十月二日(金)

 午後一時、国立の本科会議室で緊急三科連合教授会を開催し、予科専門部廃止案絶対反対の理由書を添えた決議文を作成した。この決議文には、予科の特殊性を強調すると共に、専門部の実際的知識技能を授ける商業教育上の実績が誇らしく唱い上げられていた。
 次に、大学の本部を神田一ツ橋の大学出張所に移すことと、学期試験の無期延期とを決議し、さらに、二十七人の委員を挙げ、それぞれの部署を定め、陳情、連絡、情報入手などに当ることとなった。
 午後二時、専門部の学生は理事会を開催し、直ちに、学生代表を文部省に派遣し、文部次官に面接して陳情した。
 如水会は、午後五時、臨時常務理事会を招集し、数人の教授も同席して、各方面の情報を集めながら、対策を協議した。
 思えば、関東大震災以来実に八年。神田一ツ橋の仮設バラック校舎で待ちに待った国立の本館、図書館、兼松講堂の竣工によって、本科は昭和五年九月にようやく国立への移転を完了してから僅かに一年。今ここに秋の新学期を迎えて、落付いた研究生活を始めようとしていた。
 一方、専門部は本科より三年半も早く、既に昭和二年四月に移転し、南に多摩丘陵を望む清明の里、国立の新天地にそそり立つ真新しい校舎で授業を始め、全学生が意気軒昂として、旧束京高等商業学校以来の精神的衣鉢たる「キャプテン・オブ・インダストリー」と「パイオニア」のスローガンを誇り高く掲げて、いよいよ新風滋る学園建設にいそしみつつあった。
 さらに、予科においては、都塵遙けき武蔵野の果て、石神井村落の一郭、櫟林に囲まれた広大なキャンパス内に仮設されたバラック校舎とバラック寮舎にもすっかり住み慣れて、各教室で、幅広く伝授される学部への進学準備教育と、我が国の第一線で活躍する諸先生が撒き散らす東西古今の文化の花吹雪と、を身に浴びながら、自由と自治の学園生活を満喫し、香り高い三年の春を語歌していた。
 いわば、ここ東京商科大学においては、自由と自治の伝統に樟さして、・本科・予科・専門部を三位一体とする特異な商学の殿堂にふさわしい優れた教育の成果を着々と挙げつつあった。
 ところが、何んと、こわいかに!突如、この学園へ、突風豪雨落雷近し!の極秘の予報が飛び込んで来た。それはまさに青天の解露であった。肝を潰したのな当前のことではあったが、やがて学生たちの問に、疑問と怒りが込み上げて来た。「学校が潰されるという衝撃的なニュースが報道ざれてから、既に二日が過ぎようとしているのに、なす術もなく、ただ呆然としているのは一体どういうことなんだ!」と。そしてさらに「大体、こん芝遠く、国立と石神井に学校がばらばらに分散しているのでは、何うにもならん」「一日も早く、各科で学生大会を開き、政府のお膝下の一橋へ、全学生が押し掛けんことにゃあ、始まらん!」という焦りと憤激とが渦巻きはじめ、異様な熱気をはらんだまま、十月二日は暮れて行った。

注2 大正十二年(一九二三)九月の関東大震災で神田一ツ橋の本学校舎は全焼した。
 本科と専門部とは、震災直後、焼け跡に、急遽、バラック校舎を建てて授業を始めた。やがて大学の国立への移転が教授会で決定。先ず、専門部は、国立に専門部の本館が落成したので、昭和二年四月、国立へ移転した。
 本科は、校舎・図書館・講堂の落成を見て、専門部の移転に遅れること三年半、昭和五年九月に国立への移転を完了した。
 予科は、大正十二年十月から翌十三年三月までの六カ月間、中野の旧東京高等学校(昭和二十四年四月、学制改革で東京大学に合併された)の校舎の一部を借用して、とりあえず急場をしのぐ授業を行った。そして、その間に急遽、石神井に購入してあった本学の運動場に、仮設のバラック校舎(校舎が出来た後しばらくしてバラックの寄宿寮)を建て、大正十三年四月から昭和八年九月(国立の北隣りの小平への移転)までの九年半、この石神井で授業を行った。従って、籠城事件勃発当時は、本科と専門部は国立、予科は石神井、と分散していた。
 
 注3 昭和六年十月三日から八日までの間、本科、予科、専門部の学生二千余人が集まった一橋の旧校舎跡いうのは、関東大震災の際に焼け残った赤レンガの塀で囲まれた旧校舎跡地である。そこには震災後に急ぎ仮設された二階建ての図書館、平屋のバラック校舎、ボイラー.ルーム、理化学実験室などが建てられた。事件が勃発した昭和六年秋は、昭和五年九月本科が国立へ移転してか僅かに一年に過ぎなかったので、仮設校舎が幸に取壊されることなく、そのままに全部残されていたのであった。
 なお、石神井の予科校舎には昭和五年九月まで理化学実験室がなかったので・予科一年生は、昭和五年七月まで、物理化学の授業のある毎金曜日ごとに・神田一ツ橋の校舎へ通学していた。このように、実は余りにも最近まで本科も予科も一ッ橋の校舎で勉強していたのであるから、当時の予科生と本科の学生とにとっては、記憶もまだ新たな一ッ橋舎のことを「旧一ッ橋校舎跡」などとい言葉で呼んでもピンと来なかったのは当然のことであった。籠城は便利な場所で決行されたのではなく、我が家で、我が母校そのもので、行われたわけである闘争学生の心境を正しく理解して欲しいので、念のため注記しておく次第である。


back /next
目次へ