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一、籠城事件の歴史的背景
第一次大戦中に異常な速度で発展した日本経済は、大戦終結と共に反動期を迎え、大正九年(一九二〇)三月には、早くも産業界で無秩序な膨張の後始末が始まり、恐慌が起こった。米繭を中心とする農産物の暴落は農業恐慌を伴い、それ以来永く不況が続いた。これに追打ちをかけたのは、大正十二年(一九二三)九月一日の関東大震災であった。このため日本経済は更に深い打撃を受け、産業界の悪化は極めて深刻なものとなった。
政府はこの経済破綻を一時的に取り繕うため、インフレーション政策、土木鉄道港湾の建設事業の振興、軍事産業の拡大強化、特別融資、損失補償などを行った。しかし、このような政府の救済措置は、戦争中の水ぶくれ不良資本の整理を妨げ、多くの銀行が多額の不良貸付を抱えたまま生き延びることとなった。
このような状態が何時までも続くはずはなかった。
大正十三年(一九二四)五月、護憲三派連合の加藤高明内閣が成立し、蔵相になった浜口雄幸は行政財政の整理に真剣に取り組みはじめたが、大正十四年八月の憲政会単独の第二次加藤高明内閣においても、蔵相に留任した浜口は、第一次内閣の時につくった行政整理委員会で、引き続き行政改革を行い、経済環境が熟し次第、金解禁を断行すると公約した。
しかし、大正十五年(一九二六)一月、加藤首相が病死し、民政党の若槻礼次郎内閣が成立し、蔵相は片岡直温に替わり、浜口は内相となった。
この頃、欧米諸国は大戦の直後から次々と金本位制に復帰し、企業整理や生産設備の高度化によって、戦後の不況を乗り切っていた。しかし、日本は、大正六年(一九一七)九月に金輸出禁止を実施してから、そのままの状態を続けて来たので、為替相場の下落と国際収支の悪化で苦しみ、不況に悩まされていた。
そこで若槻内閣は、一日も早く金本位制に復帰し、為替相場が法定化されて、相場の乱高下のない状態をつくって、日本経済を世界経済と有機的に直結させ、国内物価と国際物価の連動によって、国際収支を自動的に改善させるようにしなければならぬと考えた。
しかし金解禁を断行するためには、それに先立って、その準備として、金本位離脱時の旧平価に近いところまで、市場の為替相場を回復させなければならなかった。そしてそのためには、水ぶくれ資本や不良貸出資本を整理して、日本経済の体質を改善し、緊縮財政で物価を引き下げなければならなかった。
そこで、早期に金解禁を実現することを目標に掲げた若槻内閣は、財界を整理する第一歩として、昭和二年一月二十六日、震災手形の処理に手を染めたのであった。
震災手形というのは、関東大震災のときに民間銀行が融資した手形のうち決済不可能になっていた手形のことである。
民間銀行九十六行が手形割引の形で企業に対して融資した額は二一億円に上っていたが、その融資にあたり、夫々の銀行の手許には二一億円相当の手形があったけれども、震災のため、企業は設備に大損害を受け、銀行は貸出金回収困難と多額の預金引出しによって大打撃を受けていたので、各銀行の手許にある手形は決済不可能ないし決済困難な状態になっていた。
政府としてはこのような信用の杜絶した経済麻痺状態を早期に打開することが急務であった。そこで、流通不能になっている膨大な手形を流通できるようにする方策として、震災手形割引損失補償令を公布実施した。政府は、この法令にもとづき、「損失が出れば一億円を限度として損失を補償するから、各銀行の手許で決済不能に陥っている手形を担保として貸出(再割引)をするようにせよ」という命令を日銀に出した。法律の有効期限は、二年(大正十四年九月末まで)とされたが、決済が進まぬため二度にわたって一年ずつ延長され、昭和二年九月末までとなった。
手形の中には、大正九年の恐慌以来持ち越されていた不良貸付手形も含まれていた。その意味で、この法律は、その運用にあたり、立法の趣旨を著しく逸脱し、震災とは無関係な不良手形の混入を大規模に許すこととなり、震災前に当然整理されるべきはずだった企業と銀行とを救済し、整理を後日に引き延ばすこととなってしまった。
大正十五年(昭和元年)末の未決済額は、決済が遅々として進まぬため、限度額一億円を遥かに越えた二億〇七〇〇万円であった。政府はこれを整理しようとして、補償限度額を超える一億〇七〇〇万円に対して、国債を貸付けることによって、これを処理しようとする震災手形善後処理法案を昭和二年一月二十六日議会へ提出した。
議会で審議が進められる間に、財界のひどい癌症状が暴露され、人心に深い不安感を与えたが、三月十四日、片岡直温蔵相が衆議院予算総会で、議員の追及にあう中で、渡辺銀行の休業の内報を、早まって、「渡辺銀行は破綻した」と失言してしまった。不安は一挙に爆発し、三月十五日から渡辺銀行をはじめ東京横浜近辺の二流銀行が相次いで休業。政府は日銀に大巾貸出しをさせると共に、さらに震災手形処理法案を国会で通過させ、これを公布実施させることによって、この第一波の恐慌をようやく局地的なものに終わらせることが出来た。
しかし、これを契機として、第二波第三波と空前の金融恐慌が爆発した。
先ず、第一次大戦中に急速に成長し、三井物産に次ぐ日本第二位の綜合商社にまでのし上がっていた神戸の鈴木商店が、三月二十七日主幹銀行の台湾銀行からの融資を断わられ、四月五日に破産した。そのため神戸を中心とする関西方面の銀行で取付けが勃発した。
鈴木商店への巨額の無担保貸出の手形をかかえて困っていた台湾銀行は、日銀の融資でようやく切り抜けて来たのであったが、日本銀行からこれ以上の融資は出来ない七新規貸出停止の通告が来た(四月十三日)ので、台湾銀行の破産は必至となった。
台湾銀行は特別法で設立された銀行で、台湾で流通する紙幣を発行する銀行であるばかりでなく、中国南部や東商アジアの中枢的な金融機関であった。従って、この銀行の休業は日本の内外における信用を失墜させることになるので、若槻内閣は台湾銀行を緊急に救済するため、昭和二年(一九二七)四月十四日、枢密院へ緊急勅令案を提出した。それは日銀から台湾銀行へ鎌担保特別融資(政府補償限度が二億円で、昭和三年五月末日まで)をしようとするものであった。
実は、その頃、枢密院内の多数の者が若槻内閣を打倒する機会をねらっていた。それは、中国で国民革令軍総司令官蒋介石が中国北方の軍閥政権を打倒(北伐)する革命戦争を強行しはじめたので、日本の中国における既得権益が上海南京などで脅かされていたにもかかわらず、幣原喜重郎外相が常に軟弱な態度で外交折衝に当っていることに対して、極度にいらだっていたからである。
しかし、枢密院は、この緊急勅令案を否決すれば、金融恐慌は激化するであろう、ということを十分に承知していた。にもかかわらず、あえてこれを否決し、政局の転換を計ろうとしたのであった。
四月十七日、枢密院は天皇臨席のもとで御前会議を開いた。伊東己代治を急先鋒とする非難攻撃が若槻に浴びせられた。そして「現在は臨時議会を召集できぬような事態ではない。かかる状況下で台湾銀行救済のために緊急勅令を発布することは憲法に違反する」という理由で、「台湾銀行救済緊急勅く11案」を否決した。
若槻内閣は即日総辞職した。翌四月十八日に台湾銀行は休業し、四月二十一日に、華族銀行といわれて信用の厚かった宮内省の金庫の十五銀行が休業し、全国的な銀行取付け騒ぎとなった。
四月二十日、政友会の田中義一内閣が成立した。そして、この混乱に立ち向かって四月二十二日、枢密院の議を経て、平時では世界でも前例をみない支払猶予(五百円を越える貸借の支払額については、五月十二日までの三週間猶予する)緊急勅令を発布し、即日実施した。
田中義一内閣はこのモラトリアムによって、銀行取付け騒ぎを取りあえず鎮静化させることが出来たが、さらに、五月一日、臨時議会を開いて、前内閣が提案したのと同じ内容の台湾銀行金融救済法案(補償限度二億円)とを通過させ、また日本銀行からの特別融通法と損失補償法(補償額二億円)とを通過させることによって、ようやく金融恐慌を鎮静化させることが出来た。
五月十三日(モラトリアム解除の日)、金融恐慌は鎮静化し、国内はようやく平穏になっていたが、外では、五月二十八日蒋介石の北伐軍が山東省に迫ったので、田中内閣は山東省へ出兵した(第一次山東出兵)。さらに、六月二十七日から七月七日にかけて、外務・陸軍の首脳者は東京に召集され、対中国政策の意志統一の会議(東方会議)を開いて、「中国における日本の権益を守るためには武力行使も辞さぬ。束北三省と内蒙古は中国本土と分離して、日本の支配下に確保する」という根本方針を内外に発表し、大きな反響を呼んだ。
この間に、英米仏が、日本と同程度の出兵を行って、日本の山東出兵を支持したので、これを見た蒋介石は、昭和二年八月十三日下野し、北伐を中止した。そこで日本も撤兵した。
しかし、昭和三年一月蒋介石が再び国民革命軍総司令になり、済南を包囲したので、田中内閣は四月十七日再び出兵(第二次山東出兵)。五月一日、済南に入城した国民政府軍と日本軍が戦闘を始めると、日本本土の陸軍と関東軍とを増援部隊として出兵(第三次山東出兵)し、五月十一日済南を総攻撃して占領(済南事件)したが、中国人側には多数の死傷者が出た。五月十八日、田中内閣は、中国統一を目指す北伐が東北地方まで及べば、武力で防衛するとの声明を雛表し、旅順の関東軍司令部を東北地方の中心の奉天(藩陽)へ移した。
中国人民の抵抗運動は、従来はイギリスに向けられていたが、この済南事件を転機として、日本に集中されるようになった。そして抗日と日貨排斥とによって、日本の対中国貿易は極度な不振状態に陥るようになった。ここに日中全面戦争の火種が蒔かれたわけであり、また日本は米英特に米国との対立を一段と深め、第二次世界大戦への道を辿りはじめた。
六月に入ると、北伐軍は北京に迫っていた。日本の傀儡であり、東北地方に根拠地をおいて北京まで進駐していた張作霖は、この頃、従来とは違って、日本の命令に従わなくなっていた。そこで、関東軍(参謀河本大作が中心)は、六月四日、北京が危うくなったので、北京を引き揚げて奉天に向かった張作霖の特別列車を、奉天駅に着く直前に、計画的に爆破した。張作霖は爆死した。行年五十六歳であった。
ところが関東軍は、列車爆破を国民党の暴挙と見せかけ、治安維持のためと称して全満州に出兵占領して、満州に自治政権を樹立する計画であった。そこで白川陸相は満州占領の権限を関東軍に与えようとして画策したが、アメリカからの強い警告に動揺した田中内閣はこの提案を拒否した。六月六日、北伐軍の先鋒は北京に入り、六月九日蒋介石が北京に入城したので、北伐の目的は一応達成された。
張作霖の死によって、息子の張学良が直ちに東三省保安司令になったが、七月、張学良は北京の蒋介石に和平を申し込み、さらに年末には日本の反対を押し切って、国民政府に合流したので、東三省政権の旗は消え去り、全満州に国民政府の晴天白日旗が掲げられる(易幟)こととなった。
昭和三年十一月、田中首相は天皇に「張作霖爆殺が日本軍人の仕業と判明すれば、公明な処分をし、軍紀を粛正する」と約束したが、軍首脳部や閣僚の一部の強い反対にあい、真相を発表しないままに遷延していた。
天皇や元老西園寺は、かねてから山東出兵以来の田中首相のやり方を見ていて、これでは日本は国際的に信用を失墜すると憂慮していた。
昭和四年六月二十八日、田中首相は「調査の結果、関東軍は無関係である」と天皇に報告した。天皇は前後矛盾した報告に激怒した。そして田中首相がさらに続けて事情を報告しようとすると、「もう聴く必要はない」とはねつけた。信任を失った田中内闘は七且二日総辞職し、民政党の浜口雄幸内閣(蔵相は井上準之助)が成立した。
昭和四年(,一九二九)七月、浜口内閣が生まれた頃には、まだ二年前の金融恐慌の傷跡が癒えやらぬ状態で、ずるずるとそのまま不況が続いていた。にもかかわらず、物価は高いという異常な状態にあった。それは、前の田中内閣が、金融恐慌や取付け騒ぎを鎮めるために、緊急勅令によって二週間のモラトリウムを行った後、放漫な産業保護政策をとって、巨額の救済融資を行い、公債を増発し、さらにその上、蒋介石の北伐革命に対し強硬な干渉政策をとって、三回に及ぶ山東出兵を行ったので、その軍事費が財政を大きく圧迫し、国庫余剰金は底を突く状態にあったからである。
そこで、浜口首相と井上蔵相の二人の盟友は、身を挺して財政経済の建て直しを決意した。そしてその建て直しの方策として、緊縮政策の断行と金解禁の断行とを第一方針とすることとなった。
金輸出解禁(つまり金本位制への復帰)については、欧米諸国では、すでに第一次大戦終結直後から、続々と金本位制に復帰しており、金の輸出を依然として禁止しているのは、スペインと日本のみという状態であった。また日本でも、久しく金解禁が待望されながら、産業資本家や地主などがデフレーションと物価下落とを伴うものであるといって強硬に反対したため、実施し得ぬままになっていたものである。しかしながら、今や浜口内閣はこれを断行する決意を固め、その時期を昭和五年一月と予告した。そして井上蔵相は「大局のためには一時の苦痛は止むを得ぬことである」と国民の協力を求めた。
昭和五年一月四日、日銀は「金解禁準備のため、金貨一億円の鋳造を完了した。日銀保有金合計は三億円」と発表した。そして一月十一日、待望久しかった金解禁の声明を内外に発表し、実施した。解禁直前の本邦保有正貨準備金は十億七、三三三万三、OOO円であった。
政府は国民に向かって言った。「円為替は今までよりは上がったので、輸入は増え輸出は減るから、国内物価は下がり、不況が来て失業者が出るかも知れぬ。しかし、この状態を暫く我慢しておれば、為替相場が安定しているので、日本商品は競争力があるから、世界市場へ向けての輸出が増え、景気は良くなる。日本国民はしばらくの間の苦しみを我慢して、競争力の強い日本商品の輸出増による景気好転の日が来るのを待ってくれ」と。
しかし・金の輸出禁止が解けて暫くたつと、国民は「政府の言うように、従来よりも円為替が騰貴したので、輸入は増え輸出は減った。しかし輸入超過で金が外国へ流出し始めたし、輸出減少で国内産業は打撃を受けてデフレーション不況になったし、失業者は増える一方だし、政府の言うような景気好転が来るとは、とても考えられない」と言いだした。
事態は国民が肌で感じる通りであった。昭和五年(一九三一)この日本の金解禁は、あまりにも遅過ぎた。世界的に見てもそれは全くタイミングを失したものであった。日本の金解禁断行に先立つこと僅かにニカ月前の昭和四年十月二十四日(いわゆる暗い木曜日)、ニューヨーク株式市場で大暴落が起こり、これを契機として、全世界に大恐慌が波及した。せっかく断行したにもかかわらず、日本の金解禁は世界恐慌とこれに続く世界的大不況の渦巻きの中に巻き込まれて、何らその効果を挙げ得ず、対欧・対米貿易は極端な輸出不振に陥った。その上、昭和二年五月から満一年蘭に田中内閣が強行した三度にわたる山東出兵と、血なまぐさい済南事件と、を契機として燃え上がった排日運動、日貨排斥運動によって、対中国貿易は甚しい輸出不振に陥った。こうして、昭和五年度の貿易は輸出入額のいずれもが、前年の昭和四年度に比して、一挙に三〇%以上も激減し、輸入超過額は七、六〇〇万円にのぼり、昭和六年度は輸出四六%減、輸入四〇%減、輸入超過額は八、八OO万円にのぼる惨憺たるものとなった。
世界的大恐慌のため、輸出商品の大宗と考えられていた生糸の価格が暴落し、それにつれて昭和五年の農村では繭が暴落し、また豊作を見越して米価が生産費の半値にまで惨落、野菜も底なしの値下がりをするなどで、空前の食業恐慌に見舞われた。続く昭和六年は夏期の気象異変で、北海道、東北の農村においては、冷害.大凶作のため欠食児童が三十万人に上り、公然と娘の身売りが行われ、小作争議も昭和四年以降次第に増え、昭和六年には過去最高の件数に達した。
工鉱業生産も急激に低下した。弱小企業は相次いで倒産し、大企業は首切りと賃下げに専念したので、労働者の実質賃金指数は昭和六年には、大正十五年を一OO%として六九・五%となり、失業者数は三百万人と推定ざれ、労働争議が激発した。文科系の大学卒業生の就職は至難とさえ言われ、「東京帝大法学部卒業生の巡査現る」と新聞が報道し、東大卒業生がチンチン電車(路面電車)の車掌に採用されて乾杯をしたというニュースが流れる有様で、険悪な社会問題となった。
「こうした暗い日本を光明の世界へ導く路は唯一つ、社会主義革命以外にはない」とする左翼思想が純真な学生や真摯な小学校教員層に急速に浸透し始め、すでに昭和三年の三・一五事件や、昭和四年の四・一六事件の大弾圧で消滅したかに見えていた
左翼勢力は、官立大学の学生を中心として、再び大きくその組織を伸ばし始めることとなった。惨状は日本本土だけに止まらなかった。朝鮮、台湾、半植民地の満州でも、抑圧と経済的な苦しみとに堪えかねて、労働争議や小作争議が多発し、反抗は遂に暴動にまで高まった。その代表的なものが台湾の霧社住民千五百人の暴動であった。
これに加えて、満州ではまた別の大きな問題が発生し始めた。父張作森を暗殺された張学良は欧米資本を導入して、南満州鉄道に併行する鉄道を布設し、大連に対抗する壺盧島に港を作る計画をたて、着々と実行しはじめた。
満州は綿糸・綿布など日本工業製品の大事な輸出市場であり、大豆・雑穀・鉄・石炭・アルミ原料などの輸入の源泉地でもあったが、これらの物資を運ぶ南満州鉄道の収益が、昭和四年に比べて昭和五年には半分に減って二、一六七万円、昭和六年には一、二六〇万円と空前の激減振りだったので、満鉄に併行する鉄道建設が着々と進んでいることは死活問題であり、日本政府と日本軍部とを極度にいら立たせはじめた。
一方、昭和五年(一九三〇)一月からロンドンで海軍軍縮会議が開かれた。浜口内閣は、軍部や右翼がこれは日本の国防を危機に陥れるものであると攻撃するのを押さえ、米英との決裂を避けるため、当初の主張・大型巡洋艦の対米七割を引っ込め、六割とする条約を成立させた。軍備の縮小は、米英諸個と同様、国家の赤字財政を大きく縮減させるものであった。これに対し、政友会、軍部、右翼、枢密院内の有力者たちから、「政府は、この条約で軍令部長の同意なしに、軍力量を決定した。これは天皇の統帥権を干犯するものである」、と攻撃されたが、政府はこれを押さえて批准した。
その直後の昭和五年十一月十四日、浜口首相は東京駅で右翼青年佐郷屋留雄に狙撃されて重傷をおい、昭和六年四月容態悪化のため桂冠、第二次若槻礼次郎内閣(蔵相には井上準之助が再任)が成立した。国家財政の建て直しのため、身を挺して奮闘した盟友の浜口は倒れた(昭和六年八月二十六日死亡)。しかし浜口内閣の成立に際し、死を決して蔵相の重責を担った井上は生き残り、再び蔵相の席についた。死はもとより覚悟の上であった。
農村で農民が空前の農業恐慌であえいでおり、都市の中小企業者が倒産に泣き、労働者たちが低賃金と失業で冷え切っている最中に、政治家や官僚の収賄汚職事件が次々と暴露された。国粋的な右翼青年や、陸軍を中心とするファッショ勢力の動きが、急に活発化した。右翼勢力は、「国の内外の難間を解決するためには、天皇の名による軍部独裁政権を樹立し、労働者農民の階級闘争を根絶し、更に中国への日本勢力の拡張を、総てに優先させて、強力に押し進めるべきである」と強調するようになった。その上、昭和六年三月、軍部独裁政権の樹立を目指すクーデターが未遂で発覚した。にもかかわらず、何らの処罰もなく、極秘裡に処理されてしまったことは、「皇室と国家とを中心にして行動する限り、如何なる大事を目論もうと、一切おとがめなし」との気風を醸成し、これがその後の諸々の事件を激発させる糸口となった。
陸軍は、中国側の排日抗日運動がこれ以上高まらぬうちに、満州を軍事的に制圧して、植民地化を進めなければならぬと考え、「満州と内蒙古は日本の生命線で、死守しなければならぬ」とのスローガンを流し、万宝山事件、中村大尉事件(昭和六年六月)などで、満蒙の危機を大掛りに煽り立て、昭和六年の夏までには、満州乗っ取り戦争の準備を完了していた。
そして遂に、昭和六年九月十八日、日本軍は奉天郊外の柳条溝で満鉄線路を計画的に爆破し、これを契機に、「日本軍は中国軍による満鉄爆破に対し、正当防衛のため応戦を開始した」と称して、直ちに張学良の北大営を砲撃し、予定通りの軍事行動に移ったので、翌九月十九日には、一日の間に、奉天をはじめ満鉄沿線の要地をことごとく占領した。さらに二十一日には、関東軍の守備範囲外にあって権利の及ばないはずの吉林までも占領した。
はじめ東京の軍首脳部は、これは突発的な小競り合いであると言い、不拡大方針を堅持するとの声明を内外に発表したが、現地での軍事行動は極めて急速に展開され、右に述べたように九月二十一日には、その管轄地域外の吉林に虫で手を伸ばして、ここを占領した。そればかりではない。この日、新義州で待機していた朝鮮の日本軍四千余人が、奉勅命令なしに、林銑十郎司令官の独断で、鴨緑江を越境し、満州に移駐して、関東軍と共に急進撃を開始した。政府も天皇も一時は当惑したが、翌九月二十二日の閣議は、この独断越境を黙認したばかりでなく、越境出兵に要する出兵経費の特別支出を決定した。これによって、政府の事変不拡大方針はただ単なる空声明に終わった。そして日本政府は、現地日本軍の占領地域が全満州の各地に次々と拡大して行くに応じて、これを次々と追認して行った。
これに対し、中国政府は国際連盟に正式に提訴し(九月二十一日)、また「全国民に告ぐるの書」を発表して、「全国の軍隊も国民も冷静な態度を維持し、日本軍との衝突を一切避け、国際連盟の釜な解決を待て」と不戦の態度を表明し、さらに・奉天省政府は、張学良の意向により、軍警、各機関、各県民に対し、「日本側の挑戦に対して軽挙をいましめ、戦闘を絶対に回避せよ」との秘密命令を流した張学良は、日本軍がまさか全満州を全部手に入れようなどという下心を持っているとは思ってもみなかったので、挑発にのるな、抗戦するな、と指令を出したのであった。しかし、上海では、九月二十二日、各市民大会が開催され、果埠頭の三万五千人の労働者が抗議ストライキを行い、上海の大、中、小学生十万人が抗議し、九月末、上海抗日救国会は日本商品の仲介者に対し、閉店を命令した。毒上海から南京へ急行した七千人の学生は南京の学生と合流し、中国政府の無抵抗政策に講義する集会を開き・外交部を打ちこわし、外交部長王正延を殴打した。
一方、中国政府よりの提訴を受けた国際連盟理事会は、満州の日本軍の速かなる旧地域への撤収と、白中間の和平交渉促進を勧告する決議を行った。
このように、昭和六年(一九三一)の秋には、十年このかた集積されて来た矛盾が一気に吹き出し、政治、外交、金融、経済の各部面で断層的な激変が生じ、物情騒然としていた。丁度これと時を同じくして、「東京商科大学の予科と専門部を廃止する」という、我が学園の根幹をゆるがす台風が国立と石神井を直撃した。
この台風は、財政の赤字超大型台風であり、筆者が冒頭から縷々述べて来たところによって既に明らかにされているように、遠く第一次大戦直後に発生した赤字台風であり、その後、十年にわたる放漫極まる行政財政政策と、中国への干渉戦争と、に要した巨額の上乗せ出費によって、急速に超大型化した累積赤字の超大型台風であった.
そしてこの超大型赤字台風の目にどっかりと座り込み、これを急速に温帯低気圧化させようとして、必死になって、この台風の進行方向を定め、やにわに我が一橋へ突風を吹きつけて来た「風の神」は、誰あろう、命をかけて、日本国財政の建て直しに挺身する立て役者「救国の国士井上準之助」であった。
この強烈な突風をまともに吹きつけられた我が一橋はこれに対して如何に対処し、如何に戦い、如何なる形で最後の勝利を手にすることが出来たであろうか。われわれはそれを、事実に則しながら、順を追って見て行くことにしよう。
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