5組  和田  篤

 

 昭和十六年十二月に繰り上げ卒業させられた我々は、陸軍か海軍のいづれかに取られることが確実であり、私は海軍短期現役主計科士官を志願し、昭和十七年一月二十日築地の海軍経理学校に入校した。東京商大からは三十三名、東大、京大、早稲田、慶応その他高商の卒業生ばかり約三百二十名が集った。当日付で大学卒は海軍主計中尉に、又高商卒は海軍主計候補生に任官した。一月下旬の最も寒い季節に主計科士官としての基本訓練、海軍の諸規則、任務内容の勉強、或いは陸戦カッター等の実技訓練を四ヶ月受けて五月二十日に夫々連合艦隊や前線基地、航空隊、海軍省等へと配属された。私は東大出身大蔵省より入った青山俊君(後の銀行局長)と慶応出身でブリッヂストンの山崎淳一君の二名と共に一万噸巡洋艦「妙高」乗組となり呉で乗艦した。この妙高は奇しくも私の実父が昭和六年頃艦長をしたことのある艦で海軍省もよく調べて面白い配属をしたものである。病床中の父に「妙高乗組」になりましたと報告に行った所、大変喜んで自分の分まで奉公して来いと云われた。これが私の父に会った最後となった。

 扨て早速我々三名は中少尉の集まり「ガンルーム」の一員となり、兵学校出身のはち切れる様な青年士官、機4・関科士官、又は軍医中尉達と起居を共にすることとなった。乗艦後旬日を経ずして出撃準備命令が出て呉軍需部に糧食、衣服、酒保物品等の塔載作業に初めて指揮官として経理学校で習ったことを実地にやらされた。やがて出撃の準備が済むと、呉沖の桂島泊地に連合艦隊が集合した。初めて見る艦隊は開戦以来赫々たる戦果を挙げて、しかも殆んど無疵の連合艦隊で、我々新任の三名は艦橋に上り、備え付けの大きな望遠鏡でその堂々たる偉容を見て感激すると共に、これからの戦に身の引きしまる思いがしたものである。

 かくして出動したのが所謂「ミッドウエー」作戦であり、その結果はよく知られている通り赤城、加賀、蒼竜、飛竜という虎の子の新鋭空母とその百戦練磨の塔乗員を失うという緒戦以来初めての大打撃を蒙った作戦であった。

 その後八月には敵が「ガダルカナル」から反撃を開始、我々はトラック島を基地として「ガ島」の援護に出撃した。十月初めに私に最初の異動辞令が出て、「第九駆逐隊付」となった。調べて見るとこれはラバウルの南ショートランドを基地として「ガ島」への輸送作戦に従事している駆逐隊であった。ガンルーム全員の熱烈な送別宴をやって貰いトラックより軍用機でラバウルヘ、ラバウルからは駆逐艦に便乗して、ショートランドで駆逐艦朝雲に着任した。それからは隔日に「ガ島」へ夜陰を利用しての人員物資の輸送作戦に出動した。十一月には陸軍と共同して「ガ島」大反撃作戦に参加、ソロモン海で敵艦隊と遭遇、舷々相摩す海戦を経験した。所謂「第三次ソロモソ海戦」である。その後ニューギニァ作戦に参加したり、翌十八年二月には「ガ島」撤退作戦に参加四月に横須賀に戻るまで、駆逐艦は全く休む暇なく動き廻った。

 横須賀では今度は北方作戦準備のためドックに入り長い航海で傷んだ船体の修理や暖房設備等をして五月末に愈々横須賀を出港、千島列島の最北端占守島の幌莚湾に入港した。これはアリューシャン列島のアッツ島が玉砕し、その一つ東側にある「キスカ島」の守備隊が孤立したのでこれを救出に行く作戦に従事するためである。軽巡洋艦と駆逐艦という行動に自由な艦十数隻で行くのである。アリューシャン列島のはるか南を東進したが、視界が数十米という濃霧と低気圧による風波の中を十数隻が行動することは全く大変なことであった。無線は一切使えず、前の艦の引く霧中標識という筏のしぶきを見乍らの航海である。一時はキスカの南方にたどりつき突入を図ったが、キスカ方面の霧が晴れたので突入を断念し、又幌莚湾に戻った。やがて数日が過ぎキスカ附近に霧が発生したという報に再び出動した。駆逐艦では私物は全部陸揚げし、後甲板には「大発」と称する人員輸送用の鉄舟を積んでの出動である。又々濃霧の中を東進、途中で油送艦よりの洋上補給を受け愈々突入前夜には士官室のテーブルも天井に釣り上げ出来る丈収容面積を広くした。又駆逐艦司令から、明日は我々は靖国神社入りだが、「靖国神社ではちょっと君達より奥に入るからな」と云われた。司令は大佐で戦死すれば少将になり、奥に祀られるとのことである。突入の朝は主計科は出来る丈の飯を炊き、にぎり飯を準備し、私は艦橋に上って突入の状況を具さに記録した。艦橋に上って見ると霧が嘘の様に晴れ付近の島々が視界に入って来た。これで我々の現在地がはっきりつかめた訳であるが、図上で予想していた位置と僅か一浬の誤差しかなかった。これは航海技術上大変なことで、幌莚出港後一週間近く濃霧の中を航海し、天測など一切出来ず、行きつ戻りつ風や潮流に流されたことを思えば艦の位置を正確に予測することは至難の技であり、帝国海軍の航海術が如何に優れていたかを物語るものである。

 キスカに侵入するには同島の南側には小さな島が多く、乗上げる危険があるので、同島の北側を廻り同島東側からキスカ湾に入る作戦がとられた。これはキスカ島の東側にアムチトカという敵の基地があり、その面前を十数隻が通過して入ることとなり、敵の電探や艦艇に発見される危険が極めて大きい。しづしづとその危険海域を通り抜けた時は全く呼吸をのむ気持であった。キスカ湾内は幸にして霧はなく予て打合せた個所に淀泊、「大発」を下して救助に向うこと十数回駆逐艦でも一隻で三百名以上の将兵を収容、通路も士官室もギッシリつめ込んだ。これ丈を収容するのに三十分位で済ませ直ちにもと来た航路を通って帰路についた。再び先程の危険海域を通ったが、全く敵艦に遭遇することなく三十数ノットの全速をあげて、幌莚に引揚げた。後で分ったことだが、敵はこの濃霧の季節に十数隻で救出にやって来るとは夢思わず、又幸なことにこの数日前に敵艦同志で、濃霧中に衝突事故を起し、後方に修理に帰ったあとであったとのこと。この時ばかりは「天佑神助」は未だ我にありと思ったのであった。キスカ島の撤収作戦は後に「キスカ」と云う映画にもなり、早速日比谷劇場に見に行った時光永君に会ったことを思い出す。この作戦は撤収というマイナスの作戦にも拘らず艦隊司令部より「殊勲甲」が与えられた。敵は数千人もいた守備隊が一日で全員引揚げたとはつゆ知らず、無人島に対し艦砲射撃を加えた後上陸作戦を展開、恐る恐る上陸して見たら裳脱の空だったのである。

 十二月クラブの会員の中一緒に海軍に入ったのは三十三名で、その中「水漬く屍」と散ったのは次の方々であった。茂木利孝君(二組)、湯原三郎君(O組)、上野富造君(二組)、天谷幸和君(五組)、梶尾映一君(一組)等いづれも前途有為の方々であり、返す返すも残念なことである。心から御冥福を祈るものである。

 特に梶尾君は小生が門司海軍武官府勤務の時門司-台湾ーフィリピンの輸送護衛に従事していたのでよく会った。一度は頭に包帯を巻いて上って来た。敵潜の襲撃のショックで頭をぶっけたとのことであった。丁度結婚間もなく門司に新居を構えていたので、小生の家に案内し、家内の手料理で夕食を共にしたが、それから間もなく南方に出撃し戦死されたのであった。二〇年一月十二日が戦死の日で、全く純情な又家内の言をかりれば「一ッ橋」らしい人であった。

 我々海軍同期生で「破竹会」(海軍短期現役主計科士官第八期)と称し、現在でも毎年名簿を作り、会合をもっている。各々現在の立場は違っても会うと四十年前の「俺、貴様」の気持に返り、大変心の通い会う会である。三百二十名の同期中、現存者は二百二十五名である。約五十数名が戦死、約四十数名が戦後病死したものである。現存者中には衆議院議員中西一郎君、藤井勝志君、永末英一君、参議院議員永野厳雄君、檜垣徳太郎君等がいる。又大使数名、公団、銀行、会社に多士済々がおり、我が十二月クラブでも、柿沼幸一郎君、武川祥作君、河合斌人君、佐藤丈夫君等二〇数名が健在である。皆海軍時代夫々の配置で危険に遭遇し乍らよく今日まで生き延びたものである。生死の境を越えてきた我々は現在第二の人生を生きている気持である。これからの余生も大事にしたいものである。

 



卒業25周年記念アルバムより