一、申酉事件までの三十三年のあゆみ

1学園の生誕・商法講習所

 一橋学園のはじまりは、のち(明治十八年〕に初代文部大臣になった森有礼が明治八年に開設した私塾・商法講習所である。 元薩摩藩士森有礼は、明治五年、駐米弁務公使(いまの駐米大使に当る)として、南北戦争後のアメリカ資本主義経済社会の目覚ましい発展と商業教育の実情とをまのあたりにし、日本を一日も早く先進資本主義諸国のような経済杜会にしなければならぬと考え、そのためには、日本にも商業学校をつくり、商業や企業経営に必要な簿記(帳合之法)を学修した人材を養成しなければならぬと決心した。そこで、森有礼は、元仙台藩士で米国に留学してニュー・ヨーク副領事になっていた富田鉄之助(勝海舟の門弟、後の日銀総裁、東京府知事)とはかり、ニュー・ヨークの商業学校長で簿記学者のウイリアム, ホイットニーを日本へ招聘することとなった。これが事の始まりである。 森有礼は一足先に帰国し、日本政府にホイットニーの雇い入れを建言したが、容れられず、かれこれするうちに、ホイットニーは家財道具その他一切を売却処分した上で、妻子を連れて来航した。しかし、ホイットニーが横浜へ上陸する日を目前にした時でも、商業学校の設立はまだあやぶまれる状態であった。 商業には学間は不必要だ、という考え方が風靡していた世の中だったから、森有礼の目ざす商業学校の設立は文字通りの難産であった。この窮状を救ってくれたのは、富田鉄之助、渋沢栄一、福沢諭吉、勝海舟、大鳥圭介、大倉喜八郎、福地源一郎、大久保一翁、箕作秋坪たちであった。これらの多くの人女の物心両面からの援助と激励をうけて、森有礼は、銀座尾張町二丁目の鯛みそ屋の二階(それは現在の松坂屋の地である。昭和五十年、一橋大学が創立百周年を迎えた際、ここに増田四郎学長撰、中山伊知郎元学長書によって、記念碑が建てられた)を借用し、これを仮校舎として、森有礼の私塾商法講習所を開校することが出来たのであった。それは明治八年(一八七五年〕九月二十四日のごとである。商法講習所の初年度の生徒数は米国商館の子弟を含めても僅かに二十六人であった上に、英語でおし進める高級な学習に付いて行くのが大変だったためでもあろうか、中途退学者が多く出たので、第一回の卒業生は成瀬隆蔵、森島修太郎の二人に過ぎなかった。 官尊民卑の差別意識の激しい時代であったから、徳川幕府直轄の蕃書調所-洋書調所開成所の流れを直接引き継いだ官立の東京大学が大事な嫡男だとすれば、私塾の商法講習所などは、さしずめ「まま子」か「てて無し子」のような存在に過ぎなかった。しかしながら、時代を先取りする先覚的な産着に包まれた赤ん坊の「商法講習所」は、生誕の当初から、りりしく、元気溌剌としていた。 ところが、商法講習所が開設されてから僅かニカ月後の明治八年十一月、森有礼は駐清国全権公使を拝命し、北京へ赴任した。管理人がいなくなったので、学校は当然消滅する運命にあった。しかし、渋沢栄一(東京会議所会頭)や益田孝(三井物産の創設者)らの尽力によって、束京会議所が管理を引き受けてくれたので、やっと生き延びることが出来た。
 翌明治九年五月、京橋区木挽町の校舎が落成したので、尾張町の仮校舎から移転し、元幕臣で、森有礼のもとで駐米参事官を務めていた矢野二郎が校長に就任し、東京会議所にかわって東京府がその管理を引き受けることになった。これで商法講習所の基礎が定まり、特にその管理が東京府に移ったので、やれやれ、もうこれで大丈夫だ、と思われたが、どっこい、そうは行かなかった。 実は、この明治九年に、東京府にはじめて東京府会が出来た。当時の東京府の財政は極めて貧しかったので、府会議員たちは貧しい東京府財政の審議過程で「東京府は外国貿易には全く無関係な一地方に過ぎない。それなのに、東京府が管理している商法講習所は、外国貿易実務や簿記を、すべて英語で学習している。そのような高級な学校は東京府にとっては文字通り無用の長物であるから、管理運営費を出すべきではない」と強く主張し続けた。東京府会では毎年のようにこのような議論が繰り返されていたが、明治十四年の東京府会は、票決の結果、一票(一七対一八)の差で遂に商法講習所の管理運営費の全額削除を決定し、東京府知事名をもって、明治十四年七月二十九日付で、東京府立商法講習所の廃校を公表した。 しかし、今度もまた、渋沢栄一が救いの神となって、八方手を尽くして奔走してくれた。渋沢栄一は農商務卿河野敏鎌に強く働きかけ、農商務省(現在の農林水産省と通商産業省)から暫定的に補助金を貰うことが出来るようにしてくれた。そしてその他に、矢野二郎校長の私財の投入や、一般からの寄付金などをたよりに、露命をつなぐこと実に三年。この間に、渋沢栄一たちの尽力がようやく実って、明治十七年三月二十五日・商法講習所は正武に農商務省の管理下に移され、官立(現在の国立)の学校となった。ただし、この日をもって、校名が東京商業学校と改称されたので、商法講習所といい校名は歴史の表面からその姿を没してしまった。


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