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麻雀同好会

 

6組 鈴木 栄喜 

 私が麻雀にのめり込んだのは軍隊時代(陸軍主計中尉・軍馬補充部?鍋支部)で、今からみれば半世紀前のことである。
 復員後の昭和26年日本麻雀連盟(註1)主催の東大対一橋戦で東大に負けたものの、個人優勝して三段の段位を授奨され、五段迄進んだ処で段位推薦権を奨えられ、120名の段位推薦をしたが、連盟理事長(手塚氏・昭6年)の死去と共に連盟の自然消滅となったのは残念なことであった。
 12月クラブの月例麻雀同好会は昭和30年にスタートし、爾後40数年毎月如水会で行われ、その間年に2回の宿泊麻雀会を伊豆・箱根・鎌倉などで開催して来た。
 同好会メンバーは20名居り(註2)、日常の雑務から解放されて、テーブルを囲み、ポン・チーの掛声もにぎにぎしく和気藹々の裡に、そのことだけに恵念出来る時間を過せるのは亦楽しからず哉とも云うべきか。

 註1:日本麻雀連盟の創設者は菊地寛、当時の総裁は日鉄・稲山社長、同氏は当時20数社の会長・社長・役員を兼ねていたが総裁と名のつく職は日銀と連盟しかなかったので迚もその職名を喜んでいた由。

 註2:麻雀同好会メンバー(20名)
天谷、宮城夫人、山崎(昶)、柴沼夫人、田中(林)・同夫人、野田、林(英)夫人、樽・同夫人、小林(悦)夫人、中村(冨)、和田(篤)、和田(一)、熊倉、鈴木(栄)・同夫人、山本(恒)、松井(利)、鈴木正博氏(昭16)

 

麻雀随想


6組 山本恒太郎

 麻雀同好会は細く長く続いている同好会として、それなりの存在意義を示している。
 小生は途中参加の一員だが、今では何かとその存続を願ってお役に立ちたい一心である。と申しても、寄る年波に勝てぬ年齢となり、毎火曜日、月四回を原則として、の八名二卓のメンバー編成は容易ではない。
 熱心な一員で不幸他界された方、体調不良、急用で参加できぬ方など、都度メンバー組替え、一卓のみ等、雀戦成立のための苦労も一再ならず、この傾向は今後更に厳しくなると覚悟せねばならぬ。

 祈ることは唯一つ、一同の健康長寿と、進んで親睦の上からも参加希望の方々を待つ次第である。準会員の方も含め、よろしく応援頼む。

 蛇足ながら、麻雀哲学とも申すべき私見を述べて終わりたい。
 碁、将棋では、力量の差を補うため、何目(もく)とか駒落ちといったハンデ制度がある。麻雀ではこのハンデが全くない。上級者、下級者は差別なく同一条件で争う。その理由は運という一語がある故と思う。雀戦は、運・技術五分五分、否、七分三分で運が大きいという見方もある。
 上級者とても、つもる牌の予測はできない。要は運を掴む為に、千変万化のツモ牌に懐深く対処してゆく。それが技術であろう。下級者は極めて狭い変化しか見ていないと思う。巧い、下手(へた)と言ってもこの一点の違いで、雀戦の技術とは運をうまく成果に結びつけることであろう。負けた時多くの人は、今日はツイていないと嘆く。そして前述したごとき技術への反省がない場合が一般である。雀戦では、屡々(しばしば)その打ち手の性格が出るという。
 人生航路は雀戦より遥かに多く変化変化の連続であろう。その変化に如何様(いかよう)に対処するか、各個人の性格がそれに応じて、人生の勝負を決する一因ともなると言えば少々大袈裟か。呵々、以て新世紀百年の後進に雀戦と雖も疎かにすべからずと申し遺(のこ)す所以である。

 

 

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