5組  中村富士夫

 

 卒業四十週年の記念文の筆をとるにあたり、よくマア参加出来たものだと言うのが実感であり、月並みではあるが全く感無量なものがある。
 と云うのも昭和二十五年、胸を患い手術して二年半の療養生活を送り、それ以来会社と人生の五十五歳同時定年説が自分にとっての一種の願望でもあり理想と考えて来たからである。

 卒業後古河鉱業鰍ヨ入社、直ちに軍隊へ入り昭和二十年復員後、足尾鉱業所(金属)→九州大峰鉱業所(石炭)→高崎工場(機械)→大阪支店(営業)→大阪工場(化成品)と各部門を廻り、昭和五十一年現在の東亜ペイント活レ籍と色々と経験をし、大過なく概ね順調に会社生活を今日まで続けて居る事は幸わせと云うべきか・・・
 会社という所は組織があり、その組織の一コマとして働けば良いように出来て居るようであり、その枠をハミ出すと歯車が狂ってくる。所詮枠の中での生活であり、その意味ではその枠の外にハミ出し度いという意志の程度に於て人間性を抑圧された人生と云えるかもしれない。
 然し幸いな事に卒業後四十年の今日に至るまで多少の起伏はあったものの、会社生活に大した抵抗を感じた事もなく、ごく自然にその終盤を迎えんとして居るのは私の性格が案外サラリーマンに向いて居たのかも知れないと思って居るし、上司、部下、同僚に恵まれた結果でもあろう。幸いな事である。
 又、家庭的には、私なりに私にふさわしい妻をめとり、私にふさわしい子供(男二人)と嫁、孫(男二人)に恵まれ、概ね自分らしい生き方を通せたと思って居る。振り返って見て極めて平凡ではあるが、ツイた人生であったとつくづく感じて居る。願わくばこのまま人生を全うしたいものである。

 先般新聞を読んで居たところ、『老人が路上で云々……』とあり、年齢六十歳と書いてあるのを見て誠にショックを感じた。考えてみれば既に還暦を過ぎ、如何に平均寿命が延びたとは云え、第三者から見ればやっばり『老人』という事になるのかもしれない。
 何となく毎日、公私共に多忙と自称して暮らして居るのでいつの間にか自覚が足りなくなったのか、或いはうぬぼれ過ぎて居たのであろうか…

 兎もあれ、自ら老人になったんだナァと実感の沸く日の一日も遅からん事を願いつつ、肩を張らずにハッピーなリタイアーを迎え度いものである。
 そしてリタイアー後も何とか充実した生活をするために、そろそろ『趣味、ゴルフ、麻雀』の脱出を計るべく、六十の手習いを、何にしようか真剣に考え始めた今日この頃である。

 



卒業25周年記念アルバムより