「日本社会の二元的構造」

 

講 師 一橋大学大学名誉教授

阿部 謹也

平成15年5月13日 於:如水会館

【無断転記転載を禁ず】

社団法人 如 水 会

 

 

 



◆ 内容目次


はじめに ―ドイツで暮らして―

1 日本のことを知らな過ぎた

2 「個人」という言葉、「社会」という言葉

3 漱石の苦闘

4 ヨーロッパと日本の違い

5 調べが出来ていない日本の報道

6 日本の個人とヨーロッパの個人は似ても似つかない

7 一個の人格

8 「個人」の確立

9 内面が出来た

10 都市で職業が生まれた

11 近代ヨーロッパの成立

12 恋愛の発明

13 思想と愛

14 自画像のない日本

15 「世間」に埋没した日本の個人

16 日本人の歴史意識

17 明治の近代化

18 Loka

19 「世間」の中に歴史はない

20 エリートのいない日本

21 「世間」に生きている

22 贈与互酬関係

23 長幼の序

24 共通の時間意識

25 仏教とキリスト教との違い

26 貧窮問答歌

27 人間しか見ていない「世間」

28 歴史意識を考え直す

29 フランシスコ教団

30 近代化と「世間」


質疑応答

講師紹介


無断転記転載を禁

社団法人 如 水 会

 

 



はじめに ― ドイツで暮らして

 いまご紹介いただきました阿部謹也です。今日はこれから始まるフォーラムの第1回、たまたま日程が合ったということだけだと思いますが、私が全体の基調講演をするわけではありませんので、その点はご承知置きいただきたいと思います(笑)。  

「日本社会の二元的構造」という話はどういうことかといいますと、いまちょっとご紹介いただきましたが、私が勉強したのは大体ヨーロッパの歴史なんですね。しかもそれも中世の歴史で、まぁ、長いことと言っても30数年間その勉強をしてきたわけですが、1969年、ちょうど大学紛争の最中に、その頃小樽商科大学にいましたが、そこからドイツのフンボルト財団に招待をされまして、2年間ドイツのゲッティンゲン、ボンで研究をしたわけです。

その経過については、ここでお話する必要はないんですが、ドイツの一地方、日本で言えば北多摩郡ぐらいの地域の13世紀から16世紀までの全歴史をカバーしたい。相当野心的な仕事を考えていて、日本では相手にされなかったんですね。「そんなこと考えたってしようがないよ」と周りの人、増田四郎先生なんかもそう言われて「出来っこないよ」と言われながら行きまして、そこで不思議なことに、その文書館がいまでもあるわけですが、その文書館で2年間、ほとんどヨーロッパ旅行もしないで、何処も行きませんでした、2年間。そして最後に著書を書く原稿をドイツの教授に預けたときに、初めてウィーンに行って、ブリューゲルに会ったと、こういう経過でやっていたんですが、問題はそこじゃないんですね。




1 日本のことを知らな過ぎた

 そのときには私に子どもが2人いまして、いま1人は一橋大学の研究所にいますが、もう1人も生物の教師をして、別の大学におります。この人がまだ生まれたばかりで、あるいは小学校1年生で、この子どもたちと一緒に2年間暮らしたのです。そのときに、ドイツ人の暮らしぶりと我々日本人の暮らしぶりがどうしてこんなに違うのかと思うくらい違っていることに気がついて、その原因を調べようと思ったのですね。しかしそれはそんなに簡単なことじゃないのです。日本のことを知らないからですね。

ドイツについては、少なくとも専門家として、私も最初の著書はドイツ語でケルンの本屋から出たのですが、ある意味では向こうの土俵で相撲をとったわけですが、日本のことを知らない。しかし日本に帰ってからそれをやろうと思って大きなテーマを抱えて帰って来て、ちょうど紛争が終わりかけている頃に日本に帰って、そこでいろいろと調べ始めたのですが、そういうことをやった人がいないんですね。



2 「個人」という言葉、「社会」という言葉

 どこが一番違うと思ったかという点を言いますと、日本にある「個人」という言葉、この言葉についてはいろいろと本に書いておりますから、お読みになった方もいらっしゃると思いますが、この言葉は明治17年に「インディビジュアル」という言葉から翻訳してつくったんですね。誰が翻訳したかというと、1人ではなくて、西周とか、大勢の人が集まって、わいわいがやがややりながら、ヨーロッパと日本の距離を縮めようとしたんですね。

 それはちょうど日本が近代化を始めようとしているときで、あの頃の政治家もみんな若かった。学者も20代ですね。政治家も20代が多かったわけですから、非常に頑張って、ヨーロッパと負けないような国を創ろうということで、ヨーロッパの社会「ソサエティ」という言葉も明治10年には「社会」という訳語をつくったんです。社会という訳語については、日本で初めて出来たのではなくて、中国の古典に1例ある。それと中国の寺院の周辺にある日本の宮座みたいなのがあって、それが社会と呼ばれていたという事実はありますが、古典の中には1箇所しかないのですが、そういうことがあるから日本人の独創ではないのですが、少なくともソサエティの訳語としては、すぐには定着しませんでしたが、20年、30年するうちに定着して、いまでは誰もが知っている。一橋大学には社会学部なんていう学部まであるようになったのですね。

 ところが「個人」という言葉は、明治17年につくられた。つくった理由は分かりますね。つまりヨーロッパへ行った知識人が多いわけで、こういう人達は、ヨーロッパの個人というものの力が非常に強く、大きな力を持っている。この個人というものを日本で育てなければいけないと考えたのですね。福沢諭吉の思想を見れば分かると思いますが、彼は日本の古い陋習というものに非常に反発を感じていて、新しいものをつくろうとした。

例えば一橋大学には「如水会」という同窓会がありますが、まさにこのフォーラムを主催しているのは如水会ですが、私はこの間、交詢社の年次総会か何かに呼ばれて講演を頼まれ、行ったんですね。そこで聞いたら、石川さんという今の理事長に言わせると、私は何となくあれは慶応の同窓会だと思っていたら、そうではない。福沢諭吉が「自分たちだけで小さく固まっちゃいかんよ」と言ったので、他の大学の卒業生もどんどん入れて、いまでは一橋の卒業生もたくさん入っている。そういう会なんだそうです。それはまさに福沢流の考え方で、恐らく後100年たっても一橋大学の同窓会が、他大学の人を入れるようにならないかもしれないし、なるかもしれません。分かりませんが、少なくとも福沢さんみたいな人がいなかったら出来なかったんですね。



3 漱石の苦闘

 ということも含めて「個人」というものがヨーロッパと日本では全然違うということに気づいたんですね。これは当時の、例えば学者たち、文人たちの中でも、そのことの意味を深く察知した人は少ないんですね。例えば大正3年に夏目漱石が学習院で「私の個人主義」という有名な講演をしているんですね。これは岩波文庫にもいろいろ入っていますから、必ず読まれるものなんですが、私の個人主義という形で、ヨーロッパの個人主義を日本で自分はどう生きるかということを喋ったものなんですね。なかなか正直に、自分と学習院との関係なんかを喋っているんですが、その中に非常に注目すべき一節があるんですね。

 彼は英文学をやるためにイギリスへ行ったんです。文部省からお金を出してもらって、そこで悪戦苦闘したんですね。どういうことかというと、彼はすごい人で、とにかく日本で自分で英語を勉強して、会話もかなり出来たらしくて、しかもいろんなものが読めた。そこで英文学に関しては、イギリス人の評価とは違う、例えばある作家の評価に関しては、彼の評価はイギリス人の評価とは違う、そういう場合がしばしばあったらしいんですね。そのことをイギリス人に向かって言うことが出来ない。

何故かというと、それを言っても偏見だと思われたり、どうせ大きな社会、決定的に力を持っている社会の中で、一東洋人が違うと言っても、説得力はないだろう。だから自分が本当に思っていることを言うためには、日本の国情、日本の風土、日本の民族、日本の慣習、日本の宗教、それらを徹底的に調べて、その上で自分はこういう結論になるんだということを、イギリス人が納得するまでに研究しなければ英文学は出来ないとハッキリ書いているのです。つまり、ヨーロッパ人が、この人は立派だとか、これはすごいと言うからといって、それをそのまま鵜呑みにして、ヨーロッパ人の言うなりに自分たちもそれを紹介したり、ほめたりするというのは情けない話だとハッキリ書いているんですね。

 私はそれを読んだときに、相当前なんですが「夏目漱石は偉い人だ」ということを初めて知ったのです。つまり日本の高等学校では、漱石なんていうのはもう小学生くらいから読むんですね。中学校でも高等学校でも読む。これはやはり高校教育、中学教育に問題があるわけで、私は年をとってから『徒然草』というものを読んで、全然違うんだということが分かりました。高等学校のときに『徒然草』を読まされたんですが、何か全然違うものを読んでいるような感じでした。自分で読んでみると、変な男がいっぱい出てくるんです。変わった男が。しかもそれを兼好法師は非常に愛情を込めて描いているんですね。そして人間の生きる道というものはどういうものなのかということを説いている。それも年をとってから分かったわけですが、私の「個人主義」もそうなんですね。私はいまそういうことをやりたいと思っているわけなんです。



4 ヨーロッパと日本の違い

 ヨーロッパの歴史を勉強しながら日本の歴史も勉強し、日本とヨーロッパがこの100年の間にどうしてこれだけ大きな違いがハッキリ目に見えるようになってきたかということを知りたいと思ったわけです。その勉強をしようと思うと、ヨーロッパについてはある程度自分でしましたから、それは前提として、今度は日本のことを調べなければならない。何が一番問題だったかといいますと、いま言った「個人」なんですね。日本の「インディビジュアル」という言葉の翻訳は、明治17年に出来たと言いました。それでいま日本では「個人」という言葉は人口に膾炙している。誰でも知っている、使っているんですね。「私は個人だ」と平気で言える。ところが「個人」とは簡単に言えないんですね。

 いまはもう変わったと思いますが、香港大学の学長が、私が一橋の学長のときに訪ねて来て、まあ、外国人はしょっちゅう来るんですが、その中でどういうお仕事をしているのかという話になったら、もともと彼はオーストラリアにいたんですね。ある日、突然香港、あそこに2つ大学があって、英語のほうの大学です。中文大学じゃないほうの大学の学長にあなたになってもらいたいので、来てくれないかという話があり、来てくれという意味は、見に来てくれという意味なんですね。そこで自分1人で、女房だけ連れて香港に行ったんだそうです。

そして大学の建物の中を全部見た上で、教授たちと会って、面談をしたというんですね。その面談の内容はどんなことなのですかと聞いたら、この何年間かに何をやるつもりなのか。自分は中国語も知らないし、出来ないし、中国の事情も何にも知らない。しかしそういう人間を香港大学の学長に呼んで何かやらせるということに、まず驚いたけれども、そんなことはオーストラリアでもアメリカでもごくごく普通のことで、自分の母校の学長になるなんていうことは、まずほとんど例が少ないわけで、どこかから呼ばれて行くんですね。

ですからそんなことは常識なのだが、まさか香港に行くとは思ってなかった。しかも1人で行った。つまり奥さんは連れて行ったけど、スタッフは連れて行かなかった。完全に単身で乗り込んだという感じでその話をされましたが、そこで彼はこういうことを言ったんですね。「私はその当時研究していたのは、パーソナル・パーソン、個人というものですね。彼の住んでいたオーストラリアと中国とで個人が如何に違うかということに非常に関心を持って、論文集を編纂した」と言ったのです。

 私は非常に感心して、日本で個人のあり方に関心を持って研究した人はわずかしかいません。1人は女性ですが、古代ローマ時代前後に、キリスト教の影響の下で個人という観念がどうして生まれたかということを現代とあんまり関係なく、古い時代について調べた人ですね。これは岩波から出ていますが、現在の日本の個人については、いろんな人がいろんなことを言います。例えば評論家たちの言を見れば、最終的には、日本のいろんな経済の問題、政治の問題、最近の不祥事の問題を見て、個人が自己が確立していないがためにこうなっているので、自己の確立が必要だ。こういうふうな結論になる人が多いんですが、そういうのを聞くと、私は「またか」と思ってがっかりするんです。

何故かというと、自己の確立とはどういう状況を言うんですかと聞いてみたいですね。もしトークショーがあれば「あなたの言っている自己の確立というのはどういう状態になったら確立したと言えるんですか」と聞きたいわけです。恐らく答えられないでしょう。答えられるとしたら、周囲のこととの関係、周囲の社会との関係を語らなければいけないから、選挙権のある年になったとか、形だけのことしか言えません。



5 調べが出来ていない日本の報道

 しかし、香港大学の学長が言っているのは、そういうことではなくて、個人というものが、ヨーロッパで生まれた概念なんですね。ヨーロッパで生まれた概念がオーストラリアに広がってきている。中国にもいっている。そこでアメリカ等で、人権問題という形で個人が出てきている。

ずいぶん前ですが、クリントンと江沢民が会談したんですね。そのときに人権問題が主題になったと日本の新聞には書いている。しかし日本の新聞というのは、新聞と言うより新聞記者と言ったほうがいいですが、ほとんど勉強していませんので、その会談の主旨が何か、何が問題かということを一切論じていないんです。つまりアメリカにはヨーロッパを母体とした個人概念というものがあって、ヨーロッパから来たものですが、それが人権の基礎なのです。

ところが中国における人権とは何かと聞かれたら、簡単には答えられません。私は日本の専門家何人かに聞いてみた。はかばかしい返事がこなかった。ついに、あるとき、島根県立大学の学長をしている宇野重昭さんという人に会って話をしたときに、彼は明快に答えてくれましたが、要するに「中国で言う人権というのは、災害とか戦争とかそういうことから守られている状態ですよ」と、それを主として考えている。日本の場合もアメリカの場合も、個人の存在、生活を当然として、つまり災害や戦争から守られているということを当然とした上で、発言の自由、自分の主張を述べることの自由ということを言っていますが、中国はそこまではいってない。

少なくとも個人の自由なんていうところまではいかないで、災害とか事故とか病気から守られる状態というふうに言っていると聞いて「はーん」と思ったんですね。それならばまだ可能性があるけれども、多分話は並行したままで結論は出ないだろう。実際その通りだったんですね。そのときにもし新聞記者が勉強してれば、中国における人権概念はこういうものだ。アメリカの人権概念はこういうものだ。この両者がぶつかって、どういう可能性があるかということで予測する記事を書くべきなんですね。それが全くなされていない。

 例えば例を挙げれば、新聞記者じゃないかもしれませんが、テレビのショー等で、いま白装束集団みたいなのがいるということで、さんざん報道されている。毎回、何を言った、かにを言ったということ。しかし問題は、彼らが何者かということの報道が全くない。これまで何をしてきたかという報道も全くない。日本の警察庁長官も「オウムの初期に似ている」なんて馬鹿なことを言って、大方の顰蹙をかったわけですが、つまりきちんと調べて喋る、きちんと調べて発表するということがなくて、ワイドショーなんかでも、全く無知な素人を連れて来て、感想を述べているだけなんです。要するに調べが出来ていないんですね。



6 日本の個人とヨーロッパの個人は似ても似つかない

 そんなことをソンさんというんですが、その学長と話したわけではないんですが、日本の個人というものが、今日まで誰もが疑問に思わないでいるのに、私が疑問に思った理由は何かというと、こういうことなんですね。日本の個人を調べていくと、それはヨーロッパの個人とは似ても似つかないものだということが分かるわけです。どういうことかというと、個人という名前は出来た。インディビジュアルの訳語だ。しかし中身は全然違うんですね。そのことは我々の日常生活と深い関係があるのに、そのことが一般には知られていない。

 アメリカ映画に、ご存知の人もいるかと思いますが『ドットスンの長い旅』という映画があるんですね。短いもので、どうということのない有名な映画じゃないんですが、これはアメリカ映画の中でも傑作だと思っていますが、ドットスンという男は南部の出身なんです。そして奥さんはハーバード出の北部の人間なんですね。ニューヨーク育ちの。これは合わない。アメリカ人ならとうてい合わないと思う組み合わせなんですが、子どもが2人いて、上の子は小学校低学年、下の子はまだ幼いんですが、この2人がどうしてもうまくいかなくて、別れるという方向に話がいっている。

そのときにどうしたか。父親は小学校低学年の娘を連れて、2週間のウエストバージニアまでの釣りの旅に行き、フィッシングを教えながらテントを張って、車に乗ってずうっと回るわけです。その間に、娘の質問に全部答えるんですね。娘は離婚の気配を察していて、どうして離婚するのか、どうして結婚したのか、逐一聞く。それに誠実に父親が答えている。それを見て、私は「日本の父親がそれが出来るかな」と思ったんですね。



7 一個の人格

 私の経験した親というのは、そういう面が全然なかったわけではないんですが、大体において、子どもは一人前と見なしてなかった。私は若いときに、うんと若いときに読んだ本で、子どもについての有名なスウェーデンか何かの作家のものがあるんですが、エレン・ケイの『子どもの世紀』という本なんですね。翻訳もあります。冨山房から翻訳が出ていますが、この本で、私が学んだことは、子どもは赤ん坊でも一個の人格だということなんです。

一個の人格ということはどういうことかというと、大人と対等だということなんです。私はそういう環境に育ってなかったので、非常に驚いたんですね。で、そのことを私はヨーロッパでは勿論つぶさに見てきました。見学してきたと言ってもいいんですが、勿論、子どもが一個の人格だから、大人と同様に接するという意味もあるんですが、しかるべきときはビシッと叩きます。

 例えば日本の親子がレストランに来ているとしますね。ヨーロッパのレストランというのは子ども連れではほとんど来ないんですが、たまにはそういうレストランもあって、子どもを連れて来ている。そのときに、子どもがむずかったり、何か騒いだりしたら、みんな部屋にいる人がびっくりするくらい母親はほっぺたを叩きます。子どもはそれでおさまっちゃうんですね。日本の母親はそういうことはしない。「人の迷惑になりますから、ダメですよ」なんて言って、そのままにしている。新幹線なんかに乗れば、走り回る子どもがいっぱいいますが、ドイツでそんなことしたら、途端に全く他人から怒られます。

ということも含めて、子どもに対する躾けは厳しいんですが、子どもの人格を認めるという点では、これは日本では全くない状況がある。私もそうでしたが、私は自分の子どもをその人の説によって育てようと思って、まあ、女房とかおばあさんなんかとうまくいかなかったですね。例えば、まあ、これは半分冗談話ですが、子どもをあやすときに「アババ」なんていうことは言わない。「だって子どもが笑っているじゃない」って女房が言うんですが「それはあんたの顔が馬鹿ばかしいから笑っているんだ」(笑)とか言って、多少理屈をこねながら、少なくとも朝起きたら「お早う」と、普通に会話をしている。日本でそういうことをやると困っちゃうんですね。どうして困っちゃうかというと、子どもがほんとに自分が大人と対等だと思っちゃうんですね。そして学校に行っても、先生に対してもそういう態度をとる。

そのために、教師からいじめを受けた。日本のいじめというのは、生徒同士じゃないんですよ。先生が生徒をいじめる場合もしばしばあって、あるとき私がドイツに行くとき「お土産何がいい?」って言ったら、「ツビリングのナイフが欲しい」と言うんですね。そこでそれでツビリングのナイフのいいのを買ってきたんです。「お土産」と渡したら喜んでいた。

すっかり忘れていたんですが、それから5年も6年もして、彼が高等学校に入ったときに、そのナイフを出して見せて「このナイフ、お父さん、覚えている?」っていうから「覚えているよ」と言った。「うん、これ、何のために頼んだか分かっている?」って言うから「そんなこと分からないけど、何するためだったの?」って言ったら「先生を刺してやろうと思った」って(笑)。それは驚くことですよね。そんなことに気がつかない親だったんです。でもまぁ少なくともそれで先生から嫌われながらも、自分の道を貫いて、いまでは好きなことをやっています。



8 「個人」の確立

 そういう個人というものが子どもの頃からあって、それは歴史的に何時頃出来たかということを私は調べたんです。これは専門ですからね。12世紀なんですね。ごく最近、山崎正和さんという人の著書を書評する機会があって、彼はそういう個人が12世紀にキリスト教の影響で生まれたということには反対らしいのですが、それはそれで本人の意見ですからいいとして、私の考えでは、ヨーロッパで12世紀以前に、それまで日本と同じ「世間」があったのです。

 ヨーロッパの「世間とは何か」というと、『アイスランド・サガ』という本があるんですが、この本は10世紀から13世紀までの出来事を綴った物語なんですね。この物語には7,000 人の個人名が出てくるんです。例えば何とかの娘の何とかっていう形で、名前にちゃんと親父の名前が残るんですが、そういう名前が7,000人も載っていながら、個人の内面が一切語られてない。

例えば、ある男はある女と結婚するんですね。そのためにイギリスまで行って式を挙げるということが決まっている。弟はどうしてもそこについて行くと頑張るんです。みんなが反対したのに、ついて行くと。結婚式の当日には、隣の村に行って、大狼藉をはたらいて、大酒を飲んで騒いで、それで捕まったりしている。それを読むと、我々は前後の文章から、この弟はその花嫁に惚れていて、兄貴と結婚しちゃうということで荒れているんだなということが分かるんですが、そういうことは一切書いてない。

『サガ』には、日本に翻訳もあります。残念ながら翻訳が余りよくないので、難しいところもあるんですが、サガには殺人の話ばっかりなんです。ばっかりと言うと言い過ぎなんですが、Aという部族とBという部族が戦っていて、その戦いで必ず『ロミオとジュリエット』じゃないんだが、長年の敵討ちの伝統が出来ちゃう。

あるとき、5歳の男の子が父親の剣を持って、夜中にこっそり抜け出して、隣の村に行って、その村の首長を刺し殺して、帰って来るということが起こっている。その子はこっちの村では英雄になっている。ということが淡々と書かれているんですね。ところが1人1人の内面は書かれていないんです。もう1つ面白いのは風景の描写がないんですね。1か所だけあるんですよ。ある男が、バイキングの社会を追い出されて、追放されるんです。そのときに、船に乗るために川岸まで行って、そこで自分の家を振りかえって眺めたときに、麦がたわわに実っていて、黄金の波が出来ていた。美しいなと感ずる場面が、1か所だけあるんですね。しかしそれ以外に個人の感慨は書かれていない。だから2人の男が馬に乗って走っている・・・。片一方が突然相手を切り殺したということは書いてあるが、何故切り殺したか分からない。

 私のところにいた学生が、いま助教授で、一橋でその研究をしていますが、難しくてなかなかものになっていませんけれども、そういうことがあって、そこで“個人”はまだ生まれていないんですね。ところが12世紀になると、“個人”が生まれてくるんです。どういうきっかけで生まれたかというと、答えはヨーロッパではほとんど分かってるんですが、2つあるんですね。



9 内面が出来た

 1つは「内面が出来た」ということです。内面が出来るというのはどういうことかというと、昼間やった行動を夜、夜じゃなくてもいいんですけれども、自分の行動を振り返って、反省したり満足したりするという感情が生まれてくるということ。それは何故かというと、キリスト教が広がってきて「コンフェション」という告解というそういう制度が、みなさんもご存じだと思いますが、あるわけですね、いまでもね、一応ね、カトリックでは。

これが国民というか、キリスト教徒全員の義務になったのは、1215年、ラテラノの公会議で、全員の義務になったんですね。成人男女の。これも大変なことなんですね。大事件なんですね。ヨーロッパ史の中で。そして「告解」というのはどういうことかというと、罪をおかしたらば、司祭の前で、全部を秘密に語らなければきけないということなんですね。ところがそれまでは告解というのは公の場でやるべきものだった。教会のこれだけ集まっているこのへんに立って「自分はこういう罪を犯しました」「こういう罪を犯しました」とみんなの前で言うんです。

そして誰かが、2年間、ガレー船に乗れとか、2年間巡礼に行けと。こういう声がどこから上がるかハッキリ分からないんですが、そういうことが決まって、その男は2年間ガレー船に乗る。“ガレー船”ってご存じだと思いますが、大きな船で、お腹の下のほうからオールが何十本も出ているんですね。あれを漕ぐわけです。1人で1本のオールをとるんじゃなくて、1本のオールに何人もつく。極端な場合は、奴隷ですから、鎖に繋がれていてオールを漕ぐ。よく映画でご覧になると思いますが。あるいは巡礼に行く。この巡礼も四国88ヶ所なんていうものじゃないんで、サンチアゴ・デ・コンポステーラーというところまで行って帰って来ると、まあ、10人に7人ぐらい途中で死んじゃう、非常に危険な旅ですから、水杯を交わして行くわけですね。それでようやく罪の贖いが出来るという状況だったんですね。



10 都市で職業が生まれた

 もう1つは、あの頃に、12〜3世紀に「都市が出来てきて、都市で職業が生まれた」んですね。それまでは農民の子どもは農民でいるしかなかったし、騎士の子どもは騎士になるしかなかった。ところが都市が出来ると、職人になれる。親方にもなれるし、もう1つ学校が出来た。この学校というのは大学の萌芽ですが、それが出来て若者が動けるようになった。いずれにしても内面が出来たということは、自分のした行為の責任をとることが可能になり、とらなければならなくなった。それと同時に、自分の生まれたところから出て、外で生活する可能性が出てきた。この2つが個人が生まれる背景なんですね。



11 近代ヨーロッパの成立

 しかしそれで個人が生まれたって、近代のヨーロッパみたいにはならないわけです。近代のヨーロッパ社会みたいなものが出来た背景には何があったかというと、それが「市民」という概念にまで成長して、そして市民的な権利というものが生まれてきた。それはフランス革命以後なんですね。ですから大体「個人」という観念の萌芽が

12世紀にあっても、それが実体を持つのは18〜9世紀なんですね。その間は、国によってみな違うのです。ですからドイツの個人、フランスの個人、イタリアの個人、みな違うものが生まれている。フランス的な個人もいるし、イギリス的な個人もいる。軍隊を見れば分かりますね。

 例えばごく最近の映画ですが、と言っても数年前ですが「コレリ大尉のマンドリン」という映画があって、ご覧になった方もいるかと思いますが、あそこでは第二次大戦中にギリシアの島を占領したイタリア軍と、同時に後から入って来てイタリア軍をやっつけてしまうドイツ軍。そしてそのドイツ軍をやっつけて、連合軍が入って来るというあたりを書いたものですが、イタリアの軍隊というものの特徴がよく描かれている。まあ日本の軍隊、フランスの軍隊、イギリスの軍隊、みな国の個人の言わばある極端な姿を描いているわけですね。日本の場合も描いている小説がありますから、よく分かるわけです。というふうな形で、個人は12世紀に生まれたんですが、もう1つあるんですね。



12 恋愛の発明

 「恋愛」というのはいつから生まれたかという有名な話があって、私はこれを如水会では、33年会の年次総会のときに話をしたことがあります。ご婦人の番組という男性ばっかりでご婦人は退屈だからというので話をしたことがありますが、恋愛というのは「いつから始まりましたか?」と聞くと、日本の歴史家は「さあ、そんなこと分からないよ」と言う人もいるし、「万葉集にはこういう歌があるよ」と言う人もいるし、「人類とともに古いんじゃないか」と言う人もいますが、ヨーロッパでは12世紀に、恋愛は発明されたというんですね。「発明」なんですね。つくられた。それまでは男女の関係は当然あった。しかし女が男に尽くすという形の恋愛は幾らでもあったが、対等な形の恋愛というのはなかった。

 ヨーロッパの恋愛は、基本的には対等な人格の間の男女関係ですから、対等な人格が出来てないときには、つまり個人が生まれてないときには恋愛はないわけですね。ですから12世紀に個人が生まれたときに、初めて男女の恋愛の可能性が生まれてきて、その典型が吟遊詩人、ミンネジンガーというもので知られているわけですね。それはどういうことかというと、話をしだせば長くなるんで、今日の話からあまり外れないようにしますが・・・。

要するに戦国時代ですから、領主がみんな争っている。領主は常に優秀な騎士が欲しい。部下が欲しいわけですね。そして一方で、武士の家では、男の子が2人いても、2人とも領主にするわけにいきませんから、どっちかが出なきゃならない。しかしどっちを出すかということは、長子相続が決まっているわけじゃないので、地域によって違いますので、2人とも旅に出るんですね。父親のあとを継ぐなんていうことは、ちっちゃな城、特に十字軍までは、イギリスの城なんていうのはちっぽけなもので、イギリスの文化もヨーロッパの文化も非常に低かったんですね。ですから十字軍のときに、アラブ側の捕虜になったイギリスの貴族の話が残っていますが、自分の爪は真っ黒けなんですね。

 捕虜だけれども、アラブ人は彼らを貴族として待遇して、晩餐会に招待する。周りにはサテン等着た、香水の匂いが強い女性たちが侍っているわけですね。そして既にあの頃からヘルモンタン山のシャーベットなんかが出されて、彼らは驚くわけです。暑い最中にシャーベットが出る。「お母さんは何をしていらっしゃいます?」なんてイギリスの貴族に聞く。その息子は正直に「井草を編んでいます」なんて答えるわけですね。実際そんなもんだったんですね。

 貴族の子弟であっても、自分の親父のあとを継ぎたくないので、出来ればどこか武者修行に出て、お城かあるいは未亡人と結婚するか、娘と結婚するかして、お城を手に入れたいというのが、騎士の生涯の望みだったんですね。そこで騎馬試合に出て、勝利を得ればチャンスが増えるということで、あちこちで騎馬試合が行われていた。そのときに領主たちは、騎士のために、自分の女房や娘を着飾らせて出席させて、そこで賞状を与えたり、賞状ではなくてお金とか武器を与えたりして、そこでそういう騎士たちが奥方や娘たちに恋心を抱くような配慮をした。仕向けたんですね。

そこで騎士の恋愛というのが、宮廷風恋愛という形で生まれて、初めてこれは対等な人格の間の恋愛として、いまに至るまで伝えられている。つまり最初のヨーロッパの恋愛は、男が女性に対して、封建領主のように仕えるという形なんですね。言い換えれば、恋愛の相手は若い男女ではないんです。若い男女の恋愛なんていうのは論外なんですね。これは家も財産もないわけですから、そういうのは中世の貴族社会では無視されていて、まあ、多分そういうこともなかったと思います。生理的な欲望はあったでしょうけれども、恋愛という感情は教養がなければ出来ませんので、教養が必要たったわけです。恋愛というのはいまでもそうですが、週刊誌等をにぎわしている一見恋愛風な事件というのは、ただの肉欲のあらわれに過ぎない(笑)ですが、恋愛というのは「教養」が必要なんですね(笑)。そういうことは一橋大学の教養の課程ではやっていないようなんで(笑)残念だなと思っていますが、ということはどういうことかというと、そこでお互いに相手よりも少し高くなろうとするのです。



13 思想と愛

 そういうことをきちっと書いた本があるんですね。カペルラヌスの『愛の作法』という有名な本で2種類も翻訳がありますが、あれを見るといろんなことが分かります。まあそれはどうでもいいんですが、そういうふうにして、対等な人格同士の恋愛が生まれて、しかもそれは大抵は奥方となんですね。ですからヨーロッパには恋愛小説の原点に、言わば一種の不義密通といいますか、私は不義密通という言葉は好きじゃないんですが、つまりご主人の奥方と恋愛をする。その恋愛も肉体的な関係ではなくて、全てを捧げる。そのために十字軍に行って、死んでもかまわないという、そういう恋心を抱いて、戦争に行く。これは領主にとってこの上ない条件ですから、喜んでそういう条件をつくったわけですね。つくられたものですね。

 しかも非常に面白いことがいっぱいありまして、そのあたりに「詩」というようなものが生まれてくる。詩が生まれてくる背景、詩というのは個人がなければ生まれないわけです。そしてこれも余計な話ですが、日本の俳句というものは、最近ヨーロッパでも知られるようになったんですね。ヨーロッパ人の詩というのは、思想と愛、この2つが基礎で、この2つだけをうたっているんです。そのへんの草花とかチョウチョウとか、そういうものが歌になるとは彼らは思ってもいなかったんですね。

ところがいまから数十年前に、既にリルケなんていう大詩人は俳句をつくっていますね。そんなひどい俳句じゃないです。つまり自然を詠むということが、ヨーロッパ人にもやっと見えてきた。最近ですよ、それも。つまりヨーロッパ人は、愛と宗教とか思想とかというものだけが歌の原点だと思っていたのに、日本の俳句を通じて、初めて自然に目を開かされたと言ってもいいんですが、そういうことを含めて、ヨーロッパの個人というものが長いこと時間をかけて、しかもその個人は国家、都市と戦いながらつくられてきた。つまり個人というのは、どうなるかというと、中世の個人がそうなんですが、最終的には個人が生まれますと、神様になっちゃうんですね。



14 自画像のない日本

 一番いい例はデューラーという人です。アルプレヒト・デューラーという人が、15〜6世紀に北ドイツにいましたが、この人は13歳のときに自画像を描いているんですね。13歳の少年が、自分の顔を描くということは不思議なことですが、当時はやっていたんですね。それで彼は、金属細工師の父親のもとで、絵の才能があるということで、絵も音楽も職人ですから、バッハだって基本的には職能職人ですから、彼も職人として画家の工房に入って、そこで勉強して、自画像を描くようになった。自画像だけではなくいっぱい描いていますが、その中で彼が20歳のときに描いた自画像は、誰が見てもイエス・キリストにしか見えないようなものなんですね。

最終的には自画像というものを徹底して進めていけば、キリストになっちゃう。神様になっちゃうんですね。ところが不思議なことに、日本には自画像の歴史というものは、明治以前にはほとんどないんです。全然ないとは言いません。明兆とか雪村とか白隠とか、ごく少数いますが、ほとんどは禅坊主です。私はそれについてちょっと文章を書いたことがありますが、日本女子大の通信講座で書いたので、私の著作集には入っていますが、一般には知られてないと思いますが、日本に自画像がなかったのは何故か。

日本には「個人」がいなかったから。それしかないんですね。いまから2年ほど前に、NHKの「日曜美術館」で、そのことを論じていて、私も興味をもって聞いたんですが、美術評論家が2人程来て、白隠の話なんかしていましたが、日本に自画像がないというのは、しょうがないですね、ないんですからという程度の話なんです(笑)。ないのはハッキリしているんです。どうしてかというと、自画像よりも世間が大事だった。だから世間の中に含まれている自分は常に描く。



15 「世間」に埋没した日本の個人

 ですから例えば同窓会、如水会でも年次会を開くと「みなさんお集まりください」と言って、そこで写真を撮る。そこの写真館もそうですよ。一番前の人は、ズボンの裾を気にしてください。手を握り拳にしてくださいと必ず言います。何故握り拳なんですかなんて聞く人はいないんですね(笑)。北海道から沖縄までそうです。私は不思議だなと思っているんですね。サミットで、各国首脳がスナップ写真でもない、揃って写真を撮るときだって、みんなあちこち向いています。勝手な方向を。握り拳している人なんか1人もいないですね(笑)。

ところが日本の写真屋さんは必ず「一番前の人は、膝に握り拳をつくってください」私は一遍こうやっていたら直されました(笑)。何か全体に反発するといけない、これが日本の世間なんですね。そういうことはまた後で話をしますが、ヨーロッパでは個人というのは最終的には市民革命の中で成就して、そして市民の権利というものが生まれてから、現在に至っているわけですね。それが日本に入って来た。

ここからが面白いんですね。日本に入って来たときに、日本の当時の文部省は、勿論森有礼も含めて、ヨーロッパを先進国と崇めていましたから、ヨーロッパのようにしなければいけないと思っていたので、日本に学校令をひいて、小学校からつくり始めた。あの頃の小学校は開知学校として松本にあるいはあちこちに、いまでも多少残っていますが、既に日本人の建築家がつくっているわけですから、これはなかなかの技術ですね。アメリカに4年だけ行って、建築を学んできて、もう洋館をつくっちゃうわけですから、こうして日本でも個人が生まれると信じたわけです。

確かにその点はあったことはあった。どういう点かというと、被差別部落の子弟でも小学校に行くことが義務づけられたから、被差別部落の子弟と地主の子弟が並んで授業を受けた。日本の歴史では画期的なことなんですね。しかし現実の差別は全く変わらずに残っていた。戦後まで。いまでも勿論残っている。そういう状態なんです。それで、個人はどうなったかといいますと、これは面白いし、これは大学に関係ある人にとっては非常に重要なんですが、ヨーロッパの個人と日本の個人とは、日本の個人は世間の中に埋没している。



16 日本人の歴史意識

 この「世間とは何か」という話をし出すとキリがないんですが、いま私は実は岩波書店で、岩波新書に『歴史とは何か』という本を7年前から頼まれていて、最後の段階で、今年中に原稿を書こうと思っているんですね。もう序文は全部出来上がっているんです。見通しはついているんですが、どういうことを書こうかと思っているか、本邦最初に、ここでちょっとお話しておきますと(笑)どういうことかといいますと、簡単なんですが、大変なことなんです。いままで丸山真男さんを含めて、日本人の歴史意識について語った人は、全員が何らかの文書に基づいているんですね。つまり歴史的文献に基づいて論文とか、例えば『平家物語』とかそういうものに基づいて、まぁ『平家物語』に基づいて書いた人はいませんけれども、少なくとも歴史学者のものをもとにして書いているんです。

ところがいまの日本の状況を見ますと、日本の状況というのは銀行の不祥事から、あるいは大学も含めて、あるいは警察官、法務省も含めて外務省、いろんな不祥事が起こっていますが、不祥事の最大の原因は何か。深い原因はともかくとして、現象としての原因は、外務省の人間関係だということがハッキリしているんですね。ところがそのことは分析されてないんですね。新聞記者もそのことは分析しないんです。外務省の人間関係が歴史的な日本の世間と全く同様だから我々はすぐ理解する。

誰かがお金を預かっていて、それは全体の財布代わりにしていて、個別にみんなそこから流用していて、その本人は競馬馬を何頭も買っていたなんていうことは、みんな国民は知っている。しかしそんなことが罷り通っていた。あるいは検察官と裁判官がつるんでいて、検事の奥さんが何かしたことについて、九州のほうでガタガタしたとか、あるいは警察の不祥事、1人の警官がやったことをみんなでカバーし合うとか、こんなことは日本の世間ではごくごく普通に行われていたこと。何故それが今頃になって出てくるのかというと、明治の近代化に問題があるというわけですね。



17 明治の近代化

 どういうことかというと、明治に近代化を進めた。これを進めなければ、日本はアメリカやイギリス、あるいはその他の国の植民地になるしかなかった。そういう瀬戸際だったわけですから、当然日本は近代化をして不平等条約を撤廃して、各国とロシアも含めて平等条約を結びたい。そのためには法治国家であることを示さなければいけないといって、鹿鳴館のような馬鹿騒ぎもやったし、そして様々な学問をして、まず法学部をつくって、東大に、帝国大学に法の面で日本国を整備する。当然ですね。それを始めた。ところが、当時の文部官僚は経済のことには全然頭がいかなかったから、経済大学みたいなものをつくろうという気がなかったから、一橋大学はその間隙で、渋沢栄一等が働きかけて、鯛味噌屋の二階から細々と始まったという有名な話があるわけですね。そのことがいまに至るまで、いろいろと論議されていて、如水会の中にいますと、まさにそれは壮挙だということになります。

 しかし私は一橋大学の卒業生で、日本の経済学者の中でもなかなか優秀な人、かなり年ですが、この人と小平で話をしたときに、彼はこういうことを言っていた。「申酉事件」というのは、みんな諸手を挙げて賛成している。しかしあの事件も含めて、例えば文部省は、東京帝国大学の中に経済学科をつくろうとした。そのために一橋大学、商科大学の専攻部を廃止するという提案をして、商科大学の学生も教員もみんな怒って、それで退校しちゃったりして、それで申酉事件というのが起こったわけですね。

あの事件の結果ははかばかしくないことはみなさんご存じの通りで、結局、東京帝国大学の経済学科は発足するわけですね。そしてその人の意見では、あのとき、一橋がもし頑張らないで、東京帝国大学に全員が合併されたら、例えばいまだったら、残念ながら一橋の学生なんか全員喜んで行っちゃうだろうと思うんですね(笑)。あの頃は全員退学してやめちゃった。国に帰っちゃった。なかなかのものだったと思うんですね。いまの学生だったら、教授も含めて、全員行っちゃうと思いますね(笑)。全員ね。ところがあの頃はそうじゃなかったから、一橋は頑張っちゃった。それで日本の数少ない経済学者が東大にはほとんど行かなかった。

それで2つの拠点が出来たのに、人材はバラバラで、それが今日まで日本の経済学の不振の原因だと(笑)。名前は言いませんけども、みなさんも名前を知っているある人が僕に言って、それは私も1つの意見として(笑)拝聴し、面白い意見だなと思いました。

 これは余計な話なのですが、少なくとも当時の文部省も含めて、「個人」をつくろうとしたことは事実なんです。しかし現実に個人をつくるために、ヨーロッパは900年かかっているんですね。長く見れば。そんなに簡単に出来るわけはない。そして日本の世間というものの存在は、ここが面白い問題なんですが、明治以前に天皇はいたけれども、天皇制という名前は勿論なかったし、天皇がいることすら知らない国民が圧倒的だったんですね。

そこで、明治政府が、天皇を「玉」「玉」と言っていましたが、玉ですよね。を抱えて、こいつを世に出したい。この天皇を英君ならいいんだが、まだ子どもでしたから、それを出すために、彼らは相当苦労して、日本中歩かせたわけですね。天皇の存在をみんなに知らしめるために、歩かせて、そしてあちこちに天皇の足跡を残した。

北海道に行きますと、いまでは砂浜に「天皇が初めて北海道の地を踏まれた」なんていう碑が建っています。そういうふうにして、全国を歩いて、甲府の先の白州という町のそばには酒屋がありますが、いまでもその酒屋には、明治天皇が来たときの部屋がそのまま残してあります。「七賢」という酒屋です。驚いたんですが、その当時のことを書いたものを読むと、宮内庁の役人が何カ月も前に来て「この部屋に泊まるから、風呂場などを全部改造してくれ」と。宮内庁の職員が来て、全部改造して、風呂の水から洗面の水から全部東京から運んだと(笑)。そして使ったシーツから何から全部持ち帰った。

そのときの謝礼はどうだったかというと、白い反物一反もらって、いまではそれは黄色くなっていますが残っています(笑)。勿論全部出費はその家の出費です。しかし名誉だというので、いまでもその部屋は「天皇が泊まった部屋」として讃えられて、観光客が呼べるようになっているんですね。そういうふうにして、実際に行幸してたんですね。

 要するに庶民を信じていなかった。そしてその頃、天皇制を支えていたのは、藤田省三という人の研究によると『天皇制国家の支配原理』という本を読むと、要するに地方の郷党と官僚なんですね。官僚は日本の大学も全部そうですが、徐々につくっていく学校で、知識人が養成されて、その人達は言わば下のほうから煙突を通して、上のほうに来た。つまり中国も朝鮮も、士大夫階級というものが身分制社会ですね。そこから官僚が送られてきたから、士大夫階級が堕落すれば、国全体が堕落する。しかし日本にはそういう武士はもう力がなく、武士はもともと文字が書けない者もいたくらいですから、ヨーロッパでもそうですが、武士というのは大体文盲が多いんですね。

日本のもう1つの特色は、江戸の中期から、要するに寺子屋とかいろんなものが出来て、飯盛女ですら字が書けたんですね。それはどういうことかというと、商品経済が展開していて、商品名を覚えたり、値段を知らなければならないから、算数と文字はある程度出来た。そういうところに持ってきて、教育ということを重視した。

そこで教育勅語等が出来て、明治政府は発足したんですが、明治政府は都に拠点がなかった。郷党はいいんですよ。郷党というのは村ですから、村の共同体を拠点にして、都市の官僚、これを拠点にして、明治政府は天皇の2つの足にしたんですが、都市に足場がないんですね。都市というのは当時、いろんな人が集まって来る場所で、何が来ているか分からないんですね。素性をたどれば、訳の分からないのがいっぱい来ている。東京に後から集まって来た連中なんか、大体そんな連中なんですね。



18 Loka

 そこに拠点をつくろうとして、これは私の全くの私論ですが、そこまで書くかどうか分かりませんが「世間」というものが、古い、古い言葉です。世間というのは「Loka」という、サンスクリットの言葉、この言葉の意味は、壊されていくものという意味なんですが、このLokaという言葉からきていて、これを話しだすとキリがないんで簡単にやりますが、例えば『般若心経』ってご存じだと思いますが、般若心経というのは、玄奘三蔵が持って来たと、有名ですよね。玄奘三蔵の訳もありますね。いま我々の知っている般若心経というのは文字ですね。しかし江戸時代には文字じゃない般若心経があったんですね。つまり「般若」という最初のところは、般若のお面が描いてあって、その下にあるのは、お腹がポコンとふくらんだ男のお腹だけあって、般若波羅まで読める(笑)。

あとは蜂蜜があって、般若波羅蜜(笑)。これは農民でも読めたんです。つまり宗教でも、特に大乗仏教のほうでは、要するに声聞を繰り返せばいいということがありますから「般若波羅蜜多」というのを全部絵だけで覚えさせる経、いまでもありますよ。いまでも売っています。そういうものがあって、もっと有名なお経にもそういう分かりやすく書いたものはいろいろあります。玄奘三蔵が訳した『般若心経』というものが日本に広まったのはずっと後なんですが、ところが日本の法隆寺には、609年に既にサンスクリットの原典が入っているんですね。しかもそれは日本以外、どこにもない。インドにもないんです。

世界で唯一サンスクリットの『般若心経』の原典があるのは日本の法隆寺だということが分かっているんですね。これも大変なことなんですが、こうして般若心経とかいろんな宗教が日本に入ってきて、そこで教えたのは何かというと、仏教は様々ですから、いまの仏教なんて完全に堕落して、商人ですね。要するにお寺なんていうのは、お金を取って、入場者を集めているだけですから、商売をやっているに過ぎないです。救いなんか一切考えてない。そんなことはヨーロッパの教会を見れば分かりますね。 

ヨーロッパの教会は、基本的に誰でもどうぞお入りくださいと書いてあるんです。悩みを持っている人は入ってください。だからどんな壮麗な教会でも入って行けるんですね。そしてミサにあずかって、例えば神父さんに悩み事を訴えれば、当然それは聞いてくれます。しかし日本の清水寺でも延暦寺でもどこでもいいです。行って、入れば「入場料」と言われます(笑)。何百円か払わなければ入れてくれない。入れてもただ見るだけ。お話を伺いたいと言ったら、やってくれないところがありますね。

ところが密教が入ってくる頃はそうではなかったわけで、そういう宗教というものが非常に大きな力を持っていた。言っていることは簡単なことですね。「般若心経」なんかはほんとに一言「空」だけですよね。何にもないよ。何にもないんだよ。信ずるものは何にもないんだ。お前すら存在してないんだよと言っている。

 そういうことを言われて、どう考えるかという問題が残りますが、他の宗教も全部そうで、例えばこの「Loka」というのを日本語に訳すと「世の中」になる。この訳語は相当古くからありまして『源氏物語』とか例えば『方丈記』でもそうですし、あらゆる仏教の教典、大乗仏教という教典が、日本語の現代語に訳されて中央公論から出ていますが、非常に面白いものですね。聖徳太子が注釈を付けた『勝鬘経義疏』。勝鬘というのは女の人ですが、女の人が書いた経典なんて、非常に珍しいですね。仏教は女を平等に扱っていないと言われますが、そうではないんで、本来のブッダの弟子たちの中では、女性は決してそういう地位じゃなかったということが証明される経典ですが、そこでも「世の中」という言葉を使っている。全部それは「空」なんです。もう1つ、特色は何かというと、空だというだけではなくて「無情」だということですね。もう1つの特色は、その中に「歴史がない」ということです。



19 「世間」の中に歴史はない

 世間という言葉は我々も使います。しかしその中には歴史はないんですね。歴史というものは入ってこない。歴史は外から突然襲ってくるものだ。分かりやすい言葉がいいとしますと、例えばいま拉致事件が起こってから、この間は石原さんも出て、なんか大集会が行われたそうです。拉致被害者をめぐる何万人集会。石原さんが、北朝鮮に報復しなきゃならんと言うと、ワーッとみんな歓声を上げて賛同の意を表していましたが、私は恐ろしいなと思って見ていました(笑)。どうしてかというと、いまから70年前を振り返って、私は小学生のときですが、そのときに北朝鮮のいまの状況と全く同じ状況に我々はいたわけですね。全く同じと言っていいですね。どうしてかというと、我々には人権もなかった。

私は小学校のときに、私のおばあさんに、何か反抗したらしいんですね。「おばあさんはそんなこと言うけれど、僕はそのとき、大人になったら、もうおばあちゃんの子じゃないんだよ。天皇の子なんだから」って言ったらしいんです。そうしたらおばあちゃんが「そうか、じゃお前は天皇さんに食わしてもらい」って言ったらしいんですね(笑)。そんなことを私は周りからも聞いて覚えているんですが、自分で小学生のときにそういう意思を持っていた。

 日本列島についての本『龍が住む国』というのがあります。これは研究としては優れているんですが『龍の住む国』というのは、黒田日出男さんという人が書いた本で、岩波新書ですが、面白い本ですが、日本の国土とは何かということなんですね。国土というのは、行基式日本図というのがありまして、モンゴルが襲って来るということを背景にして出来た日本地図なんですね。この日本地図は北半分がないんですけれども、非常に面白い。日本の周囲を龍がとぐろを巻いているんです。この龍とは何かというと、ナマズの古い形だと彼は言っているんですが、要するに日本が襲われたときには、龍が日本を守るという信仰があって、それで蒙古が侵入して来るときには、この龍が日本を守る。

 私の小学校の教師は、日本列島は弓の形をしている。これに矢をつがいてアメリカを射るんですと言って、我々は何となく「ははん」と思っていたんですね(笑)。そういう教育を受けて育った。そういう人間がいまの北朝鮮の報道を見ていると、なんていうことかと思うんですね。この間、我々自身がしてきたことを向こうがやっているからといって、こんなに悪し様に言う必要があるんだろうか。少なくとも北朝鮮の可哀相な人達をどうしたら助けられるかという発想がどうしてないんだろう。我々はその中にいたわけですよね。

私は東京大空襲は川越から見て、延々と燃えている、真夜中、空の半分ぐらいが真っ赤に燃えているのを見ながら、私は東京大空襲を小学校何年生のときかに見ながら、自分の故郷が完全に焼けるなと思って見ていたわけですね。と言うか、後でそう思ったんで、その頃は仰天してというか、あんまり綺麗なんでびっくりしたぐらいです。そういう状況で生きてきた人間が、いきなり北朝鮮は何とかだと言われてもピンとこないんですね。だからそういう状況を我々が思い出して、70年前、たった70年ですよ。私は70にあと1〜2年あるんですが、私の寿命とそう違わないくらい前に我々がそういう状況であったということを思い出してみたら、北朝鮮についてもっと考える必要がある。非難したりする前に考える必要がある。当然拉致問題については、責任を問う必要が当然ありますが、しかしそれを言うならば、3,000人以上も拉致してきた日本の犯罪というものも我々は認めなきゃならない。当たり前のことが出てくるわけですね。そんなことを私はここで言いたくて来たんじゃなくて(笑)そういうことが起こってくる背景に何があるかということです。



20 エリートのいない日本

 つまり日本人は上のほうの人も下のほうも含めて同じなんですよ。どういうことかというと、明治以降、官僚制度が出来て、しかも大学が出来て、知識人というものが、恰も何か別な形で生まれたように見えるんですけれども、実際には知識人も外務官僚も、天皇家は別として、あの人達は別格ですが、つまりハッキリ言えば日本人的な暮らしをしていませんから、私は何遍も呼ばれて、学習院のときに、一緒に食事をしたり、皇太子の留学の相談を受けたりして、中に入っていろいろ話を聞きましたが、皇太子の頃は、絨毯もすり切れていたり、気の毒だなと思っていましたが、天皇になった瞬間に、全部絨毯も新しくなり、まぁすごく変わりました、東宮も。ですから天皇の地位は大きいんだなということがすぐ分かりましたけど(笑)。

しかし皇太子のときは非常に質素だったんですね。そしてまた、我々は教師ですから、天皇がいる部屋、狭い部屋でいろいろ懇談するんですが、出るときにお尻を後ろにして出たりしません。侍従たちはみなそうしていますが、我々は「さようなら」と言うと、さっさとお尻を向けて出て来てしまいます。けれども非常に教師を迎える態度としては礼儀正しいし、いまの天皇はアメリカ式の教育を受けた人ですから、非常に礼儀正しい。しかも勉強熱心ですね。つまり被差別部落の問題に関して非常に勉強したがっている。しかもよく知っている。

 しかし日本人全体は、エリートクラスがいないんですね。つまりヨーロッパやアメリカなんかですと、エリートがいて、この連中が国民に分からないように、いろんなことを策動しているわけです。日本の場合は、官僚だとか大蔵省とか文部省とかのお偉いさんといっても、同じ暮らしをしているんですよ。そこで私が言う歴史意識というものの根っこが世間にあるということが言えるわけです。つまり世間というのは全員に共通なんですね。しかもその世間というものは、全部その中にいる人は、人しか見てないんですね。我々は我々の世間を持っている。

例えば同窓会に熱心な人は、如水会という世間の中で生きているわけですね。しかし如水会という世間に生きている人はたくさんいるんですが、如水会というものは素晴らしいところだとみんな思っている。そして私の知っている人、私の弟子というか、学生の父親ですが、早稲田の教授だったんですが、この人はある高等学校の出で、その高等学校の同窓会が素晴らしいということをしょっちゅう喋っている。実際そうだったんでしょうね。そしてあんまり言うもんですから、その同窓会が事務員募集しているときに、奥さんがちょっと勤めてみようかしらと言ったわけです。彼は大賛成で「行け、行け」と言って、勤めたわけです。半年で彼女はいやになっちゃって「あんな最低なところにいたくない」と(笑)辞めちゃったんですね(笑)。

私はそれを聞いて、ある如水会に頼まれた文章の、如水会ではなくてOB会ですね。どっかの何年次会かの会にエッセイを書いたんです。年次の会がいっぱいありますから。どういうことを書いたかというと、ある大学の例として、そういう例を書きまして、その奥さんにとって、あるいは旦那さんにとって、同窓会とは何であるか。これは過去の自分たちの姿を映して見せるスクリーンだ。だからそこに集まれば、昔の若いときの自由で平等で勉強に熱心だった、あるいはサッカーだとかボートに熱中していた若き日の姿が見えるから嬉しくてしようがない。

老いぼれになっても、そういうものを見る楽しみは消えないわけですね。しかし問題はそのスクリーンをつくる人とか、設定する人とか、そういうものを保管する人がいる。そういう人たちにとって、同窓会ってそんなに素晴らしいものだろうか。その奥さんはそういう係として行ったから、同窓会は決して素晴らしくないということが分かってしまった。しかしスクリーンを見ている人だけにとっては、そんなに素晴らしいところはないわけで、そこに大きな違いがあるんだということを書いたんですが、それは同窓会の人達から多少の異見があって、撤回しました(笑)。だから残念ながら、公表されてない文章でした(笑)。私にはそういうのがときどきあるので、腹立ちまぎれにこういうところでちょっと紹介するんです(笑)。余計な話ですが。



21 「世間」に生きている

 少なくとも大事なことは、そういう日本に生きている人、我々ですよ。我々は自分の世間というものを考えてみるといいんですね。会社は世間です。しかし1つの世間ではありません。会社の中に幾つもの世間がある。だから新入社員には私は言うんですが、お前はあの会社に入ったって、あの会社に入ったと思うな。まずその会社のどの世間に配属されているかということが分かるまでは黙っていろ。自分の意見を出すな。きちっと応答し、礼儀正しく振る舞え。自分がどこの世間にいるかが分かり、自分の番が来たら発言しろと。あとは自分の責任でやれと言うんですが、そういう話を昔、中村雄二郎さんと東京新聞でしましたら、彼も全く同感で、そのときの東京新聞の記者たち、何人もいましたが「全くそうだ」と言っていました。

そういう組織で自分が例えば、自分がいた組織のことを思い浮かべたときに、何が残るか。「人」なんですね。人ばっかりなんです。我々は世間の中で何を見ているかというと、人しか見ていないんですね。だから人の関係だけが世間なんです。

 ですから例えば日本人同士ですと、初めて会ったら「今後ともよろしくお願いします」と言います。そしてしばらく前に会った人だったら「先日はありがとうございました」と言うんですね。私も平気で言います。しかしこれは私がドイツに行ったばっかりのときに、ドイツ語の会話がまだ不自由だったので、日本語の会話を訳していたんですね。そういうことを言ってみたんです。先日はありがとうございました。そしたら向こうの教授がキョトンとした顔をして「ええっ?」と言うんです。そのときに、しまったと思ったんですが、まあしようがないから、そこまで言っちゃったから、つい言っちゃったんです。「1週間前にお会いしたときに、これこれしていただいて、お礼を申し上げているんです」と言ったら「それは分かっている。もう一遍してほしいのか?」って(笑)。こう言われちゃうわけですね(笑)。



22 贈与互酬関係

 つまり、そこから学んだことは、ヨーロッパやアメリカの人は、私の経験で間違いないと思いますが、過去に逆上ってお礼は言わないんです。そして今後ともよろしくお願いしますというのも、お礼の先取りですね。これも言わない。何故か。そういう訳を例えば日本の映画をアメリカでスーパーが入るときには「今後ともよろしくお願いします」というときに「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ」なんて訳しています。何故かというと簡単なんですね。世間には3つの原則があるんですね。

 1つは「贈与互酬関係」。贈与互酬というのは難しい字なんですが、もらったら返すという関係ですね。これはお中元、お歳暮も含めて、年賀状も含めて、もらったら返す関係というものが贈与互酬関係で、これは我々の日常生活を大いに規制しています。しかしこれも日本独特なんですが、贈与互酬関係が商品経済の中で生き残っている例は非常に珍しいんですね。マラヤ大学の元学長で、サイード・フセイン・アラタスという人がいるんですね。この人は『オン・ユラプション』という本を書いていて、面白い本なんですが。

この人は東南アジアの国、名前はハッキリ特定していませんが、多分インドネシアの国の様々な賄賂の構造について説明していますが、その国でチップを払わずに受け取れるものは、局留め郵便だけだ。あとはゴミの回収から何から全部チップを払わなければやってもらえない。一番いい例は踏切番だ。踏切番が踏切を閉めてしまえば、トラックがずうっと並ぶ。そしてトラックが幾らチップを持ってきても、踏切は開けない。

しかしそのトラックのために、清涼飲料の店がいっぱい出来る。そこからは付け届けがくる。救急車とか緊急車両が来たら通しちゃう。しかし普段はほとんど開けない。列車は1日何本しか来ないから、閉めたままにしておいても構わない(笑)。それで賄賂が成立しているという話がいっぱいありまして、その中で「reciprocity」の、つまりお土産とかその他のときの贈与互酬関係を賄賂じゃないと言っているんですね。

 しかし日本の場合はそれになる可能性は常にある。教師のところに持って行く。私のところの大学院生が、昔、相当前ですが、非常に出来がよくなくて、大学院の学生なのに論文も出さない。私は落としたんですね。そうしたらいきなりその親から、コメを30キロ送ってきたんです(笑)。それを送り返すのに、自分で行かなかったのがいけない、いまでも女房に言われています。「宅急便まで運ぶのに苦労した」と。いまなら電話1本で呼べば来てくれるんですが、30キロのコメを持って、宅急便のところまで行って送り返したんですね(笑)。そういうことが教師でもあるわけですね(笑)。



23 長幼の序

 もう1つは「長幼の序」。これは言うことはないですね。如水会なんていうのはその典型ですから(笑)。 昔、鈴木永二さんが理事長になったときに、私にこういうことを言った。あの人はすごく偉い人で、私が学長になる前に呼んでくれたんですね。あのとき文部省との間でもめていた。学長選考規定を変えてないというんで。そのときに鈴木さんは何と言ったか。「いい学長が選ばれるんなら、如水会は全力をあげて支持しますよ」と言われたんですね。そういうことを言われると、大学としては返す言葉がないですね(笑)。自分がいい学長かどうかは分からないわけだし(笑)過去の人についても、私は判断する立場にはないんだから。

しかし鈴木さんはそういうふうに言ってくれて、非常に嬉しかったことを覚えていますし、しかもこんなことはいまだから言えるんですが、大きな予算を提出したときに、なかなか通らなかったんですが、鈴木さんのところへ、まずいろんな形で情報が入って、それで彼は私のファックスに「これこれは通る」と言ってくれたんですね。それが非常に大きな力になった。全然彼でもどうにもならなかったのは、佐野書院問題で、これは東京都で文句が出たんですね。あそこは一種住宅専用地域で、会議所はつくれない。それでさんざん苦労して、あちこち駆け回ったけど、国と東京都は全然違うんです。

あのときの鈴木知事なんか、一遍会っても、呆然とした顔をしていて、最後までこっちの言うことが分からなかったんじゃないかと思うんですね(笑)。勿論最後にはどうなったかというと、知恵者がいて、学長官舎という形で通しちゃったんですね。私には子どもが2人しかいないのに、子ども部屋が4つもありまして(笑)それで一遍ぐらい泊まらなきゃいけないと思って泊まったことがありますが、そういうときに非常に力になってくれた人が鈴木さんなんですが、そういう状況というものがあったわけですが、その彼が何と言っていたか。「阿部さん、如水会というのは長幼の序の集団ですからね、私なんかまだペイペイなんですよ。ペイペイが理事長になったことがどんなに大変かお分かりでしょう?」「よく分かっています」(笑)と言ったんですが(笑)。



24 共通の時間意識

 それと最後は、面白いんですね。「共通の時間意識」です。つまり日本人が何故「今後ともよろしくお願いします」と言うのかというと、相手と初対面であっても、この人とはいつか必ず会うだろうと思っているんですね。何処かで縁があるだろうと思っているんです。だから今後何処かでお世話になるかもしれません、よろしくお願いしますよとあらかじめ挨拶するんですね。前もってお礼を言っている。それから「先日はありがとうございました」というのを必ずみなさん言いますね。私はそれを忘れちゃうので、学長のときは何時も事務官に、前もって私の原稿を読んでもらったんです。

例えば、何とか宿舎が出来た。そこには建築関係の人、文部省関係の人、いろんな人がいるわけですね。全員に、謝辞を述べなきゃいけない。この建物の意義なんかについては幾らでも喋れるんですが、謝辞を述べるということが苦手で忘れちゃう(笑)。ところが事務官に前もって「この原稿を読んでおいてくれ」と言えば、必ず入れてくれますから、必ずそれを入れてもらってから、原稿にしたんですね。

 そういうことがあって、日本では過去の謝辞は必ず入る。だから「先日はありがとうございました」。アメリカ人でもヨーロッパ人でも、そういうことは絶対言いません。今後ともよろしくお願いしますという台詞は全くないんですね。いまのことはいまお礼を言っておしまいなんです。これは非常に面白いと思います。それは個人が生きているからなんですね。因縁の中にいないからです。

親鸞が言っている3つの問題で、1つは「過去の因習」というものかあって、日本の真宗、これは日本の歴史の中で、初めて世間というものが持っている呪術的なもの、因縁的なもの、全部打破しようとした最初なんです。そして最後なんですね。親鸞まではそれをやった。だから真宗教団のことをいまでも門徒物知らずと言う人がいますね。つまり、様々な節句とか、いまでもそういうものは一切やらない。中には墓がないところもあります。瀬戸内海には、真宗の島がたくさんありますが、お墓というものを持っていない島もたくさんあります。無墓制というんですね。それは真宗が、少なくとも親鸞の時代には、そういう一切の世間的な制約から外れて生きようとした。

言わば革新性、そのために織田信長に徹底的にやられてしまうわけですね。まあ織田信長という男もとんでもない男で、比叡山を焼き討ちしたりいろいろしましたが。そういうことがあったわけで、連如の時代になって、また世間が戻ってくるんですが、それが俗化した形で、いまも生きているんですね。だからその面に目を向けないと、外務省の汚職も分からないです。そして警察官の汚職も分からない。そのことを分からなければ、日本という社会も分からないということは、外国人は気付いている。

 私の『世間とは何か』という本を読んで、日本国内で書評も出ましたが、最初にわざわざ外国から質問に来たのは、ロンドン大学の教授で、この人は『社会とは何か』なんていう本を書いている人なんですね。日本の翻訳もあります。その人が来て「日本の世間のことを初めて知った。だからそれについて勉強したい」と来た。それからボン大学の教授もそのことで来ました。勿論、翻訳の申入れもありますが、これはなかなか難しいんですね。翻訳したいという人もいますが難しい。私の本は韓国語とか中国語にはなっていますが、ヨーロッパ語ではドイツ語で書いた本が1冊あるだけで、そういうものを翻訳したいという人はいるんですが、すごく難しいですね。

訳者に人を得ないので、なかなか出来ないでいますが、ウィーン大学の女子学生が「世間とは何か」という題で、博士論文をいま取ろうとしている。もう取ったと思いますが、そういう状況ではあるわけです。



25 仏教とキリスト教との違い

 問題は、仏教の経典がかなり一般の人にまで広がるように徐々になってきて、そこでこの世は無常だということ、そしてこの世というのは、言わば来世に行くための仮の住まいに過ぎないという基本的な発想が仏教にはありまして、キリスト教と根本的に違うんです。キリスト教の場合は、あの世で天国に行くためには、この世で社会的な秩序に合った行動をしなければいけない。つまりこの世でした借金を返さないであの世に行けば、必ず地獄に落ちる。極楽に行けないというんですね。ある修道士は、生前に院長の頼みで遠くに旅行したんですね。

そのときに川を渡るときの渡し賃がなかった。それで船頭に「後で返すから」と言って、ただで渡してもらって、それを忘れていたんですね。わずかな金です。彼が死にかけたときに、実際は死んじゃって、天国の入口に来た。目の前にちっちゃな硬貨が浮かんでいる。なんであんなところにあるのかなと思ったら、見る間にどんどん大きくなっていって、自分と天国との間を完全に塞いでしまった。その瞬間に目が覚めた。思い出したんですね。「そうだ、あの船頭にわずかな金額を借りていた」そこでその話を院長にしたら、院長はすぐに遣いをやって、その船頭に借りを返した。そのために彼は天国に行けた。こんな話がいっぱいあるんですね、ヨーロッパの中世には。たくさんあるんです。

ところが日本の仏教には、生前にしていた約束を守らなかったから、天国へ行けなかったという話はほとんどありません。近代になればあるかもしれません。しかし宗教のほうの話としては、この世は完全に「無だ」という、早く過ぎ去って行く。「穢土」って書きますね。汚い土ですね。そして無常というのもそうですが、従って現世に対する積極的な態度はない。そして世間というのは、言わば仏教の経典、大乗の仏教経典の中には全部、過ぎゆくもの、壊れていくものというのが、ローカのもとの意味ですから、世間というのははかないものだということは、そこにハッキリあるんですが、我々はその中にいて、それに縛られている。世間のいろんなしきたりに縛られて暮らしているわけですから、その縛られた暮らしの中で、我々は世間のしきたりに非常に苦しんでいる。



26 貧窮問答歌

 例えば万葉集の、みなさんご存じの「貧窮問答歌」ってありますね。山上憶良。この人も朝鮮からの帰化民族の末裔らしいんですが、世の中の止まりがたきを嘆く歌というのがありますね。これには2つありまして、1つは山上憶良じゃないんですが、若い娘と若い男が、若いときには体には唐玉、韓国の玉ですが、を手に巻いたりして楽しんでいるし、若い男は赤駒に跨がって猟をしたりして血気盛んであるが、あっと言う間に漆黒の髪は白髪になり、男も老いぼれて、あっちへ行っては嫌われ、こっちに行っては憎まれしてしまう。つまり人生はこんなものかという嘆きの歌なんですね。

 その次に憶良の「貧窮問答歌」というのがあって、当時の読みだと「びんぐう問答歌」らしいんですが、つまり貧しい暮らしをしていて「雨交じり」という有名な歌がありますね。そして村長がやって来て税金を取り立てる。日本では万葉集の頃から税はきちんと納めたらしいんですね。これをロシア人に言わせると、不思議な国だと言うんですね(笑)。ロシア人はいまでも税金を納める奴はよっぽど運が悪い奴で(笑)あるいは見返りが大きいから納めているので、納めないのが当然だと思っている。

だから手を変え品を変えして脱税に努力している。脱税のための様々な研究機関もある。それを日本人は源泉徴収なんてやっている。これも理解出来ない、って言うんですね(笑)。何故裁判が行われないのか。しかも私が、万葉集の頃から、全部取られていたらしいよと言うと、驚いちゃうんですね。日本の政治家は楽だなと言っていますね(笑)。こんな治めやすい国はないんじゃないか。僕もそう思いますね。ロシアなんかいまだに徴税システムが出来てないんですから。ソ連邦のときはどうだったかというと、取れるところからじゃんじゃん取ったんですね。その代わり国家から様々な利益もいった。取るところからは取りながら、利益もそっちに回していた。だから何も国家に奉仕するものがないところは、すごい貧乏なままで、シベリアなんか、あるいは樺太なんかはそんな状態で、いまでもそうですね。

そういう国と日本とは全然違う。ロシアの笑い話なんかはここで紹介する場じゃないんですが、本当はその国民の笑い話というのが一番面白いんですね。例えばチェコとポーランドの話があって、これだけは紹介しますが、チェコからポーランドへ犬が出て行った。チェコの犬が「なんでお前はチェコなんかに行くんだ」と言ったら、これはまだ冷戦下の頃ですよ。ポーランドの犬が「靴を買いに行くんだ」と言ったんです。そしてそのポーランドの犬がチェコの犬に「なんでポーランドに入るんだ」と言ったら「俺か、俺は吠えるために行くんだよ」と言ったと言うんですね。チェコには自由がなかった。だからポーランドでは吠えると。

実際、私の経験では、ヨーロッパの犬は可哀相に吠えません。完全に躾けられていて、汽車に乗ってきますね、コンパートメントに入って来て、毛だらけになっちゃうんですが、大きな顔をしています。しかし私がポーランドに行ったら、犬が吠えていたんで、日本と同じだなと思いました(笑)。日本も最近は犬が吠えなくなって、野放しの犬がいなくなりましたからね。吠えない犬なんていうのがちゃんと飼育されてつくられているらしいんです。



27 人間しか見ていない「世間」

 また余計なことを言うと、犬だけではなくて、動物園も閉鎖すべきだと思っているので、私はアフリカに行ったときに、キリンが走るのを見たんですね。すごい迫力で感動しました。日本に来ているキリンは絶対に走れないんですね(笑)。ましてや上野動物園にはちっちゃなこれくらいのケースがあって、そこに紙が貼ってあって「この蛇は日本に来て45年になります」。思わず「お前は45年もこんなところにいたのか」って慰めたんですが(笑)通じなかったですけれども(笑)少なくとも日本に限らず、動物園なんていうのはやめるべきだと思いますね。キリンは走らなきゃいけない。日本のキリンも象も本当に可哀相ですね。人権とかなんか言っているけど、ああいうところまで及ばない(笑)。余計な話ですが、そういう世間の中にいる人は、人間しか見てないんですね。人間しか見てなくて、歴史なんか見てないんですね。

 私の家に昔『今日は何の日か』という本があった。戦争中の本です。1月1日から12月31日まであって、今日は何の日かという。私は鎌倉にいましたから、鎌倉中心に書いてある。1月1日は豊臣秀吉が産まれた日。そして豊臣秀吉がどんなに偉かったかが延々と書いてあって、絵が上のほうにある。2日は何だか忘れたけれど、威海衛の何とかっていう、明治の戦争のときのね。日露戦争でしょう。ずうっと書いてあって、私はそれを面白がって見ていた。つまりあるところでは、この日に実朝が宋へ行こうと思った。実朝というのはおかしな人で、自分は宋に生まれた人間だと思っていたんですね。前世は宋の人間だったと。

だから宋に行くのは彼の夢だった。総理大臣です、当時でいえばね。それが宋に行きたいなんていう個人的な夢をかなえるために船をつくらせたんですね。で、由比ケ浜に浮かべたけど浮かばなかった。私が子どものときに聞いた話は、遠浅だから浮かばなかったって言うんです(笑)。私はそれを聞いて、馬鹿な話だと思ったんですね(笑)。船大工が遠浅だと知らずに船なんかつくるだろうか(笑)と思って、変だなと思ったんですが、小学生ですから、そんなものかなと思って、その本をもう一遍読み直してみた。

その本はもうなくなっていたんで『週刊新潮』に広告を出したんですね。「たずねもの」(笑)。そうしたら、四国の彼方から、その本と同じものを持っていますからお送りしますってもらっちゃったんですね。それを読んだら、実朝がそういう突拍子もないことを考えているので、幕府の官僚が、細工して、船を沈めるようにしたっていうんですね。穴をあけちゃったんでしょうね。それで浮かばなかった。諦めたという話になっていましたが、そういうようなのを読んで、私も生意気な小学生だったから、学校へ行って「先生、今日は何の日か知っている?」なんて聞くわけです(笑)。知るわけないですね。とんでもない何百年間の歴史、何千年の歴史を1日だけであらわしているわけですから。しかしその時代の風潮がよく分かる。ほとんど戦争中の軍記物、戦争とかのことばっかりで、パールハーバーもちゃんとありましたし、軍神の何とかもありましたし、橘中佐もあった。そういうものを読んでいた。私の家にあった歴史ものはそれだけなんです。あとはヒトラーの『わが闘争』と、それから谷崎の『源氏』があった。父親の蔵書はそれだけです。そんなものが普通の家の蔵書だったんですね。

歴史ものなんていうのは、テレビをみなさんご覧になっていると思いますが、テレビで例えば、いま「宮本武蔵」なんてやっている。家内が見ているから私もたまに見ますが、ほとほとあきれます。どうしてかというと、あれに歴史考証なんて歴史家の名前が載っているんです。いまの人を私は知りませんが、歴史家の考証も何も吉川英治がつくったものですね。ご覧になれば分かりますが、あそこで歩いている人。例えばお通が歩いている。まあ、お通があんな顔じゃないことは(笑)私は吉川英治を読んでいるから知っているわけですが、いまの人にうけるようにああいう人を選んでいるわけですね。目がぱっちりしていて、はきはきものを言って、自分の主張をぱっちりと言うと。これはあの頃いなかった人ですね(笑)。

昔のお通はつまり、吉川英治の書いたお通は、戦後なんですけど、やはり女性を重視するという意味でああいう人をつくったわけです。しかも常に旅のときも何にも持たないで、何時も同じ着物を着て歩いている(笑)。そんなことはあり得ないですね(笑)。旅装束もない。いろんなことがいっぱいあります。例えば江戸の話が出てくると、夜でも居酒屋がやっているんですね。江戸は木戸が非常に厳しかったですから、そんな夜真っ暗になるまで店をやることは絶対に出来なかったし、そんなことを含めて、時代物と言われているものは、NHKを含めて全部、現代劇です。現代劇を当時の衣裳にしてやっている。

従って原作者として比較的高名な人もいますが、実在の人物を使いながら、例えば水戸黄門なんていうのは、実際にはいたんですが、彼は水戸から出たことはない人ですから(笑)。全国なんか何処も行ってないわけですから(笑)そういう人を題材にして、みんなそれ嘘だと知っているわけですよ。全員が、水戸黄門が作り話だと知っているわけですが、あるいは平蔵、火消しの盗賊改めの平蔵。これも実在の人物です。大岡も実在の人物。しかし大岡裁判なんかもペルシャの話がいっぱい入っていたりして、あれもみんなつくりものですね。一番大事なのはそういう点で、日本人が歴史を考えるときは、自分の世間の中に歴史があるということがないわけです。つまり全部外から来るもの。突然襲ってくるもの。だから戦争中も神風が吹いて勝つなんて平気で言っていたわけです。合理的な思考の持主はそんなことを言うはずがないんですね。



28 歴史意識を考え直す

 というふうに、私は歴史というものを見て、歴史意識というものを考え直さなきゃいけない。つまり庶民の歴史意識とは何か。学者の持っている歴史意識とは何かというのを世間の分析を通じてやっていく。見通しは簡単なんですね。仏教の経典の全部が、現世は無だと。現世には積極的な意味はないとハッキリ言っている。どんな教団でも全部そうですね。そして来世にだけ期待をかけている。その来世と現世を結ぶ絆というのは、仏教の場合はほとんどない。ヨーロッパのカトリックには結構あるんですね。

だからヨーロッパでは、そういうカトリシズムというものが生まれて、そういう政党が出来ていく理由もあるわけですが、日本の場合は、歴史というものは、明治以降、インテリが生まれてきて、インテリは実際は世間と同じ中に暮らしているんですが、頭の中でこねくり回しているだけですね。ですから例えば南京大虐殺とか歴史教科書問題で争いが起こったときに、問題になっちゃうわけです。

 ここでヨーロッパの歴史の話を1つだけしておきますと、ヨーロッパでは、歴史学の使命は何かってハッキリしているんですね。誰でも分かるようにハッキリしているんです。それは歴史にはろくでもない歴史がたくさん書かれている。こういうものが間違っているということを論証し、打破するのが歴史学の使命だと、こういうふうに言っているわけです。そうだとすれば、日本の歴史学者は、日本史に関して言えば、NHKがやっている歴史もの。「このとき歴史が動いた」とかは、「嘘つけ!」という感じ(笑)なんですね(笑)。歴史なんかしょっちゅう動いているわけですよ(笑)。このときに動いたなんていうことはあるわけないですよ(笑)。こうやっているときも動いているわけですね。

イマニエル・ウォーラシュテインという人がいることをご存じですね。この人が私学部長のときに、駒場で、この人も呼んで、大勢呼んで、シンポジウムをやったんです。大きなシンポジウムでした。そのときに、朝、私が起きて、ロビーに行ったら、ウォーラシュテインが、新聞を抱えて帰って来たんですね。駅まで新聞を買いに行ったんでしょう。そうしたらそばにいた、マニロ・カステロというスペインの学者が「世界システムに何か変更があったかね?」って聞いたんですね。

これはウォーラシュテインという人が、世界システムの研究をしている大家だということを知っている人なら分かるんですが、「世界システムに何か変更があったかね」って聞いたら、彼はちらっと新聞を見ながら「まあまあだね」って答えた(笑)。私はすごく面白かったんですね。そういうことを平気で冗談に言えるというのはなかなか大したもんなんですが、歴史はしょっちゅう動いている。どうでもないときにも動いているわけですね。そしてそういうものに日本の歴史家が、時代考証なんてやっている。おかしいですよ。



29 フランシスコ教団

 「バラの名前」という映画がありました。これは修道院のことを書いている。これもインチキ。学者が書いたんですが、インチキです。何故かというと、修道院の構造っていうのは全員が知っている。素人でも知っているんですね。ですから修道院のトイレが何処にあるかなんて、入った瞬間からみんな分かるんです。そんなことをシャーロック・ホームズまがいに推理しなくたっていいわけです。しかもあの一番の欠点は、フランシスコ教団が舞台になっているのに、若いワトソンの代わりになっている男の恋人が、平民の中にいるんですね。

平民というのは、周りに3,000人もたむろしていて、修道院から出るゴミに群がっているわけです。修道院から毎日大量のゴミが出る。つまり修道士たちがみんなたらふく食っているわけです。トーマス・アクイナスなんかは太って、テーブルにつけなかったから、トーマス・アクイナスのところだけ丸く切ってあった(笑)。有名な話ですが、そうするとお皿に手が届くわけです。これも有名な話で、本当かどうかは分かりません。ある人が書いているんですが。そうしてみんな暴飲暴食をしていた。

そのときに、その少年は、貧民の娘に恋心を抱いて、あの人を貧困から救いたいと思ったと書いてあるんですね。そんなはずはないんです。フランシスコ教団というのは、貧者の教団ですから、貧しいことを旨としているんで、フランシスコという人は、金持ちの息子として生まれたんですが、全部捨てて、一文無しとして立って行った。だから3,000人も信徒が出来た。みんな付いて来たんですね。日本に本当にそういう人がいるだろうかと思いますね。

まあ、日本の場合はそういう信仰がないから、坊さんはみんな金儲けに専念しているし、本当の宗教者というのがほとんどいないからですが、フランシスコが一切のものを捨てて、1人で歩きだしたために、3,000人も付いて来た。そこでフランシスコは困ったわけですね。3,000人の人達に、寝るところと食べ物を与えなきゃいけない。そこでフランシスコ教団をつくらざるを得なかった。これは創設者の矛盾ですね。つまり自分は貧困に生きようと思うが、庶民は貧困では生きられない。つまりパンなしでは生きられない。彼はパンなしでも我慢して生きられるが、3,000人は養わなければいけない。

だからイエスも1切れのパンから3,000人もの食事をつくったというか、誤魔化したわけですね。太宰治が有名な小説の中で、ユダのことを「俺はイエスがお前たちに全部食事を与えると言って、嘘ばかり吹いて、みんなに食事を与えるなんて言っているけれども、俺が全部仕入れてきたんだ。その苦労も知らないで、勝手なことをほざいている。大変なことだ」と言って書いている有名な小説があります、太宰の最高傑作ですが、そういう状況は現実にあったと思うんですね。



30 近代化と「世間」

 そういうことも含めてですが、そういう中で様々な問題が展開していく。それが我々の世間の根底にある。もう1つ、世間には生者だけじゃなくて、死者も入っている。だからお墓とか墓参というものは非常に大事なんです。これはヨーロッパと全然違うところですね。今日は短い時間でお話をしますから、二元的構造のほうの話にいかかったのは恐縮ですが、一言で言ってしまえば、日本社会、明治以降、こうして近代化と世間との2つに分かれていて、我々はみんな世間を知っている。世間の中で生きている。それは表に出ない。表に出ないが厳然たる力を持っている。

新潟の原発を見れば分かりますね。6号機だけ動き出しました。しかしあと7号まで柏崎にある。まだ動かせない。2,000人の村民が反対しているからなんですね。どうして反対しているか。取りまとめる人がいないからです。角栄がいたときは、ぱっとまとまったんですね。つまり世間が機能しているときは問題なかった。世間というのはそういう意味で、昔は封建遺制なんて言われましたが、そうじゃなくて、近代化を影で助けてきた。それが世間なんですね。いまはその世間が近代化が弱まっちゃったために、つまりいまの総理大臣は、近代化を進める気はもうないし、近代化をどう進めていいかも分からない状態ですね。

 それでは、日本の基本構造をどうすべきか。これについて意見が合わない。意見が合わないんだが、簡単なことをみんな忘れているんですね。どうしてかというと、世間を見ていないからです。それは一番大事なことは、国民に希望を与えること。若い人に希望を与えること。それが出来ない人は、政治家をすぐに辞めなきゃいけない。これはテネシーバレー計画、TVAでも全部そうだったんですね。それをしなければ絶対成功しない。国民に希望を与えるためには、あらゆる犠牲を払わなければいけない。

しかしそれの逆をやっているわけですね。健康保険とか、いま病院へ行ってごらんなさい。病院の患者がうんと減っているんですね。保険法の改正で、3割負担になったために、病院に行かなくなってしまった。それは非常に危険な状況です。若い人達もそうなんですが、そういう状況にいま来てるるということに政治家たちが気が付かない。それは自分の世間だけを大事にしているからですね。彼らは自分の票田だけを大事にしているから。つまり世間を超える視野がない。歴史を見る視野がない。それは世間というものが持っている言わば歴史的な性格なんですね。

そのことをハッキリ書くと、大方の反発がくるだろうと思いますが、反発がきても構わないので、最後の仕事なのでやるつもりですが、今日は「二元的構造」ということで話をすることになっていて、その話の主なところは全部しましたが、最後にちょこっと話しただけで、あと30分を少し切ってしまいましたが、質問の時間を30分取ってくれと言われているので、もしございましたらどうぞ。      (拍手)



◆ 質疑応答

司会 どうもありがとうございました。本日は最初に「時代を超えて変わらぬもの」ということで「日本社会の二元的構造」というテーマで、阿部先生にお話を伺いました。これは2時間の間に、1時間半ご講演いただいて、あとの30分は質問を受け付けるという形で進めていきますので、ご質問のある方は手を挙げてください。マイクを持ってまいりますので、マイクがきたらご質問をお願いします。それではお願いいたします。如何でしょうか。後のほうになると手がたくさん挙がりますので、初めのほうがよろしいかと思います。

講師 日本で記者会見をやりますと、何回も国大協のときに記者会見をやりましたが、記者会見をやっている間は、質問は決まった人が3人ぐらいなんです。終わってからが大変なんです。名刺交換で来て、そこで質問が始まるんですね(笑)。公のところではやらないんですよ(笑)。ここはそうではないんで、どうぞ(笑)。

司会 如何ですか。今日は珍しく、よろしゅうございますか。ここでは質問がない場合はそこで終わるということになっているんですけれども。はい、どうぞ。

質問 55年卒業の森田と申します。伺いたいことが2つほどあったんですけれども、1つは、12世紀において、キリスト教の普及その他に伴って、告解を通じて自己を振り返るということから個人が出来てきた。ただ、その時点における個人というのは、フランスの個人であり、ドイツの個人でありという、国民性みたいなものがあったのかなと理解したんですが、それが19世紀に至って、市民社会が成立するとともに、ヨーロッパとしての個人になったのかどうかというところを、済みません、ちょっと聞きそびれたということが1つです。

   それともう1つは、戦後の教育によって、大分戦前からの基本的な考え方、教養的な大衆芸能的なものっていうのは、いまの世代には引き継がれなくなってきています。そういう状況においても、社会といういままで出来てきた世間、イコール会社みたいなところに入って行くと、よろしくお願いしますとか、この間お世話になったのに、ありがとうございましたも言わなかったんだよっていうようなオン・ザ・ジョブ・トレーニングでもって引き継がれてきているんだとは思うんです。それらが徐々に、仏教というものも共通の知識としては大分薄くなってきているという中で、薄れていくんではないかというふうに思うんですが、完全に薄れていくには、まだ3世代とか4世代とか、そうかかるものなのかなという、まぁ半分感想めいたものなんですが、もしご見解があればお聞かせいただきたいという2点です。

講師 いい質問だと思いますが、最初の質問は、12世紀に生まれた個人というのは、告解とか都市を中心として出て来るわけで、最初は少数ですね。少数ですから、まだその段階では各国の国民性は出てきません。国民性が出て来るのは恐らく16世紀以降だと思いますね。宗教改革というものが起こってから国民性が出てくると思いますが、つまりその頃には大学は官僚養成機関になっていますし、各国の代表が各大学に行くようになりますと、国の代表が大学の同窓会をつくりますのでね。

 各大学にはドイツ団とか、イギリス軍団とかっていろいろ出来て、これが一橋大学にあったのは、中央線で通うグループとか、埼京線で通うグループとか(笑)そんなようなものです。それに近いものが各国ごとにあって、国民性が出てくるのは、16世紀以降だと思います。それらがヨーロッパとしてひとつの性格をもつようになるのは、EUが出来てからで、これからのことでしょう。

 それから世間的な様々な習慣というものがどうなるか。これは私も関心があって、どうなるかなと思っていますが、世間の歴史というのは、そんなにひとしなめには言えないところがあって、江戸末期までは、例えば西鶴の『世間胸算用』とか、ああいう言葉で、人口に膾炙した言葉だったんですね。「世の中」という言葉もみんな知っていたわけです。世の中という言葉は「世間」と全く同じように使われていて、「世の中を憂しと優しと思へども」という山上憶良の歌みたいに非常に古い時代から使われていて、日本の和歌とか俳句も、例えば『方丈記』の「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」みたいなものも、根底に仏教の考え方がある思想で、いまでもそういう発想でものを書く人はいるわけですね。

 しかしそれがどこまで続くかということですね。ちょうどいま国会図書館が出している3万冊の人文科学書のデータベースがあるんですね。そこであの頃の小説とか何かを読んでみる。呼び出すのは簡単なんですが、プリントアウトが大変で、たくさんは読めないんですが、そうすると、その頃の小説、ほとんどいまでは知られていない小説の中に、やはり世間の習俗というものがあって、例えばある男は外務省に就職しようと思っている。そして外務省の役人をしているおじさんのつてで外務省に就職出来ると期待している。家族もみんなそう思っている。ということは同時に、そのおじさんの家に住み込むんだと本人は思っている。

 ところがおじさんのほうは、勤めは認めるが、家は住まわせない。ということはどういうことかというと、娘と結婚はさせないという意見だというので、その小説の一番の大きな筋がそこで出てくるんですが、そういう習俗はもうないと思うんですね。おじさんが外務省に就職を斡旋する。いまでもあると思います。それはあるだろうと思うんですね。国家公務員試験を受けるとか、あるだろうと思いますが、そのために自分の家に一緒に住まわせて、娘と結婚をさせるという習俗はもうないだろうと思うんですね。

 そういう親族関係の事例は消えていくと思いますが、私は今度の本の中で、もう原稿はかなり出来ているので、世間の中で生きる人間の作法みたいなものを書いてあるんですね。持ってくればよかったんですが、持ってきていないんですが、人の悪口を言わない。人の長所は幾ら言ってもいい。意見が分かれたときに、自分の個人の意見を滔々と言わない。意見が分かれたときは、出来るだけ大勢のほうにつくと(笑)。少数にはつかないとか(笑)そういう世間の典型的な事例を見ると、少数のほうにつくななんていうことは勿論書いてないけど、修身の教科書に比較的近くなるんですね。

 しかし人の悪口を言わない。そして人に会ったときは、ほめるとこだけは言えとか、そんなことは現実に行われていることで理想としていたところがあるわけで、そういうものの中に、少数派にならないように努力するとか、あるいは過激なことを言わないとか、皇室の悪口を言わないとか、まあ日本で皇室の悪口を言う人は少ないと思うんですね。日本の皇室というのは非常に特殊なものですから、そういうふうなことを見ていくと、なかなか変わらないと。

 ただ、父親の地位というのが変わってきましたから、例えば学生たちに、昔、調べたことがあるんですが、母親に対する恨みつらみを持っている学生はたくさんいました。しかし父親にはないんです。ないというか、無関係なんですね(笑)。母親とはぶつかった。つまり交友関係、ボーイフレンド、ガールフレンド、部活、就職、進学、それでぶつかったけれども、父親とはほとんどぶつかってない。言い換えればいないんです。だからたまに「今日は会話をしよう」なんて父親から言ってくると、逃げてしまう(笑)。

 いまの子どもたちが嘘を平気でつく。要するに親子の関係で嘘が当然だとされている。昔は、嘘は言ってはいけない。絶対嘘はつくななんて言ったんですが、私は子どもの頃から、大人は嘘つきだと思って育ちましたから(笑)つまり私の親たちが私のことを親戚の前で話しているときに、誇張して話してると思うんですね。自分は違うのに。大人に対して子どもたちはどうしているかというと、親が納得するような答えを用意しているんです。

 例えば私の学生で、漫画家になりたいという志望の学生がいたんですね。しかし彼女もそれをハッキリ言わないで、普通の会社に行きながら、こつこつとマンガを描いていたんですね。その会社をある日突然辞めて、そのときには自立しているというか、親の意見を聞かなくてもいい状態になっているから、そこで自分でアルバイトをしながら、漫画家になっちゃったんですね。要するにいま食えるようになった。これは大変なことなんですね。漫画家として高名というところまではいきませんけど、食える漫画家になった。これは大変なことなんですが、そういう人を大学は教えられないんですね。

 私が彼女に言ったのは、1つだけです。ヨーロッパへ2週間行くというから「お前しか見られないものを見てこい。それを報告しろ」それが出来ないんですよ。2週間ヨーロッパをあちこち回っても、自分しか見られないもの、そういう経験はなかなかないんです。ピサに行って、ピサの斜塔の写真なんか撮ったって、みんな斜めになっているのを撮ってくるんですから(笑)。「何故真っ直ぐのを撮れないの?」って聞くと「ああ、そうか」なんて言っているんですね。

 いずれにしてもそういう状況で、習俗と関係しますが、私は個人というものが、ヨーロッパ風になることはないと思いますね。日本の個人は。私は日本の個人のほうが、世間との折り合いをつけていくという意味では、いろんな意味で協調性のある個人なんです。ただ、自己主張が弱い。非常に弱いんですね。そして後で恨みが出てくる。極端なことを言いますと、いろんなことが、まあ、みなさんの年になれば分かると思いますが、いっぱいあるわけですが、そういう問題が恨みになって出てこないような形で老年を迎えられるような個人の生き方が出来るということが理想ですが、私はヨーロッパ的な個人は、非常に問題があって、それはいま反省期にきてる。

 だから俳句なんかにもみんな目を向けるようになっているし、日本の仏教なんかにも、日本の仏像なんか、パリに行くとすごく歓迎されるわけです。フランス人は芸術的な才能があるのか、教養が高いのか、非常によく分かるんですね。だからいまのシラクもそうですが、日本贔屓の人が多い。しかし彼らの日本学というものを見ると、ジャパノロジーという学問があって、それは日本学というんですが、ほとんど全員が芸能とか落語とか、あるいは細工物とか、そういうものの研究なんですね。

 日本の現在の制度社会の研究者というのはほとんどいないんです。アメリカ人の少数の女性の研究者が、最近ようやく、日本社会の研究を始めたんですね。名前をすぐ挙げられるぐらいに少数ですが、やっとこれで対等になったと思いますね。まあそういう意味では、2番目の質問の世間がどうなっていくかは、私も分かりませんが、私の書物を読んでいた人々が、世間学会というのをつくって、そこでいろんな人の意見を聞いています。お坊さんで、ロックを背景に声明なんか唱えているお坊さんがいますが、その人の話なんかを聞くと、日本の仏教界はもうどうしようもない状態だというふうに言っていますが、そんなことは数百年前から分かっていることなんですね(笑)。それでも日本人はいいとしていた。葬式仏教、いいとしていて、個人の救いなんか求めていないんです。

 だからそういう点で、日本のいまの仏教を、私は悪し様に言いましたが、金儲けに走っている点だけは悲しいと思いますが、少なくとも個人の救いだけを考えるプロテスタント的な発想は、日本人には受け入れられないと思いますね。ヴァルガーな(大衆的な)プロテスタンティズムは存在しないんです。ヴァルガーのカトリシズムはあるんですね。カトリシズムというのは、大衆的なものなんです。

 しかしプロテスタンティズムは全体にエリート指向で、個人に基礎を入れるから。そういうものを目指した日本の明治以降の近代化の1つの傾向は問題があると思いますね。だから日本の世間の全てが消えなくてもいいけれども、その弱点である個人の弱さ、これは何とかしたい。出来るかどうか分かりませんけれども、というふうに考えています。

司会 はい、それではどうぞ。

質問 40年卒の太田と申しますが、先生、ヨーロッパと日本の世間、いろいろ勉強になったんですが、その「世間」というのは、現代、我々の社会をおおっている大きな閉塞感、構造改革をやってもうまくいかない。そういうものと基本的に連動しているのかということと、それからもし連動しているということであれば、では夢を持つために、政治家なりあるいは知識層、そういう人達に何が出来るのかということをちょっとお話お伺いしたいと思います。

講師 とてもいい質問ですね。これはなかなか答えるのは難しいですが、私は明らかに連動していると思いますね。要するに、警察官でも裁判官でも、外務省でも、一人がしたことの責任というものを、その人はとらなくてもいい場合があって、大勢の人がとる。しかし最終的にはその人に押しつけて、全部カバーしちゃう。つまりバブルのときのいろんな事件がありましたが、アメリカではそれに相応する人物、3,000人ぐらいが実際に裁判で起訴になっているんですね。

 日本ではほとんどいないんですね。東京裁判が正しい裁判かどうかという議論はありますが、そういう例も含めてですが、ヨーロッパなんかいまでもナチズムの迫害者を追及していますから。仏教的には敵を許せなんていう考え方もあるからですが、日本をおおっている閉塞感というのはどこから来るのかということは、岩井さんという東大の経済学者がいますね。あの人の『会社はこれからどうなっていくか』という本に非常に明快に書かれていますから、現在どこまでからきているかが分かると思いますが。

 一番大きな理由は、私は日本の世間というものが、例えば何で日産は社内にゴーンに代わる人がいなかったのか。会社の名前を出しては具合が悪いんですが、何故フランスから呼んで来なければならないのか。私は簡単だと思いますね。日本人にも出来る人はいるわけです。しかし日本人の場合は、日本に終生いるわけですね。大きなリストラをやっていれば、その人は会社にいられません。恐らく大変なことになりますね。しかしフランス人なら、いざとなれば帰ってしまえばいいわけです(笑)。あれは異国人がやっていることだと言って、尊敬しながら、自分とは違うと思っているのです。

 しかし日本の場合は昔から、外国人がかなり力を持てた国なんです。だから最近になってそういう人が増えてきましたけれども、ある意味では当たり前なんですね。それと、日本の場合は株式会社が法人という形で組織されているという、岩井さんの意見を私がここで紹介する必要はないんですが、私は政治家にそれが出来るか出来ないかは資質によると思いますね。日本の政治家で、二元的構造の両方に跨がってない人は1人もいないんですね。官僚は実際、個人的には跨がっているが、仕事の上では勿論跨がっている面もありますが、それを出さないようにしている。

 政治家は国へ帰れば、堂々と世間で勝負が出来る。そこに訴えて票を集めてくるわけです。しかし国会に来たり、東京に来たりすれば、標準語で喋って、話し言葉で喋るんですね。どんな議員でもみんなそうなんですね。その二者の間の隔絶というものを意識してないんです、政治家は。意識したら日本で政治家はやっていけないですね。そしてまた同時に政治家で夢や希望は語れないです。そんな人は1人もいません。一橋の学長のときに、7人の文部大臣、私の6年間の任期の間に7人いたんですよ(笑)文部大臣が。その中で、話をして通じたのは2人だけです。

 名前は言いませんけれども、2人だけですね。その2人は比較的話が通じた。1人は東大の経済学部で、経済史をやっていて、私と話が通じていたということもありますが、もう1人はあんまり関係ない人ですが、自分の意見を持っている人でした。そういう人は比較的少ないですね。そして彼らは、要するに日本の世間のことは考えていない。将来も考えていません。そんなことを考えたら、自民党員なんかやっていられないですよ(笑)。

 20年後、100年後をどうするかということは、誰も考えない。そんなことよりも、明日をどう切り抜けるか。明後日どう切り抜けるか。次の総裁は誰にするか。次の選挙で勝てるか。それがほとんど全てだと思います。私、昔、それに近いことをどこかに書いたんですね。そして「政治家は自分の死を考えてないからだ。死を考えれば、そんなことは言っていられない。やはり100年の計を立てなければならない」と書いたら、自殺しちゃったけど、新井将敬という人から手紙がきて「あなたの文章を読んで、全くその通りだと思ったけど、私は考えている。私は死を考えている。そして同時に将来も考えている」と言って、彼の『平成の乱を起こせ』という本を送ってきました。

 その本、私はちらっと見ましたけど、期待しているようなものではなかったから、ほっておいたら、彼が自殺しちゃったんで、その後、ちょっと調べてみたら、非常に気の毒ですね。日本の政治家とは違って、彼には帰るところがなかったわけですね。日本の政治家は、藤波さんでもそうですが、どんなことをしたって、国へ帰れば、みんな禊ぎが済んだなんて言ってくれるわけですよ。彼は在日ですから、帰るところがないんです。死ぬしかなかったんですね。それがよく分かって、気の毒だと思いましたが、そういう人が活躍出来る場が、一時的にあっただけなんですね。そういう意味では、日本の政治家に私は期待出来ないと思いますね。

 そして同時に、政治家に期待するっていうことは、国民の側に、それだけのものがなければダメなんですね。よく言われているんですが、政治家というのは、国民の器量に合った人しか生まれない。国民の器量が変われば、新しい政治家が出てくる。いるんですよ、人は。人はいるんだが、野にあるわけ。野に異質ありと言いますが、野に異質があるから、将来が期待が出来るわけですが、いまの政治家にまともな人はなりたいと思うはずがないじゃないですか。まともな人はなりたいなんて思わないですよ、絶対(笑)。政治家の志望者すら減っちゃいましたから。

 いま学生たちが何処に行きたいかというと、一番しようがない学生はテレビ局ですよ(笑)。後は金融業です。生産会社も行きたがらない。それだけです。そういう状況ですから、人に希望を与える、一緒に話していると将来が明るくなるような人が出て来なければいけない。私はそういう意味では、個人的に面識はないが、田中長野県知事なんかは、頑張っているなと思いますよ。会ったことはないですけどね。そういう人がもう少し増えてくると違うと思います。お返事になっていないと思いますけれども。

司会 はい、真ん中の方どうぞ。

質問 57年卒の林田と申します。先生の世間に関する著作も読みました。非常に考えさせられることが多かったんですけれども、世間概念というのが、幾つかの意味を持っている場合があるように思うんですけれども、つまり例えば日本人ほとんど全部が属している世間というのと、それから一部の集団ですね、例えば如水会なんかはその典型になると思うんですけれども、そういうふうな意味での世間というのがあるように思うんです。外国との違いで考えると、例えばフランス人全部が属しているというような世間というのは到底考えられないような気がするんですけれども、フランスの特定の学校を出た人が属している同窓会のような、世間。そこでの報道機関みたいなものは違うのかもしれませんけれども、何かそういった社会集団というのは他の国にもあるような気がするんです。

 例えばユダヤ人みたいな人達の間では、日本の世間にあるいは近いものがあるのではないかという気もするんですけれども、これがまず1つの質問です。もう1つは、先生は著作の中で、後書きなんかのところに、歴史学者からは、先生の世間論について、取り立てた反論はなかったというようなことをお書きになっているんですけれども、それは一体何故なのかな、差し障りが多少あるかもしれませんけれども、もしお聞かせ願えればと思います。

講師 はい。後のほうの質問から答えます。そのほうが答えたい質問ですから(笑)。差し障りなんかあったって一向に構わない。私の年になれば、もう全ての公職は辞めましたから、差し障りなんかあの世に持っていくだけですから(笑)幾らでも言いますが、簡単に言ってしまえば「世間」という言葉は『万葉集』からあります。あらゆる文学作品に出てくるんですね。そして古文書にもいっぱい出てくるんです。

 例えば岩波から出ているいろんな作品に「世間」という言葉があるのに、解説がない。注釈は、いまの世間のことを書いているだけです。これは歴史学者が怠慢なんですね。しかし怠慢には理由があるんです。どういうことかというと、世間というのは、歴史学者の世間というのがあるわけですね。歴史学者の世間というのをもし追究されると、そうするとその世間は、自分が如何に生きてきたかということを明らかにしなきゃいけない世間なんですね。私はそういうことを言っているから、多分嫌がられるんだと思うんですね。

 だから私の本を読んで「世間学会をつくろう」なんて思うのは、ハッキリ言って間違いなんです。学会なんか出来っこないんですけど、それはどういう連中かというと、刑法とか社会学の若手の研究者なんですね。あるいは植木屋さんとかお坊さんとか、高校教員とか、新聞記者とかそういう人達が、自分の世間の話をするんですね。そのために来ている。歴史学者は何故しないかというと、世間という言葉がいまの言葉と連動していなければ、幾らでもするんでしょう。昔の言葉なら。

 例えば黒田さんという東大の史料編纂所の教授は『龍が住む日本』という本を書いて、行基式の日本図、これは確かに面白い図ですよ。半分しかないんですが、そこには13世紀後半、モンゴル襲来直前の日本がどういう外国に取り巻かれていて、どういう危機感を持ったかを伺わせる地図なんですね。しかもその地図は独鈷の形、独鈷というのは密教のお坊さんが手に持っているものなんですね。本来は武器なんです。法具なんですがね、それの形をしているとして、日本を守ってくれる。神様が守ってくれる国という意識なんですが、それは現在まであったわけです。

 例えば森総理なんかいまだに「神の国」って言ってるんですね。日本は神国だと戦争中に我々は教わってきた。それはいまだに精算されていないんですね。靖国神社へ行ってみると分かるんですが、アメリカ人とか外国人が靖国神社を調べに来て、そして「何でここに武器がいっぱい置いてあるのか。大砲とかそういうものが何故置いてあるのか。これは軍国主義と不可分の関係にあることが分かってしまうじゃないか」と言っていますが、そういう反省なんか全然ない。靖国神社がもしアメリカ兵も祀っているのなら、それは世界的に何の問題もないんですが、アメリカ兵は祀らず、しかも彼らが言う戦犯を祀っていると。

 戦犯に対する意識は国民によって違う。日本人は戦犯というものが存在すると思っているかもしれませんが、東京裁判を認めないという立場もあり得るわけで、あれは戦勝国が一方的にした裁判だと言えば言えるわけだし、ドイツにはそういう人もいます。しかし武器を祀っているということは、やはりいろいろな印象を与えるわけですね。そういうことも含めて、日本の世間というのは、いまではまた復活してきている。

 つまりさっきちょっと言いましたが、近代化でずっとやってきて、そのためには世間は近代化を支えてきたんですね。しかしいまは近代化の矛先が鈍って、どうしていいか分からなくなった。そのときに世間がまた出てきたんですね。ですからいまの白装束集団についても、オウムの再来じゃないかとか、未知なもの、分からないものに対しては恐れて、指差して、差別をする。そういう構造が日本的に出来ている。北朝鮮もそうなんですね。自分たちが3,000人も拉致してきたということは、みんな知っている。

 それがどんな苦労をしていたか。北海道で1人で山の中で生きていた人までいたわけですね。しかしそういう人については、大きな国民的な運動にならないで、いまの拉致事件について、いろんな騒ぎが起こる。これは仕方がない、当然のことではあるんですが、せっかく小泉さんは行ったんだから、そのへんのところはきちっとするべきですが、それが出来ない。何故かというと、国益というものが優先すると考えるからですね。日本の国益と言っても、相手国はアメリカと中国がほぼ同じくらいで、中国のほうが大きくなりつつある。

 にもかかわらずアメリカにいろんな意味で依存していますから、そういう形でアメリカと手を切れない。だからある人が言っていましたが、小林カツ代という料理研究家ですね。新聞のコラムに書いていましたが「小泉総理はイラク攻撃を支持すると言ったけど、イラク人を殺すことに賛成だと言っているに等しい」と。私はそういうふうに思いますね。そういうふうに日本の総理は言えない。言えないけれども、そこで支持するかどうかは別として、自分の意見を言わなければいけない。それが言えない。何故か。自分たちの本音と建前が分けられているから。

 もし世間のほうに、これは本音なんですが、これが表に出てくれば違うんですが、そうじゃないですね。しかし世間の本音というのは、最終的には平等とか人類愛とかそういうものはないんですよ。自分たちの利益を守るのが世間の本音なんです。それが派閥政治の根底にある。だから将来とか日本の国民なんかを視野に入れた政治家はいないと言っていい。じゃ社民党とか民主党はどうなのかというと、野党も基本的には党利党略で、そういう人が1人でもいれば我々の目にも見えますよ。

 我々が見ていて、そういうところがあるなと思うのは、中坊公平さんぐらいでしょう。彼も健康状態がよくないから、役職をみんな断っていますね。あの人以外にはほとんどそういう人はいないです。しかし国民がそういう人を要望すれば出てきます。必ず出てきます。しかし国民にそういう要望がないんですよ。そういう人が欲しいという運動がないんですよ。そういう動きがないんですよね。ですからいまのような政治家が再生産されていき、いまでは二代、三代と親父のあとを継ぐ、子どもがあとを継ぐなんていうとんでもない事態が起こっているわけですね。

 我々はすぐに政治家がダメだからと言うけれども、それは我々がダメなんですね。我々がそういう運動をしてないから、政治家を交代させようと。例えば年金がみんな減ってくるというけれども、国会議員の年金だけは税金で補填されて、すごく高額になっているということをみんな知ってるんですよ。それを改めることすら出来ないわけですからね。そういうことも含めて、土地の問題でも、まあ、地方へ行けばすぐ分かりますが、高速なんかほとんど車は走ってない。そういう状態をどんどんつくってきたいまの現状を、責任をとらせようと思ってないですね。それが世間のなあなあとか、まあまあの構造なんですね。その構造に通じていなければ、1つの会社の長は出来ないですね。

 しかし昔の長は、近代化に通じていながら、同時に影の部分の世間にも通じている人が一番偉くなった。松下とかそういう人です。しかしいまは近代化に通じているだけじゃダメなんです。世間に通じているだけでもダメなんですね。別のプラスの価値が必要になってきている。そんな人間は幾らでもいるんですよ。近代化の先を読める人がいれば素晴らしいけど、そういう人はいない。ネガティブな予言は幾らでも出来ます。不況はもっと続くとかね。しかしそうでないポジティブな予言は出来ない。

 一番の問題は、何遍も言いますが、いまの高校生までが、大人になりたくないとか、希望が持てない状況、ハッキリ言えば大学は、まず私等は自己反省をしなければいけないわけですが、私はある段階の一橋大学も含めて、大学は死んだと思っています。つまり教養改革を平成3年に文部省に課されたときに、全国の大学、教養学部を改組したんですね。勿論それまでもろくなことやっていなかったけど、それから以後、もっとひどくなっている。

 教養とは何かというそういう真剣な議論をどこもしないままに、4年一貫教育という形でごまかして今日に至っている。中教審で呼ばれて、教養について喋れと言われたから、そういう話をしましたが、勿論最終的な報告には、私の論なんか入りませんね。そういうのは他の人と意見が違うから。そのときの文部大臣はなかなか良かったなんて言ってくれましたが、まあそれだけの話で、要するに大学は教養ということが見えなくなった段階で死んじゃっているんですね。

 それをどうにかしようと思えば、私は民間でつくるしかない。つまり国の財産、国のものではなくて、自分たちがつくるんですね。昔大学はそうやって出来たんです。こういう機会もいいわけですね。これも本当は如水会の人達に任せないで、こうやって見ていても女の人はほとんどいないじゃないか。講師にも女の人はいないじゃないか。だから女性の講師を呼ぶべきだ。日本のいま博物館とか美術館とか、文化は女性によって担われてるんですよ。美術館とか何とかで、女性を対象にした企画をしなかったら潰れちゃうんですよ。独立行政法人になったらなおさらなんですね。

 女性が日本のいま、そういうものの担い手だということに気がついていないんですね。ですから女性がいまだに正面に来ない。本当はここでも半分は女性が占めていなきゃおかしいですね。しかし実際はそうなっていない。それはみなさんが自分で企画をして、大学へ来て、OB会の人達は、よく上田貞次郎先生の墓に草がはえていてけしからんとか(笑)言うんですが、大体用務員はいま1人もいないんですから。行政改革はまず公務員から始まっているので、用務員は1人もいないんです。だから名誉教授も守衛のところに来て、普段の恰好で来ると「どなたですか。書いてください」なんて言われると、怒るんですよね。「俺の名前を知らないのか」(笑)

 知るわけないですよね。10年、20年前に辞めた人なんかね。みんな会社から派遣で来てるんですから、顔は知らないんです。ですから学生も可哀相でね、クラブを抜け出して、夜10時頃遊びに行こう思うと誰何されちゃう。昔はみんな見逃したんですよ、顔を知っているから。それがもう出来ない。そういう社会じゃないんですよ、いまはね。ですから任命されて、半日交替か何かで来ているわけですから、顔を知らないからみんなに誰何して「誰ですか」なんて聞くわけです。そういうふうにして大学は出来ているので、草むしりする人なんかいないんですね。

 上田貞次郎先生の墓に草がはえていたら、如水会の人が来てむしってください(笑)。私はお願いしてるんですが、まずそういうことはたまにしかしてくれない。いまの学長はそういうことに非常に関心が深くて、全校美化デーをやろうといって、自分から先にゴミ拾いをしていますが、学長が毎日毎日ゴミ拾いしているわけにいかないんですね(笑)。そうもいかないから、なかなか美化なんて難しい。私は大学なんか美化しなくたっていいと思っているんですね。学問がちゃんとやれればいい。しかしその学問がちゃんとやれているかどうかに疑問があるわけで、そのへんはなかなか難しいんで(笑)。これ以上言うと、あと通じちゃうと困るんで(笑)。

司会 本日は「日本社会の二元的構造」というテーマでお話をいただきまして、最後のご質問に答える形で、世間と日本人みたいな、現代のことをいろいろ切っていただきました。大学もちょっと綺麗にしようというようなお話もございました(笑)。時間が参りましたので、これで終わりたいと思います。どうもありがとうございました。  (拍手)

―了―



◆講師紹介


阿部 謹也  あべ きんや


一橋大学名誉教授


1935年  東京生まれ

1958年  一橋大学経済学部卒業、ドイツ中世史専攻

1963年  一橋大学院社会研究科博士課程単位修得修了

1973年  小樽商科大学教授

1976年  東京経済大学教授

1979年  一橋大学教授

1987年  一橋大学社会学部長

1992年  12月 一橋大学学長就任

1998年  11月   〃   退官

1998年  一橋大学名誉教授

1999年  4月  共立女子大学学長就任

2002年  3月      〃   退官

2000年  7月  大学評価・学位授与機構 大学評価委員会会長

 

<著書>『ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界』(平凡社)

『日本社会で生きるということ』(朝日新聞社)

『大学論』(日本エディタースクール出版部)

『阿部謹也著作集−全10巻−』(筑摩書房)

『日本人はいかに生きるべきか』(朝日新聞社)  他多数。

 

1980年  『中世を旅する人びと』サントリー学芸賞受賞

1981年  『中世の窓から』大沸次郎賞受賞

1997年  紫綬褒章受章

 

  【参考】
http://www.hit-u.ac.jp/gaiyo-2002/index.html

 

※ 阿部謹也先生に関する文献等他情報は、インターネットで多数検索可能