五組 和田 一雄
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二十二年久方の再会でお互いの無事を祝いあって後、私は船の無くなった山下に訣別して仕舞ったが、彼は些かの躊躇もな く初志を貫徹して経営の苦しい船会社の薄給で頑張り通した。其の背後には既に亡くなった御尊父の無量の大きな物心両面の ご援助、ご高導があったやに承って居た。其の後彼の独身時代は母校ゆかりの深い荻窪で、私は吉祥寺、時折荻窪駅前のおでん屋台で昔を偲んで飲んだ酒の思い出は、金の無い時代だった丈に今でも印象は特に強烈である。爾後二回の彼の長い海外勤務で彼は大きく成長して来たものと、私は内心喜ぶと共に近い将来に大阪商船を背負って立つものと期待して来たのが豈に計らんや突然に病魔の奪い去る処となろうとは、洵に国家的にも大きな損失で惜しんでも余りある痛恨事である。 彼の真骨頂は何と云っても一言で云えば、彼一流のネバりであり、斯うと思ったらやり通さなくては済まぬ初一念を貫き通す信念であったろうと思っている。学生時代、私の荻窪の下宿で徹夜勉強をやるつもりが仲々に気分が乗らなくて、球撞きや喫茶店で時間をつぶしてやっと二人ではじめれば途中でダウンして仕舞うのはいつも私で、彼は一睡もしないで頑張り通したものだった。斯く一つ一つ思い出して来れば彼との三十五年の交誼の歴史は紙数と時間を限り無く要求する事となるが、最後に母の無かった私を彼と同様に暖かく遇して下さった御慈愛の深い彼のご尊母様のご悲哀は如何許りかと考えるだに真に心の痛むことであり、後に残された御遺族皆々様の今後の淋しさを思うと身を切られる思いである。 ああ 淋しくもつらい事であるかな、親友との訣れは。
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