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2神田一ツ橋旧校舎跡へ集合
-------------十月三日(土)闘争組織成る------------
学生たち早朝・国立石神井へ登校した。先ず、予科では午前八時半、石神井校舎七番合併教室で学生大会を開催。冒頭、阿久津謙二教授が壇上に立ち、纏々と経過を説明し、神聖なるべき学校教育が大蔵・文部両省の単なる赤字補填の手段に利用されることには絶対反対である、と熱弁を振るわれた。そして「我々教師も頑張るから、諸君も最後まで頑張って欲しい」とアジ演説を行った。阿久津教授といえば、英語で厳しく学習するため、学生たちが「アー苦痛」と悲鳴をあげていたので有名であったが、そればかりではない。昭和三年十一月以来、学生運動を厳しく取締る任務をおびて、予科学生主事に就任している教授でもあり、学生たちからは、又別の意味で恐れられていた先生であった。この阿久津学生主事が、こともあろうに学生を「最後まで戦え」とアジったのにはびっくり仰天した。
さらに、阿久津教授が学生大会が終わるまで居残って、学生大会の雲行きを見張っておられるのを見て、学生たちは二度びっくり、事の重大性を痛感させられた。
次いで、学生有志がこもごも壇上に立って、予科廃止絶対反対と絶叫し、最後に久米吉左衛門予科総務理事(予科三年)が、「吾人は光輝ある歴史を有し、且つ堅実なる発達を遂げつつある東京商科大学予科の廃止案に絶対反対する」との決議案を提案、満場一致で可決された。そして、かつて我々の先輩が悪戦苦闘の末、マーキュリーの帽章を引きちぎり、校門前の土に叩きつけて総退学をした時の「校を去るの辞」を読み上げ、「一橋を死守せよ」と叫んで降壇、午前十一時閉会した。
その後、クラス代表委員会を開催し、実行運動につき協議したが、理事会から「午後三時に神田一ツ橋旧校舎跡へ集合せよ」との指令が出されたので、これに従うこととして散会した。専門部では、同日午後八時半、国立の専門部校舎第一特別室で学生大会を開催。高橋若松総務理事(専門部三年)が今回の事件につき説明し、議長に福地通義(専門部三年)、副議長に笠貫秀(専門部三年)を選出し、熱血漢黒田俊(専門部二年)が、「我々は行政整理原案中における本学専門部廃止案に絶対反対し、これが撤回を期す」と決議文を読み上げて提案し、満場一致で可決された。
商業教員養成所でも、同日午前八時半、特別第一教室で学生大会を開催。議長に選出された森田秀雄(養成所三年)が経過報告の後、「吾人は我が予科並びに専門部の廃止案に対し絶対反対し、最大の関心と最善の努力とをもって、これが撤回を期す」と決議文を朗読提案し、満場一致で可決された。
次いで、深見義一教授(昭和四年学部卒)から教授会の動向が報告された。なお、養成所では、全員が直ちに専門部と行動を共にすることとなった。
この三日の午後になってからのことであるが、午前中に行われた専門部学生大会で、声涙下る反対論を訴えた諸君をはじめ、まだ興奮の冷めやらね学生有志が、高橋若松総務理事と小川任一郎評議員会議長に詰寄って「直ちに大蔵省にデモを敢行しろ」と口々に叫びはじめた。そこで高橋総務理事が緊急動議を提出し、これが可決されたので、午後二時、専門部と養成所の学生七百人は単独で大蔵省に向かった。
七百人の学生が突然大挙して押し掛け、盛んに気勢を挙げるのに驚いた大蔵省では、ともかく、田政務次官が学生代表と面会しようということになり、高橋以下五人が廃止案には絶対反対であると訴えた。
本科では、午前十一時、本館の二十一番教室で学生大会を開催。議長に選出された長谷川徳次(本科三年)が、「吾人は我が予科および専門部の廃止は本学の存立に関するものなるをもって、廃止案に絶対反対する」と決議案を朗読提案し、これを満場一致で可決した。そして午後三時に神田一ツ橋へ集まることを決定して散会した。
教授側は午前九時、神田一ツ橋で三科連合教授会を開催。十四の分担を決定して陳情することとなり、直ちに、@文部省、A行政財政準備委員、B文政審議会、C枢密院、D政党方面、E如水会関係者、F商工会議所、G経済連盟、H新聞社、I父兄と保証人、J学生係、K庶務会計、L実業界、M警察、一の十四班がそれぞれ活動を開始した。
一方、如水会側では、午前十一時、藤村義苗理事長(明治二十三年高商卒)が予科の木村恵吉郎主事、専門部の堀光亀主事(明治三十二年高商卒)及び内池廉吉教授(明治三十一年高商卒)と共に、滝野川の渋沢栄一子爵邸を訪問し、応援を求めたところ、渋沢子爵から「これは教育を実情を知らぬ暴挙である。今私は病気だから、自分自身で各方面に運動することが出来ないので、自分の代理として、中嶋久万吉男爵(明治三十年高商卒)をたてて、政府当局その他の各要路に対して運動させる」との力強い助言を得たので、大喜びで急いで帰り、正午からの如水会館の臨時役員会に臨んだ。午後、藤村理事長は大学側の三教授と同行して、中嶋男爵を訪問し、渋沢子爵の意を伝えたところ、中嶋男爵はこれを快諾された。(明治八年、本学の前身商法講習所創設以来の最大の恩人・渋沢栄一子爵が九十二歳の天寿を全うし、?去されたのは、この日から丁度四十日後の十一月十一日のことであった)。事件に対する渋沢子爵の意見が明らかになったことは、その後の如水会の運動に大きな影響を与え、如水会員が迷うことなく、こぞって反対運動に邁進することの出来る絶大な精神的背景となった。
午後三時、国立と石神井とから続々と神田一ツ橋の旧校舎跡地へ集まって来た学生は、旧図書館前の空地へ集合し、昭和五年度の一橋会総務理事相京光雄(本科三年)の司会によって、長谷川徳次(本科三年)を議長に、横瀬政雄(予科三年)と小川任一郎(専門部三年)とを副議長に選出し、最初の三科合同学生大会(以下、学生大会と略称する)を開催。相京光雄が経過報告を行い、先ず、緊縮予算の総元締めの井上準之助蔵相に提出するための三科全学生による反対決議文を作成する決議を行い、直ちに決議文の作成に取りかかることとし、最後に、暴案粉砕のため最後まで団結して進もうと呼びかけるや、万雷の拍手の鳴り渡る中で、各科の学生が次々と立って気勢を挙げた。その中でも、この学生大会開催に先立って、先刻、大蔵省への陳情デモを決行して来たばかりの専門部養成所七百人の同志に取り巻かれた代表者高橋若松(専門部三年)の大蔵省での会見の報告と決意表明とは、一際目立って力強く、会場の熱気を一段とかき立てるものでみった。
さらに、この学生大会に出席した教授や諸先輩が次々と立って学生に気合をかけた。予科の峰間信吉教授は「画一教育打破と官僚主義排撃」を声高に叫び、専門部の常盤敏太教授は「一橋存亡の危機に際会した諸君は、合法と非合法との境目スレスレの所で、全力を挙げて闘え」と演説し、米谷隆三教授はすっかり興奮して、「皆頑張って、俺のあとをついて来い」と叫んで学生を激励した。
一方、卒業生の有志は、三日午後、押っ取り刀で一ツ橋へ集合した。そして今回の予科専門部廃止案をスクープした東京日日新聞社の佐倉潤吾記者(昭和四年学部卒)をはじめ、東京朝日新聞社の河野健治記者(昭和三年学部卒)、茂木啓三郎氏(大正十五年学部卒、後如水会理事長)、松本正雄氏(大正十五年学部卒、当時弁護士・後国家公安委員)、楠瀬常猪氏(大正十二年学部卒、当時商工省課長)、香月保氏(大正十二年学部卒、東京朝日新聞社記者〕、松田常雄氏(昭和三年学部卒、同盟通信社記者)、常盤敏太教授、米谷隆三教授(大正十四年学部卒〕などの諸先輩有志がその場で直ちに『如水会青年同志会』を結成し、学生を側面から叱咤激励することとなった。
このようにして、全学の教授、学生、先輩が挙って立ち上り、本学の特異な本質を抹消しようとする暴案に対決する全一橋の統一的旗反撃の火蓋が切って落とされた。
午後五時半、そろそろ学生大会が終わろうとしていた頃、井上準之助蔵相に大会の決議書を手交陳情するために選出された十一人の陳情代表委員が、校門を出て蔵相官邸に向かったことを知った一般学生は、代表委員と行動を共にして、自分たちの熱意を披歴しようとの意図で、校門を出て、隊伍を組んで、大蔵省へ向おうとした。
しかし、錦町署と西神田署とは早くも警官数十人を動員し、厳重な警戒線を張って、完全に学生の行進を阻止し、それを突破しようとする学生と警官との小競り合いが始まった。操み合っている間に、十三人の検束者が出た。
そこで、学生はやむを得ず再び校内へ引き返し、大会を開いて口々に「弾圧絶対反対!」と反抗の気勢を挙げた後、一応解散する形をとって大会を終わった。大会も終わり、あたかも家路へ急いでいるかのように見せかけて、各方面に分散して歩いていた擬装解散の学生たちは、警官のいないのを見定めて、四、五人単位でタクシーに分乗し、蔵相官邸へ続々と乗り付けた。
虚を突かれた麹町警察署では、大慌てで、田村署長が直々指揮をとり、動員した二十数人の警官隊で人垣を作り、学生たちを蔵相官邸の塀へ力任せに押し付けはじめた。
警官と学生との間でまたまた小競り合いがはじまった。学生デモ隊を阻止しようとする警官隊に阻まれたため、出遅れていた相京光雄が、この小競り合いの合い間をぬって駆け付けて来たので、先発隊の陳情代表委員十一人に加わり、十二人で官邸において井上準之助蔵相と会見することとなった。
これに先立ち、学生大会の会場から十一人の陳情代表委員が蔵相官邸に向かって出発しようとした時、常盤教授や米谷教授などの血の気の多い若手教授は、代表者たちに向かって「井上蔵相に会ったら、構うことはない。いきなり、思い切ってビンタを張れ。それくらいのことをしなきゃ、この難問題は解決せん。退学を怖がっていたら片付かんぞ。諸君の身分保証はわれわれ教授団が絶対に責任をもって引受ける。安心して、思い切ってやってこい!」とハッパを掛けた。
学生代表者相京光雄(本科三年)、長谷川徳次(本科三年)、石川精一(本科二年)、石井滋(本科二年)、藤本恒雄(本科】年)、久米吉左衛門(予科三年)、横瀬政雄(予科三年)、高橋着松(専門部三年)、小川任一郎(専門部三年)たちは、一発井上をブン殴れ、と言われては来たものの、多くの新聞記者や五、六名の屈強な随員たちに取取り巻かれ、落付きはらっている井上蔵相に会った途端、そんなことはすっかり忘れて、何よりも先ず、キッと目をすえて、全学生の抗議決議文を蔵相に突き付けた。そして先ず、藤本恒雄が蔵相のビンタをぶんなぐる代りに、破れんばかりの大声をはりあげて、「商大の予科と専門部とを潰すとは何ごとだ。撤回してもらいたい」と、蔵相をドナリつけた。この大声で驚くかと思ったところが、蔵相は呵々と大声で笑いながら、「財政が不如意でね!」と軽く受け流してしまった。次いで相宗光雄が藤本とは違って丁寧な言葉ではあるが、怒りを込めて、暴案の撒回を迫った。これに対して、蔵相は財政緊縮で予算がない、と繰り返すのみであった。業を煮やした相京光雄が「あなたは商大で講師をして、商大という学校がどんな学校かをよく知っておられる筈だから、同情をもってやって貰いたい」と詰寄った。しかし井上蔵相は平然として、落付いた口調で「国家の財政には替えられない。諸君は、商大で勉強しているんだから、これくらいの事は分って貰いたいものだ」と言って突撥ねた。
これは蔵相官邸の玄関へ入ってすぐの廊下での、立ったままで交わされた約十五分間程の、やり取りであったが、この日の会見は、第一次世界大戦以後に累積され、特に田中義一内閣時代の放漫な財政政策で大幅に上乗せされた赤字財政を、何んとしてでも整理し再建しようと、今は亡き盟友浜口雄幸と、死を覚悟して、誓い合った国家財政建て直しの担い手・憂国の闘士井上準之助と、母校の解体消滅を、これまた死を覚悟して、防衛せんとする東京商科大学の代表エリート学生たちと、の真剣な接触であった。この日の火花の散るような鍔迫り合いを、学生に同行して、傍で一部始終を見ていた東東日日新聞社の佐倉潤吾記者は「学生はテンデ歯が立たなかった。この時の蔵相には、憤慨するよりも、感心した」と漏らしているが、敵ながら天晴れというところであろうか。陳情に行った学生代表者たちも、流石に強烈なショックを受けた模様で「これを押し返すのは、大事だ。並々のやり方で行ったら絶対に負けだ」と強く印象付けられて帰って来た。蔵相官邸の外で待機していた学生たちは、蔵相との会見の報告を聞き、一団となって引揚げ、如水会館の中庭に集合した。午後八時半、学生たちの帰りを待っていた専門部の堀光亀主事は、学生に激励演説を行い、学生一同は万歳を三唱して散会した。
この日の検束者は十三人であったが、ほどなく錦町警察署から「無届集会を禁止する」との命令が伝達された。
注4 若槻内閣は昭和六年十二月十一日に、次第にファッショ化して行く軍部に接近しようとする安達内相と、現状維持な主張する井上蔵相、田中文相と、の間の意見対立が問題となり、閣内不統一の責を負って総辞職し、犬養毅政友会内閣となった。
野に下った井上準之助は、昭和七年一月、民主党の筆頭総務に推され、二月二十日に行われる総選挙に向けての選挙委員長と凄った白井上は二月九日、目前に迫った総選挙の応援演説のため、車で演説会場である本郷駒本小学校に向かったが、会場へ到着の直後、車から下りて、五、六歩歩いた瞬間、右翼血盟団員小沼正にピストル三発をうたれ、即死同然で、六十四年の生涯を閉じた。
それは、一橋の代表相京光雄(後の三菱金属鉱業社長・会長)たちが蔵相官邸の廊下で会見した十月三日から数えて、丁度一二九日目の昭和七年二月九日の凍て付くように寒い夜八時半のことであった。
午後八時半、学生側は三科合同の緊急一橋会役員会議を如水会館で開き、反対運動を今後どのように進めて行くべきかを話合った。その席上、本科三年の評議員牧野純夫が、「反対運動をやるにや、皆が集まって、ただワアワア騒ぎ立てるだけでは駄目なんだ。先ず、組織を作らねば、闘えねえんだよ。それで、その組織をどうするかだ!」と盛んに組織作りを主張した。そして牧野純夫は、「先ず、全学生を指揮する統制の本部を直ちに設置すべきだ。次に、その統制本部のメンバーだが、本科・予科・専門部の各総務理事と評議員会議長の六人ではどうだ。しかし、今度の事件は、普段の一橋会の一般行事とは違って、緊急非常事態だから、最高学年の本科三年生で、前年度一橋会総務理事の相京光雄君にも参加して貰ってはどうだ。相京君なら皆が支持するだろうし、全体の調和をとる中心としては打ってつけの人だと思うが、相京君に統制本部の委員長になって貰ったらどうだ」と提案したところ、満場一致で可決された。こうして先ず、統制部のメンバーが次のように決定した。
委員長相京光雄(本科三年、前年度一橋会総務理事)
委員石川精一(本科二年、一橋会総務理事)
〃〃石井滋(本科二年、本科会評議会議長)
〃〃久米吉左衛門(予科三年、予科会総務理事)
〃〃横瀬政雄(予科三年、予科会評議員会議長)
〃〃高橋若松(專門部三年、専門部会総務理事)
〃〃小川任一郎(専門部三年、専門部会評議員会議長)
注5当時本科は評議会、予科と専門部とは評議員会と称した。
相京光雄委員長は統制部を統轄すると共に、教授会との連絡をも一手に引受けることとなった。
また統制部に直属する連絡部を置くこととなった。これは統制部からの指揮命令をすばやく下部の各クラスに伝達する任務にあたるものであった。この連絡部のメンバーはボート部、剣道部、柔道部、陸上競技部の各委員長と部員とから選ばれ、本科は石田博(三年ボート)、岡田安郎(三年ポート)、西川善一郎(三年)、島津恒雄(二年)、尾本信平(二年陸上)、柴田晋(一年ポート)。専門部は冨岡八十雄(三年陸)、草柳英一(三年剣道)、藤野四郎(三年柔道)、桑島脩一(三年剣道)、たちであったが、予科は理事と評議員とから選ばれ、鈴木昇(三年理事)、三木春雄(三年評議員)、藏田歴次郎(二年理事)、勝又栄(一年評議員)たちであり、このようにして運動部と一橋会幹部とでガッチリと組織を固めた。
さらに統制部を補佐する機関として交渉部、報道部、会計部を置くこととなった。交渉部は総理大臣や閣僚をはじめ、政界と官界の要人、先輩有力者などに陳情する極めて大切な任務をおびる学生の代表者であるから、一橋会の理事と評議員と各部の委員長との中から二十人を選んで構成した。交渉委員のメンバーは、本科は長谷川徳次(三年)、宮地秀雄(三年)、斎田英夫(二年)、秋竹守一(二年)、宮坂義一(一年)、予科は小宮山琢二(三年)、香川啓三郎(三年〕、佳藤(改高橋)太郎(二年)、依光良馨(二年)、専門部は光広栄次(三年)、小倉明(三年)たちであった。
報道部は一橋新聞部員九人が担当した。報道部は、学外に向かっては、都下の各新聞社と緊密な連絡をとり、各新聞社から来てくれる記者たちに、事件の推移過程で発生するニュースを細大漏らさず提供して、籠城事件を全国的なニュースにして貰うという極めて大切な任務を果たすと共に、学内に向かっては、籠城学生に対し、ガリ版刷りの『報道部ニュース』を配布して、@統制部からの指令、A交渉委員の活動、B首相.渋沢子爵・文相などとの会見訪問?末、C警視庁への抗議、D検束者氏名と差入、貰い下げ、E学長や教授の動向、F神戸商大、横浜高商、江口定条満鉄副総裁(明治二十年高商卒)よりの激励電報、その他六十四号に及ぶ多くのニュースを流し、状勢の推移を周知徹底させて、とかく疑心暗鬼になりがちな籠城学生を常に激励し、序ある団体行動をとらせる上において重要な役割りを演じた。報道部のメンバーは、後日、東京朝日新聞論説委員としてその卓見を謳われた渋沢輝二郎、東京日日新聞社の栄本厳、大阪朝日新聞社の新星と調われた内藤達治(残念ながら夭折)などを含めた、いずれ劣らぬ健筆英俊の新聞部の面々。本科三年の加藤英郎、本科二年の平野等、船戸修、稲葉松次、八木保、渋沢輝二郎、本科一年の田中太郎、大和屋弘喜、栄本巌、二神二郎、平野美津基、坂倉吉宜、原田常雄、予科三年の矢島寿一、島屋正秋、小宮山琢二、予科二年の脇坂泰彦、内藤達治、予科一年の清水菊一の中から九人が選ばれた。
会計部は、「一橋消費組合」と「食堂部」が中心となり、食事や寝具の調達という地味ではあるが、最も大切な兵站業務に任ずることとなった。会計部のメンバーは周到多才の面々で、本科は丹羽正一郎(二年)、大倉徳治(二年)、予科は平塚潔(三年)、香川啓三郎(三年)、専門部は平沢正夫(三年)、津久井利郎(三年)、平野力(養成所三年)たちであった。
以上のように、反対運動を推進する鉄壁の闘争組織が東京商科大学一橋会の@理事会、A評議員会、B消費組合、C食堂部、D運動部、E新聞部、によって確立された。そこで如水会館側に促され、明日からの本格的な闘争に備えて、午後十一時散会した。
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