三、結び

 東京商科大学は激しい闘争の後、勝利を確信することが出来たので、籠城を解き、さらに目出度く解団式を挙げることが出来た。台風一過とでもいおうか、昨日の苦夢はどこへやら。小春日和の続く国立や石神井では、紺碧の空を仰ぎ見ては、そろそろ学期末試験や卒業論文の準備に取りかかろうとしていた。それは静かな晩秋であった。
 しかし、学園の外では、国の内外をとわず、いずれにおいても、暗雲は低迷し、険悪の度は日と共に増すばかりであった。
 十月八日(籠城解散の日〕、日本外務省が、「張学良の暫定的な本拠たる錦州は攻撃しない」と発表した矢先に、関東軍の飛行隊が錦州を爆撃したので、日本は英米仏伊西五カ国から次々と厳重抗議の申し入れをうけた(十月十日〜十二日)。
 十月十一日、上海の日本人居留民が大会を開催したが、その解散後、六千人の日本人と中国民衆とが衝突し、大乱闘となった。
 十月十二.日、中国国民政府主席蒋介石は、国際法を守らぬ日本軍の満州進出を強く非難する演説を行った。若槻首相は、九日に陸軍三長官(南陸相、金谷参謀総長、武藤教育総監)会議で決定した時局処理方策を手交されたので、国論統一のため、山本権兵衛・清浦奎吾を歴訪。
 十月十三日、若槻首相は、閣議において、国際連盟、アメリカ、その他第三者からの干渉を拒否する、と言明。
 十月十四日(兼松講堂で解団式挙行の日)、山海関では日中間に武力衝突があり、日本の外務省と陸軍は共同声明で、張学良に警告を発した
 十月十五日、日本軍が黒龍江省に進出しはじめたので、黒龍江省主席代理馬占山はこれを防衛するため嫩江の鉄橋を爆破した。これによって、日本軍は「不逞の徒・匪賊を討伐のため出兵」と称し、北満州へ進出する口実を手に入れた(関東軍は、十月三十日、嫩江派兵を決定)。
 十月十六日、雲南の日本領事館引揚げ。
 十月十七日、日本国内で政財界を震憾させた「十月事件・錦旗革命事件」が発覚。これは参謀本部の橋本欣五郎中佐、根本博中佐、長勇少佐ら「桜会」の陸軍少壮将校たちが、大川周明らと共謀し、若槻首相はじめ全閣僚を殺害し、荒木貞雄中将を首班とする軍部内閣を樹立しようとするクーデター計画であった。橋本ら十二人は憲兵隊によって保護検束されたが、その後、何のおとがめも無しで、放免された。これによって、いよいよ本格的な軍部ファシズムの跳梁跋扈時代が始まった。
 十月十八日、上海で中国民衆の排日運動が暴動化したので、日本陸戦隊が上陸した。
 十月十九日、上海に、「対日経済絶交実施委員会」が成立した。
 十月二十三日、南陸相は時局に鑑み、閣議で、公債増発論を主張。
 十月二十四日、国際連盟理事会は、期限(十一月十六日)付き満州撤兵勧告案を13対1で可決した(しかし芳沢日本代表がこれを拒否したので、勧告案は不成立となった。
 十月二十五日、全国労農大衆党は、本所公会堂で、対華出兵反対闘争演説会を開催。
 十月二十七日、奉天特務機関長土肥原賢二は、関東軍の命により、清朝廃帝薄儀を連れ出すため、奉天を出発し天津に向かった。
 十月三十日、南泉の中国官憲の対日態度硬化のため、南京の残留日本人は全員引揚げと決定。
 このように、昭和六年の十月は、日中関係や国際連盟・英米諸国との関係が最悪の状態へと突入した時であり、これを契機として、日本は、日中全面戦争、太平洋戦争へと、急勾配の坂道を一目散に転落しはじめたのであった。
 やがて日本は太平洋戦争に惨敗し、昭和二十年八月十五日、連合軍に無条件で降伏し、全国土を占領制圧された。それは籠城事件の昭和六年秋から数えて十四年後のことであった。
 この時期のうち、太平洋戦争に突入する準備を急ぎはじめた頃から敗戦までの五年間は、日本の官憲軍部によって強権暴圧政策が強行された時期であり、さらに「欲しがりません勝つまでは!」の庶民の合言葉がそれをよく物語ってくれているように、一般国民の意識もまた、最初は徐々に、そしてやがて急速に、軍国主義化して行った時期でもあった。従って、この間に、日本のあらゆる部面で断層的な激変が生まれた。
 このような時局下にあって、一橋学園だけが変化なしということはあり得ぬことであった。.
 学園内に発生した激変は、先ず昭和十六年二月十一日の「社団法人一橋会」の解散であった。驚くべきことには、それは、紀元節の式典終了後に、兼松講堂で開催された一橋会総会において、「社団法人一橋会解散の件」が満場一致で可決されて、解散となったのであった。そもそも『一橋会』は、明治二十二年四月十九日に発足した「学友会」にその起源を発するものであるが、その「学友会」は運動会、英語会その他が、部会ごとに、ばらばらに不統一のまま運営されていたため、発足当初から幾度となく改革が提唱されていたにもかかわらず、十三年間にわたり、その改革が遷延されて来たものであった。
 しかし明治三十五年十一月一日、遂に「一橋会」の名称の下に、研究、編集、英語、端艇、庭球、撃剣、柔道、弓術の新設諸部を統轄する学生の自治活動団体として新たに生まれたのであった。そしてこの「一橋会」は、その後、大正十五年二月十三日の一橋会総会において、茂木啓三郎(本科三年)、北条秀一(予科三年)らの努力によって、その組織が社団法人に改組された。それは、各クラス内に根を置く評議員会と、全学の興望を担った理事会と、最高決議機関たる学生大会と、によって構成され、運動部、文化部、その他一切の学生組織を網羅的に掌握する全学的な自治組織なのであった。全学生は、すべて、学習以外の学園生活の一切を切り回すこの「一橋会」の活動に参加することによって、何時の間にやら、集団を統制・指揮・指導・運営する能力を養成させられたばかりでなく、いったん事ある際には、直ちにそれに対処し、問題解決の難易度を予測判断する能力や、時を移さず戦闘体制を組み立てる手法までもを身につけることが出来た。だから、昭和六年の籠城事件は、一橋会の会員たる全学生にとっては、常日頃の実践的な自治活動によって練磨・蓄積・温存して来た集団の威力を、ここぞとばかりに、遺憾なく爆発させることの出来た痛快極まりない実験の場に他ならなかった。こうして学友会の創設にまでさかのぼれば「一橋会」解散までの歴史は五十二年にのぼるのであるが、長きにわたるその自治活動は、この間に、多くの人材をはぐくみ育て、さらに申酉事件・寵城事件を見事に乗り越えたという輝かしい軌跡を残して来たものである。にもかかわらず、余りにもあっけなく解体されてしまった。まことに残念至極と言わざるを得ない。しかも、その後、その名も「一橋報国隊」と改変させられ、大政翼賛会的な団体に化したということは痛恨の至りであり、時を恨むより他はないのであろうか。
 次の激変は、昭和十六年十月十六日、臨戦態勢整備強化のため、本科・予科・専門部の修業年限が六カ月短期となり、十二月の卒業生は直ちに徴兵検査を受け、国防要員として充当され(学徒出陣)、翌昭和十七年からの卒業は九月に繰り上げられたのであった。
 さらに、同年十二月八日の対英米開戦の翌日の十二月九日には、国家総動員法の発動によって、すでに結成されていた「一橋報国隊」は「国民勤労報国協力隊」となり、
 学生は授業を放棄して、軍事工場の増産と農村食糧増産とを目あてとする勤労奉仕に動員されることとなった。
 そればかりではない。昭和十九年二月十七日には予科校舎が、同年三月十四日には専門部校舎が、それぞれ陸軍に貸与を命ぜられた。また同年九月二十六日には、商業を軽蔑嫌悪する官僚と軍部の面面は「商」の字を槍玉にあげ、東京商科大学の「商」の字を削除撤去し、校名を東京産業大学と改称するという血迷った茶番劇さえもを演じた.そして同年十二月一日には、兼松講堂と本科校舎の一部とを中島飛行機株式会社へ貸与せよと命じて来た。これで学園は遂に兵器製作工場になった。今やアメリカ空軍の空襲の標的になったのであるから、図書館の貴重な文献の疎開準備が進められ、
 昭和二十年三月十日、二五〇箱の文献が長野県伊那郡教育会図毒館へ発送された(この夜東京都は大空襲をうけた)。
 このように、一橋学園は、国家非常の時局下で、軍部`官僚・憲兵の暴圧にさらされ、手痛く踏みにじられたのではあったが、流石は、自由と自治の長い伝統を誇る学園一橋。こうした苦難と苦渋の中にありながらも、柳に風折れなしの譬えそのままに、教授学生職員は物静かを抵抗に徹し、ねばり強く隠忍自重して、東京商科大学の伝統たる『本科・予科・専門部及び商業教員養成所の三位一体』の学制の温存確保に心を碎いてくれたのであった。
 その甲斐あって、温存確保された三位一体の学園は、終戦後、その偉容に大きく物を言わせることが出来た。昭和二十四年五月三十日公布された国立学校設置法に基づき、同年六月一日から全国的にいっせいに実施された学制改革を機に、多くの他大学に見られたような寄せ集めによる大学設置とは違って三位一体の東京商科大学は、細胞分裂にも似た分立化で生まれた商学部、経済学部、法律社会学部(昭和二十六年三月、法学部と社会学部に分かれた)の四学部を一括統合する社会科学の総合大学を一挙に建設することが出来たのであった。そして、新しい大学の名称は全学生の投票によって「一橋大学」と決定された。
 以上、我々は明治八年九月の学園の創設から社会科学の総合大学となった「一橋大学」までの推移のあらましを通観して来たのであるが、この間にあって、明治四十一、四十二年の申酉事件と、昭和六年秋の籠城事件とは、今日の一橋大学の偉容を生みだした母体そのものを何としてでも保守温存しようとして、強大な国家権力を向うに回して堂々と戦い抜き、見事に成功勝利を路さめ得た事件であった。それはまぎれもなく、学園の自由と自治を守りおおせた一大抵抗運動の圧巻的絵巻物であり、末長く伝承されてしかるべきものであると確信するものである。


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