キスカ撤収作戦に参加して
      (奇跡の一日)
                   12月クラブ通信
                   平成7年(1995年) 8月号 第90号
                  
                                            5組 和田 篤   

 昭和18年5月29日、北太平洋に浮ぶアッツ島の守備軍か米軍の上陸攻撃を受け、陸軍山崎部隊長外約2600名の陸海軍将兵が壮烈な玉砕を遂げた。アッツ島はその東にあるキスカ島と共に前年6月日本が占領した米領の島であったが、米軍はキスカ島を飛ばしてアッツ島に上陸したので、キスカは完全に孤立してしまった。わが連合艦隊司令部では、この孤島の守備軍約5200名を全員救出するため、北方警備に当っていた第五艦隊にこの救出を命じたのである。
 第五艦隊司令長官河瀬中将は所属する第一水雷戦隊司令官木村昌福少将にこの作戦の実施を指令した。木村司令官はこの作戦に臨むに当り5200人を収容するには、保有駆逐艦が不足するのでその増強を申請、私の乗艦駆逐艦朝雲もこの作戦に参加することとなった。それまで専ら南方作戦に参加していた朝雲は同年4月、急遽横須賀に帰港、入渠して整備をすると共に北方作戦に従事出来る様、対寒装備を行った。同年6月千島列島最北端占守島幌筵湾に入港し、第一水雷戦隊に編入された。
 キスカ救出作戦会議が毎日の様に旗艦阿武隈で行われ、又各艦は多くの人員を収容するための準備に万全を期した。これから向うキスカ島は占守島から東方1300キロ離れ、敵の制海圏内に取り残された孤島である。しかも敵は戦艦数隻を含む30数隻の強力な兵力で十重二十重に包囲し、更に濃霧の中でも目標を適確にキャッチ出来る精巧なレーダーを持っていた。又キスカ島に行くには敵に知られぬ様、無線通信を完全に封鎖、視界100米以下の濃霧の中を10数隻が編隊で航海し、キスカ島突入に当っては、同島の南方から近づき一旦島の西側に沿って北上し、同島の北側を廻って東側のキスカ湾に入るのである。キスカ島は佐渡ヶ島より一回り小さい島で、東側キスカ湾の入口から数十キロの所に敵根接地アムチトカ島があり、その前面を通過して入港することとなる。従って、敵に察知されずに入港することは至難のワザである。7月7日阿武隈外十数隻のキスカ収容部隊は濃霧の中を幌筵を出撃東進し、途中油槽船より洋上給油を受けたりして7月15日に突入を図ったが、キスカよりの霧の見通しに関する報告が思わしくなかったので、木村司令官はやり直しを決意、各艦に幌筵に帰投を命じた。この決断は帰投後「一水戦に胆なし」と非難されたが、木村司令官は「帰ればもう一度来ることが出来るではないか」と悠然自若として、この非難に耐え次の出撃期をねらっていた。当時海軍も燃料が逼迫し、この作戦もあと一回分しかなく、また霧も8月に入ると殆んど発生せず、又8月には敵の上陸も必至と見られていたので、あと一回だけの機会しかなかった。
 7月22日夕刻、幌筵を出港、前回と同様濃霧の中を東進、途中で油槽船とはぐれたり、又阿武隈と海防艦国後とが衝突する事故を起したりし乍らキスカ南方にたどりっいた。この間の航海は霧のため前艦の姿が全く見えず、前艦が曳行する筏があげる水しぶきを目標に航海した。 キスカ突入前夜、士官室で駆逐隊司令小西大佐が「明日は愈々靖国神社だが、自分は君等より一寸奥に入るからな」と言われた。司令は戦死すれば少将となり、我々より神殿のちょっと奥に入るという意味であったし、皆より一寸先に戦死するという覚悟の言葉でもあった。幌筵出港後約一過問、全く天測も出来ず、専ら潮流、風速、船速の計算だけで現在地を予測する大変な航海で、果Lて小さなキスカ島にたどりっけるかが心配であった。
 7月29日いよいよキスカ突入の朝を迎え、下着から軍服まで着替えて、緊張Lて艦橋に上って行った。丁度その頃うっすらと霜が晴れ出し、キスカ島の西端が目視出来、艦の現在地が確認できたが、机上予測と一浬も違っていなかったのは流石であった。このまゝ霧が晴れては敵に見っかるので突入は不可能になると心配したが、幸いに霧のまゝで島の北側を廻ってキスカ湾に向った。いっ敵に遭遇するか分らないと緊張の中を無事湾内に入ることが出来た。これまで全く敵にさとられないのは、むしろ無気味であった。所定泊地に投錨、積んで行った大発を下ろして、陸地で集合待機している兵員の収容作業を行ったが、幸い、湾内の視界よく予定よりも
早く作業を終わることが出来た。収容終了次第逆コースをたどって幌筵に向って30節(ノット)という全速力で帰路についた。
 この様にして5200名の将兵を一人残さず無事収容出来たのは奇跡と云われ、艦隊司令部より「殊勲申」をいただいた。収容人員は次の如くであった。
 阿武隈1202   木曽1189   夕雲479   風雲478   秋雲463    朝雲476  響418   薄雲478 
 合計5183名であった。
 振り返ってみるとこの様な無謀と思われる作戦が大成功裡に遂行出来たのは、次のことがあったからだと考えられる。
1・司令官の判断---第一次突入を無理にせずいったん帰港、再度決行したこと。
2・航海術の優秀さ---1週間(幌筵〜キスカ)もの間、机上計算のみで艦位置を図ったがこれが1浬の誤差しかなかったこと。
3・天佑があったこと---霧の状況、特にキスカ湾内が晴れていて収容がスムースに出来たこと。
4・キス力湾口に待ち受けている筈の敵艦隊が全くいなかったこと。
  これは戦後史でわかったことだが、我突入の数日前に敵艦同志の誤認による撃ち合いがあって、損傷修理、弾薬補給のため基地に帰投し、当日、湾口は全く留守であった。
 敵は数日後の8月上旬、3万の兵力でキスカ上陸作戦を敢行、上陸して見ると一兵もいないのでび「くりし、この徹収を「パーフェクト」と云った由である。
 思えば7月29日だけが敵が不在留守であり、その唯一のチャンスに入港、収容作業か完了出来たことは全く奇跡と云う外なく、今でも、感無量である。


「特集」・ キスカ撤収作戦に参加して」余聞
                12月クラブ通信 平成7年(1995年) 12月号 第91号

 前号の特集で5組和田 篤君の戦記「キスカ撤収作戦に参加して」の寄稿が会員外の方の目に触れてご懇篤な読後感が
寄せられました。ご本人が一番びっくりされた様子です。
 
 山本 康氏(元キリンビール副社長〜顧問)
 戦時中残虐な行為が横行、人命軽視の問題が戦後50年再び注目を浴びている時期、五千二百名の人命を救助した事に鮮烈な印象を受けた。木村司令官の沈着冷静、大胆な行動は、真のリーダーと感銘したと同時に十数隻の艦が目的に向い、一糸乱れず過去の経験、能力の蓄積を最大限に発揮し、指命を完遂されたことは、組織の一員として過して来た小生には大変感動的であった。又、味方を救い敵も殺さないと言う所が、今になってはスゴイ所だ。
 
 小松錬平氏(朝日カルチャー。二高出身)
 「キスカの奇跡」はいろいろ書かれ、映画になった(三船敏郎主演)が、このように参加された方の生々しいリポートを読むと、まことに新鮮な感動を覚えるものだネ。
 和田氏の記述も簡潔かつ要領をきちんと押さえて、いかにも海軍士官らしい筆だ。あの偉業の理由のうち、航海術の錬磨という点が最も感動的だった。
 軍縮会議で劣勢を強いられた日本海軍が、これに打ち克っために、航海、砲術などの錬磨を重ねた結果が、この一過間の霧中航梅の正確さに現れたのだと思う。惨憺たる戦記は山のようにあるが、キスカのような静かなる勝利の記録はまことに少く、まことに貴重だ。心から敬意を表したい。