OFFICEという英語を、ここでは、「事務室」という程度の意味でつかう。
この四十年間のどのくらいを事務室で過ごしたことになるだろう。
寝飾品を商う会社のコマーシャルに、「一生の3分の1の時間をその上で送るベッド」とか、「その中で過ごすフトン」とかいうのからの発想である。
衣食住でいえば、住の分野に属するのかも知れないが、職住分離後の産物である。
英・米のオフィスは、独・仏のビュロ(BURO、BUREAU)と同様、公務や役所の意味が強い。
小さな政府から大きな政府になり、官庁街が高層ビル街になったのは、丸ビルなど民間にも高層ビル街ができるようになったのと、どちらが先であったろうか。
このごろの超高層ビル街では、民間のシェア拡大が急であるようにも見える。
それはそれとして、昭和十七年一月、三ヵ月を繰上げ卒業して、国立の木造二階建の下宿から、まず出勤したのは、霧ヵ関に竣工?したばかりの大蔵省ビル三階?の「事務室」であった。
竣工に?をつけたのは、大手町にあった木造二階建の大蔵省が落雷で焼けたため、急拠引越となったためか、それとも、戦時経済下、建築資材の入手不如意のためか、一部にまだタイルの張ってないところなどがあったからである。(外壁がいまのようにタイル張りになったのは、さらに二十年後)
履歴書の上では、二週間いたことになるこの事務室には、正味一日も机に坐っていなかった。そして、海軍へ。主計や軍医の場合、船の中にも事務室がある場合が多いと思われるが、私の場合についていえば、東京監督官事務所の事務室を経て、海軍省二階の課長同室の事務室勤めということになる。
海軍省の事務室は、いまの国会のように、部外者は面会票がなければ入れない事務室であり、そこに机をおく勤務者は、高等官とそれ以外の者の部屋が別々という特色をもっていた。
戦局が急迫してきたある日、鉄筋コンクリート建ビルの二階にあったその事務室から、赤レソガ建の部分の事務室に引越が行われた。その頃には、いまの大蔵省主計局ではないが、事務室には簡易ベッドが持込まれていた。そこが空襲で焼けて、再び以前の鉄筋コンクリート建ビルの部分の一階の窓のない事務室に引越して終戦を迎える。
復員後、最初の事務室は、内幸町の日本勧業銀行本店ビル五階?の秘書室。間借りの事務室はいづこも寿司詰め。
翌年、大蔵省は、四谷駅前の小学校跡に移転。その二階の秘書官室が事務室であった。
その年、転出した先の千葉税務署の署長室は一階で金庫がおいてある個室であったが、着任した晩、泥棒が侵入して金庫を破壊した。もっとも、その頃でも、署内の金庫に税金は入れてはなかった。
つぎの麹町税務署の事務室も一階だったが、そこには署長室はなかった。
そのあと勤務した東拓ビル(もと東洋拓殖会社本社)二階の事務室は、数少ない焼残りの五階建ビルであったが、半年ほどで、四谷の小学校に建て増した木造二階建バラックの二階の事務室に移る。
昭和三十年、米軍から返還された霞ヵ関の大蔵省ビル三階の金融制度調査官の事務室は、課長同室の事務室であったが、二階に別室を持っており、また、銀行局長室より広い日本銀行政策委員の事務室とドアで出入りできるという地の利を占めていた。
昭和三十五年、「もはや戦後ではない」という経済白書のキャッチフレーズがでてからであったが、大手町の東京国税局の総務部長室は、木造二階建バラックの二階にあった。この事務室の三つのドアのうち、廊下に向いたドアは鍵で閉し、一つのドアは総務課長室に、もう一つのドアは局長秘書室に通じていたが、部外者は総務課の受付の承諾をえないと入れない。
これと対照的に開放的な印象をうけた事務室は、大蔵省ビルニ階の文書課長室であった。一方が官房長官室、一方が文書課長室、それと廊下と三方にドアがあることは同じであるが、いつでもそれらのドアは断りなしに開かれて、新聞記者が出入りした。
昭和三十八年、神戸税関に転出して、三田会議所の隣りの渋沢敬三さんのお宅にご挨拶にあがったとき、大臣は、すでに腎臓をひどくいためられていたが、「神戸税関の建物は立派だよ」とおっしゃられた。
立派な神戸税関長の事務室は、アルミサッシュ革命が始まろうとする頃のことで、いまから考えるとスキマ風のよく通る事務室だった。温暖な神戸のスキマ風は、東国育ちの私にとって、冬でも寒くはなかったが。
翌年、公正取引委員会に転じて、三度、東拓ビルの事務室に移る。
こうして振りかえってみると、遍歴した事務室の過半は、すでに存在しない。
欧州のビル建築の事務室には、二百年とかそのくらいのものも少くないのに、わが国では、昭和初期のビル建築が、たぜか五十年そこそこで姿を消すものが多い。その一つの理由は経済成長のスピードの早さにあると思われるが、それだけであろうか。
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