フランドル(1)ルーベンス ― 《戦争の惨禍の寓意》を中心に

 

講師 学習院大学文学部哲学科教授

高橋 裕子 

平成19年2月20日 於:如水会館

【無断転記転載を禁ず】

社団法人 如 水 会

責任編集

 




◆内容目次

はじめに

今日のメインテーマ

「戦争の惨禍の寓意」を主役に

厳しい時代背景

17世紀芸術にただようオペラ的イメージ

ルーベンスのオペラティック絵画

画家=外交官の成功例

教養と語学

ルーベンスの特色のすべてを反映した「戦争の惨禍の寓意」

ルーベンスの生い立ち

法律家の父

両親のドイツ亡命中の誕生

カトリックの画家として大成

取り残された南ネーデルラント

オランダの隆昌とスペインの衰退

ルーベンス:バロック代表画家への道

貴族の小姓を経て画家修業

イタリア美術に開眼

イタリアを見ずに画家と言うなかれ

マントヴァ公の宮廷画家となる

給料の払いは悪いが自由度の大きい職務

ローマでイタリア人画家と競う

思いがけずに離れたイタリア

母危篤の知らせに故郷に帰る

母国で活動の機会を見出す

スペインとオランダの休戦条約で活気が戻る

「戦争の惨禍の寓意」

「自画像」

初期と後期の「パリスの審判」

ローマで描いて納品を断られた絵

スタイルの完成

イタリア時代末期に自己のスタイルを確立

バロックの天井画

バロック絵画を円熟に導く

カラヴァッジオを模写

古代彫刻の研究

執政夫妻の宮廷画家となる

イサベラ・ブラントと結婚

画家としての地歩を固める

「キリスト昇架」

カトリック勝利の雰囲気

プロモーションに長けていた

版画の利用

マリー・ド・メディシスからも受注

注文主の生涯を華やかに描く寓意画

外交官としても才能を発揮

「戦争の惨禍」の寓意を読む

ヨーロッパに平和を

宮廷画家の立場を外交に利用

チャールズ1世に絵をプレゼント

寓意画とは何か

観念の擬人化

マルスとミネルヴァの攻防

豊かな肉体で描かれた観念の擬人像

ルーベンス晩年10年の作品

16歳のエレーヌと結婚

「戦争の惨禍の寓意」の制作

平和への希求

戦いの神マルスを引き留めようとするヴィーナス

戦争のもたらす災い

マルスが破壊する文化

別な企画にも描かれたヤヌスの神殿

寓意を凝らす

典型的な寓意画の例

ドラマ性の濃いルーベンスの寓意画

神話からヒントを得たストーリー

先人たちの作品の巧みな応用

現代の寓意画、ピカソの「ゲルニカ」

戦争反対を絵画で表現する

「戦争の惨禍」を意識していたピカソ

絵画で平和への祈念を表現

講師略歴


はじめに

 ご紹介ありがとうございました。いまスライドのタイトルに「ルーベンス」と書いてあります。今日のプリントの最後のところに参考文献として挙げたこの本には、「リュベンス」(クリスティン・ローゼ・ベルキン著、高橋裕子訳、岩波書店)と書かれています。日本でいろんな外国語の人名、地名を書くときには、現地読みを標準にしているので、本日のお話の主人公が活動したオランダ語圏のベルギー、北部のベルギーでの発音が「リュベンス」であることから、活字にするときには、特に学術的な性格のものでは「リュベンス」としています。普通は英語読みで広く知られていることから「ルーベンス」と書くように使い分けております。

 今日はバロック期あるいは17世紀のヨーロッパ美術ということで、既に皆様は何回か講義をお聞きになっていらっしゃるので、私にとっては大変話がしやすい気がします。私のお話はバロック絵画の代表者と言われるルーベンスのお話です。

今日のメインテーマ

「戦争の惨禍の寓意」を主役に

 まず、今日は最初に30分ほど、お配りしたプリントの年表を見ながらこの画家の歩みをたどり、それからこちらに用意した映像を見ながら話を続けていきたいと思っています。お手許にお配りしたプリントに、今日お話したいことが簡単に要約して書いてあります。その最初に「戦争の惨禍の寓意」という題名がつけてあります。これは単に「戦争の惨禍」と呼ばれることもあります。いずれにしても、この時代の絵には一般に作者が付けた題名はありません。ですから後世の人間が適当に呼んでいます。その中で、この絵にはこんな題が付いているということです。今日はこの絵を中心に後半のお話を進めていきます。この絵がルーベンスという画家の特性を非常によく表しているとともに、彼が活躍した時代を象徴するような作品なので、本日取り上げることにいたしました。

厳しい時代背景

 皆様はルーベンスという画家の名前を聞いたときに、どういうイメージをお持ちになるか。太った女性を描いた人だということは、大体誰でも思い出されるようですが、基本的には、明るく豊かで、大変楽観的、ときに能天気な絵であるとお考えになる方もあるかも知れません。しかしながら、我々は、彼が生きた時代が大変に厳しい時代であったこと、彼は生まれたときから時代の厳しい運命に伴われていたことを、彼の作品を見るときに忘れてはならないと思うのですね。

17世紀芸術にただようオペラ的イメージ

 ところで、彼の作品を論ずる前に、先ほどルーベンスが代表的存在だと申し上げた「バロック」美術について簡単に復習してみたいと思います。ご存じと思いますが、オペラがこの時代、つまり17世紀に生まれた芸術形式です。当時のオペラは、たとえばヴェルディによる19世紀のオペラとはずいぶん違うと思いますけれども、我々が一般に「オペラ」と言う言葉から想起するのは、非常に華やかで、ドラマティックで、ちょっと大げさであると言うイメージではないでしょうか。これは17世紀の芸術全体に多かれ少なかれ言えると思います。

ルーベンスのオペラティック絵画

 ルーベンスはフランドル人ですが、イタリアに行っていたことがあります。まだ初期の活動の段階でしたが、イタリアのマントヴァというというところで宮廷に職を得ました。そこでは、おりしもモンテヴェルディという作曲家が最初のオペラを上演していたのですね。ルーベンスはそれを聴いたり観たりしたかも知れません。とにかくオペラという芸術が持っている華やかさ、劇的な迫力、そういったものを絵画で表現しているのがルーベンスではないか。非常に荒っぽく言えばそういう感じがします。

画家=外交官の成功例

 そして今日見ていただく「戦争の惨禍の寓意」は、そういう意味で大変オペラティックな絵であると言えるかもしれません。さらにこの絵がこの画家の特色をよく表しているのは、この画家は外交官でもあったことにもよると言えます。ここで外交官というのは、「画家でありながら外交官だった」と受け取るよりも、「画家だったから外交活動もできた」と理解すべきでしょう。当時、有名な画家はヨーロッパ各国の宮廷で大切に迎えられました。ですから、そのような立場を利用すれば、国と国との間の内密の交渉などにも携われます。正式な外交官が行く前に、根回しのようなことにするのに、ある宮廷から別の宮廷に画家を送り込むことが非常に有効であったわけです。

教養と語学

 そのようなわけで、宮廷画家が外交活動もしている。しかし、有名な画家なら誰でもいいかというと、そうではなくて、彼が外交官としても成功したのは、非常な教養人で、しかも語学に堪能であったということもあります。この人の場合は、母国語はベルギーの北半分で使われているオランダ語ですが、彼が生まれ育ったのはドイツですから、ドイツ語も出来たはずです。長じてからはイタリアに10年近く住んでおり、その後もイタリア語で国際的にいろんな人と文通をしています。当時はイタリア語がいまの英語のようにヨーロッパの共通語でありました。またフランス語で書いた手紙も残っています。フランス語も出来たみたいですね。それからこの人は、当時の画家としては珍しくラテン語学校に行っています。つまり大学準備教育を受けているのです。ということは、ラテン語で書かれた古典文学にも造詣が深かった。つまり、こうした語学力、文学的な教養があったので、どこに行っても学者あるいは文化人達と対等に話をすることができたようです。

ルーベンスの特色のすべてを反映した「戦争の惨禍の寓意」

 そして今日、話の後半の中心的作品としてじっくり見る「戦争の惨禍の寓意」には、彼のそうした特色が全部反映しています。この作品は、彼が外交官として終生願っていた「ヨーロッパの平和」、それがなかなか確立できないというもどかしさを絵にしたものと言えましょう。そこに古代の文学、神話、古代やルネサンスの美術、そういったものについての知識を盛り込んで、この画家独自の大変劇的な表現力と豊かな色彩性をもって、悲劇的な内容ながら見るからに魅力的な絵を生み出したのです。

ルーベンスの生い立ち

法律家の父

 さて、この絵は1638年の作ですので、1640年に63歳を目前にして亡くなったルーベンスの晩年の作品ですが、そこに至るまでの彼の歩みをざっと見る必要があるかと思います。まずルーベンスは、1577年6月28日に、ドイツ西部のジーゲンというところで生まれ、ペーテル・パウル・ルーベンス(オランダ語ではペーテル・パウル・リュベンス)と名付けられました。この人のお父さんのヤン・ルーベンスという人は、イタリアで法律の学位をとった法律家で、帰国後はアントウェルペン(英語読みではアントワープ)市の要職に就いていました。

両親のドイツ亡命中の誕生

 しかし、彼はカルヴァン派信仰をもっていたらしく、プロテスタントとカトリックの対立が非常に厳しくなったのが16世紀後半のこの地方でした。それで、カルヴァン派信仰を奉じていると身の危険があるということで、ヤン・リュベンスは、ペーテル・パウルが生まれる10年ほど前の1568年に妻と子どもを連れてプロテスタント勢力が比較的強いドイツに逃げていたわけです。そこでさらに子どもが生まれて、一番末がペーテル・パウルだったのです。

 いろいろ波瀾があるのですけれども、とにかくドイツのジーゲンで生まれた翌年に一家はケルンに移りました。子供時代に、兄のフィリプスとともに、学者であるお父さんからまず古典語(つまりギリシア語やラテン語)と、古典文学の手ほどきを受けたようです。フィリプスはのちに古典学者になりますが、1610年代に若くして亡くなりました。ルーベンスが10歳のときに父親が亡くなってしまうので、残された母と子どもたちは、アントウェルペンに戻ってカトリック教会に復帰しています。

カトリックの画家として大成

 子供のときはおそらくプロテスタントして洗礼を受けたルーベンスは、長じてはカトリック教会のプロパガンダというのでしょうか、カトリック教会の勝利を誇示するような宗教画を描く存在になるわけです。ある種の運命の皮肉のようなところがあります。歴史的に言うと、ちょっと戻りますけれども、プリントに「1581年、北ネーデルラント(オランダ)が宗主国スペインからの独立を宣言、独立戦争へ」とあります。ネーデルラントという地域の北半分が現在のオランダ、南半分がベルギーになったのです。

取り残された南ネーデルラント

 この地を舞台にして、16世紀半ばからプロテスタントとカトリックの勢力争いが大変に激しくなっていました。これはもちろん宗教的なことだけではなく、政治的な側面もあって、遂にネーデルラントの北半分が、この地域を支配していたカトリックのスペインに反抗して独立を宣言するわけです。そして、その地域――日本で「オランダ」と呼んでいる地域ですけれども――が完全に独立を認められたのは70年近く後のことでした。公式に認められるのが1648年、つまり三十年戦争、これはドイツを舞台にした戦争ですが、それを終わらせる国際会議が行われたとき、一緒にオランダの問題も論じられ、そこで初めて正式な独立が認められるのです。

オランダの隆昌とスペインの衰退

 しかしながら、17世紀の初めからは、事実上スペインとしては、オランダの独立を認めざるを得ない情勢になっていました。オランダは対外的な経済活動を積極的に行って、老大国スペインの衰退を尻目に、まだ公式には独立を果たしていない小国ながら、日本にもやって来るとか、短期間に急成長を遂げるわけですね。そして独自の美術も生み出したことは、この講座でもいずれお話があると思います。


ルーベンス:バロック代表画家への道

貴族の小姓を経て画家修業

 このようにスペインから独立して、その地位を高めていったオランダの陰に残されたのが、南ネーデルラントあるいはスペイン領ネーデルラント、即ちルーベンスの母国です。そういう背景をご記憶いただいて、年表を見ると、1590年のところで「ペーテル・パウルは生活のためラテン語学校を中退、貴族の小姓を経て画家修業」とあります。お母さんのマリアという人は、ラテン語学校に行かせることで、当然その先、大学に行って、やがて法律家とか医師とか神学者、あるいは古典文学を研究して大学の先生になる選択肢も含めて、エリートとしての将来を用意していたわけです。お兄さんのフィリプスのほうは、そのような路線を歩んだのですけれども、夫を亡くして、まだ小さな子どもたちを抱えて生活は余り豊かではない。もともと良い家柄の出身だったと思いますけれども、経済的には決して楽ではない。遂に末っ子のペーテル・パウルは、これ以上学校に行けないということになります。

イタリア美術に開眼

 そしてある貴族のお小姓になる。しかし、どうもそこは気に入らない。自分のほんとうにやりたいものは何かというと、どうも画家であると自覚して、それから次々と3人の先生につくのですけれども、最後の先生であり、イタリアで勉強し、それなりの名声を得ていたオットー・ファン・フェーンから、古典文学とかイタリア美術について教えられて、イタリア美術への関心を大いに刺激されたようです。そして1598年に、この先生の下で一人前と認められ、画家組合に加入しました。これは独り立ちしたという意味です。しかし、その後も先生の下で助手を務めて、2年後の1600年にイタリアに向かいます。

イタリアを見ずに画家と言うなかれ

マントヴァ公の宮廷画家となる

 当時の風潮は、アルプスの北方の画家や彫刻家が大成しようと思ったらイタリアを見なければならない、というものでした。イタリアはルネサンスが栄えた舞台ですし、その前にさらに古代ローマの遺産があるわけですね。ですから、そうしたものを見て、そこから学ぶことなしには決して偉大な芸術家にはなれないのだ、という考え方が16世紀以来根強くあったわけです。そこでペーテル・パウルも1600年、23歳のときにイタリアに旅立ちます。そして幸運にもイタリアに行くなり単に留学生というのではなくて、画家として仕事をすることができました。

給料の払いは悪いが自由度の大きい職務

 ルーベンスは、マントヴァ公の宮廷で君主の命令で絵を描く職を得たのです。しかも、マントヴァ公と言う人は、よかったというか悪かったというか、あんまり給料の支払いをきちんとしてくれる君主ではなかったらしくて、その代わり、どこへでも行って、自分の好きなことをしていても良いという主人だったらしいのです。そこで、宮廷に縛られることはなく、ローマ、ジェノヴァ、ヴェネツィア等々、当時の芸術家にとっての重要な地域に行って勉強したり、注文をとってきたりすることができた。そういう大変に恵まれた状況にあったようです。ルーベンスは、この恵まれた環境で10年近く過ごして、途中でスペインに使節として派遣されたりもしています。つまりこの時期から既に外交官的な特徴をちゃんと発揮していたと言えるかもしれません。 

ローマでイタリア人画家と競う

 1606年には、ルーベンスはローマの重要な教会の1つサンタ・マリア・イン・ヴァリチェラから、メインの祭壇画の注文を受けるのですね。これは彼が当時のイタリアの代表的な画家たちと対等に競争ができたことの証拠と考えられます。大変に張り切ってその仕事をするのですけれども、ただ残念なことに、1作目はどうもうまくいかなかった。うまくいかなかったというのは、手紙に残る当人の説明によると、「絵が光を反射して、ちゃんと見えないので、受け取りを拒否された」ということなのです。仕方がないので、それは自分で引き取って、反射しないよう、キャンバスではなくて石の板に第2バージョンを描いて、それが現在でもローマのサンタ・マリア・イン・ヴァリチェラ教会にあります。

思いがけずに離れたイタリア

母危篤の知らせに故郷に帰る

 これもある意味幸いなことだったのですね。というのは、2年後の1608年の秋に、お母さんが危篤であるという知らせがローマにくるのです。第2バージョンを描き上げたばかりのときでした。電報を打てばすぐなのですが、当時は大体ベルギーからイタリアまで飛脚が特急でも2週間くらいかかったようです。だからお母さんが危篤だという知らせを聞いたときには、実はもうお母さんは亡くなっていたのですけれども、帰らないわけにいきません。すぐにまたローマに戻って来るつもりで、主君には取り敢えず「こういうことで急ぎますから、馬に飛び乗りながら書きます」という手紙を残して国に帰るのです。しかし、結局彼は二度とイタリアには戻りませんでした。

母国で活動の機会を見出す

 ルーベンスがイタリアに戻りたかったことは、彼の手紙からわかります。非常に筆まめな人だったらしく、かなりの数の手紙を残しています。まだ日本語にはなっておりませんけれども、英語版はあります。「帰りたい、帰りたい」とイタリアの友人なんかに書き送っているのですね。しかし結局帰れなかった。なぜかというと、1つ大きな理由は、彼が自分の母国で非常によい活動の機会を見つけて、それで大変に忙しくて、イタリアに戻ることができなくなってしまった。というのは、彼が帰り着くのが1608年の暮れで、1609年の初めには、スペインとオランダの間で「12年間の休戦条約」が結ばれましたが、これは帰国時にはわかっていたはずなのですね。ですから、実は「母危篤で帰ります」というのは絶好の口実だったのじゃないかと見る研究者もいます。つまり、「イタリアにいてもこれ以上活動の場があまりない。君主もいまひとつ大切にしてくれない。しかし、自分の故郷ではすごく大きな活動の機会がこれから開けてきそうだ」、そのことを察知して帰って来たのではないかという見方をする人もあるのです。

スペインとオランダの休戦条約で活気が戻る

 そのへんはよくわかりませんけれども、わかっていることは、翌年すぐにスペインとオランダが休戦条約を結び、12年という期限付きですけれども、少なくともその間は戦いがなくて、この地域、フランドル(つまり南ネーデルラント)に活気が戻るであろうという見通しがあったのです。そのとき、イタリアで受け取りを拒否されて引き取った絵が手元にあったわけです。これはキャンバスなので、絨毯みたいに巻いて送ることは比較的簡単です。そこで、ルーベンスは、自分がイタリアで会心の作と思って描いたが、いろんな事情で引き取ってもらえなかった絵を持って帰って来て(あとから送らせたのだと思いますが)、お母さんのお墓の祭壇画にしたのです。

 つまり彼がイタリアで何をしてきたかということを、アントウェルペンの人達は具体的な作品でまじまじと見ることができたわけです。ですから、彼がイタリアから帰って来るとすぐに、重要な仕事が次々と舞い込んで来るのです。作品自体を見れば圧倒的な力量を持つことは明らかなので、次々と仕事に恵まれることになります。

「戦争の惨禍の寓意」

 いま見ていただいているのが、今日のメインの作品である「戦争の惨禍の寓意」です(スライド2の左)。ここに描かれた真っ白な肌のふっくらとした金髪の女性は、大変ルーベンス的な女性像で、ヴィーナスです。その隣の甲冑を着ているのがマルスであります。この2人を主人公にして、大変劇的な場面が展開していますが、その意味については後でお話しいたします。

「自画像」

 これがこの絵を描いた頃のルーベンスの自画像です(右)。ルーベンスという人は、自画像が何点かありますが、画家としての自分を描いたことは一度もありません。少なくとも残っているものを見る限り、いつも紳士として、あるいは実際に騎士の位をもらいますから、貴族として剣を帯びてもいい資格があったので、騎士ルーベンスとして自らを描いております。

初期と後期の「パリスの審判」

 この2枚の《パリスの審判》はどちらもロンドン・ナショナル・ギャラリーにあります。私が最初にこの2作品を見たのはいまから30年以上前ですけれども、こちら(スライド3の右)は画集で見慣れておりました。いかにもルーベンス的なふくよかな女性たちの絵です。同じ主題のもう一方(左)は、構図は似ていますが、これがルーベンスの絵だというのは、そのときはちょっと信じられませんでした。プロポーションが細長く、ゴツゴツしていて、顔だちも随分違うし、はっきり言ってあんまり上手な絵ではないと思いました。

 これは実は修業中の、あるいは修業を終えたばかりの若いルーベンスが、まさにイタリアに行く直前くらいに描いた絵と考えられております。それに対して、もう一方の「パリスの審判」は1630年代、今日の主役である「戦争の惨禍の寓意」と同じか、ちょっと早い頃に描かれています。まさに彼の円熟期の作品です。この間に30何年か流れていますけれども、その時間の経過による彼自身の成長ももちろんのこと、彼がイタリアで接した様々な絵画作品から受けた刺激も影響を及ぼしているのでしょう。

ローマで描いて納品を断られた絵

 次はこの2つの作品ですが、主題は違いますけれども、キリスト教の絵であることは共通しています(スライド4)。これらの絵のデータは全部プリントにありますので、後でご参照いただきたいのですけれども、左側は「聖母子の画像を崇める聖グレゴリウスと諸聖人」という主題の作品です。これがローマで描いて、引き取ってもらえなくて持って帰ってきた作品なのです。

 右側は1630年代初頭に描いた「聖イルデフォンソに祭服を授ける聖母」と言う絵ですけれども、先程見た2つの「パリスの審判」ほどは違いが見られません。要は左の絵を描いた段階で、ルーベンスの基本的なスタイルないしは画風が確立していたと言えましょう。もちろん、柔らかなこうした布地の表現とか、全体にソフトフォーカスの表現というのは彼の円熟期の特色で、それに比べると、こちらはもっとくっきりとしておりますが、基本的には人物のタイプとか非常に近いと私は思います。

スタイルの完成

イタリア時代末期に自己のスタイルを確立

 ルーベンスが「聖母子の画像を崇める聖グレゴリウス」を描いたイタリア時代の終わりの頃には、彼はローマやヴェネツィアに残されたルネサンス絵画などを勉強して、自身の画風を確立していました。ここにお見せするのは、彼がイタリアで研究した作品の一例で、ルネサンスを代表するラファエッロが描いた「アテナイの学堂」、古代の哲学者たちが集まっています(スライド5)。中央の二人がプラトンとアリストテレスであることはご存じと思いますけれども、この聖グレゴリウスのポーズ、大変印象的なポーズは、アリストテレスのポーズを模倣して、ちょっと角度を変えていますね。これが彫刻だとすると、ぐるりとこちら側に回してやると、このようなポーズが出来上がるでしょう。こんなふうに彼は過去の芸術家の作品から形を借りて、それを新しいコンテクストに生かすことをよくやっています。そういう応用の名人であったということになりますね。

 さて、彼が訪れた当時のイタリアはどういう状況であったか、ここで確認しておきましょう。先程ルーベンスは「バロック絵画の代表者」で、当時の美術の中心がイタリアであると申しましたが、ルーベンスがしたことは、単にイタリアで既に出来上がっていたバロック絵画を吸収して、それを北に伝えただけではないのです。彼がイタリアに住んだのは、1600年から1608年の末までですが、当時バロック様式はまだ発展途上でした。

バロックの天井画

 これは、アンニーバレ・カラッチによるローマのファルネーゼ宮殿のガレリア、つまり大広間の天井画ですけれども(スライド6の左)、これが描かれたのがちょうど16世紀末から17世紀の初めにかけてで、バロック絵画の初期の例として知られています。しかし、これは天井画ではあっても、この一部分だけを複製でお目にかけますと、天井画だとは思わないわけです。壁に描いてある絵と同じような角度で描いてあるのですね。それに対して、こちらはルーベンスが後の1630年代に描いた天井画です(右)。この天井画は下から見てこっち側に足の裏が見えているので、ほんとうに空に浮かんでいる人物達のように見えます。下から見上げて描いたような印象が生まれるように遠近法を工夫して描いています。

 このような天井画はバロックの最盛期の画家たちが非常に得意としたタイプです。こちらは1630年代になってイタリアでピエトロ・ダ・コルトーナという画家が描いた天井画です(スライド7の右)。これは下から見上げて、天が開けて、そこからいろんな擬人像、寓意像が降りて来るような感じで、これが典型的なバロックの天井画です。先ほどのカラッチの天井画はまだそこに至っていないわけです。コンセプトが違いますね。そうするとルーベンスは、ああいうコンセプトをどこから得たのでしょうか。

バロック絵画を円熟に導く

 実はこうした仰ぎ見るような天井画の原型は16世紀に登場していました。これはその代表例で、16世紀半ばにヴェネツィアの画家ヴェロネーゼが描いたものです(スライド8の中央)。ルーベンスはこうした作品をヒントに新しい天井画形式を発達させました。要するに、ルーベンスは、単にイタリアにやって来て同時代に既に出来上がっていたバロック様式をアルプスの北に持ち帰ったわけではなく、バロック様式の成立時に立ち会って、自分もそれなりに貢献をしているのです。イタリアではカラッチたちの絵の延長にピエトロ・ダ・コルトーナその他の画家がこうした非常に幻想的な天井画を開発していきますけれども、ルーベンスはルーベンスで、アルプスの北でそのことをやっています。ですから、彼もバロック様式の創始者の1人であり、同時にそれを絵画において円熟に導いた人であるという位置づけになると言えます。

カラヴァッジオを模写

 バロック初期の芸術家としては、現在、むしろカラヴァッジオの方がカラッチよりもよく知られているかもしれません。左(スライド9)はカラヴァッジオの《キリストの埋葬》、右側はルーベンスによるこの絵の模写ですが、これはスタイルからいって、イタリアにいるときに描かれたのではなく、イタリアから帰ってから後、1610年代に恐らくイタリアで描いたスケッチなりデッサンなりをもとに制作したのだろうと思われているものです。模写であることはよくわかりますけれども、ずいぶん違っているところがある。いま細かくは見ませんけれども、一番大きな違いはこの人物ですね。聖母と涙を拭っている女性はいますが、この両手を挙げている、他の人達に比べて何となくわざとらしいというか、おさまりが悪いように見える人物、少なくともルーベンスはそのように考えたらしく、これは取り去ってしまったのですね。

 ルーベンスがカラヴァッジオの作品を非常に評価していたことは、いろんな証拠からわかっているのですけれども、こうした模写もその一つです。しかし、それを自分流に修正しているところにも彼の画家としての特色が現れていると言えるかもしれません。人を非常によく見て学ぶのですけれども、単に盲目的に追従するのではなくて、むしろそれを自分なりに、より良くするのだ、という取り組み方です。

古代彫刻の研究

 ルーベンスはイタリアで古代彫刻の研究もしました。左(スライド10)は古代ギリシアの末期、ヘレニズム期の彫刻「ラオコーン群像」ですが、いまでもヴァティカーノ美術館にあります。右はそれをイタリア時代にルーベンスが模写した素描です。腕のポーズが違いますが、これは彼が変えたのではなくて、当時、ラオコーンの腕、あるいは息子たちの腕もいまとは違ったふうに修復されていたのです。息子たちの腕は修復で付け足したものなので、いまでは取られていますけれども、ラオコーンの腕も実は伸ばしているのではなくて、折り曲げていたということで、現在は修復し直されているのです。それはともかく、ラオコーンの苦悶に満ちたポーズとか、非常に力強い筋肉や骨格の表現、これはルーベンスの芸術、特に男性像の表現において大変重要な意味を持つことになります。

執政夫妻の宮廷画家となる

 ここで話はフランドルに帰って来ました。この2枚の絵(スライド11)はルーベンスによる肖像画で、スペイン王の代理でネーデルラントの執政ないしは総督という地位にあったアルブレヒト大公とその妃でスペイン王女だったイサベラを描いたものです。2人は共同統治者としてスペイン領ネーデルラント全体を治めていたはずなのですが、オランダが独立したものですから、実際に残っているのは南のフランドルだけです。この執政夫妻がルーベンスに目をつけて宮廷画家にします。宮廷はブリュッセルにあったのですけれども、ブリュッセルに住む義務を課さず、商業の中心地であるアントウェルペンでアトリエを構えていてよろしい、という自由を与えたわけです。そのことも大変幸いでした。

イサベラ・ブラントと結婚

 ルーベンスは、宮廷画家になった同じ年の1609年に結婚します。これはルーベンスが新婚の自分と妻を描いた自画像で、よく知られています(スライド12の左)。奥さんのイサベラ・ブラントという人、この素描(右)はもう少しあとのものですが、大変魅力的な女性です。一般にこの時代の肖像画は、特に女性を描いたものはみんな型通りの美人であって、あんまり面白くないのですね。実際にどんな人であったにしても、みんな理想化されたイメージになってしまうのですけれども、素描という、ルーベンスにとってプライベートな作品であることも幸いして、大変生き生きとその人らしく描いているように見えます。非常にユーモアのセンスのありそうな、頭のよさそうな女性で、こういう人を妻に迎えたわけです。

 ところが、イサベラは1626年、この町にペストか何かが流行したときに、その病気で急逝してしまいます。そのときにルーベンスが友人に書いた手紙が残っていて、深い悲しみと喪失感を伝えています。このあと1620年代の後半には、彼はあちこちに外交活動で出掛けて行くのですが、妻を失った空虚な自分の家にいることに耐えられず、その空しさを満たすために違うところへ行って活動しようという動機があったのではないか、とも考えられます。しかし、それは先の話で、1609年にはこうした幸せな夫婦であったわけです。

画家としての地歩を固める

「キリスト昇架」

 さて、ルーベンスはこうした結婚をして、宮廷画家になって、着々と地歩を固めていきました。この作品は大変よく知られていますが、ルーベンスが故郷に帰って最初に制作した大作「キリスト昇架」です(スライド13)。三枚の画面を連ねた三連祭壇画で、両側は中央に向かって閉じることができる形式です。1611年に完成しています。いまこの絵はアントウェルペンの大聖堂にありますけれども、もとはそのための絵ではなくて、同じ町の聖ヴァルブルガ教会の主祭壇画として注文されました。キリストを十字架につけ、その十字架を立てようとしている場面です。当時は、これもルーベンスによる父なる神と天使の絵が画面の上に、小さな物語場面が下についた、さらに大規模な作品であったことが、教会内部を描いた17世紀の絵からわかっております(スライド14)。

 その後、19世紀初頭のナポレオンの時代に、この絵は一時フランス軍が略奪してパリまで持っていきました。その後戻ってきたのですが、その間にこの教会は壊されてしまったので大聖堂に移ったというわけです。真ん中の部分だけ拡大したものをお見せしますけれども、こうして見ると、このキリストの姿には、「ラオコーン」の苦悶に満ちた表情やポーズが応用されているのは明らかです(スライド15)。また、キリストやキリストの十字架を持ち上げる人々の筋骨たくましい肉体の表現は、ルーベンスがイタリアで研究した「ラオコーン」をはじめとするヘレニズム期の彫刻の特色を、完全に自分のものにしていたことを示しています。

カトリック勝利の雰囲気

 キリストがはりつけになった十字架が立っている絵はたびたびご覧になると思いますけれども、ルーベンスはそれを立てる最中を描いています。それによって劇的な表現力を高めようとしているのです。十字架を立てるのにこれだけたくさんの屈強な男たちが寄ってたかって取り組んでいる。それに比べてキリストは十字架につけられていて無力ですけれども、同時に、力強く腕を挙げた姿は、これらの人達に最終的にはキリストが勝つことを暗示しているように思われます。

 この時代、プロテスタントとカトリックの対立が一応ある種の均衡状態に入って、カトリック側から見れば、「カトリック教会の勝利」という雰囲気がただよいつつあったのです。16世紀後半、プロテスタントが北のほうで独立を宣言してから、このあたりのフランドルも戦場になります。聖像破壊運動も行われて教会の祭壇画もずいぶん壊されてしまったので、それに代わるものをこの「12年間の休戦協定」の時期にたくさんつくろうということで、この頃ルーベンスは大変に忙しかったのです。つくり出すイメージも、カトリック教会の勝利、あるいはさらなる発展、それを力強く訴えるような作品が求められていたわけです。ですから、いまこうした絵を見て、何か非常に大仰な印象を受ける方も多いでしょうが、その当時、教会内の巨大な空間で多くの人々に訴えるためには、そうした誇張された表現が、人体表現にしても、構図にしても、色彩にしても必要であったのだと思います。

 もう1つ、よく似た三連祭壇画が「キリスト昇架」に続いて描かれます。「キリスト降架」です(スライド16)。対をなすようにしてアントウェルペンの大聖堂にあるのですけれども、もともとは対ではありません。「キリスト降架」は、最初から大聖堂の火縄銃手組合という一種の倶楽部のようなもの、その礼拝堂の祭壇画として制作されました。一転して大変に静かな表現になっていますが、ここにも「ラオコーン」の影響があります。

 比べてみると(スライド17)、左の「昇架」ではキリストの体を十字架につけてあげている。右の「降架」ではキリストの遺骸を弟子のヨハネ、聖母マリアなど、家族あるいは弟子たちが、大切にとり降ろしている。まったく主題が違いますので、形式的には似ていますけれども、こちらは抑制された静かな表現になっています。どちらも1610年代の前半に完成したこの2作で、彼の名声は揺るぎないものとなります。

プロモーションに長けていた

 さらにルーベンスは、芸術家として大変優れていただけではなく、自分のプロモーションが大変上手だった人だと思います。12年間の休戦協定の間は、アントウェルペンだけではなくてフランドル全体が平和だということで、壊された教会の再建とか、祭壇画の制作が盛んになる。それはわかっていたわけです。そこで事実活躍するわけですね。しかしはじめからこの休戦協定は12年間という期限付きです。1620年代に入ると、これが失効してしまう。そうなったらどうなるか。国内需要はあてにならないということです。そこで彼は1610年代の末から自分の作品を版画化させて、これを広く流布させるということをやります。今日ですと私たちは複製を見慣れている。いまみなさんにご覧いただいているのも複製ですけれども、写真発明以前に、ある絵を展示の現場でない場所で見るためにはどうしたらいいか。そこに行って、手書きで写すという手段しかありません。

版画の利用

 いや、ただ1つだけ、複製版画というものがありました。これはたくさんつくって流通させることが可能な伝達媒体だったわけです。自分の作品に基づいて、複製版画をつくらせて売れば、自分の作品の具体的な様子を広く知ってもらえる。ただし、自分の意図とまったく違って、下手に写された複製では困るので、自分で監督して、自分が責任をもって出すことにし、その独占的刊行権を関係各国に認めてもらう。そうした事業を実践するのですね。今ご覧いただいているのは(スライド18)、左が先程のアントウェルペン大聖堂の一礼拝堂のための「キリスト降架」で、右はフォルステルマンという版画家につくらせたその複製版画です。

 版画は見えるままを写してそれを彫って刷れば、当然構図が逆転します。しかし、小さな紙に刷られたものですから、簡単に流通させることができます。こうした複製版画を1620年前後からフォルステルマンその他何人かの版画家にたくさんつくらせまして、スペイン領ネーデルラント、フランス、オランダ、スペインなどで独占刊行権を獲得しました。お金の面で、かなり儲かったのではないかという話もありますけれども、それよりも自分の作品の正確な情報を広く伝えたいと考えたのではないかと私は思います。そうするとルーベンスの作品のオリジナルを見たことがない人も、今度注文するときには、是非この画家に頼もうという需要が見込まれるでしょう。

マリー・ド・メディシスからも受注

 実際にそれがちゃんと効を奏して、1620年代に入ってすぐ、フランスの当時の王様はルイ13世ですけれども、そのお母さんであるマリー・ド・メディシスという人から注文が入ります。しかし当時フランスには、ルーベンスの作品はおそらく皆無だったと思います。少なくとも大規模なものはなかった。けれどマリー・ド・メディシスは、ルーベンスに白羽の矢を立てたのですね。メディシスということから、連想なさる方もあるでしょうが、イタリア語ではマリア・デ・メディチ、つまりメディチ家の姫君であった人です。メディチ家の宮廷とルーベンスが仕えたマントヴァ公の宮廷の間には姻戚関係があったので、ルーベンスは、イタリア時代にこのマリア・デ・メディチの結婚式にも立ち会っていました。

 マリア・デ・メディチがフランスの王様アンリ4世と結婚するのですが、アンリ4世はわざわざイタリアまで来たわけではありません。代理人を立てて、形式だけ結婚の式典を行いました。それがメディチ家のフィレンツェで行われて、そこにはルーベンスも行ったということです。そんな縁も関係しているのか、20年後にマリア・デ・メディチ、フランス読みでマリー・ド・メディシスは、フランス王母である自分の住まい、パリのリュクサンブール宮殿のために、全部で21枚の連作をルーベンスに注文しました。現在この連作はルーヴルにあります。

 このマリー・ド・メディシスという人は、夫のアンリ4世が暗殺されて亡くなった後、幼いルイ13世の摂政になります。この「マリー・ド・メディシスの戴冠」では(スライド19の下)、これがアンリ4世ですね。これがルイ13世。国王は自分が出征するにあたって、子どもが幼いので、奥さんに摂政になってもらう。戴冠もするわけです。

 アンリ4世はその後まもなく暗殺されてしまいます。そういう場合、亡くなったご主人を記念する絵を最初に注文しそうなものですけれども、この方は「旦那さんの絵は後回しでいいから、自分の半生記を先に描いてちょうだい」と言って、自分の宮殿にまず自分の半生記を描いてもらったのですね。

 アンリ4世の生涯を描いた連作も、ルーベンスによって引き続き制作されるのですが、政治的事情で中断されて、それっきりになってしまうのです。マリー・ド・メディシスの一代記は、それほど波瀾万丈の生涯というわけでもなく、ルーベンスはエピソードがなくて困っただろうと思います。ですが、そこはルーベンスですから、ただ困ったといって何もしないわけではなくて、いろいろ工夫します。戴冠式の場面はとても華やかですから、特に策を弄さなくてもいいのですが、この画面でも、金貨を撒く「豊饒」の擬人像という超自然的な存在が出てきます。

注文主の生涯を華やかに描く寓意画

 けれども、他の場面は「困った、困った」なんですね。たとえばこれはマリーがイタリアから船でマルセイユに着くところです(スライド19の上左)。しかしそれをただ描いても面白くないということで、神話的な存在をあちこちに描き込みました。マリーを歓迎するこれはフランスの擬人像、フランスを人間の姿で表したものです。こちらはマルセイユ市の擬人像。空中では「名声」がラッパを吹いています。そういう架空の存在を加えて、華やかに演出をしました。こちらはその後、マリーがパリからやって来たアンリ4世とリヨンで出会うところです(上中)。アンリ4世とマリー・ド・メディシスは、神々の王者であるジュピターと妃のジュノーとして表されています。このように神話や古典文学等の知識を総動員して、エピソードに乏しいマリーの生涯を華やかな絵巻物に仕立てたというわけです。

 これは後でお話する寓意画の典型的な例ですけれども、「マリー・ド・メディシスの統治の至福」という、彼女の統治がいかに素晴らしかったかを表現した作品です(上右)。マリー・ド・メディシスがちょうどマリア様のように玉座についていて、ミネルヴァのような神話の神々や「豊饒」や「幸福」の擬人像に囲まれています。一方、足元には、「誹謗」や「中傷」など、悪の擬人像が縛られています。つまり「マリー・ド・メディシスの治世では悪いことは全部征伐されて、良いことだけがあるのですよ」という意味合いをこういう場面で伝えようという意図です。

 ルーベンスはそのような技に大変長けていました。この連作は20年代の半ばに完成しているので、ルーベンスはそろそろ外交活動などもしていたようです。というのは、1621年に12年間の休戦協定が失効し、たまたま同じ年にアルブレヒト大公も亡くなってしまう。そこでお妃のイサベラ大公妃が一人で治めるのですけれども、ルーベンスを大変に信頼して、腹心の部下としていろんな相談もしていたようなのです。彼に外交的な仕事をやらせたら良いのではないかと思いついたのも大公妃らしいのですね。それ以後、大公妃が亡くなる1633年まで、ルーベンスは画家であるよりはむしろ外交官として活躍することになります。1628年にはマドリードのスペイン宮廷に派遣されました。

外交官としても才能を発揮

 当時スペインとオランダは戦争状態で、チャールズ1世のイギリスが、同じプロテスタントの国としてオランダを支援していました。ですが、スペインとイギリスの間で和平が成立すれば、オランダは重要な味方を失うので、その弱みに付け込めば、オランダとの和平も成り立つのではないかという計算があったのでしょう。そこでまずイサベラ大公妃は、自分の甥にあたるスペイン王フェリペ4世のところにルーベンスを派遣します。そしてフェリペ4世から正式な命令書をもらって、イギリスに派遣される。しかしこの時代、物事はそうスムーズに進まないもので、正式な職名を与えてルーベンスをイギリス宮廷に派遣することが決まるまで、何ヵ月もマドリードで待たされるのですね。しかし、その期間も決して無駄に過ごしたわけではありません。

 この「フェリペ4世の肖像」(スライド20の左)の作者はフェリペの宮廷画家ベラスケスです。当時まだ非常に若かったベラスケスと一緒に、スペイン王室の大変豊かな美術コレクションを研究して、ルーベンスはしっかり自分でそこから学び、ベラスケスにも刺激を与えています。ようやく1629年にイギリスの宮廷に行くと――これはヴァン・ダイクが描いたイギリス王チャールズ1世(右)――外交活動のかたわら注文も獲得しました。スペインの宮廷からも、いずれ注文をもらうことになります。 

 これは先程お見せした天井画です(スライド21)。チャールズ1世のお父さんのジェームズ1世の統治を寓意的に描いたもので、ロンドンの官庁街ホワイトホールのバンケッティング・ハウスという建物の天井を飾っています。この地域にはもともとホワイトホール宮殿があったのですが、17世紀末に火事でなくなってしまい、独立の迎賓館としてつくられたこの建物だけが残りました。さっきのマリー・ド・メディシスの絵もそうですが、ルーベンスが特定の建物を装飾するために描いた大規模な作品は幾つかありますが、現在も当初の場所に残っているのはこれだけです。

 ですから、今度ロンドンに行かれることがあったら、是非これはご覧になるといいと思います。イギリスは宗教的な内乱とかがあって、文学は別かも知れませんけれども、ヨーロッパの中では16世紀以来文化的に出遅れた感のあるところですが、チャールズ1世の時代には、ようやくと言っては何ですが、この国も当時のイタリアで勉強したイニゴー・ジョーンズという建築家が設計して、ルーベンスが天井画を制作した文化財を持つようになったのです。これは大変重要なモニュメントです。

 この天井画は、イギリス滞在中に注文をもらって、後でキャンバスをアントウェルペンから送っております。実際取り付けたりするのを監督したわけではなくて、それは現地の人がやっているのですね。

 こちらの「マルスを退けて平和を守るミネルヴァ」(スライド22)は、ルーベンスがイギリスで制作し、チャールズ1世にプレゼントした寓意画です。「平和と戦争」と呼ばれることもあります。


「戦争の惨禍」の寓意を読む

ヨーロッパに平和を

宮廷画家の立場を外交に利用

 ここから話は「戦争の惨禍の寓意」に結びついてまいります。これまで述べたように、ルーベンスが外交官として活動した動機は、ヨーロッパにいかにして平和を樹立するかでした。もっと個人的に考えれば、自分の国であるネーデルラントをいかに平和な国にするかという問題でもあるわけです。ルーベンスの活動していた時代には、アントウェルペンの町中が戦場になったことはなかったようですけれども、「町の外では大砲の音が聞こえます」などと手紙に書いてあるのですね。

チャールズ1世に絵をプレゼント

 アントウェルペンは商業都市でしたが、スヘルデ川という貿易港になっている川をオランダ側に封鎖されてしまうのです。通れるのだけれども、ものすごく高い関税を払わないと通してもらえない。商業的に考えれば非常に辛いものでした。この地域は商業立国なわけですから、それが思うようにできないとすれば、町は滅びていくしかないのです。そういう切実な状況にあって、それを何とかしたいというのがルーベンスの大きな願いでした。彼自身はヨーロッパ各国の宮廷で重く用いられて、繁栄しているのですが、町はそうではない。そこのところをどうにかしたいというのが、彼の外交活動の根本的な動機であったと思うのですね。 だからこそ、この「マルスを退けて平和を守るミネルヴァ」という絵をチャールズ1世の宮廷にいるときに制作して、プレゼントしたわけです。

寓意画とは何か

観念の擬人化

 これは寓意画です。寓意画、英語で「アレゴリー」というのは、ある観念を擬人化したもの、あるいはそうした観念に関連づけられる神話的な存在を組み合わせて、あるテーマを表した作品です。この絵の場合、神話的な存在といえば、ミネルヴァとマルスです。どちらも古代神話の戦の神ですけれども、マルスのほうは単純に戦争の神様。こういう考え方は妥当と思われるかどうかわかりませんが、いい戦争と悪い戦争があるとすれば、マルスは悪い戦争を代表し、ミネルヴァは正義の戦を代表しています。

マルスとミネルヴァの攻防

 ミネルヴァはローマ神話での名前で、ギリシア神話のアテナにあたります。知恵の女神でもあり、文学、芸術の保護者でもある。そして、よき戦争の守り手でもある。そのミネルヴァがマルスとその仲間の復讐の女神を追い払った。中央のこの女性は平和をあらわす擬人像です。「平和」のお乳をもらっているこの子どもは富を擬人化したものだと言います。富にせよ、右側にいる人間の子どもたちにせよ、それらは平和なときでなければ栄えることができない。果物や金銀の食器は豊かな実りとか財宝とかを示していますけれども、豊かさ、繁栄、子どもたちの健やかな成長、人間が望ましい形で生きているということ、いずれも平和の下で初めて可能になるのだから、ミネルヴァは平和を必死になって守っている――この絵はそういう意味を表しているのです。

豊かな肉体で描かれた観念の擬人像

 観念の擬人像というと、人間らしさとは縁遠い感じがしますけれども、ルーベンスはこれを大変に豊かな肉体を備えた人物たちで表しているのですね。この2人の少女、あるいはこの神様もそうだというのですけれども、ルーベンスがイギリス滞在中に世話になった友人の子どもたちであるということです。肖像画なのですね。こんなふうにして平和を守ろうとする力を象徴的に示した絵を描いて、チャールズ1世にプレゼントしているのです。

ルーベンス晩年10年の作品

16歳のエレーヌと結婚

 1620年代のルーベンスは、ヨーロッパ各地に出かけました。スペインやイギリスを訪れる以前に、フランスの宮廷にも何回か行っています。しかし、1630年にイギリスから戻ると、家に落ち着くことにして、再婚もします。53歳のルーベンスが、自分の長男と同じ歳の16歳の娘さんと結婚したのです。相手は、友人の豊かな絹織物商人ダニエル・フールマンの娘、エレーヌという人でした。オランダ、ベルギーはいまでもそうですけれども、当時から夫婦別姓です。ですから、この方は結婚してもずっとエレーヌ・フールマンなわけです。

 さっきのイサベラはお父さんがブラントさんなので、イサベラ・ブラントでした。ルーベンスとイサベラとのあいだには3人の子供がいましたが、エレーヌとの間にも子どもが何人か誕生します。若い妻と子どもの姿を、こんなとても新鮮な雰囲気の肖像画に描いています(スライド23)。30年代、つまり晩年の10年間のルーベンスの絵は、大変親密な感じがするものになっていくのです。風景画もずいぶん描きます。1635年に、アントウェルペンからかなり離れた、ブリュッセルに近いある土地に、家付きの土地を買います。というか、「ステーンの城の見える秋の風景」(スライド24)に描かれているように、こういう立派な屋敷のある広大な領地を手に入れます。これは外交活動の成果として、貴族の称号を得たから可能であったのです。その周辺の風景を、売るためではなくて自分のために描くようになったのが1630年代後半の話です。

「戦争の惨禍の寓意」の制作

 しかし、その晩年、こうした風景画や家族の肖像をはじめ、非常にプライベートな感じの制作が多くなった中でも、ルーベンスは大規模で非常に複雑な内容をもった作品を描き続けていました。その一つが「戦争の惨禍の寓意」(スライド25)です。これに関しては、ルーベンス自身が詳しい説明を書いた手紙があるので、それを配布資料に載せておきました。暗いので後で参照していただくことにして、ここでは私が絵を見ながらその内容をご紹介します。手紙の宛先はユストゥス・シュステルマンスというアントウェルペン出身の、つまりルーベンスの同郷人の画家で、当時フィレンツェのトスカーナ大公フェルディナンド・デ・メディチ2世の宮廷に仕えていた人物でした。

 この作品は、幅が3メーター半の大きな絵で、その規模から言っても、宮廷の注文であっただろうと推定されています。ただし、どういう事情でか、この絵はシュステルマンスがそのまま持っていて、彼が亡くなった後、その遺産からトスカーナ大公が購入しまして、17世紀の末にメディチ家のコレクションに入り、現在はフィレンツェのピッティ美術館にあります。主題の性格の点でも、シュステルマンス個人が買うというよりは、本来は宮廷用であったろうと思います。しかし、何らかの理由で、宮廷が制作の時点では引き取らなかったのではないか、ということなのですね。

平和への希求

戦いの神マルスを引き留めようとするヴィーナス

 それではどういう絵なのかということですが、主役はマルスであるとルーベンスは言っております。マルスは戦の神です。いましがたヤヌスの神殿の開いた扉から血塗られた刀を持って出て来た。ほんとうに血が付いています。古典に通じたルーベンスによれば、ヤヌスの神殿は、ローマの習慣では平和のときには閉じておかれた。そういう神殿だというのです。いま戦争のときなので開いて、マルスが大いなる災いを振りまきにやって来た。恋人のヴィーナスのことはまるで関心がないみたいです。ヴィーナスはマルスの腕にすがり、必死になって彼をとめようとしているのですね。キューピッドも一緒になって一生懸命引き留めようとしている。後でこのカップルについてはもう少し詳しく説明しますけれども、マルスはヴィーナスを捨てて、復讐の女神のアレクトに引っ張られて戦場に出て行く。他にも飢饉とか疫病などが怪物の姿でここに表されています。

戦争のもたらす災い

 この手紙はもう既に自分が絵を発送してしまった後で、受取人に説明を送った手紙です。地面にはいろんな人が倒れていますね。壊れたリュートを持って倒れている人。これは戦争の不和とは両立し得ない「調和」を意味します。音楽、ハーモニーを生み出すということで、音楽が調和の擬人像になっています。それが倒れている。子どもを抱いた母親もいますけれども、子どもを生んで慈しみ育てるということも、戦争によってできなくなってしまうことを示しています。コンパスなどを持ってここで倒れているのは建築家です。ルーベンスの手紙には、「平和なときには実用と都市の装飾のために建設される建物も、戦争になれば武力によって突き崩され、廃墟と化することを示すものです」とあります。

マルスが破壊する文化

 マルスの足もとには書物がある。デッサンもあります。これはご覧になりにくいでしょうけれども、本はわかりますね。ここに三美神を描いたデッサンも、つまり紙もあります。それら文化を象徴するものが踏みにじられているということですね。さらにこの他に、束ねた矢、矢を束ねると折れないというのは、毛利元就の話にありましたけれども、束ねた矢は一致して力が出ることの象徴でしょう。それがほどけてしまっている。バラバラになってしまっている。平和の使者であるメルクリウスの杖がここにあります。「オリーヴの枝もあります」と彼は書いているのですけれども、いま見たところ、オリーヴの枝は見つからないので、これはルーベンスの記憶違いでしょう。

 目の前で絵を見ながら書いた手紙ではないので、描くつもりであって、結局は描かなかったのをそのように言っているのかも知れません。平和の象徴のオリーヴの枝もあるはず。そういうのがみんな踏みにじられているということですね。黒衣の女性、ベールも千切れ、服も破れてしまっている絶望した女性は、長い戦乱で疲弊したヨーロッパの象徴です。その後ろにいる子どもが持っている丸いものは、上に十字架がついていて、キリスト教世界をあらわしています。

 ルーベンスの手紙はこのようなことを説明しているのですが、つまり、これは戦乱がヨーロッパを長いこと蹂躪して、文化やあらゆる価値、望ましいものを踏みにじっている、そのような状況。神話の中で唯一マルスを引き止めることができるとされているヴィーナスにすら何もできない。そういう絶望的な状態なのだということを表現していることがわかります。

別な企画にも描かれたヤヌスの神殿

 先程のヤヌスの神殿は、ルーベンスの別の企画にも出てきます。イサベラ大公妃が亡くなった後、スペイン王子のフェルディナンド枢機卿という人が次の執政として赴任するのですが、1634年に行われたその歓迎式典のときに、ルーベンスはアントウェルペン市内の飾りつけの総監督を務めました。山車のようなものとか、仮設舞台で飾るのですが、これはその仮設舞台の1つのためのスケッチです(スライド26)。まさにヤヌスの神殿が開いて、マルスではなくて、盲目的な怒りか何かが出てくるのですけれども、マルスは多分この左側の人物だと思います。髪の毛を掴んで女性を引っ張っている、ここのところに死神がいる。何とか扉を閉めたい側と開けたい側がいますね。右が閉めたい側、これが亡くなったイサベラ大公妃で、夫が亡くなった後はこのように修道女の服装をしていました。その手前は平和の擬人像で、このへんが明るくなっていますけれども、平和を望む善の側ですね。反対側が戦争を起こしている悪の側、という設定です。「戦争の惨禍の寓意」と同じテーマが取り上げられているということですね。

寓意を凝らす

 さて、「戦争の惨禍の寓意」(スライド26)に戻ります。これは寓意画なのですけれども、みなさんが「寓意画」について、どういうイメージを持っておられるか。あるいはあんまりイメージがないかもしれないけれども、少なくともこの絵については、何か神話の1場面のような、大変劇的なシーンだなとお感じになると思います。そこがルーベンスの腕の見せ所なのです。つまり、一般的に言えば、寓意画は、絵解きとしての面白さはあっても、あるいは一部分の形の美しさはあっても、全体としては大変冷やかな感じがするということがあるのですが、この絵はそうではない。先程のチャールズ1世に贈った寓意画も同様です。この2点の作品は、どちらも平和を望むというテーマを持っています。チャールズ1世の宮廷に残した作品のほうは、平和が主役であって、平和は守られるであろうというかなり希望的な雰囲気の作品です。しかし、こちらは、このヴィーナスの大変美しい表現にもかかわらず、絵全体のトーンはもっと暗いものなのですね。悲観的なものです。しかし、平和を希求するルーベンスの思いをこうした生き生きとした寓意画の形で表現して見せたことは共通しています。

典型的な寓意画の例

 寓意画についてですが、16世紀半ばフィレンツェで活動したブロンズィーノという画家が描いた、ロンドン・ナショナル・ギャラリーにある「時と愛の寓意」という作品が有名です(スライド29の右)。私は寓意画というとまずこれを思い出しますが、ご存じの方もあるかも知れません。これは官能的な愛が束の間の喜びは与えるけれども、さまざまな恐ろしい災いを時とともにもたらすという内容を表現しています。中央で抱擁するのはヴィーナスとキューピッドです。これが官能的な愛をあらわしていて、「快楽」もここにいます。後ろに「欺瞞」がいたり、「嫉妬」がいたり、時をあらわす老人「時の翁」がそうした愛の恐ろしさをやがては明らかにするであろう――そのように読み解かれております。

 このブロンズィーノの作品の場合には、ヴィーナスの姿など大変美しく、色彩的にも見事なものです。ただ、美しい絵ではありますが、何だか複雑怪奇でよくわからない、感覚的にあんまりピンとこないという受けとめ方もあります。こちら(スライド29の左下)は先程見たルーベンスの寓意画ですが、マリー・ド・メディシスの治世がいかに良いものであるかをさまざまな観念を擬人化した姿で表現しようとしています。しかし、これもドラマとしての動きはないのです。静止した画面の中で、たとえば豊かさであるとか、誹謗であるとか、一人一人の人に託されている意味をその人達が持っているものなどから読み解いていくという絵なわけです。これが普通の寓意画です。

ドラマ性の濃いルーベンスの寓意画

 それに対してルーベンスの「戦争の惨禍の寓意画」はドラマの1場面であるかのように表現している。どのようにして彼がこういう解決に至り得たのかをお話しいたします。神話によれば、マルスとヴィーナスというカップルは、不倫の恋をしているのです。愛と美の女神ヴィーナスには、ウルカヌスという鍛冶の神の正式な夫がいますけれども、その人は放り出して、ヴィーナスはいろんな神様とか人間と浮気をします。中でも有名な恋人がマルスです。戦の神マルス。これは(スライド30)ルネサンスのボッティチェリの作品ですが、マルスはヴィーナスと愛のひとときを過ごして、ぐったりしているというわけです。

 つまり、この2人の結びつきは、不倫の恋なのだけれども、猛々しい戦の神であるマルスをなだめることができるのは、愛と美の女神のヴィーナスだけだ――そのような伝承がありまして、2人の間にはハルモニア(調和)という娘が生まれたという話すらあるのですね。不倫の恋であるにもかかわらず、マルスとヴィーナスの結びつきは、祝福されてしかるべきものであるということをあらわしたのが、ボッティチェリよりちょっと後のマンテーニャの作品です(スライド31)。マンテーニャの絵では、マルスとヴィーナスがカップルで中央に立って、アポロやミューズたちの祝福を受けている。画面左奥のこれが夫の鍛冶の神です。大変怒っておりますけれども、彼の怒りもまったく虚しいという感じですね。

神話からヒントを得たストーリー

 このように、マルスをなだめることができる力を持っているのはヴィーナスだけである、そういう考え方が神話の中にあるわけです。しかし、事態は大変深刻で、ヴィーナスにもどうにもならない――こうしたマルスとヴィーナスの関係を教養人たちはみんな知っているという前提で、ルーベンスはこのような設定を考え出したのでしょう。しかし、マルスを止めることができないヴィーナスは、他の神話からもヒントを得ているのですね。「ヴィーナスとアドニス」という話があります。ヴィーナスは自分よりずっと年若い青年に恋をしてしまう。そのアドニスは美しい若者で、狩りに夢中である。狩りは大変危険なので、どうか狩りに行ってくれるなと止めるわけです。しかし、ヴィーナスが止めたにもかかわらず、ある日アドニスはその制止を振り切って狩りに行って、荒々しい猪の牙に突かれて命を落とす。

 これは「戦争の惨禍」と同じ頃に描かれた、ルーベンスの「ヴィーナスとアドニス」です(スライド33)。ヴィーナスが必死になってアドニスを止めようと懇願している状況を、「戦争の惨禍」ではマルスを止めようとするヴィーナスに置き換えたのだということがわかりますね(スライド34)。マルスにすがりつくヴィーナスのポーズと、こちらのアドニスを止めようとしているヴィーナスのポーズ、キューピッドは「戦争の惨禍」ではヴィーナスに力を貸そうとしていて、こちらではアドニスを引き留めようとしているのですけれども、このへんのアイデアや形が、ほとんど同じであることがわかると思います。

先人たちの作品の巧みな応用

 興味深いのは、「戦争の惨禍」のこの人物です。先程見たカラヴァッジオの作品の模写からこの人が消えていましたけれども、ここではヨーロッパの絶望した姿に両手を上げたこのポーズが現れています(スライド34の左の3作品)。「ルーベンスがここで描き落としたのだから、そんなの覚えているはずがない」とお思いになるかもしれませんし、事実関係ないかもしれません。ただ1つ言えることは、カラヴァッジオの「キリストの埋葬」のシーンでは何となくここだけが異質な感じがしたこのポーズが、「戦争の惨禍」のこの情景の中ではもっとしっくりとはまって見えるのではないかということです。

 このようにさまざまな意味を持ったポーズを組み合わせて、その根本には神話的なマルスとヴィーナスの関係、ヴィーナスとアドニスの関係を、劇的な状況として組み込んで、従来の寓意画の概念に反するような、こういうドラマティックな寓意画をつくりあげたということなのです。

 この「ヴィーナスとアドニス」を描くにあたっては、16世紀のティツィアーノの「ヴィーナスとアドニス」(スライド35の右)からヒントを得ていることは明白です。ポーズを逆から見た形にしていますけれども、こういう手本がある。ティツィアーノとルーベンスの詳しい比較は、時間の都合でできませんが、ティツィアーノも大変に豊かな色彩と柔らかなタッチで人間の肉体の、特に女性のふっくらとした感触を表現したとことで有名です。ルーベンスはさらにそれを積極的に推し進めたと言えるでしょう。


現代の寓意画、ピカソの「ゲルニカ」

戦争反対を絵画で表現する

 では最後に、ルーベンスの「戦争の惨禍の寓意」から非常に大きな影響を受けたと思われる作品、ピカソの「ゲルニカ」(スライド37)を見たいと思います。ルーベンスの作品は寓意画であって、それらがいかに古代の知識を背景にしたにしても、あるいはいかに人物の表現など巧みであり、魅力的であるにしても、寓意画という概念それ自体が今の私たちには縁遠いものに思われます。しかし、ルーベンスの時代には、戦争の災い、それに対する何とかしなければならないという思い、それをこういう形で、神話的な人物を総動員し、観念を人間の姿で表現して、しかもその中心的なヴィーナスは美しく魅力的に描くという時代の認識の枠の中で、制作をしています。

 20世紀、1937年にこの絵を描いたピカソの時代には、戦争に対する反対を絵画で表明することは、また違ったやり方を要求されました。かといって、ピカソも、戦争の現場写真のように、戦争の一部分を写真に撮ったようにしてあらわすことは絵画としてはあまり得策ではないと考えた。もっと普遍的なものを表現したいということはルーベンスと同じだったのだと思います。

「戦争の惨禍」を意識していたピカソ

 ピカソの場合には、このような表現になりましたが、ピカソがこの絵を描くにあたってルーベンスの「戦争の惨禍」を意識していたことは明らかだと思います。おそらくピカソは現物も見ていたでしょうし、写真複製も持っていたかもしれない。複製版画で左右が逆転していたものも持っていたかもしれない。ここに倒れている人物、ここでは剣を持っていますから兵士でしょうけれども、ルーベンスの絵の建築家の姿を逆にしてみたような感じです。そっくりではないけれども、画面の隅という位置からいっても、あり方からいっても、非常によく似ています。あるいはここで手を差し上げているこの人物は、ルーベンスの絵で逆側にいるヨーロッパの姿をしのばせます。

絵画で平和への祈念を表現

 子どもを抱いた母親もここに出てきます。この中にヴィーナスに相当する人はいないようで、中央にはお腹を切られた馬がいたりするのです。ですから、もちろん違うところは多くあります。けれども、ピカソもルーベンスと似たところがあって、先人の作品から非常に巧みにヒントを得て、それを自分流にしてさらに良く表現するのが得意な人でした。そうしたピカソは、おそらく自分の前にそれをやった17世紀のルーベンスに注目していたのではないかと思います。こんなふうに時代を越えて、画家が自分の持っている力で、彼の平和に対する強い思いを表現した例が実在しているということ、絵画はそういうこともできるのだということを指摘して締めくくりにしたいと思います。

 ルーベンスが生きているうちには、遂にヨーロッパの平和は実現されず、さっき言ったオランダの独立が認められたウェストファリア条約が結ばれたのは1648年です。ですから、彼の絵は無力だったのかも知れないけれども、しかし、絵というものが単なる飾りではなくて、そういう思いを表現する手段にもなり得ること、それは変わらないと思います。以上で今日のお話を終わります。ご清聴ありがとうございました。


講師略歴

高橋裕子(たかはし ひろこ)

1949年、東京に生まれる。
1972年、上智大学文学部史学科卒業(西洋史専攻)。
1976年 東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了(西洋美術史専攻)
1981年 同博士課程退学。以後、獨協大学、武蔵野美術大学その他で非常勤講師を務める。
1994〜98年 千葉工業大学工業デザイン学科教授。
1998〜現在 学習院大学文学部哲学科教授。
 
専門はルネサンスから19世紀までの絵画史。地域的にはネーデルラント(オランダ+ベルギー)とイギリスが守備範囲だが、さらに、これらの地域とイタリアの美術における相互の影響関係も研究対象としている。

主な著書は、美術と文学における女性の髪の毛の象徴的意味を論じた『世紀末の赤毛連盟』(岩波書店、1996年)、中世から20世紀までのイギリスの美術の知られざる魅力を絵画を中心に紹介した『イギリス美術』(岩波新書、1998年、同年のサントリー学芸賞受賞)、主な訳書に、ウジェーヌ・フロマンタン著『オランダ・ベルギー絵画紀行−−昔日の巨匠たち』(岩波文庫、1992年)、クリスティン・ローゼ・ベルキン著『リュベンス』(岩波書店、2003年)、エリカ・ラングミュア著『物語画』(八坂書房、2005)などがある。