二、籠城事件

 1予科・専門部廃止案の発覚 全学総決起
 昭和五年十一月、浜口首相が東京駅で狙撃され、翌昭和六年四月・容態悪化のため辞任したので、その後をうけて成立した第二次若槻内閣(外相幣原喜重郎、蔵相井上準之助)は、前内閣の方針をそのまま踏襲して、緊縮政策を断行することとなった。内閣成立後ニカ月、政府は早くも、六月二十二日「臨時行政財政審議会」を設置し、九月九日には「行政財政整理準備蓄会」の最終案を決定した。政府はこれを基礎として「昭和七年度予算の大蔵省原案」を文部省に内示し、極端な経費節約を強行するよう要望した。
 文部省としては、主として、その所管する文部省内の部局課の整理統合に腐心すべきであったのに、部局の整理統合と、単科大学の予科・専門部の整理統合と、を同一視し、極秘裡に経費節約のための整理構想の策定に努力をし始めた。遣り繰り算段の結果、文部省は、廃止の時期の表現を極めて曖昧にし、それを明示しないままのものではあったが、「日本には高等学校があるから大学予科は不必要である。また高等専門学校があるから大学附属専門部は不必要である。よって、北海道帝国大学および東京商科大学の予科と専門部とを将来において廃止する」との結論に達し、閣議決定を待つばかりのところまで来ていた。こうして本学は風前の灯火となっていたのであった。
 しかしながら、幸いなるかな!ここに学園の危急を告げる明けの明星がまたたいた。俊敏なることはやぶさの如く、恩愛の情あふれるが如き白面の青年記者がここに登場したのであった。その名は、佐倉潤吾。一ツ橋の故地に学ぶこと六年、常に首席の座を占め、当時競争率千倍とまでいわれた難関をやすやすと突破し、去る昭和四年の春卒業と同時に、東京日日新聞社に入り、文部省詰めを拝命したばかりの英俊である。たまたまこの緊縮整理の構想を耳にした彼は、あまりのばかばかしさに、開いた口が塞がらず、最初はこれを一笑にふしてはいたものの、よくよく考えて見れば、これは大変なことである。既に夜は更けて来た。寝ようとしても、寝られない。これが閣議にかけられ、そのまま通過でもしようものなら、もうそれでお仕舞いだ。ぼやぼやしてはいられない。何はさておき、先ず学校へ知らせよう。こうして佐倉潤吾記者がこの極秘情報を母校の佐野善作学長(明治二十八年高商卒)へ伝えたのは、九月三十日も夜半のことであった。
 
 注1「臨時行政財政整理準備委員会」で策定された最終原案によれば・整理節約額の総合計額は一億二、○○○万円であり、そのうち文部省の整理節約額として示されたのは六〇〇万円であっ文部省では、遣り繰り算段をしているうちに、文部官僚の画一主義が強く打ち出され、それぞれの大学の歴史や伝統を無視して、「大学の予科専門部は廃止する」の一項が加えられた。
 当時、大学予科上専門部とを併置していたのは、東京商科大学(予科と商学専門部)と北海道帝国大学(予科と土木専門部、水産専門部)とであった。
 この頃、東京商科大学の予算は一カ年五十万円であり、そのうち予科・専門部の経費はそれぞれ九万円であったが、授業料収入約五万円ずつを差引けば、予科・専門部廃止によって節約可能となる金額は一年間合計八万円に過ぎず、しかも、初年度は二万円(予科一万円、専門部一万円)、次年度は四万円、・三年度にようやく八万円(予科四万円、専門部四万円)を節約可能というものであった。
 これでも明らかなように、「予科・専門部それぞれで僅かに四万円の予算を三年がかりで節約するために、伝統のある、しかも現に優れた業績を着々と上げつつある学校を二つも潰さなくてもいいではないか。ちょっと常識では考えられないことだ」とする向きが多かった。


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