4組  間宮健一郎

 

 暗い。暗い。空に星のカケラさえ見あたらない。深夜の闇を私達は歩いている。いやこの道はまぎれもない大陸の広野だ。鉄帽背嚢佩剣の重さ。馬は砲を曳き、弾薬車を索き輜重車もつづいている。わが歩兵砲中隊は広野の闇をいまいづこからいづこへ行こうとしているのか。居眠して歩く兵士が馬の尻にブツかっても疲れた馬は何の反応も示さない。ただ闇々たるしじまにカッカッと馬蹄が響き、一定の間合いを置いて砲車の車輪のキシミが耳をうつ。これらの緩漫な響がしきりに眠気を誘うせいか開こうとしていても眼蓋がかぶさってくる。果てしない睡魔との戦いでもある。

 不意に道路の両側に高層ビルの輪廓が浮かびあがる。それも一つ二つではない。俄かに闇夜のビル街を行くような錯覚に陥った。これは錯覚にちがいないと思いながらねむい眼を凝らすとまたしても出現するのは大厦高楼である。そんな筈はないと私は心で眩いている。軍靴の音と馬蹄のひびきが間断なく潮騒いのように繰返し、時に車輌のきしみが織りまざって時間がなくなってしまったような夜の深さは果てしなく思われた。

 場面が変わると空が真赤に焼けている。而し矢張り夜景である。漢口が燃えているのだ。
 私は思う。あの空がその方角だ。ではここは?いつか来たことのある場所だが思い出せない。この石造の廃墟はもと電話局か、郵便局か。而しどうしても思い出せない。

 夢をみているのだ。そう思いながら、こういう夢をはからずもまたみる。而し何処であったか、何をしようとしていたのか思い出すことが出来ない。眼ざめた後に切ない気持だけが空しく澱み、亦も同じ夢をみたと心に反芻する。

 きっとこの夢の奥深く私の青春の園は埋づもれているにちがいない。だがそこへ戻ろうとする私はいつも広野の闇にさ迷い、戦火にただれた廃墟に行きつき、その先へは行けないでいるのだ。だからといって時空の制約を超えて、思いがけない時に訪ずれるこの夢は私にとって何なのであろう?。才月と忘却の中に埋づもれ果てた万華の園を掘り起すことの可能性、否、潜在意識に外ならないのではなかろうか。遂に重い腰をあげて私は長年の残稿を集録してみることにした。集録し読み返してゆくことは私の心に、再現出来なかった夢、想い出の数々、青春の日々が息づき蘇る心地でもあった。たとえ束の間でもそれは切なくも生命の灯をかきたてるにふさわしい時間であった。

 これは私の在学中(昭和十六年十二月以前)。(東京府立一中時代・東京商大時代)。
 従軍中(昭和二十一年七月以前)及び職場復帰以後(昭和二十一年八月以降)の長年月の生活記録の中で、筐底に残っていたものである。特に従軍中のものは一冊の手帳に折にふれて書きとめ、万一の場合は妻への遺品にと考えていた時期もあり、色あせた妻の写真と共に絶えず身につけていたもので、復員して博多上陸のとき進駐軍の検閲を危うく免れた情景などいまも記憶に鮮かである。

 これらは詩になっていない詩。短歌と言えない短歌。或いは散文と呼べないセンテンスの群落かも知れない。而し私は敢えてこの生活記録を私達の生きた或時代の化石として宇宙時代のタイムカプセルの中に閉じ込めるこ.とにした。

 句集 流星より (抜粋)

  小平一橋寮にて

 秋の月祭り太鼓に虫の声           昭11中秋
 野の果てに春立ちそめぬ空の色          12.2.16

  伊豆ヶ岳にて

 伐木の音かすかなり春の山          13.3.27
 倒木の肌白くして春寒し

  折にふれて

 天の川われも誓いし事があり        13.8.12
 捨て犬の哀れに見えて年の暮       14.12.29

  新春に (世に皇紀二千六百年という)

 元日や世のゆく末ぞ思わるる         15.11
 輪飾りのゆれて荷舟の春のどか  (浅草)

  折にふれて

 春の陽や手足のばして青畳       15.3.30
 天神の梅白くして卯月待つ   (湯島)
 桜咲く宮庭にして人見えず    (甲府)    昭15.4.10
 郭公の声ほのぼのと谷間みち    (箱根)      15.7.16
 海の宿西日の中のとんぼ哉    (房州)      15.7.29
 友といる宿の廊下や三日月
 野良犬の何やらわびし雪の後       16.1.8
 弓づるの引しぼられし静寂かな    (鎌倉)    16.3.20

  北海道行 (友と)

 名にし負う狩勝峠晨くらし       16.8.17
 狩勝の峠が分かつ雲の海
 山の端に残光もゆる北の夏       16.8.21
 若鮎や阿寒の岸の住心地
 秋田路や芒尾花にそばの花     (帰途)      16.8.26
 松島や雨に降られし破れ芭蕉       16.8.27
 瑞巖寺雨の小やみて蝉しぐれ
 禅林に坊主一人のせみしぐれ

  修善寺行 (岸君と)

 柚子ひかる海の碧さや伊豆の冬      昭16.12.28

 歌集青狐より (抜粋)

  会津行

 わが友の従妹といいしその人は        昭10夏
     まだ下髪の少女なりけり

 盤梯の尾上はるかに行く雲に
     わが愁いあり想いあり

  四季折々に

 何故か心苦しき日にてあり        昭12冬
     独り歩みぬ枯草の道

 ゆく雲にヨットを馳りし想い出よ      (房州)     昭12夏
     澪(みお)に砕けしうたかたと消ゆ

 みだれ咲く野草もあらで伊豆ケ岳      昭13春
     春いたずらに君はいませず

  下志津行 (馬術部入部)

 夏雲の湧きて流るる下志津の         昭13夏
     野路はるばるとひとを想わず

 もの言わず鼻すりよせる馬のあり
     夕日かげさす丘にたたずむ

 鉄蹄に霜柱散るこの朝(あした)           昭13.12
     馬の行く道われの行く道

  房州勝山行

 夏去りし海辺に立てば雲速く         昭14夏
     みぎわに高く鳶の舞えるも

  夭折した友の母君へ

 いまは亡き友の心のしみじみと           昭14秋
     時雨降る夜の灯びのいろ

  折にふれて

 丈夫の死を観る如き心地して          昭1412
     新しき年迎へむとする

 寂しさの深まさりゆくこの頃よ           昭15冬
     世の事どもを吾知りそめし

 やがて来む春をかたみに今宵しも
     別れを告げぬ嫁ぎゆくひと

  山城、大和行

 大和路を母とし行けば草萌えて            昭15春
     山かげとおく春の雲とぶ

 梅馨る飛鳥のみやびここに見て
     法隆寺辺雪ふりしきる

 母上の人車(くるま)に近く付添いて
     春日の宮に詣でける哉

 天地に生命の深く強からば
     など青春に悔なかるべき

 惜しまるる別れは宏き天地に
     また旅立たむ我は旅人

  折にふれて

 鳩遊ぶ湯島の宮に春深く              昭15春
     雨のあがりて若葉映ゆるも

 春宵の空しく更けてわれ酔わず          昭15.5.9
     グラスの数の白々として

 頬伝う涙に和ごむわが心
     すぎこし方は夢ならなくに

 湯の宿に霧ゆ流れて蓼科の            昭15.7
     峯をも分かず雲走りゆく

 友も亦砕かれて来ぬもろともに           昭16春
     赤き火みつつ何を語らむ

 希いつつ迷いつ我も辿り来し
     二十四年を貴しと思う

 星光る一瞬にして生は成る
     歓びも亦悲しみもまた

 去る月に母を亡くすと言いし女
     まつげも長く眉ほそかりき

 暮れ果てし四方の山々ふかぶかと           昭16.4
     甲府の駅の灯影あかるき

  野尻湖畔にて (友と)

 さざ波に光たゆたう湖や           昭16.7
     夏の生命をここにあつめて

  北海道にて(友と)

 水清き阿寒の流れ蕭々と              昭16.8
     畔りに咲きし名も知らぬ草

 透明な紅の色ほのぼのと
     北辺の地に陽は落ちんとす

 いるか跳ぶ津軽の海や潮疾き
     連絡船のエンヂン震う

 想う人の姿や千々に砕けつつ
     連絡船の澪(みお)の白さよ

 みちのくの小駅に雨ほそぼそと
     女角力の一行乗れる

 北の国の女に礼を書きし夜や             昭16.10
     月の面を雲かすめつつ

 生きんと思うただ生きむと思う             昭16.12
     その心のみ生命とや知る

 詩集虹より (抜粋)

  七星によせて (クラス会誌創刊に)

新緑萌えて春闌けて                昭11.11.12
花ほろほろと散るタベ
若き命に堪えかねて
柱によればわが瞳に
霞む夜空の七つ星

岸打つ波の音遠く
漁り火あわき夏の海
砂丘の蔭に春の日を
しばし夢みる桜貝
そを見守るや七つ星

鳴く蟋蟀の声も絶ゆ
武蔵の野辺の冬枯や
漠北遠く胡沙を捲き
老葉散らす北風に
光まされる七つ星

栄華よ富よ名よ地位よ
何か常なき人の世に
見よ北漠の空澄みて
永遠の運命を語るなり
七つの星の輝くを

  歓楽 (Tへ)                 昭16.12.27

春の日は過ぎ易くして
  何ゆえにかくも悲しき
想い出は懐しけれど
  明日ゆえに愁いは深けれ
真理とは誰の言うなる
  驕笑に送る日々の空しく
  装えど紅涙は頬を濡らさむ
君が手に盃を汲む日よ
  秋灯の影ほそくして
  なにゆえにかくも苦しき
風吹けば八ヶ岳峯ゆく雲よ
  ふる里は遥か彼方ぞ
狭霧こむ白樺の林に
  幸いの鳥や棲むなる
登り来し峠に立ちて
  落日の赤きを見れば
  君なくて明日を待つ身に
果敢なくも美しき陽よ
  幸いはいつの日か帰りて
  懐しき君が香を抱かむ

  断片                    昭23.8.28

§人生は万華鏡のように多彩で
  生命はプリズムの様に陽の影を分ける
 生きることは苦しいけれど
  それゆえに楽しく・・・・・そして、
 悲しみは寄辺ない孤舟のように
  いつも心の湖に漂う。

§身に鉄甲を鎧えど歴史の轍は
  容赦なく人を踏みにじって行くが、
 その歴史を動かしているもの…人々々
 それは誰でもない。貴方であり、私である。

§洋々たる河の堰もあえず流れゆく姿…
 茫々たる滄海の狂乱怒濤。
  それが歴史だ、社会だ
   そして人の世の常態ではないか。
 眼くるめくばかりの緊張の中に、
  ヒューマニティーは窒息し
   絢乱たる生命が色あせる。

§而し嫋々としてつきない地下水の様に、
  地の底を流れ、果てしなく拡がり、脈打って通う。それは人の心である。
 心々々……集っては大河となり、奔騰しては又滄茫の怒濤となる。

§ああ生きる事が価値でなくて何であろう。
  人生が至上の芸術でないと誰が言うか。
 それは楊柳の影を落とす運河の様に多岐で、
  天かける燕(つばくろ)の翅(はね)にかげる
       陽光のように儚ない。

  電車の中で想う                   昭33.9.1

 こんな資源の貧困な日本で
  おびただしい数のくるまが
 それにスクーター、オート三輪車等々が、
  騒音と砂埃をまき散らしながら
 大通りから溢れてその裏の、
  又その裏の狭い道まで走りぬけてゆく。
 全くどうかしているんじゃないか?
 この国には政府がないんじゃないか?
 道路は一向に広くならないで、
  車の数ばかり増えてゆくのだ。
 この車が無事の子供を傷つけ、
  子供達の遊び場を侵略し、
  この車に乗っている人も傷つく。
 そして車を生産している会社だけが、
  発展して恩恵を受けているというのは。
 政府は生産を奨励しているのか?
       災害を助成しているのか?
 二十世紀は全く不可解だ。
 文化と文明の相剋のうちに
       夜が更け、そしてまた朝が訪れる。
 いや二十世紀が不可解なのではない。
 この国の政治が不可解なのであろう。
 その様な政治が行われ、その様な政治家が選ばれ、そして又いくらやり方を変えてもその様な政治屋しか出てこないとしたら、それは日本人が不可解なのである。
 尤もそれはこんなことで済みはしない。
 もっと大きな矛盾を飽きる程見て来ている。
 不合理、そんな程度じゃない。不合理にさえ気付かない次元の日本人の風土的体質ではないのか?

 従軍短歌集 蒼魂より (抜粋)

 楊柳のみどり眼にしむ心地して               昭19.4.3
     軍旅の中に春ゆかんとす

 三日月に誓いしことや忘るべき
     八重の汐路を遠くへだつも

 ふる里の桜の便りなつかしき               昭19.5
     君が情けの匂うがごとく

 思うこと今日もつくさず筆おきて
     夕映え空に心放つも

 空襲のサイレン止みしこのしじま
     やぶ鶯の声に破らる

 君在わす東(ひんがし)の空遥拝す
     征野の朝は清々しかり

 うぐいすの声も姻りて細雨かな              昭19.6
 そこはかと螢火もゆる想いかな

 君がため世のため命惜しからめ、
     幼き心ぞいとほしきかも

 国のため担いし銃は重からじ
     父母安らけく今日をいませば

 軍刀と上書ありし父上の               昭19.8
     肩いかりたる字の懐しき

 裸火のかそけく揺れてふる里へ
     ふみ書く夜や星のさやけき

 湧き立ちて眩(まばゆ)きばかり大陸の         (漢口府)
     黄金の雲のすさまじき哉

 討伐の戦友を送りし兵営の
     しじま破りて銃声聞こゆ

 時ならぬ兵士どもの訪れに
     若き女は瞳もあげず              (検索の夜)

 花は散り香は移ろえど長江の
     流れ豊かに民は棲むなり

 かくほどの掟に我を縛るとも
     世に星辰の道はありなむ

 インテリの名にこそ誇れ人の世の
     重き運命(サダメ)にわれ耐えたりと

 玉盃に影を映せし人はあらず             昭19秋
     異国の丘の秋にたたずむ

§玉盃とは出征のとき汲みかわした酒盃で、その後、行旅を共にしたカットグラス。

  想夜                      19.8.12

玉盃に黄金の酒は溢れず
晩夏蕭々……
月明の夜に青狐はたたずみて
ひとり万里の途を想う。
影法師の首の細さに、
この世の叡智の限りを集めようとして。

  断想                      19.9.10

そうろうたる歩み、
倦んだ心に、倦み疲れたる青狐よ、
されど夢寂(むび)にも忘れはしない。
太平洋海戦!!
戦機は将に熟さずや。
雄渾な艦隊の戦列と、空を掩う編隊機群。
蒼茫の果て狂乱怒濤の中に、
これが最後の切札。
そして運命の時間切れ。
ああ大陸の一隅にいて、青狐は想う。

そのかみにファウスト読みし我幼し、
     いまひたすらに読みたきわれは
われの中にメフィストフェレス棲むと言えば
     妻は笑いて答えざりしが
月明に敵機や来ると戦友は
     脚絆を解かずいねにけり
初年兵と呼ばれし昔なつかしき
     かくほどものを思わざりしが

 霞立つ地平の果てや父母の国                 昭20.1
 年賀状書く筆止めし爆破音

 蒼空を切りてひらめく鳶の翅に              昭20.1
     夢をのせたりクヌルプの夢を

 いとけなき従妹や文に疎開すと
     心強くも知らせ来し哉

 不時着の敵機索(もと)めて冬の道               昭20.2
 討伐に出立つ朝や雪白し

 眼覚むれば暁ばかり白かりき             昭20.5
     妻とまどいて在りし我かわ

 硫黄島に数万の将士玉砕す
     我つつしみていまに生きなむ

 梓弓引きしぼりたる丈夫の                 昭20.7
     征矢は折れても帰らじと知れ

 み軍(いくさ)の果て白雲の峯遠く
     道踏みわけて今日も征くなり

 白雨過ぎ青葉のゆるるしじまかな            昭20.7
 夕月や生きてある身の影ほそく

 炎熱に蝸牛の如く草を匐い      (接敵)        昭20.8
 螢火の吸われる闇や音もなく

  無題 (ソ連宣戦布告に)          20.8.9

 政戦両略共不全
 将相功成誤大局
 千万蒼生そつ肝胆
 遠征士卒疲奔命

  遠征賦              20.8.10

 万里遠征異郷雲
 山河漠々似郷辺
 馳馬操舟将無暇
 夜半夢醒仰星光

§大東亜戦争は人類が人間を知るための陣痛であろう。    昭20.8.10

 懸軍の将兵万里の地にありて       (終戦)       20.8.15
     詔畏(みことかし)こみただ涙のむ

 敗戦の報手にしたりわれ等いま          20.8.16
     楚歌に囲まれ故国遙けし

 蕭々の広野の夜や
     幻の大軍東に還らむとして

 死は易し万里の血路遠くとも
     大和男児の坐して死すべき

 天つ日はけふも輝く神州の            20.8.18
     不滅の道をわれ信じつつ

 うつし世の栄枯の影はさながらに
     尾根分けてゆく驟雨にも似て

 わが前に万死の道はいまだあり
     妻と父母との写真を焼く日

 銀糸にて家紋を縫いし守袋
     叔母上の白き手指を目にみる心地す

 狂乱と怒濤の中に同胞は
     今日という日を如何に生くらむ

 父上よ健かであれひたすらに           昭20.8.27
     壮かりし日の父を想いつ

 たらちねの恵みに生いし我等いま
     老いにし人のために生くべし

 雲のとぶ中支の畔り去る日にぞ
     大いなるつとめ我を待つなり

 国破れ異郷万里にわれ等あり
     うつつともなき故郷の夢

 在りし日の世は移ろへりわが想い
     刃の如く澄む心地して

 死せる身に白刃の垣は怖れじな
     踏み込みてこそ生もありなむ

 ほのかなる馨りはここに残れども        (香水)
     ああ追憶のバラは萎えたり

 秋風や芭蕉は知らず我は在り        (虜囚)     昭20.9.10
 蒼烟の消えゆく果てや秋の雲

 波騒ぐ入江の海は深からじ
     燃ゆる思いは堅く閉ざして

 傷つきし病院船の帰り行く
     愛馬と共にしばし見送る

 水清き故国の岸やいつ踏まん      (愛馬)
     芙蓉よ共に還らざらめや

 乗馬行バンドにゆるるジャンク哉
 秋風やたて髪揺するわが想い
 江を行く病院船へ鞭を振り

 うづ高き御賜(おんし)の姻草殻焚きぬ
     夕日の色の薄れゆくころ

 秋風にアカシアの葉のそよぐなり
     帰還の命を待つ日この頃

 二次元の世界はここに極まれど
     高次の世界わが胸にあり

 正規軍一個中隊来しという         (中国軍)
     兵の噂を風呂で聞きつつ

 今朝も亦朝顔咲けり秋風の
     しどと身に泌む頃とはなりぬ

 つつましき色香なりけり朝顔の
     日数指折る生命なりせば

 香水の封を切りたりヘリオトロープ
     妻の香りの部屋に流れて

 不沈艦沈み果てたり大海軍
     科学日本の誇りむなしき

 「不拡大」拡大したり日の本の
     戦の道を霧掩いつつ

 母馬は輜重量曳けり仔馬また       (敗残)
     荷物を負いて転進すなり

 戦いに敗れし思いしみじみと
     卒伍も馬も共に枯るなり

 騒然と愛馬を駆れば漢口府           (連絡)
     明日国府軍入城と聴く

 鞭あげてバンドを行くや漢口府
     再来の日のまたあらめやも

 戴家山城開け渡す夜寒かな     (開城)      昭20.9.24
 秋風や無心に馬の歩みかな

  武装解除 (含、軍馬)

 別れじの別れなりけり我が駒よ
     大陸の野に永がく生きてむ

 草枕抱きていねしこの剣           昭20.9.25
     今宵一夜を共に明かさむ

 日の本の剣なりけり玲瀧の
     肌えもにえも匂ふが如く

 雨風は幕舎に防ぐすべもなく         (虜囚)
     敗残の身の胸に泌み入る

 明日よりは重慶軍の給与ぞと
     兵等笑いし声うつろなる

 待つ船の噂も消えて兵等また          (帰還)
     ものを語らず今日を生くなり

 小隊長官舎と兵は呼びたれど             20.10.10
     四枚の幕布四畳半なり

 三日月の美しき夜や六尺の
     幕舎の中の寂漠として

 消灯のラッパ響きぬみ軍の
     栄光の日といまも変らず

 秋澄みて虫の音しげき丘の辺に
     兵等の幕舎ともしび消えし

 爽涼や旭に祈る人のあり              昭20.10

 頬髪に霜を交へし兵のあり
     齢いは問わず労苦ねぎらふ

 顔洗う水冷えびえと秋深む
     クリークの面に空は澄みつつ

 九州の訛で語る兵士等は
     故郷の秋をなつかしみつつ

 温きお茶召せという当番兵           (伝令)
     心づかいのうれしかりける

 不自由の中に知らるる伝令の
     心遣いは貴きものを

 飯櫃を洗う兵士等クリークに
     髪面映し何を語らふ

 角力する兵集合と呼び歩く
     週番下士の気合かかりて

 一喜一憂勝負を競う土俵上
     虜囚の心かげをとどめず

 この兵等敗けしと誰かいふべかり
     気迫は高く眉に溢れて

 死すべくば死をこそ選べ、生くべくば
     死よりもつらい生に徹せむ

 悲しくば誰よりも悲しこれをこそ
     世の生き甲斐とわれは言わまし

 司令部も亦移転せり我らまた
     いづこに向い移動するらむ

 払えども追えども来たる小輩の
     物売る性(さが)に長じたる民

 戦いは武器とるだけにあらめやも
     常住戦場この国のたみ

 在りし日の友軍機なり双翼に         昭20.10.15
     白日のマークいまは悲しも

 熱に病みし兵に与えし一椀の
     カルピスの味忘れじといふ

 今日も亦使役に暮れし兵士等は
     練武の腕を寂しく撫する

 知らぬ間に秋草生いし幕舎かな

 今日も亦うつつに過ぎぬなまなかに
     生きてある身は空しきものを

 空腹に一日長しと思ふかな             昭20.10.21
     二食になりて幾日を経ぬ

 秋祭り笑いさざめく華人等は
     酒飲まずやと我に奨めし

 大学の業を畢(おわ)りて吾子はいま        (村長)
     官途に在りと老父語るも

 武漢大学卒業せりと吾子のこと
     語る老父はアルバム示しつ

 明月の宴や華人と草の中
 蟋蟀と共に棲む家二畳半

 隊長は病みて久しきこの兵等          (中隊長)
     率いて還る道の瞼しき

 親しまば煩わしとやなかなかに
     部落の民のむずかしきかな

 秋風や落人の身と萩と露

 栄養失調の兵もありけり郷関に
     帰る日いまだ遠からましを

 薬なく野菜尽きたりこの日頃
     衰え果てし兵如何せむ

 トランプと囲碁に興ずる兵士等は
     知らず来る日の雨か風かを

 一点の浮子(うき)に心を放ちたり
     雲映る池異郷ならめや

 魚の心水の心はわれ知らず
     時空の外にしばし遊ばむ

 ともしびは剪れども暗き二畳半
     伝令と汲む酒の久しき

 夢にみし妻は若かりにほやかに
     笑いてわれを迎へつれども

 秋深し長江遠く船来ずと            (引揚)
     兵の心は風に揺らるる

 姻草尽きぬ灯びつきぬこの暮し
     生命の限り生くるほかには

 朋友と呼び慣わして隣人の           (李氏)
     朝夕われを慰めんとや

 道義にも敗けたり我らそのかみに
     飛鳥の宮居建てしくに民

 帰国せば如何なる職に就くべきや
     兵ら語るを聞けば悲しも

 敗惨の中に戦友一人逝く
     霜葉落ちて秋深きかな

 両親も兄妹も無き部下なりき
     生きてある日の夢いかならむ

 動乱の中の漢口居留民
     若き女の運命を聞く

 空腹を共に語らず旨き物の
     話に時の経つを忘れし

 俘虜の身に新春は来にけりこの年を           昭21.1
     建設の年と口には言わね

 このままに眠りに落ちむ還へる日に
     夢さめばやと心に問ふも

 メンデルスゾーン春の調べや切なくも
     春待つこころ口づさみつつ

 太鼓打ちて狂うが如く踊りたり
     酒には酔わね想いみだれて

 労役に出でし日兵に姻草遣りぬ
     わが姻草なし明日から止めん

 幾日か無菜の日々も続きたり
     塩飯の塩の辛きを喜ぶ朝餉

 夜毎通う厨の路もその蔭に             (土匪潜入)
     怪しきものの潜む心地す

 冬空や数ふるほどの星高く         昭21冬

 クリークに体を洗ふ兵に春           昭21.3
 冬枯や真澄の空に鶴一羽
 冬空や鰌とる兵沼に立ち

  帰還列車 (徐州-鄭州i上海)

 無蓋貨車いく日を経ぬ雨風に
     破れし肌を嫌とふすべなし

   玉盃賦                 昭21.7
臨出陣捧青瑠酒
君笑而一場夢
紅唇復不語何想
玉盃空還万里途
  §玉盃は軍旅の間、携行した群青色のカットグラス

 さもあらばあれ。わが青春は有史以来の狂乱の時代、怒濤逆捲く敗惨の世想の中にフィナーレを迎えたのであった。
 いまは空しき数々の英魂よ。わが友、わが戦友の栄光の日々を偲びつつこの稿を了る。