5組  重松 輝彦

 

 われわれは、米英に対する開戦のニュースを聞きながら徴兵検査を受け、その直後に学校を卒えた。爾後、日本経済の将来を考えるときに、好むと好まざるとにかかわらず、米国を意識の外に置くことはできなかったのであろう。

 日本が敗れた原因は何か。彼我物量の差と一口に言われているが、私はこれに技術力の差を付け加えたい。私は昭和十七年に横浜正金銀行に入ったが、その調査部で米国経済週報なるものを作成させられたのを皮切りに、米国との縁が深くなった。この初仕事で、情報不足に悩んでいたころ、第一回の交換船で、米英等に駐在していた多数の先輩が帰国した。その一人で、大正十年東京高商卒業の大先輩から聞いたことを、今でも鮮明に思い出す。

 「アメリカはね、君、おそろしく底力のある国だよ。例えば、日本では船を増産するといえば、現在有る船台を休みなく使おうとするだろう。ところが、アメリカでは、まずさっさと船台そのものを増やしてしまうんだ。」と。この底力は物量だけではないはずだ。

 大先輩は、その後、定期的に軍人の集りに出席して、米国についての薀蓄をかたむけていたようだ。ところが、このような会合に出ていた中堅将校の多くは軍首脳と相容れず、南方第一戦に飛ばされてしまい、会合は自然消滅となったという。敵を知らずして百戦を危くした一例である。

 私は、後に、正金の南京と上海の両支店に勤務したが、敗戦後に、上海で観た「サイパン」なる映画の最終場面が忘れられない。それは、米軍が同島占領後、立ち所に航空基地を作り、そこを飛立ったB29の前面一杯に、やがて、富士の山容が迫るように浮び上ったことだ。米機は、日本空襲に際し、まず富士を目指して飛行し、それが見えてから各目的地に向うという説明であった、国の敗れるときは、山河までが敵を助ける。これも短期間に大量のB29を戦線に配備しえた米国の技術力の成果であろう。

 第二次大戦中から戦後にかけて、米国民は、自然科学にしろ社会科学にしろ、研究、開発に関し、その手段、方法についての基礎条件をマスターしたと信じており、これらの分野で世界を指導するのは自分達であるという信念ができあがっていた。それも宜なるかな、一九四〇年のレーダー開発、一九四二年の核分裂連鎖反応のコントロール、一九四五年の核爆発、一九四六年のコンピュータの開発など、画期的な発明が相次いで米国人の手によって行われている。

 ところが、この米国人の自信を根底からくつがえす事態が突如として発生した。それが、一九五七年十月四日のソ連によるスプートニック一号の打上げである。
 かくて、宇宙時代の幕開けはソ連により行われることになったが、この出来事が米国民に与えたショックの大きさは計り知れず、米国のどこが悪いのか、ソ連のどこが良いのか、と、国をあげて熱心な検討が繰り返された。私が東京銀行のニューヨーク支店に赴任したのは、このショックの余爆がくすぶっている一九五八年の春であった。
 彼等の検討は多岐にわたり、教育の基本にまでおよんだ。特に数学教育の改革と、技術者の質量双方の増強問題がとりあげられていた。
 国の存亡に関する重大事件に遭遇した場合、徹底的に原因を究明して出直すという米国民気質を間のあたりに見ることができた。
 刻苦勉励の結果、十二年後の一九六九年に米国人が月面に降り立ったことにより、スプートニック・ショックで失った自信の半分程度は取り戻せたようであった。今春のスペースシャトルの打上および回収の成功により、残る半分の自信も取り戻せたと思うが、実に、臥薪嘗胆四分の一世紀に垂んとする努力の結晶であった。

 私のニューヨーク滞在は一九六一年初頭までであったが、その当時、米国の経済力は他国に隔絶しており、日本の経済発展についても、米国の援助を巧みに利用して復興を遂げた優等生として、賞賛と激励を与える先生の態度であった。不況とは言っても街には車が溢れ、フォードやシボレーといった大衆車ですら、一八○から二五〇馬力の六気筒ないし八気筒エンジンで、ガソリンを垂れ流しており、米国人は高度の生活様式に何等の疑問を感じていなかった。道路の立体交差にしても、各家庭のセントラルヒーテイングにしても、そのころの日本人にとっては、珍らしくまた羨しいものであった。

 米国が大国の余裕を失ったのは、ベトナム戦争の泥沼に足をとられてからであろう。私は、一九六五年の秋から一九六九年の春先まで、日本輸出入銀行のワシントン事務所に駐在した。このころジョンソン大統領は、一方では「偉大な社会」構想を掲げた社会福祉を増大しながら、他方ではずるずると戦争を拡大した。このバターも大砲もという政策を遂行するために、米国の経済力は大量に浪費されて、現在まで続くインフレの原点となったものと思う。一九五〇年代末にクリーピング・インフレーションが騒がれたことがあったが、当時の日本の状態とくらべれば、米国の物価騰貴は物の数ではなかった。

 労働力の低能率もジョンソンの時代から始ったと思われる。出征兵士の補充として、常態では市場に顔の出せない労働力が狩り出されたからである。
 黒人暴動が年中行事となり、反戦デモが日常茶飯事となった。ワシントンの街では白昼からかっばらいが横行し、ニューヨークの一流ホテルでは、鍵のかけてある部屋ですら荒らされるようになった。
 米国民は、ケネディ、ジョンソンと続いた民主党政権に嫌気がさして、一九六八年の大統領選挙では「法と秩序」の回復をスローガンとした共和党のニクソンに票を入れた。彼は戦争の終結は達成したが、自ら法に触れて二期目の半ばで辞職せざるえなかった。この間、一九七一年八月十五日にニクソンは、貿易赤字と国際収支不足とに直面して、米ドルと金の結び付きを断つとともに、賃金、物価、家賃の凍結を実施した。これが世界の経済界を震憾させた所謂「ニクンンショック」である。長い戦争と高福祉とのために、さしもの米国経済もここまで追い詰められてしまった。
 続くカーターもインフレを制御できないままにレーガンに引継いだ。

 このような経済上の困難にもかかわらず、大学や研究所における研究開発は、休むことなく続けられていた。米国の大学の先生方は、研究の成果を必ず毎年発表する。その内容によってポストが変化する。発表すべき成果がなければ職を失う。研究成果とほど遠い評論などを書いていて、地位を保てるような生やさしい所ではない。そのかわり、優れた業績をあげていれば、各大学・研究所から引っ張り凧になる。

 また、研究者の養成にも力を入れている。大学院生は学費と生活費を賄える程度の金額を大学院から支給される。大学院は政府や企業が拠出してくれた各種のファンドの中からこれらの費用を支払う。したがって大学院が入学を許す学生の数は、使用できる資金量によって左右されるのが、通常であり、自費学生は稀であるようだ。学生の反対給付は、教室で週に二、三時間学部学生の実験を指導するなど、専門科目に関連した仕事に限られる。

 次に入学試験であるが、高校から大学への場合にしろ、大学から大学院への場合にしろ、全国一斉試験が実施されている。前者は、Scholastic Aptitude Testといい、後者は、医学系を除き、Graduate Record Examinationというが、試験科目は、ともに、英語、数学、専門科目で計三科目である。大学の場合は英数に、大学院の場合には専門科目の方にウエイトがかけられる。また高校でも大学でも頻繁に日常試験を行い、これらの平均点を入学志望校に連絡する。大学ないし大学院では、全国一斉試験の結果と日常試験の平均点とに基いて合否を決定する。講義をサボってアルバイトに現を抜かしている学生には、進学の機会はない。

 入学も楽ではないが、卒業は更にむづかしく、ワシントン郊外の小さいカレッジの実例によると、化学部の場合、卒業生の数は入学時の三分の一に満たなかったという。

 米国経済の困難をよそに日本は、米国の庇護の下に、防衛費を徹底的に切り詰めて民生の向上に努め、前述のニクソンショックも、また前後二回の石油ショックも、曲りなりにも乗り切って、自由陣営第二位の経済力を享受していることはご高承の通り。産業によっては米国を凌駕しているものもあるようだ。私はワシントン滞在中に空気の変化を感じたが、育ち過ぎた生徒に対して先生は、最早寛大ではない。頼もしさを感ずるとともに、脅威を感ずる。困れば師事を求めることもあろう。日本は、これまで目標としてきた米国からおだてられて、組みしやすしの感をいだいたらとんでもないことだ。ここで改めて冒頭に申し述べた米国の底力に思いを至す必要がある。日本が今、追いついた、あるいは追い越したと思うものは、米国という氷山の海面上に浮ぶほんの一角に過ぎない。試みに日本は現在、スペイスシャトルを飛ばす力を持っているかどうか自問自答して見給え。あの組織力、技術力、労働力、どれをとってみても範とすべきものではないか。月曜日に組立てた車は危険だといわれるが、その車を作るのも米国の労働力であり、スペインシヤトルを作るのもまた米国の労働力である。米国は日本のように労働者が均質でなく、人種、民族が異るとともにその能力も千差万別である。各種の難問をかかえながらも、米国民は今や十数年におよぶ挫折感から解放され、レーガン大統領を中心として、ようやく強いアメリカの再建に乗り出した。

 日本の現在までの経済発展は、欧米からテクノロジーを輸入して、それをそのまま、あるいは若干の改良を加えて、利用することによって行われてきた。日本で研究開発というものは、その改良ないし応用技術をいうにすぎないようだ。この程度ならば多額の資金を必要とすることもない。しかしこのままでは、技術について何時までも欧米の後塵を拝するに止まる。われわれは、ここらで米国のように画期的な技術開発力の養成に力を入れようではないか。それには既存技術の応用とは比較にならないほど多額の投資が必要となろう。しかし今これらの投資を実行しなければ、日本の優秀な研究者は、やがて、米国その他の研究機関に吸収されて、残る者は滓ばかりということになりかねない。「経済安保」ではないが、世界的に見て、日本の大学は、自然科学に関しては、一流の評価をうけるにむづかしい状態にあるという。このような状況が続けば、回り回って経済の発展も頭を打つ。スプートニックショックを克服した米国の例もある。今ならまだ間に合う。