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「唯識」という生き方

 

講 師 立教大学文学部 教授

横山 紘一

平成15年6月17日 於:如水会館

【無断転記転載を禁ず】

社団法人 如 水 会

 

 

 



            内容目次


1. はじめに

2. 唯識

3. 仏教は宗教ではない

4. 唯識思想

5. 唯識所変、一切不離識

6. ヨーガ

7. 有即無、無即有

8. 根本煩悩

9. 一人一宇宙

10. 縁起の理

11. 量子力学と縁起の理

12. 関係的に生きる

13. 氷川清話

14. 興福寺

15. 男女の関係

16. 性相学辞典

17. 托鉢

18. 動詞で語ろう

19. 最後に


            質疑応答

            講師略歴・参考資料

 

【無断転記転載を禁ず】

社団法人 如水会

 

 

 


1.はじめに

 

いまご紹介に与りました横山紘一です。「紘一」という名前は戦前の大東亜共栄圏の考えの中に、八つの島を一つにまとめていこうという意味の八紘一宇という言葉があり、その中の紘一を取って付けられたようです。政治家の加藤紘一さんも、ピアニストの中村紘子さんも、同じ昭和15年生まれです。だいたい「紘一」という名前が付けば八紘一宇が盛んであった昭和15年か16年生まれが多いのです。私の場合は横山紘一はコウイツという読み方をします。私は博多で生まれましたが、占い師に「紘一」という名前を付ければ母が40のときに蔵が建つと言われたのだそうですが、結果としては母が40のときには蔵は建たず、まだこれから蔵が建つんじゃないかと夢を追っています(笑)。

 

この如水会館には、ある別の会で2月に1回位お世話になっていて来るほか、結婚式でも2、3回は参りました。また私の弟も皆さんの同窓でありまして、彼が受験するとき兄貴として一緒に国立に行き、受かるようにお祈りをした記憶があります。しかしそれ以来私は一橋にぜんぜん行っておらず、今日諸先輩の前でお話させて頂くということを非常に光栄に思っております。

 


2.唯識

 

今日は「唯識」の紹介から始めたいと思いますが、たぶん「唯識」という言葉を聞くのは初めての方がかなりおられると思います。「唯識」というのは大乗仏教の第2期の思想でありまして、簡単に申しますと『西遊記』で有名な玄奘三蔵が命を懸けてインドに行かれて持って帰られた思想であります。これはだいたい紀元後の3世紀4世紀頃に起こってきた思想であり、字の如く唯だ心しか存在しないという思想であります。その前には皆さんご承知の般若の空という思想が大乗仏教の一番最初に出ております。これは一切は存在しないという意味では決してないんですけれども、われわれの執着を取って、宇宙の根源である空というものを、般若の智慧によって悟ることによって社会的に活動していこうという思想です。

 

しかしこの空という言葉を見るにつけて、やっぱり虚無的になっていく面が非常にあり、大乗仏教の2期には、少なくとも心といったものは存在するんだ。しかしその存在のあり方は決し有るというふうに有るのではないんだという解釈がなされています。簡単に申しますと、心といったものが有るようで無いし、無いようで有るんだということで、これを有即無、無即有といいます。そういった意味のありようとして心を考えていきながら、われわれがその心を変えることによって、迷いから悟りに至ろうではないかという実践的な思想です。

 

その思想を7世紀に『西遊記』の主人公にもなった玄奘三蔵がインドに行って18年間、命を懸けて持ち帰った思想が唯識思想という思想であります。そして宗派的には法相宗という宗派を作っていきます。日本でこの宗派に属するのは奈良の興福寺、薬師寺です。そしてこの唯識思想は一応法相宗の教理ですが、決して法相宗だけに限らず、仏教における基本学であるといえます。例えば鎌倉時代に新仏教を創られた法然上人とか親鸞聖人とか道元禅師とかいった祖師の方々も、みんな唯識思想を勉強されたその結果として、自己の信念に従ってそれぞれの宗派を創っていかれたのです。そういった意味で、この「唯識」は仏教の基本学として学んでこられ、また学んでいかなければいけない思想であります。

 


3.仏教は宗教ではない

 

皆さんは仏教といえば宗教と思っておられるかもしれませんが、私は仏教は決して宗教ではないと最近強く言おうとしております。宗教でないとはキリスト教的な意味での宗教ではないということです。結論から申しますと、仏教は科学と哲学と宗教の三面を兼ね備えた世界に通用する普遍的な思想です。最近ますますその確信を強めて参りました。

 

もともとサイエンス、フィロソフィー、レリジョンというのは、みんなヨーロッパの言葉です。 しかし仏教はインドで起こってきた思想ですから、その三つを分けることができません。もともとインドには科学的な意味での学問はあまりありません。しかしインドの思想は、哲学と宗教が二つの糸が一つの縄を作るように一本になっているのです。従って哲学と宗教が一本になっているのがインドの思想ということになるのです。それに加えて唯識は科学的な面を兼ね備えていて、現代の量子力学にも合い通じているのです。そういう思想を紀元後4世紀頃に作り上げているということは、ある意味では驚異的なことなのです。

 


4.唯識思想

 

まず、皆さんに問題提起をしたいのは【図1】に書いておきましたが、「一人一宇宙」ということについてです。このことから唯識思想の説明に入っていきたいと思います。

 

今この如水会館の3階のこの空間に、約200名くらいの方が、この部屋に集まろうではないかというふうにして、われわれは集まってくるわけであります。しかし考えてみると、決してそういう客観的な空間はどこを探しても存在しないのです。今日は少し皆さん学生になって頂きまして、こういう講義は久しぶりだと思いますから質問に答えて頂きたいと思います。お名前を知ってる高橋さんからいきたいと思いますが、高橋さん、このペンシルはあなたの外にあると思いますか。

高橋 外にあるということを内で感じています(笑)。

横山 最初から真剣勝負をしないで(笑)、素朴実在論的に答えてください。

高橋 外にあります。

横山 そうですね。そうしますと高橋さん、あなたは自分の外に出たことがあって、

外から自分をご覧になったことがありますか。

高橋 ないです。

横山 ないですね。そうすると外に出ていないのになぜ外にあると言うのかという問題なんですよね。結局「外」とか「内」とは、言葉のあやだけであると言うことができるのです。もともと三次元の空間はないということはカントが哲学的に証明しました。もう一つはアインシュタインが言った時間と空間とは相対的な存在であるということで、決して三次元の空間といったものは存在しないのですね。存在しないのに言葉でもってこのペンシルは自分の外にあると言って内外を分けていくんです。皆さん私をご覧頂きたいと思いますが、すみませんがご指名しますが、私横山は何人存在しますでしょうか。

{会場から} 一人です。

横山 確かに一人いますが、ここに200名おられたら200人の横山がそれぞれの心の中に存在するんですね。それでは私そのものを見たことはありますか?

{会場から} 「そのもの」の意味が分からないですけど、ないと思います。

 


5.唯識所変、一切不離識

 

横山 そうですね。私は男前と言ってもらいたいんですが、私が男前であるとしても、それはあなたがあなたの心の中で作り出した影像にしかすぎないというのが事実であろうと思います。この辺から考えていきますと、すべて自分の心の外にあるものを決して認知できないし、認識できるものはすべて自分の心の中に起こってくる、そういう存在にしか過ぎません。これを専門的には唯識所変と言います。これはただ心にしか存在しなく一切は心から変化したものであるという意味です。

 

また一切不離識という言葉があります。これは一切は心を離れては存在しないという意味で、そういう言葉でまずは唯識思想全体を言い表していきます。

 先ほどのことでもう一つまた実験をさせてもらって申し訳ないですが、皆さんと問答してみたいと思います。ではあなたですが、ご自分の手をご覧になって下さい。それはどなたの手でしょうか。

{会場から} 私の手です。

横山 そうしますと手は見えますね。

{会場から} はい。

横山 「私」という言葉に対応する名詞は、必ずあるものを指し示しますね。そういう「私」という言葉に対応するものを探してみて下さい。皆さんもどうぞやって下さい。手は見えますね。しかし「私」という言葉に対応するものは決して見つからないですね。

 これはここの2百人に質問しても、いや1万人の人に質問しても決して見つかりません。【図2】

 結論ですけども、「私」というのは言葉の響きがあるだけなのです。一切は言葉です。ほんとうにこれは事実であります。一切は言葉であるとすれば唯識は唯名(ゆいみょう)と言うこともできるんです。仏教では無我と言いますが、無我はもちろん長い修行によって釈尊が覚られた事実なのですが、まずわれわれは静かに考えてみて、心の中に住して言葉がいったい何を意味するかを考えてみると、「私」というものは存在しないということがお分かりになってくるのです。今こうやって静かに考えているからそれが分かるのです。

 


6.ヨーガ

 

静かに考えることをヨーガと言います。これはサンスクリットの(YOGA)を訳した言葉で、漢訳でいいますと瑜伽は(ゆが)と言います。私の本の中に、「瑜伽師地論総索引」というのを作って書いてあります。玄奘三蔵はこの『瑜伽師地論』という経典を求めて決死の覚悟でインドに行かれたのです。

 

ヨーガという言葉はいろんな意味で日本にも伝わっています。例のオウム真理教にもあのヨーガがあり、なんとなく神秘的な力を付けるということでした。しかしもともとはそういうものではなくて、簡単に申しますと「一体なにか」を考えていく、そういう観察方法だと言っていいと思います。なかなか人間は自分の心の中に住して、その言葉の向こう側にあるものを考えることができないのです。従ってヨーガとは、もともとは釈尊が説かれた言葉を心の中に浮かべて、それは一体なにであるかを考えていくことです。日本には禅定という言葉もありますけれども、これはヨーガによって定まった心を修行していくという実践方法です。

 

もともとはヨーガといえば、こういう種類の実践法の総タイトルと考えられたらいいと思います。日本酒とかワインとかウイスキーとかいろいろありますけれども、アルコールというのは全部の総称ですね。そういった意味でヨーガというのは、心を静めていくそういう修行方法の総称であるとお考えになっていいと思います。そういう実験を今1分か2分間したわけで、考えてみるとほんとに自分というのは言葉の響きだけなんです。しかしわれわれは「自分」というものに執着をしていくんですね。

 そこでこれもよく学生の講義で言うんですけども、同じ方に質問させて頂きます。

これもまた演技ですよ。あなたばかねぇって言いますね。そうすると怒って下さい。

 

横山 ばかですねッ(笑)。

{会場から} 余計なお世話だッ(笑)。

横山 私は「あなた」の頭がばかと言ったんじゃなくて、そこに働いてる脳細胞がばかと言ったということでしょう。そう私というものはもうないと分かりましたね。あるのは脳細胞の働きがあるだけです。それを人間はすぐ「私」の脳細胞、「私」の心、「私」の物、というふうに呼んでいくのです。それにがんじがらめになって人間は生きていくのであり、ここに迷いと苦しみと罪悪の根源があるといって間違いはないと思います。だから今からは、人から文句を言われても、事実を事実として言われただけだから、ありがとうございますと言って、またはありがとうとは言わないでもそれを認めてしまい、決して人に怒っていかないということが大事なのであります。

 


7.有即無、無即有

 

もう一人質問にお答え下さい。今何時でしょうか。

{会場から} 午後7時23分です。

横山 はい。そろそろ真剣勝負しましょうね。今何時ですか。今という幅はどのくらいですか。

{会場から}ああ。だんだん時が過ぎていっちゃいます。だから今と言っている間にまた次がきています。

横山 そうですね。だからほんとに今何時ですか。真剣にいきましょう。今何時ですか。

{会場から} (時計を見て)

横山 いやいや、もう関係ないです。いや、もう言えないですよ。言えないのに、われわれ人間は「今」と言ってしまって「今」があるように思っているんです。即ち過去は過ぎ去りましたし、未来はまだ来ていませんね。そうすると今というのは現在であり、現に有ります。だからこの仮の己は一応今しか存在しないですね。これがお分かりになると生き方が変わってきます。

 

ほんとに今しか存在しない今というのは不連続の連続であって、有るようで無いし、無いようで有るのです。そう考えてくると一切の現象は、簡単にいうと、有り即ち無い(有即無)、しかし無いようで即ち有る(無即有)と言わざるを得ないのです。こういうように言った方が、この生(なま)の事実をより良く言い当てているといっていいと思います。有るようで無い、無いようで有るということ、これを簡単にいうと夢であるということです。

 

私は今日久しぶりに修行道場で修行をする夢を見ました。私があまり最近修行してないから、そういう積年の懺悔の念が夢の中へ出てきたんでしょう。そこではみんな一生懸命修行していますが、僕だけサボっており、修行しようと思ったら目がポンと覚めたのです。即ち夢は有るようで無いし、無いようで有るのです。今というのも夢なんですね。この中で今は夢ではない。何故と私と問答して、もしも私が負ければこの辺の一流の料亭で皆さんに奢って差し上げます(笑)。もう一回言いますと「今は夢ではない。なぜならば」と言える人がここにいますか。われわれはその理由を決して言うことができないんです。はっきり見えるかというのに対してははっきり見えると言います。

 

私は最近はっきりした夢を見ることができるのです。結婚してから2、3年経った頃、女房が夜中に、ケタケタ笑うので気持ちが悪いので起こしたのです。すると今美しい花が咲いていて庭の中を犬が逆立ちして歩いてるというのです。庭は美しい素晴らしいガーデンだと言います。僕はそのころは未だ白黒の夢しか見ることはできませんでしたが、今からカラフルな夢を見るぞと頑張りました。そうして今やほんとに美しい夢が見ることができるようになっているのです。

 

私はスキーを始めてだいぶ経ちますが、あまりうまくありません。しかし夢の中では、あの蔵王のブルーの真っ青な空の下、真っ白な雪の上をスイスイ滑降するのです。皆さんは夢だからと思いますが、夢を見ている当体はその存在がすべてなんです。夢か現実かこの二つしかわれわれは存在を認識できません。そうするとどちらが本物かということは誰も答えることができません。

 

有名な「胡蝶が夢」というのが『荘子』の中にありますけども、これもどちらが本当か分かりません。二つしかないときに初めてわれわれはどちらかということを認知できない。三つあればできるんです。仏陀というのは覚ったという人間であり、こういう字で仏陀と書きますけども、仏というのは正式には仏陀といいサンスクリットのbuddhaの音訳で、これは覚者、覚った人間のことを言います。即ち覚ることによって、この覚醒の状態と夢の状態のすべてが夢であるということが初めて分かるんです。

 

もちろん今われわれは、こういうことを聴いて、ああ夢かも分からないなと推測はできます。しかし現実に戻るとやはり右往左往していろんなものに執着をして苦しんでいくわけです。【図3】 に書いておきました人間が苦しむという「苦」が書いてあるところを見て下さい。

 苦というものが起こってくる原因を簡単にいうと、何も知ってないという無知から入っていって、そこで「自分」と「もの」とを設定し、その自分とものとに執着をしていくということです。執着を少し太い字にしておきましたけども、すべての迷いと苦しみと罪悪は執着が原因なんです。これは間違いのない簡単な因果関係だと思います。

 


8.根本煩悩

 

その前に「自分」と「もの」というこの二つを設定していく背後には何も知っていないという無知があるのです。仏教的には根本煩悩である無明といいます。そういう根本煩悩によってわれわれは「自分」と「もの」というものを設定していくのです。

 

これはなかなか容易なことではありませんが、先ほど申しましたように、まずわれわれは知的にというか、知識によって自分というものは存在しないということを学び、それにより、先ほど皆さんと一緒に実験をしましたように、皆さんは自分というものが存在しないということを智る(しる)というありようで、心の中で認知されたのではないかと思います。これは本を読むだけでは外部的な知識ですから、知という意味の知り方に終わってしまいますが、その言葉の向こう側にあるものを自らが思索し体験することによって、知から智に至ることができるといってよいのではないかと思います。

 

私はもともとは自然科学をやっており、自己紹介で申し訳ないんですが、若いとき水産で大学院までいき、魚の血の研究を始めたことがあります。そこで命というものを実験によって調べてノーベル賞を貰おうと一生懸命頑張った時代がありました。しかしそういう魚の血を研究しながら疑問を持ってきたことは、命というものを客観的に捉えようとしていることでした。最終的には、この命を見ている己とは一体何であるかを追究する方が大切ではないかというように考えが変わってきたのです。例えで言うならば、鏡の中の鏡像を一生懸命研究するのでなく、その鏡の本体を、即ちこの己そのものを研究対象としてやっていくことの方が大切ではないかということがだんだん自分の中で分かってきたのです。

 

そこである日思い切って自然科学を捨てて、インド哲学に変わっていったわけであります。重力とか引力について考えてみたいと思いますが、引力についてはどういう実験をするかということです。大学に入っていろんな実験をやりますが、自然科学の実験でいちばん辛いのは結果が分かった実験材料を与えられるときです。例えば重力の公式を導いていくために、学生によって重さが違う実験材料を与えられ、落ちる秒数を計ってみんな同じ答えを出していかなければいけないというテーマが与えられるのです。これは厳しくて苦しかったです。みんな重力とはこういうものであるというレポートを出して試験が受かるわけです。それは(知)の意味の知るであって、重力を知るもう一個の方法として(智)の方の知り方はどうすればいいかという問題だと思います。

 

高橋さん下の(智)の方の重力を知るにはどうしたらいいですか。

高橋 思いつかないですね。

横山 そんなこと言わずに、自分で身をもって重力を知るにはどうしますか。

高橋 落ちるんですか。

横山 そうです。高いとこからふーっと落ちればいいのです。そういう体験してこれが重力であることを知るのですが、そういうことを忘れてわれわれは重力を公式化していきます。もちろんそれも必要ですが、それのみが重力であると思い込んでしまうところがあるのです。そこが大きな一つの人間的な問題ではないかということを訴えてみたいと思います。

 


9.一人一宇宙

 

これもいつも若い学生に言うことですけれども、人生とは何であるかということです。いろいろな人生論や幸福とは何であるかということを、知識で学ぶこともいいけれども、先ずそのものになりきっていく体験をして、そのあとにそういう知識を学んでいくべきではないか。または知識を学んでいきながら、同時に体験をしていくことが重要ではないかということを、一度みんなと確認をさせて頂きたいと思います。知と智の違いをいつも考えていくことが重要なことではないかと思います。

 

 【図1】の「一人一宇宙」の図をもう一度みんなで確認をしてみたいと思いますが、ここでは「エゴが有る限り自己の世界の外に抜け出すことはできない」とちょっと大げさに表現しており、また「人間は自分という牢獄に閉じこめられた囚人である」という言い方もさせて頂きました。これを専門的には「人々唯識」と申します。「一人一宇宙」というのは現代的な表現であり、「人々唯識」という言葉が唯識思想では謳われております。この事実を認識していくと、われわれの生き方が変わってくるのです。他人という問題にしても、決して他人そのものを知ることはできないのです。あいつは憎いという時、自分の目の前に憎い人がいるから憎い気持ちが起こってくるのか、いや自分に憎い気持ちがあるから目の前に憎い人が現れてくるのかということです。また高橋さんに訊きますが、そこに憎い人がいるから憎い気持ちが起こってくるのか、憎い気持ちがあるから憎い人がそこに現れてくるのか、どちらでしょうか。

 

高橋 憎い気持ちがあるから憎い人が現れる。

横山 素直になられましたよね(笑)。ほんとに憎い気持ちがなければ、決して憎い人は目の前に現れてきません。これはもちろん仏様とかイエス・キリストとか仏陀にならなければできませんが、しかし人間は頭の中で考えればそれが分かるのです。

 

 


10.縁起の理

 

それを「縁起の理」と言います。これは「A有ればB有り。A無ければB無し。」ということです。【資料1】(資料は呼出し後、拡大してご覧ください)
 ここでは「理」というところで「縁起の理」と書き大きな括弧をつけておきました。これは日常的には縁起がいいとか悪いとかいう言葉で使われますが、本来は仏教が説いている真理を表した言葉でありまして、これも非常に自然科学的な法則であり、「A有ればB有り。A無ければB無し。」という科学的な法則にも通じる理なんです。先ほど申しましたように、憎い気持ちがあるから憎い人がそこに現れてくるのです。もしも憎い気持ちがなくなれば憎い人はそこに現前しないのです。これはほんとにそうであり、そう考えていくと「一人一宇宙」という事実認識から、他者に対しての付き合い方が変わってくるのです。

 

昔私は、あいつは憎いというのは向こうは20%悪くて、80%は自分が作っていくというように考えてみたらどうかと提案しました。しかし今は百パーセント全部、自分が作り上げた虚像であると考えてみようではないかと言っております。この辺を一気に経済の世界や政治の世界まで持っていけたらすごいと思うのです。

 

われわれは紙の表と裏という二つの世界を知って初めて紙の表で生きていかなければならないのです。深い海の中に沈潜し、それからもう一度大波小波の世界に戻って生きていかなければ、迷い、苦しみ、罪悪をもたらして、とうとう現に見るようにこの世界は滅亡していくのです。これはほんとに21世紀に人類は滅んでしまうかも分かりません。滅ばないにしても、世界中が奈落の底にどんどん落ちています。

 

さあどうするかということですが、これは政治、経済、社会、いろんな面からわれわれは考えていかなければなりませんが、問題はかなり難しいです。ピラミッドを直すためには一個一個の石を直していかなきゃいけないと同じように、家庭、社会、国家、世界を変えていくためには、一人ひとりの人間の意識革命をしていかざるを得ません。

 

その方法が一体何であるか問題ですが、まずは理念として、やっぱり一人ひとりの人間の深層心理まで変えていくことを目指していかざるを得ないと思います。そのためには先ほど言った紙の裏の世界、別の言葉で言うならばミクロの世界、隠れた世界といったものに関心を持ち、それを一人ひとりの人が掴んでいくことが必要ではないかと思うんです。そこには書いておきませんでしたけれども、紙の表と裏という表現のことを、顕れた面と隠れた面と言ってもいいし、量子力学の言葉を使えばマクロの世界とミクロの世界です。

 顕    マクロ

 隠    ミクロ

 


11.量子力学と縁起の理

 

この量子力学を見るのも面白いですね。皆さんここにこういうペンシルがありますが、これを細かく分析していくと、分子、原子、素粒子、最後はクォークになってきます。素粒子以下になって参りますと、簡単に言うと人間は観察者ではなくて関与者になってしまうのです。これは人間の認識のありようによってこの素粒子のありようが変わってくるのです。もっと専門的にいうならば、質量と位置についてと、どちらに注目すると他のものがはっきりしていないという、例のハイゼンベルクの不確定性原理というのが分かってきたのです。

 

そういった意味で、ミクロの世界に入っていくと、ほんとうに有るようで無いし、無いようで有るという世界になっていくのです。すなわち縁起の理が働く世界に入っていくのです。そういう世界を智り、それに基づいてわれわれは社会の中で生きていかなければいけないのではないかということを強調してみたいと思います。この「縁起の理」という理が、すべての現象世界の中にあるのだということを理解し、まず自己を少しでもなくしていきながら、「縁起の理」を知るだけでなくて、(智)の方の体験として納得していくことが必要ではないかと強調したいと思います。

 

私は「倫理」とか「道徳」という言葉はあまり好きではないのです。倫理は人間の生きる一つの支えであり、必要なものですけれども、それはある意味で人間が考えた価値判断によって色付けされていきます。判断には事実判断と価値判断という二つの判断があるのです。事実は事実として見ていく、たとえばこれをご覧になってペンシルであるというのは事実判断です。これを何のために使うのかというのは価値判断です。しかし人間はまず事実判断から間違っていくのです。

 

すみませんがこれ何ですか、ペンシルですというやり取りからもう一度ヨーガに入りましょう。そして自分をなくしてこれになりきってみましょう。そうするともしペンシルに言葉があれば、おい人間よ、どうして俺をペンシルと呼ぶのかと言うでしょう。人間がペンシルと呼んでもペンシルにもし意識があったら、どうして人間がペンと呼ぶのかと思うということが分かってきたことを、専門用語では知的直観と言います。われわれは知的直観でそういうことが分かってくるということが人間の素晴らしさですね。

 

もう一度いきます。これをペンシルと呼びます。しかしこちらの方のエゴをなくして、ペンシルの方に感情移入していきますと、どうしてわしをペンシルと呼ぶのかということが分かってきます。そうしますとこれに対して、すみませんペンと呼ばして頂きますというふうに、本当はそういうふう前提を置いて、ペンですねというふうに言わなきゃいけないですよね。即ち隠れた面に自分を沈潜していくと、そういうことが分かってくるんです。それを忘れてわれわれは通常己という存在と、人間という枠組みと、あとは後天的な家庭環境とか教育による、エゴに基づいてすべての存在を価値判断していくのです。

 

「縁起の理」を分かってきますと、次のようなことも分かって参ります。例えば満員電車に乗り、自分がたまたま座っているとします。そして前に立っている人に対して、あなたが立っているから私は座らしてもらっているという事実に気付くのです。すると立っている人にありがとうと思う気持ちが起こってきます。これは「A有ればB有り」です。これに気が付かなくて、どかっと若者が股を広げて座っているのは倫理、道徳に反するからだめだ、ということではなくて、事実を事実として知るならば他の人が立ってるから自分は座っているんだという事実を観察し、簡単に言うと生かされてあるというこの事実を知って、そして感謝の念が起こってくるんだということなのです。だから私はこの「縁起の理」というのは、倫理、それから物理、更には論理、または真理といったすべての理に通ずる根源的な法則ではないかと思って、いつもこの辺を強調させてもらっています。

 


12.関係的に生きる

 

次に関係的に生きるということを考えてみましょう。われわれは普通この世界で実体的にで生きていると思っています。しかし考えてみると全部は関係的に存在するのです。これは最近哲学においても科学においても、実体概念から関係概念にという動きが起こっています。あとで何故そうなってるかということを考えてみたいと思いますが、考えてみると本当にすべての存在が関係的なのです。それを関係的でないと見ていくのは、真ん中に己というものが存在するからです。

 

そこでやってみたいことが一つあります。例えば電車に乗っていて前にむすっとした人が座ってあり、こちら側に4、5人座っているとします。そこで私がちょこっとすみませんが少し笑って下さいというとします。そうするとその人はなんで俺が笑わなきゃいけない、のかと怒るでしょう。そこで、あなたがおこっているとその4、5人の方全部にあなたの怒っている顔が生じて全員が不愉快になるので、どうか笑って下さいと私はお願いするのです。俺は俺なんだというのが実体概念です。この辺については戦後の教育によるヨーロッパの個人主義の考え方のせいであり、私は間違ってると思います。

 

私はいま大学院での授業を見ていて、他の先生方がアイデンティティとか言うと寒けがしてくるのです。もちろんこの世界(顕 マクロ)ではアイデンティティは必要です。中国の残留孤児たちが日本に帰って来て、自分のアイデンティティは何だろうと言いますが、私はそれも必要だろうけれど、もっと深い意味で自分と他人とはどういう関係にあるのかということを知って、その上でアイデンティティというものを論じていくべきでないかと思います。それを忘れて言葉のあやに負けてしまうのです。だから個人的な人格を尊重していこうとか個性を発揮していこうという講演を聴いていると、私は不愉快になります。言っている人自身はほんとうに個人とか個性とかについて分かってるのかと思うのです。本当に人間は言葉のあやだけで負けてしまって、それが事実としてあると思い込んでいるのです。

 

まずは体験し、生(なま)のそれを智ってから、即ち(智)から(知)に入っていくことです。これを行って初めて知識というものの価値が分かってくるのです。こういう教えは素晴らしいといって人間は評価しますが、そうではなくてその知識を語っている人が、本当にその言葉の向こう側にあるものを掴んで、自分にも語り人にも語っているかどうかということが問題なのです。

  


13.氷川清話

 

今回のフォーラムの総合テーマは、日本人の伝統的な思想とか考え方を打ち出して、「世

紀を超えて日本の道を探る」というテーマであると聞いておりますけれども、私が一つ感動したのは勝海舟の『氷川清話』という本です。私は勝海舟というのは何かずる賢い、ものすごく頭の回転の速い人間かと思っていましたが、ほんとうはそうではなく、たくさんの修羅場をくぐり抜けて、生き延びて来て、西郷隆盛との無血開城というすごい事をやってのけ、日本を救ったほんとに素晴らしい人物であります。

 

彼はこの本の中に、なぜ自分がここまで生き延びて来たかは、若いときにやった武術と坐禅で鍛えて来たからであると言っております。そしていろんな談合とか対話といった人との話合いに出て行くときに、彼は無我の心で何の構えもなくて行ったと言うのです。構えると向こうからこう来たら、その構えにしか応ずることができません。構えないということはすごいことであります。でも無我というのは我が無いということでは決してありません。私は若いときは無我という思想はあまり好きではありませんでした。どうして自分を無くしていかなきゃいけないのかと思ったのです。これは間違いであって、無我とは自分をなくすことではなく、もともと我が無いということなのです。だから無我になれというのも間違いです。無我であることを自分に言い聞かせて納得して、無我にもどることによってわれわれは自由自在に生きていくことができるのです。無我とは自由であるし自在であると言ってもいいと思います。そういった意味で勝海舟は若いときの坐禅と武道という二つによって力をつけていったということです。

 

この中にお若い方がおられますが、20代30代のうちに一度存在の極限まで行くといいです。もうこれで心身共にだめだというところまでいって初めて、深いところから素晴らしい宇宙大の意志が出来て、自分を根源的に変えていくことができるのです。そこまで持っていかなければ、人間というものはなかなか変わることができません。

 

もちろん私も最近は年とりまして、激しい修行はできません。しかしどうせ死ぬなら早く死んでみたい、どうせ死ぬならもうむちゃくちゃやって何かを覚って死ぬぞという思いが私の心の中にあるのです。だから一度こうやって坐を組んだら、もう何があっても悟るまではこの坐を解かないぞというだけの意志は、まだまだほのかに残っています。しかしだんだんと体力がなくなってくるとその意志が負けてきます。しかし深いところにある意志をやはり大切にして生きていこう、そして生き方を変えて行きたいと思います。

 


14.興福寺

 そういう意志ということで、3年前に奈良の興福寺で頭を剃らして頂きました。興福寺を宣伝させて頂くと、もともと藤原氏の氏寺であり、僧兵を雇ってすごい力を持っていました。官立では東大寺が一番で私立では興福寺が最大のお寺なんです。そういうところで頭を剃らして頂きましたのが、残された人生はもう一度頭を剃ってそこで修行して、何かを掴んで死んでいきたいという思いがだんだん強くなって来たからです。

 

私は実は22、3のときほとんど出家の寸前まで行きました。ほんとに山へこもって一体何かを悟って、そこで一切の人を救うぞという決心をしました。摂心なんか1週間しますと脂汗が出て気絶するぐらいに足が痛いです。しかし若いときは、これも世界を救うためなのだと思って頑張りました。若いときはそのくらいの自分に対する自慢があってもいいと思います。年寄りにまでなって、俺はすごいんだと思うのは間違いですが、若いときは頑張って、「やったぁーッ」という自己満足でもいいと思います。

 

そういう時代がありましたが、あるとき縁がありましてある女性が僕の前に出て来たのです。それで真理に向かう情熱が女性の方に向かってしまい、出家を断念したという過去がありました(笑)。やっと笑って頂けましたが、僕にとっては真理追求のエネルギーと女性に対するエネルギーは同じエネルギーだったのです。ひとつのエネルギーをどういうかたちでどういう蛇口を通して他に放射していくかが問題であろうと思います。

 

例の密教というのはどちらかというとセクシュアルな像が多いですよね。インドに行くと男女が抱き合った像をたくさん見かけますが、あれは最高の人間の心境はあのセクシュアルな心境であるというふうに誤解されています。本来はその小欲を大欲にしていくということなのです。小さな欲望、即ち己を中心として己に跳ね返ってくるような欲望の出し方を、自分なんかどうでもいい、もともと自分なんか存在しないのであり、問題は他者と自分とは同じなんだという智慧によって、この与えられた仮の素晴らしいエネルギーを死ぬまで他者に使い切っていくぞという思いになっていくのです。そうなっていくと密教においてもそのセクシュアル的なエネルギーを他者救済のために使っていく。これが真言密教のもともとの考え方であります。もちろん仏教全体がそうであろうと思います。

 


15.男女の関係

 

そういった意味で、私としては当時若かったですから女房との恋愛をほんとに頑張りました。頑張りましたというか一生懸命やりました。それで私はいつも学生にこういう面倒くさい授業を聴くより、ほんとにいま恋愛関係にあったら、出席カードを上げるからこんな講義を聴かないでデートをして来いと言うのです。やっぱり一つの目的を持って生きることによって人間はほんとに生きるということが具体的に分かってくるんです。男女の恋愛というのはその辺が非常に大切な最初のきっかけであろうと思います。

 

しかし人間はそれで終わらないのです。先ほど申しました男女の関係は紙の表の問題ですが、それでは一人の女性、一人の男性を愛するということは一体何なんでしょうか。静かに静かに自分の中に浮かんでくる他者とは一体何なのかということを考えていきながら、夫婦の関係を生きていけば、決して離婚なんかしないのです。私どもには子どもがいませんので、子どもの相談なんかできませんが、夫婦別れをしそうなところがありましたらすぐわれわれは夫婦で乗り込んでいくと、必ず離婚はしないようになります。どうするかといったら本当に熱いところを見せるのです。ただ単に熱いのじゃなく、もう40年近く一緒に住んでいるこの生の姿を見せるのです。するとみんなが仲良くなってきます。やっぱりその裏にはこういう唯識から学んだものがあるのです。

 

私は、家では妻とは言わないのです。家に帰ると「あのお方」という気持ちで言うのです(笑)。何故ならば36億年前に地球のどこかで命の一滴ができたのは間違いないのです。36億年前に生じた命の展開の中のそのほとばしりが「あのお方」なんです(笑)。先ほども申しましたが、自分が存在しないのにどうして人間は自分のものという所有する権利があるのでしょうか。これは声を大にして言いたいです。

 

北朝鮮が攻めて来る、あいつらは憎いと言いますが、そういう問題も必要ですが、この裏を知ってからやらないとみんな滅んでいってしまうのです。ほんとに裏を知れば、北朝鮮が攻めて来てもハイ死にますというぐらいの腹づもりで政治の世界に出ていったら、問題は解決するんですが、このままでは20世紀から始まって21世紀も戦争で滅んでいくことは間違いないし、テロなんか根絶することはできないでしょう。

 


16.性相学辞典

 

皆さんこの中に政治家がいたらお願いしたいのです。ほんとにそこまで見極めた政治家が出て来ると世の中は変わってくるんですがね。いつの時代でも天災もありますけど全部人災なんです。人災でこの地球上の人間という生き物は、他の生き物さえも殺していって、どんどん沈没していくんです。今日はそういうことを声を大にして訴えていきます。

 

お前はどうするかということについては、今一生懸命作っている『仏教大辞典』をあと8

年ぐらいで作り上げて、それが終わったら70ですが、それから政治に出ていこうかなと思っていますので(笑)、そのときには1票をよろしくお願いします(笑)。

 

ただ、ある私の先輩のお坊さんは、横山君、残りの人生は大鋸屑(おがくず)が燃えるような生き方をするなと言うのです。そうではなくて百年2百年、いや千年先のことを考えて『仏教大辞典』を書きなさいと言われ、ああそうかなと思って辛いですけども、毎日毎日今書いています。

 

2010年には興福寺から『性相学辞典』という本を出しますので、ちょっと宣伝しておきますか(笑)。この性相学辞典というのは唯識学の辞典ですが、2010年に本屋で見たらああ例の横山の本だということで是非買ってください。

 

話をもとに戻しますが、人々を引っ張っていくトップの人によって、大きく世の中が変わっていくことは事実であろうと思います。その点宗教も哲学も虚しいです。僕はほんとに宗教家によく言うんですが、あなた方は1億2億円かけて世界の宗教者を集めて、「世界宗教平和大会」をやりますが、その金があったら病院を作れということです。全部自己満足なんです。ほんとに人を救うのだったら、政治の中心者になって、みんなを引っ張っていくような活動をすべきであると思います。この中にも若く元気のいい人がいたら、政治家になって頂きたいと思います。そうならなければほんとうに世の中は沈没をしていきます。先ほども申しましたように人災だから救いがあるということで、これも簡単な論理です。そのうち私も突然変異をして、もっと根源的な意味での別の運動を始めていってみたいなと思っております。

 


17.托鉢

 

かって私はこの『性相学辞典』のカンパのために、5年かけて托鉢をして全国を全部で10カ所回りました。福岡、高松、松江、金沢、名古屋、仙台とか、一番北は札幌を、全国から募って集まってもらった30人ばかりが1日掛けて托鉢して歩くんです。正式な衣などの托鉢道具は一式10万円するんですが、私の友人が30人分を3百万で全部買ってくれ、それを着て全国を行脚したんですが、その話を少しさせて下さい。

 

2回3回目まで続きましたが、足が悪くなって足を引きずりながら托鉢に参加された70歳の方もいましたが、その方は終わったら涙でむせるぐらい感動をされました。詳しいことは聞けませんでしたが、その方は戦時中中国大陸で人を殺して来たということで、その懺悔をするという目的で托鉢行に参加したのでしょうか。30名いましたが、「一人一宇宙」でみんな内的に違う動機を持って托鉢に参加されたのです。そういう托鉢を通しても、いろんなことを学んでいくことができるわけであります。

 

托鉢にはお金がかかります。札幌に行くために飛行機で行き、向こうで泊まりますから1人10万の費用がかかりました。ところが托鉢の方は30名が3人ずつ10班に分かれて1日中札幌の町を練り歩くんですが、高橋さん、一日でどのくらいのお金が托鉢で入ってくると思いますか。

 

高橋 2千円位。

横山 とんでもない(笑)。現代は町の中の市場なんかで立っておりますと、すごいですが千円札がボンボン入ってくるのですね。だいたい最低が100円で10円はめったにない方です。そういうヒントを与えましたが。

高橋 1日5万円位ですか。

横山 いいえどの町に行っても10万から12、3万になるのです。日本人はだいたいよく出してくれるのです。そして意外に若い者の方が出す人が多いのです。四国はお遍路さんで有名なところですから、あそこではほんとに子どもまでもがちょこちょこっと来て、ハイと言ってお金を出してくれることも多く、ほっとして感動的なこともありました。

 

托鉢行を通して、さっき申しました自分と他人とがどういうことかということをほんとに学ぶことができます。人間は形から入っていけばいいのです。衣を着て編笠をかぶって脚絆をつけて、すくっと立った瞬間に人間は変わるんです。それでお金が入らなくてもいい、そういう托鉢姿を一般の人に見せるだけでもいいのですね。静かに町の中をチリンチリン鳴らしながら歩いていく。

 

そうすると子どもも大人もそれを見て、ああーと眼に焼きついていくのです。そういうこ

とが現代にはあまりないということです。

 

もう7,8年前ですか、特別に東京で立教の学生も一緒に入って、池袋のサンシャインに行く道で托鉢を行いました。しかしやっぱり東京というのは独特のムードがあり、そこに学生7、8人で般若心経をお唱えしながら30分ぐらい立つたのですが、われわれ托鉢する姿に対してもぜんぜん関心も示さなくて、どんどん川の流れのごとく人間が歩いていくだけで、やっぱり東京とはそういうところだなと思いました。

 

時折、門前で「お通りッ」「お通りッ」と言われます。これは通りすぎて下さいという意味の専門用語です。しかしそれを聞いて、ムカッときてはいけないですよ。逆に感謝しなければならないのです。この「お通りッ」と言われたときの、己と他者の関係は一体何なのかと考えるよきチャンスです。ムカッとしてはいけないのです。叱られたときに、それを聞き流していくことを忍辱(にんにく)波羅蜜多と言うのです。これははずかしめに耐えるという言葉ですけれども、もともとはクシャーンティというサンスクリットで、智慧という意味なんです。即ち忍辱というのは我慢するんじゃなくて、智慧でもって自他不二、自分と他人とは同じであるとする智慧に基づく人間の行動なのです。自他不二ということは一如といってもいいと思います。

 


18.動詞で語ろう

 

唯識の話に戻り、(図2)の「もの」といったものがどういうふうに形成されてくるかということを考えてみましょう。この図では「もの」は「思い」と「言葉」とが心の外に投げ出したものにすぎない、と書かれております。これも先ほどの実験のまとめですけれど、われわれは「自分」という言葉でもって自分を考えていくし、またはさっき申しました憎いという人がいますし、またこのペンシルというとペンシルが外にあると思います。じっと見て言えばペンシルでもなんでもないですね。われわれは観察するには、言葉でもって観察する観察と、もう一つは成りきって観察する観察です。だから他人と付き合うときも、じーっと付き合い、じーっと見てみるのが必要です。これをやっていかれたらほんとに人間関係は変わってくると思います。日本人はなかなか目を見るのを嫌いますが。最近はだいぶ変わってきましたけど、じーっと見るのです。よかったら私と喫茶店に入って、30分位じーっと見つめ合うことできる人おられますか(笑)。私はできますよ。

 

そこでこういうことを皆さんに提案したいと思います。それは「動詞で語ろう」ということです。名詞で語るとそこに実体概念が起こってきますが、動詞で考えていった方がより事実に近いんです。ほんとは言葉は決してそのものをとらえることはできません。唯識というとなんとなく識心があると思いますが、そうではなく「識」とは「識る」という活動なのです。あのヨーロッパの唯心論とは全く違うんです。これは「心」か「もの」かのそういう唯心論ではなく、要は識るという、こういうエネルギーの変化体があるだけなんです。

 

皆さん目を開けて見て下さい。横山を見て下さい。高橋さん、誰が横山を見ましたか。

高橋 私が見ました。

横山 そうですか。ほんとは自分が見たというのではなく、見せられたわけなのですよ。目を開けたら見ざるを得ないのです。これは全部受身なんですね。ほんとに存在は全部パッシブであって、肝臓が働いて心臓が働いて、ほんとに60兆の細胞が全部自分を生かしめているわけであり、どこを探しても自分なんかないんです。それを俺の心臓、俺の肝臓と言っていますが、病気になったら、本当は肝臓さんに向かってすみませんね、少し休んで下さいと言って撫でて欲しいのです。それをなぜ病気になったんだ、この肝臓の野郎と思いがちですが、それじゃいけないのです。

 

私もアルコールが大好きでよくアルコールを飲みますが、肝臓が強くていつも翌日元気です。そこで、毎朝風呂に入って言うのは、「肝臓さんありがとう。心臓さんありがとう。肺さんありがとう。」という言葉です。全部言うとたいへんですから「60の細胞さんありがとう」と言います。そしてさらに「心さんありがとう」と言います。「明るい心さんありがとう」と言って、「きょう1日よろしく」と言って手を合わせて感謝して、風呂から上がって頑張っているのであまり病気にならないのではないかと思ってます。

 

しかし人間は「私」というものを設定し、「私があなたを愛する」と言い、「私がキリスト教の神を信ずる」と言いますが、これはみんな間違ってるんです。要は信ずるだけでいいのであり、信ずるということが宗教の根源なんです。だから異なる教理を持つ宗教が理解し合うには、「信ずる」ということだけを確認しあうことが必要です。「信じます」「信じるでしょう」ハイそれで終わりです。教理なんか人間が作ったものであるのです。一生懸命勉強すると何かすごいことを学んだということになってきますが、これは執着であって、全部うそっぱちなのです。

 

だから少なくとも動詞で物事を捉えていくならばだいぶ違ってくるのです。職場の中で皆さんが今から実行されていくと、「俺がお前を」ではなくなります。

 

そういった意味で動詞で語ろうではないかということです。だからたとえば恋愛してるときにも、「愛してるよ」「愛してるよ」と言えば必ずうまくいくと思います。「私が君を愛してる」というと、そこに自他が分かれていきます。動詞でもってお互いに関係しかないということで語ることを実験してください。

 

 


19.最後に

 

やっぱり成りきって成りきって生きていくなかで、初めてさっき言った「いまここ」ということが分かるんですね。あの坐禅にしても専門道場で、20年も30年も坐るのは、一体何のためにやってるのでしょうか。彼らはもちろん人を救うことが目的であり、ほんとに生きとし生ける人のために生きるのです。

 

私の教え子で、出家して、専門道場で17年頑張ってる人がいます。彼は最初はぜったい結婚するから出家しないと言っていましたが、老師に惚れられて出家しました。この前遊びに来ました時、今の生きる目的は何ですかと訊きましたら、ちょっと考えて、「相手に合わせて生きる」と言ったのです。「相手に合わせて生きる」というこの言葉はすごいと思います。さすが17年坐ってる人です。存在の深いところまでいった人が相手に合わせて生きることですと言った時の、その言葉を忘れられません。どうして坐禅をするかというのは、「いまここ」に成りきって、唯だ、唯だそこに全エネルギーを集中して、碎岩機のごとく存在のなかに  すーっと入っていくんですね。

 

私がお付き合いしてる一人の老師はよく「寺報」を送ってきます。その中で何かを掴むには専門家でも25年から30年掛かると言っています。毎日坐って20年30年掛かって掴むというわけです。

 

皆さん自己存在はほんとに不思議です。だから新興宗教なんかやめて、こうやって目を開けてこのマイクを論理的に考えて見ましょう。マイクは原子、分子です。この目も原子、分子で細胞から成っています。どうしてこれが見えるのでしょう。この己が不思議なんです。皆さん「見えるーッ」と叫びましょうよ。「嬉しい。ありがとう。」「不思議だーッ」と叫ぶとさっぱりしますよ。それを忘れて神とか仏とかを何か神秘的に思う必要はありません。一番すごい 存在は己であり、目が見え耳が聴こえ肌で感じることです。このすごいことをわれわれは与えられているということです。このことで「A有ればB有り。A無ければB無し。」という縁起の理を生活の中に生かしていくなら、家庭から始まって社会から始まって会社から始まって、日本というものが立派になっていきます。

 

一体何か。一体何かを一生懸命考えていくことによって、われわれの深層心理の中からすっきりさわやかになって朝目覚めて、よし1日頑張ろうという気持ちで生きていきたい。そしてできれば蝋燭の火のごとくに燃え尽きて死んでいきたいですね。このエゴというものに火をつけると、光と暖かさを他者に与えていきます。人間はエゴが強い。しかしいったん火をつけてそれを燃やし尽くしていく。燃えるということは気が楽に、体が楽になっていくことです。と同時に人々に光を暖かさを与えます。

 

光は智慧であって暖かさは慈悲です。ですから残された人生を蝋燭のごとくに燃えて燃えて、最後に「バイバイ」「じゃぁね」「またね」「サイチェン」「アウフビーダーゼーン」と言って死んでいきたいと思っております。できればそういう死に方を一緒に目指して頑張っていきましょう。どうもありがとうございました。(拍手)

 


◆質疑応答

 

質問 私は経済学から経済政策へと、下手すると社会学部へ転籍をと言われそうな生き方をして来ました。特に日本を中心に、あと東南アジアの経済発展ということをやって来ました。いま21世紀のそれがどうかということをまた考え直し、その一つの結論として図書館にも残しましたけど、私のゼミの中心の卒論がございます。結局日本とかアジアの国々が西欧の列強にやられちゃったのは、おっしゃるような唯心論的な生き方の中に閉じこもったのが一番の原因じゃないかと思っています。

 

それでちょっと畑が違いますけども天心の日本語で「東洋の理想」と訳されている本の中に一つの答えを見つけました。一方西欧列強は物質的に勝ったわけですが、今日に至った根源にはむしろやればできるという、プロテスタンティズムの生き方があると思うのです。これはお話とはちょっと反対の方法じゃないのかと、浅学非才の身でうまい言葉で説明できないんですけど感じた次第ですけど、その点いかがなんでしょう。

 

横山 ちょっと質問の要点がよく分からないんですが、東洋は心の方を考えすぎ、西欧はモノを考えていた。それで東洋は負け今日につながってるというご意見でしょうか。しかしあなたは勝つ負けるということを言いましたけど、西欧はほんとに勝ったんでしょうかね。

 

質問者 私はそう思います。心の世界がどうのこうのとか、あるいは霊の世界と言われても分からないんです。

 

横山 だから私いつも紙の表と裏のことを言います。表で勝った、負けたと言っても事実勝ったか分かりません。裏まで入れ紙の表の前後を考えることは無駄だとは言えないと思っています。私がなんでこの唯識というものを世界的に普遍的なものとして宣揚して来たかというと、今までは負けたか知りませんけど、本当は今からこの唯心論的な考え方は、それはしかしヨーロッパの唯心論では決してないのですが、必要なのでないか思っています。これは別の唯心論的な考え方であって、しかも実践できる理論でありますからね。

 

質問者 それでは先生はたとえばマハトマ・ガンジーとかネルーは勝ったとお考えか、負けたとお考えかということです。彼らは勝った、今日なお勝ってる、あるいは未来にも勝つというふうにつながっていくのでしょうか。

 

横山 私はやはり一番尊敬する政治家としてはガンジーさんを挙げます。それで私はいつも講演とか講義でああいう人を目指したいと言います。あの方はもちろん政治的な手腕もすごいですが、あの方の自叙伝を読みますと、あの方は列車の中で本を書いているのですね。『ガンジー全集』なんかすごいですが、彼が一番目的としたサティア グラーハという言葉はサンスクリットsatya-grahaと書きます。サティアというのは真理という意味です。グラーハは掴むという意味です。

 

彼は結局真理を追求するために生き、その一つの方便として政治の世界に入っていったのです。そういう真理を掴もうとして政治の世界に飛び込んでいって、素晴らしい生き方をしたと僕は思います。

 

質問 鹿島神流とご紹介頂いたのは、あれは居合とは違う実践の武道をおやりになっ

たということですか。

 

横山 もちろんです。居合というの江戸時代になって遊びで始めたものであって、あんなものは武道でも武術でもないんです。やっぱり抜刀術といいますが、抜刀術はパッと抜いてもうここにつけるんです。それでいて喧嘩はしないし、無構えといって構えません。剣も下へ下げます。人間は相手が構えるから構えるのですが、構えなくして入っていくと相手はものすごく怖いです。さっき言った無我であり、無というのはすごいです。

 

マハトマ・ガンジーは非暴力、無抵抗でやりました。たとえば北朝鮮が攻めて来たときに死ぬかということは、個人の問題だからできないかもわかりませんが、本当に死ぬよと自分に言い聞かしているんです。お布施で一番すごいのは自分の存在を人に与えることなのです。これは経典の中にたくさん書かれています。最近若者に「献体」という言葉を知っているか尋ねたら、百人いたら一人位しか知ってません。献体という言葉は体を捧げるという意味です。そういう意味で全存在を懸けて、よし与えるかという問題です。質問された方はガンジーさんをどう見ているのですか。

 

質問者 私は気持ちが和らぐ、気が楽になるという感じはしますが、そこからは何も出てこないんじゃないかなという感じです。今日はどうもありがとうございました。

 

小泉 如水会の研修文化委員をやっております小泉と申します。今回の一橋フォーラム21の「日本の将来」というテーマを高橋さんたちと考えた者の一人として、今回横山先生をお呼びした趣旨をちょっと説明した方がいいのかなと思いますので、簡単にコメントを述べさせて頂きます。

 

今日は横山先生の講演は、今までの政治とか経済とかに特化したような講演とは若干趣旨や趣が異なるということを今日皆さはお感じになったと思われます。われわれ研修文化委員として、これを何故敢えてもってきてるのかという説明ですけれども、基本的には前々から「一橋フォーラム21」は政治とか経済という方向にばっかり特化していて、文化とか哲学とかいったものがなく、潤いが乏しいという意見があるということです。昔は福田徳三、前谷リユウゾウ、左右田喜一郎といった学者で、哲学的なところから経済、政治というものに取り組んでた人がいて、その頃は東京商科大学の黄金時代だと言われていたが、今はそれがなってないじゃないかと言われるのは、われわれとしても忸怩たるところがあります。それで「日本の将来」という今期のテーマの中でできれば一橋の伝統に基づいた哲学というのを組み入れてきたのです。

 

一橋の伝統にはおそらく三つ分化があっただろうと思います。一つは福田徳三先生からそのお弟子さんである中山伊知郎、山田雄三先生という流れで、この方たちは高度経済成長期を池田内閣のもとで支えた方たちです。この方たちの思想は非常に知られてはいるものの、そのときそのときに対応していて、今ではその法制だとか複利といったものはあまりに一般化してしまって、一橋独自というものではありません。でもう一つの流れは、前谷リュウゾウ先生とか左右田喜一郎先生とかの流れで、コミュニズムですとか新カント派に基づいた哲学があるんでしょうけれども、現代ではそれはどうなのかということです。三つ目が山内トクリュウ先生で、この先生は西田幾多郎という京都学派の中心人物だった方のお弟子さんでした。その中には馬場啓之助先生というマーシャルの経済学原理を訳された先生もおられました。

 

山内先生自体は東京商科大学で教えられた後、戦後は京都大学の学長や京都教育大学の学長などをやられました。その山内先生が、最初はアリストテレスですとか、経済哲学ですとかといったものをやっていながら、最後に行き着いた哲学が今日の「唯識」というものなのです。この唯識哲学には専門用語がけっこうたくさんあり、その言葉の一つ一つはちょっと分かりずらかったかもしれません。

 

基本的にわれわれの方でこの唯識というのをぜひ横山先生に講演して頂きたいと思いましたのは、キリスト教とかイスラム教というのは、基本的には絶対的なものは神だということで、個人というものははかないものであるとしていることがあります。だから神という絶対的なものと個人というはかないものとが合うことは基本的にありません。だからこそ神の言葉を預かった予言者が非常に重視され、モーゼだとかキリストだとかマホメットとかいった人たちは特別な存在になってくるわけです。

 

ところが仏教の方では、たとえお釈迦様であってもそういう特別な存在ではありません。絶対的なものはただその関係性であって、よりよく生きるというところにそれを求めています。これは東洋の宗教、宗教といっていいのか分からないですけども、東洋的な思想の中心にあります。それで先ほどのご質問の中にありましたように、うやむやのままに過ぎ去ってしまったときには、それははっきりと目的意識を持って来る方たちに対して、立ち向かっていかないかもしれません。しかしそのはっきりした目的で、一面的な側面だけで来るというものに対しては、総合的な知識と感情と、それからほんとの無意識のところと、ばらばらになってくるのでなく一体として人格の形成、それからよりよい社会の構築に結び付けていこうという思想があったので、そういった観点からお話いただいたのです。多少難解で、なかなか伝わっていなかった点は申し訳ないと思います。そういったことについてご理解頂ければなと思いまして、「唯識」というのを一つのテーマにしようと思っております。

 

それで横山先生をお選びさせて頂いたというと、非常に偉そうに聞こえてしまうんですけれども、それは他にも、最近本屋にいきましても仏教書の中で「唯識」という本がけっこうたくさん積み上げられているんですけど、その中でも一番専門用語を使わないでエッセンスをお話頂ける先生ということで、今回横山先生をお招きさせて頂きました。そこのところは今までの先生方とかなり趣が違うということです。ちょっと前後してしまいましたけれども、こういう趣旨で横山先生をお招きしたということをご理解頂ければと思います。

 

高橋 もう一つか二つぐらいご質問受けられますけれども。

 

質問 先生がおっしゃったことを正確に覚えてないんですけれども、若い人であれば徹底的に指導をすると、その宇宙大の意志を感じる瞬間があるというお話をされたと記憶しています。その宇宙大の意志を感じるということと、坐禅を組んで20年なり25年かけて掴んだものとは同じものなんでしょうか。

 

横山 はい。先ほど坐禅をしてる専門家でも25年30年掛かるということを言いました。だから若いときに修行して入門で入口で得たものは、坐禅の究極の覚りとはぜんぜん違うと思いますが、ただやっぱり少しでもポッと変わるきっかけが一つ必要だと思います。それは知識でもなんでもないと私は思います。知識でもちろん変わることもありますが、それはほんとは変わってないんです。この辺(頭)で変わるだけであって、やっぱり実践して初めて変わらざるを得ないのです。ただそれを全員にやれということは言いません。やはり何人かいたら、ほんとの意味で自分なんかどうでもいいぞと思って根性を持って向かう人でなければダメです。最初は自分の問題から入っていくんですが、そのうちだんだん自我が薄れてくると不思議に人のことが気になってくるんです。最初は自我から入っていいと思いますが、内の深いところで人間はみんな共通にあるんです。できればすべての人が幸せであってほしいというのはみんな持っているのです。ところがエゴが中にあって、その意志や願いが塞がっているんですよ。それを激しい修行をして、少しでもそれを払うと、不思議にバーッと出てくるんです。私は人間をすごく信用しています。特に若い人はみんなこれを持っています。

 

この頃は新宿の西口のすぐのところで講義をやっています。これは一般の人のために4月から毎月第1と第4の水曜日に始めたばかりですので聴きに来てください。お金は取りませんが、部屋代が1万5千円ですから、15人集まれば千円だけ頂いています。終わりましたらその辺の周りで必ず飲むのです。私の主義は「すべての道はアルコールに通じる」であり(笑)、そういう感じでいつもやっています。

 

私は素面の時でも都庁の辺から後ろ向いて歩くんで、皆さんにも後ろ向いて歩きましょうと言うんです。なぜ人間は前ばっかり向いて歩くんですか。ときには後ろを向いて歩かなければ生きててつまんないじゃないですか。みんなが同じことをやってたらみんな奈落の底に落ちます。後ろ向いて歩いたり、カニさんになりましょうよ。カニは何で横に歩くかといったら、みんな他の動物が前に歩くからわれわれ一族は横に歩くと答えたそうです(笑)。そういう意味で、なかなか自分はまだできませんが、ほんとに無我になれば自由自在に生きていけるということです。それを目指していけば、ほんとに人のため世のために自分のためにもなると思います。

 

( 終了 拍手 )

 

                                                 【以 上】


◆講師紹介

横山 紘一  よこやま こういつ


昭和15年12月30日、福岡県博多に生まれる。本籍は山口県。
1964年 東京大学農学部水産学科卒業、1967年 東京大学文学部印度哲学科卒業、1974年 東京大学大学院印度哲学博士課程修了。
東京大学文学部助手、文化庁宗務課専門職を経て、現在は立教大学文学部教授。
大乗仏教・第二期の「唯識」思想を研究。現在、「菩薩会」を設立して知行合一的生き方を実践し宣揚しつつある。
趣味は武道(鹿島神流師範代)。


<著書>
『唯識思想入門』(1976年10月、第三文明社)
『唯識の哲学』(1979年7月、平楽寺書店)
『仏教思想へのいざない』(1984年4月、大明堂)
『唯識とは何か』(1986年7月、春秋社)
『十牛図・自己発見への旅』(1991年9月、春秋社)
『我が心の構造』(1996年5月、春秋社)
『ゆずれば無我か』(1996年11月、佼成出版)
『漢梵蔵対照・喩伽師地論総索引』(1996年8月、山喜房仏書林)
『喩伽師地論に基づく梵蔵漢対照・蔵梵漢対照・佛教語辞典』
 (1997年7月、山喜房仏書林)
『唯識という生き方』(2001年7月、大法輪閣)
『やさしい唯識』(2002年12月、NHK出版)