5組  山崎  坦

 

 私は何処から来たのか知らないし、何処へ行くのかも知らない。その道の途中に商大の六年が「青春」の始まりと終りの間として在った。

 昭和十一年、二・二六事件の朝は雪であった。中学卒業の通信簿を学校に貰いに行く為に世田谷太子堂から市ヶ谷加賀町に向かって出掛けたのだが、途中で省線が停まって居て歩いた様に覚えて居る。
 数えて見ると四十五年前の事だから、十七歳で世相にも頓着なく、「青春以前」であった。

 何年たったら過去が歴史になるのだろうか。もう歴史になって居るその頃の事を歴史書で見てみると、軍部独裁のファッショ体制に急速に移って行く時代で、その行きつく処が太平洋戦争であり、我が青春(商大時代)の終りとなって居る。

 予科の入試の受付で、列に並んで番号を貰った。その番号は四百十三番で縁起の良いものではなかったけれども、ヨイサと合格出来た。(不思議と皆受験番号を覚えて居るんだな。)
 亡き母がよく息子を誇に思って得意気に『坦は四百十三番でもヨイサと合格したのだ』と後々の語り草とした。母が発表を見に行って電話で合格を知らせて呉れた。皆嬉しかった。

 例年、入試科目の中に一つだけ暗記科目が課せられたのだが、その年は化学であった。最近化学関連の仕事に従事して居るのも何かの因縁かと思って居る。実は中学の時、化学で一学期に赤点をとり、あとの学期に満点をとって挽回して落第を免れた事があった。
 その気になるかならぬかが問題であった。

 謂うなれば受験地獄は既にそう云う言葉があった様に今に始まったことではなくて当時からそうであったし、受験勉強は役に立ったと思う。
 修身、教育勅語の小学校教育から論語、孟子(儒教)の中等教育を受けて十一年、そして今や予科の生活は以前の束縛を脱して自由の空に羽ばたく事であった。

 予科の教室は明るかった。ビントやオンロが当時かかった映画「メリーウィドー」の主題歌や宝塚少女歌劇の「ミュージック・アルバム」の主題歌を繰返し繰返し歌って居たのが耳に残って居る。皆この学校に入ったのが嬉しくて特に田舎から出て来た人は東京へ出て来たのが嬉しくてしょうがなかったのだ。
 何処え行ってもコンチネンタルタンゴ「碧空」のメロディが流れて居た。今でもこの曲を聞くと当時の情景が浮んで来る。

 ロマンチックであり、青春の始まりであった。
 暇(スコラ)があった。
 人並に目覚めてゾルレンに悩んだ。
 人生は不可解であったのだ。

 珠算とか簿記は侮どって懶けたが、哲学は大切に思って講義はよく聞いた。もっとも話はよく解らなかったが。
 随分立派な先生方の講義を伺って自分の人格が上等になった様に感じた。ゴールズワージーの「アップルトゥリー」、ヘロドタスの「ヒストリー」、モーパッサンの「プルミ工ールネージュ」の講読等々、素晴しい授業であった。
 河合栄次郎著「学生生活」のすすめに従ってツルゲネーフの初恋に初まる読むべき小説の乱読がはじまった。岩波文庫のあのインクの匂は全く懐しい。

 「ただ一度、二度とない若き日の幻
 命かけてただ一度、ままよ明日は消ゆる夢」

 (会議は踊る)(未完成)を初めとして映画もよく見た。ニュース映画などのタイトル音楽やら画面が走馬燈の様に思い出される。
 画面のアナベラ(巴里祭)に心がふるえた。「暁の翼」と云う題名の映画があった。「暁の翼」と云う名前の競走馬を育てる話であった。少年とばかり思われて居る男装の少女アナベラがこの駿馬の世話をして居る。或日パーティーに出席することとなり、突如として真紅のイヴニングドレスで階段の上に現われた。それは美しい乙女であった。私の心はふるえた。

女性は女神であり、神聖にして犯すべからざる永遠のグレチヘンであった。
あらゆるものに夢と憧れをもった。
学園は真善美を探究する処であった。
シュトルム・・ブント・ドランクの気持でもあった。

 我々のクラス名は高橋勝君の提案で「亦楽」となり、文字通り楽しいものとなった。寮生活に文化祭に、クラスチャンに精一杯青春を発散した。休暇に過した海や山の思出、「海運」の授業に関連して横浜から神戸迄商船による関西旅行。そして軍事教練、富士山麓などで行われた野外演習。

 社会はそんな学生生活とは関係なく動いて居た。軍隊では一般社会を地方と称し、一般民間人を地方人と呼んだ。十二月の繰上げ卒業、地方の生活を送る間もなく軍隊に入れられた。昭和十七年二月一日。粉雪の降る寒い日であった。
 その数日前、それは日比谷公会堂であった。戦前プロのオーケストラを聞く場所は此所しかなかったし、演ずるプロは日響しかなかった。音楽部に属し国立音校のコーラスに混じってローゼンシュトックの指揮によるべートーベンの第九の合唱を戦慄を伴う感激をもって体験したのも此所であった。

 その夜の曲目はチャイコフスキーのピアノコンチェルトであり、ピアノは井上園子であった。
 坊主頭でもう生涯こんな素晴しい音楽を聞く事も出来ないだろうと悲愴感をもって聞いたこの曲にどんなに感激したことか。
 この曲の終った時に我が青春は終って居たのかもしれない。