4「一橋商科大学実現論」に発展


 日露戦争で中断されていた「商業大学必要論」は、戦争後、日本の飛躍的な発展をふまえて、「商科大学を早期に実現せよ」という現実性をおびたものに変わり、これが政治問題にまで発展した。明治四十年二月二十三日、代議士根本正は帝国議会に「商科大学設置に関する建議案」を提出したが、これは衆議院を通過し、ついで三月二十六日、貴族院でも可決された。
 そこで、貴族院では、商科大学を実現させる方法の研究をはじめ、ようやく結論をえたので、明治四十年七月、各派の交渉委員代表が文相に会い、その意見を述べた。
 ところが、この時既に、帝国大学法科大学の政治科を改造して商科大学にすれば、それで良いではないか、という意見が出たという風評が流れた。
 「これは一大事。捨てては置けない」と、本校同窓会は、七月十五日、図師民嘉、成瀬隆蔵、村瀬春雄、八十島親徳、宮川久次郎の五人を「大学問題実行委員」に選んだ。この五人は、九月二十六日、文相牧野伸顕に会い、二時間にわたって「現在のわが東京高等商業学校を改造して商科大学にするのが最も適切な方法である」と申し入れた。
 次いで、牧野文相が松崎校長の意見を聞いて来た。校長は、既に学内で討議を重ね、以下のような結論に達していたので、その結論通りに、「本校の現在の組織を改造し、三年の予科、三年の本科、を合せた六年制大学と、高商と同一程度のもの(筆者は以下で専門部と呼ぶ)と、から成る三位一体の商科大学を作るべきである」と答申した。
 文部省は一橋からの答申を見て、「制度的には賛成であるが、予科、本科、専門部という名称は帝大との関係で、どうもなじめない」と言った。両者の話がなかなかまとまらぬうちに、日がどんどんと経って行ったが、この間に、「帝大内に商科大学を置くべきだ」という意見が公然と飛び出して来た。


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