2組  鈴木 英二

 

 還歴を超えた生涯をふり返えってみると、いろいろなことが、よみがえってくるが、何と言っても、予科入学以来六ヶ年の間、武蔵野の櫟林に包まれた小平のグランドで、ボールを蹴り続けた青春の憶い出の一駒、一駒が濃く、つながってくる。
 今年は商大サヅカー部の、創部六十周年に当り、十二月クラブの四十周年と、偶然にも期を同じくし、共に記念文集発刊のこととなった。
 私が、予科に入ったとき、入試勉強(大して勉強はしなかったが)から解放され、何か体を目茶苦茶に動かしてみたい、衝動にかられ、サッカー部に入った。

 サッカーを選んだのは、小学校が青山師範附属で、当時、師範学校はサッカーが校技であり,割合運動神経があった方なので、選手にえらばれていた。中学は東京一中で、ここは部はなかったが、好なもの同志で、よくゴムマリを蹴り合っていた。その程度のことで、いろいろの部の勧誘があったが躊躇することなく入部したわけであった。
 同輩には、今は亡き、松岡、茂木、宮崎、松本君と、折下、片山、山本、大上戸の諸君と一緒であった。
 入部早々驚いたことは、練習の激しいことであった。雨の日も、雪の日も、泥にまみれての練習が続いた。余りの激しさに耐えられず、サボろうとしても、寮に、当時予科キャプテンの二階堂晴三氏なる、サムライがいて尻をたたかれて、かり出され鍛えられた。そのうち、少しづつ、蹴り方、体の動かし方が分つて来て、身を入れて練習に励むようになっていった。

 当時、部員は、本科、予科併せて四、五十名の大世帯であったが、よく纏っており、上級生からは、「グランドはボールを蹴るだけの場ではない、心身修練の道場と心得よ」「馬鹿になって、徹底的に蹴って見よ」「部員同志は、切瑳琢磨し、心のかよった友とならねばならない」、等々教えられ、疑いもなく、黙々と、蹴り続けた。また、私達の六年間は、商大サッカー部の黄金時代であり予科のときは、予科リーグ、全国高商大会にそれぞれ優勝し、関東大学リーグで、早大、慶大、東大、文理大の四強と一部にあって、共に、し雄を競っていた。特に、本科二年のときは、強豪早大を破り、堂々二位の座をかちとったほどであった。翌年(卒業の時は、大勢のレギュラーを送り出したにも、かかわらず、早大、慶大に破れはしたが、東大立大と引分、文理大を降して、四位の成績でバトンタッチした。

 当時のサッカーは、現在のように、華麗さはなかった。特に、商大サッカーは、経験未熟な者の集りであったので、何はともあれ、ボールを前に蹴り、走り、ボールと共に、ゴールになだれ込んで行く型で、まことに田舎くさい、荒けずりなサッカーであった。しかし、そこに、激しい練習で培かわられた、伝統的なよさがあった。

 当時の商大運動部は、各部共隆盛であった。ボートは、全国制覇を逐げ、ホッケー、バスケット、バレー、野球等、それぞれ、一部で活躍していた。現在は、制度の変化や、価値観の相違があるにしても、何か一つ欠けているものがあるのではないだろうかと慨嘆にたえない。
 ボールを蹴り続けた、六ヶ年、信念をもち、すべてを排して、歩み徹して来た、我が青春に悔いはない。

 


卒業25周年記念アルバムより