5組 山崎 坦 |
私は何処から来たのか知らないし、何処へ行くのかも知らない。その道の途中に商大の六年が「青春」の始まりと終りの間として在った。 昭和十一年、二・二六事件の朝は雪であった。中学卒業の通信簿を学校に貰いに行く為に世田谷太子堂から市ヶ谷加賀町に向かって出掛けたのだが、途中で省線が停まって居て歩いた様に覚えて居る。 何年たったら過去が歴史になるのだろうか。もう歴史になって居るその頃の事を歴史書で見てみると、軍部独裁のファッショ体制に急速に移って行く時代で、その行きつく処が太平洋戦争であり、我が青春(商大時代)の終りとなって居る。 予科の入試の受付で、列に並んで番号を貰った。その番号は四百十三番で縁起の良いものではなかったけれども、ヨイサと合格出来た。(不思議と皆受験番号を覚えて居るんだな。) 例年、入試科目の中に一つだけ暗記科目が課せられたのだが、その年は化学であった。最近化学関連の仕事に従事して居るのも何かの因縁かと思って居る。実は中学の時、化学で一学期に赤点をとり、あとの学期に満点をとって挽回して落第を免れた事があった。 謂うなれば受験地獄は既にそう云う言葉があった様に今に始まったことではなくて当時からそうであったし、受験勉強は役に立ったと思う。 予科の教室は明るかった。ビントやオンロが当時かかった映画「メリーウィドー」の主題歌や宝塚少女歌劇の「ミュージック・アルバム」の主題歌を繰返し繰返し歌って居たのが耳に残って居る。皆この学校に入ったのが嬉しくて特に田舎から出て来た人は東京へ出て来たのが嬉しくてしょうがなかったのだ。 ロマンチックであり、青春の始まりであった。 珠算とか簿記は侮どって懶けたが、哲学は大切に思って講義はよく聞いた。もっとも話はよく解らなかったが。 「ただ一度、二度とない若き日の幻 (会議は踊る)(未完成)を初めとして映画もよく見た。ニュース映画などのタイトル音楽やら画面が走馬燈の様に思い出される。 女性は女神であり、神聖にして犯すべからざる永遠のグレチヘンであった。 我々のクラス名は高橋勝君の提案で「亦楽」となり、文字通り楽しいものとなった。寮生活に文化祭に、クラスチャンに精一杯青春を発散した。休暇に過した海や山の思出、「海運」の授業に関連して横浜から神戸迄商船による関西旅行。そして軍事教練、富士山麓などで行われた野外演習。 社会はそんな学生生活とは関係なく動いて居た。軍隊では一般社会を地方と称し、一般民間人を地方人と呼んだ。十二月の繰上げ卒業、地方の生活を送る間もなく軍隊に入れられた。昭和十七年二月一日。粉雪の降る寒い日であった。 その夜の曲目はチャイコフスキーのピアノコンチェルトであり、ピアノは井上園子であった。 |