四組  柿沼幸一郎


  一番あたりまえに感じていたことが、あとから振りかえってみると、その時代の一番個性的なことであったのかなと思われるようなことがある。

 卒業の頃の物的資料として、今手許に、「昭和十六年度一橋会会員名簿」と、「東京商科大学卒業記念帖」が残っているがそれを見ながらも、そう思う。七星会(三年四組)三十七人中八人が故人となり、二人が消息を断っている。

 この名簿で、住所が二つ書いてある地方出身者が十七人だから、東京もしくはその近辺の人が過半を占めていたことになるが、名簿で名前を並べている門司中学出身の金井多喜男君には帰省地の住所が落ちているといったこともあるから東京とその他で半々といったところ。

 このころは、まだ、法学部はなかったが、法学担当教授のゼミナールに属していたものは、私を含めて五人。

 その後の私の仕事に、比較的縁の多かった銀行関係では、金融担当教授のゼミナールに八人を数えるが、そのうち銀行勤めをするようになったのは、東京銀行神戸支店長をしている鈴木義彦君一人。

 金井君とは、ともに地方出身で、彼が商工省、私が大蔵省と、ともに役人生活に入ったため、格別のご縁があるわけであるが、二人の両隣りに名前を連ね、都会人であった大迫千尋君と岸博太郎君は故人になられた。

 消息不明のお二人は、鏡城中の黄昌旭君と北平匯文の呉葉盛君である。

 写真帖の方で、印象的なことは、眼鏡をかけているものが、そろって丸い眼鏡をかけていることと、左の胸ポケットに、これも、そろって、一本もしくは二本の万年筆をはさんでいることである。

 配属将校陸軍大佐本田善平氏の印象は必ずしも明確でない。海軍省からの委託生だった海軍主計大尉篠原英夫氏は、何かにつけて颯爽としていた記憶が、いまでも鮮かである。

 故高瀬荘太郎会長の一橋会から、故平生釟三郎理事長の如水会へ、戦時繰上げ卒業という形で籍を移して、社会人の一歩を踏み出したのが昭和十六年十二月。最初に大蔵省でもらった辞令は、昭和十七年一月七日附の「任大蔵属、会社部勤務ヲ命ス賜六給俸」で、同じ右二十日に「依願免本官」の辞令をもらってから「転勤」といわれる異動が、およそ二十回、海軍省、 大蔵省、公正取引委員会と転々と仕事をかえてきたような気もするが、反面、日本政府という一つの組織体に勤務する国家公務員であったということに見立てれば、そういうことの二十九年間であった。平凡な役人生活の一語につきる。

 昨年九月、大蔵大臣臨時代理国務大臣前尾繁三郎氏からの「日本銀行理事を命ずる」という辞令をもらって、日本銀行勤務 に移ったが、日本銀行法第十九条によると「日本銀行ノ職員ハ之ヲ法令二依り公務二従事スル職員卜着做ス」とあるから、公務員としての諸々の拘束からは、まだ、ときはなされていないようでもある。

 昭和三十二年に、仕事の関係で、当時ロンドンにソーニクロフト蔵相の指示で設けられたラドクリフ委員会について調べたとき、英国では、三十年に一回づつ自国の金融制度の実体を調査発表する慣行のあることを教えられた。英語に、親の代、子の代というような意味のヂェネレーションという言葉があって、約三十年ということを意味するのとも共通するが、わが国やアメリカでは、この三十年間の生活水準の向上で、一生を二回のヂェネレーションで生きる工夫と真剣に取組まなければならない時代を迎えることになるかも知れないという不安に直面している。

  卒業三十周年の決意を新たにする。