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アダム・スミスと申酉事件
− 武井大助先輩のこと −
昭和32年社 中路 信
古典派経済学者アダム・スミスの名は、如水会員なら知らぬ者は一人もいないと思
う。この欄でも、会員がアダム・スミスの墓を詣でた話が何度か出ていたように思
う。しかし、日本人で初めてアダム・スミスの足跡を辿り、お墓からその生地まで訪
ねたのは誰かとなれば、戦後卒の会員で知っている人は殆どいないのではなかろう
か。
この二月、昨年の母校百二十五周年記念祝賀会でお元気に乾杯の音頭をとられた板
垣與一先生から、私が親しくこの話をお聞きしたので、若い会員に是非お伝えして置
きたいと思う。
この日本人とは、会館14階の記念室に掲額されている「申酉事件」の時の「悲風惨
憺天日曇る・・・」で始まるあの『校を去るの辭』の檄文を起草された《武井大助》
大先輩である。
申酉事件(明治41−42年)は、母校先輩方の熱意溢れる「商業大学」への昇格運動
に対して、官立大学は「帝国大学」さえあれば良いとし、昇格への“芽”であった東
京高等商業の「専攻部」を強引に廃止しようとした当時の文部官僚の政策に、千五百
人の全学生が《総退学》によって抗議をした事件である。
総退学は、諸先輩や、如水会の命名者である渋沢栄一氏等の真摯に国家を考える後
援者の、専攻部存続・大学昇格運動の確約を条件とする“隠忍自重せよ”との再三再
四の説得により、旬日を経て、学生の多数決で復学に決定し、撤回された。しかし、
当時、本科三年生の「武井大助」さんは、節を守って、専攻部に進まず「海軍」に進
路を変更した。
(この時、一年下の同志《緒方竹虎》さんは退学し、中野正剛の勧めで早稲田に転学
したが、お二人の高潔な交際は終生続いた。)
当時は日露戦争後の日英同盟華やかなりし頃で、海軍に進んだ武井さんは、明治四
十四年、遣英艦隊の軍艦《鞍馬》で渡英し、数日の賜暇をとり、スミスが学んだオク
スフォードのバリオル・カレッジ、「道徳感情論」を講じたグラスゴー大学、エジン
バラのカノンゲート寺院構内のお墓を詣で、更には、スミスの生誕地 Kirkcaldy市を
訪れ、邦訳の「国富論」を寄贈して来たのである。
グラスゴー大学教授の紹介状を手にした若き日本海軍士官の訪問に、カーコーディの
市長以下の人達はスミスの存在の大きさに驚き、一大センセーションを捲き起こし
た。これを端緒として、その後同市のスミス顕彰の計画が立てられ、市の文化施設建設
と充実がはかられることになった。 (後日談として、四十八年後の昭和34年、武井さん
が世界YMCA常任委員会に日本代表委員として出席された時、エジンバラ、カー
コーディを再訪した際には、立派な博物館図書館が出来上がっていて、スミス関連資
料も多数蒐集され展示せられていて、市長はじめ市の人達から、同市文化事業の恩人
として大歓迎を受けたのである)
このことからすると、武井さんが海軍に進路変更したのも、スミスの行跡を辿った
のも、高商時代に習ったスミスの「神の見えざる手」と並んで有名な《 As
defence,however,is of much more importance than opulence, The Act of
Navigation is ,perhaps, the wisest of all the commercial regulation of
England.》の文章を深く胸にしておられ、母校に残って母校の大学昇格運動に挺身す
ることも、海軍で有為の活動をすることも、日本のためには全く同じこととしておら
れたのだと思う。
武井さんは、このスミス行跡探訪のことを早速福田徳三先生に手紙で報告した。そ
れに対する先生の返書の写真が武井先輩から板垣先生に手渡されて現存している。そ
れを拝見すると、熱血溢れるお二人の大先輩が、「自由の郷」一橋を如何に愛し、そ
の育成に如何に励まれたかが窺われる。武井さんは福田先生の千駄ケ谷自宅での一橋
・慶応学生共同の「読書会」にもずっと出席しておられ、先生の信頼厚い高弟であっ
た。また、海軍に入ってからも福田先生はじめ母校大学昇格運動の有志の方々との交
流を続け、大正三年十一月の如水会主催の「母校防衛同窓会」にも出席された。
武井さんは、海軍では最高位の主計中将(兵科でないと大将にしなかった)昇進さ
れ、ワシントン軍縮会議出席などその活躍は海軍関係者のよく知るところである。一
方「万葉集」の研究者としても有名な歌人で、対米非戦論でもあった山本五十六大将
(戦死後元帥)にも親しく作歌の指導をされたと聞く。板垣先生に見せて頂いた武井
さんの歌集『箱根』には、万葉学者佐佐木信綱の「序」と同氏九十歳の時の熱海凌寒
莊での歓談写真、山本元帥を偲ぶ歌十三首も掲載されていた。
この人の天に通ずる情熱を抜きにしては、わが母校の波瀾に富む歴史を語ることは
出来ない。さればこそ、如水会館の改築に際して、わが先輩方は“永久に忘れるな”
の思いを込めて「申酉・籠城記念室」を設け、そこに『校を去るの辭』を掲額したのだ
と思う。
五月十一日は、「申酉事件記念日」 である。我々戦後の卒業生も、この檄文を読み当
時の学生の気慨と、教養豊かな至誠の「この人」を偲ぶことにしたいと思う。
以上。
参考付記
1. 『校を去るの辭』 の全文
「 悲風惨憺 天日曇る明治四十二年五月十一日、吾等同胞千五百、袂を連ね茲に
最愛 の母校を去る、悲憤痛恨胸塞がり感極まり 慟天哭地言うに辭なからんと
す。噫、何等の縁ありてか 吾等曩に難関を排して 集い来たりし一橋々畔の幾春秋、
互いに相扶け相勵まし、刻苦勤學、必ずや功を他日に揚げ國恩に報ぜむ事を期し、
意気崢 として正に四海を壓するの慨ありき、今や即奈何、愛慕措く能はざりし母校
遂に亡びて 舊知相離れ 同學相散じて、青山白水思蕭々たらんとす。
抑も 本校をして本邦商業教育の最高機關たらしむは、夙に輿論の嚮ふ所にし
て、 同窓先輩極力之を主張し、吾等亦之を信じて疑はざりき。何ぞ圖らむ 文政
当局の誠意なき、天下の公論と吾等十年の主張を無視し、且既得の權利たる專攻部亦
其の奪ふ所となりて、光輝ある一橋校三十年の歴史を其の蹂躙に委ね了らんとは。想
ふて茲に至れば 腸九回せんとす。噫 吾等は遂に血涙を呑みて母校を棄てざるべから
ざるか。
一橋の空 雲愁ひ風怨みて 長へに吾等の恨を封ぜよ。 」
2. 福田徳三先生から艦隊勤務中の武井大助さん宛の書信
一、形式 巻紙 (現物はなく写真が残存)
二、作成時期 明治四十四又は四十五年
三、日付 三月十八日
四、内容 左記の通り
御手紙拝見 海上活躍健羨々々
扨 上海へ御着の上は 同地
支那書肆の目録(支那書)類
御貰受られ 御送り下され度
偏に願上候
自然購書の件に付いては向后
御厄介相願ふことも可有之と
存じ候
天地に主ありと雖も學問の天地に
主もなく 神もなく 大臣もなし
想を自由の郷にかけ廻らせて
徐ろに新天新地を開拓するに任す
かくて 一橋の學園 美果一個
半個を結実せしめば 其楽は
自由なる海上の人と共に頒つを得んか
往け 海の人よ
而して 常に陸の自由郷を忘るゝ
こと勿れ
三月十八日 素軒生
大 助 君
几下
(注)1.自由の郷、自由郷は、共に母校=一橋学園を指す。
2.素軒は福田徳三先生の別号、後年の号は「三素学人」である。
3.緒方竹虎君を哭す 十二首の中から
ワシントン軍縮会議に夜をこめて語りし君も
吾も若かりし
はふり落つる涙拭はず震ふ手もてみ面(おも)の白布
つつしみ取るも
清(すが)しもよ陛下のみ名の一對の花のみありて
他に何もあらず
4.山本五十六元帥十五祭 十三首の中から
君逝きて十まり五とせみ墓べに立ちつくしつつ
面(おもて)あげ得ず
わが室に鍵おろさしめ一ときを語りかはしし
十二月三日 (昭和十六年のこと)
かかる時かからむ人のましまさば繰り返し
いふこの國びとは
元帥の遺品萬葉を繙けばいたるところに
書き入れのあと
戦ひを避けむと命かけし君第一線にて
死にたまひしはや
越後人面(おも)あげて語る謙信公良寛禅師
五十六元帥のこと
以上
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