3組 小宮山武徳 |
つい先日、スプリングボック・クラブと云う、南アフリカゆかりの日本人の団体から、初代日本人会々長として、その機関誌に何か一言書いてくれと依頼された。成程もう二十年も前に、そんなことがあったっけと、当時の生活のあれこれが思い出されて来た。 一九六〇年、当時勤務していた東銀のロンドン支店から、アフリカ各地の視察を命ぜられた。暗黒大陸最初の訪問先は、ナイジェリアのラゴスだった。夜遅く着いた飛行場から乗り込んだ汚いタクシーは、灯火のない真暗闇の道を、三〇分も走って、やっとホテルに到着した。裸足のウェーターの給仕でとった遅い夕食は、多少のアルコールの助けを借りても、何とも味気のないものだった。テマの港や、内陸部のイバダン、ガーナのアクラ等の各地を歴訪した後、当時のコンゴのレオポルドヴィルを経て、南阿、ヨハネスブルグの飛行場に降りたったのは、早春九月のことだった。明るく綺麗な街並みや、遠くに見える金山のボタ山の印象もさることながら、取りわけ眼についたのは、学校帰りらしく、三々五々、楽しげに語り合いながら行く子供の群とか、杏か、或は桃ででもあったろうか、今を盛りと咲き誇る花々の美事さだった。平和そのものと言った風景である。 南阿各地の後、モザンビーク、ローデシア、ニアサランド、東阿三国、エチオピアなどの各地をめぐって、約二ヶ月半の旅を終えて秋も深まろうとするロンドンに帰り着いた。ヨハネスブルグに、駐在員事務所を開設する目的で再度同地を訪れたのは翌年三月のことで、その後六五年七月迄約四年半の南阿生活の幕明けとなった。当時在留日本人はせいぜい三/四〇人程度で、家族持と云えば、私のところを入れて僅か四家族、中立と云うこともあって、拙宅には各社のチョンガー連中が老若を問はず、日本食目当もあってショッ中出入りしていたものだった。アンナというなかなか利発な黒人のメイドが、度々のことなので、その中に、或程度簡単な日本食まがいのものなら作れるようになって、自慢気に家内の批評を求めるようになったりする程だった。 一九六一年と云えば、その前年のシャープビル事件で南阿の人種差別政策が全世界の注目を浴び、国連での非難決議を始めとして、同国は云はば四面楚歌の真只中に在った。私はかねてアフリカの諸国が次々と独立を獲得して行くなかで、南阿の白人支配の態勢は、四半世紀位しか持つまいと予測していたのだが、その予想は見事に外れて、南阿は多少の変貌は遂げはしても未だ未だ、当分は現態勢を維持できそうである。 さて、私の海外生活の第一歩は、第一回のガリオア留学生として渡米した一九五〇年から五二年の二年間で、その後前述のロンドン、ヨハネスブルグの五年半を経て、最後は六七年から七五年迄に、桑港、シカゴと渡り歩いた七年半である。 ところで、この三回の海外生活の夫々に、日本の対外関係においても、又小生個人の生活においても、大変に大きな節目の時期に当っていたことは、振返って見ると、何となく不思議な気がする。 最初の時は勿論占領下で、出発の時は丁度朝鮮事変勃発直後のことで、米本国からドンドン送られて来る兵員や武器の帰り荷のような格好で、ノースウエスト機に乗せられて、アンカレッジ経由で初めて米本土の土を踏んだのだった。何しろ食う物も不充分な焦土のなかからの初旅で、文字通り西も東も分からず赤ゲット丸出しの失敗談続出と云う状況だった。しかし未だ三十早々の若さだったこともあって、それなりの気負いもあり、張切って勉強するとともに、貧るように何にでも興味を持ってぶつかって行ったものだった。 一年の留学期間を終えて、更に一年紐育の銀行での研修を命ぜられていた最後の頃に、次弟が危篤だと云う電信を貰って急拠帰国したが間に合はなかった。 この滞米生活の終り頃に、桑港で講和条約が締結され日本は独立を恢復した。その直後の天皇誕生日が、在外事務所から衣替えした許りの紐育総領事館で祝われたことは何と云っても思い出深い出来事だった。仰々しいことや、勿体振ることの嫌いな私も、この時の行事は素直に喜べたように思う。二年振りに帰国した東京の街角に行き交う人々の顔色が、出発当時のそれとまるっきり違って見えたことは、あながち食糧事情の改善によるものだけとは言い切れないと思う。 冒頭のロンドン、ヨハネスブルグ五年半の時期は、日本経済が戦後の復興を略完了して、その充実期に入ろうとしていた頃であった。私自身も辞令を受けるとともに長い独身生活に終止譜を打ったので、ロンドンの生活はいわば新婚旅行の延長のようなものだった。因みに私の二人の娘はともに南阿生れである。ところでこの六〇年代前半の時期は日本経済が目覚しい発展を遂げて、新興諸国の手本とされ、又正式に先進国の仲間入りを許された時期だった。オリンピック、IMF大会等数々の国際的行事を契機にリディベロップされた東京の街は、一寸大げさに言えば五年半振りの帰国者にとって、異国さながらであった。 一九六七年一〇月初め、一五年振りで再び桑港に足を印した私を、ゴールデンゲイト・ブリッヂは昔と変らぬ優美な姿で優しく迎えてくれた感じだった。今度は初めから親子四人の生活である。 日本は、少くともその経済は、既に世界の驚異であるとともに脅威でもあった。戦後ブレトンウッヅ体制に支えられた米国単独のリーダーシップをべースとする世界の通貨経済制度は、正に崩壊寸前であった。その年の一一月の英磅の切下げを切かけとする世界通貨体制の動揺は、スミソニアンの協定を経て、遂に七三年三月の総フロート制に突入した。私はその問桑港からシカゴに移り、七五年帰国と同時に銀行屋生活に別れを告げて、外国の船屋として第二の人生を踏み出した。 それから六年余、今又人生の曲り角を迎えようとしている私は第四の海外生活は多分ないと思うが、今や日本も大変難しい局面に直面していることも明らかだ。 |
卒業25周年記念アルバムより |