十月六日午前九時、(火・籠城二日目)
-上街頭大デモンストレーションと警官との大乱闘-

 第六回学生大会を開催。籠城の声明書を発表した。
 声明
 突如我予科及ビ専門部廃止ノ断案飛ンデ商学ノ殿堂危急ヲ告グ。
 満腔ノ熱意吾等ガ胸二溢レ、絃二琢然トシテ起テリ。ソノ行動タル正々堂々一糸乱レザル統制ノ下二、一橋学園六十年ノ伝統擁護ノ為奔命シ、一途目的貫徹ヲ期シテ、遂二我等二千有余ノ同志一橋ノ故地二籠城スルニ至レリ。当局ノ暴案二抗シテ此地ヲ死守セザルベカラザル尚幾日ゾ。唯正道大肺ノ下二堂々所信二向ツテ猛進センノミ。
 既二我等ニ悲壮ノ決意アリ。屈辱ヲ以ツテ生キンヨリハ寧ロ光輝アル母校ノ伝統ト生死ヲ共ニセン昭和六年十月 東京商科大学全学生大会

 注7この「声明」の文章と、一六六頁「籠城解散の声明」の文章とは、いずれも伊藤三二(本科三年)が書いたものである。(注12を参照)
 しかし、この籠城の「声明」の文章は、六日朝発表の直前に、統制部詰めの藤本恒雄(本科一年)が、同じく統制部詰めの交渉委員宮坂義一(本科一年、翌昭和七年度の一橋会総務理事)の立合いの下で、大型模造紙に墨痕淋滴と清書する際、原文の数力所が、藤本恒雄流の強調体の文章に、訂正されたものである。

 午前十時、籠城学生は全員校内の広場へ集合し、街頭デモの訓練を始めた。全員が四列縦隊になり、一橋会歌「長煙遠く」を唱いながら、校内でデモを行い、気勢を挙げた。この声を聞きつけ、早くも錦町警察署から可成りの人数の警官が馳せ参じて、塀の外に分散して警戒に当った。
 一方、交渉委員は、それぞれ手分けをして、安達謙蔵内務大臣、南次郎陸軍大臣、永井柳大郎外務政務次官その他を官邸に訪問し、陳情した。この日の午前、北多摩郡の二十五町村長の代表者八人が、神田一ツ橋の籠城の現場を訪れ、地元の特産品である練馬大根の沢庵漬数樽を、芋、白米、味噌、醤油などと一緒にトラックに満載して持参し、陣中見舞の差入れをして、籠城学生に激励の挨拶をしてくれた。
 昼食の頃、下痢をする学生が出たということで、今朝の折詰弁当が原因だとの噂が広がり、これに驚いた大倉徳治は原因究明よりも「先ず薬だ」と考え、大量のクレオソートを買い込み、各クラス会に配給し、応急処置をとったが、大した下痢ではないということで、一同がホッと胸を撫で下ろした。かれこれしている間に、石神井、国立方面からの炊事応援部隊が籠城校内に到着し、炊き出しを開始したので、これで食事の心配がなくなった。購買部(既述の通り一橋消費組合の急変部隊)の丹羽正一郎、大倉徳治(いずれも本科二年)、平塚潔(予科三年)たちは、改めてもう一度胸を撫で下ろした。
 炊き出しの昼食で元気を回復した籠城学生は、午後三時半、再び全員で構内デモを行って気勢を挙げたが、統制部からの秘密指令が、どこからともなく、耳うちで全学生に伝えられた。それは「街頭デモ決行」の秘密指令であった。

 注8昭和六年頃には、思想的弾圧が厳しさを増していたが、統制部の素晴らしい指導によって、模範的なデモ行進をすることが出来た。「これが街頭デモのハシリとなった」(新聞報道)。これまでのデモも無届で行われたが、この日のデモも無届集団行進であった。警官はこのデモを崩すためには、横から列の間に割り込まねばならぬ。列の間に割り込むためには、端にいる人間を引き抜いて、隊伍を乱そうとする。だから、先頭と四列縦隊の両端には頑健な者を配置して並ばせた。端の者は、一方の手で自分の前列の端の者の腰のバンドをしっかりと掴み、他方の手で隣の者とガッチリと組む。警官に割り込まれないように、隣の者と前の者とのバンドを離さぬようにして進む。校庭で、こうした訓練を繰り返し十分行った後に、いよいよ「街頭デモ決行」の指令が出たのである。三日、四日、五日と散発的に行われた街頭デモの時もそうだったが、この六日の街頭デモ行進の戦列の中にも、本科三年の最優秀生・板垣与一(後に一橋大学名誉教授、現八千代国際大学長)、増田四郎(後に一橋大学長、現東京経済大学理事長、日本学士院会員)たちが加わり、頑張っていたことは言うまでもない。また本科三年の大塚金之助ゼミナールの江田三郎(後の日本社会党書記長)も街頭デモ隊に参加していたはずだという者もいるが、実は、江田三郎は昭和五年夏、谷川岳登山の際、大雨で遭難したのがもと.で、肋膜炎にかかり、帰郷、岡山の自宅で療養生活八力月、昭和六年二月、病気休学を機会に本科二年で中途退学し、四月全国大衆党(後に全国労農大衆党)に入党、籠城事件当時は岡山県南部で農民運動の指導に挺身していたので(令息江旧五月氏の岡山事務所調べ)、籠城事件には全く関係がなかったのである。

 さて街頭デモであるが、賛川真彦(予科三年)の手記「予科三年一組大量検挙さる」(『一橋籠城事件』八六頁参照〕を『鉤カッコ』つきで摘記したものをまぜながら、この日警官隊との大衝突で騒動が頂点に達した模様を述べることにしよう。『その日は何となく皆が緊張していた。……それまでは、陳情先に集まって気勢をあげ、当時警視庁が誇る機動隊、通称、新撰組をだしぬくのに、そこはかとない誇りと喜びを味わっている程度だった。(新撰組は二階に常時待機、ペルが鳴ると、消防隊員のように一階に通じる穴を、棒にすがって降り、下のトラックに乗り移り、直ちに出動する。六尺棒と肩からナナメにかけたピストルや、十手を腰にさして、精鋭を誇っていた。出動も極めて早かった)。……だが今日は突撃なのだ。今日の成果で世論が形成される。大量検挙、それでどうなるか、自分をつきつめて考えてもみなかった。しかし、今日は何となくちがう。やる日だ!という緊張感がヒタヒクと心をみたしていた』。
 街頭へ出撃せよとの秘密指令に従って校外へ出ようとしたが、警官隊が包囲しているので出られない。街頭へ如何にして脱出するかで連絡部一同が知恵をしぼった結果、柔道部、剣道部、ボート部、ラグビ ―陸上競技部などの猛者連をタンク隊と称する先頭小隊に編成し、校門を突破して出撃する作戦を練りあげた。先ず敵の警官隊をあざむかねば始まらない。それを目的にして、ためしに校内で五回も六回も、一橋会歌「長煙遠く」や、予科会歌「君よ知れりや」などを放歌高吟しながら、校内デモを繰り返してみた。ところが効果はてきめんだった。その声につられて、校門付近に固まっていた警官隊が塀の外側の路上のあちらこちらへ分散した。ほんのちょっとの間だが、校門附近の警備が手薄になった。そこを見定めて、デモ隊は一挙に正門と裏門とを突破して、校外へなだれ出た。
 四人が腕を組合っていた。予科三年一組「簾月会」(クラス主任の古瀬良則教授の頭髪が薄いので、スダレに月というので、この名がついた)は一橋の北裏門を出て、左に曲ったときには、先頭になっていた。……目標は靖国神社と口伝えに知らされた。……(お濠に沿って九段へ向かって)行進する途中、アゴヒモをしっかりとアゴにかけた交番の巡査が、アワを喰った格好で、アゴをがくがくさせながら、緊急電話通報をしている』……『現状よりもずっと急だった靖国神社の坂を上りつめて、大鳥居から反転して引返したが、神保町交差点から旧校舎へ向かうときには、黒の上着と白ズボンにサーペルをぶら下げた警官たちで一杯だった』。むろんこの日のデモ行進も無届の集団行進であった。それでも、デモ隊の各隊のリーダーたちは、社会的に騒擾にならぬようにと気を配って、交差点にさしかかると、大声を挙げて、「ゴー」「ストップ」、と号令をかけながら、秩序整然と行進して来たのであった。デモ隊が神保町交差点を右折し始めると、警官を満載したトラックがデモ隊の先頭へ向かって突進して来た。警官はトラックから飛び降りるやいなや、それまで待機していた警官たちと一緒に、デモ隊の先頭に襲いかかった。
 『隊長らしい男が、引きつった顔色で、何事かを命令する。警官隊がサッと緊張する。こちらは歩度をゆるめない。衝突はもう目の前である。その時の、ゾッとするような一瞬の静けさの中で、平然と隊列を組んだままで迫って行ったその時の、内に秘めた闘志!敵を前にしてクラスメートは一心同体だった。何かするどい号令、検束という署長の号令だったろう。日に照りかえるサーベルが、ガチャガチャと大きな騒音を発して、一瞬のうちに前から横から一ぺんに取り囲まれてしまった。私はグルグルと右手を回していた。手を掴えに来た巡査の手を振りはらおうとして、本能的に振回していた。左腕に組んでいたのは、今、福岡大学教授の中村謙君だったと思う。突入の前に、ふと見たとき、やや青白い顔で、真直ぐ前を見ていた中村謙君の顔が、今でも印象に残っている。……あまり執拗に私の手を掴えようと追いかけて来るので、敵愾心が一気に爆発して、狙いをつけた拳の一撃が、チョビヒゲの喉もとにジャスミート。一米ぐらいふっとんで、腰から着陸。
 その後が大変だった。ソイツだ、ソイツだ、という大声が迫って来る。私は相変わらず、右手を振回して行進していた。突然、後からヒザの内側をけられて、前にのめった 。起き上がろうとすると、前も後も警官だらけで、四人一組がずるずると列外へ抱え出された。立て!歩け!で、四人はいつの間にかバラバラにされて、錦町警察署の方向ヘゾロゾロと歩かされた。たくさんの街の目が集まっていた。手錠はかけられなかったが、私服警官がピタリと横についていて、"おとなしく歩くんだ。警官をブットバシタお前は、二十九日の留置は覚悟してオトナシク歩くんだよ"と曝く。別の私服もやって来て、太い腕をマクリ上げながら、"俺は講道館四段だ。警察の道場でタップリ可愛がってやる"とすごまれた』。
 これは賛川真彦・中村謙組が検束されるまでのデモ行進のなまなましい現場の光景の活写であるが、神保町から一ツ橋へ向かって進む間に、デモ隊の外側の者は次々と隊列から引き抜かれ、警官に足蹴にされ、突き飛ばされた後、続々と警察署へ連行された。警官の手を振り切りざま、バーバリーが破れる、制服の袖がもぎ取られる、眼鏡がフッ飛ぶなどと散々な目に合いながらも、辛くも検束を逃れたデモ隊員は、駆け足でドンドンとスクラムを組んで進み、校内へなだれ込もうとした。しかし、前方を見れば大勢の警官隊が正門と裏門とを閉めて、立ちはだかっている。ところが、街頭デモ隊は、この靖国神社へのデモ隊だけではなく、もう一隊の街頭デモ隊が、統制部によって編成されていた。
 その一隊というのは、この春入学したばかりの一年生の十六〜十七歳組で編成されていた。統制部では、一年生たちには靖国神社までの遠出の街頭デモは無理だ、と考えたので、この組は学校の塀にそった外側の道をグルっと一廻りするだけとする。しかもこの若年組デモ隊には、「通称三テロ」と学友たちが名付けていた本科一年の福井公四郎、土屋道三、西尾忠四郎たちの他、警官の攻撃を蹴散らすことの出来る腕力にかけては自信のある本科のオヂサンたちを傍に付け、デモ隊の先頭と、中間と、最後尾とをバッチリと守ること、という入念な指令で編成されたものであった。いうなれば若年白虎隊組だったのである。この白虎隊組も、先発の上級生のデモ隊と同様、校門あたりを警戒する警官たちが手薄すになるのを見計って、突然先頭部隊が校外へ飛び出し、その後に続いて校外へ繰り出した上で、塀に沿って整然とデモ行進をしたまでは良かったが、再び校内へ戻ろうとして校門へ向かったところ、警官隊が群をなして校門を閉ざし、入れてくれない。先頭部隊は後から来るデモ隊の学友の群に圧されて警官隊に体当りになる。すると、警官隊は力まかせに圧し反しざま、「検束」の号令一下、「検束!」「検束!」と叫ぶ警官たちに、引っぱられたり、足蹴にされたり、突き飛ばされたりで、多数の負傷者と検束者が出始めた。そこへ、靖国神社から帰って来たデモの大部隊が、これまた兇暴な警官隊に追い立てられて、突撃でもするかのような勢いで突っ込んで来て、合流し、ごちゃごちゃになったからたまらない。警官に引きずり出されそうになり、それを振り切ろうとして、あちらでもこちらでも、バーバリーは破られる、制服の袖はもぎ取られる、眼鏡は飛ばされる。そればかりではない。こちらも警官の帽子をひったくる一警官のサーベルをひん曲げたり、ひったくったり。大乱闘の衝突となってしまった。学生がやられているのをかばおうとして、手を出したばかりに、村松恒一郎教授は検束された。現場附近に居合せた上田貞次郎教授までが警官に小突かれる有様だったが、警官にレンガ塀へ押し付けられた予科一年の児玉正三は肋骨を骨折して、そのまま入院。外に重傷者二人。合計六十人の負傷者を出してしまった。
 神保町交差点の揉み合いの頃から、騒ぎを知って駆け付けた数千の群衆や附近の学校、商店、旅館の人々は、乱暴な警官に「ヤメロ」と叫んでくれたり、「学生さん、頑張って」と盛んに声援してくれた。この日の警官の数は昨五日とは打って変わって、急増し、錦町署、西神田署、麹町署、万世橋署などから、アゴ紐をかけた二百人以上が動員され、警視庁からも高橋監察官以下多数の係官が急行して、厳戒体制をとる、という稀な事態の中での乱闘であった。警官隊百人が校舎を包囲して、校外に繰り出していたデモ隊を遮断してしまったので、学生は校内へ戻れなくなった。そこで、本間喜一教授や常盤敏太教授などが街頭で錦町署長と交渉した結果、「学生はもう校外へは出ない」、「その代り、警官は包瞬を解く」ということになり、学生はやっとのことで校内へ戻り、籠城を続けることが出来た。乱闘の時に警官の帽子やサーベルをむしり取って来て「戦利品」だと誇らしげに見せびらかしていた学生もいたが、ほどなく、戦利品は警察署へ返却された。また乱闘が鎮まり、学生がキャンパス内へおさまった後も、警官たちはなお塀の外で見張りを続けていたが、錦町署の望月署長(学生はこの署長の顔がガンモドキに似ているというので、ガンモ、ガンモと、彼のことを呼んでいた)が、裏門の扉の外を単身でうろうろと警邏しているのを見付けた学生たちは、裏門の大きな扉をパッと開き、署長を裏門の中へ引きずり込んで、一発ポカリとやった。これを見て驚いた警官たちが、「スワ一大事」とばかり駆け寄って来たので、学生も大慌てで、署長を門の外へ突き出して、大きな扉をまたピシャリと閉め、構内で喚声を挙げる、という一幕もあった。
 この日の検束者は予科四十四人(うち簾月会二十六人)、専門部五十人、本科二十人、合計百十四人であった。錦町署では検束した学生が多人数のため、留置場に留置し切れず、柔道場・剣道場に収容したが、溢れ出んばかりにギュウギュウづめであった。本間喜一教授と常盤敏太教授が錦町署長に厳重に直談判し、ようやくのことで全員を貰い下げたが、学生は娑婆に出て、校内へ帰るまでの途中の店々に「商大生ご苦労さん」とか「今日は商大生に限り無料です」と書いた札が貼ってあるのには感激した。そして言われるままに、遠慮なくコーヒーをご馳走になり、学生たちは神田の人情の厚さに救われた思いであった。
 また、児玉正三(予科一年)が入院したのと混同したのか、ラジオ・新聞が「村松恒一郎教授も検束され、上田貞次郎、太田哲三、猪谷善一、中山伊知郎教授らは警官に殴打され、上田教授は頭部重傷入院」と報道したので、上田教授夫人と令息良二氏が如水会へ馳けつける騒ぎもあったが、それは誤報で、上田教授は幸にも軽傷で、ことなきをえた。しかし上田教授あてに世界中から見舞電報が来たため、上田教授は後で「無事だ」と世界中へ返電を打つのに相当な電報料金を払ったようである。
 なお、当日錦町署に留置され、なすこともなく徒然なるままに、留置場の中で長時間にわたって話をして、お互いに知り合いになったお陰で、卒業後、商売の上で、何かと力になりあったようであるが、次の話もそれとはちょっと趣が違うが、なかなか面白いので紹介しておこう。
 赤坂葵町の大倉高商(現東京経済大学)の戦災の焼跡に新築された日本鉱業の主・庭野正之助社長(当時予科二年)を、西隣の「ホテル・大倉」の主・後藤達雄社長(当時予科三年)がアメリカ人に紹介する時には、何時も誇らしげに、「われわれはもと同じjail(監獄)にいた仲間なんですよ」と、(勿論英語で)紹介するので、相手のアメリカ人は、「たしかjailと言ったが、後藤社長は何か英語の別の言葉と間違えて話をしているのではないだろうか」と、如何にも不思議そうな面持ちで、首をかしげるとのことである。
 さて、教授側についてであるが、こちらでは、この日午後一時と五時に、連合教授会を如水会館で開催。七十人近い教授が集まった。その席上、錦町署から「籠城を強制的に解散させ、構外へ退去させる措置を発動させる他ない」との内報を得た本科学生部長井浦仙太郎教授は、大変驚くと共に、職掌柄から君っても放置できぬので「教授会として、学生に籠城を解くように勧告したい」と提案した。これを聞いて教授会は大分もめた。しかし、上田貞次郎教授は、「自分は、もともと籠城をして、学生を危険にさらすことには反対ではあるが、教授会から、解散するようにと勧告をする決議文を突き付けたとしても、学生がこれを聞き入れる筈はない。学生がこれを拒否するとなれば、学生と教授団とは離反することになる。だから、籠城の解散問題を、一時、如水会に預けてはくれないだろうか」と逆提案をした。これに対して、常盤繁教授から、「学生はなかなか強硬なんですが、このような大問題を、先生が引受けられても良いですか」と上田教授に注意の声をかけた。しかし、上田教授は「絶対絶命で致し方が無いだろう」と答えた。このように多少の異議もあったが、教授会では上田案を採用した。
 その夜、深更、上田教授は若手教授を集めて、自分に協力して欲しい、と話したところ、集まっていた金子鷹之助、孫田秀春、大塚金之助、山口茂、杉村広蔵、村松恒一郎、米谷隆三、常盤敏太、猪谷善一などの若手教授が全員これに賛成した。その夜、上田教授は錦町の峡陽館に投宿したが、重大な籠城解散問願を一身に引受けた大責任を痛感して、一睡もできなかった、と漏らしている。
 なお、如水会では午後四時、藤村義苗理事長、窪田四郎・上田貞次郎両常務理事が如水会の決議文を携えて文部省を訪れ、田中文相に決議文を手交した。また三人は政友会本部民政党本部を歴訪したが、この日も井上蔵相には会見を謝絶され、会えぬまま如水会館へ帰って来た。一方、学生側では、一応校舎内へは戻ったものの、午後の警官との大衝突の興奮とショックがまだ冷めやらぬまま夕食をとった。
 丁度その頃、「警察から強制的に籠城を解散ざせるという命令が来たらしい」との情報が構内を飛び交い、警官が構内に乱入して来た場合に、どのように戦うか、という話が交錯して、学生たちの緊張は極度に高まり、悲槍感は頂点に達した。まさかとは思ったが、構内を飛び交った情報はやはり確かなるものであった。
 午後八時過ぎ、本科学生部長井浦仙太郎教授が統制部の部屋を訪れ、静かな口調で、「今、警察当局から連絡があったけだが」と前置きをして、「籠城を自発的に解散して貰いたい」と言った。
 これに対して統制部の委員たちは、「とんでもない。我々は目的を完遂するまでは籠城を解くことは絶対出来ませんよ」と答えた。
 そこで井浦教授はやや語気を強めて、「自発的に解散しないのなら仕方がない。大学当局が籠城の解散を命令します」と言った。
 統制委員はすかさずこれをつっぱねるように、「大学当局の命令でも、籠城の解散は出来ません」と言い切った。
 井浦教授はやおら、「寵城をこのまま続けるならば、警察当局は強制解散措置を発動するといっているんだが!」と言い返した。
 これに対し統制委員は少しも動ずることなく、断言した。我々は一糸乱れぬ統制の下に寵城をしているんです。表門、裏門、その他の要所要所には、屈強な自警団が頑張って固めているんです。もし警察当局が実力行使をするならば、この暗闇の中で大乱闘になり、双方に数十人の死者が出るかも知れません。警察当局にそのように伝えて下さい。そして、そのようになった場合の一切の責任は、警繁側にある、と。このように警察当局に伝えて下さるようお願いします」と。
 井浦学生部長は取り付く島もなく、帰って行った。
 それから暫くたった頃、警察当局から通告が来た。「籠城を強制的に解散させる措置はとらない。その代りに、真夜中に校歌や応援歌を斉唱するのは止めるように、静粛にせよ」というものであった。
 学生たちの緊張は一変にとけ、警察からぼつぼつ釈放されて帰って来た学友たちも一緒になって、暗闇の各部屋の中で、連絡部からの警察権力介入解除のニュースをめぐって、ボソボソ、ボソボソと、ロコミを始めた。一ツ橋は宮城と隣り合せだから、周囲が静かになった真夜中に、昨日も、今日も、大声で皆が、「長煙遠く」なんかを唱うもんだから、それが宮城の中まで聞こえるんだってさ。天皇陛下が、「あの夜中の大声は何だ」とでも言おうものなら、大変だってさ。警視総監だってとがめ立てられる、
 ましてや、あの錦町のガンモなんか、即刻首だ。あの野郎、おれたちを静かにさせようと思って、えらく気を使ってやがるんだな」と。
 こうして、十月六日はとっぷりと暮れたが、午後の大乱闘事件は、ラジオや写真入りの新聞などで、大々的に全国に報道されて、学生側に対する同情的世論を盛り上げた。そしてこれを契機に、有力な諸先輩が、政界財界の要路者たちの間をあわただしく駆け回って、事態解決のために本腰を入れ始めた。
 また、既にこれまで触れて来たように、交渉委員たちは手分けをして内閣の要人たちに陳情し続けて来たのであったが、この日の午後も、宮坂義一(本科一年評議員、翌昭和七年度の一橋会総務理事)を班長とする四人の交渉委員は、内閣の重鎮・安達謙蔵内務大臣を官邸に訪問した。一室に通され、待つことしばし。やがて現れた内相に、宮坂義一が深々と頭を下げて、用件を述べた後、「どうか予科と専門部を取り潰さないで下さい。お願いいたします」と懇請した。安達内相は宮坂義一の陳情を「ウン、ウン」とうなずきながら聞いていたが、やがて、温顔をほころばせ、熊本弁なまりの穏やかな口調で、「よく分った。心配せんでいいよ。善処するから」と言ってくれた。相手が内閣の大物だけに、その言葉には千金の重さを感じた。解決の曙光をほの見る思いで胸一杯になった
 宮坂たちは、廊下に出るや否や、身を震わせながら、小おどりして喜びあった。タクシーを拾い、大急ぎで校内へ戻り、その旨を統制部に報告した。
 安達内相の言葉は嘘ではなかった。早くも、その日、六日の夜半、東京日日新聞社の佐倉潤吾記者は事態好転の兆を耳にした。それは「安達謙蔵内相の進言によって、さしもの頑固者の井上蔵相も折れて、この問題は今回の緊縮政策から省く模様である」とのニュースであった。佐倉潤吾記者は思い切って書きおろした。そしてそれは、十月七日の東京日日新聞の「北海道帝国大学と東京商科大学との予科・専門部の廃止につき、政府は今回の行政整理では行わぬことに決定した模様である」という報道となった。しかし油断は禁物。「決定した模様」であって「決定した」のではない。後、ひと押し。最後のひと押しが始まった。しかし、それは疑心暗鬼の連続となった。


back /next
目次へ