四、辛酉事件の余波と如水会の創設

 これで一橋においては、ようやく落ち着いて研究と学習とに励むことが出来るようになった。.
 しかし、明治四十五年七月一,一十日、突然、天皇病篤しとの官報発表があったので、この報に、驚いた東京株式取引所は恐慌相場を演じ、全国的に不安な空気の流れる中で、僅か十日後の七月三十日、天皇は六十一歳をもって崩御され、即日大正時代に入った。
 こうして、明治から大正へとあわただしく時の移ろう中で、政治の世界においては、明治四十四年八月三十日、第二次西園寺公望内閣が、第二次桂太郎内閣の後をうけて成立した。しかし、上原勇作陸軍大臣に代表される陸軍と西園寺首相との間の、二個師団増設問題をめぐる意見の対立で、大正元年十二月五日、総辞職。その後をうけて成立した第三次桂太郎内閣も、憲政擁護運動側からの強い弾劾のあおりをうけて、僅か四十日で倒れ、大正二年二月二十日、第一次山本権兵衛内閣が成立した。
 このように、内閣が次々と変わり、それに伴って、文部大臣も次々と交替したが、文部省の我が一橋学園に対する考え方そのものには、悪い意味で、少しも変わりがなかった。その事をまざまざと証明する事件が発生した。
 その事件というのは、大正二年十一片十九日、山本権兵衛内閣の奥田義人文部大臣から本校商議員の渋沢栄勇爵に対して、商業大学問題について一考してほしい、との懇請があったことである。その内容は、申酉事件の際の文部省案(専攻部廃止案)の改訂版であった。つまり、東京帝大法科大学の経済学科と商学科と改造して経済学部と商学部にした上で、一橋の専攻部をこれに吸収合併しようとする案であった。
 文部省としては、大学と名の付くものは、商業大学であろうと、商科大学であろうと、全てこれらを帝大の中にかかえ込み、統一したいというのであり、申酉事件当時と何ら変わらぬ考え方を、依然として、持ち続けていることを示して来たわけである。
 渋沢栄一男爵は、直ちに、実業家側の本校商議員の会合をもち、次いで、十一月二十一日、臨時商議員会を開催して、商業大学問題を審議した。また理事会と各クラス委員会も、十一月二十五日から十二月十日までの間に、前後七回にわたり連日のように集まり、商業大学問題を協議検討した。
 その結果、一橋側では、教授・学生・卒業生が打って一丸となって、申酉事件の際に既に明らかにしておいた通りの本校側の主張を示し、文部省から提示された案に対しては全く妥協の余地がない旨を答申した。そこで、文部省としても、やむを得ぬものと遂に諦め、この原案を全面的に撤回した。
 先ず、こうして原案が全面的に撤回されたとはいいながら、文部当局の変わらぬ固い意思がなへんにあるかが良く分った以上、一橋側では、何時また同様の暴案が姿や形を変えて呈示されるやも計り難いとの懸念をいだき、早急に学園の防衛策をねる必要があると痛感させられるようになった。
 たまたま、これに先立って、大正時代に入った初頭の頃から、一橋学園の卒業生の相互の親睦を主目的とする同窓会を創設しようではないか、という話が持ち上がっていた。しかし、一橋学園はどうもまだ安泰とはいえず、お互いの親睦を考えるどころではない、との思いが高ぶって来た。またしても呈示された文部当局の暴案を前にして、一騒ぎを演じた中で、成瀬隆蔵(商法講習所第一回卒業生)らは「あくまでも母校を守り抜くための強力な同窓会を大至急結成する必要がある」と強く主張しはじめた。そのため、同窓会創設の準備は急速に進み、しかも母校の防衛という他学園の同窓会には見られぬ基本理念を盛り込んだ特異な同窓会が、大正三年十一月、急に創設されることとなった。そしてその名称は、論語実業家との尊称をもって広く知られていた一橋学園最大の恩人渋沢栄一男爵によって、「如水会」と命名された。それは礼記の「君子の交わりは淡きこと水の如し」からとったものであった。
 一般に、如何なる学園にも同窓会があり、そのいずれにおいても、会員相互の親睦を主たる目的としている。如水会にあっても、恐らくは他学園のそれと同じ趣旨で設立されるはずのものであったであろう。しかし如水会は、今まで縷々述べて来たように、母校が怒濤逆巻く申酉の第一波と、それに続く右のような余波と、によって手厳しく痛めつけられるという、他校には見られぬ、特異な歴史的経緯の中で生まれた同窓会であるために、計らずも、その目的の第一は、定款第四条に明記されているように「母校の目的およびその使命の達成に協力することであり、それによって、日本経済と社会文化の発展に寄与しようとするものである」となっており、第二の目的として「あわせて、会員相互の親睦と知識の増進を図ること」が付け加えられているのである。繰り返して言うことになるが、如水会は、文部当局により執勘に繰り広げられた、度重なる一橋学園解体弱化の工作に触発されて急遽創設された母校防衛の団体であり、それ自身が母校の本丸を守るための堀であり、石垣であり、砦であるということを自任するけなげな同窓会なのである。
 従って、如水会は、その創設以来、母校が官立(国立)の大学であるにもかかわらず、国家予算の枠とは別口に、常に物心両面から惜しみなく積極的な協力と援助とを行って来たものであり、恐らくは今後共、この基本的な理念は保持され続けて行くことであろう。
 如水会の糧校への協力援助貢献につき例示するならば、
 @国立の本校キャンパス内に建立した「兼松講堂」の寄付の斡旋(昭和二年十一月)、および如水会館北隣の、一橋講堂Lの建設寄付の斡旋(昭和七年五月)
 A「東亜経済研究所」(経済研究所の前身)の開設(昭和十五年四月)
 B公益法人「東京商科大学奨学財団」の設立(昭和十七年六月)ノ
 C財団法人」橋学園ファンドLの設立(昭和二十五年一月)
 D毎校教官の海外派遣・研究助成・国際交流などを後援する財団法人「一橋大学後援会」の設立(昭和三十一年十二月)
 E国立の本校キャンパス内の「磯野記念館」の建設寄付の斡旋(昭和三十八年十一月)
 F図書購入.校内環境整備などを中心とする一橋大学百年記念事業十三億円募金の達成と、これの母校への寄付(昭和五十一年〜五十六年)
 G「一橋大学海外派遣留学制度」と「如水会外国人留学生奨学金制度」の設立(昭和六十二年)等々であるが、その他にも、大小様々の強力な援助協力貢献が実行されており、枚挙に邊がない。
 しかしながら、以上のような種々様々な協力援助にもまして、昭和六年秋の籠城事件は、如水会が、申酉事件の教訓を生かそうとして糧校防衛のために創設されたその主目的を遺憾なく発揮し、日頃蓄積されていた実力によって、毎校の危機を物の見事に突破救済した好個の事件であった。われわれは、これに続く「籠城事件」の中で、その間の消息を十二分にうかがい知ることが出来るであろう。


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