リーダーシップ

 

講 師  京セラ株式会社  名誉会長

 稲盛 和夫

平成15年7月2日 於:如水会館

【無断転記転載を禁ず】

社団法人 如 水 会

 

 

 


 

◆内容目次

はじめに――次元の高い崇高な企業目的

1 京セラ創業のエピソード

  資本金300万円でスタート

  創業1年で利益計上

  無借金会社へ

  稲盛和夫の技術を世に問う場

  全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、

人類社会の進歩発展に貢献する

  企業には高邁な目的、意義、大義名分が必要

2 第二電電の創業

  動機善なりや、私心なかりしか

  国民のために役立つ仕事をしたい

  KDDIの誕生

  大義名分を失った企業

 

◆質疑応答

◆講師紹介

 

【無断転記転載を禁ず】

社団法人 如 水 会

 

 


 

はじめに 次元の高い崇高な企業目的

 ただいまご紹介いただきました稲盛でございます。今日、みな様方の「一橋フォーラム21」で話をするようにということで、どういうお話をすればいいのか、大変迷っておりますが、「経営者は大義名分を持て」と題して、お話をしようと思っております。私が京セラ、また現在のKDDIをつくって今日まで経営してきた中で感じておりますことを、それほどまとまってはおりませんが、お話してみようと思い、今日はここへ出て参りました。

 

実は私、個人的にも昨今の企業経営者の不祥事等については、大変心をいためておりました。米国におけるエンロンとかワールドコムなどの不祥事や、日本の企業の中で起きているいろいろな不祥事も全て、経営者に哲学が欠落していることが原因ではないかと思っています。今日はそのへんについて私見を述べてみたいと思います。

 

私は、現在71歳でございますが、ここまで経営をやってきました中で、企業経営において最も大切なことは、「次元の高い崇高な企業目的を掲げる」ということではないかと思っております。また、言葉を換えますと、企業経営の目的というのは、大義名分のある、誰もが心から共鳴出来るようなもので、いわば普遍的に正しいものでなければならないと思っております。また、同時にその企業の目的が大義名分のある、普遍的に正しいものであればあるほど、その目的を追求する方法も公明正大かつ人間として正しいものでなければならないと思っております。私の経験から決して商売だからといって、不正をしたり、自分だけがよければいいというような考え方で経営を追求してはならないと思っております。

私がそのようなことに最初に気がつきましたのは、京セラを創業いたしまして間もない頃のことでございました。その創業のときのエピソードを紹介しながらお話してみたいと思います。


 

1 京セラ創業時のエピソード

京セラを創業する以前の私は、京都の送電線用の碍子をつくっております会社に就職をいたしました。電力線に使う碍子とは、一般陶磁器でありますが、その会社ではこのままでは将来が心もとないと考え、私に新しいエレクトロニクスに使われるような新しいセラミックをつくってほしいということで、研究に配属されました。そこで、現在のファインセラミックスの研究を担当することになり、私は一介のエンジニアとして人生のスタートを切りました。

私が鹿児島大学を卒業しました1955年の日本は、特に地方大学の場合ですと、大学を出ましてもなかなか望むような、いい会社に就職できない大変な就職難の時代でございました。

 

ようやく大学の恩師の紹介で就職出来ましたその京都の碍子メーカーも、実は入ってみますと、倒産寸前の会社で、戦後から私が入りました昭和30年まで、10年間赤字続きの会社だということでございました。入った最初の月の給料日から給料が出ず、「一週間ほど待ってほしい」というような会社でございました。 

私ども新入社員は勿論のこと、ベテランの従業員にとりましても、大変不安な会社でございましたが、私はそこで任されたファインセラミックスの研究に、全身全霊を傾けて取り組んでまいりました。

 

そして、1年間ほど一生懸命研究をやっているうちに、新しい高周波絶縁材料に用いられるファインセラミックスの合成に、日本で初めて成功いたしました。ちょうどその製品ができた頃、国内ではテレビが普及し始める時期に差しかかっておりました。松下電子工業さんもオランダのフィリップスと技術提携をされ、テレビの生産を始められていましたが、このブラウン管の製造に必要な絶縁材料に困っておられました。松下電子工業さんは、私のところに「そちらで開発したものが使えると聞いているが」ということで訪ねて来られました。実際に私の開発したファインセラミック材料が使えることがわかり、供給することになったのですが、ちょうどテレビが各家庭に入り始めたときだけに、大変な需要が予想されておりました。

 

そのブラウン管に使われました部品を松下電子工業に納入しますのに、一生懸命頑張ったおかげで、赤字会社でありました私の入った会社にも、利益を若干もたらすということになってきました。田舎大学を出ました一介の技術屋でありますが、わずか1年しばらくで、そのような開発が出来たということに、私自身大変喜んだことをよく覚えています。

 

しかし、入社して3年ほどたったとき、私が開発しましたファインセラミック材料を日立製作所さんが、セラミック真空管の開発に使うという動きがありました。当時は、真空管がミニチュア管という小さな真空管に変わっていく頃で、日立さんはアメリカのGEから技術導入をされ、外側のエンベロップがガラスではなく、セラミックで出来ている小さな小指の先端ほどものをつくろうとしていました。私が開発しました材料の存在を知って、「ちょうどアメリカのGEが使っている材料と同じなので、ぜひお願いしたい」と来られたのです。私は大変嬉しく思い、一生懸命頑張ったのですが、なかなかうまく試作品がつくれませんでした。半年程苦しんでおりました。そして、なかなか日立さんのスペックに合格するものがつくれないままに、当時の技術部長と意見が分かれ、激論になりました。結局、そのことがきっかけで私はその会社を辞めることになりました。

 

資本金300万円でスタート

ところが、辞めるといいましても、何とかその会社に入れてもらえたような就職難の時代ですから、他に行くところはなかったわけです。しかし、ちょうど海外から技術者としての誘いがあったので、海外にでも行こうと思って考えていました。その当時、私と研究をやっておりました部下と、製品化をやっておりました部下の者たちを中心として、7人が集まって来ました。「あなたが辞めるのなら、我々も辞めたい」と言うものですから、当時私の上におりましたちょうど父親と同じ年くらいの管理部長の方が、出身校である京都大学の電気の同窓生にお願いして、何とか会社をつくっていただくことになりました。

 

いまどきはベンチャービジネスで、自分から会社をつくることがはやっていますけれども、当時は、自分で会社をおこすというようなことは考えもつきませんでした。それでも周囲の人達みんなが「せっかくここまでやった技術を活かすような会社をつくってあげましょう」というので、資本金300万円で会社をつくってくださいました。同時にその中の1人が、自分の家屋敷を担保に入れて、京都銀行から1,000万円の借入をしていただき、それで設備投資をして、会社が出来たわけであります。また、中学卒業の20人を新しく採用しまして、わずか28人という零細企業で昭和344月に京セラは創業したわけでございます。

 

私はいま申し上げましたように、お金は1銭も持っていませんでした。そのため300万円の資本金で出資していただいた方々が、「君が持っている技術を資本金と見なして、株も持ってもらいましょう」と言われ、私にも多くの株を持たせてくださいました。当時、私は株式というものが、どのようなものかも知りませんでした。つくっていただいた方が、私に株券を渡すときに「このような技術開発型の新しい会社というのは、あなたが頑張っても万に1つ成功するかしないかだろう。みんなが何とかしてほしいと言うから会社をつくってあげるけれども、失敗する確率のほうがはるかに高い。失敗すると、この株券は、実は竈の焚き付けにもならないかもしれない。株券というのはそのようなものだ」と言われました。

 

創業1年で利益計上

しかしその方々が、自分の家屋敷を担保に入れて、借金までして支援していただいてくれるということでございましたので、私はそういう点では、何としてでもその方々に迷惑をかけてはいけないと強く思いました。早くその借金を返していけるようにしようと、28名の全従業員一丸で必死に働いて、会社を1日も早く立派にしていこうと頑張ってきました。しかし、田舎から京都に出て来て、まだ足掛け4年にしかならない私が、経営の全責任を負うということですから、大変不安でございました。

 

当時私は、まだ27歳でその不安を払拭するために、本当に朝から晩まで働きづくめで不安を忘れようとしていました。しかし幸いに、日本においてテレビが急激に普及していく時期であったために、松下さんでは、ブラウン管をつくっても、つくっても足りないということで、連日のように私の会社にも注文をしていただきました。そして、毎日毎日、松下さんの工場まで届けに行かなければ生産が間に合わないというような忙しさが続きました。そのために、創業1年目から京セラは黒字を計上することが出来ました。黒字にはなりましたが、ブラウン管に使います絶縁材料でありますその製品が、いつ何時途絶えてしまようなことになれば、1つの商品しかつくってないわけですから、明日にでも潰れる可能性があったわけです。28人の従業員を路頭に迷わすかもしれないという不安で、私は夜も眠れない日々が続きました。

 

ですから松下さんからいただく毎月の注文というのは、本当に私にとっては命綱のようなものでございました。そのため、松下さんだけの仕事では、どうしても不安に思ったものですから、日立さんや東芝さんらも弱電関係に乗り出してこられましたので、それらの企業から新しい受注を得ようというので、必死に注文を取りに動いておりました。

しかし、京都にできたばかりの零細企業、ましてやその会社のリーダーが田舎大学を出たまだ若い技術屋というのでは、日本の一流企業は相手にしてくれず、なかなか受注はいただけませんでした。

 

そのため、そういうところに行き、技術屋さんと打合せをしていますと、まず日本ではつくれず困っているというようなもので、量も非常に少ないものを「そんなに注文が欲しいなら、こういうものはつくれるか」と言われるわけです。そういう他の企業が出来ないと言ったようなものができるかと言われるようなものであっても、やらなければ会社は生き延びていけませんので、私は必ず「出来ます」と言ったわけです。実は出来るか出来ないか自信もないのに「出来る」と言って、まず注文をもらい、必死でそれを開発して、それを嘘にしないということをやってきました。「ヒト・モノ・カネ」といった経営資源の全てのものが不足する中で、私に出来ることといえば、自分の知恵と従業員の知恵を絞って、創意工夫を重ねること、そしてまた全社員が心を一つにして、誰にも負けない努力を続けていくことしかありませんでした。まさに生きていくことに必死でありました。

 

  このような努力を続けて、先程も言いましたように、創業1年目の決算では、売上が2,600万円、税引前利益が430万円、利益率で10%を超えたわけです。私自身は経理の「け」の字も知りませんから、支援をしていただいた会社の経理課長さんが決算表をつくってくれて「1年目で素晴らしい成績になりましたよ」と言われたわけですが、そのときに私は、430万円ぐらいの利益が出ましたので、何とか借りていただいた1,000万円のお金が早く返せるだろうと思いました。

これであれば3年ぐらいで、返せると思い、そのことをお金を借りてくれた方に言いましたら、「あなたは、何にも知らないのですね。利益が出ると、半分ほど税金で持っていかれるのですよ」と言われました。私はむきになって「うちには借金があります。その借金も返さないうちに、何で国が税金を召し上げるのですか。借金を返してから、儲かったので税金を取るというのであれば話は分かるが、借金を返してもいないのに税金を取られるのはおかしいじゃありませんか」と言いましたら、「あんたは経理や税務が何も分かってないけど、そういうルールになっているのです」と言うわけです。

それで、利益の半分ほどを税金として、残ったのが百数十万円でした。そうしましたら、今度はその方が「みんながよく頑張ってくれたので、臨時ボーナスを出してあげよう。また、株主にも配当をしましょう」と言うので、税引き後は100万円しか残らなかったのです。そうすると、10年間は設備投資も何も出来ず、1,000 万円を返すのには、10年かかるなと思ったわけです。

 

無借金会社へ

そのときもう既にソニーさんや本田技研さんは立派な会社になっておりましたので「ソニーとか本田技研というのは、もともとは資本金も何もなかったのに、どうしてあのように立派になっていったのですか。こんなに税金を取られて、税引後わずか100万円ぐらいしか残らないのだったら、たった1,000万円のお金を返すだけで10年間かかってしまい、とても発展のための設備投資や研究開発もできない」と言ったら、その方が笑われて「あんたはいい技術屋かもしれないが、いい事業家にはなれませんね。事業というのは、利益が出れば、それをもとにして借金をさらに重ねていけばいいのです。そうすれば大きく発展していくのですよ」と言われるのです。しかし、私が「借金をすると、もし万一のときには、みなさんに迷惑をかけるので、どうしても早く返したい」と言うと、「そういうことばかり言っていたら、会社は大きくなりません」と言われたのです。

 

私は実はそう教えてもらったのですが、どうしても迷惑はかけられないという思いから借金を返すことに一生懸命努めてきました。そのため、会社を創立して10年たたないうちに、無借金会社になって、その後も、京セラはずっと無借金で高収益の優良会社と言われるようになっていったのです。借金を返していくことばかり血道をあげていては、会社を発展させることは出来ないと言われても、どうしても借金を返そうと強く思ったことで、京セラは借入金に依存しない強固な財務基盤を築きあげ、その豊かな財務状況をもとに様々な事業にチャレンジし、急激に発展していくことが可能になったわけです。

 

稲盛和夫の技術を世に問う場

実は京セラをつくりますときに、会社設立の目的を筆で和紙に書きまとめました。以前に勤めていた会社では、技術部長と意見が合わず辞めることになり、新しい会社をつくっていただいたという経緯から、「今度は誰にも遠慮せず、堂々と稲盛和夫の技術を世に問う場にしよう」と誓い合ったわけです。

 

そして、それを毛筆で清書して、8人で血判を押しました。そのときも、緊張しながら剃刀でおっかなびっくり指先を切ったわけです。京セラはそのようにして「稲盛和夫の技術を世に問うための場」と位置づけて始まったわけです。また、会社がうまくいかないかもしれないということも予想されたものですから、「もし会社が金に困って、潰れそうになったときには、みんながアルバイトで外に働きに行ってでも、稲盛さんの研究だけは続けさせてあげよう。そのようにとことん技術を問えるような場にしていこう」と、そのようなことを合言葉にして仕事にあたってくれました。私も今度こそは自分の技術力を思う存分発揮出来る会社が出来たと思って、大変奮い立っておりました。

 

全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、

人類社会の進歩発展に貢献する

ところが京セラを創業いたしまして3年目の時に、高卒の人達を新たに11名程採用しました。ちょうどその11人が、1年程働いてくれて、仕事にも慣れてきて、頑張ってくれていたのですが、突然私のところへ来まして「今度のボーナスは幾ら出してくれますか。これこれの金額を何としても出してもらいたい。また、来年の春の昇給のときには、何%の昇給をしてください。来年の夏のボーナスもこれこれのボーナスをいただきたい。さらには、その次の年の昇給も最低何%の昇給は保証してください」と言って来たものですから、私は「会社は出来てまだ3年ぐらいしかたってない。私自身も必死でこの会社を立派にしようと思ってやっているのに、そんなことを約束出来るわけないだろう」と言いましたら、実は私どもが会社をつくるときに血判を押したのを知っておって、その11人の連中も血判を押して「いまの要求を認めなかったら、全員辞めることにしています」と言うわけです。

 

その子たちに「それを約束してあげたいとは思うけれども、私には出来ない。みなさんも知ってのとおり、いま本当に毎日毎日を必死に、私自身が先頭を切って頑張って、やっと会社が回っていく、そんな状態なのに、とても将来のことなど約束できるはずがないだろう」ということを一生懸命言いました。

 

それでも彼ら11人は「いまここに書いてきた条件を保証してくれなかったら、いますぐにでも辞める」と言うものですから、当時、私が住んでいた京都の嵯峨野の広沢の池のほとりにある2間しかない市営住宅にその子たちを連れて行って、3日3晩説得をしました。「保証をしてあげたいのは山々だけども、それは出来ない。きっと将来みなさんのためになるようにしてあげるつもりだから、私を信用し付いてきてほしい」ということを言い続けました。やっと彼らが私の誠意を分かってくれて、その要求を撤回し、残ってくれることになりました。私は「約束は出来ないけれども、もし私がみなさんを騙すようなことがあったら、そのときには私を殺しても構わんよ」とまで言って何とか納得させることができたのです。

 

そうして、やっと解決をして、私はほっといたしましたけれども、そのときに、大変な脱力感も感じました。私はこの会社を「稲盛和夫の技術を世に問うための場だ」と位置づけてつくったのに、実際には11人の高卒の従業員をはじめとして、京セラの全従業員の生活を保証するということを約束させられた。具体的な数字で約束をしたわけではないけれども、精神的には、全従業員が喜んでくれるようにしてあげるというふうに約束せざるを得なくなってしまった。そういうことがあったために、私がつくってもらったこの会社の目的というのは何なのかということを改めて自問自答するようになりました。

 

実は私自身は鹿児島市内の出身でございまして、終戦までは父親が鹿児島市内で印刷屋をやっていました。しかし、空襲で全部焼けてしまって、戦後は父親が印刷屋を再開する気力もなくなり、子どもは7人兄弟で多く、また親戚の従兄弟も両親を亡くして転がり込んで来ましたので、大変大所帯で、食糧難のときには、大変貧乏をいたしました。それでも私は、両親と兄弟の協力により、地方大学ではありますが、大学まで行かせていただきました。大学を卒業して、会社に勤めました後も、頑張って何とか早く大変苦労している田舎に住む両親や兄弟を少しでも助けてあげようと思い、就職しましたときから、安い給料の中から仕送りをいたしておりました。

 

その後、会社をつくっていただいたので、その会社で頑張っていったら、もう少しは親孝行も出来るし、弟、妹達の学資の手助けも出来るのではないかと思っていました。ところが従業員からそういう血判状を突きつけられて、全従業員の将来にわたる保証を約束する羽目になってしまったわけです。

そのときに、私を今日まで育ててくれた両親並びに兄弟の者たちに対して、まだ十分な経済的支援もままならないのに、何の縁も所縁もなかった人達の生活をまず保証しなければならなくなったのです。それはあんまりではないかと、大変悩みました。また葛藤もいたしました。

 

いままで赤の他人であった従業員の将来の生活の面倒をみなければならないということが、実は「企業経営」というものだ。企業経営とは、「稲盛和夫の技術を世に問う」という奇麗事や甘いものではなかったのだということを知り、こんなことなら、会社をつくってもらうのではなかったというぐらい、実は真剣に悩みました。

そのときに、私は企業経営の真の目的というのは、技術屋である私の夢を実現するというようなことではなく、ましてや経営者やその一族が私腹をこやし、豊かになることでもない。それは、現在は勿論、将来に渡って、従業員やその家族の生活を守っていくということにあるのだということに私は気付かされたわけであります。それで私は、従業員の人達がそういうことを望むのであれば、この会社というのは、会社に住んでいる従業員の人達の生活を守ってあげるということが、どうも会社の目的にならざるを得ないなと思いました。 

 

そのために、私は「この会社は、世襲制をとらない」ということを固く決意をしまして、翌日、社員の者たちに「京セラは私の家族や一族を富ませるためにあるのではない。だから、私の子どもを初め、血縁関係にある者を後継者に選ぶということは一切しない」とハッキリと告げました。

 

 その瞬間に、私はそれまでの「稲盛和夫の技術を世に問う」という目的をきっぱりと捨てました。そして京セラの経営の目的を新たに据えることにいたしました。それは極々プリミティブで、簡単でありますが、「全従業員の物心両面の幸福を追求する」というたったそれだけのことです。しかしただ単に、「全従業員の物心両面の幸福を追求する」というだけでは、企業に集う自分たちだけが幸福になればそれでいいともなってしまい、社会の公器としての企業の責任も果たせない。また、たった一回しかないこの貴重な人生を少しでも意義のあるものにしたいという私自身の思いもありまして、その後に「人類社会の進歩発展に貢献する」という一文を加えました。

 

つまり、会社経営の目的を「全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、人類社会の進歩発展に貢献する」として、これを京セラの経営理念とすることを決めました。そして、それをそのまま足しも引きもせず、今日までやってきました。

これにより京セラは、経営者自身の夢や欲望をかなえるためではなくて、従業員の幸せを考えるために、また社会の進歩発展に貢献するために存在するとしたわけでございます。いまつくづく考えてみますと、これは私自身のためにという利己的な経営から、人様のためにという利他の経営への転換であったとも思います。

 

そのような新しい経営の目的、経営理念を確立いたしました瞬間に、私がそれまで親兄弟のことだとか、また私の技術を世間に問うとかということで悩んでおりました矛盾が跡形もなく消えて、同時に自ら掲げた高い経営目標に向かって、今後は如何なる苦労もいとわず努力を重ねていこうと、新たな決意が自分の中に芽生えてくるのを実感しました。

それはまさに京セラという会社に、社員全員が共有出来る大義名分のある企業目的が生まれた瞬間でありました。また、経営者であります私が、経営の本質を理解し始めた瞬間でもあったと思っております。

 

 そういう経営理念、経営の目的を据えましてからというものは、例えばいい加減な仕事をしております従業員を見つけますと、私はよく叱ったものでした。それは「うちの会社は全従業員で幸せになろうと、経営者であります私自身も率先垂範、朝から晩まで必死で頑張っているのに、君はそんなことでどうするのだ。人類社会に貢献するという我々の崇高な目的を達成するためにも、もっともっと努力しなければならないのではないか」と言って、従業員をよく叱ったものです。このプリミティブではありますが、高邁な目的があったからこそ、私自身、従業員に対して、何の気兼ねもせずに堂々とリーダーシップを発揮し、ともに努力することが出来たと思っています。

 

従業員も経営者から、ただ「もっと働け」と命じられるだけでは、経営者が利益を得るために、また経営者が労働者を搾取するために、自分達をこき使っていると取りかねないわけであります。私がそういう中で、私心を離れた高い次元の目的を明確にしたことから、私も従業員に強く要求できましたし、また従業員も心から経営者を信頼し、安心して業務に邁進してくれることが出来たのです。それは経営の目的が、大義名分を備えているからであると思っております。誰もが心からその実現を望み、その実現のためには、如何なる苦労もいとわず努力を払おうと思えるような理由が、その企業の目的として存在するからこそ、全従業員が力を合わせ、一つに結集することが可能であったのだろうと思っております。

 

企業には高邁な目的、意義、大義名分が必要

当時の京セラは、資金も技術も大したものは持ち合わせませんでした。一つにまとまった従業員の心をだけが、唯一の財産でありました。その全従業員の心を一点に集結させるのに、大義名分のある企業の目的を掲げたことは大変役立ったと思っています。我々人間は何かに全身全霊を打ち込むとなれば、そこには大義を必要とすると私は思っております。「大義」とは、公益、つまり個人の利益ではなく、世のため人のためというような公の利益のことであります。このような高邁な理由、目的が存在して、初めて人間は心から一生懸命になれるものではないかと私はいまでも思っています。

以上のような経験を通じまして、私は「企業には高邁な目的、意義、つまり大義名分が必要である」と固く信じている次第です。従業員の反乱をきっかけに、私は経営で最も大切なことに気がついたわけであります。

 

また、企業の目的が公明正大であればあるほど、追求する方法も公明正大でなければならないことに気付きました。つまり、よく企業は利益を追求するのが企業の目的ではないかと蔑まされて言われますけれども、私は企業経営とは、正々堂々と人間として正しいことを貫きながら、利益を求めるものだと思っております。企業が、その目的を追求するための手段も公明正大でなければならないと、そう信じて今日まで経営にあたってまいりました。


 

2 第二電電の創業

そういう私の思いをさらに強固にいたしましたのは、いまから20年余り前の「第二電電の創業」でございました。1984年に、日本では電気通信事業の自由化という大きな転換期を迎えておりました。それまで国策会社として運営されていた電電公社が民営化されNTTとなると同時に、通信業界に新規参入が認められることになったわけであります。私は以前から、日本の通信料金の水準が、世界的に見ても余りにも高く、そのことが国民に大きな負担を与えているばかりか、日本の健全な情報社会の発展をも妨げていると考えておりました。

 

これはNTT、つまり電電公社独占のために起こっていることですから、この機会に、早くどこかの大企業が名乗りを上げ、NTTに対抗して、日本の通信料金を引き下げてほしいものだと期待をしておりました。または、経団連を中心に、大企業がコンソーシアムをつくって、この電電公社に対抗するような新しい通信会社をつくってほしいとも思っておりました。それによって、競争も生まれ、国際的にもリーズナブルな通信料金になってほしいと考えておりましたが、しかしこの事業はあまりにもリスクが大きいと言われており、誰も手を挙げようとはしませんでした。

私は、どの企業も単独でやれないなら、大企業がコンソーシアムをつくってでもやってほしいと思っていましたが、一向にどこも名乗り出ようとはしません。たまり兼ねた私は、京都の中堅企業のトップという自分の立場を忘れて手を挙げました。

 

しかしながら、当時4兆円もの莫大な売上を誇り、33万人の従業員を抱えるNTTに真っ向から臨むには、当時、連結売上で2,300 億円足らず、従業員数も1万2千名に満たない京セラは、余りに脆弱でありました。まるで槍1本で巨大な風車に立ち向かうドン・キホーテのようなものでありました。そのためか、京セラは必ず失敗するというのがもっぱらの評判でありました。それでも私は、国民のために、長距離電話料金を安くしていくというような事業は、京セラのようにベンチャー企業として身をおこし、チャレンジ精神で事業を展開している企業こそがこれを実行するべきかもしれない。そういう思いを強く持っておりました。

 

動機善なりや、私心なかりしか

しかし、実際には着手するまでには、少し時間を要することになりました。それは、自分自身の思いをもう一度確認するためでありました。私は、自分自身に対して、電気通信事業に乗り出そうとするのは、ほんとに大衆のために通話料金を安くしたいという純粋な動機からだけなのかその動機は、一点の曇りもない純粋なものかと、毎晩、寝る前のひととき自分自身に問い掛けておりました。

 

つまり、電気通信事業への新たなチャレンジが、本当に純粋な動機に発したものなのかということを自問自答し続けたのです。そのときに私は、毎晩家に帰って、どんなに遅くても、寝る前にベッドの上で「動機善なりや、私心なかりしか」と、自分に問いかけました。もう一人の私がこの私に、「お前は近未来に到来するであろう情報化社会において、日本の通信料金を安くしなければ、国民負担が余りにも大きい。それを安くしてあげたいと言って、乗り出そうとしているけれども、それは本当か。そこに、私心はないのか。自分を世間によく見せたいという私心がありはしないか。またスタンドプレーをしたいとお前は思っているのではないか」ということを「動機善なりや、私心なかりしか」という言葉に込めて、毎晩厳しく問い詰めたのです。

 

半年ぐらいたって、ようやく私の動機は善であり、一切の私心はないということを自分自身で確認出来ました。そうであれば、如何に困難な事業であろうとも、これを実行しようという勇気と熱意が生まれ、第二電電の創業を決意することが出来たわけであります。

この電気通信事業の自由化にあたっては、最初は誰も手を挙げなかったものの、京セラの私が手を挙げました後に、2社が名乗りを上げ、結局新電電は3社競合でスタートすることになりました。

 

この3社の中では、京セラを母体とした第二電電は、他の2社と比べて圧倒的に不利だという前評判でありました。経営者であります私自身に、通信事業の経験がないこと、また他の2社に比べて、通信インフラや通信技術の蓄積がないということがその理由でありました。たとえば、旧国鉄を母体にした日本テレコムは、新幹線、鉄道線路沿いに光ファイバーをひけば、簡単に東名阪の高速通信ネットワークが出来たわけです。また日本高速通信は、道路公団、建設省を中心に、東名、名神の高速道路の側溝沿いに光ファイバーを置きさえすれは簡単に通信網を構築出来るということから、第二電電の脱落が予想されていたのです。 

 

私は当時の国鉄総裁のところへ飛んで行きまして「鉄道線路沿いに細い光ファイバーを1本ひくも2本ひくも一緒だと思います。工事料金は払いますから敷かしてほしい」と頼みに行きましたが、当時の国鉄総裁は一笑に付し「これは国鉄がやる事業だから、国鉄の子会社にやらせるのであって、何の関係もない第二電電などに使わせることは出来ない」と無下に断られました。私は生意気にも「これは国の財産でしょう。国有財産を一方的に一企業に占有させるのは、アンフェアじゃありませんか」と言って食ってかかりましたが、一笑に付されたままでした。

 

結局、第二電電は大阪から京都、名古屋、東京と日本の山の頂きに、パラボラ・アンテナを据えて、マイクロウェーブという無線を使って、通信ネットワークを整備するという方法をとることにしました。

ところがこれも簡単ではございませんで、実は電波は日本の空を縦横無尽に飛んでいるわけです。特に政府機関、たとえば、自衛隊や米軍が使っていますマイクロウェーブの電波が錯綜して飛んでいます。そこへ勝手にパラボラ・アンテナを付けて、電波を飛ばしますと混線が起こってしまって大変なことが起きます。また、軍事用途だけに、どの無線が何メガの周波数でどのルートで飛んでいるのかということは、国家機密になって、明らかにされていません。そういう状況の中で、マイクロウェーブのルートを見つけていかなければならなかったのです。

 

その時、助け舟を出してくれたのが、当時電電公社の総裁、真藤恒さんでした。真藤さんとは以前から若干知り合いで、私が最初に手を挙げた時も、すぐ電話があって「稲盛君よくぞ手を挙げてくれた。実はどこも出て来ないので、これでは電電公社の民営化が進まないというので心配しておったけど、君が出てくれるのでよかった」と言って下さいました。

 

その真藤さんがこのときも、私が大変困っているのを見られて「実は電電公社がマイクロウェーブのルートをもう1本確保している。現在NTTは光ファイバーを新しく敷こうと思っているので、そのルートは使わなくてもよくなった。よかったら、そのルートをあなたに教えてあげましょう」と言っていただきました。そこでそのルートを使わせてもらって、マイクロウェーブの通信網の建設に乗り出したわけです。

 

しかし、山の頂までは道も何もありません。そこで、まずは山の中に道をつくって登って行き、その頂きに大きなパラボラ・アンテナの鉄塔を建てることに努めました。夏はヤブ蚊、ブヨに悩まされ、冬は雪で凍てつくようなところを若い連中が登って鉄塔を建てていきました。そのような従業員の必死の努力により、鉄道線路沿いや高速道路沿いに光ファイバーをひいて簡単につくるのと同じスピードで、マイクロウェーブの通信ルートを完成させました。そして、同じ時期に開業にこぎ着けたのです。

 

国民のために役立つ仕事をしたい

このように、ないない尽くしの不利な状況の中でスタートをいたしました第二電電が、創業以来今日まで新電電3社の中で、最も優れた業績を上げて、先頭を走り続けております。何故このような不利な条件を覆して、新電電のトップに立つことが出来たのか。よく私に新聞記者の方をはじめ様々な方から質問があります。

 

そのときに私は決まって「全従業員が、自分たちの利益のためだけではなく、国民のために役立つ仕事をしたいという企業の目的、つまり大義名分を共有し、懸命に努力を続けてくれたからだと思っています」と、言ってきました。第二電電の創業当時から、私は「国民のために、長距離電話料金を少しでも安くしよう、またたった1回しかないこの人生を意義あるものにしようではないか」と、従業員にことあるごとに話しかけました。また「いま我々は100年に1度あるかないかという大きな歴史の転換期に、大きなチャンスを与えられている。このチャンスに恵まれたことに感謝をし、生かそうではないか」とも従業員に訴え続けてまいりました。そのため、第二電電では、全従業員が自分たちの利益だけではなくて、国民のために役立つ仕事をするという企業の目的をみんなが共有するようになり、心からこの事業の成功を願い、懸命に努力を続けてくれました。

 

もちろん、サービス開始に至るまでの道のりは決して平坦なものではありませんでした。先程も言いましたように、大変なハンディを背負っておったわけであります。また、そのハンディに加えて、第二電電の母体であります京セラは、この事業を始めました3社の中で規模も知名度も最も低かったわけであります。つまり一方は国鉄がバックですし、もう一方はトヨタさんが後ろだてでありました。そのため、知名度も低く、営業活動が始まった後も、お客さんを獲得するのに大変な苦労をいたしました。当時、日本テレコムは、国鉄が毎年膨大な資材を買われるため、その国鉄に納入される業者の方々に、ぜひ自分のところの回線を使うようにという圧力をかけることが出来ました。ところが、第二電電の場合には、知名度も低いし、力もない京セラがバックでありましただけに大変苦労をしたわけですが、それでも何としてでも国民のために成功させなければならないという一心で、第二電電の従業員は勿論、京セラの従業員も含めまして懸命な営業活動を行いました。

 

 このような従業員のひたむきな姿を見て、最初に代理店の方々が感激をされて、必死で応援をしてくださいました。さらにまた多くのお客さんも、第二電電に声援を送ってくださるようになりました。こうして従業員を中心に、純粋な心を持つ人々が集まり、第二電電を成功に導いてくれたと、私はそのように思っております。そして、創業から9年がたった1993年には、第二電電は遂に株式市場への上場を果たすことが出来ました。

そのときに私は、第三者割当増資を行いまして、創業以来私の下で身を粉にして働いてくれました一般の事務職員、また会社の社用車の運転手さんまで含めた全ての従業員に、第二電電の株を額面で購入する機会を与えました。彼らの懸命な努力があったからこそ、第二電電は素晴らしい発展を遂げることが出来たのですから、その労に報いるとともに、私の感謝の気持ちもあらわしたいと思ったわけであります。

 

株主となりました従業員の多くは、上場に伴い、高額のキャピタルゲインを手にしたはずでありますが、その後もさらに会社との一体感をもって、第二電電の創業の目的を実現すべく努力を続けてくれました。

しかし、創業者であります私自身は、第二電電の株を1株も購入しませんで、そのような恩恵にあずかることはいたしませんでした。何故ならば、第二電電の創業の理念が「国民のために、通信料金を安くする」というものであったからでありました。「動機善なりや、私心なかりしか」と、自分自身に問うてやっただけに、私自身は株式を1株も購入いたしませんでした。経営者であります私自身が、上場によるキャピタルゲインを手にしてしまえば、やはり金儲けをしたいから第二電電をつくったんだと言われても、反論出来なくなります。

 

私は創業前に、先程も言いましたように「動機善なりや、私心なかりしか」と、何度も自問自答したことを思い出し、第二電電の大義名分を貫くためにも、自分だけは株を持たないでおこうと考えたわけです。この「動機善なりや、私心なかりしか」という言葉は、第二電電の社是の一部として、今も全従業員に対し、会社の大義名分とは何かを常に問いかける判断基準となっています。

 

KDDIの誕生

その後、第二電電はライバル企業でありましたKDD、また首都圏及び中京圏を営業エリアとしておりました有力な携帯通信の会社でありましたIDOと合併を果たし、KDDIという新しい会社をつくることになりました。この合併にあたっては、私はその経営者の方々に「小異を捨てて大同につく」という言葉を用いて、巨大なNTTに対抗する勢力をつくり、日本の通信業界の健全な発展のために尽くそうではありませんかと大義に基づく大同団結を呼びかけたわけであります。私の提案は、パートナーの方々に受け入れられ、そして「平成の大合併」と言われる3社の合併が実現したのです。

 

第二電電創業の精神はそのままKDDIに引き継がれ、KDDI発展の原動力ともなっておりますし、このKDDIは日本の企業統合の歴史上、最も合併で成功したケースと評価されています。

19年前に、誰もが劣勢と予想した中でスタートをいたしました第二電電が、新規参入の通信事業者の中でトップを走り続け、合併によりKDDIとなり、いまや連結ベースで売上2兆8,000億円に至るまで成長発展を続けていることは、創業当初より「国民のため」という大義名分のある企業の目的を持ち、その達成に向かってひたむきに努力を重ねてきたからだとしか考えられないのであります。

 

この第二電電の事例からも、やはり「企業経営には、純粋な思いに端を発した高邁な目的、すなわち大義名分が必要である」ということがよく分かっていただけるのではないかと思います。大義名分という奇麗事だけでほんとに経営がうまくいくのかと、疑われる方もおられるかもしれません。しかしその奇麗事こそが実はあらゆるものを成功に導く原動力となっているということを、私は京セラや第二電電の経営を通じて確信をいたしております。また、私は経営者が大義名分を持ち、それを社員と共有するということは、その企業にエネルギーを与え、発展をもたらすのみならず、企業倫理の崩壊をも防ぐという意味でも大変重要だと考えております。

 

大義名分を失った企業

冒頭で少し触れましたが、ここ1〜2年の間に報じられました世界的な企業による数々の不祥事は、先進資本主義経済に潜む新たな問題を露呈させ、社会の大きな関心を集めました。まず、米国では大手エネルギー会社でありましたエンロン社、さらには大手通信会社でありましたワールドコムが、いずれも粉飾決算を行っていたことが発覚し、その後破綻をいたしました。日本でもこれとほぼときを同じくして起こったのが、雪印食品や日本ハム等による牛肉偽装工作事件でありましたし、また東京電力による原子力発電所のトラブル隠蔽事件でもありました。その結果、雪印食品は企業解体の憂き目にあい、東京電力は原子炉の運転を一時ストップさせるというようなことで、多額な損失をこうむり、かつこの夏場の電力不足というようなことを招いているわけであります。

 

何故このような企業不祥事が起こるのか。私は世界規模で起こっているこれらの企業不祥事の原因は「各々の経営者が、企業にとって最も大切な大義名分を見失ってしまったことにあるのではないか」と考えています。経営者が何故自分たちの企業が存在するのかということを忘れ、ただ短期的な利益や自らの利益にのみ関心を示し、そのために不正にまで手をそめてしまったのではないかと思うのであります。豊かな経営資源、画期的な新製品、さらには経営者に燃えるような情熱があれば、事業の成功を手にすることは可能でありましょう。しかし理念なき経営、大義名分を失った企業が永遠に存続することは決してないと思っております。 

 

企業を永遠に発展させ続けるためには、どうしても大義名分が不可欠なのであります。企業経営の最高責任者である経営者は、この大義名分、即ち「会社は何のために存在するのか。この会社の大義とは何か」ということを常に自らに問いながら、あるべき企業経営の姿を追い求めることを怠ってはならないと思っております。企業経営の成否は、経営者が高邁な目的、大義名分を定め、それを本気で貫き通せるかどうか、このこと1つにかかっていると言っても過言ではありません。経営者が人間として企業としてどうあるべきか、ということを常に自問自答し、そのあるべき姿の実現を目指し、先頭に立って努力をする。これこそ企業に成長発展をもたらすのみならず、倫理の崩壊から企業や経営者自身を救う最も確実な方法だと私は思っております。

 

いままで申し上げてきましたことを繰り返しますと、まずは「経営者が高い次元の企業目的、意義、つまり大義名分を確立する」次にそのような「大義名分のある目的、意義を企業で働く全従業員に、また社会にも明らかに示し、彼らの心からの理解と協力を、そして経営者自身が率先垂範、その実現に向かって努める」、このような経営の根本を忘れず、ひたむきに努力を重ねる企業だけが、未来に向かって成長発展を続けることが出来るのではないかと思っております。

 

一橋大学は128年の長きに渡って、伝統と実績を重ねてこられた日本有数の大学でもあります。また、同時に数多くの優秀な経営者を輩出されておられますし、創立以来、日本経済の推進力として重要な役割を果してこられました。さらに2000年には、わが国で初めてのMBAコースとなります国際企業戦略研究科も開講し、一橋大学に寄せられる経済社会の期待と関心は、今後ますます高まっていくと思います。そして、その期待に応え、素晴らしい経営者を今後も社会に送り続けていかれる責務があろうと思っております。

 

現在、浮沈の際に立っております日本経済を再生するにあたって、この一橋大学の役割はさらにさらに比重を増すことだろうと思っております。これからも次代の日本を担う優秀な人材の育成に務めていかれますことを私自身、心から期待をいたすものであります。最後になりますが、私の拙い経験から大それたことを申し上げましたが、みな様方の若干の参考になればと思ってお話をさせていただきました。これで終わらせていただきます。ありがとうございました。 (拍手)


 

質疑応答

司 会 どうもありがとうございました。これから8時半ぐらいまで質疑応答をさせていただきます。それで次の予定がございますので、名刺の交換はご遠慮いただきたいと思います。手を挙げていただいて、マイクを持ってまいりますのでお願いいたします。はい、前から3番目の方、どうぞ。


 平成11年、商学部卒業の鈴木純平と申します。今日は非常にためになるお話をどうもありがとうございました。第二電電をつくられるときに半年ばかり悩まれたというようなことですが、毎日毎日悩まれたということなんですが、実際に決めた前夜のときの心情をお話いただければと思います(笑)。


講 師 新しい電気通信の会社をつくってもいいのかどうか、ずっと悩んでいました。先程も言いましたように、「動機善なりや、私心なかりしか」と自分に問い続けたのです。半年間、お客さんや社員と一緒にお酒を飲んだ後でも毎晩、寝る前に必ずベッドの上で自問自答しました。半年もの間、ずっと考え続けているうちに、不思議と気持ちがクリアになってきて、やがて「やれそうだ」、いや、「やれる」という確信に近い思いを得るまでにいたったのです。ですから、最終的に踏み切ったときには、もう心に一点の曇りもありませんでした。当然成功すると思っていました。


    後で気がついたのですが、19世紀の後半から20世紀の初頭にかけて活躍した、イギリスのジェームス・アレンという哲学者が、「心に描いたことは必ず実現する」というようなことを言っております。その方の著書に「心の手入れを怠ってはなりません。もし心という庭の手入れをしなければ、雑草の種が舞い落ち、たちまち茂みになってしまうでしょう。心の庭にあなたが望む草花の種を植えましょう。手入れをおこたらなければ、素晴らしい花が咲き、その花はきっと実を結びましょう」という一文があります。つまり、心に描いた想いというのは、必ず実現するのです。ジェームス・アレンは、これは戯言ではなく、真理なのですと言っています。「通信事業をやりたい」という思いを6カ月間心に抱き続けたわけですが、その間ただ悩んでいたわけではありませんでした。

    京都の鹿ケ谷に私どもの会社の迎賓館があるのですが、週末にそこへ当時の電電公社の若い技術屋を集めまして、「どうすれば通信会社がつくれるのか。どんな技術が必要で、何をすれば成功するのか」と打合せを重ねていったのです。6カ月間、そのような勉強会をやっているうちに、だんだん問題がクリアになってきまして、決断するときには「やれる」という確信みたいなものさえ湧いてきました。迷いは一つもありませんでした。

司 会 よろしゅうございますか。それではどうぞ。もう1人、マイクを回しておきますけれども、どうぞ。


質 問 お時間が残り少ないので、あんまり申し上げられませんけれども、大変尊敬申し上げております。ただ1つだけ、ちょっとびっくりしましたんですが、新聞報道ですけれども、まぁほんとかどうか分かりませんけれども「稲盛さんが仏門に入られるのじゃないか」というようなことを聞きまして、びっくりしたんですけれども、そういうことはあったんでしょうか(笑)。

 

講 師 私は、人生というものをこう考えているのです。人間が社会に出るのは、生まれてから20年くらいたってからで、60歳で定年を迎えますから、だいたい40年間は社会で働きます。定年になって会社を辞めた後、いまの平均寿命は、80歳ぐらいですから、あと20年余生があるわけです。


    そう考えれば、最初の20年というのは、社会に出るための準備期間といえるでしょう。では、定年後の20年というのは何なんだろうと考えたとき、それは死を迎える準備をするための時間ではないかと思ったのです。私は人は死ぬと、肉体は滅びるけれども、魂は死なないと信じており、その意味では「死」というのは、「魂の新しい旅立ち」だと考えています。つまり、死を迎えるということは、魂が新しく旅立っていくということですから、死ぬまでにどれだけ美しい魂になっているか、その魂をつくりあげるための期間が、残りの20年ではないかと思うのです。魂を少しでも立派なものにするということは、まさに心を研き、心を高め、人間性を高めるということに繋がります。世のため人のために尽くし、この厳しい現世を生きるなかで修行をして、魂を磨き生まれてきたときの魂よりは死んでいくときの魂のほうが、やさしい美しい心になって死を迎える。その意味で、最後の20年は非常に大事だと思っていましたから、60になったら、少し宗教の勉強もしてみたいとかねてから思っておりました。

    ところが、先程お話しした第二電電が始まって、大変忙しいときだったものですから、なかなかそれが出来ませんでした。臨済宗妙心寺派の管長猊下でいらっしゃる西片擔雪ご老師を、私は以前から存じ上げておりました。そのご老師が京都の郊外にあります円福寺というお寺の執行をやっておられた頃、私に「稲盛さん、60を過ぎたら出家得度でもされて、勉強してみませんか」と言われ、私もそのつもりでいたのですが、それが出来ずに65歳になってしまいました。このまま何時までも仕事に引っ張られていたのでは、心の整理をすることが出来ないと思い、ちょうどいまから6年前の6月29日にお寺に入ることを決め、頭を剃って、お坊さんの真似事をしようと思っておりました。

    ところが、その2週間前に健康診断に行ったときのことです。調べてもらいましたら、胃がんを患っていることが分かり、すぐに入院ということになりました。ちょうど3週間はお寺にいる予定でスケジュールを全部あけていたものですから、出家得度を予定していた6月29日に手術をいたしました。手術後、トラブルもあったりして、人様より長く入院するはめになったのですが、9月の初めに退院し、まだ体力が回復してなかったんですけれども、「思い立ったが吉日」とすぐに頭を剃って、修行の真似事をさせていただきました。托鉢もいたしました。それほど厳しい修行をしたわけではありませんし、剃髪もみっともないので、一年ほどしてやめました。もちろんいまでもお寺さんに時々行きますし、家でも毎朝仏壇の前でお経をあげております。

司 会 はい、どうぞ。


質 問 2つ関連したことですけれども。お話を伺っていますと、最後に仏門のほうのお話をされたんですけれども、創業の頃から、宗教心のようなものがおありだったんじゃないかなと思います。どちらが先であったのか、要するに仕事で苦労をしているうちに宗教心が芽生えたのか、あるいは宗教心があって、それが仕事の信念に影響を与えるような形になったのか、そのへんを少しかみ砕いて説明していただけると(笑)ありがたいんですが。何故こういうことをお伺いするかというのが2番目の問題なんですけれども、日本の大企業は立派なところは社会の公器であるという信念のある経営者がいるわけですね。ところがそうでない企業は、社会の公器だという自覚が欠けているところが多い。これは稲盛さんは人の批判をされるのはいやだろうと思いますけれども、このへんのケジメをどういうふうにしてつけていったらいいのか。ご意見を承れればありがたいと思います。

 

講 師 最初のご質問ですが、戦時中になりますが、私は旧制中学に入る前に結核にかかりました。隣の家に叔父、叔母が住んでいたのですが、二人も立て続けに結核で亡くなっておりました。さらに、もう一人の若い叔父も結核で死にました。続いて私が結核にかかったのです。当時、肺結核は、不治の病と言われておりましたから「この子も死ぬのだろう」と、親戚、近所の人が話していたそうです。八畳間の縁側のところに布団を敷いて寝ていたのですが、あるとき隣の若い奥さんが、宗教の本を持って来られて「和夫ちゃん、この本でも読んでみたらどう?」と言って、置いて帰られました。それは「生長の家」の谷口雅春さんという方が書かれた『生命の実相』という本で、子どもには難しい本でしたけれども、私はそれを一生懸命むさぼるように読みました。それが最初の宗教の体験だったと記憶しています。

 

    やがて空襲で家が焼けてしまい、貧乏のどん底につきおとされて、戦後は大変な苦労をしてきました。そんななかで、結核を病んでいるからとひょろひょろしているわけにもいきません。鹿児島市内は99%が灰になり、両親を失った戦災孤児もたくさんいたわけです。私の場合には、空襲で誰も失いませんでしたので、まだ幸せだと思い必死で生きていくうちに、結核も何時の間にか治ってしまいました。戦後、貧乏をし、両親が苦労の末に、やっと私を田舎大学ですが、大学までいかせてくれたその苦労の中で、ますます宗教的な心というものが培われていったのだろうと思います。そういうことから考えると、宗教的な心をもともと持っていたと言ってもいいのかもしれません。

    2番目の質問ですが、「企業は公器」だということを忘れてしまっている企業経営者が多いとおっしゃいました。私は今満71歳ですから、戦後、日本を廃墟の中から世界第2位の経済大国につくりあげた経済界のリーダーの最後の世代だと思っています。例えば、井深さん、盛田さん、松下さん、本田さん、いろんなリーダーがおられましたが、みなさんもう亡くなってしまわれました。京都ですと、女性の下着をつくっているワコールという有名な会社を創業された塚本さんがおられます。塚本さんはビルマのインパール作戦の生き残りで、小隊でたった3人しか生き残らなかったという飢餓戦場を生き残って帰って来た猛者です。ちょうど私と一回り年が上だったもので、何かあれば「稲盛君」「稲盛君」と一杯飲ませてもらったりして、かわいがっていただきました。そういう戦後の日本を築いた創業者に近い人達に一番後ろからついて行ったのが私の年代です。

    残っているのは、私よりちょっと若いか、あるいは私と同じぐらいの年代の経営者しかいないわけです。私の場合、田舎大学出でしたから、就職難で就職も出来ず、給料もなかなかもらえないような会社にしか行けませんでした。東大、京大、阪大などの日本の一流大学の卒業生の方々は、当時でもやっぱり一流会社に行けたはずです。そういう方は、戦前からの資産もある大企業にサラリーマンとして入社し、順調に出世していき、経営者になっていかれた。しかし、辛酸をなめるような苦労をしなければ、私は人間というものは磨かれないのだと思うのです。

    ある程度の情熱と才があれば成功しますが、人物が伴っていなければ、長続きするはずがありません。やはり人間性を高める努力が要ると、私は思っています。若くて頭もいい大変優秀な人達が、いい会社に入って、すっと伸びてこられたとしても、そのことがかえって経営者として自覚を欠落させるのではないかと思います。明治時代、当時極東の1弱小国であった日本が、欧米の近代国家の後を追って行こうとするときに、内村鑑三が英文で『代表的日本人』という本を書いています。

    そこで彼は、西郷南洲、上杉鷹山、二宮尊徳など5人の名前を挙げ、「これが日本人です」といって、世界に紹介しております。そこで紹介されている二宮尊徳は、子どもの頃に両親を亡くし、大変苦労しながら、鍬1本、鋤1本で貧しい農村を次から次へと建て直していった人です。晩年その功績が認められ、幕府に召し抱えられ、殿中に参上したときの彼の様子を内村鑑三はこう書いています。

    「裃をつけて殿中に上がった二宮尊徳は、あたかも生まれながらの貴人の如く振る舞った。なみいる諸大名の中にあっても何の遜色もないぐらい、立ち居振る舞いといい、言動といい、どこの貴族の生まれかと思われるほど立派なものであった」

    二宮尊徳といえば、柴を背負って本を読んでいる銅像を思い出しますけれども、彼はそうやって労働の合間に独学で勉強しただけで、学問らしい学問を修めたわけではありません。その彼が、素晴らしい人間性を築いたのは、若い頃から労働を通じて心を磨いてきたからなのです。現代に生きる我々は、戦後の労働価値観の中で、労働を報酬を得るための手段でしかないと思っていますが、私はそうではないと思っています。「勤労だけが人間の心を磨く、魂を磨く唯一の方法である」と思っています。このことは内村鑑三の描いた「二宮尊徳の晩年の姿」を見れば、分かるような気がします。

    そういう辛酸をなめずに、いい会社に入られ、エリートとしてずっと躍進を遂げられて、最終的に経営者になられた方々の場合には、やはり精神的にどこか弱いところがあるのではないかと思います。私は、いまこそ精神的なものを経営者にぜひ求めるべきだと思っています。

 

司 会 53期は統一テーマを「世紀を超えて、日本の道を探る」― 変わらないものは何か ということで、「リーダーシップ・憲法・教育」といったことを取り上げていますけれども、本日は「リーダーシップ」という面から「経営者は大義名分を持て。企業の意義と目的を明確にする」ということの中身をお話していただきました。お時間でございますのでこれで終了したいと思います。もう一度拍手をお願いいたします。どうもありがとうございました。(拍手)

                        ・・了・・


 

◆講師紹介


稲盛 和夫  いなもり かずお

京セラ株式会社 名誉会長


1932年    鹿児島県生まれ

1955年    鹿児島大学工学部卒業

 

1959年4月  京都セラミック梶i現京セラ梶jを設立

         取締役技術部長就任

1966年5月  同社代表取締役社長就任

1984年4月 (財)稲盛財団を設立、理事長就任(現職)

     6月  第二電電鰍設立、代表取締役会長就任

1985年6月  京セラ椛纒\取締役会長就任

1988年5月  米国 アルフレッド大学 名誉博士

         米国 デンバー大学 名誉博士

1990年6月  潟^イトー取締役会長就任

19956月  米国 クランフィールド大学 名誉博士

1996年5月  米国 サンディエゴ大学 名誉博士

1997年6月  京セラ且謦役名誉会長就任(現職)

         潟^イトー取締役名誉会長就任(現職)

         第二電電且謦役名誉会長就任(現職)

1999年10月  鹿児島大学 名誉博士

2000年8月  中国 新彊大学 名誉教授

     10月  第二電電椛シ二社との合併により潟fィーディーアイ

   (現KDDI梶j発足 同社取締役名誉会長就任

     11月  セルラー各社合併により潟Gーユー(au)発足

   同社取締役名誉会長就任(現職)

2001年5月  米国 ペンシルバニア州立大学 名誉理学博士

     6月  KDDI梶@最高顧問就任(現職)

     10月   中国 東北師範大学 名誉教授

2002年5月  中国 南京大学商学院顧問教授

2003年5月  社会福祉法人盛和福祉会を設立、理事長就任(現職)

 

<賞 罰>

  1972年    大河内記念財団「第18回大河内記念生産特賞」受賞

  1974年    「第16回科学技術庁長官賞」受賞

  1979年    サンディエゴ市(米国カリフォルニア州)名誉市民

  1984年    紫綬勲章受賞

  1995年    「第45回『電波の日』郵政大臣表彰通信発明百周年記念賞」

           受賞

  1998年    International Union of Materials

                    「Lifetime of Innovation Award」受賞

           「京都市自治百周年特別表彰」受賞

  2000年    ブラジル共和国「南十字勲章(クルゼイロ・ド・スル)受賞

  2001年    「京都府特別功労賞」受賞

           「京都市市民栄誉賞」受賞

           貴陽市(中国貴州省)栄誉市民

 

<公 職>     内閣官房 新千年紀記念行事懇話会 委員

         京都商工会議所 名誉会頭

         アメリカン・セラミック協会 名誉会員

         スウェーデン王位科学技術アカデミー 海外特別会員

         ワシントン・カーネギー協会 名誉理事

         全米工学アカデミー外国人客員会員

         中国友好平和発展基金会 高級顧問

         (稲盛京セラ西部開発奨学基金)

         天津市経済顧問(天津市人民政府)

         南米 パラグァイ共和国 名誉領事

  

※ 京セラ鰍ヘ、http://www.kyocera.co.jp/ をご覧下さい。