1組  前田 壽夫

 

 当人の主観とは関わりなく、物理的な時間は容赦なく過ぎ去っていきます。当人は、いまなお、国立のキャンパスか駅前のエピキュールで、クラスメートやゼミ仲間と語り合っている気持なのに、ついこの間、卒業三十周年の声を聞いたばかりだと思っていたら、今度は、卒業四十周年だそうです。

 いわれてみれば、それに違いない。親しい友人の何人かは、すでにこの世を去り、当人自身、すでに白髪。電車やバスの中では、極力、シルバー・シートとやらいう老人・身障者専用の座席を敬遠して、たとえそれ以外に空席がなく混み合っていても、吊り皮につかまって立っていることにしていますが、世の中はまことに無情。まるで「君は包囲されている。無駄な抵抗はやめろ」とばかり、目の前の座席に坐っている若者から鄭重に席を譲られてガックリすることもある。譲った方は慈善を施したつもりでいい気分でしょうが、譲られた方は、首尾よく人混みに紛れこんで老人席とは縁もゆかりもないような顔をして素知らぬふりで突っ立っているところを取り抑えられたようなもので、具合い悪いことおびただしい。とはいえ、相手の善意は疑うべくもありませんから、文句をいうわけにもいかない。にこやかに感謝の言葉を述べて、なるべく御辞退することにしている。しかし、相手の方でも、いったん席を譲ると申し出た以上、ひっ込むわけにもいかないようですし、また辞退する間もあらばこそ、アッという間に手練の早業で席を押しつける人もある。結局は、その席に坐る羽目にならざるをえない。まるで通り魔に逢ったようなものです。

 当人が白髪になっただけではない。周囲の風景もすっかり変ってしまいました。最近ふたたび、学生時代に住んでいた杉並に戻りましたが、それこそ今浦島。往時の面影はみるすべもありません。その昔、荻窪駅は跨線橋を挾んで両側に木造の駅舎がついていたものです。そして、駅付近のわずかな商店街を突っ切ると直ぐ静かな住宅街が広がり、さらにそれを抜けると畑や木立ちや小川までみられ、メダカやオタマジャクシを掬う子供たちの声がしていたものです。いまではそんな風景は薬にしたくてもみられません。荻窪駅は巨大なコンクリートの塊りと化して地下に沈下し、商店街は野放図もなく膨脹し、畑や木立や小川はすっかり姿を消しています。

 中央線もすっかり変貌してしまいました。荻窪駅のホームは快速・特別快速と総武線.地下鉄の二本になり、新宿に出るにはどっちがトクか、そのつど時刻表を見較べて途惑うわずらわしさ。昔は一本のホームで気楽に電車を利用できたものです。阿佐ヶ谷、高円寺は高架区間になって様相を一変しました。たしか、阿佐ヶ谷駅は白塗りの木柵で囲われた明るいホーム、高円寺は板囲いのくすんだホーム。電車の中からひと目でそれとわかったものです。いまでは両駅とも、なんの変哲もない高架駅。よくよくホームの標示板に瞳をこらして確かめないと、どっちがどっちかわかりません。

 昔と全く変らないのは東中野の駅。ここだけは時間が停止していたように、ホームも駅舎も学生時代に見慣れたまま。ホームから線路を隔てて柵の外に並ぶ家並みも、そのころと変らないような気がします。しかし、大久保駅付近で晴れた日によくみられた富士の姿は、立ち並ぶ高層建築の背後に隠れ、たった一ヵ所、ホームの事務室の近くで、それこそ障子の隙間から覗くように、チラリと望見できるにすぎません。新宿ともなれば正にコンクリート・ジャングル。改札口を出た途端、縦横に走る地下道と巨大な高層建築物の中で、ただオロオロするばかり、昔の記憶など、何一つ頼りになりません。いきなり異境に抛り込まれたようなものです。

 そうです、異境に来たのです。異境に来たと思えばいいのです。新しいフロンティアーを求めて異境に来たと思えばいいではありませんか。いたずらに過去にかかずらっても致し方ありません。かつてのよき思い出は、われわれの貴重な宝物として、記憶の中にそっと蔵っておくことにしましょう。そして、これまでつねに、与えられた条件の中で自分なりの生活を創造し、自分なりに新しい境地を切り開いてきたように、物理的条件の許す限り、自分の道を歩いていくことにしましょう。ひとがわたしを老人扱いしようと、周囲の風物が変ろうと、現在を生きることに変りないではありませんか。

 


卒業25周年記念アルバムより