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3いよいよ籠城
十月五日(月・籠城第一日)
午前八時、交渉委員は文相官邸を訪問した。この日、統制部は、学生が文相官邸に多数押し掛けて混乱すれば、逆効果が出る恐れがあると考え、予め、本日の文相官邸へのデモ行進は取りやめ、との指令を出した。また、教授ら約三十人は、文相との会見予定の一時間ほど前の午前七時から、文相官邸付近で配備につき、交渉委員と文相との会見が円滑に行われるよう、側面から気を配った。
交渉委員と文相との会見は昨日の約束通りに行われたが、この日は学生デモ隊の応援がないので、予科・専門部を含めた交渉委員十人が顔を揃えての会見となった。
田中隆三文部大臣は開口一番、大声を挙げて、「君達は学生の分際でありながら、何んだ。学生の本分を知らんのか」と非常な剣幕で交渉委員をどなりつけた。代表の長谷川徳次が冷静に「学生もデモなどしたくはありません。しかし、少くとも文部大臣には我々学生の心情を分って貰いたいと思って参りました」と答えた。すると田中文相は、「大学には学長も教授もいる。文部省との交渉は大学当局がすべきで、学生の分際の君達が直接文部大臣に会いに来るのは不謹慎極まることだとは思わないのか」と、カンカンになって来た。売り言葉に買い言葉で、長谷川徳次は今度は毒を荒らげて、ドナリ返した。「文部省と教授会に委せて問題が解決するなら、何も我々は騒いだりしないんです。教授会に委せて置けないから、我々がこうして乗り出して来たんですよ」と、退学処分を覚悟の上で、大臣をキッと見すえて、大声で喰いさがった。
交渉委員について行った東京日日新聞社の佐倉潤吾記者が、追憶談で「文相は、その日最初から、学生が暴れはしないか、と大変こわがっていた」と言っている通りで、臆病な者ほど、声高に相手をオドシにかかる。しかし学生に大声でドナリ返され、ぶん殴られそうな気配を感じて、恐れをなしたのか、今度は、急に態度を変えて、丁寧な言葉になり、「まあ、そう怒るな。ともかくも善処するから。文部省と教授会を信頼して、委せて置き給え」と宥めにかかった。交渉委員たちは「監督官庁の最高責任者なのに、首相や蔵相と較べて、あまりにもお粗末で情けない」との感慨を抱きながら会見を終え、文部省から帰って来た。
注5
田中文相と会見した交渉委員は、長谷川徳次、斎田英夫、秋竹守一、香川啓三郎、小宮山琢二、佐藤太郎、光広栄次、小倉明、宮子正雄、他一人の十人であった。
午前十時、第四回学生大会を開催。先ず、文相との会見の内容を交渉委員から報告し、次いで、渋沢栄一子爵、民政党幹部その他を歴訪し陳情したA・B・C各交渉委員から、それぞれの結果が報告されたが、これらの報告を聞きながら、学生大会は文字通り一喜一憂する状態で、楽観を許さぬ雲行きに胸をしめつけられて、ますます一致団結しなければならぬとの思いを深くした。
一方、如水会の菅礼之助氏(明治三十八年高商卒)と大学側の河合諄太郎教授(大正五年高商卒)、杉村広蔵教授(大正八年高商・大正十年専攻科卒)は、関西在住の如水会員に事情説明のため西下した。
午後三時、第五回学生大会を開催。警察側の強硬な弾圧姿勢が日ごとに高まる中で、我々学生はこれから如何に行動すべきか、につき討議を始めた。その上、首相、蔵相、文相はじめ民政党幹部たちの言葉は信ずるに足りないとすれば、一体どうすればよいのか、との論議も湧き立って、何時果てるとも分らぬ、から回りの激論。つるべ落としの秋の日。電灯のつかなくなった暗い大教室のAホールに、緊急に手配して手に入れたローソクを掲げて、大会は続行された。政府があくまでも頑迷で誠意を示さぬ時には、一橋を私立大学にすることもあえて辞さぬ、との沈痛な決意までが述べられる雰囲気の漂う中へ、統制部は「このような事態を突破するためには、全学が一致団結して、強力な学生運動を展開する他に道はない。最早や、首相、文相をはじめ民政党幹部たちの言は信ずるに足らぬ。幸いにして、この神田一ツ橋には、バラックではあるが、旧校舎が取壊されることなく、現にこの通り残っている。我々学生は予科専門部廃止の暴案の粉砕を期し、本日より全員ここに籠城せんとするものである」と提案した。この悲壮な統制部提案に、会場は一瞬声を飲んだが、次の瞬間、割れんばかりの拍手と怒号があがる中で、提案が可決ざれ、いよいよ学校騒動としては、空前の新戦術である「全学生の徹夜籠城」が決行されることとなった。
丁度その頃、かなりの人数の警官が薄暗い構内に入って、雲行きを窺っていたので、学生と警官との構内での衝突を心配していた若手教授や先輩は、警官に構外へ退出してほしいと強く要請した。この交渉に当ったのは、三日結成された『如水会青年同志会』の茂木啓三郎氏(大正十五年学部卒、後キッコーマン社長、如水会理事長〕、松本正雄氏(大正十五年学部卒、弁護士、後国家公安委員)、村松恒一郎教授、高橋泰蔵教授、常盤敏太教授、米谷隆三教授らであり、「構内の治安を学生に委せるわけにはいかんですよ」と頑張る警官に対して、「こんなに興奮している学生のところに、あんた方がいると、火に油を流がすようなことになる。我々が学生を宥めるから、この場は我々に委せて、早く引き揚げて下さい。構内の治安は我々が責任をもって管理しますから」と強硬な態度で交渉したので、警官もしぶしぶではあったが、一応納得して、構外へ退去した。
籠城決起ときまった第五回学生大会の直後、上田貞次郎教授その他の教授は学生幹部と如水会館で緊急に会合をもち、長谷川徳次(本科三年)と池上繁(本科二年)の.二人を、明六日朝、関西へ派遣することを決定した。
当時、関西には平生欽三郎氏(明治二十三年高商卒)、関一氏(明治二十六年高商卒、元本学教授、大阪市長)、安宅弥吉氏(明治二十八年高商卒、安宅商会社長)の三長老がいた。しかもこの三長老とも、どうやら政府の予科・専門部廃止案に賛意を表しているらしい、という風評が立っていたのだから、たまったものではない。そこで使いに出す長谷川徳次と池上繁とには、「学生の立場から、三長老をはじめ関西如水会の諸先輩に事情を説明すると共に、特に平生鉱三郎氏については、是非上京されるよう頼んで来い」という特命が下されたのであった。平生鋲三郎氏(甲南学園創設者、後広田内閣の文相、日本製鉄会長)は関西財界の最有力者であり、井上蔵相の後援会の筆頭者でもあるといわれた人であった。それだけに、平生氏には何んとしてでも味方になって貰い、上京のうえ井上蔵相に直接会い、予科・専門部存続交渉をして貰おうというのが、東京本部の意向であったわけである。
注6
平生欽三郎氏は関西へ派遣された教授や卒業生、わけても学生代表の話を十分に納得され、十月八日夜、関西を出発し、上京する予定であったが、如水会から、急転直下、問題が解決した、との電報を受け取ったので、十月八日夜、以下のような返事を如水会宛に打電して来た。「見た。問題好都合に運びたる由ご同慶。我今夜、大会後、上京の積りなりしも、見合わす。平生鉱三郎」
さて、いよいよ籠城となると、何はさて置き、今夜からの食料と寝具がなければ始まらない。早速、購買部、配給部、連絡部の三部が新設され、籠城準備に取りかかった。一番大事なのは購買部であるから、「一橋消費組合」を購買部に急変させ、物資調達にあたらせた。今回の事件で十月三日夜に設置された会計部の責任者丹羽正一郎(予科二年の時、石井滋と共に予科食堂を創設し、手落ち手抜かり一切なし、と語われたべテラン男で、京橋区越前堀の木綿問屋の長男)と、彼から依頼を受けた会計部員大倉徳治(本科二年)の二人は、「これから物資調達その他には金がかかるが、金の方はどのように致しましょうか」と先輩に相談を持ちかけたところ、「金はいくらかかってもよい、心配するな」との返事で、勇気が湧いて来た。そこで先ず、第一に夕食の用意にかかった。最初二人は、短時間に間に合うのは駅弁当だと思ったが、それも千五百箱が短い時間に、一度に集まるかどうかが疑問だ、ということになった。先輩から「金の心配はするな」と言われているので、「よし、一つ歌舞伎座前の弁当屋の弁松へ行って見よう」ということになり、大倉徳治が平塚潔(予科三年)を連れて弁松へ行き直談判したところ、「千五百箇。全部!何んとかしましょう」という返事で、これで責任を果たせたと一安心。平塚潔は弁松の店が立派で、特に床が清潔でマバユイばかりに光り輝いているのに驚くと共に、この弁松なら大丈夫腹痛はおこさないわい、と安心して帰って来た。翌六日(火)の新聞には、「流石、商大の籠城、資金豊宙」と書かれ、また他の新聞には「流石は商大の籠城、弁松の弁当」とも書かれた。
弁当千五百箱を責任をもって配送してくれるとの約束をとりつけたので、これで夕食はオーケー。そこで次に早速寝具の準備にかかった。
大倉徳治は最初は、籠城とはいってもどうせ一晩ぐらいだろう、と軽く考えて、莚を七百枚程度搬入した。しかしこれを見た先輩から、「学生の体は大事だ。風邪をひかせたらどうする」と叱られたので、大至急布団集めにかかった。布団となれば、そこは木綿問屋の長男、勝手知ったる丹羽正一郎。早速電話で手配完了、そこで大倉徳治が鉢巻姿に身をかため、先頭のトラックに乗り込み、トラック四台を引き連れて、市内の貸布団屋を片っぱしから廻った。お上りさん用の布団を借りうけた大倉徳治らの購買部員は、夜中までに、丸屋その他の店から、何んとか二千五百枚の布団を集めて、籠城学生に配給することに成功。
「これで布団は済んだと。しかし次に、明六日の朝食をどうするかだ」「それ、仕出屋探しだ!」と大倉徳治たちはまたもや籠城の構内から飛び出した。午前二時頃、一軒の仕出屋を叩き起こして、朝食千五百人分の弁当を依頼した。中味は梅干しと沢庵を入れた折詰で籠城の同志たちには我慢して貰うことにして、これで緊急措置が終わった。大倉たちが神田一ツ橋の籠城の構内へ戻って来たのは午前五時頃のことであった。
購買部では、前述の莚七百枚(一枚七銭)の他に、手燭五十個(一個八銭五厘)、薬かん缶五十個(一個九十銭)、マッチ十箱(一箱五銭五厘)、茶碗三百個(一個三銭)、ローソク十二箱(一箱二十五銭)、食パン二千袋(一袋十銭)、木炭十俵、紙など、合計四百円の籠城用必需品を買い込んだ。
この買い込んだ物資や搬入された弁当、布団などを籠城学生の各クラスの部屋へせっせと運び込んだのは、新設された配給部の仕事であった。
言い遅れたが、この五日夜、後から駆け込んで来た者も加えると、寵城学生数は本科三九五人、予科五六四人、専門部・教員養成所五八○人で、一合計して約千六百人になった。
統制部では、一早く、この籠城全学生千六百人を各クラス毎に分け、旧校舎跡にある@図書館、Aバラック建のA・Bホール、B研究室、C教室二棟、D食堂と元の消費組合、E門衛休憩所、F小使部屋、Gボイラー室などの総ての建物を、各クラスの寵城場所として割当てた。割当てられた各クラスの部屋の入口には、各クラスそれぞれの名称を、紙に大書して、門標代りに張り付けた。
ただし、統制部の部屋は、この運動の神経中枢ともいうべき大事な同志たちの集まる部屋であるから、万一キャンパス内への警官隊の奇襲的な攻撃があっても、支障が生じないようにという配慮から、絶えずその場所を替えていた。そして、暫定的に決まった統制部の部屋の入口には、「統制本部室」などとは書かず、あたかもその部屋が普通一般学生のクラスの部屋であるかのように見せかけるため、「白水会」と書いた紙が門標代りに張り付けられていた。
作戦参謀の石井滋統制委員(本科二年)の配慮によるものであった。図書館を割当てられたクラスでは、書架を片っぱしから打ち壊し、たちまちにして速成ベッドが出来上がった。他の建物もガラス窓は破れ、屋根も壊れ、床には埃が厚く溜まっていたが、そこを割当てられたクラスの者は、速成の大工や左官になり、蜘蛛の巣を払いのけて元気一杯に応急修理工書旨かかった。戸板や古い黒板を探して来て、鼻歌まじりに他クラスとの境の間仕切りを作るなど大騒ぎをしながら、とにもかくにも住めるようにしてしまった。角帽にバーバリー姿の本科生が何処かで手に入れた畳を一人ででいかに重そうに自分たちのクラスの部屋へ担ぎ込む光景は、異様でもあり、ほほえましいものでもあった。
学生たちが、やっとそれぞれの部屋に落付いた頃には、暗い部屋の窓から薄暗いローソクの光がもれ始めた。室内は莚をかぶって寝ているルンペン宿さながらの一団、夕刊各紙を壁に張り付けて激論をかわすグループ、ローソクを囲んで密議を凝らす一群、闇の中で「一橋会歌」を合唱するクラス、入浴ができないので水道の水で冷水摩擦をする者、お茶の代りに冷たい水を薬缶に一杯入れて運ぶ炊事係、明朝からの炊き出しの準備に、大小十台の釜を据えつけるのに汗だくの者、「明日の朝食は白米二合、沢庵一切れだけだ、それで我慢しろ!」と籠城第一夜の報道部の情報が飛んで来た。
かれこれしているうちに、第一夜も九時になった。統制部から「炊き出し係、自警団などの特殊任務にある者以外は、明朝からの活動に備えて、午後九時に消灯就寝せよ」との指令が出され、全籠城学生は消灯して就寝した。
右の指令の中に出て来た「自警団」であるが、この自警団はボート部員を主体とする七十人で、籠城決行の決議の直後に、組織された籠城防衛隊である。自警団員は帽子に白布を巻き、各自がそれぞれ「自警団」と大書した新調の提灯を持って、正門、裏門、校内の要所要所に、配置され、交替制の徹夜で、外部からの侵入者を防ぎ、火災に備えた。日が暮れても構内になお踏み止って、警戒に当って見張っていた警官隊も、この学生自警団の堂々たる組織的な宿営振りを見て、午後六時には後に数名だけを残して、校外へ退去した。
こうして一ツ橋旧校舎跡は、軍隊に占領された敷地八千四百坪の部落か、出征軍の宿営地でもあるかのような光景を呈して、籠城の第一夜は次第に更けて行った。
学生の籠城が決定すると、金子鷹之助、米谷隆三らの少壮教授二十六名も、『我々も籠城だ。学生が籠城を解くまではわれわれ教授も一人残らず旧校舎で頑張る』との申し合せをして、如水会館に籠城した。
一方、如水会側では、五日午後四時、如水会館で役員会を開催。六十人の出席者に藤村義苗理事長は今回の事件の経緯を報告し、「予科・専門部廃止については一切妥協を許さず、絶対反対」と言明し、声明書原案を示し、一同異議なきことが確認されたので、この原案を今夜の評議員会にはかることとなった。
また如水会理事長署名の陳情書を首相、内相、蔵相、文相に提出することとなった。
次いで、午後五時半、出席者九十九人の如水会臨時評議員会が開催された。正田貞一郎評議員会議長(明治二十四年高商卒、現皇后の祖父)の指名により、先ず、藤村義苗理事長より今回の事件の経過が報告ざれ、次いで、佐野善作学長の経過報告と、学生代表相京光雄の学生側からの事情報告がなされた後、引続き先刻の臨時役員会で異議なく承認された声明書案をはかったところ、これを「如水会声明書」とすることが満場一致で決議され、さらに予科・専門部廃止案撤回要求の決議がなされて、交渉委員に各務鎌吉(明治二十一年高商卒)、児玉謙次(明治二十五年高商卒)、福井菊三郎(明治十六年高商卒)、深尾隆太郎(明治三十二年高商卒)、内田信也(明治三十八年高商卒)、小坂順造(明治三十七年高商卒)、三谷一二(明治二十九年高商卒)の七氏が選ばれ、猛運動を展開することに決定した。
この如水会声明書は直ちに内外各地の全如水会員および各支部あてに発送された。船会杜、銀行、商社などは、直ちに電信で海外支店に通報したので、これに呼応して、海外の如水会支部より、熱烈な激励電報が続々と寄せられ、神戸商業大学教授団、横浜高等商業学校教授団からも応援と激励の電報が届けられた。
以上のほか、この日、十月五日午前九時、堤康次郎氏(箱根土地社長、西武グループ創設者、後衆議院議長)を会長とする国立町住民大会が中央線国立駅前の国立クラブで開催され、「予科・専門部廃止は国立町の施設、経営などから見て死活問題であると受けとめ、廃止案の撤回を希望する」旨の決議案を満場ー致で可決し、住民二千人が署名捺印したこの決議文を、代表者が持参し、大蔵・文部両当局その他に赴いて、陳情することを決議した。
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