|
十月七日(水・籠城三日目)
-----長期戦のかまえ----
早朝、上田貞次郎教授は統制委員長相京光雄に「自分は問題が有利に展開するとの見通しがついたと確信した。自主的に籠城を解散することにしてはどうだろう」と申し入れ、さらに、「万一、ここで籠城を解散した上で、問題が解決しなかった場合には、自分は一切の公職を辞して、隠遁する覚悟である」と断言した。
しかし、そんなことで籠城を解くような学生ではなかった。籠城は長期化するとの見通しをたてた統制部では、この日午前十時、第七回学生大会を開催。「籠城長期化に備えて、学生は交替で帰宅せよ。また衛生のため、室内外の大掃除を行え」との指令を出した。
学生は指令に従って、交替で次々と帰宅し、入浴仮睡の後、小ざっぱりとして、午後三時頃から三三五五帰校し、再び立て籠ったったが、人数は朝よりは大分増加した模様であった。
午後五時、全学生の帰還を待って、第八回学生大会をローソクの灯の下で開催、さらに一層の団結を誓い合った。点呼をしたところ、籠城学生数は新たに四百二人を加えて、二千人を越えていた。昨六日の乱闘騒ぎにこりて、もう帰って来ない者も出るのではあるまいか、と案ずる向もあったが、全員が続々と戻って来ただけでなく、籠城の日に、うちで勉強していてつい参加出来なかった少数の本科生や、山へ行っていた連中とか、運動部員で遠方で合宿をしていて留守にしていた者たちが、ラジオ・新聞のニュースに驚いて、遅ればせながら、駆けこんで来たのであった。病気などで休んでいる特殊な者を除いて、ほとんど全学生が籠城に馳せ参じたわけである。
この日、神田界隈の飲食店・喫茶店では、既に籠城学生と警官隊との大衝突の現場を目で見、さらにラジオや新聞で見聞きして、学生にすっかり同情し、例えば、一杯十銭のコーヒーを五銭にするというように、飲食料金を五割引きにする店がほとんどであった。構外へ出た学生たちは、明治十八年九月以来四十四年の長きにわたって、学校の隣組だった神田の人々の強いヒイキと、厚い人情とに感激した。また登校途中の女学生が、わざわざ校門の自警団のところへ立ち寄って、巴焼、ゆで卵、バナナ、煙草などを差入れ、恥ずかしそうに逃げ去る光景も見られた。
一方、教授会側では、堀潮、村松恒一郎、村瀬玄の三教授が、午後一時より警視庁に高橋警視総監を訪問し、昨六日の警官暴行事件の目撃者として、警官が暴行をした現場の情況を陳述した上で、厳重抗議を申出たところ、警視総監がしきりに反論をし始めた。そこで、双方の間に、長時間にわたり激論が戦わされた。結局のところ、事件の処置については、司法当局の判断に任せるより他に道はない、との結論に達したが、最後に、教授側から、「今後の取締りは出来るだけ緩和され度い」と厳重申入れをして引上げた。
また教授会を午後七時より開催。さらに二日間の臨時休講を決定した。
他方、如水会側では、七日早朝藤村義苗理事長、窪田四郎・上田貞次郎両常務理事が井上準之助大蔵大臣を私邸に訪問したが、会見は出来なかった。午前十時、右の三人は日本商工会議所の会頭郷誠之助男爵と会見し、陳情書を提出したが、それから一時間後の午前十一時から開催された東東商工会議所役員会において、約一時間にわたる脇議の結果、予科・専門部廃止案の撤回のため、郷男爵が努力することに決定した。
次いで、午後四時半、第一回如水会実行委員会(出席者四十五人)が開催され、実行委員長に推された藤村義苗理事長より、六日の夜行で関西へ派遣された菅礼之助評議員、杉村広蔵・河合淳太郎両教授や、学生代表の長谷川徳次、池上繁などから説明をうけた大阪・神戸両支部の(電話による)反応の報告がなされ、また、昨六日、上田教授その他と手分けをして決定した文相、政友民政両党幹事長などとの会見についての(但し井上蔵相とは会見の機を逸した)報告がなされた後、予科・専門部廃止絶対反対の決議を行った。その後常務理事は、実行委員の事務分担と、今後の運動につき協議した。
また『如水会青年同志会』の松本正雄・河野健治両氏は、昨六日の警官暴行につき、錦町警察署長と面談し、「純真な学生運動を弾圧するのは、警察の取締りの権限を越えることだ。どうしてあんな弾圧をやったのか」と厳重抗議を行った。さらに、両氏は警視総監にも「学生の純情一途でやるデモを弾圧し、負傷させるとは何事だ」と強硬な抗議を行った。幸にも河野健治氏は朝日新聞社の内務省詰めの記者だった関係で、安達内相や警視総監と懇意だったので、この抗議談判は効果的なものとなった。
ところで、この日早朝、上田貞次郎教授は井上蔵相と私邸で会見が出来ぬまま退去した後、午前十時の日本商工会議所会頭郷男爵との会見までの間に、大蔵省を訪れ、前田房之助参与官を訪問し、大蔵省の内意を探った。ここで上田教授は「大蔵省としては、予科存続、専門部廃止で決着を付ける」意向であることを知ったので、大蔵大臣からさらに確実な言質を得ようとして、井上蔵相との会見を要望した。しかし、井上蔵相は会見を避けたので、目的を達することが出来ぬまま引上げた。
他方、警察関係では、十月七日は、先輩や教授その他の警察当局に対する厳重抗議が効を奏したもののようであり、警官の監視が解かれ、内外ともに一見平穏であるかのように見うけられた。しかし、統制部は、上田教授が遂に井上蔵相と会見を果たしえぬまま帰って来たことを重視し、「今や、政府は予科・専門部をあくまでも廃止せんとしており、最悪の事態に立ち至った」と痛感し、夜の更けるにつれて、いよいよ暗漕たる空気に包まれ、連日の睡眠不足と疲労困憊の重なる中で、明日からの闘争方針の確立に渾身の力をふりしぼっていた。
しかも、深更、相京光雄統制委員長は如水会館に打いて、窪田四郎常務理事、上田貞次郎教授と鼎談し、この上校外デモを敢行すれば、それこそ大変なことになるので何としてでも、学生の猪突猛進グループを抑えなければならぬ、という結論に達し、相京委員長は、「死を決してやります」と言い放って別れて来たばかりであった。
back /next
目次へ
|
|
|
|