5組  谷 虎三郎

 

 十二月クラブの名簿で五組の、亦楽会の物故者を数えると十名、その中いくさで散華しな会員四人。天谷幸和、小池真澄、仲山淑夫、松井孝夫。誰も彼も皆いい奴でした。素晴しい若者達でした。小池シントが十九年七月、仲山オンチが同じ年の十一月、天谷が十二月、そして松井が二十年六月にその若い命を戦場で失ってしまいました。

 昭和十一年春、私達は小平に集まりました。
 この年二月、軍の一部によるクーデタが企てられましたが数日で鎮圧されました。しかし小平の木立にはまだ静謐があり、のびやかな鳥の囀りがあり、空には陽の耀きがありました。

 五組は亦楽会と名のることになりました。村上先生に教わった論語学而篇の冒頭より籍り杉山三郊先生から「亦楽」の二字を書いて頂いたのですが、その故か皆気の合った仲間で友達を大切にしています。
 教室での机の配置はアイウエオ順でしたからムッシュウプルニュエの出欠の点検は「アマヤ」「プレゾン」から始まりました。
 天谷は真面目な努力家でした。早くから将来の目標を設定し、それに到達することに自分を燃焼させるというタイプでした。
 小池シントは純真でした。周囲の悪童がよくからかいました。日常の動作のなかに何故か、おかしみがありました。彼はむきになるのです。英語は擢でていました。、ミスタースピンクスとのやりとりなど、ただ呆然として眺めておりました。
 仲山オンチは不器用で音痴でした。音痴といえばシントも負けず劣らずでいい勝負だったと覚えています。オンチは何をするにしても差があり、その故か動作が皆よりワンテンポ遅れました。でも心の温い奴でした。仲間の面倒見は抜群でした。
 松井は上品とか気取りとかを軽蔑していました。ですから日常会話でも馬鹿っ話が主体でした。話にはおかしみがあり、その語りロには人を自分の囲りに引き寄せるくせがありました。数学の杉浦さん、夏近くなるとアルプス登攀回顧談のお粗末を連続でやってくださったまでは有難かったんですが勢余って新聞の社会面まで賑すことになり、これが偶々教室で話題になって松井が悪乗りして中村為さんを怒らせ、授業途中で教官室に戻ってしまうというハプニング。この時詑を入れに行ったのが仲山オンチ。いろんなことがありました。

 いくさは惨いです。無辜の人の生命を容赦なく奪ってしまいました。亦楽会もこの四人の仲間を失いました。
 五月、十二月クラブの奥多摩バスハイキングの折、国立へ寄りました。兼松講堂の前に立って感慨一入でした。昭和十六年十二月、慌しくこの講堂を立去って再び相まみゆることのない友の数々。あれから四十星霜、池の辺に、少くなった木立の蔭に往時を偲んできました。
 そして老残の身の、生命存えている、だがこれも人生と呟きました。

 




卒業25周年記念アルバムより