再生事業から見た日本

 

講師 (株)産業再生機構代表取締役社長

斉藤 惇 

平成18年7月18日 於:如水会館

【無断転記転載を禁ず】

社団法人 如 水 会

責任編集

 




◆内容目次

産業再生機構の現状

市場への橋渡し

企業は社会的存在

窮境企業の問題点

企業経営の中心的課題

公益と企業

自由な企業の役割

官業の役割

郵政事業の問題

会社は誰のものか

企業価値というもの

企業価値論

個人的、均等的な価値

コアコンピタンスの確認

デユーディリジェンス(DD)の実施

企業価値の評価

資本コストと企業価値

企業価値創出の戦略

経営者によるガバナンス

組織内での人事評価

日本での代替案

生産性に見合う賃金体系への移行

ROEと配分論

市場主義経済

市場主義と品格

変化に対応できるシステム

リレーションシップ資本主義の限界

合理的でないファイナンス

市場経済のインフラ未整備の例

裁定者・仲介者としての産業再生機構

産業再生機構設立後の状況変化

21世紀型の企業モデル・経営モデルを目指して

質疑応答

講師略歴


産業再生機構の現状

 ご紹介にあずかりました斉藤です。本日は産業再生機構の仕事の中で見た幾つかの会社を通して、日本の経済、経営の問題点とか特性について、私なりの勝手な意見を述べさせていただきたいと思います。

 機構では、最初の2年間で100件ぐらいの持ち込みを受け、その内41件の支援決定をしました。41件の対象事業者の借入金総額は3兆8175億円でした。機構発足時の日本全体の不良債権は35兆円くらいと言われていたので、我々は全体ベースで大体そのうち1割ぐらいの支援をやったと思います。大手銀行の要管理債権の比率で見ると、我々が25%ぐらいを処理したということです。

 お陰さまで41件の内34件は既に市場に売却済で、あとはダイエーを含む7件が残っているだけです。こうして異常な姿が続いた金融政策も平常モードへ切り替わってきています。しかし、こうした回復基調を強固なものにするには、今後とも企業段階での構造調整努力が継続されることが必要であると我々は思っております。機構の活動を通して明らかになった日本企業の経営の特性を踏まえて、その長所を伸ばすと同時に、幾つかの弱点を補強する枠組みをしっかり構築し、産業再生機構解散後に再度「失われた10年」が発生しないようにしなければならないと思っております。


市場への橋渡し

 我々は法律的には2008年3月末まで生存権が与えられていますが、案件がほぼ1年近い前倒しで終了しそうなので、うまくいけば来年の春にはもう店じまいをして解散しようと思っております。機構は国の組織ですが、普通の官業と異なる点は、「事業の失敗を市場原理に基づいて民間ベースで処理すべきだ」という我々の理念で動いたことです。

 メカニズムとしても、支援決定後3年以内に市場に売ることが義務付けられていて、それを「エグジット」と言っております。我々としては当然入り口から相当注意してやらないと、出口で市場のプロに買い叩かれ、結果的には納税者に損をかけることになります。私自身、国会に引っ張りだされて、先生方に叩かれるのは嫌ですから、相当慎重に市場ベースでやりました。

 株式会社ですから先般決算を発表しましたけれども、17年度には178億円くらいの収益が出ました。したがって国民のみなさんには負担をかけなくて済みそうです。銀行が出した50億円の資本金を使い、国家の保証という枠を使って仕事をしたわけですが、国民の税金は一銭も使っていません。マスコミがよく「国民の税金を使ってどうのこうの」と書いていますが、あれは誤解であり、国民のお金は使わないで、市場からの短期ファイナンスのお金でやっております。


企業は社会的存在

 きょうは、「企業とは何であるか」という話をずっとしていきたいと思っています。そしてピーター・ドラッカーや、この1年ぐらい前に『セーヴィング・キャピタリズム』という本を書いたラグラム・ラジャンやルイジ・ジンガレスさん等の主張を、我々機構の現実のオペレーションに反映して話したいと考えています。

 ドラッカーは「大規模事業体は近代社会の代表的存在であり、そのための人間組織が企業である」と言いましたが、我々のベースラインはまさしくここにあります。したがって、我々は企業のあり方が社会と人間のあり方を位置づけると思っております。必ずしも社会の全員が企業で働いているわけではなく、弁護士さんとかお医者さんとか企業で働いていない人もいますが、大型企業の行動が実際の社会の行動規範になっているということは、20世紀に入ってからの人類の事実です。

 したがって、大企業による粉飾決算とか、独禁法違反とか、あるいは公害をまき散らす犯罪等は、社会のルールの破壊行為であり、公明な市場経済を毀損する反社会的行為と見なすべきだと思っております。

 さらに大事なことは、企業の利益が、それなしには経済活動が成立しないという意味で保険料であり、企業のビジネスのパフォーマンスを評価する尺度であることです。利益のとらえ方としては、自由競争によるべきか、コスト計算と統制価格によるべきかという論争が歴史上ずっと続いてきました。その結論としては、統制的官僚的経済が市場を使った自由競争態勢には勝てなかったという歴然たる事実が証明されています。


窮境企業の問題点

 然らばこの自由競争市場を通した資源や資本の配分機能を利用して、どのような企業経営を行うことが社会人として、あるいは人間として正しいのかということになろうかと思います。企業たるものは、社会の代表的組織として、社会の信条と価値に応えなければならないと思います。企業の求めるものが社会の理念や目的と乖離していれば、政治と社会にかかわる理念そのものが崩壊しかねないと思います。逆の言い方をすると、社会は企業に対して、その存在理由である経済的機能を果たすことを要求しているとも言えると思っております。

 振り返ってみると、失われた10年をつくった「窮境企業」について、彼らはその社会的意義付けを意識していなかったのです。我々は経営者と非常に激しく渡り合いました。たとえばカネボウのような120年も歴史のある日本の経営者として歴代上素晴らしいと言われた人たちが社会を裏切る行為を延々と続けていたのは明らかです。

 我々は「このような会社はもう社会に存在する意義がない」というぐらいの考え方で再生に入りました。彼らは、企業の実体価値を数字的に把握することを恐れ、連結外しや不良債権の飛ばしを行い、あるいは減損会計を忌避するとか、流動資産の時価評価に対しても非常に抵抗しました。これは結果的に「社会的監視の目を避けてきた」と批判されても仕方がないと思います。残念ながら、かなり多くの日本の企業にこの姿は見られるのです。

 このような行動を見ると、一部の経営者の後ろ向きの姿勢が社員にまで現われて、企業の社会に対する位置づけが非常に曖昧になっています。ひどい場合は、監査人ですら「企業は社会的存在である」という意識が消滅していました。


企業経営の中心的課題

 そういうことから、我々は社会的要求に応えるために、今日の日本の政治社会の理念から眺めて、次のようなことを企業経営の中心的課題と捉えています。

 機会は平等に与えられているか

 報酬制度は努力や能力に比例して払われているか

 個々人の自己実現の機会や自由は与えられているか

 適度なリスクに合った利益の追求が行われているか

 社会の求めに応じて正確な情報の公開はしているか

 こういったことを真摯に検討することによって、企業経営の中心的課題を決めるべきであるということです。これがワークしないと近代的資本主義経済の遂行はできません。


公益と企業

 企業体を基盤とする社会は19世紀初期にはなかったわけです。今は企業の利益追求が公益の実現に貢献し得るか、あるいは貢献させるために企業の利益追求姿勢はどうあるべきかという問題が出てきていると思います。そして、自由企業体制と安定的な市場経済システムは、共存し補完し合って利益を生み出すと理解すべきであると思っております。

 利益は当然生産のみならず、社会の福祉や安全あるいはインフラの原資でもあるわけです。この制度の下では、企業の合理的利益追求は是認されるべきであり、感情論的に利益追求を阻害することは自由企業体制の否定であり、社会コストの不必要な上昇をもたらすことを理解する必要があると思います。

 歴史的に見ると、利益の追求は大変野心的なものであり、あるいは略奪的な性格を持ったものでありました。欧州の歴史を見ると、国家が個人の資産や所得を収奪したり、国王が貴族の所得を、あるいは貴族が小作人の所得や財産を収奪した歴史の繰り返しです。近代国家になって初めて、法的制度や社会秩序の整理が進んで、利益の追求スタイルが、市場の求めるものを見いだして消費者を満足させる積極的な技能や知識を求めるものに変わってきたと見ております。


自由な企業の役割

 また同じことを言いますが、企業は社会的組織ですから、存続することが必要であり、簡単に中断したり消えることは社会的な不安要因になります。民主主義国家においては、民間人の職業の選択の自由、あるいはベンチャー事業への自由な参加等、多種多様なビジネスにチャレンジする形をとっていますが、これは社会的ポートフォリオが非常に広いことを意味すると思います。多くのリスクが社会構造として分散される。これが自由を与えられた社会の強さだと思います。特にベンチャー事業に若者がチャレンジすることは、社会リスクが非常に分散していることであり、大変価値のあるものだと我々は見ております。その意味では、社会としても安定的であると同時に、利益を生み出すチャンスを多く持っていることになり、それは民主主義国家の一つの強さだと思います。

 もちろんレッセフェールが認められないことは19世紀の歴史で何度も検証されています。我々は何も自由放任主義を主張しているわけではありません。社会の安定には、一定の規律、ルールが求められ、社会と企業の調和が図られるべきです。言わんとすることは、ドラッカーが1930年代のオーストリアでナチスの台頭にあって、何度も論文に書いていたことです。彼は「極端な理想主義も、極端な現実主義も、結局は自由企業体制とは相反するものとなり、行き着く先は統制経済か官僚支配経済になる」と戦前の書物で繰り返し主張していました。

 これは、今日の日本に結構あてはまる話ではないかと思っております。今日本では、あるべき観念論とか抽象的な道徳論といったテーマの本が非常に売れています。法律でぎちぎちに決めてしまうものに比較して、確かに市場経済には行き過ぎがあるし、不安定、揺るぎがあると思います。しかし、何度も言う通り、歴史は、この制度の方がより効率的であり、結果的には公平であって、継続性が高いことを証明しているわけです。それは、特定数のエリート集団の英知の結晶より、多種多様な衆愚の集まりの方が現実の人間の生活においては有効であることを証明していると思います。


官業の役割

 私の持論は、官による収益事業への直接介入は極力抑制すべきであるということです。官とは自由企業体の活動のための枠組みの限界を定めるところまでが仕事である。つまり、民主主義国家においては、自由で市場ベースの経済活動が許される枠組みをつくる必要があるのです。決して官そのものが直接的に経済活動をするべきではないと思います。

 具体的に申しますと、官は教育や税制、規制改革、法的整理、あるいは収益性を評価基準を使えない軍事、外交、安全等に従事するにとどめるべきではないかと思います。法律で競争ルールを策定しておきながら、ルールのない細部の適用にまで官が口を出すことがこの前まで繰り返されました。これが行政介入ですけれども、これには法的論拠が乏しいと思います。小泉内閣を境にして、ようやく行政介入、事前介入が事後チェックに変わろうとしています。もちろん、そのことに対して、社会では「金融庁はやり過ぎだ」とか、「検察庁はやり過ぎだ」という言葉が入りますけれども、そういう批判をしている人達は、数年前まで「行政介入はおかしい」と言っていたわけです。

 「あれもダメ」「これもダメ」というような評論家的な表現を繰り返していても、実際の社会生活ではダメです。社会的に見て必要と考えられる政治的、経済的行為は、あくまでも事後的に立法と司法によって管理されるべきなのです。それは行政指導ではありません。裁判所があり、検察があり、警察があるわけですし、法律が出来ているわけですから、法律に抵触しているかどうかは立法と司法によって管理されるべきだと思います。たとえば独占禁止法の対象行動は社会犯罪であると思います。それは国民に対する裏切り行為ですから、厳格な適用をすべきです。過去を振り返ってみると、官が直接収益事業に手をつけた結果、国家としては資本の効率性を非常に悪化させてしまい、国民負担は膨張しました。そして、その責任は誰も追求できないし、評価すらもできていません。我々は二度とこのような間違いを繰り返してはなりません。もう一度こういう間違いをやると、もうリカバリーする余裕はないと思います。


郵政事業の問題

 非常にデリケートな話題ですけれども、郵政事業がいろいろ言われました。私は国民が郵政を非営利的なものだと納得するならば、民営化すべきではないと思いますし、逆に、これは完全な収益事業だと認定するならば、即完全民営化だと思います。大事なことは、今のところ非常に中途半端な位置づけにしているために、国論が割れて、不毛な混乱を引き起こしていることだと思います。

 4つの事業の中で、どれは収益事業であって、どれは収益事業ではないと分けてもいいと思います。何も4つ全部民営化するというテーマにチャレンジする必要はないのかもしれません。そういう仕分けが必要ではないかと思います。企業利益の追求と個人の自由、社会の公益をバランスよく保っていくしか現実的な解決策はないのです。そのためには非常に冷静な知識、高い倫理観、自由経済の堅持が必要であると思います。


会社は誰のものか

 会社は誰のものかという話が大変にぎやかです。残余財産の分配権、配当の請求権、株主総会の議決権など、こういうものを有価証券として1枚の紙にまとめ上げた株式が市場で売買されています。

 したがって、この「株を保有した株主が会社の所有者である」と主張するグループがいることはご存知の通りです。ここから「会社は株主のものである」という株主主権論が生まれているのです。しかし、株主権を声高に主張するだけでは企業価値の上昇は見られません。株主主権論は、法人の法的な性格しか見ていないという点で問題があると思います。

 これに対して、日本では「必ずしも株主だけの持物ではない」という反論が多数見られます。これは会社法人を擬制的に人として見た場合、会社はむしろ株主からは独立して、資産を所有し、従業員を雇い、あるいは商取引を行っているのだということで、日本型の株式会社論が生まれているのです。

 会社法人が物として認識されようと、あるいは擬制的に人とみなされようと、従業員や経営者が社会のニーズにマッチした経営をやらない限り、企業体の社会に存在する意義は喪失してしまうと思います。


企業価値というもの

 いかに「金融論は事業理論とは異なるのだ」と言っても、現実の事業価値の上昇なしに株主価値を上げることをやれば、それはマネープレーと批判されても止むを得ないと思います。先般の村上ファンドの村上さんがやっていたことは、関係者の間では批判がありましたが、「彼は決して企業価値を上げてはいなかった」ということです。単にマネープレーで株価を上げていただけであり、それは本来の株主の役割ではありません。

 資本の論理だけを振り回しても、企業価値が経営、従業員、顧客、取引先、債権者等と共同作業によって生み出されるものである以上、一方に偏った目的的な解釈は正しくないと断言しても構わないと思います。

 大事なことは、そのような多くのステークホルダーに情報をちゃんと公開し、正しいバランスシートや損益計算書を公開し、しっかり外部から管理された企業価値を最大化する制度です。

 そのような意味では、日本にあったメインバンク制度とか、その制度をテコとして利用して行政を指導してきた旧大蔵省型のガバナンス制度は、企業の実体価値を無視してきた点でも合理性に欠けていたと言えます。そこにはリレーションシップ資本主義の悪しき面が出ていたと思います。

 同様に、株式の持合い制度とか、ポイズンビルの多用等も、論理的に避けられるべきです。つまり外部からのチェックを嫌う理由は何かということです。リスク資本を外部から取り入れておきながら、その利用状況を外部からチェックすることを妨害しようという精神で会社を経営すること自体大変おかしなことです。

 当然、企業はゴーイング・コンサーンとして存続させることに意義があり、場合によっては、そのために、従業員も株主も債権者も、さらには取引先をも犠牲にすることを破産法や更生法は求めていることを忘れてはいけないと思います。つまり一部の利己的な主張だけが通ることはあり得ないのです。


企業価値論

 企業価値論の問題を論じてみたいと思います。会社は人間の組織です。そこにある機械や設備、社屋等は、事業目的から外して解体したら物質的な価値以外ほとんど何も残りません。

 前述のように、企業価値というものは、その事業目的のために人と設備、そして経営戦略が社会的存在として一体化したときに生まれるものであることを我々は肝に銘じておく必要があると思います。

 私どもは、たとえばカネボウという会社について、この考え方を念頭において対処しました。カネボウは化粧品以外におそらく50以上の事業をやっておりました。ラーメンもつくっているし、ジュースもつくっているし、何をやっているかよくわからないぐらいでした。しかし、そういうノンコアの部分を外に売却するとき、買い手に対して従業員の処遇についてかなり厳しく要求し、極力従業員が犠牲になることを避けました。

 特に今日のようにリスク資本が有能な個人や特定の技術に対して利用可能になってきた自由市場経済社会においては、大きな組織のヒエラルキーの意義は急速に消滅しつつあると思います。さらに、今日の新しいIT社会における通信技術の拡散は、むしろ社会的ヒエラルキーの破壊を促進しています。そして近頃の言葉で言えば、尻尾の長い「ロングテール」の市場構造が出てきています。この社会では従来型のヒエラルキーは崩壊しつつあると見ていいと思います。そういう点では、特に日本が一番先端を行っており、今日本には従来とは大変異なった社会が生まれつつあると私どもは見ております。


個人的、均等的な価値

 ご存知の梅田先生の本(ウェブ進化論)に紹介されていますが、従業員1万人の会社は相当な会社だと思います。この会社で従業員が8時間働いて生産される価値は、1億人の人が3秒働く価値とまったく同じだそうです。今や1億人が均等に情報を所有する時代になっており、1億人が3秒パッと働く社会になっているのです。

 そういう意味では、組織的ヒエラルキーの価値は消滅して、個人的、均等的な価値が創出される社会が生まれ出ようとしていることを意識しておく必要があります。

 パソコンで本を買えるアマゾン・ドット・コムという会社には230万種類の本が置いてあるそうですが、ニューヨークのマンハッタンにあるバーンズアンドノーブルには、確か13万種類くらいの本しか置いてありません。物理的に並べようとすると、13万種類くらいが限度だそうです。しかしアマゾンでは、230万種類の本を並べて、全本がヒットされているのだそうです。つまり、恐竜の尻尾のほうを集めただけでも、何十億という売上になる時代になってきたということです。

 そういう意味では、ドラッカーが戦前に主張していたのですが、「労働者はコストではなくて資産である」を我々は改めて確認した次第です。再生業務において我々はこの考え方を常に手放さなかったということです。我々は労働者を少なくとも経費とは見ませんでした。社内の「経営者層と労働者」、「幹部と平」といったあらゆる階層は消滅しつつあると言っていいのではないかと思います。会社は株主資本のゲームの対象等では絶対にないのです。しかし、同時に第三者による経営の厳しいチェックが必要なこともまた事実です。


コアコンピタンスの確認

 企業価値を上昇せしめるにはどうしたらいいかということで、機構が行った再生手法を述べてみたいと思います。

 経営戦略を練るにあたって、基本的なことは、会社が持っているコアコンピタンスと、各事業の将来の競争基盤が合致しているかを確認する必要があると思いました。集中する事業が将来にわたって価値を創造していく中核的な事業かどうかを見極めることが非常に大事なのです。そのためには、先ず長期にわたる市場のアクセプタンスを確認し、社会的ニーズに合った戦略を立てる必要があると思います。そして、ある事業を継続することがコアコンピタンスのさらなる強化に結びつくかどうかを見抜く必要があります。

 この関係がうまく整理され、将来に向かって強化できる具体的な行動の選択、収益面へのインパクトの正確な評価等を科学的、数字的にとらえる必要があります。さらに、コア事業への資本と人材の集中を見極め、次に客観的数字の分析に基づいたノンコア事業の処分や縮小を行わなければなりません。事業価値を生まないと評価されるノンコア事業は、社会的市場ニーズがないか、敢えて言うと社会や市場からその存在を拒否されている事業であると思うわけです。ここに社会のニーズとその企業体の存続する意義が取捨選択されるメカニズムが働いていると思います。このことを理解してもらうのは非常に難しいことでした。

 たとえば我々はダイエーで53か店くらいを閉鎖しました。それらは10年近くにわたってキャッシュフローを生まない、キャッシュフローがネガティブである事業です。その閉鎖を決めると、必ずといっていいくらい知事、市長、商工会議所会頭に日参されたり、呼びつけられたりします。あるいは政治家を通して「機構は地方の窮状がわかっていないんじゃないか。東京の真ん中に座っていて何がわかるんだ」というようなお叱りをいただきました。

 しかし、私どもの論理では「10年以上にわたってキャッシュフローを生まないということは、その地域の消費者から存在を拒否されていること」と考えています。商工会議所会頭がどう言われても、消費者がそう言っていないという数字的な証拠があるのです。知事さんがどこの代表で選ばれているのか知りませんけれども、「消費者を大事にするならば、消費者がノーと言っている店を残すことは、日本経済全体にとっても決して効率的ではない」というお話を繰り返しました。


デユーディリジェンス(DD)の実施

 企業価値を正しく把握するには、企業体内の各事業のリスクを把握し、資産の実態を把握し、ビジネス、不動産、法務も含めたすべてを把握することです。これらを厳格に行うと、最終的には財務という数字になって表れます。たとえば、どこかと契約をしている法務の内容も、最終的には財務数字に表すと、総合連関が数字で把握され、財務に落とし込まれるというシステムを構築していく必要があります。

 この作業には、会計上の財務の数字を経営データに転換させる高度な能力を持った人が必要です。日本にはこういう方がほんとうに少なかったのです。みなさんもご存知のリターン・オン・インベストメント・キャピタルとか、WACCと言われる加重資本コスト、ノープラットとか、EBITDAとか、EBITAとか、経営データに同じ条件で正確に落とし込むスキルを持った方です。単なる会計士ではなく、財務理論がよくわかり、企業価値理論がわかった方です。本来はインベストメント・バンカーや一般銀行の方が一番持っていなければいけない能力ですが、そういう人材はほとんどいませんでした。

 機構の仕事をしてみて、バランスシートを実態ベースでつくる経営者がいかに少ないかに驚かされました。我々のところに持ち込まれた企業は、資産査定を正確にやれば全部債務超過でした。債務超過はいろんな意味で隠されていました。

 銀行はむしろ意図的にバランスシートの左側を膨らませて、エクイティバリューをつくり出していました。それを債務超過と認めると、自分たちが債権放棄をせざるを得ないということで、それを忌避してきたという歴史もあります。間接金融によって、完全なコーポレート・ガバナンスの効かない悪い面がこの国に根づいていたということです。

 もっと驚くことは、株式資本が債務に劣後するという基本的原理を認識しない株主や事業主が非常に多いということです。日本の商法では、上場企業は株主の特別決議がない限り株式価値をゼロと見なすことはできません。そのために我々は上場企業については大幅減資を強行しましたが、現実には市場の株主には痛みが感ぜられないということでした。それはなぜかというと、資本勘定から剰余金勘定に振り替えるだけになるためです。本来は窮境原因になった会社の場合は、株主のコントロールが効かなかったわけですから、一番劣後する株主が先ず責任をとるべきです。銀行が債権放棄しているときに、株主権だけを主張する株主もまだいます。このへんが、日本は資本主義を構成している基礎要因の理解がない国と言われている所以です。その結果、残っていた株主が自分の管理責任を放念して、利己主張する行為がいまだに行われているのです。


企業価値の評価

 企業価値の見方を続けます。財務的に見ると、企業価値とは、コア事業から生まれるキャッシュフローの和と事業に使われない資産の価値の合計と言えます。これを財務ではなく、事業の面から見ると、企業価値とは、ネット有利子負債の現在価値と株主資本の価値の合計でもあります。

 この理論付けによって、企業価値評価額に比べて過大である有利子負債について、我々は銀行に債権放棄をしていただくという論拠を立てました。我々の支援計画は、先ず株主へ還元される価値はゼロに近いと見て、企業価値全体が全部債権者に返済されるべきであるという考え方に基づいて再生に着手したわけです。

 したがって、機構の再生は、ゼロの株主価値の企業に新たなエクイティやデットを投入して、企業価値を復活させる作業を行ったと言い換えることができます。この辺は技術論になるのでスキップしますが、我々は企業価値を求めるために、こういう静態的な方法と動態的な方法の両方をやってみたということです。


資本コストと企業価値

 次に、資本コストと企業価値の関係ですが、これについては、WACCという加重平均資本コストがあります。日本の経営者にはこの理解が少ないのです。これはバランスシートから見た負債のコストと自己資本のコストの両方を比重で掛けてやるわけです。そうすると、当然、方程式はスライド11のようになります。D+E分のD×税です。デット側のコストで肝心なのは、EとReという株式コストです。

 株式コストは何で出来ているかというと、よく新聞なんかに書いてありますが、国債の金利のようなリスク・フリー金利に、持っているボラティリティとリスク・プレミアムを掛けたものを足すわけです。それがD+E分のEにReを掛ける意味ですが、日本の経営者にはここがわかっていない方が多いのです。

 私は証券会社にいたのですが、お客さんに社債を出すと6%の金利を払わないといけないが、株式の時価発行の場合は、株価が2000円とすると1株50円の20%配当は10円で2000分の10にしかならず、「社債よりも株でファイナンスしたほうが得だ」と言うような上場会社トップ企業の財務副社長もたくさんおられました。昔はそれが日本の実態でした。

 その人達は、リスク資本を投入している株主は、リスク・プレミアムを求めていることを完全に忘れてしまっているのです。ほんとうは株のほうがコストは高いのです。社債の場合は、今は3%かもしれませんが、6%としても10年なら10年一律のコストが決まっていて、こちらのほうがはるかに金利は安いのです。Reを掛けなければいけないエクイティコストは非常に高いものです。


企業価値創出の戦略

 これを満たしていくためには、大変な経営が必要です。ここに企業価値理論があるのですが、残念ながら日本ではその感覚が非常に薄いのです。一橋はビジネススクールをお持ちですが、中国の指導者の場合はほとんどがアメリカのビジネススクールの出身者ですから、トップ・トゥ・トップで会話をすると、中国の政府や企業のトップのほうがこういうことをずっとよく理解していると思います。

 企業価値を拡大する戦略を具体化するためにはどうすればよいでしょうか?我々としては、できるだけKPI(主要事業目標)を設定して、その達成のために現場の作業を「バランス・スコアカード」に落とし、PDCAをハッキリして回しやすくなるように設計をしました。このPDCAが順調に回りだせば、産業再生機構の仕事は終わりに近づいたと見たということです。

 企業価値の構成要因としては、スライド12の資料をお読みください。そのためには、主要業績指標を設定して、これをそれぞれの現場のスコアカードに全部落としていくのです。そして、どういう作業をどういう部門の人がやらなければならないかという計画を立て、細かいスプレッドシートで分析して、毎日ビジネスチェックをすることによって、企業再生を図ったのです。


経営者によるガバナンス

 従来の日本型の企業経営モデルの長所を残しながら、弱点を補強するための外部規律として市場主義経済によるガバナンスを導入することが中長期的な企業価値の向上のためには重要です。その意味では、日本型だとか米国型だとかいう論争をすることは無意味です。

 今までの日本の一番根本的な問題は、真の企業価値向上のための投資が何であるかについて、科学的、合理的に把握できずに、情緒的、刹那的投資を繰り返してきたことです。

 人事問題においても、前近代的な経営の問題点がたくさん見られました。企業職員の勤労意欲は、必ずしも金銭だけによるものではないとよく言われます。自分が行っている仕事がどれだけ社会のニーズを満たすものであるかという認識度が非常に重要であることは、我々も初めて発見しました。

 我々は小さな栃木県の旅館を9つぐらい再生しましたけれども、その従業員の労働は非常にきつくて、賃金は異常に安いのです。それにもかかわらず、「喜々として働く最大のインセンティブは何か」と、彼らと話し合ったところ、「泊まったお客さんから貰うお礼の言葉」が彼らのモラルアップの最大の要因であることがわかりました。

 よく見られた年功序列は、機会の平等を保証していないという点で大変問題がありました。もちろん学歴主義も、育った家庭経済の貧富の格差がそのまま企業の中に持ち込まれる部分がありますから、企業の社会的存在から考えても採用すべきではないと思いました。むしろ大企業は社内的に教育機会をつくってやるのが大切であると確信しています。


組織内での人事評価

 組織の中での評価だけでは市場の評価が見えなくなることも事実です。できる限り何らかの形で市場での評価が見られる形をとっていくことが日本の将来にはよいと思います。

 これを可能にする手段の一つは労働市場の流動化です。ところが、これが行き過ぎると、教育機会が損失するという矛盾に遭遇するのです。たとえば外資系の証券会社やインベストメント・バンカーなどは、日本の証券会社あたりから有能な人材を億とか何千万というお金で引き抜きます。しかし引き抜いて、使って、あと何をやっているかというと、金融技術が日進月歩でどんどん変わっていき、3〜4年たつと1億円で雇った人間の価値がなくなるのです。そうするとその社員を捨てるのです。そしてまた新しく学校から出て来た人間とか、日本の証券会社にいてそれを勉強していた人間を採用するのです。つまりチューインガムみたいに、使えるところだけ使って捨てることに気がついたのです。

 日本の企業の素晴らしいところ、たとえばトヨタがなぜ強いかは、あそこの教育制度にあるのです。中学、高校を出て来ただけの技術者の卵を寮に入れて徹底的に教育しています。これは大変なロイヤリティを育てます。あそこにいる限り、常に近代的な技術を教えてもらえ、時代に遅れないのです。

 しかし、労働市場は自由化されて、たとえばトヨタから技術を持って出た技術者はいますが、日本には一旦外に出た人を再訓練する社会組織が少ないのです。


日本での代替案

 ところが、アメリカにはそれがたくさんあるのです。アメリカではお金とやる気と体力があれば、夜の12時まで夜学で勉強ができるのです。アメリカでは50歳くらいの主婦が一番大学に行っています。そして美術なども含めて勉強しています。しかし、日本ではそういうものが充実しておらず、労働のモビリテイーを上げると犠牲者がいっぱい出ることに気がつきました。

 そういう意味では、代替案として、社内教育制度の樹立や社内人材の外部組織との交流を制度化することが大事ではないかということです。

 そういうもとで、労働時間1時間あたり、あるいは設備投資の1単位あたりの売上高というような、生産性を測定する細やかな手段が必要と思うわけです。生産性の向上によって、商品やサービスの収益性は当然向上します。企業の収益部分は、賃金の引き上げの他に、商品価格の引下げによる消費者の取り分の改善の原資になることもあるわけです。反対に、生産性の上昇を伴わない賃上げや商品価格の引き下げは、市場を歪曲して企業の存続を脅かすことになろうかと思います。

 経営というものは、労働者のモラルを向上させてさらなる生産性の向上を図るか、さもなくば賃下げによってコストを下げて収益を保持するか、というような課題を常に追っているということではないかと思います。


生産性に見合う賃金体系への移行

 スライド17の図は、業種別に見た労働生産性と賃金上昇率についての1970年から2000年までと1998年から2002年までの比較の表です。ここには金融、製造、小売等の数字が示されています。グラフの濃い線が1人あたりの賃金の伸びを示しており、薄い線が労働生産性の伸びを示しています。労働生産性の伸びに比例して賃金が伸びていたのは、たとえば金融業とか製造業です。ところが建設業、不動産業は、労働生産性は伸びていないのに賃金がやけに上がっている典型的な業界でした。

 日本がこの30年間のギャップをどう処理してきたかというと、値上げなのです。下の方のグラフで、濃いブルーが価格の上昇率を表しています。建設業が一番価格の上昇率が高いことがわかります。生産性の高かった製造業や金融業などはほとんど値上げをしていなかったこともわかります。つまり1970年からの30年間では、消費者を犠牲にするような社会構造をつくってきて、それが品格のある社会構造と言われたのです。

 ところが98年から2002年の間には、小泉さんを褒め上げるわけではありませんが、賃金の上昇率は生産性の上昇率の範囲になっています。建設業は相変わらずダメで生産性は上がっていませんが、賃金が下がっています。そして値下げも起きています。面白いのは鉱業が一番値下げしていることです。

 日本の社会もようやく生産性と賃金がある程度比例する社会になりつつあることがわかります。それに基づいて、プライシングが起こりつつあることが少し見えるということです。これをもっとハッキリ生産性の上昇と賃金の上昇、物価との関係がちゃんと成り立つようにしていかなければ、この国の将来はもっとコストアップになっていくと思います。


ROEと配分論

 1970年から2003年に向かって、日本のROEは一貫して下がり、かつて1970年には14%あったのが何と0.3%まで下がりました。日本はとにかく資本を無駄遣いしてきた典型的国家なのです。これではいけないということで、ようやく2003年から、いろいろな形での企業価値の上昇が起こって、現在では10.4%ぐらいまで期待されるようになってきました。そして見事に2003年を底に株が上がり始めており、株がいかに素直なインディケーターであるかを示しています。

 この頃気になるのは、富の配分論が非常に先行して、「平等性が侵される」という話が多いのですけれども、私はその前に「所得論が犠牲になっている」と言いたいのです。富を創っている人の平等性はあまり言わないで、受ける人の平等性ばかりを主張する意見が強過ぎると思います。配分の平等性が社会正義となることは決して悪いことではありませんが、「所得あっての配分」ということを忘れては、また以前の日本に戻るということを非常に恐れるわけです。


市場主義経済

 市場主義経済がいろんな意味で批判されたり勧められたりしていますが、市場主義の下ではすべてが計算通りに機能するわけではないことは、何度も申し上げた通りです。むしろこれを無理に機能させようとすると、先程申したような官僚主義や全体主義を生み出す原因になると思います。市場の生み出す揺れに苛立ってはいけないと思います。

 市場は、そのときどきの状況や力量、あるいはやる気等によって、常にある幅をもって揺れているのです。したがって、上にも下にもある程度の行き過ぎが伴うものだということを認識しておいたほうがいいと思います。それでも全体主義の過ちのように、一方向にまっしぐらに行ってしまって、もう戻れないというような最終的な破滅的崩壊に陥ることは、市場主義にはないことを歴史が示しているのです。

 わが国の歴史を振り返ると、戦前の官僚や軍閥による独りよがりの思い込みによって国民全員が悲惨な状況に陥ったのです。そのことを我々は絶対に忘れてはいけないし、それが常に国民の心に植え込まれているべきであると思います。

 市場主義においては、市場がそのように機能するように制度をつくる必要があると思います。市場主義はまさに不偏不党ですから、利権者や政治家からは疎まれるのですが、これはやむを得ないことです。市場主義は非常に中立性が高いので、既得権者はこの隙を突いて市場主義に反対します。

 これを減殺する一番の方法は、自由な資本移動を可能にする制度をつくっておくことです。全体主義や官僚主義では、情報を独占して資本の自由な流れを閉鎖するような行動をとります。なぜかというと、それが権力の源だからです。

 企業経営でこれをやったら、企業は死にます。市場主義では、市場が企業体や商品・サービスの存続を評価し、しかも価格を通して行うことによって事業体からはコストが査定されるメカニズムが働きます。即ち市場がコストを決めるということです。ここで初めて市場主義の有効性が生かされ、競争力が生み出されると言えます。


市場主義と品格

 市場主義経済とは、企業は何を作るべきか、どのようなサービスをすべきかを、国や官僚ではなく、消費者が決めることです。このことを心配して、品格論争とか倫理論争に血眼になっている人がいますが、市場に情報とか快楽とか利便性といった商品やサービスを求めることは、消費者のモラルの品格を構築するのです。したがって、市場そのものではなくて、それを求める人の人格を構築することが大事なのではないかと思うのです。

 たとえば、快楽とか遊戯ばかりを求めるような国民の国ではどうしようもないですが、それは市場経済という制度が間違っているのではないということに識者の方は気づいていただきたいと思うわけです。

 このままこの国が再び全体主義的、あるいは統制経済的な形に戻ることがあれば、この国の将来は多分ないと私は思います。社会主義のように生産手段を国有化したり、あるいは重商主義や帝国主義のように商業を国有化したりすることは、両方とも永続性はないということが歴史的に証明されています。

 このことは、人間社会では働く者の機会平等や自己実現の自由度こそが文化繁栄の基礎であることを証明していると思います。これを担保する民主主義あるいは市場主義は、文明の利器として確保されなければならないと思います。官僚主義の最大の問題点は、支配する者とされる者という構造の中に、支配する者の判断を評価したり抑制したりする機能がないことです。市場経済の中で、多くの人が利潤動機で経済活動をし、消費者の需要に最も適応できる行動をとる結果、発生する利潤の最大化が可能になるという動機は、官僚の権力による暴政を抑制する力を持っていると言えるのです。


変化に対応できるシステム

 技術の進歩とか、量から質へとか、物質的要求から精神的要求へとか、そういった社会的ニーズの変化に適応できるシステムも市場経済主義の特質であると思います。

 多くの窮境企業とは、この市場の変化に対応できずに、消費者にノーを突きつけられた企業です。また市場の持つ価格とかコストとか利潤といった尺度を経営判断にとり入れなかった最大の理由は、企業組織そのものが市場主義になっていなかったからだと思います。

 IT開発以来の技術革新とか、あるいは中国、インドといった新巨大市場の出現は、あまりにも急激でダイナミックな市場の変化をもたらしましたが、この変化に機敏に対応できなかった多くの日本の企業が失われた10年を生み出す結果になったと思います。

 商品やサービスといったアウトプットを市場ニーズに合わせていく必要があると同時に、それをつくり出すための資金、原材料、労働も市場ベースで調達されなければ、企業体の中に不均衡による過剰部分や非効率性を生み出してしまいます。


リレーションシップ資本主義の限界

 日本の債権債務の決定が、市場で決まるのではなくて、縁故あるいは系列を中心として、なおかつ不動産担保主義であったことは、今回の不況の原因の一つであったと判断されます。それは日本やドイツを戦後最大の成功に導いたと言われたリレーションシップ資本主義がもはや機能しなくなっていたことに気がつくのが遅れたということです。

 縁故主義金融は、経済学的にもあることはあるのですが、未開発国家に見られる現象なのです。わが国のような先進国で縁故経済が力を持っていると、今後の障害になりかねないと危惧しております。

 リレーションシップ・マネジメント、あるいはリレーションシップ資本主義の例はまだあります。ビジネスのプロジェクションより、「何々グループに帰属しているからお金を貸し出す」といった例は、毎日のように新聞に出ています。


合理的でないファイナンス

 あるいは日本の現状として、銀行が貸し出している債権が回収出来ないため、エクイティ・ファイナンスをやるといった本末転倒のファイナンスを堂々とやる一流企業があります。このことを我々はしっかりと見ていかなければいけないと思います。

 貸付金や出資金がプロジェクトに投下されるときにも、「いかなるリスクがあり、どういうリターンが期待されるかという合理的な判断を基に資金が動いてない」という例も見られます。

 銀行主導型の間接金融に偏重したことは、結局、市場に基づく直接金融の成長を阻害し、公のファイナンスから隠蔽された私的ファイナンスへ暴走してしまったという結果になっています。この隠蔽型経営によって、第三者による合理的なチェックが働かず、不況の種が水面下で育っていき、我々はそれを把握できなかったという反省があるわけです。

 厳しい会計監査制度の導入とか、株主権による経営チェック等が促進されつつあることは、この国の将来にとっては効率的経営の導入の道具になるであろうと期待はしております。


市場経済のインフラ未整備の例

 機構の仕事を通して幾つかのインフラ未整備の状況を身をもって経験したので、紹介します。

 まず、不動産の評価方法が非常に問題です。不動産がディスカウントキャッシュフローやフリーキャッシュフローの分析で査定されているケースはまずありません。また、工場ごと、あるいは工場の敷地1単位あたりの収益性等、数字でしっかりとらえている会社は我々のところにきた企業の中にはありませんでした。キャッシュフローを使った不動産資産の評価で、銀行や事業体と齟齬をきたした典型がダイエーの福岡球場でした。

 あの案件は非常に早い段階で私どものところにきましたが、これほどキャッシュフローと器の関係がよく証明されるケースはなかったと思います。私どもはあのドームを見て「これはコンクリートと鉄筋の塊であって、大した価値はない」と見ました。私どもの考えでは、ドームの中で何が行われて、どのくらいのキャッシュを生むのかが大事なのです。たとえば野球をやるのであれば、「野球はどれだけのバリューがあるのか。どういうキャッシュを生むのか」を分析したかったのです。その他、花の展示会とかで年間どれくらいのキャッシュを生むか、それによってあの鉄筋コンクリートのバリューが決まるというのが一貫した我々の考え方です。

 ところが、この考え方を当時の銀行も事業体もまったく理解できず、マスコミを使って産業再生機構を一方的に批判したのです。結果的に彼らは、あの案件を私どもに持ってくることをギブアップしてしまいました。そして、最後は皮肉なことですが、孫さんがそういう計算をして買ったわけです。

 不動産の評価は未だに難しい問題があります。不動産の場合、税金だと路線価格というのもありますが、これは全然違います。正常価格という言葉があったり、取引事例比較法と言って、近所で幾らだったから幾らだと評価する方法とか、あるいは再調達評価法というのもあります。インフレの時代ならこの評価法も有効なわけですが、デフレの日本経済で再調達評価法をやると大変なことになります。

 たとえば我々は東北でデパートを一つ再生しましたが、そのとき大きな金額の債権放棄を地元の銀行さんにお願いしたら「そんなに放棄しなければいけないのなら、もう一つ同じデパートを建ててみたらわかる。このくらいの金がかかるはずで、だからこのデパートはこのくらいの価値があるのだ」と言うわけです。しかし、「建ててもそのデパートは利益が出ないのだから価値がない」と言っても、それがわからないのです。

 こういう会話を繰り返すのは大変なことですが、「日本は独特だな」と痛切に感じさせられた例です。いずれにしても、ルールが一律でない社会で、市場ベースの自由経済を敢行しようとすると、社会的政治的問題に巻き込まれてしまい、合理性のない非効率的経済に迷い込んでしまうということがあります。このような制度の下では、うまくいっているときには国民全員が何となく満足していますが、一旦脱線すると、軌道回復する前に大混乱に陥ったり、復帰不可能という状態になるということです。


裁定者・仲介者としての産業再生機構

 最後に、それほどややこしい日本の中で、機構がある程度仕事ができたのは何だったのかという特性をまとめておきます。

 機構の最大の特徴は、私的整理機能であるにもかかわらず、当事者でない第三者として仲介・調整役をやったことです。我々はお金を貸していたわけでもないし、借りていたわけでもありません。

 アメリカの法的整理ではは、どちらかというと債務者や既存の経営者にやさしくなっています。それに対し、欧州や日本では、クレディター、債権者の権利が優先されているのです。アメリカの歴史を見ると面白いのですが、西部劇時代から「東でお金を借りて西に逃げる」という歴史がたくさんあったのです。そこで考えついたのは、徹底的に追い込むより、逃げられる前に「お前、貸していた金を8掛けにしてやるから、もっと頑張れ」という文化が出来たのです。したがって債務者を殺してしまうことをやらないのがアメリカの法的整理なのです。

 わが国では法的整理と私的整理の壁があり、非常に面白いのですが、法学者のみなさんの論理から壁が高いのです。それは「憲法上認められた平等性、衡平性の原則は侵してはいけない」という法学者の方々の強い意見なのです。したがって、偏頗弁済は認められません。しかし産業再生機構はこれを踏襲せず、私的整理でありながら金融債権しか対象にせず、商業債権、納入業者の方の債権などは優先弁済をしたということで、法理論的にはある意味で疑義とされる偏頗弁済をやりました。このやり方によって、私的整理の原則である100%同意による困難性とか遅延性を回避し、スピードを上げたということです。

 法的整理では、裁判所に行って裁判官の多数決でやるわけですが、商事債権者も債権を放棄させられます。たとえば我々はマツヤデンキを支援しましたが、マツヤデンキにはソニーや松下や三洋が納入していて、債権があるわけです。我々が「この債権は優先弁済するので商品は続けて納入してください」と言ったら「わかった。それでは納入を続ける」と仰って、一方では金融機関にだけ相当厳しい債権放棄をお願いしたわけです。

 このやり方はある弁護士さんが気がついて、産業債権機構法と日本の民事再生法を合体したような形で適用しました。これは大阪の裁判所だけが認めて、今のところ東京の裁判所の民事八部は必ずしも認めてはいません。そのように、日本では学者の論争が現実の世界の前に立ちふさがっているということがあります。我々の私的整理においては、我々が当事者ではない中立性、公平性を担保する機能を持っていたということで、事業の毀損や債権者間の利己主張をある程度調整、抑制できたということです。


産業再生機構設立後の状況変化

 我々は法的な機関でもないのに、非メイン銀行のどういうところに対しても、メインバンク同様、同じ一律割合の放棄をお願いしました。最終的には1件も拒否はありませんでしたが、実は表には語れないくらい大変なやり取りをしました。

 この作業を通して学んだ、今後の私的整理ガイドラインの中に、多数決制で何らかの処理ができないか、もっとスピードアップできないかと言ったいろいろな提案は未解決のまま残りました。

 ところで、以上述べたような事柄は、機構設立後3年の間、いろいろな課題に挑戦する過程で、社会の状況が変化してきました。これについてはスライド23をご覧ください。「ガバナンスの問題」「第三者主導型リストラクチャリングの活発化」「私的整理・法的整理の間を埋める機構」「活性化する投融資・資本市場」といった細かいアイテムが書いてあります。このように世の中がだんだん変わってきて、新しい局面の創出になりました。


21世紀型の企業モデル・経営モデルを目指して

 最後に、スライド24をご覧いただき、その紹介をして話を終わりたいと思います。

 新会社法が求める企業統治の強化とは、つまるところ、事業経営を担う経営者に対する最終の人事権を、企業価値の成績指標である財務数値を通して、株主からも債権者からも客観的に行うことだと思います。

 我々は、ヒト、モノ、ノウハウの面と、損益計算書やバランスシートに現われる事業のお金の面と、両方の言語を操れる新しい有能な世代へと、仕事を早くバトンタッチする必要があると思います。今や有能な若い世代が育っています。一橋を出られた方は別として、残念ながら日本のビジネススクールは、どうしてもアメリカのビジネススクールに及びません。これはどの国もそうなのでしょうが、今はかなり多くの若者がアメリカのビジネススクールに個人的にもチャレンジしているわけで、そういうところを卒業した優秀な人達がマーケットにいっぱいいます。こういう人達に早くバトンタッチする必要があります。

 そして先程申したように、ソフト化、サービス化、知的集約化に対応する新たな日本型人材モデルの構築が急がれていると思います。思い切った世代交代を敢行して、日本人ひとりひとりの競争力、生産性を向上させるしか繁栄の道は残っていないような気がします。

 改革を誹謗する人は、だいたい既存の体制の中の勝者か、フリーライダーたちであり、現体制を崩壊させることへの恐怖感で満たされているのです。社会条件の変化のスピードが速いので、そういう方々による体制のままでは、新社会への適者生存ができない恐れがあります。資本・人材について、市場を通した経営資源の再配分、あるいは最適配置機能を向上させて、競争モデルを前提としたセーフティネットの再計画を行う必要があります。その中で、官と民の役割分担の再定義を行い、官にはルール、デザインと審判役を、民には果敢な挑戦者精神を発揮して新分野へのチャレンジを行ってもらいたいと願っております。

 以上、早めに話をしましたので、おわかりにくい点があったかと思いますが、一応話を終わらせていただきまして、ご質問、ご異議等々あれば是非お話を承りたいと思います。ご静聴大変ありがとうございました。(拍手)


質疑応答

質 問

最初に『セーヴィング・キャピタリズム』を引用されて、ラジャンやジンガレスの恐れているところを話されました。ここでは、革新、改革に対してリレーションシップ・キャピタリズムの既得権益者と競争に負けた連中が結託して、これ以上の革新を遅らせようという動きがあちこちに表面化しつつあることに対して、警鐘を鳴らしています。斉藤社長はこういう大変なお仕事をされた経験に基づき、日本はそちらの方向に行くリスクが高いと感じておられるのではないかと、若干の懸念をお話の合間に感じました。

今日は非常に整然とした最新のビジネススクールの講義を聴いたような気がしますが、日本のビジネス社会の現在は、それと非常にかけ離れた存在であると何回もご指摘になっておられる。ほんとうに日本はそういう方向に向かっているのか。

それと、これだけ立派なお仕事をなさった上は、再生機構が解散された後も、日本版の立派なインベストメント・バンクを是非おつくりになって、いい加減な日本のビジネス社会を覚醒させていただきたいとお願いしたいんですけれども、いかがですか。

   
講 師

機構は3年ぐらい前に出来たわけですが、その数年前が一番厳しい状況だったと思います。機構が1年早くスタートしていたら、この国の窮境度合いも、あそこまでひどくなかったと思います。関係者が「これは非常にまずいぞ」と思っておられるときは、比較的素直に「厳しいことも受けざるを得ないな」という気運がありますが、今は幸か不幸か、株も上がってきて、新聞も何となく景気がいいようなことを書いています。

最初からホリエモンのインチキ振りだとか、村上さんが株主価値と企業価値をひっくるめた間違ったことを大きな声で言っているのを「この男は何言っているんだ」ぐらいのことはみんなわかっていたと思いますが、大半のジャーナリストを中心として、ちゃんとした分析ができておらず、混同していたと思うんですね。企業価値、市場主義についても、「村上みたいな者がそうなのだ」ということになってしまって、「即ち悪」という形になっていると思うんですね。彼は企業価値理論もよく理解していなかったし、企業価値を最大化するようなアクションは何もやっていなかったのです。

アメリカにもたくさんのプライベート・エクイティ・ファンドがありますが、私が機構入社後アメリカに最初に行って幾つかのファンドを回ったときに、是非産業再生機構と一緒に仕事をしたいという人がいました。そのときに彼が言った言葉は、「俺は日本に先に行って大成功していると言われるアメリカのファンドとは違う。俺たちは7年くらいから10年くらいかけて企業をちゃんと再生してから市場に戻すという仕事をやっている」ということでした。

いま現実にアメリカのプライベート・エクイティ・ファンドでは、ほとんど5年から7年かけて企業を育てます。そのために人材を派遣し、ビジネスモデルを変えて、充分企業価値を上げた上でIPOして、市場に戻して利益を得るということをやっています。これに比べて、たとえばホリエモンがやったことは、5切れのピザパイを10切れに切ると、パイのサイズが倍になるという手法です。世界にこんな国はありません。日本だけが、ダイリューションをやったら株が上がるという訳のわからない国なんです。彼らは司法や行政からパニッシュをくらう前に、本来市場からパニッシュをくらっていなければいけなかったと思うんです。

ところが、日本の市場は、パニッシュをくらわすだけのインテリジェンスもなく、そういう機能を果たしていません。放っておけば既得権者の世界に引き戻される恐れがあるので、常にジャーナリストの方とか行政の方とか、そういう方と話を続けていくべきだと思っております。

私は原書で読んでいませんが、セーヴィング・キャピタリズムもまさしくアメリカでそういう問題を提起しながら、必ずしも資本理論だけでは社会が落ち着かないことを問題提起してくれたのだと思います。だから皮肉なことに、リレーションシップ・キャピタリズムをエンジョイしたこの連中こそが、「既得権者になって再びリレーションシップ・キャピタリズムに戻ったらもうお終いだよ」と言っているのです。

しかし、日本の場合は、かなり簡単にリレーションシップ・キャピタリズムに戻り得ると思います。現実に、あんまり生々しいので私の立場では言えないんですけれども、幾つかの企業の増資や融資を見ていると、「何でこんなことが論理的に起こり得るのか」ということを堂々とやっているのです。こういうことを社会は許してはいけないと思うんですね。そういう会社はほんとうは潰すべきだと思います。

そのくらいの行動をみんなが声を上げてやる国になったら、リスクマネーが日本にドッと入って来て、我々の生活や技術進歩がもっと安定すると思います。現状は株価がどんどん下がっていますが、大半は日本からリスクマネーが出ていっているのです。

2003年、機構が出来た年に、私がワシントンのホワイトハウスに行って日本の構造問題を話したとき、ちょうどテーラーさんがいましたけれども、彼はしっかり問題をとらえていましたね。そして、日本の資本のアブュースあるいはインエフィシェンシーは、何としても直さなかったら大変だと言っていました。

我々は真剣にそれに取り組むべきだとほんとうに思いましたが、マスコミなんかも大いに伝えるべきだと思いますね。ただ、悲観ばかりしているわけではありません。若い人はけっこう理解しているし、そこに期待しています。

   
質 問

先程からのお話を伺いながら「リレーションシップ・バンキング」という言葉が私の頭をよぎりました。ジョン・テーラーも日本に来たときに、この問題を数回指摘しています。そういうことを踏まえて、金融庁はなぜ地方銀行にリレーションシップ・バンキングという強烈なご指導をなさったのか。またそれがどういう成果となっているのか、いないのか。そのへんを、機構の社長という立場を離れて、私見で結構ですから、オフレコでお話いただければ大変ありがたいと思います。

   
講 師

なかなかデリケートな質問ですね。お答えになるかどうかわかりませんが、現実的な例でお答えします。

熊本は私の出身地ですが、熊本の産交バスというバス会社の支援をしました。そこには肥後銀行という銀行がありますが、この銀行はダイヤモンドや東洋経済のランク付けではトップ・テンぐらいに入る安田系の銀行です。もう一つ熊本ファミリー銀行という昔の相互銀行が集まった銀行があります。熊本ファミリー銀行は、確か2回か3回業務改善命令を受け、頭取は日銀からの天下りで毎年のように代わります。

私はこの仕事で熊本県庁へ行きました。九州産交はバス事業で、公的な仕事ですから、県知事以下から「何とかこれを支援してくれ」と言われ、「やりましょう」ということで話していました。そのときに県庁のみなさんは「肥後銀行はけしからん。産交バスに1銭も金を貸してない。それに比べて熊本ファミリーは地元のことを考えるいい銀行だ」と仰るわけです。

これが日本の現状だと思います。私は、金融庁がどうしてああいう言葉を使ってああいう指導をしたか、よくわかりません。けれども、私どもは、たまたま国っぽいところがあるものですから「あいつらは変人だ」「気違いだ」と言われながらもグッとやれましたが、民間ベースだけでやっていくには大変なアゲンストの風が吹くのです。

先ほど、私が『言論NPO』という雑誌に書いた地方論を読んでいた方がおられ、びっくりしたのですけれども、地方は非常に力を持っているんですね。地方は7人とか8人ぐらいで動いているのです。たとえば福岡8人衆、熊本5人衆といった具合です。銀行、バス、電力、放送、新聞といったところの方ですが、そういう人達が集まって、この方々が何でも決めているのです。

そこから代議士先生が出ておられます。代議士先生は東京では金バッジで大変威張っておられますけれども、地元へ行かれると全然力はないのです。地方の8人衆が力を持っていて、全部決めるのです。この人達を怒らせたら選挙に落ちます。そして地元のそういう方々が「この企業を潰すな。もう何年も続いているんだ」というように強い発言力を持っていて、先程話したような査定とか企業価値とかいった論争なんかまったくされないのです。

これもオフレコでお願いしたいんですけれども、たとえば、まちづくり3法が突然出てきましたが、そのきっかけは福島県と熊本県の大型店舗の出現でした。田んぼを潰して郊外に大型店舗が進出すると、我々のような定年退職した人間が奥さんに「あなた、どこか行くところないの?」と言われ、朝10時くらいから車でそこに行くのです。そこで映画を見たり、喫茶店に入ったり、本屋に寄ったりして、夕方5時くらいまで居られる楽しい街になっているのです。みんながだんだんそちらへ行くようになるので、商工会議所を中心に「何とかしなければ街が死んでしまう」ということになり、大型店舗の規制が行われてしまったのです。これは逆流ですよね。

私も田んぼや畑が潰されてしまい、「そういうところに畑地が貸し出されるのはどうかな」と思いました。しかし、なぜそういうことが起こるのかをよく考えると、農業には特区では認められていますが、未だに株式会社化は認められていません。農家の人は草をはやしていても農業の補助金がもらえるわけです。コメを作っていなくても「コメの畑です」というだけでもらえますから、田んぼは売らないで、補助金をもらうためにだけ持っているのです。そして、「ただ補助金だけを貰うくらいなら、家賃を稼ぐか」ということになり、大型店舗に貸すのです。すると現金が入ってくるので、畑が潰されていくわけです。

ということで、潰している大型店舗の人が悪いのではなくて、そういう制度をつくってしまって、「進出するやつが悪い」といっているのです。「熊本の街の外に行くのでけしからん」と仰るので、私は「郊外にあるようなものは熊本市内の真ん中にもある。それは喫茶店、映画館、本屋、スポーツクラブなどである。したがって、駐車場などをきれいに整理して、おじいちゃん、おばあちゃんが街の真ん中に来るようにしたらいいじゃないか。東京から来た資本と競争したらどうだ」と言ったのです。そうすると答えは「中では喧嘩していて仲が悪いんだ」と仰るわけですよ(笑)。

結局、その先、県知事や政治家を使って「まちづくり3法」という国交省の法律をつくったのです。そして予算が数百億付いて、またそういう金の受渡しをやっているのです。国交省に言わせれば「これは国民が選んだ道なのだ。一旦大型店舗法を自由化してやったのに、地元から『こういうものはたまらない』という声があがったから、行政はそれを受けざるを得なかった」ということです。人がやったことの後評価をするのはできますが、自分が当事者になって、地元の方と話してやるのはほんとうに大変なのです。

答えになっていないんですけども、実は進歩がないということで、申し訳ございません。私どもはいい経験をしました。政治家の先生は地方の活性化を唱え、「お前は地方を犠牲にして将来の日本があると思うか?」という言葉を使います。それに対して我々は「地方をネグレクトいるのではなくて、地方には地方の生き方があるのではないでしょうか。そのためには大きな転換をやるべきだ」という主張で論争を展開しながらやらせていただきました。

相当生意気だと思われたと思いますけれども、常に国民の目線に立つことをやったつもりです。先生方に対して「それでは納税者から見たら、先生の仰るようにやった方が本当に国民全部にとっていいでしょうか。1地区に1企業を赤字を出したまま置いておくことを北海道から沖縄までの納税者の方々が望んでおられるんでしょうか。我々にはどうしてもそう思えないので、この店は閉鎖させていただきます」というような話を繰り返しました。相当怒られましたけれども、最終的には認めてもらったという経験はあります。答えになっていなくて済みません。

   
質問

私はある金融機関の最下層の中間管理職をやっている40代の者です。

3点程伺いたいと思います。1点目は、人事制度と社内教育の問題ですが、斉藤社長のご意見によると、能力や実績と報酬が連動する形ということで、業績評価的なものを感じます。一方、東京大学の高橋伸夫教授は、業績連動型の報酬制度を一切否定しており、日本では年功序列型がいいと言っています。ただ、その根底では、若い層に対する教育とか、人事ローテーションによる経験を積ませることを非常に重視しているので、教育の重要性については両者一致するところがあると思います。人事制度という意味ではまったく違いますが、この点をどうお考えになるかということです。

2点目はコア・コンピタンスのことです。これは以前、一橋の社会学部の一条一生教授が『コア・コンピタンス経営』というアメリカの学者の本を翻訳されたことで広まったと思います。私は先日、一条先生のセミナーを受講しました。アメリカのMBAが非常に優れているというお話に対して、一条先生はヨーロッパ型のMBAを推奨していました。そこには明らかな違いがあるそうですが、ヨーロッパ型のMBAについどうお考えでしょうか。

3点目は、ディップ・ファイナンスの問題点について、お聞かせいただけるようでしたらお願いしたいと思います。

   
講 師

人事評価について、年功序列がいいか、業績スライドがいいかは、非常に難しい問題であり、業種によっても違うと思います。私は40年くらいサラリーマンをやっていて、大学の先生とはちょっと考え方が違うと思います。大学もコンサーバティブなところだと思いますが、昔、先輩をどういうことでリスペクトしたかというと、たとえば過去の経験が頭にあって、「こういうときはこうする、ああする」「こういうときはこうだったよ」とか、「このときは株が上がったぞ」とか「下がったぞ」とか、いろんなことをご存じだからでした。そういうことから常に先生であったのです。

ところが、今やそういう情報について、先生に聞かなくても、グーグルをたたけば世界のデータが時間的にもさかのぼって十分、分析されて出てくる時代です。こういう情報源によって、中学生か高校生のちょっと賢いぐらいの人と、50歳60歳くらいの実務経験が豊富な人の情報が匹敵するような時代になっていると思います。昔は、そこにものすごいギャップがありました。年功序列制はギャップを利用した制度です。だから私も部下を使っていたときがあるし、使う方としては年功序列制度は誰も文句を言わないので楽でした。「何月何日生まれ?」と言ってやるだけでいい、実に簡単な経営なのです。

この簡単な経営で、ほんとうに国際競争に打ち勝つことができるだろうかということです。経営の安定性という点では優れた面があることは否定いたしません。しかし、若者のドライビングパワーとか、パフォーマンスを上げたいという欲望を正しく評価することはもっと大切だと思います。

私はアメリカで1200人くらいのアメリカ人を使っていましたけれども、一番大変な仕事はボーナスを決めて払うことでした。そのあと1ヵ月間、まったく仕事ができませんでした。彼らは「俺のボーナスはおかしい。俺はあいつよりもこういうふうに働いている」とか、ものすごく細かいデータを作って持ってきて、「あいつは幾らもらったらしいけど、あれより俺は2割多いはずだ」とか言ってくるからです。しかし、これを怒ってはいけないのです。「なるほど、君はそんなに働いていたんだ。知らなかったよ。次回は考えなきゃいけないね」とか「だけど、そうやって働いたものが全然バリューを生んでいないよ」とか、そういう会話を1ヵ月くらいずっと続けることが大事なのです。

評価に対しては、それくらい強い関心があり、ある意味ではモラル・インセンティブが高いのです。アメリカはこれを使った経営と秩序を使った経営の競争だと思うのです。

私は若者をエンカレッジし、リスクをとらない限り、リターンはないと思います。ここがトレードオフすることをほとんどの人が認めると思います。私は自分では金融業しかやっていませんが、再生機構でマニュファクチャーもやってみて思ったのは、「リスクとは何だ」をしっかりとらえる能力が必要だということです。そして、とらえたリスクは自分でコントロールし、モニターする技能とシステムや人材をしっかり持っておくことです。普通とれないリスクまでとれる技能があるところが勝つし、結局それだけ利益も大きいのです。

ここはオフレコにしてほしいですが、アメリカの証券会社もたくさんあり、ゴールドマン・サックスはとんでもない利益を出します。私はそのやり方は賛成ではないけれども、少なくともリスクのディフニションのとりかたとコントロールパワーは絶対持っているのです。今度、そこからポールソンが政府に入りましたが、我々はそういう所と戦っていかなければならないのです。彼らに服従するだけならば、粛々と「年功序列で楽しく」ということでいいのかもしれませんけれども、日本の将来は非常に暗いと思いますね。そういう意味で、正しい評価制度が大事だと思います。

ヨーロッパのMBAについては、大変申し訳ありませんが、私はロンドン・エコノミック・スクールぐらいしか知らず、スイスの勉強はしていませんから、お答えできません。

今日スキップしてしまったディップ・ファイナンスは非常に大事なことです。これは法的整理にいけば認められており、ディップ・ファイナンスを受けて再び窮境に陥ったとき、法的整理において優先弁済権を与えられています。ご存知のようにアメリカではディップ・ファイナンスが一番おいしいローンなんですね。なぜなら、窮境に陥った会社は、再生機構のようなプライベート・エクイティ・ファンドがきれいに洗っていますから、リスクが相当小さいのです。だけど、インフェリオリティ(劣後性)が非常にあるので、「普通50ベーシスのところ、100ベーシス乗せます」と言ってとれるわけです。だから、これほどリスク・リターンのはっきりした面白いローンはないということで、アメリカの銀行はディップ・ファイナンスを重視し、むしろ再生が促進されることもあるのです。そして、そのバックには優先弁済権がついているのですが、日本では私的整理でやったらまだ優先弁済権は認められていません。したがって、この制度は変える必要があると思います。産業再生機構はなぜできたのかというと、法律が、漠とした表現ですが、弁済権があると解釈されるような書き方だったので、「他の銀行と一緒に担保をとってやればいい」ということで、財務省の許可をいただいてやったのです。

   
質問

私は斉藤さんと同じように長い間証券界にいましたが、今日のお話を伺って再生機構は想像できないような成功を収めたという印象を受けました。野村證券という、人材をたくさん抱えた立派な証券会社の出身の方がやられたからできたのかなという感じがしました。

しかし、8人衆だとか5人衆だとかいう話になって、機構そのものが非常に難しい中で仕事をされてきたこともわかりました。その難しい構造がリレーションシップ・ソーシャリズムだと思います。最初の質問の中に、再生機構の後、インベストメント・バンカーをされたらどうかという質問がありました。私は、斉藤さんはセミガバメントだからできた面があり、プライベート・インベストメント・バンカーの仕事に代わられたとしても、3日で潰されちゃうんじゃないかと思います。ゴールドマンサックスができたようなことはできない。熊本でも福岡でも、日本全部にかぶさっている見えないグラス・シーリングを非常に感じるわけです。

そういう意味で言えば、再生機構は奇跡的なことをされたと思います。それがなくなってしまうのはほんとうに残念で、小泉さんに提案して、同じような組織を残したらどうかと思います。日本ではプライベートではうまくいかないと思います。思い切って外国人が日本に入れるようなシステムをつくるか、日本をセミ合衆国みたいな形に恰好を崩していくか、そういうビジョンが必要です。日本の場合、トップから始まって、至るところが典型的なリレーションシップ・ソーシャリズムだと思います。

社長はあと2年か3年かおやりになるわけで、小泉さんは辞めようとしていますけれども、小泉内閣に何か提案みたいなことを考えられているのでしょうか。

   
講 師

身に余るお言葉で大変光栄ですが、最初にみなさんが思われたより機構に仕事ができたかもしれないのは、一つは運がよかったということがあります。それから、国っぽいところがあって、民間ではできないであろうこともできたことです。案件にしても、我々のほうから案件をとりに行ったケースはありませんが、銀行も仕方なく「行かざるを得ないか」という気持ちになったということもあります。

一番恵まれたのは部下です。谷垣大臣という全然知らない人に呼びつけられて、「機構をやれ」と要請されて、「誰もやる人かいないんですか?」「誰もやる人がいないんだ」というやり取りがあって、世の中にお返しすることもあってよいと思ったんで、「奉仕ですね」ということでお受けしたのです。ところが私が席についた途端に2〜30人の若者が「奉仕に来た」と集まって来ました。みんな給料は3分の1とか5分の1とか、ひどいのは10分の1くらいになるし、最初のうち仕事は徹夜につぐ徹夜で、土日も夏休み冬休みもありません。

新聞では「下らない組織が出来た」「ファンド屋の集まりじゃないか」とかいろいろ悪口を書かれましたが、それでも平然として、一人一人が案件をこなし、「ほんとうに彼らはプロだな」と思いました。私は別にアメリカのビジネススクールからお金をもらっているわけではありませんが、アメリカのビジネススクールを出た人、日本の銀行から飛び出してビジネススクールに行き、アメリカの会社で働いて成功していた人も多く、いろんなライセンスを持っておられる方もが多いです。

日本の国家公務員は決して給料は高くはありませんが、それでもみんな熱い思いや志で集まって来たのです。私は日本の若者の新しい意味の愛国主義を見たという思いでした。それは変な意味の愛国主義ではなくて、「自分たちの住む国、社会を自分たちで建て直すことができない民族はおかしい」という単純な考えです。日本でもマニュファクチャーの世界のトヨタ自動車はすごいとか、ITはすごいとか言われているのに、金融の再生については、韓国でもマレーシアでもスウェーデンでもイギリスでもアメリカでも自分たちでやっているのに、日本だけがどうして自分でできないのかということです。そういう意味で、これはまさしく「イッツ・シェイム」という思いの連中の集まりです。人から何と言われようが、正しいことをしていると思っていますし、全員お金を儲けようというようなインセンティブでは働いていないんです。非常に気持ちのいい組織であったということで、先ず部下に一番感謝しています。

それをサポートしていただいた、各省から出てきた課長にもならないような若手の人達も、ほとんど全員ビジネススクールを出ていますが、日本にはそういう人達が絶対必要だと思います。こうして経産省、財務省、金融庁、国交省といったいろんな省から集まって来た人達が非常に幅のある法律を作りました。普通は幅のある法律をつくっても、役所が政省令で動けないくらい埋めてしまうのです。しかし、「政省令をくっつけてしまったら斉藤たちは動けないだろう」ということで、法律のプロとしてはどうかと思うけれども、政省令は極力少なくしてやらせようとしてくれました。

ということで、法律には非常に幅があって、我々には委員会があり、形の上ではその委員会の上にレポートラインとして小泉総理大臣もいたのですが、仮に小泉さんがケチをつけてきても、委員会が「ノー」と拒否できるようになっていました。こういうものをつくったのも官僚ですが、官僚が悪いのは制度であって、優秀な素晴らしい官僚の若者も一杯いるのです。今でも集まりますけれども、私はそういう人達をエンカレッジしていけば、素晴らしい社会が出来ると思います。そういう感覚を持っている現場の人間にしっかりミッションを与えてあげることです。そして我々歳をとった人間ができることは、ミッションをしっかり定義づけてあげて、何があっても絶対にブレないようにして、最悪の場合は自分が一番先頭に出て行って球を受けるということさえやれば、彼らはきちっとワークするのです。

それから、機構の期間としてサンセットルールが入っていて、これも官吏の人が作ったのですが、5年で解散するということで、私どもはこれが非常にいいと思っています。今まではこういう組織を作ったら大体だらだら続くようなことが多いのです。自分たちで解散するという組織は初めて見たので、「何という困ったやつらだ」という感じなのです。我々の感覚では、案件がなくなったら居てはいけないという感覚ですし、「半分民業を圧迫しているのではないか」という気持ちが常にあるのです。これ以上やってはいけない、ここまではやろうということを常に意識しているのです。マスコミ的には、「ほんとうは再生していない」とかいう記事が出たりしますが、我々は構っていません。我々はあと7件の案件について年内に目処がついたら、早く解散したいと思っています。大変身に余るお言葉をいろいろいただきましたけれども、若者にチャンスを与えて、老人は去るのみというのが一番いいと思っています(笑)。


講師略歴

斉藤 惇

株式会社産業再生機構代表取締役社長

1939年10月18日 熊本県生まれ
1963年 3月 慶應義塾大学商学部卒業
     4月 野村證券株式会社入社、公社債部長などを歴任
1988年12月 同社常務取締役 資金債券部、開発商品本部担当
1990年 6月 同社専務取締役 資金債券部、開発商品本部担当
1995年 6月 同社副社長
1998年10月 スミセイ投資顧問株式会社 顧問
1999年 1月 住友ライフ・インベストメント株式会社 社長兼CEOに就任
2002年6月 同社会長
2003年4月より現職

野村證券では、債券、株式、転換社債、デリバティブなどの商品、ニューヨークにおける日本企業の株式販売、ファイナンス、本社企画、財務、人事など、ほとんどの業務を担当。特に、1980年代後半、米国における不良債権の証券化に積極的に取り組み、多くのビルディングの証券化やインデックス・ファンドなどの商品開発・販売に従事した。
1995年当時から経団連における「コーポレート・ガバナンス」海外調査委員長として、「商事法務」などにいくつかの寄稿をした。

主な著書
「兜町からウォール街−汗と涙のグローバリゼーション」金融ファクシミリ新聞社、「夢を託す」東洋経済新報社など