思いついてね、嬉しくて嬉しくて仕方がない。早くその計算がしてもらいたいのだ》」。

 この程度の計算は今ならパソコンでもできるでしょうが、当時は手回し計算機で計算してもらわなくてはならなかったのです。ところで、計算の前提として、貞次郎は次のように考えました。

 @ 現在の人口中どれだけが生き残るかについては、大正14年の5歳別人口が5年後の昭和5年に一段階上の5歳別人口となった率、すなわち「5歳別生残率」が将来も続くものと仮定する。

 A 今後生まれる人口は毎年210万と仮定する。これは過去12年間の数字に基づいている。この間、親世代の人口は増加しているが、出生率低下のため出生数は増えていないからである。

 実際の計算はややこしくて、簡単に説明できません。重要なのは結果ですが、計算の結果は「要職人口一千万」という標語にまとめられました。この結果は、1933年のロンドン・タイムズ紙上で次のように紹介されました。

 「日々の新聞紙上に活躍するところの愛国者や政治家や将軍らも、日本の運命を形づくりつつある一大経済力に比較すれば、あやつり人形のごとく小さいものであろう。来たるべき10年間に日本が養いかつ職を与えなければならぬ人口は、現在よりも1000万人だけ増加するのである」。

 貞次郎はこの結果を英文にして、国際会議でも報告しました。満州事変が起こるのはたんに日本が軍国主義に傾いているからではなくて、背景にこの1000万人をどう食べさせるかという問題がある。だから保護主義をやめて日本の製品を輸入してくれ、という主張です。一方、国内に向かっては、満州を取ったくらいでは1000万人を食べさせられないばかりか、かえって工業製品の海外販路を失うことになってしまう、と警告しました。そして、結論は次の通りです。

 「この小島国に激増する人口を維持する途は、国際貿易の発達による国民経済の工業化を促進するのほかにはない。アウタルキーは断じて日本を生かす所以でない」。

 日本は自由貿易による輸出志向工業化をめざすべきだ、というのが貞次郎の主張でした。つまり、人口問題研究は自由貿易の論拠だったわけです。アウタルキーは自給自足経済のことですが、要するに満州では日本は生きていけないのだと主張したのです。

 これは余談ですが、今ではあたりまえになっている人口ピラミッドを日本で最初に描いたのは、貞次郎の研究グループでした。また、現在でも「将来推計人口」というのがあって、将来の年金は大丈夫かなどというときに引き合いに出されて批判されたりしますが、この将来推計人口も貞次郎の研究をきっかけにして出されるようになったものです。将来推計人口を出している国立社会保障・人口問題研究所の前身の一つ、国立人口問題研究所も、貞次郎らの後押しを受けて1940年に発足したのでした。

研究の軌跡と三つの思想

 以上にお話した貞次郎の研究の軌跡を、保守主義・自由主義・社会主義という思想に関連づけて整理してみましょう。まず、処女作の『外国貿易原論』は自由主義の主張ですが、貞次郎は東京高等商業学校および東京商科大学で、この研究を発展させて「商業政策」という講義を担当しました。商業政策というのは、現在でいえば国際経済学です。

 次に『株式会社経済論』を書きましたが、これは士族的経営者の公共道徳に期待するという話ですから保守主義的です。この研究は「商工経営」という講義になりました。商工経営の講義では、英国産業革命の話もしました。これはキャプテン・オブ・インダストリーを養成するための講義だったといえるでしょう。

 それから、第一次大戦をきっかけとして『英国産業革命史論』を書きました。これはさきほど申し上げたように、貞次郎がいちばん社会主義に近づいた時期に書いた本です。これは、アシュレーの影響を受けた経済史の成果であり、ディキンソンから学んだ政治思想史の成果でもあります。

 さらに、普通選挙法の成立をきっかけとして『新自由主義』の主張を展開しました。ここでは、自由主義の主張にもどったわけですが、経営者には社会的責任を説き、労働者には自発的協同を勧めている点で、『株式会社経済論』と『英国産業革命史論』の研究が生きています。この思想が当時の日本社会に受け容れられなかったのは残念なことです。

 そして最後に、満州事変をきっかけとして『日本人口政策』の研究を開始しました。これもたんに人口を学問的に研究したのではなくて、内外の危機の時代において自由な社会を何とか守るにはどうしたらよいかという問題意識に根ざしています。その結論は、自由貿易と輸出志向工業化ということでした。

 以上のように、貞次郎の研究は国際経済学、経営学、経済史、政治思想史、経済政策、人口学、中小企業論など多方面にわたっており、しかもそれぞれの分野で開拓者的業績を残し、また有力な後継者を育てました。ただしその軌跡は、いろんな分野を興味の赴くままに渡り歩いた結果ではなく、その時々の社会の課題に答えるための切実な問題設定の連続だったことがおわかりいただけたかと思います。

 この写真は、貞次郎晩年の家族です。この写真はゼミのコンパか何かの後でしょうか、みんなとてもよい顔をしていますね。これはゼミの遠足で高尾山に出かけたときの写真です。こういうときも、ちゃんと三つ揃いを着ています。昔の大学の先生は偉かったのだなと思います。


5.上田貞次郎の遺したもの──70年の後に

 70年後の現在から見て、貞次郎は何を遺したのだろうかと考えてみました。まず目に見えるものとしては、住居と別荘と胸像があります。中野駅から3分のところに、晩年の住居が残っています。これは、教授在職25周年を記念して、上田会という門下生の同窓会がお金を集めて建ててくれたものだそうです。記念品に家をプレゼントするというのは、実業家を輩出した一橋ならではという気がしますね。この家は、戦時中に曽祖母が軽井沢に疎開し、息子たちも出払ってしまったので、火事を心配して売ってしまったそうです。それを上田ゼミ出身の松村信次郎という人が買い取って下さり、今はその松村さんの親戚の方が住んでいます。先日ちょっと訪ねてみたら、家の中まで見せて下さいました。築後75年ですが、いまだに旧のまま使って下さっています。

 次に「夜雨荘」という別荘が、軽井沢の千ヶ滝にあります。これは今でも上田家の所有でありまして、築後80年の今でも、95歳の上田正一大伯父と87歳の上田勇五大叔父が毎夏を過ごしています。夜雨荘という黴が生えそうな名前は、古い漢詩か何かに由来があるそうですが、祖父たちはどうしても出典を思い出すことができませんでした。夜雨荘には、後に学内政治で対立することになる佐野善作学長が揮毫してくれた扁額が残っています。

 貞次郎は1936年に東京商科大学の学長になり、40年に亡くなるまでつとめました。戦争に向かう時代に自由主義者の学長が突然亡くなったことは学生に大きな衝撃を与えたようで、在校生の寄付で胸像を建てることになりました。学生の熱意に打たれて、彫刻家の朝倉文夫がほとんど材料費だけで作ってくれたそうです。これは国立キャンパスに二つ現存していて、運動場のほとりと図書館のなかにあります。

 さて、貞次郎の残した目に見えない遺産は何でしょうか。まず、人物に対する評価があります。親友の小泉信三は、戦後になってからこう述懐しています。

 「終戦後、日本の政治家が一頃しきりに学界に人を求めたことがあり、私もあるとき説をきかれた。私はそれに答えて、学界に人はいない、ただもし上田が生きていたら、推したかも知れない、といったことがある。それは私の偽らぬ所見であった」。

 この政治家というのは吉田茂ではないかと思いますが、貞次郎が戦後まで生き延びていたら何か有意義な仕事ができたのかもしれません。ただ、これも今となっては過去の話です。ところで小泉は、貞次郎の「個々の研究成果よりも、度量もあり、侠気もあり、多少の機略もある、かれの人そのものを、私は敬愛した」とも書いています。そういう貞次郎の人柄は、今でも日記や随筆などに偲ぶことができます。

 次に、学問に対する評価ですが、残念ながら現在の日本の学界では貞次郎の研究はほぼ完全に忘れ去られております。2000年にイギリスで貞次郎のThe Small Industries of Japan(1938年)という本が復刻出版されましたが、日本の研究者はほとんど誰も気づかなかったのではないかと思います。この本は、日本経済について英語で書かれた重要な本10冊を復刻するという事業で復活したのでした。この復刻事業の監修者はジャネット・ハンターというロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの日本経済史の先生で、一橋の経済研究所の西沢保教授のお友達だそうです。そういえば、西沢教授は貞次郎論を何篇か書いて下さっています。さて、そのハンター教授が、復刻本の序文に貞次郎の学問についてこう書いています。

 「上田の著書は、この時代の日本経済に関する最良の学識の一端を示すものである。上田のきわめて社会科学的な方法は、戦前期の日本経済に関する研究の重要な特徴の一つを明らかにしている。つまり、日本がまだ全くの開発途上国であった時代、しかも国家主義と愛国主義がいよいよ声高に叫ばれるようになった時代にあっても、何人かの日本の学者たちは、他の国の社会科学における最良の学識にひけをとらない洗練と客観性をもって、この分野における調査と分析をなしとげることができたのである」。

 日本人が忘れてもイギリス人が覚えていてくれるというほめ方はあまり感心しませんが、事実としてそうなっております。私はハンター教授と何回かメール交換をしまして、このあいだ学会でテロ直前のロンドンに立ち寄ったときに会いたかったのですが、時間がなくて残念ながら会えませんでした。

 最後に、貞次郎の学問の方法というか、研究姿勢を一番よく表わしている貞次郎本人の言葉を引用して結語にしたいと思います。これは雑誌『企業と社会』の巻頭言で、国立の運動場にある胸像にもプレートで貼り付けてあります。

 「学者は実際を知らず、実際家は学問を知らず、政治は産業を離れ、産業は社会にそむく、これじつに産業革命の波涛に漂える現代日本の悩みではないか。吾人はこの混沌裡にあって、企業より社会を望み、社会より企業を覗い、眼前の細事に捉われずまた空想の影を逐わず、大所高所より滔々たる時勢の潮流を凝視して、世界における新日本建設の原理を探らんとする。吾人のにくむところは虚偽と雷同とであり、吾人の戒むるところは煩瑣と冗長とである。吾人が訴うるところの読者は純真にしてかつ聡明なる満天下の青年識者である」。

 この言葉にはいろんな要素が含まれています。第一に、空理空論を振りまわすのではなく現実を見ること、第二に、それを通じて社会を指導する原理を見いだすこと、第三に、それを若者に訴えるということです。ここには、たんなる学問のための学問や実証のための実証ではなく、事実を見据えたうえで理想を掲げる、あるいは理想をいだきつつ事実を見るという貞次郎の研究姿勢が窺われます。つまり、たんに事実を見ていればよいわけではなく、そこから進むべき道を見つけなくてはいけない。さらに、若者を教育することで社会を変えていかなくてはいけない。こういう姿勢は、実証的理想主義、あるいは実践的理想主義とでも形容できるのではないかと思います。

 貞次郎の唱えた新自由主義は、現在でも示唆に富むものではありますが、やはり当時の文脈のなかでこそ最も有効だったはずの政策論です。今となっては時代の文脈が違いますから、その政策論に直接学ぶわけにはいきません。しかし、いま御紹介した言葉から読み取れるような貞次郎の実証的理想主義、この姿勢は私自身も学んで実践したいと思っているところです。

 私の話は以上です。御清聴ありがとうございました。(拍手)


講師略歴

上村 泰裕 (かみむら やすひろ)

1972年名古屋生まれ。東京大学文学部社会学科を卒業。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程を満期退学。東京大学社会科学研究所助手を経て、2004年4月から法政大学社会学部専任講師。専門は福祉社会学、比較福祉国家論、アジアの社会政策。

主要論文

上村泰裕,1999,「福祉国家形成理論のアジアNIEsへの拡張」『ソシオロゴス』第23号.

上村泰裕,2000,「福祉国家は今なお支持されているか──ISSP調査による分析」佐藤博樹・石田浩・池田謙一編『社会調査の公開データ──2次分析への招待』東京大学出版会.

上村泰裕,2001,「アジア諸国の社会政策──論点と研究課題」末廣昭・小森田秋夫編『自由化・経済危機・社会再構築の国際比較──アジア、ラテンアメリカ、ロシア/東欧 第T部・論点と視角』東京大学社会科学研究所.
上村泰裕,2003,「東アジア福祉論の構図」上村泰裕・末廣昭編『東アジア諸国の福祉システム構築』ISS Research Series No.10, 東京大学社会科学研究所.

上村泰裕,2004,「東アジアの福祉国家──その比較研究に向けて」大沢真理編『アジア諸国の福祉戦略』(講座「福祉国家のゆくえ」第4巻), ミネルヴァ書房.

上村泰裕,2005,「日本のなかの「三つの世界」──地方分権と社会政策」武川正吾編『福祉社会の価値意識』東京大学出版会, 近刊.

上村泰裕,2005,「国際比較から見た日本の福祉国家」武川正吾編『福祉社会の価値意識』東京大学出版会, 近刊.

上村泰裕,2005,「福祉国家と市民社会の接点としての社会福祉──台湾とシンガポールの比較から」宇佐見耕一編『新興工業国の社会福祉──最低生活保障と家族福祉』アジア経済研究所, 近刊.