4組  間宮健一郎

 

 いざ筆を執ろうとすると、それは随分遠い時の流れを遡るようでなかなか思い出せないもどかしさが先にたちます。ただ上田先生が急逝された五月の季節を想うと、当時閑雅に見えた国立の風物、疎林の中にそびえ立つ学塔、そして惜しみなく新緑の大地に降り注いでいた初夏の陽光、そういう背景の中で先生の訃に接した時に、私たちの受けたショック。余りにも対照的な事象と共に先生の面影がそこはかとなく私の心に蘇える思いがいたします。それは四十余年の歳月を一気にとびこえて、つい先頃のことの様にさえ思われて来るのです。

 私が予科を了えて学部へ通うようになったのは昭和十四年四月。上田先生との御縁はこの頃から始ったのです。而し先生に直接お目にかかれるようになったのはその頃学内の自治組織であった社団法人一橋会の理事の一員に私も加わり、学長即ち会長であられた上田先生に接する機会に恵まれてからでした。

 当時一見平穏に見えた学園も、日華事変の進展を背景に思想の取締りが強化され、その中で自由主義の伝統を貫いて来た一橋には当局の風当りが並々でなかったと思われます。
 私達の先輩で優秀な学生の何人かが純粋な若い心身を犠牲にしたこともあったのです。(私達も亦、先生を喪った翌年には戦時下であるという名分で繰上卒業という異例の措置を受け、大部分の学生が軍隊に動員されることになりました。)そういう時期に学長になられていた上田先生は経済学者としてのみならず、真理を愛する若い世代を育くむために、とりわけきびしい信念と抱負をお持ちであったと思われます。

 青年時代留学中に小泉信三先生とはロンドンで下宿を共にされたこともあるとか。日頃の何気ない雑談の中に思いがけないお話がとび出る人間味。学問上のきびしさも、重厚温和な風ぼうと時折のユーモアで、先生は学問上の師だけではない人間的信頼と敬慕を生み出していたのだと思います。

 而し幸せの時は移ろい易く、上田先生は私達の心に束の間の光芒を残して、昭和十五年五月八日私達には全く思いがけない訣別を告げられたのでした。勢の赴くところ、私達在学生は当時の緊迫した情勢の中で、学園の将来の指針としても、又止み難い敬慕の情としても、先生の遺影を学園の中で最も学生の身近な場所に残したいという切望を持ちました。そして胸像建設のための学生の自主的な計画と募金が始められたのです。

 私達がこの計画を進めるため朝倉文雄先生を訪問したのは昭和十五年の夏休みが近づいた頃でした。同行の和田一雄君と敢えて大家の門を叩いた日の記憶はいまもすがすがしく覚えています。
 私達が朝倉先生にお願いした結果は学生(全校生)の熱望であるからということで胸像制作を快諾されたばかりでなくブロンズとか、礎石用の二米に及ぶ大型御影石とか、その材料代にひとしい費用で据付完了までの一切を引受けて下さったのでした。爾来四十有余年。この胸像はいまも国立の母校のグランドの畔りに、黙々と学園の春秋を見守っているのです。

 当時の朝倉邸は日暮里にあって上野の杜の幽遂の影深く三十畳にも余ると思われる応接間が浮御堂の様に大池の上にかかり、その床下に金鱗の鯉が出入りして遊泳するさまが、当世風のきらびやかさではない建物の落着きと調和してその幽雅な趣が当代の名家の好みにふさわしく思われました。
 聞く所ではその頃吉川英治先生を始め文人墨客、朝野の貴顕がこのサロンに集っていた由でした。私達の訪問はその後も数回にわたり、小田橋貞寿さん、下元進介君等が交替で同行して下さったように思います。御令息の上田正一さんもお訪ねになり、朝倉先生がよく似ていらっしゃる生きたモデルではないかと申されたこともありました。

 当然のことですが朝倉先生からは上田先生の胸像建設について学生の熱意が何故このように烈しいのか、その然らしめる所以は何か、上田先生の風格について等々いろいろの、こ質問があり、それに対する私達の応答から制作のためのイメージを具体化されて行かれたのだと思われます。
 夏から秋へ。歓談を度々重ねたことにより、私達の胸中にあった上田先生の遺影が朝倉先生の制作意欲と融合し、徐々にその姿を顕わして行った様に思われます。
 後に朝倉先生が文芸世紀(昭和十六年二月号)に寄稿されている文章の一部からこの間の情況をご推察願いたいと思います。

 「私は永い間彫刻をして来たうちに在校生一同からその学校の校庭にその学生の教えられた先生の像を制作して呉れと頼まれた事は一度もなかった。昨年の春か、上田貞次郎先生が亡くなられると在校生が皆泣き、それと同時に先生の姿を永久に校庭に止めよう、それは卒業生や先輩には少しもお世話にならず、自分達の力でしよう。費用はなくても理由を話せば私がやって呉れるだろう、と云うのでやって来たと若い二人の学生が胸像を自分達の力で校庭に残したいと熱心に語った。私は今の学校の学生には珍しい話だと思った。そうして学生の云う通りに建ててやった。工事中には学生が土運びなどをして呉れた。」と。

 朝倉先生はまた、
「外出嫌いな私に、一度国立へ来て建設場所を見て下さいというので学生の案内で学校へ敷地を見に行った。」
 と書かれ、その時校庭に池があって沢山の鯉や川魚がいたが大変馴れていて音がするとその方へ集って来る。それは学生達がパン屑等を投げてやる長い間の習慣でそうなったという説明を学生から聞いて、
「この池にも前学長の上田先生の感化が残っているような気がした。多分こうした池の囲りなどでも魚にパンを投げたりなどして学生にいろいろの事を語られたのではないかと云うように思われてならなかった。」とも書かれています。そしてまたこの寄稿の冒頭には次のようにも書かれているのです。「少人数のみを教える彫刻のような仕事はその教える人の人格や技術を尊敬して集った私塾のようなところが一番いいと思って居り、自分も塾を開いて居る。而し多数人材を世に送るには学校でなくてはならないが、これに私塾のように生徒と先生の間に血液が交流して、云わず語らずの間にも先生の薫育を受けて居るやうな方法が行われるならば一番いい事だと思っている。そうして全くそれは空想で出来ない事だとは考えていない。それはそうした例を最近知ったからである。東京府下に国立というところがある。そうしてここには東京商科大学があって、云々」と。

 ここに語られている朝倉先生の心情は奇しくも、上田先生と私達学生の師弟関係、当時の母校の伝統について、良き理解者であったばかりでなく、むしろ理想を同じくしておられたように思われます。

 こうして上田先生のご風格を又母校の学風を朝倉先生にご理解戴けたことが胸像建設を達成する結果になったと思いますが、又学生達の熱意が私達の稚拙な表現にも拘らず朝倉先生のお心を動かし、有形無形のご援助を頂いたことと思われます。
 朝倉先生は更に上田先生の奥様がお寂しいだろうと、その後同じ原型による胸像一基を作られ上田家へご寄贈になりました。これは奥様御逝去の後東京商科大学へ寄贈され、現在国立の図書館に置かれていると思います。
 既に幾星霜。朝倉先生も亦故人となられました。両先生を懐かしみ、心からご冥福を祈りつつ筆を擱きます。